ソ連邦におけるスターニズムとその終焉 酒井与七 1990年〔8月以後〕

酒井与七

目 次
Ⅰ 一つの歴史の終焉
戦後世界のあり方の転換 ― 一九七〇年代前半からの一九八〇年代前半にかけて
帝国主義諸国プタロレリアートと労働者諸国家
Ⅱ 過渡期労働者国家における反革命的テルミドールとしてのスターリニズム
ロシア十月革命国家の官僚的堕落
官僚専制権力とスターリニスト共産党
スターリニスト計画経済制度
スターリニス計画経済モデルの諸特徴
戦後ソ連邦におけるスターリニスト計画経済モデルの相対的成功とその限界
Ⅲ 戦後ソ連邦とブレジネフ期 ― スターリニズムの熟成と終焉
絶頂期のブレジネフ時代
テルミドールの社会的根源と戦後ソ連邦
ソ連邦におけるスターリニズムの終焉
ソ連邦情勢の新段階
付表

Ⅰ 一つの歴史の終焉

戦後世界のあり方の転換 ― 一九七〇年代前半からの一九八〇年代前半にかけて

 第二次世界戦争をつうじて、またその結果として形成された戦後世界のあり方、一種の「構造」という点で、一九七〇年代前半から一九八〇年代後半にかけて一つの重要な転換があったと言わねばならない。
 西ヨーロッパと日本における労働者運動の現状について意識しつつ、この間のソ連邦・東欧諸国における事態の発展と東欧諸国における労働者階級の政治的現実のうえで、ソ連邦・東欧諸国における現在の危機の背景について歴史的に考えてみるとき、以上のように結論的にづけなければならないだろう。
 プロレタリアートの主体としての世界的あり方という点で、第三インターナショナルの歴史的構造が最終的に崩壊してしまったようである。戦後帝国主義体制と対抗的・対立的に存在する主体として、第三インターナショナルの歴史的構造のあり方が最後的に終焉したといわざるとえない。
 ソ連邦・中国をはじめとする既存の労働者諸国家は実在しつづける。ほとんどの東欧諸国をふくめて、現在的に、このことは厳然たる事実である。
 しかし、ソ連邦を中心とする労働者諸国家のあり方は、さしあたって、現在の戦後帝国主義体制と対抗的に存在する主体的能力を基本的に失っている。中国において、この転換はすでに七〇年代に入るとともに基本的になされていた。ソ連邦・東欧体制の側では、一九八〇年代後半をつうじてソ連邦ゴルバチョフ体制のもとでこの転換があった。モスクワ官僚のもとに結集するスターリニスト東欧諸国体制の崩壊は、この転換の具体的な現象形態の一つである。
 ソ連邦をはじめとして、労働者諸国家は現在の戦後帝国主義体制に全般的に依存する関係に入った。ベトナムとカンボジア、そしてキューバとニカラグアは、今後、極めて困難な状況をますます強制さてれゆく。エチオピアをはじめとするアフリカの急進的民族主義「国有化経済」諸体制も、この間、急速に後退を余儀なくされている。
 ソ連邦経済を中心とするコメコン体制はすでに機能を完全に麻痩しており、東欧諸国の経済は現在の資本主義国際経済に急速に統合化され、全般的に従属化され、まさに“周辺化”されてゆく。東ドイツの国家と経済は、現在、西ドイツ・ブルジョアジーの国家と経済によって急速に吸収・合併されつつある。労働者国家ハンガリーの経済は、この数年間、すでにIMF(国際通貨基金)の強力な統制下にあったし、現在、ポーランドの経済がIMFの統制下に入りつつある。モスクワを中心とするスターリニズムの抑圧から解放された東欧諸国は現状の資本主義国際経によっ統合・周辺化され、これら諸国の「経済的主権」の確保は極度に困難になるだろう。
 ソ連邦のゴルバチョフ体制も、その権威主義的大統領制への移行とともに、新たに体系化されたドラスチックな市場主義的経済改革プランのうえで資本主義世界市場への積極的参入を展望している。
 官僚的スターリニスト計画経済制度を基礎にし、ソ連邦を中心としてなりたってきた労働者諸国家の閉鎖的経済体制は瓦解し、ソ連邦の経済をも部分として包含する実体としての単一の世界市場が帝国主義国際資本のヘゲモニーのもとで形成さよれうとしている。このことは、労働者国家としてのソ連邦が崩壊・消滅するということではない。今日、労働者国家中国の経済が資本主義世界市場の一部として組み込まれているように、いわば新ゴルバチョフ路線のもとで労働者国家ソ連邦の経済として資本主義世界市場に全般的に参入する方向に進もうとしているのである。
 それはまた、国際政治のレベルで現に中国がそうであるように、アメリカ・西ヨーロッパ・日本が主導する国際政治秩序への労働者国家ソ連邦の新たな参入というかたちで進行しようとする。ゴルバチョフ体制の新しいスローガンである「新しい思考」、「グローバリズム」と「相互依存」、そして「共同のヨーロッパの家」などは、そのことを意味している。

