大航海時代という欺瞞
コラム「架橋」
大航海時代という言葉を見たり、聞いたりすると、私は「侵略と略奪と奴隷船の時代と言え」と心の中で毒づいている。大航海時代という言葉には、おそらく「男の冒険心」「男の夢」「男のロマン」が、従って「希望と明るい未来」が内包されているのだろう。この少々時代遅れのマチスモ的な感情が込められた言葉を使うことで、この時代が本当は侵略と略奪の時代だったという事実を覆い隠そうとしているのに違いない。
15世紀から17世紀にかけての時代を「大航海時代」と表現するのは常識化しているようで、寺島実郎氏も「世界」2024年6月号の「能力のレッスン」No.264で、この言葉を使用している。また、高校生の世界史の副読本、東京法令出版社の「世界史総覧」の平成7年度(ママ)御審査用見本でも、「ポルトガル、スペインの海外進出を契機として、大航海時代が始まる」と、この時代を肯定的に説明している。
私はこの時代を大航海時代と表現するのは、経済史的観点から、従って、社会科学的観点からも、生産関係を無視した誤った時代区分だと思う。大航海時代という言葉から人々が理解するのは、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに、コロンブスがアメリカ大陸に向けて航海し、到達したということだけである。
この時代の航海者とは、基督教の伝道者を含めて、そのほとんどは一攫千金を夢見て船に乗った侵略者であり、略奪者であり、奴隷船の乗組員であり、海賊だった。彼らは到着したアフリカとラテンアメリカで、金儲けのために手段を択ばず人的資源も、鉱物資源も、生物資源も略奪しつくした。
その略奪した資源を本源的蓄積として、ヨーロッパは重商主義の時代から資本主義と帝国主義の時代へと入っていく。一方、略奪された側のラテンアメリカとアフリカは、今日に続く長い貧困に沈んでいく。従って、私はこの時代を「略奪と侵略と奴隷船の時代」と表記するのが学問的に正しいと思う。
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