過去の反省を欠いた「原発からの撤退」論の問題点
寄稿 日本共産党は原発政策をどのように「転換」したのか
樋口芳広(日本共産党員)
日本共産党は福島原発事故から二カ月近くたった五月になって旧来の「安全を重視した原子力の平和利用」=原発肯定の立場からの転換を進め、「原発ゼロ」の一点での広範な共同を呼びかけている。日本共産党員の樋口芳広さんにこの転換の意義と問題点について論じていただいた。核兵器と原発をどう捉えてきたかについてわれわれ自身も同時に問われている。活発な討論を訴える。(編集部)
はじめに
日本共産党の志位和夫委員長は、二〇一一年六月一三日の記者会見で、「原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入を――国民的討論と合意をよびかけます」と題した提言を発表し、「五~一〇年以内を目標に原発から撤退するプログラムを政府が策定することを提案」した。「原発ゼロ」を明確に打ち出したこの提言は、日本共産党の従来の原発政策を大きく転換させるものとして注目を集めた。これまで日本共産党は、確かに政府の原発「安全神話」への固執を批判し、徹底した安全確保策をとることを主張してきてはいたものの、必ずしも日本における原発の存在そのものを否定する態度をとってきたわけではないと受け止められていたからである。
今回の提言は、日本共産党の従来の原発政策を具体的にどのように転換させたものなのだろうか。いいかえれば、従来の原発政策とどこが同じでどこが異なるのだろうか。そこには如何なる問題が含まれているのだろうか。本稿ではこのような問題について考えてみることにしたい。
1 日本共産党の従来の原発政策とは
まず、日本共産党の従来の原発政策がどのようなものであったのか、少し突っ込んで確認しておくことにしよう。
二〇〇四年の第二三回党大会で改定された現行の日本共産党綱領では、「国民生活の安全の確保および国内資源の有効な活用の見地から、食料自給率の向上、安全優先のエネルギー体制と自給率の引き上げを重視し、農林水産政策、エネルギー政策の根本的な転換をはかる」と規定されている。この綱領改定が提案された際の第二二回大会第七回中央委員会総会(二〇〇三年六月)において、不破哲三議長(当時)は以下のように発言している。党の最も基本的な文書である綱領の改定において、その作業を主導した“理論的指導者”によってなされたこの発言は、日本共産党の原発への基本的な姿勢を集約的に示したものとみてよいであろう。
「現在、私たちは、原発の段階的撤退などの政策を提起していますが、それは、核エネルギーの平和利用の技術が、現在たいへん不完全な段階にあることを前提としての、問題点の指摘であり、政策提起であります。
しかし、綱領で、エネルギー問題をとりあげる場合には、将来、核エネルギーの平和利用の問題で、いろいろな新しい可能性や発展がありうることも考えに入れて、問題を見る必要があります。ですから、私たちは、党として、現在の原発の危険性については、もっともきびしく追及し、必要な告発をおこなってきましたが、将来展望にかんしては、核エネルギーの平和利用をいっさい拒否するという立場をとったことは、一度もないのです。現在の原子力開発は、軍事利用優先で、その副産物を平和的に利用するというやり方ですすんできた、きわめて狭い枠組みのもので、現在までに踏み出されたのは、きわめて不完全な第一歩にすぎません。人類が平和利用に徹し、その立場から英知を結集すれば、どんなに新しい展開が起こりうるか、これは、いまから予想するわけにはゆかないことです」。
このように、もともと日本共産党は、現実に存在する原発に関しては、その技術が核エネルギーの軍事利用の副産物として生まれたものにほかならないことを強調し、そうした制約からくる危険性を追及するという姿勢をとっていたものの、核エネルギーそのものについては、その平和利用の可能性を積極的に肯定するという姿勢をとってきたのである。端的には、日本共産党の原発政策は、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定する側面と、現実に存在している原発の危険性を厳しく追及・告発する側面という二面性を持っていたということができるであろう。