帝国主義諸国プロレタリアートと労働者諸国家

 西ヨーロッパと日本におけるプロレタリアートのあり方の点でも、七〇年代中頃から八○年代前半にかけて、第二次世界戦争および戦争直後期からの歴史的連続性がほぼ最後的に崩壊し、終焉していった。
 六〇年代後半から七〇年代前半にむけて全般的な高揚を示した西ヨーロッパと日本のプロレタリアートの運動は、七三年の第一次石油危機から八○年代にかけた戦後帝国主義国際経済の重大な転換期に直面して、資本によって基本的に押しきられた。
 日本における戦後労働者運動の崩壊と終焉は徹底的で全面的であった。西ヨーロッパ・プロレタリアートの運動がさしあたって現状の資本主義国際体制の枠内に改良主義的にとどまることが八○年代前半に基本的に確認され、同時に八○年代全体をつうじてイタリアおよびフランスの戦後共産党の構造の分解・再編が全面的に進行した。この二つの共産党の分解と再編成は、ソ連邦・東欧体制の危機の深化と東欧スターリニスト体制の崩壊と一体となって進行した。同じく日本共産党の危機もますます深まっている。
 西ヨーロッパ諸国と日本における戦後期労働者運動のあり方は、この時期をつうじて基本的に終焉したといわねばならない。日本において、労働者の“基幹”的部分は資本のもとにさしあたって獲得された。西ヨーロッパ諸国においては、現在の東欧諸国とソ連邦がそうであるように、プロレタリアートの運動は資本主義に基本的に依存する関係にあるといわねばならない。
 西ヨーロッパのプロレタリアートの運動とソ連邦・東欧諸国は、現状の国際帝国主義とその資本主義国際経済体制との関係で基本的に同じ政治的・経済的位相のもとにあるといえる。東西ヨーロッパ総体における国際資本主義とプロレタリアートのこのような基本的位置関係からして、西ヨーロッパにおいても、東欧諸国においても、そしておそらくソ連邦においても、プロレタリアートは少なくとも中期的には全体として防衛的状況を余儀なくされるだろう。
 また、東西ヨーロッパにおいてプロレタリアートが新しい主体として自己を積極的に表現してゆく過程 ― 新しい独立的プロレタリア左派の形成 ― は非常に長期的なものになるだろうし、この過程においても基本的に同一のヨーロッパ的位相が貫徹するだろう。東西ヨーロッパの政治・経済的統合・複合化が資本主義世界市場を基礎にして深まってゆくなかで、統合ECを中心とする西ヨーロッパ諸国のプロレタリアートと東欧諸国・ソ連邦の国家ならびにプロレタリアートは、国際帝国主義と国際資本との関係でますます共通する政治・経済的位相におかれてゆくだろう。ヨーロッパにおける東西分断の壁の崩壊は、プロレタリアートにとって現実にはそのように進行する以外にない。したがって、歴史的現実として、国際帝国主義と国際資本に共同して対抗しようとする新しい統合ヨーロッパ・プロレタリア左派の形成はこの水路をつうじてしか展望しえないだろうし、ヨーロッパ社会主義合衆国の展望もこの水路をつうじてしかありえないだろう。
 また労働者国家中国のこの間の屈辱的な国際資本への依存 ― 中国にとって屈辱的である ― と日本プロレタリアートの今日のおり方も、一つの対をなす現象として捉えることができるだろう。それは、ベトナムのみならず、フィリピンの解放闘争と朝鮮南部の労働者農民の闘いにも重圧としてのしかかっている。

