米英仏など「連合国」帝国主義を美化しスターリニズムを免罪
高島義一
1995年6月に村山連立政権が国会で採択した「戦後50年国会決議」は、「侵略戦争」
という言葉も、「不戦の誓い」も、被害者への「謝罪」も「補償」もないものになった。日本共産党は、天皇制日本帝国主義の戦争責任を認めようとしない総保守化状況を厳しく批判している。しかし日本共産党の主張は、日本帝国主義の責任は追及するものの、米英帝国主義とスターリン主義を美化し、免罪する論理になっているのである。
「戦後50年決議」と共産党
大きな政治的争点となっていた「戦後50年国会決議」は、“戦後50年にあたって日本が行った侵略戦争を反省し不戦を誓う”という当初の想定とかけ離れた、ほとんど無意味な“決議のための決議”に終わった。「侵略戦争」という言葉も消え、「不戦の誓い」もなく、日本帝国主義の残虐無比な侵略戦争によって殺傷された数千万被害者への「謝罪」もなく、その被害への「補償」もないという、無惨なものだった。当然にも、天皇の軍隊に踏みにじられたアジア各国からは、強い抗議と批判が上がっている。
新進党は与党三党の決議に反対したが、それはただどちらがより反動的かを競うものにすぎなかった。新進党の当初の声明は「列強間の(植民地獲得に向けた)激しい争い」の中で「わが国もその時流に乗ることになった」として日本の主体的責任をあいまいにし、原案には「自存のため」という文言さえ入っていた。“列強の争いにまき込まれた自衛戦争”というわけだ(「戦後50年国会決議」については本紙1995年6月19日号)。
こうした総保守化状況の中で、旧日本帝国主義の侵略戦争責任を追及してきた最大の政治勢力は、いうまでもなく日本共産党である。日本共産党はこの「戦後五十年国会決議」に対して、「日本の戦争責任をあいまいにするもの」と厳しく糾弾している。しかしその批判の論理は誤っており、帝国主義の市場再分割戦争としての性格を否定し、「ファシズムと反ファシズムの戦争」として描き出すことによって、結局のところ米英仏「連合国」帝国主義を美化してしまっているのである。
同時に日本共産党の主張には、第一次大戦から第二次大戦に至る時期のヨーロッパを中心とする革命を破産に追い込んだスターリニズムの責任という問題が完全に欠落している。第二次世界大戦をめぐるスターリニズムの主体的責任はこれにとどまらない。第二次大戦の突破口となったナチス・ドイツのポーランド侵攻はスターリンとの事実上の連携プレーであった。
第二次世界大戦を「ファシズムと反ファシズムの戦争」として描き出す論理は、伝統的なスターリニズムの主張であるというにとどまらず、戦後革命期に米軍に対するいわゆる「解放軍規定」をはじめとする誤った判断をもたらし、第二次世界大戦後の日本を含む国際的な革命運動の方向を誤らせた主張である。こうして日本共産党の「第二次大戦論」は、彼らがいまなお深くスターリニズムの政治的枠組の中にあるばかりか、自らを含む重大なその政治的誤りをほとんど総括していないことを明らかにしているのである。
日本共産党的な認識では、歴史の教訓を何ひとつ正しくつかむことができない。われわれは、「敗戦五十年」にあたって、第二次世界大戦とは何であったのかということを、あらためて確認しなければならない。1930年代に匹敵する大失業時代に象徴される世界資本主義の危機と、一方におけるソ連・東欧の崩壊とスターリニスト官僚専制の瓦解という状況の中で、社会主義革命運動の再生のために問われている課題を明らかにするためには、最低限、正しい歴史認識の上に立つ必要があるからである。
日本共産党の第二次大戦論
日本共産党は、村山政権の「戦後五十年国会決議」を「どっちもどっち論」と名付けてこう批判する。