日本共産党の原発政策について検討する上では、この両側面をきちんと押さえておくことが重要であると考えられる。日本共産党の原発政策の変遷を長い目で見てみるならば、その強調の力点が前者から後者へ次第に移動してきたという流れを確認することができるからである。たとえば、一九七三年の第一二回党大会で採択された「民主連合政府綱領草案」においては次のように述べられていた。
「安全と放射能汚染防止の保障が充分でない現行の原子力発電計画を全面的に再検討し、自主・民主・公開の原子力三原則をまもり、安全で放射能汚染や環境の悪化をもたらさぬ原子力発電計画をつくり、新エネルギーの一環として原子力の研究、開発をすすめる」。
「安全で放射能汚染や環境の悪化をもたらさぬ原子力発電」とは、現時点から見ればあまりに楽観的にすぎるものであり幻想というほかないものであるが、スリーマイル島やチェルノブイリでの原発事故およびそれらを受けての反原発運動の高まりに押される形で、このような核エネルギーの平和利用の可能性についての楽観的な展望は次第に後景に退いていくことになる。かわって、現実に存在している原発の危険性への厳しい追究・告発が前面に出てくるようになっていき、ついに二〇〇〇年の第二二回党大会決議において、「原発大増設とプルトニウム循環方式という危険きわまりない政策を中止し、低エネルギー社会の実現、再生可能エネルギーの開発をすすめながら、原発からの段階的撤退をめざすべきである」という方針を掲げるにいたった。今年六月に発表された提言もまた、このような流れの延長線上における一つの到達点として位置づけられるべきものにほかならないのである。
2 日本共産党は原発政策をどのように「転換」したのか
それでは、以上で見てきたような日本共産党の原発政策の歴史的な変遷において、今回の提言が従来の原発政策を大きく転換するものと受け止められることになったのは一体なぜなのだろうか。今回の提言の画期性はどこにあるといえるのであろうか。
提言は、「1、福島原発事故が明らかにしたものは何か」「2、原発からの撤退の決断、五~一〇年以内に原発ゼロのプログラムを」「3、自然エネルギーの本格的導入と、低エネルギー社会に、国をあげたとりくみを」「“原発からの撤退”の一点での共同をひろげよう」という四つの部分から構成されている。日本共産党の原発政策の変遷の構造を問う視点からは、このうち最初の二つの部分が重要であるので、その部分に絞って論理の展開をおさえておくことにしよう。
「1、福島原発事故が明らかにしたもの」では、まず、原発事故には「ひとたび重大事故が発生し、放射性物質が外部に放出されると、もはやそれを抑える手段は存在せず、被害は、空間的にどこまでも広がる危険があり、時間的にも将来にわたって危害をおよぼす可能性があり、地域社会の存続さえも危うく」するという他の事故に見られない「異質の危険」があること、いまの原発技術は本質的に未完成で危険なものであること、より具体的には「莫大な放射能を閉じ込めておく保証がないどころか、その構造において本質的な不安定性をかかえ、放射性廃棄物の処理方法にいたってはまったく見通しがない」ことを指摘する。
そのうえで、こうした未完成な原発を世界有数の地震国・津波国に集中立地するのはとりわけ危険であること、福島原発事故によって電力業界や政府が「安全神話」へ固執しつづけたことの深刻な結果が明瞭になったことをあきらかにし、そもそも安全な原発などありえず、これを許容することはできない、と結論付けるのである。この結論をふまえ、「2、原発からの撤退の決断、五~一〇年以内に原発ゼロのプログラムを」において、原発からの撤退の政治的決断をおこなうこと、そのうえで、五~一〇年以内を目標に原発から撤退する計画を策定すること、「原発ゼロ」にむけ原発縮小にただちに踏み出すこと(具体的には、福島原発・浜岡原発の廃炉やプルトニウム循環方式からの撤退など)、「原発ゼロ」への過渡期の対策として危険を最小限にする原子力の規制機関をつくることを提起するのである。
以上をふまえるなら、今回の提言の特徴は、以下の二点に集約することができるであろう。
第一に、原発の危険性を従来以上に踏み込んで追究・告発したことである。この点については、提言が「『安全神話』を一掃し、原発事故の危険を最小限のものとする最大限の措置をとったとしても、安全な原発などありえず、重大事故の起こる可能性を排除することはできない」と述べている点が特筆されるべきであろう。これは、一九七三年の「民主連合政府綱領草案」に登場していたような原発にたいする楽観的な幻想――「安全で放射能汚染や環境の悪化をもたらさぬ原子力発電」――を、党自身が明確に否定したことを意味する。これは確かに決定的な原発観(具体的な原発政策を土台で支える原発というものへの基本的な見方)の転換といってよいであろう。