Ⅱ 過渡期労働者国家における反革命的テルミドールとしてのスターリニズム

ロシア十月革命国家の官僚的堕落

 一九三〇年代以来の堕落した労働者国家としてのソ連邦の政治権力は、スターリニスト共産党のもとで位階的に編成・構成・組織された特権的官僚層によって独占されてきた。第二次世界戦争後、ソ連邦軍隊の力を背景として東欧諸国にもちこまれたのも国家権力のそのようなあり方だった。
 十月革命の国家は、当初、ロシア・プロレタリアートの革命的前衛としてのボリシェビキ党を媒介としたプロレタリア独裁として樹立された。だが、それは政治的に退化・「堕落」・テルミドール化し、まさに党・国家・経済官僚層によって簒奪・占有・独占された。内部的に独自の位階制的編成・組織構造をもつ官僚層が、ソ連邦の社会全体にたいして独自の専制支配を確立した。そのような専制支配体制が一九二〇年代末から一九三〇年代前半にかけて決定的に実現され、それを補完的に完成したのがスターリンの大粛正とうちつづくモスクワ裁判であった。
 それは、ロシア・プロレタリア革命国家の全面的な官僚的ボナパルチズム化であった。ソ連邦の国家は、社会からの官僚的独自化と社会にたいする専制支配を全面化した。それが経済的土台・生産関係において依拠したのは、工業生産手段ならびにその他の基幹的経済手段(信用、流通、運輸・通信の諸手段や外国貿易など)の国家による占有 ― 国家所有 ― であった。このような経済的基盤なしには、十月革命の国家の官僚的ボナパルチズム化ではなく、公然たるブルジョア反革命以外にありえなかっただろう。
 それは、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて形成された旧帝国主義体制の危機を歴史的基盤とするヨーロッパとアジアのプロレタリア革命の過渡期において、その全面的・歴史的流産のなかでロシアにおける過渡期国家の政治的退化・堕落・テルミドール化として生起しえた。
 このソビエト・テルミドールを単純に自然的過程として見ることはできない。スターリニスト・テルミドールは、独自の社会階層的支柱を必要としたし、社会全体から分離した特権官僚層を積極的に形成し、それを体制化して防衛していった。それは、所与の国際的・国内的諸条件のもとで様々な政治的闘争をとおして実現されたのであり、ソビエト・テルミドール官僚の側からする一つの主体的な政治的過程であった。