「……第二次大戦は、アジアとヨーロッパで侵略戦争をおこした日独伊のファシズム・軍国主義陣営に対して、世界の諸国が侵略反対・反ファシズムの連合を組んでたたかった戦争です。帝国主義列強が、たがいに植民地支配や権益を争ってたたかった第一次大戦のような『近代史上の』の戦争とは性格がちがいます。与党案は、この歴史の事実をゆがめ、日独伊の侵略国家の陣営も、これに対抗してたたかった諸国家も同列に描く『どっちもどっち論』です。これでは日本の侵略戦争の責任が明確になるわけがありません」(「赤旗」1995年6月8日)。
日本共産党の主張は、極度に単純化された「善玉悪玉論」である。侵略した悪玉は日独伊ファシスト枢軸国であり、善玉は米英仏など帝国主義諸国とソ連邦である。日本共産党によれば、第一次大戦ではドイツも日本もイタリアもアメリカもイギリスもフランスもロシアも、いずれも悪い帝国主義国であった。この認識は誤っていない。こうした諸国が植民地支配と権益を争ってヨーロッパを中心とする世界を戦火にさらしたのが第一次大戦だった。戦争の性格は、帝国主義の市場分割戦であった。三国同盟側の中心である後進帝国主義ドイツが、イギリスやフランスなど先進帝国主義国に市場再分割を要求して挑戦したのである。天皇制日本帝国主義は、英仏など協商国陣営・連合国の一員として参戦した。
第二次世界大戦は、第一次世界大戦の結果として再分割された世界の帝国主義的秩序に、日独伊が挑戦したものにほかならず、第一次大戦の延長としての帝国主義間戦争である。ところが日本共産党は、これに「ファシズムと民主主義の戦争」という伝統的スターリズムの評価を下し、米英仏など「連合国」帝国主義を美化してしまうのである。
アジア・アフリカ・ラテンアメリカや中東を侵略し残虐な植民地支配を行っていた米英仏など帝国主義諸国は、第一次大戦を深く反省して、善玉になったのだろうか。全くそんなことはなかったのだ。
第二次大戦に至る「民主」諸国
第一次世界大戦後、戦争の惨禍を再び繰り返さないということで、米大統領ウィルソンの提唱で「国際連盟」が作られた。しかしウィルソンは、ロシア・ボルシェビキ政権を認めないという点では、英仏伊と完全に一致していた。「民族自決」の原則が高らかにうたわれたが、その適用範囲はヨーロッパに限られていた。
第一次大戦を契機としてアジア、アフリカ、アラブ中東などに民族解放闘争が広がったが、帝国主義諸国は「民族自決の原則」をこれらの地域に適用するつもりは全くなかった。連合国の戦勝帝国主義諸国は、戦後に独立を認めると言ってエジプトやインドから数10万人の植民地兵をヨーロッパと中東の戦線に送り出したが、この約束はあっさり投げ捨てられ、イギリスは民族独立運動に流血の弾圧を加え続けた。
戦勝帝国主義諸国は、自らの植民地を手放さなかっただけでなく、ドイツの植民地を山分けにした。英仏の陣営に加わり連合国の一員として参戦した日本帝国主義は、中国・山東省の旧ドイツ権益と南洋諸島を自らの支配下に獲得した。
英仏側の連合国として参戦した中国も、パリ講和会議に戦勝国として代表を送り、中国内に列強が作った勢力範囲の解消、各国駐留軍の撤退、租界と租借地の返還や日本の対華21カ条要求の取り消しなどを求めた。しかし中国のこうした要求は、ほとんど無視されてしまった。
1919年、中国革命への源流となった「五・四」運動が起こったが、これは、パリ講和会議が山東省に対する日本の帝国主義的権益要求を受け入れたことに抗議するものだった。1925年5月、上海のストライキ労働者へのイギリス警官隊の流血の弾圧をきっかけに(5・30事件)、中国の反帝闘争が広東、香港を中心に激化したが、その主要な闘いの対象は当然にもイギリスだった。
日本帝国主義は、1931年の満州事件を機に、一挙に中国侵略を全面化し、15年戦争のアジア・太平洋戦争に突入する。この中国侵略をめぐって、日本と米英との対立は深まっていったが、それは「ファシズムと民主主義の対立」ではなく、文字通り中国の帝国主義的権益をどちらが獲得するかをめぐる対立にほかならなかった。