第二に、このような原発観の転換からの必然的な帰結として、「原発からの段階的撤退」(二〇〇〇年の第二二回大会決議)という従来の方針を、「すみやかな撤退」へと転換させたことである。これは、原発からの撤退という大きな課題を、従来のように単なる抽象的なスローガンにとどめず、具体的に達成すべき目標として明確に掲げたものとして評価することができよう。
以上を要約すると、今回の提言は、日本共産党の原発政策に内在していた二つの側面、すなわち、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定する側面と、現実に存在している原発の危険性を厳しく追及・告発する側面のうち、後者の側面が飛躍的に力を強めることによって、前者の側面を押さえ込んでしまったものともいえるであろう。いうまでもなく、これは、福島原発事故およびこれを受けての脱原発世論の高揚という状況を反映しての変化にほかならない。
3 今回の「転換」には如何なる問題が含まれているか
それでは、日本共産党の原発政策に含まれていた、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定するという側面は、完全に息の根を止められてしまったのだろうか。
結論からいえばそうではない。「原発からのすみやかな撤退」を主張した今回の提言においてさえ、「原発からの撤退後も、人類の未来を長い視野で展望し、原子力の平和的利用にむけた基礎的な研究は、継続、発展させるべき」と明記されているからである。つまり、「原発からのすみやかな撤退」という提言は、あくまでも“現在の”原発技術は未完成で危険であるとの認識にもとづいてのものにすぎないといえるのである。裏を返せば、ここでは、人類の未来を長い視野で展望すれば安全な原発技術が完成する可能性がある(その可能性を排除してはならない)という認識が表明されているといってよい。
しかし、この提言には、同時に「どんな技術も、歴史的・社会的制約のもとにあり、『絶対安全』ということはありえません」との認識も明記されていることが注目に値する。これはきわめてまっとうな認識であるといえよう。そもそも人間の頭脳は、無限の多様性を持った世界をつねに限られた範囲内でしか反映することができない。人間の認識はどこまでいっても不完全であり、どんな理想社会が来ても人間は誤謬から逃れられないのである。
だとすれば、「ひとたび重大事故が起こった場合には、他に類をみない『異質の危険』が生じる」というのは、ただ「現在の原発」だけに限定して考えられるべき問題ではないのではないだろうか。この「異質な危険」は、制御困難な巨大なエネルギーと強烈な放射能をともなう原子力そのものに不可避的に付きまとうものなのではないだろうか。
また、仮に「原子力の平和的利用」の可能性が遠い遠い未来を展望すれば全くのゼロではないにしたところで、自然エネルギーの本格的導入と低エネルギー社会への転換という大きな展望のなかに、原子力の平和的利用にむけた基礎的な研究が入り込む余地などあるのだろうか。原子力の研究に巨額な資金を投入するくらいなら、それを自然エネルギーについての研究・開発の方へまわした方がよいのではないだろうか。「どんな技術も、歴史的・社会的制約のもとにあり、『絶対安全』ということはありません」というきわめてまっとうな認識からは、以上のような疑問が必然的に生じてくることにならざるをえない。
日本共産党が従来の原発政策を転換しようとするならば、本来、これらの問題についての真剣な討論を避けてとおるわけにはいかなかったはずである。ところが、今回の「提言」を読む限りでは、そのような議論がまともになされたとはとても考えられない。その意味で、今回の「転換」は、きわめて不徹底なものといわざるをえないのである。
それでは、党指導部は、なぜこのような真剣な検討を避けてしまったのであろうか。それは、この提言の冒頭部分における以下のような文章から推測することができる。