官僚専制権力とスターリニスト共産党

 このソビエト・テルミドール官僚専制権力の中軸をなすのが、それ自体において内部的位階制にもとづいて編成・構成・組織されたスターリニスト共産党である。この組織 ― スターリニスト共産党 ― がソビエト・テルミドール官僚のいわば主体的な政治権力組織である。
 スターリニスト共産党とその位階制寡頭支配構造によって、ソビエト・テルミドール官僚専制権力とその全構造の統一性・統合性が維持されてきた。工業生産手段とその他の基幹的経済手段の国家所有・直接支配に基づいて官僚的中央集権国有計画経済体制を編成・組織している政治権力的中軸がここにあり、同時にその経済的基礎のうえで全社会にたいする国家の官僚専制支配を実現している政治組織的中軸がここにある。
 その二つの例として、「ノーメンクラトゥーラ」制度と軍事・外交・公安警察のあリ方をあげることができる。
 ノーメンクラトゥーラとは、党による特権官僚層の「役職任命表」であり、党政治局を頂点とする各級の党機関が保持する「役職任命の権限」の体系である。その権限は、主要に党政治局と各地方ならびに各共和国レペルの党機関に集中している。この役職任命の体系によって、全官僚体制における党政治局を頂点とする内部的位階制が実現されてきた。この制度によって党政治局が党の各級機関を位階的に統制し、党政治局のもとにそのように編成されたスターリニスト党の構造が、同じくこの制度にもとづいて国家官僚全体を統制してきた。
 ソ連邦において、軍事・外交・情報公安警察は党政治局の直轄事項である。ソ連邦の国家行組織として国防省、外務省、国家公安委員会(KGB/国境警備軍も管轄している)、内務省があるが、いわゆる政府(閣僚会議、内閣)なるものは、これらの問題を取り扱わず、経済の行政的組織化とその他の教育・社会サービスに基本的に専念しているという。軍事・外交・情報公安警察は党政治局によって直接に掌握されており、この点で政治局が政府なのである。
 また市場メカニズムを基本的に廃止した官僚的中央指令計画経済制度は、スターリニスト官僚支配の党政治局を頂点とする位階制的構造と一体のものとしてある。スターリニス党を基軸とする官僚層の位階制的構造が経済を文字どおり独裁し、全経済を行政的に運営し、経営してきた。経済の分野においても、党政治局が基本的に政府としての位置を保持している。党政治局が、書記局と中央委員会「書記官」の集団をつうじて、経済政策の基本骨格を決定し、経済行政の政治的調整に当たる。こうして、ソ連邦における経済構造とそのメカニズムのいかなる重大な改革も、スターリニスト共産党を中心とする政治権力の構造的なあり方の再編成を必然的にともない、後者とセットとしてしかありえない。

スターリニスト計画経済制度

 過渡期労働者国家ソ連邦の官僚的テルミドール国家は、経済行政・管理機構と全面的に一体化・複合しているところに重要な特徴をもっている。特権官僚の政治権力が直接に経済を掌握し、国家の行政として経済が組織され、運営されている。
 国家と経済の融合の趨勢は、ある程度まで過渡期労働者国家の一般的な性格といえるかもしれない。基幹的な生産手段・経済諸手段の資本主義的私的所有制の廃止とそれらの国有化によって、私的所有制にもとづくブルジョア的・資本主義的な“国家と市民社会の分離”が崩壊するという意味で。とはいえ、現在の資本主義のもとでは国家と経済の癒着ははなはだ高度に進展しているが。
 だが、ソ連邦のスターリニスト国家体制のもでは、経済管理・組織の機能が過大に取り込まれ・複合化されているといえるだろう ― 資本主義企業組織の重要な部分と市場のメカニズムを過大に代位する側面において。ソ連邦においては、経済は官僚の政治権力によって直接に掌握され、基本的に国家行政として組織され、運営されている。
 経済計画の立案・編成機構とその計画にもとづく経済全体の組織・執行・管理の機構のきわめて多層的な構造 ― 分門別の政府経済担当省の経済行政・管理のテクノクラート官僚制と企業現場における経営管理者層のシステム ― が、一元的中央集権原理にもとづく位階制的組織構造として形成されている。これは、経済の現実の構造・機能・活動と相当程度まで一対一的に対応する経済官僚制・企業管理者層の体系として存在している。そこでは、商品市場の基本的メカニズムに官僚的に代位する側面がかなりの程度まで重要な比重をしめているようである。この経済官僚制と企業経営者層の体系が、独裁的政治権力組織としてのスターリニスト共産党によって組織され、掌握されてきた。
 官僚制国家が独占的に掌握する国有「計画経済」の内部において、市場とそのメカニズムは排除されており、純然たる官僚的行政指令・管理の体系として経済の計画・運営がおこなわれる。この経済行政・管理・運営のあり方は軍隊組織と非常によく似ている。この体系において、いねば参謀部・指令部の位置をしめるのが特定部門の現場企業を統括する政府の各経済担当省であり、各企業や企業合同は、軍隊における直接的戦闘部隊やその集合、あるいはその他の特定任務の遂行を課された個別部隊やその集合のようなものである。
 部門別の経済担当省がゴスプラン(国家計画委員会)のもとに結集し、それぞれ配下の各企業・企業合同に「諮問」しつつ、国家の年次経済計画を作成する。毎年の投資についての決定は、まさに国家としてこの段階においてなされる。この年次経済計画が、いわば市場に代わって、国民経済総体とその各部門の複合的バランス・均衡を確保するはずになっている。各経済担当省は、この年次経済計画を国家行政として執行・実施する直接的主体となり、それぞれ配下の企業と企業合同の現場的生産活動・経済活動を指揮・監督する。各企業と企業合同は、直属の経済担当省によって与えられた原材料・その他の投入資源をもって、与えられた生産目標・経済活動目標の達成しなければならない。企業と企業合同の側には主体的な経済的位置はほとんどなく、それらは指令部から各種の補給をうけて特定任務の遂行に当たる個別部隊にすぎないのである。
 全体としての年次経済計画の実現に責任をもち、その国家的執行にあたるのは、閣僚会議(ソ連邦政府)と各経済担当省である。経済活動の主体はまさしく官僚的政治権力であり、官僚制国家が全国民経済済を全面的に独裁してきた。