そして当時の中国侵略をめぐる対立には、ソ連邦と帝国主義との対立が反映していた。たとえばイギリスは、日本の軍事行動が満州にとどまる限り、中国全体への侵略が緩和され、したがってイギリスの権益が脅かされないことを期待し、同時に日本が対ソ戦争に向かうことを期待して、満州侵略に積極的に干渉しようとはしなかった。
1930年当時、中国では毛沢東や朱徳のひきいる紅軍が、江西や湖西を中心にソビエト区の建設を進めていた。これに対して、蒋介石の国民政府軍が鎮圧のための軍事行動を進めていたが、その長沙奪回作戦には英米仏日の艦艇が共同して支援している。これが、帝国主義の中国に対する態度であった。
日本共産党系の学者は、その後の中国の抗日戦争に対する米英の支援を、「反ファシズム的な民主主義戦線の潮流、基礎のうえにおこなわれた」と言う(『前衛』1995年8月号「戦後五十年決議」の欺瞞に満ちた歴史認識/岩井忠熊)。これがとんでもない帝国主義美化論であることは、ほとんど議論の余地がない。アメリカ帝国主義にとっての太平洋戦争の目的は、最大の競争者である日本帝国主義を打倒し、中国市場を独占することをめざしたものだった。そしてアメリカ帝国主義は、自らの支柱を蒋介石と国民党におき、これを戦後の極東における反ソ反共勢力の中軸として育成しようとしていたのである。
こうした反動的な政策が、戦後の天皇制を温存させた日本占領政策や中国敵視政策、そしてベトナムへの侵略戦争と直結していたことは、いまさら説明を要しないであろう。
大戦勃発の責任は誰にあるか
「反ファシズム」の主要な舞台だったヨーロッパについて見てみよう。
ムッソリーニのファシスト・イタリアは、最初からナチス・ドイツと親密であったわけではない。1935年3月、ヒトラーのドイツがベルサイユ条約を破棄して再軍備を通告した際には、英仏伊が会談して対独共同行動を約束し合っている(ストレーザ会談)。しかしイギリスは、独自にドイツと海軍協定を結んでこの英仏伊の「結束」を破ってしまった。
この年10月から7カ月にわたって、イタリアはエチオピア侵略戦争を強行する。そして翌36年3月、ドイツ軍がラインラントを占領した。当時国際連盟は対イタリア経済制裁を決議したが、英仏政府はドイツに対してイタリアを自分たちの陣営にとどめておくため、経済制裁を尻抜けにしてエチオピア侵略を容認した。しかし逆にムッソリーニは、国際的関心をイタリアからそらせたヒトラーの役割を高く評価し、ファシズムの二頭目が急接近することになった。37年には日独伊防共協定が結ばれ、世界戦争の足音はますます高まっていった。
1938年3月にヒトラーはオーストリアの併合を宣言、続いてチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。ドイツの鋒先をソ連邦に向けさせようとするイギリス・チェンバレン政権はフランス・ダラディエ政権を説得し、共同してチェコスロバキア政府にドイツの要求を呑むよう威嚇的な勧告を行った。独英仏の圧力のもとでミュンヘン協定が結ばれ、チェコスロバキアは分割されてしまった。ヒトラーの要求はますますエスカレートし、全面戦争への道が掃き清められていった。
こうした英仏など帝国主義者の態度のどこに「反ファシズム」があるのか。どこに「民主主義」があるのか。トロツキーはスターリニストに暗殺される直前、次のように述べた。
「来るべき戦争を民主主義とファシズムのあいだの戦争として描こうとする試みは、現実の進行によって粉砕された。現在の戦争はすでにヴェルサイユ条約調印以前から始まっていたのであり、帝国主義の矛盾そのものから生れでたものである。……ヨーロッパ大陸における主要な敵対者はドイツとフランスである。ヨーロッパにおけるヘゲモニーとその植民地保持のために、フランスはドイツ(ファシスト・ドイツではなく民主主義ドイツ)を分裂と弱体の諸条件下にとどめておくべく努めてきた。この意味において、フランス帝国主義はドイツ国家社会主義(ナチス―引用者)の助産婦であった。