川上徹箸『査問』を読んで

何とも歯切れの悪い読後感

滝山五郎

「6・15」のない60年安保

 私は『査問』を読みながら、「何ともはぎれの悪い気分」を味わった。まえがきで著者は「糾弾ならもっと早い時期にやった。だが、それは何も生み出さなかっただろう」と述べるが、私は「そうではない。日本共産党の誤った党体質・党綱領を糾弾してこそ、『新日和見主義としてのデッチあげ査問に対する間違いをただす』ことができたのではないか」と思った。
 著者・川上さんは60年4月に東大に入学し、安保闘争に参加している。この本の中で川上さんは、6・4集会、6・23集会に触れながらも、国会突入闘争で樺美智子さんが死んだ6・15闘争に触れていない。
 私はこれにまず驚いた。60年安保闘争と言えば、6・15闘争と言われるほど衝撃的事件があったにもかかわらずである。はじめから、川上さんが当時の日本共産党の宮本ら主流派の二段階革命論を受け入れて、全学連の再建をまかされるようなエリート党員として育っていったゆえであろう。安保闘争での激突を最前線で担う立場に立っていなかったことがわかる。
 60年代の川上さんたちの民青は、今日の日本共産党の議会の道によってのみ政権交替を路線化しているのとは違い、まだ、労働者大衆の下からの力によって革命を考えていた。革命の形態も「敵の出方論」であり、暴力革命を全面的に否定するものではなかった。
 50年分裂・軍事闘争路線のもとで日本共産党の青年運動が崩壊していった中で、安保闘争や三池闘争を担った青年活動家の民青が地域や職場に入り、運動の再建をめざしていった。そして、学園において日韓条約反対闘争、そしてベトナム反戦、70年安保闘争で、いわゆる“新左翼”と対抗的に民青系大衆運動を作り上げていった。

全共闘運動への暴力的敵対

 70年前後の全共闘運動の中で、民青と急進的学生運動は激突する。各大学のバリケード封鎖をめぐって激しく対立し、ゲバルト部隊による激突を繰り返すことになる。ここで、川上さんらの指導した民青の果たして役割は何であったのか。
 当局と一体となってバリケード封鎖を解除することであった。学園での政治的ヘゲモニーを回復するために、学校のブルジョア的・帝国主義的秩序の回復を権力のかわりにかってでる「反革命」的役割を暴力的に担ったのである。
 アメリカ帝国主義の侵略戦争を打ち破るベトナム人民の英雄的な闘いに触発されながら、当時の急進的学生運動は「日本はアメリカの手先となってベトナム人民の闘いに敵対している。その日本の中にどっぷりとつかってきた自らのあり方を否定しなければならない」=「祖国敗北主義」の立場に立とうとしていた。
 それに対して、民青は「反米・民族独立」の二段階革命論であり、「祖国敗北主義」の立場に立たなかった。急進的学生運動の学園闘争のスローガンは「帝大解体」であった。民青は「帝大解体」に反対し、学園秩序は防衛するものであった。
 この当時、日本共産党中央は新左翼によって、学生運動のヘゲモニーを奪われるのを阻止するために、ゲバルトを用いても、急進的学生運動をたたきつぶすことを指令し、「ゲバ民」部隊を作った。この「ゲバ民」部隊の直接の指導者が川上さんらであった。
 川上さんはこうした民青の考え方、果たした反動的役割については何ら、総括を明らかにしていない。