スターリニスト計画経済モデルの諸特徴

① ソ連邦の官僚的経済計画は基本的に物財・物量レベル(物財バランス)でおこなわれており、市場とそれにもとづく価値基準は基本的要素として利用されていない。したがって、ソ連邦経済における価格は非常に“人為的”であり、“恣意的”である。
 通貨計算と価格は、国有計画経済内部において、企業にたいする財務的管理の手段としてきわめて部分的に利用されているだけである。また通貨・価格・市場は、労働者にたいする賃金支払いと大衆消費財の流通部門において、さらにソフホーズ・コールポーズにおける個人農業部門と流通部門との関係できわめて限定的に利用されてきたにすぎない。
 過渡期経済における意識的経済計画と市場・価格の相互関係、そして労働者民主主義に関するトロツキーの主張については、1989年春に『世界革命』紙上で連載した私のノートを参照していただきたい。
② スターリニスト計画経済モデルには、以上のような性格 ― 市場・価値法則の官僚的圧殺にもとづく物財バランス方式 ― と結びついて、生産財・軍事部門のために消費財部門が全面的に犠牲にされる構造的メカニズムがあった。
 スターリニスト計画経済モデルは、孤立して堕落した労働者国家が帝国主義との戦争の脅威に直面するなかで形成されたものであり、官僚的戦時準備経済計画方式という性格をもっていた。戦後世界におけるアメリカ帝国主義との対抗関係のもとで、スターリニスト計画経済モデルのこのような性格は基本的に変わらなかった。
③ スターリニスト計画経済システムは、その固有の性格として一国志向的・一国閉鎖的である。
 その経済計画の編成および執行の構造からして、スターリニスト計画経済モデルは一国的に自己完結・自己閉鎖しようとする性格をもっている。東欧各国において移植されたのも、その内在的性格として一国社会主義的な官僚的国有計画経済であった。
 ソ連邦・東欧圏において、統一的な国際市場は形成されず、コメコン諸国間の国際貿易は基本的に物対物のバータ取引による「計画貿易」・「契約貿易」としてなされた。また、コメコンはソ連邦を中心軸にして「放射状」構造として形成され、ソ連邦以外のコメコン諸国間の相互的貿易関係は強力に発展しなかった。こうして、コメコン体制を構成する各国ごとに閉鎖的な独特な性格とその限界づけられた性格を保持せざるをえなかった。
④ スターリニスト計画経済システムは、伝統的農業を官僚の暴力によって解体し、官僚的に統制・支配された「集団農業」方式をつくりだした。その結果は、農業部門における自主的生産意欲の全面的な圧殺であった。その補いとして、「集団農業」の維持のため、スターリニスト官僚体制はその当初から個人農業にたいしていねば補完的に妥協しなければならなかった。