ところがイギリスは、フランスのヨーロッパにおけるヘゲモニーとその国際的権利、主張をうち破ることに利益を見い出し、ヴェルサイユ条約調印後まもなくパリに対抗してベルリンを支持しはじめた。ナチス・ドイツの再武装は、イギリスの直接の援助なしには不可能であったろう。民主主義諸国間の仮面におおわれた深い相互対立がヒトラーの跳躍台だったのである。ミュンヘンにおいてイギリスは、ドイツが中央ヨーロッパで満足するだろうと期待してヒトラーを支持した。だが、その2週間後にイギリスは、ドイツ帝国主義が世界支配をめざして闘っていることをついに発見した。世界植民地権力としての役割からしてイギリスは、ヒトラーの戦争をもってする際限ない権利主張に応答せざるを得なかった」。
「民主主義対ファシズムの公式、戦争責任の詭弁を弄する諸々の外交策略も、われわれに次のことを忘れさせることはできない。すなわち、闘争は相異なる陣営の帝国主義奴隷所有者どものあいだで世界の新たな分割をめざして展開されているということを。その目的と方法からするとき、現在の戦争は前回の大戦争の直接の延長であり、ただ資本主義経済のより徹底的な腐朽とより恐るべき破壊と根絶の手段をともなうだけである」(「第二次世界戦争勃発の責任は誰にあるか」『トロツキー著作集』1939→40上/柘植書房)。
第二次大戦とスターリニズム
日本共産党がその「第二次大戦論」の中で、「反ファシズム陣営」の中軸として描いてきたソ連邦スターリニスト官僚専制が、第二次世界大戦の開始にあたって果たした犯罪的役割についても、触れないわけにはいかない。
第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド全面侵攻をもって始まった。ヒトラーに第二次大戦の引き金を引かせた直接の国際的背景は、いうまでもなくその一週間前に締結された独ソ不可侵条約であった。東方戦線の不安を一掃したヒトラーは電撃戦でポーランドを占領し、ソ連邦との間に分割協定を結んで東西ポーランドを山分けした。ソ連邦は、モロトフ・リッベントロップ協定にもとづいてフィンランドに侵攻し、バルト三国を併合した。
トロツキーは言う。「戦争の一般的原因は、世界帝国主義の非和解的な矛盾にある。しかし、軍事行動をよびおこした具体的な衝撃は、独ソ不可侵条約の締結にあった」(「ヒトラーの舵取り―スターリン」同前)。
「……ドイツ軍がポーランド国境を越えたまさにその瞬間に、最高ソヴィエト会議はこの条約(独ソ不可侵条約――引用者)をただちに批准したのであった。スターリンは自ら行いつつあることを熟知していた。ポーランドを攻撃し、イギリスならびにフランスにたいして戦争を敢行するために、ヒトラーはソ連邦の好意的中立とこれにプラスするところのソ連邦の原料資源を必要としていた。政治的ならびに商業的な条約がヒトラーにこの二つのものを保障した。最高ソヴィエトの会議において、モロトフはドイツとの経済協定を賞賛した。だからといって驚くにはあたらない。ドイツはいかなる価格であろうとも原料資源を必要としている。戦争をやっているとき費用がいくらかかろうと、勘定のうちにははいらない。高利貸し、投機屋、略奪者どもはいつも戦争に殺到する。クレムリンは、イタリアのアビシニア(エチオピア)侵略にたいして石油を供給した。スペインにおいて、クレムリンは彼らが(人民戦線側に――引用者)提供した粗悪な武器にたいして二倍の値段を要求した。いまやクレムリンは、ソヴィエトの原料資源によってヒトラーからいい値段を引き出そうとしている。コミンターンの追従者たちは、それでもなお恥じることなくクレムリンの行動を擁護している。すべての誠実な労働者は、この政策に鉄拳を喰らわせなければならない」(「独ソ不可侵条約」同前)。
革命の敗北が戦争を起こした
スターリズムが第二次世界大戦の開始にあたって果たした犯罪的な役割に加えて、国際的な革命闘争と反ファシズム闘争を崩壊させたことによって、帝国主義が戦争を行うことを可能にしたことを指摘しなければならない。