「新日和見主義派事件」の背景

 69年の東大・日大闘争そして全国の学園で広がったバリケード封鎖の急進的学生運動も、機動隊の力で封鎖が解除されていき、街頭でも機動隊の壁に封じ込められていく中で、急速に分解していった。押し込められてしまった事態を軍事的に突破しようとする連合赤軍などが大衆から孤立する中で悲惨な内ゲバで自壊していった。また、中核派や社青同解放派が革マル派の敵対に対して、組織をあげた殺し合い・テロという内ゲバのドロ沼に入っていき、急進主義的学生運動は衰退していった。
 一方、71年の美濃部革新都知事再選、黒田大阪府知事の勝利、70年の京都府の蜷川革新知事の六選、そして、72年12月の総選挙での日本共産党の38人の当選と、彼らの言う「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を現実のものと受けとれる状況が生まれつつあった。
 共産党は「人民的議会主義」を鮮明にし、議会主義に純化していった。この当時、共産党は「教師聖職論」「自治体公僕論」や中小企業者と一体となって政府・独占と闘うという中小企業における運動の方針を出し、中小民間労働運動の中で、現場での闘争を抑圧し敵対する役割を行った。それは戦闘的に闘う全金大阪・港合同運動に対する敵対となって現れた。
 また、部落解放運動や障害者解放運動でも日本共産党はこれらの戦闘的大衆運動と敵対し、組織分裂を繰り返すようになっていった。「すべてを議会へ」であった。
 こうした共産党の議会主義への純化の路線転換の中で、共産党中央はいつまでも急進主義学生運動と、張り合った「ゲバ民」をそのままにしておくことができず川上さんらを“分派”=『新日和見主義派』として組織排除を決定し、「査問」を行い排除した。
 こうした党中央の許し難い党内民主主義の否定と官僚的党運営に対して、川上さんらはついに、日本共産党の党綱領の問題として総括することができずに、多くが党にとどまりつづけた。
 川上さんらの経験した「査問」は、スターリンによってデッチあげられ、多くの革命家が殺されて行ったモスクワ裁判や中国の文化大革命でのデッチあげ「査問」と同じスターリニズムに根差したものである。
 川上さんたちが特殊に「査問」にあったわけではなく、94年に起こった下里正樹『赤旗』記者の除名(下里さんは作家の森村誠一さんとともに、細菌兵器731部隊を『赤旗』で暴き出した)も長い非人間的な「査問」によって除名された。日本共産党のスターリニストとしての体質はこの点で何らいまも変わっていないからである。
 
分派闘争と党内民主主義と

 日本共産党と違いわが同盟は初期第三インターナショナルとトロツキズムの伝統を継承しようとしてきた。同盟規約には分派の形成を認め、党内での民主主義を最大限に保証するものとなっている。『新日和見主義派』のように、分派を作ったということで「査問」されることなどはありえなかった。私の知っている70年代以降のわが同盟において、「査問」に近いことが行われたのは警察のスパイを強要されていた共青同員に対するものや女性差別事件を起こした同盟員に対してであり、件数もごく限られたものであった。
 しかし、分派が認められているからといって、党の統一と党内民主主義が十分に機能するかというとそうでもない。このことを痛切に思い知らされたのは80年代の同盟の分裂であった。
 同盟財政問題に端を発し、当時の労働運動に対する評価・方針の相違を背景に展開していった分派闘争は「同盟内女性差別問題」への対処、同盟の総括、情勢のとらえ方にいたる意見の相違を拡大させることになった。しかし、分派の形成も地域的であったり、個人的信頼関係による結びつきだったりし、綱領的レベルでの結集とはいいがたい側面も持っていた。60年代同盟の分裂と70年代に再統一していく過程とその指導部の体質に深く根差したものとなったと言えるだろう。
 しかし、この分派闘争は路線的深化をすることなく組織分裂に終わった。分派を認める規約がありながらも、いったん分派が作られるとそれが一人歩きし、すべてのことについて分派として対抗しようとすることになっていった。この当時、フランス支部のルッセ同志が来日し、「フランスにおいても分派が五つくらいつくられているが、分派があらゆることで固定化し、統一的な党運営がむずかしくなっている。日本支部での分派闘争についても十分その点を考えるべきである」というアドバイスがあったが、残念ながら、ルッセ同志の危惧は的中してしまった。
 大衆運動で統一行動を組む時のあたりまえのことが、党内部になると非民主的になることがよくある。党内での少数意見を尊重する慎重な党運営、意見の違いなどを党内外に公開する透明性、生きた細胞活動、大衆と党員、現場と機関活動家、中央と地方との意志疎通など、常に最大限の民主主義を保証した党運営がされなければならないことを痛切に思う。
 最後に、わたしは“ゲバ民”であった民青の活動家がすべて「反革命」であったといいたいわけではない。中小民間の争議の中で、知り合った“ゲバ民”世代の共産党の活動家はともにその争議を担い合い理解しあった。さらに、理論的にロシア革命とスターリニズムを総括する中で、トロツキズムを理解する活動家と知り合うこともできたことを付け加えておきたい。

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