戦後ソ連邦におけるスターリニスト計画経済モデルの相対的成功とその限界

 以上の諸特徴からして、スターリニスト計画経済モデルそれ白身がソビエト・テルミドールを体現していたということができる。戦後、この計画経済システムが東欧諸国にもちこまれたが、これら諸国ではほとんど成功しえなかったし、その上につくられたコメコンも生命力ある地域的国際経済体制として発展しえなかった。だが、東欧諸国と異なって、戦後ソ連邦ではスターリニスト計画経済モデルは制度として確立し、一定の歴史的有効性を示した。それは、ブレジネフ期においていわば爛熟していったといえる。
 ソ連邦の経済は、一九三〇年代から戦争をはさんで一九六〇一七〇年代にかけて持続的な経済成長を実現した。この発展の基本的性格は、資源投入の拡大にもとづく「タト延」的なものであった。スターリニスト計画経済モデルは、重要な特徴の一つとして、経済拡大発展の外延性を内包していたのである。ソ連邦の経済発展は、基本的に、資本主義から取得できる技術とソ連邦内における技術開発の度合い、新しい労働力の動員の可能性、ソ連邦の自然資源、そして集中的投資の四つにもとづいていたといえる。
 この点について、ゴルバチョフ派の経済学者アガンベギャンは次のように述べている。
 「生産に労働力、燃料と原料、投資とファンド(生産設備)を注ぎこめば、(経済が)発展するのは当然であった。(一九五六~七五年の各五ヶ年計画において)固定生産ファンド(設備)と投資は一・五倍増大し、燃料と原料の採取は二五~三〇%で増大し、……一千万~一千百万人が(新しい労働力として増大し)、そのほとんどが生産諸部門に組み入れられた。」この時期の最後の第九次五ヶ年計画期(七一~七五年)では、「経済発展の四分の三が外延的性格をもっていた」(経済成長の四分の三が資源の増大によって実現され、四分の一が効率の向上によって実現された)と(『ソ連経済のペレイストロイカ』サイマル出版会)。
 一九五〇年代から六〇年代前半にかけた労働力の年平均増加率は四・三~四・五%であり、六〇年代後半以降それは明白に下降にむかい、八○年代前半にはほぼ一%にまで低下した(表1 「一九五一~八五年の各五ヶ年計画の実績」)。ソ連邦のヨーロッパ系諸民族のあいだでは出生率が低下し、ロシア、ウクライナ、白ロシア、バルト海沿岸各共和国では一九八〇年代に就労可能人口は増大せず、逆に減少するところもあり、高い人口増がつづくのは中央アジアとアゼルバイジャンだけである(アガンベギャン、同上書)。
 燃料と原料の採取面では、旧来の「燃料および原料基地はもはや需要を充足することができず、多くの基地で採取量が減少している。したがって、北方および東部の諸地区で新規鉱床を開発し(なければならないが)、……その結果、燃料と原料の原価が高くなる。」燃料と原料の採取の伸びは八〇年代に三分の一に減少した(同上書、表1「一九五一~八五年の各五ヶ年計画の実績」)。
 投資の伸びも低下した。各五ヶ年計画期ごとの総投資の増加率は、七〇年代前半で四一%、その後半に二九%になり、八〇年代前半は一七%だった(表1「一九五一~八五年の各五ヶ年計画の実績」)。
 戦後ソ連邦においてスターリニスト計画経済モデルによる経済成長を支えてきた基本的諸条件は、七〇年代をつうじ使いつくされ、枯渇していった。こうして、経済発展のあり方の転換という課題が提起された。この転換は二重の意味で提起されていただろう。一方では、既存の生産設備の能率の向上と労働生産性の上昇、そして経済全体の効率の引上げがきわめて重要な課題になってきた。他方、勤労大衆の消費財・社会的サービス需要に全面的に対応する経済構造の実現という課題である。
 だが、単位生産設備当りの産出高は「激減」し、その利用効率は低下していった。同時に、帝国主義国際経済との新たな技術格差が深刻な問題になっていった。生活水準の伸びが停滞し、「止まる」という状況のもとで、労働者の側からする生産への意欲は問題にもならなかった。また、消費財・社会的サービスの拡充に対応する経済構造の実現は、スターリニスト計画経済方式そのものと対立していた。
 こうして、アガンペギャンによれば、七〇年代にはいるとともに「(旧来の)経済運営管理の体系は完全に(経済)発展を妨げるメカニズムヘと変わった。……(経済の)発展テンポが下降しはじめ、効率指標が悪化し、製品の質への関心が低下した……。」「その結果、一九七〇年代末から一九八〇年代初めには、危機前的状況が発生した。経済の停滞が発生し、生活水準の伸びが止まった。」「生産施設の稼動開始は激減し、社会的生産の効率のすべての指標……が悪化した。……労働生産性は事実上向上せず、投資効率は低下し、ファンド(生産設備)の……効率の低落が深まった。」総投資にしめる住宅建設投資の割合は一九六〇年に二三%だったが、八〇年代には一四~一五%に低下し、教育費の国民所得にしめる割合も低下した。保健も放置され、「一部の国民の健康が損なわれ、……平均寿命の伸長が止まり、……活動期年齢の男性の死亡率が上がった。」(同上書)
 こうして、「このままでは発展はなく、根本的な急転換、改革が不可欠なことが明らかだった。」(同上書)その結果、ブレジネフの死とともに、官僚体制の頂点からする変化と改革の努力の時期がはじまった。