「1914年11月1日、前回の帝国主義戦争の当初においてレーニンは次のように書いた――『帝国主義はヨーロッパ文化の運命を危機に追い込んだ。この戦争の後、一連の革命が成功しないとすれば、より多くの戦争がつづいてやってくるだろう』……」(「帝国主義戦争とプロレタリア世界革命にかんする第四インターナショナルの宣言」同前)。
第一次大戦終結から第二次大戦の勃発までの約20年間は、1917年のロシア革命の勝利に続いて、革命の波がヨーロッパを中心に広く世界をおおった20年間であった。1925年から27年の第二次中国革命、1929年から33年のドイツの危機とナチスの勝利、34年から36年のフランス人民戦線、36年から38年のスペイン人民戦線をはじめ、各国で労働者階級の闘いが高揚し、資本の支配を揺るがした。
これらの革命を直接血の海に沈めたのは蒋介石であり、ヒトラーであり、フランコであったが、闘いを敗北させた主体的責任がスターリンとコミンテルンの破滅的指導にあることは明白だった(山西英一『国際共産主義運動史』新時代社、トロツキー『レーニン死後の第四インターナショナル』『中国革命論』『社会ファシズム論批判』『スペイン革命と人民戦線』現代思潮社、『トロツキー著作集』1~14柘植書房――などを参照)。
若き中国共産党を蒋介石の前で武装解除させた「四民ブロック」政策、社会民主主義を「ファシズムの穏健な一翼である」と規定し、伸張するナチズムの前で労働者統一戦線を拒否させた「社会ファシズム」論、労働者階級の闘いをブルジョアジーの許容範囲に厳密に押しとどめる「人民戦線」戦術――。極左的セクト主義と右翼日和見主義のジグザグが繰り返された。スターリニストは、スペインでは自らの統制に従わないPOUM(マルクス主義統一労働党)やトロツキスト、アナキストを、ファシスト・フランコの軍と対峙するバリケードの背後から襲撃し、殺害した。
しかもコミンテルンは、世界革命の機関からソ連防衛のための外交手段に堕落させられてしまった。英仏など「民主的」帝国主義諸国に接近を試みている時は、植民地の共産党は民族独立の要求さえ抑圧された。ところがヒトラーとの不可侵条約が結ばれると、とたんにスターリンはインドやアルジェリアやエジプトの独立を支持するようになった。そしてドイツとの戦争に突入すると、再びこうした英仏などの植民地独立要求は抑圧された。
こうして第一次大戦につづく「一連の革命」が敗北させられ、レーニンが予測したように、人類は「別の戦争」に直面させられたのである(レーニン「社会主義インターナショナルの現在と任務」『第二インターナショナルの崩壊』国民文庫)。
第二次大戦後の「民主」諸国
こうして、第二次世界大戦を「ファシズムと民主主義との戦い」として描き出す日本共産党の主張は、米英仏など「連合国」帝国主義を美化し、スターリニズムの犯罪を免罪するものである。もちろん日本共産党が批判するように、村山連立政権や新進党の主張が、天皇制日本帝国主義の侵略と戦争犯罪をあいまいにするものであることは明らかである。しかし日本共産党の「どっちもどっち論批判」もまた、米英仏帝国主義とスターリニズムの責任と犯罪を免罪する徹底的に誤った歴史認識なのである。
こうした単純化された「善玉悪玉論」的認識からは、第二次大戦後の帝国主義「連合国」の政策が全く理解不能になってしまうだろう。ファシズムと戦った「民主主義的」諸国が、戦勝後一夜にして再び凶悪な帝国主義侵略者に変化してしまったことになるからだ。
第二次大戦後の世界では、第一次大戦後のそれをはるかに上回る規模で、民族解放闘争が高揚した。官僚的に堕落した労働者国家ソ連邦は、スターリニスト官僚専制の誤った政策にもかかわらず、客観的にその後背地となった。そして、帝国主義の市場分割戦争としての第二次大戦に勝利した連合国帝国主義諸国は、この民族解放闘争に対して、一方では大幅な譲歩を余儀なくされながらも、第一次大戦後と全く同様の流血の弾圧と軍事介入でもって応えた。
