書 評『汚名』

書 評『汚名』(油井喜夫著、毎日新聞社、1600円+税)

歴史の真実を直視し誤りを認める勇気を

「さざなみ通信」から

 1972年に発生した「新日和見主義事件」は、日本共産党のスターリン主義的組織体質を象徴する粛清事件であった。青年運動にかかわっていた活発な党員が大量に「反党分子」の汚名を着せられ、指導部から不当に排除されたのである。筆者の油井喜夫は当時、民青同盟静岡県委員長であった。川上徹著『査問』に続く当事者の手記である。以下は批判的共産党員のホームページ「さざなみ通信」から。


はじめに

 日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である。
 今回出版された『汚名』は、その新日和見主義で査問され処分された当事者の手記としては、1997年12月に出版された川上徹氏の『査問』に続いて2冊目である。それゆえ、その直接的なインパクトは、『査問』の時よりも小さい。また、川上徹氏の手記が民青中央本部にいた立場からの回顧であったのに対し、今回の油井氏の手記は、民青地方幹部による回顧であり、その意味で内部事情に通じている度合いはより弱いと言える。しかしながら、それでもそれは、歴史の真実を明らかにするきわめて貴重な証言である。
 手記の筆者である油井喜夫氏は、当時、民青同盟の静岡県委員長で、この事件で罷免になった。他の多くの被処分者と同じく、彼はその後も忠実な党員として身を持し、事件のことを黙して語らなかった。しかし、昨年ついに離党し、27年間の沈黙を破って、今回の手記を発表したのである。

「伏線」から新日和見主義事件へ

 事件そのものの基本的な流れはすでに『査問』で明らかになっており、この『汚名』においても、その点は変わらない。
 最初の伏線になったのは、1972年5月7日に行なわれた、民青幹部の党員会議である。議題は、民青同盟の年齢制限を28歳から25歳に引き下げること、必要とする幹部も30歳までにすることであり、1ヵ月後に予定されていた民青同盟第12回党大会に向けてこの方針の確認をとることであった。
 この年齢問題自体の是非は、当時の状況の具体性に即して考察すべき問題であって、何らかの政治的原則にかかわるものではない。そして実際、この問題をめぐる議論も、その具体的な状況に即して行なわれた。のちに新日和見主義事件に巻き込まれる民青幹部たちは、この年齢引き下げに原則的には同意しながらも、その実施にあたっては慎重を期すこと、機械的・拙速的に実施しないことを求めるという態度をとった。
 これだけを取り出せば、問題はとくにないように思える。上から提案された方針は、いつでも常に、実質的な議論なしに無条件に採択されるべきであるという信念を持っているのでもないかぎり、このような異論が出されること自体に問題があるはずがない。むしろそのような自主的な態度は歓迎されるべきもののはずである。しかしながら、党の幹部はそのようには受け取らなかった。彼らは、党指導部の提案が無条件に通らなかったことに衝撃を受け、その背後に陰謀を感じとりはじめた。
 会議を主宰した茨木良和は、次々と出る慎重論にいらだちを隠さなかった。『査問』では、「これでは労働組合の会議だ」という茨木の発言が紹介されている。今回の手記の筆者である油井氏も、茨木良和の発言に怒気が含まれていたことを証言している。
 この党員会議以降、事態は急速に新日和見主義事件へと発展していく。おそらく、この党員会議の以前から、党幹部は、民青幹部や全学連幹部の中に、自立的な志向、時には上級批判につながるような不満の雰囲気が広がりつつあることを察知していたのだろう。しかし、党幹部は、この党員会議までは、この志向や雰囲気がどこまで組織的なものなのか確信を持てなかった。しかし、この党員会議において、あいついで異論や慎重意見が出され、党指導部の提案した方針が通らずに、結局保留になるという「異常事態」(党内民主主義が実際に機能している政党においては、ごく普通の現象なのだが)に直面して、党幹部は、民青幹部の中に分派的な潮流が存在しているという確信を抱くようになったにちがいない。
 事態は急速に動いた。会議から2日後に出された5月9日の常任幹部会声明にはすでに、「干渉者」の存在を云々するとともに、これらの分子による「きわめて陰険で狡猾な暗躍」と闘うよう訴える一文が含まれていた。さらに、5月11日の『赤旗』は大きなスペースを割いて、「トロツキストとの無原則的な野合」をし、「党の内部を撹乱するために労働運動、青年・学生運動などのなかで党への中傷と不信をもちこみつつある」対外盲従分子や反党分子に対する厳しい警告を発していた。
 その頃、油井氏は肝臓病で入院中であった。これらの声明や記事に驚きながらも、それが具体的に何を指すのかわからないまま、不安の日々を送っていた。そして、5月15日、ついに代々木の党本部へ出頭するよう呼び出しがきた。