Ⅲ 戦後ソ連邦とブレジネフ期 ― スターリニズムの熟成と終焉

絶頂期のブレジネフ時代

 スターリンのもとで一九三〇年代につくられたソ連邦国家・経済体制は、過渡期労働者国家ソ連邦における一つの歴史的時代を画す国家・経済体制として形成された。それは、第二次世界戦争におけるナチス・ドイツ帝国主義にたいする軍事的勝利のうえで、ソ連邦・東欧諸国体制として地理的に拡大し、戦後ソ連邦それ自体において本格的・全面的展開をとげた。それは、また東アジアにおける戦後労働者国家(中国、北朝鮮、北ベトナム)の基本モデルとなった。
 国家と経済の官僚的スターリニスト・モデルは、一九三〇年代に原型的に確立され、ソ連邦では六〇年代から七〇年代にかけて絶頂期をむかえ、ブレジネフ体制のもとで全面的に爛熟していった。
 
この点について、カガルツキーは次のように述べている。
 「ブレジオネフ時代のもっとも重要な特徴は、当時の指導部が官僚機構内部の各派のあいだに安定的な妥協の関係を成立させ、同時に国民の生活水準の向上を実現できたことである。それぞれの社会的諸集団が他の集団の利益を損なうことなく自らのパイの分け前を大きくするためには、大幅かつ一貫した経済成長が実現されねばならなかったが、ブレジネフ指導部はある程度までこれに成功した。一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけて、労働者の所得は急速に増大し、その生活様式にも変化が生じた。個人所有の乗用車数が急増し、ほぼすべての所帯がテレビと冷蔵庫をもつようになり、複数の所帯で台所を共有する“共同住宅”から普通のモダンな住宅への住み替えが何百万という規模で進行した。建物の質が向上し、居住空間も全体として拡大した。物価値上げに抗議する労働者の弾圧のためにフルシチョフ指導部が軍隊を派遣しなければならなかった一九六二年のノヴォチェルカスク事件に比肩するような大規模なストライキや騒乱が、事実上、一度も発生しなかったことは、ブレジネフ時代の一つの特徴である。」
 「こうした社会的成功のすべてと並行して、軍隊と政府機構の急速な肥大化が進行した。米国とのあいだに軍事的・戦略的均衡が成立し、世界、とりわけ開発途上諸国に対するソ連の影響が急速に拡大した。ブレジネフ時代の末にかけて形成された俗説とは逆に、一九七〇年代はソビエト史において最も繁栄し、最も成功した時代だったのである。そのために、どのような手段が使われ、どれだけの代償が支払われたかは、また別の問題であるが…・。」(ポリス・カガルツキー『モスクワ人民戦線』柘植書房、一八~一九頁)
 戦後ソ連邦は、ナチス・ドイツ帝国主義との戦争による打撃から回復して、五〇年代のフルシチョフの時期から七〇年代にかけて長期にわたる経済成長を実現した。テルミドール官僚専制国家体制と官僚的中央指令計画経済制度は一体のものとしてあり、国家と経済のスターリニスト・モデルのもとで実現された経済成長の持続はソ連邦の全体制にとってきわめて重要な意味をもった。