その最も代表的な例がベトナムだった。1945年9月、ホーチミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟)は日本軍のかいらい政権を打倒して独立を宣言した。しかし植民地宗主国たるフランスはこれを認めず、8年間にわたる対フランス独立戦争となった。ベトミンはこの戦いにほぼ完全勝利したにもかかわらず、アメリカを中心とする帝国主義とソ中スターリニスト官僚の圧力でジュネーブ協定による南北分断を強制された。そしてその後、フランスにかわって全面的に軍事介入を開始した史上最強のアメリカ帝国主義の無差別大量殺りくに抗して、300万人もの命を奪われながら、1975年まですさまじい解放戦争を闘わなければならなかった。
同様にフランスからの独立を求めたアルジェリアの解放闘争も、62年に独立をかちとるまで、最大50万人に達したフランス侵略軍と闘うことを余儀なくされ、人口の実に9分の1にあたる100万人が殺される重大な犠牲を強制されたのである。
エジプトがイギリスからの独立を達成するのは、52年7月のナセルらによる王制打倒の軍事クーデターを待たなければならなかった。そして56年のスエズ運河国有化宣言に対してイギリス軍はエジプトに上陸し、あわや全面戦争の危機となった。イギリスが最終的に手を引いたのは、国際的な反戦闘争の高まりに加え、インドとパキスタンが英連邦から脱退すると圧力をかけたからだった。
アフリカの多くの諸国が独立を達成したのは、60年代に入ってからだった。アンゴラとモザンビークがポルトガルからの解放戦争に勝利して独立をかちとったのは、1975年であった。世界最大の帝国主義超大国となったアメリカは、自らの“裏庭”と見なす中米、南米をはじめ、反米政権や労働者農民に基礎を置く政権が成立した諸国や、そのような闘いが前進している地域に、次々に軍隊を送り、経済的・政治的な圧力をかけてそうした政権を転覆し、闘いを鎮圧するために全力をあげた。
これが、日本共産党の言う「侵略国家」との戦争に勝利した「反ファッショ陣営」(「赤旗」1995年6月8日)なるものの戦前・戦中・戦後を貫く姿だった。たしかに、ロシア革命の勝利に続く中国革命の勝利をはじめ、第二次大戦後の世界では第一次大戦に比べて、帝国主義の政治的力は大きく後退した。しかし帝国主義の帝国主義としての本質には、何ひとつ変化はなかった。日本共産党の「第二次世界大戦論」が「連合国」帝国主義を美化するものであることは明白である。
帝国主義への屈服の諸結果
第二次世界大戦を「ファシズムと反ファシズムの戦い」「侵略国と反ファッショ陣営との戦争」と規定するスターリニズムの路線と実践は、戦後革命を破産させるために決定的な役割を果たした。この路線は、結局のところ労働者の階級的闘いを抑制し、「民主的」帝国主義者の誠実な協力者に押しとどめてしまったからである。
「この時期の共産主義者は、ヨーロッパ全体を通じて『ブルジョア政府』に参加し、がたがたになった経済を復興させるために懸命に働いた。ジョセフ・オールソップは1946年7月に書いた。『(フランスの復興の)鍵は、フランス共産党の熱心な協力であった。共産主義者は、CGT(フランス労働総同盟)の重要な組合の大部分を支配している。フランスの主な組合が、一種の修正された出来高払い方式を承認するという驚くべき措置をとったことは、共産党の指導によるものであった。……まず最初に復興ということが共産党の路線である』。共産主義者は、北部アフリカの追随者たちに、革命路線をとらないように思い止まらせ、……スターリンはソビエトの軍隊にアゼルバイジャン―イラン西北部―から撤退するように命令し、それによってジャファール・ピシェヴァリ治下の共産主義政権を解消させた。スターリンは、イギリスの軍隊がギリシアのEAM反乱軍を抑えていたあいだは一指も動かそうとせず、そのためにスターリンは、ほかならぬウィンストン・チャーチルから惜しげもない賞讃を受けた」(『軍産複合体』シドニー・レンズ/岩波新書)。