病室から党本部の査問室への連行

 1972年5月16日、油井氏は、病院から一泊の外泊許可を受けて、査問が待っている党本部に向かった。いっしょに同行したのは、党の静岡県委員長だった。
 党本部の一室に通された油井氏に党員権停止と査問の開始を告げたのは、宮本忠人と雪野勉であった。どちらも著名な党幹部である。
 しかし、直接査問を担当したのは、中央幹部の諏訪茂だった。肝臓病ですでに十分ダメージを受けていた油井氏の身体は、まったく初体験の査問のせいで、いっそう大きなダメージを受けていた。諏訪の査問は苛酷だった。だが、『査問』を読んですでに査問の実態を知っているわれわれは、それはあたかも既知のことの繰り返しのように見える。しかし、当時日和見主義分派と目された人々に対して同じ調子で繰り広げられたであろう査問は、いずれの被査問者にとっても、生涯で最もつらく衝撃的な体験であったろう。
 多くの党員にとって、党は、自分たちの実存そのものにかかわる存在である。党なしに自分たちの生活、自分たちの人生はありえない。喜びも悲しみも、党あってこそである。このような、党員たちのある意味で宗教的な帰依が、共産党の力の源泉であり、最も困難な時期においても党を支えてきた力である。それだけに、その党が、自分を反党分子とみなし、憎々しげな目を向け、怒号を浴びせ、あたかも特高警察が思想犯を取り調べるかのごとく取り調べるとき、それは、とても言葉では表現できないような精神的危機をもたらす。大地が崩れ落ちるような感覚とでも言うべき感覚が、すべての被査問者を襲ったにちがいない。
 「こんなことをいっているうちはダメだ!」
 「君はもっと重大なことを知っているんではないか!」
 「喋らなければ査問は打ち切ってもいいんだ!」
 「そうなれば、どうなるかわかってんだろう!」
 これは、諏訪が油井氏に対して浴びせかけた言葉のごく一部である。「白眼を剥いた諏訪が、ものすごい形相で私をにらみつけた」と油井氏は回想している(75頁)。でっちあげられた反党分派への「階級的」怒りが、査問者を突き動かしていた。

モスクワ裁判と同様の「自白」

 査問は4日続いた。点滴生活を送っていた油井氏の体は急速に消耗していった。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。油井氏は次のように回想している。
 「彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは「容疑者」]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(142頁)。
 同じような叙述は、『査問』にも見られる。おそらくすべての被査問者が同じような心理をたどって自白したものと思われる。これらの被査問者たちも、相手が警察や資本家や反動勢力なら、黙秘を貫くだけの勇気と決意を有していただろう。だが、相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。
 「私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(43頁)。
 スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、より平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。
 油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。その詳しい模様は、査問の場面と並んで、この著作のもう一つの圧巻を構成している。
 「私は議長団席と一般中央委員席との間を、『刑場』にひかれるような気分でゆっくりと歩き、演台の前に立った。いままで何度も発言に立った同じ演台である。しかし、今回はちがう。それはまるで獄門台だった。数十人の眼がいっせいに私に注がれた。一瞬、カーッと頭に血がのぼった。心臓が鳴り猛っていた。顔が一気に紅潮してくるのがわかった。
 私は人前で喋るとき、ほとんどあがることはない。聴衆が大勢いるほど闘志が湧いてくる。
 だが、今回ばかりはちがっていた。しかし、この場合、いわゆるあがるということとはまったくちがった、はじめて知る内奥からの高ぶりだった。処分場に時間が止まったような空白が流れた。動くものはなかった。同時に激しい屈辱感が襲った。これが人民裁判か」(186頁)。
 こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。

党の無謬性神話と自白の政治学

 油井氏は、あの時の自分の屈服が何によってもたらされたのかを次のように分析している。
 「私が朝鮮人参、『分派』資金づくり、北朝鮮『分派』、反党旗あげ計画という、ありもしない話をなぜ信じたのかということである。情けないことだが、当時の私は諏訪のいうことをそのまま信じこんでしまった。なぜか。私が党の体質にどっぷり浸かっていたからである。それは、共産党がまちがいを犯すはずはないという無謬性の神話にもとづく、ほとんど信仰に近いものからきていた。マインド・コントロールといってもいいかもしれない。
 共産党には党中央委員会に従わなければならないという原則がある。忠実な党員ほどこの原則は絶対的なものであり、こうした党員が党を支えている。諏訪のデマを疑わなかったのは、私にこの原則から派生しやすい特有な体質があったからだと思う。その一つに幹部(とくに中央幹部)にたいする絶対的信頼性の問題がある。
 自分の所属する党の中央幹部=党中央委員会に信頼をよせることは、一般論としてはいい。
 ところが、それが体質化してしまうと、中央委員会=中央幹部は『ウソをいわない』→『絶対まちがわない』→『何があっても従う』というように深化していく。幹部の肩書きが立派であるほど、その思いこみは強くなる。そして、次には疑うこと自体が問題だという思考方法に発展する。こうなると、中央幹部のいうこと以外目に入らなくなる」(162~一63頁)。
 こうした思考方法はなお、多くの党員を支配している。
 そして、この新日和見主義事件は、この思考方法が全面的に党と民青に貫徹される最大の契機となった。処分された青年党員たちは、基本的に中央に忠実であったとはいえ、多少なりとも自主的に物事を考え、自らの創意と工夫で大衆運動を積極的に切り開く志向が強かった。それゆえ、彼らは、党幹部たちから不信の目で見られたのである。
 彼らが一掃されたことによって、もはや民青の上級幹部に、自主的に物事を考えることのできる活動家はほとんどいなくなった。民青は、二度と回復しえない大打撃を受けた。そして、これらの血気盛んな青年党員たちによって支えられていた共産党自身も深刻な打撃を受けた。宮本顕治を筆頭とする当時の党幹部たちは、運動の利益よりも、そして党自身の利益よりも、幹部としての自らの個人的利害を優先させたのである。