「日本で、原子力発電が問題になってきたのは、一九五〇年代の中ごろからで、一九六〇年代に商業用の原発の稼動が開始されますが、日本共産党は、現在の原発技術は未完成で危険なものだとして、その建設には当初からきっぱりと反対してきました。その後も、わが党は、大事な局面ごとに、政府や電力業界のふりまく『安全神話』のウソを追及し、原発のもつ重大な危険性と、それを管理・監督する政府の無責任さを具体的にただしてきました。」
これは、提言の具体的な内容に入る前に、これまでの党の原発に対する姿勢を端的に示しておく必要があるという文脈で書かれたものであろう。しかし、ここでは、日本共産党の原発政策に内在していた二つの側面――核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定する側面と、現実に存在している原発の危険性を厳しく追及・告発する側面――のうち、もっぱら後者の側面のみしか描かれていないのである。たとえば、一九七三年の「民主連合政府綱領草案」に「安全で放射能汚染や環境の悪化をもたらさぬ原子力発電」などという文言があったことなどは、完全に隠蔽されてしまっている。党指導部としては、日本共産党が一貫して現実の原発に対して厳しい批判の姿勢をとってきたのだということを強調したいのであろう。しかし、それは、歴史の偽造とはいわないまでも、きわめて恣意的・一面的な描き方というほかない。
このような恣意的・一面的な歴史の描き方の背後には、日本共産党はつねに正しい方針を掲げていたという「無謬神話」とでもいうべきものが存在することを指摘しなければならない。この「無謬神話」の存在が、党の原発政策に含まれている、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定するという姿勢について、鋭い自己分析・自己批判のメスを入れることを妨げたと考えられるのである。いささかの皮肉を込めていえば、党指導部の「無謬神話」への固執が不徹底な「転換」という結果をもたらしたということができるだろう。
まとめ
以上、本稿では、日本共産党が今年の六月に発表した「原発からのすみやかな撤退」を主張する提言について、これが日本共産党の従来の原発政策をどのように「転換」させたものなのか、そこには如何なる問題が含まれているのか、考えてきた。ここで、これまでの論の流れを簡単にふり返っておくことにしよう。
まず、日本共産党の従来の原発政策には、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定する側面と、現実に存在している原発の危険性を厳しく追及・告発する側面とが並存していたこと、これを歴史的に見るならば、相次ぐ原発事故や反原発運動の高まりなどに押される形で後者の側面が次第に力を強めていく過程があったことを確認した。そのうえで、今回の提言は、福島原発事故およびこれを受けての脱原発世論の高揚という状況を反映して、この後者の側面が飛躍的に力を強めることによって、前者の側面を押さえ込んでしまったものにほかならない、と位置づけた。同時に、前者の側面、すなわち、核エネルギーの平和利用の可能性そのものを積極的に肯定するという側面が完全に息の根を止められてしまったわけではないこと、これは、日本共産党の原発との関わりの歴史を原発の危険性への一貫した対決の歴史として描き出したいという指導部の思惑が、鋭い自己分析・自己批判の契機を奪ってしまった結果にほかならないことをあきらかにした。
日本共産党が、今回の提言によって、原発からの撤退という大きな課題を従来のように単なる抽象的なスローガンにとどめず、具体的に達成すべき目標として明確に掲げたことは、現実政治の動きのなかで非常に大きな意味を持つものであるといわなければならない。現実の運動課題としていま最も重要なのは、この提言が結びの部分で述べているように、“原発からの撤退”の一点での共同をひろげていくことであるといってよいだろう。
とはいえ、日本共産党指導部が、核エネルギーの平和利用の可能性について積極的に肯定する姿勢を取り続けてきたことへの反省を欠いていることは、やはり厳しく批判されなければならないであろう。原発に固執する勢力を包囲するために脱原発の一致点での共同をひろげていくことと同時に、「原子力の平和的利用」なるものがそもそも可能でありうるのかという根本的な問題について、真剣な討論をすすめていくことがもとめられているのである。
The KAKEHASHI
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