それまでのジグザグと破滅的方針にもかかわらず、フランス共産党は対独レジスタンスの中で労働者人民の中に圧倒的な威信を確立していた。しかしフランス共産党はその圧倒的威信をもって社会主義革命をめざそうとはしなかった。モスクワから帰国した書記長トレーズは、ド・ゴールの命令に従ってその武装組織である「愛国衛兵」を解散させ、先に見たようにブルジョア社会の再建に全力をあげたのである。同様に反ナチ・反ファシズムパルチザン闘争を闘っていたイタリア共産党も、そのパルチザン部隊をイタリア国軍の中に解消し、ブルジョア支配の再建に屈服した。
こうしたことが、スターリニスト共産党の指導のもとでまさに全世界で行われたのである。日本共産党も米占領軍を「解放軍」と規定し、その命令に屈服して47年の「二・一ゼネスト」を中止させた。そして日本共産党は、「解放軍」だったはずの米占領軍によって非合法化された。インドでも、共産党は「反ファッショ連合」路線のもとでイギリス帝国主義との協調へ向かい、国民会議派よりも右翼的路線をとることによって、独立闘争の中での威信を決定的に失った。これは同時に、独立闘争をブルジョア的枠組みに押しとどめる役割を果たした。
最も悲劇的な例として、フィリピンについて触れておこう。フィリピンのフクバラハップ(抗日人民軍)は、米軍が再上陸するとこれを「解放軍」として抑え、フク団の名簿を渡すことと引き換えに、米軍から抗日戦争時のゲリラ活動に対する給与をもらった。その後、その名簿をもとに米軍によるフク団一斉検挙が始まった。革命勢力は重大な打撃を受け、その後長続きにわたって過酷な親米軍事独裁政権がフィリピンを支配することになった。
これが、第二次大戦を「ファシズムと民主主義の戦争」と規定したスターリズムによって全世界の労働者人民に押し付けられた負債だった。トロツキストと第四インターナショナルは、ヨーロッパ各国で反ナチ・レジスタンスの最前線で闘った。スターリニストはここでもバリケードの背後から襲いかかり、先に触れたギリシアでは100人を越えるトロツキスト戦士がスターリニストによって虐殺されている(湯浅赳男『トロツキズムの史的展開』三一書房)。
求められていたのは、米英仏など「連合国」ブルジョア支配体制への無原則な屈服と妥協ではなく、政治的に自立した反ナチスレジスタンスや抗日闘争の階級的組織化であり、その力をもって戦後の危機的情勢に労働者農民の政府に向かう闘いを準備することであった。しかしこうした闘いは、クレムリンとそれに追随する各国スターリニスト党指導部によって徹底的に抑圧されたのである。それは、「ファシズムと民主主義の戦争」という政治攻防の図式から生まれた戦略の帰結であった。
ソ連・東欧の崩壊によって、ロシア革命以来の社会主義革命運動の歴史的一サイクルは終焉した。しかし資本主義は、全世界に数億人の失業と数億人の飢餓を生み出し、労働者人民をますます深刻な悲惨に追い込みつつある。こうした状況の中で、われわれは社会主義革命運動の再生をめざす闘いに挑戦しなければならない。
そのためには、正しい歴史認識に立ち、正しく歴史を維持し、その教訓をつかむことが決定的に重要である。この間、日本共産党はスターリズムの犯罪から自己を切り離し、自らもまた忠実なスターリニスト党として自己を形成してきた政治的責任をまぬがれようとしてきた。しかしその作業がきわめて不充分かつ不誠実なものであることは、本紙でも繰り返し指摘してきた通りである。この事実を、「戦後五十年国会決議」をめぐる日本共産党の主張はあらためて明らかにした。
宮本指導部から自立した批判的党員と連帯し、日本共産党の内外でスターリズムを真に総括し、そこから真に理論的に決別するための闘いを推し進めよう。
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