糾弾する側にいた公安のスパイ

 この『汚名』で興味深かったのは、新日和見主義者を糾弾する側に積極的に回った幹部たちの中に、のちに権力のスパイとして摘発された人物が複数いたことである。
 1974年、前民青中央常任委員で大阪府委員長であったKが公安警察のスパイとして摘発され、翌1975年、現職の民青愛知県委員長もスパイであることが発覚した。
 そして、この愛知県委員長の親玉は前愛知県委員長のNであった。油井氏は次のように述べている。
 「私は、KとNの摘発記事が『赤旗』に写真つきで載ったとき、強い衝撃をうけた。私たちを処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾で大いに活躍した。KやNは、陰に陽に教育・学習と闘争、拡大と闘争の関係など、民青中央委員会の議論を巧妙にあおってきた人物だった」(247頁)。
 スパイはしっかりと目的を果たした。党幹部の不信感を利用して、民青幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することができたからである。彼らはおそらく、公安内部で表彰されたことだろう。
 もちろん、新日和見主義事件そのものがスパイによって挑発されたものとみなすのはナンセンスである。この事件そのものは、最高指導者の宮本顕治を筆頭とする党幹部が、民青・全学連幹部の急進主義と自主性に危険な兆候を見出したことがきっかけである。しかしながら、それがあのような激しさをともなって一大処分劇となったことの一端に、スパイによる煽動があった可能性は否定できないだろう。
 党中央は、しかしながら、これらのスパイが摘発された後も、新日和見主義事件においてスパイが一定の役割を果たした可能性を検討することはなかったし、事件そのものを見直すこともなかった。党の無謬性神話はその後も続いた。処分された者たちは、沈黙の牢獄につながれたままだった。党員としての義務感がそうさせたのである。

新日和見主義事件の見直しを

 沈黙が破られるのに、20数年もの歳月が必要とされた。その間に、民青同盟は衰退の坂をころげ落ちていった。20万の隊列は今では10分の1に縮小している。共産党内部の20代党員の割合も、70年代初頭の50%から、現在の2~3%に激減した。
 他の国の共産党ないし後継政党と比べても、日本の党はとりわけ青年党員の比率が低いのではないだろうか。これは単に青年の保守化というだけでは説明できないだろう。
 新日和見主義事件が残した深刻な爪痕をそこに見出すことは十分可能である。
 『査問』が出版されたとき、『赤旗』は党活動欄という目立たないところで、その著作に対する批判を試みた。しかし、その批判は、彼らが実際に分派であったことを力説するのみで、査問の実態についていかなる反論も試みていない。苛酷で非人間的な査問の実態については、反論のしようもなかったのである。
 たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、10数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼び出して四日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躙する蛮行以外の何ものでもない。党中央が錦の御旗とする「結社の自由」論によっては、けっしてこれらの行為が正当化されないことは、今さら言うまでもない(この問題については、いずれ詳しく論じるつもりである)。
 今回の『汚名』について、党中央は何か反応を見せるだろうか? おそらく完全に無視するだろう。宮本時代が、批判者に対する徹底した反論と糾弾を基調としていたとすれば、不破時代は、都合の悪い問題に対する沈黙と無視を基調としている。われわれの『さざ波通信』と同様、『汚名』もまた無視されるだろう。不破委員長は、このような問題があたかも存在していないかのごとく、ふるまい続けるだろう。
 だが、事実は事実であり、歴史をなきものにすることはできない。新日和見主義事件を見直す特別の調査委員会を中央委員会に設置し、改めて関係者から事情を聞き、事実関係を調査するべきである。そして、事件当時には知られていなかったスパイの役割についても改めて検討の対象に加えるべきである。そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行なうべきである。
 そのような真摯で誠実な対応をするならば、それは共産党に対する信頼を強め、その権威(架空ではない真の道徳的権威)を著しく高めるだろう。
 それこそが、日本共産党を強化し発展させる真の道である。
 1999年7月6日 (S・T)

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