 ソ連邦経済は、一九三〇年代に形成された官僚的集権計画経済制度下のもとで、一九五〇年代から七〇年代前半にかけて拡大成長を持続した。公式統計によれば、この期間全体の平均で年間七%余の成長率であり(各五ヶ年計画期の実績については表1 参照)、アメリカの学者の推計によれば、それぞれ五〇年代六%、六〇年代五・一%、七〇年代前半三・七%の成長率だった(グレゴリー、スチュアート『ソ連経済―構造と展望』教育社。アメリカCIAの推計は表2 のとおりである)。
 スターリニスト計画経済制度には固有の矛盾と困難がはらまれていたが、戦後における持続的経済成長を基盤にして、ソ連邦はアメリカ帝国主義と対抗する巨大な軍事力の形成・更新をおしすすめ、また絶対的に低いところから出発したとはいえ、その大衆の生活水準の継続的上昇が実現された。ソ連邦における公共消費をふくむ一人当り消費は、一九五〇~六九年の期間、年平均四・五%の率で拡大したが、同時期のアメリカの年平均拡大率は二・三%だった(同上『ソ連経済―構造と展望』)。
 これは、ソ連邦官僚体制の国内大衆にたいする支配を維持するうえできわめて重要な意味をもった。
 ソ連邦において、一九一七年の十月革命をになった労働者階級の直接的連続性は二〇年代末から三〇年代にかけてほぼ断絶させられてしまった。そのうえで、戦後ソ連邦の現在にいたる労働者階級は、スターリニスト体制下における三〇年代以来の工業建設をつうじて形成された新しい社会経済的階級であり、その間にナチス・ドイツ帝国主義との戦争があり、全国家的規模でいまだ独自に自己を表現したことのない階級だった。「労働者のきわめて多くの部分が農村から出てきた人たちだった……‥。七〇年代末になると、都市住民子弟の比率が増大するようにはなったが……‥。労働者たちは、労働法規や自己の公的権利についてほとんど何も知らなかった。このような“ネオ・プロレタリアート”の大多数の技能水準はきわめて低いままであり、彼らには社会的知識や経験が不足していた。」(カガルツキー、前掲書、六八頁)
 他方、ソ連邦「赤軍」の力を背景として移植された官僚的計画経済制度は東欧諸国においてうまい具合に機能しなかったし、東欧諸国の官僚支配体制は相対的安定を実現しえなかった。ハンガリー、ポーランド、そしてチェコスロバキアでは、スターリニスト官僚体制の重大な政治・経済的動揺と危機をつうじて労働者階級の闘争が全国的に発展した。だが戦後ソ連邦では、官僚専制国家体制と一体となったスターリニスト計画経済制度のもとで相対的に安定した経済成長が長期にわたって実現され、労働者大衆の生活条件が緩やかながら改善されていった。戦後ソ連邦の労働者が独自の階級としていまだ政治的に未定形であるという条件のもとで、その物質的生活条件の持続的な改善はスターリニスト官僚独裁の「相対的安定」にとってきわめて重要な要因であっただろう。
 こうして実現されたソ連邦官僚体制の政治的・軍事的力量によって、戦後世界の枠組のもとでスターリニスト東欧官僚体制がまさに強権的に維持されてきた。

テルミドールの社会的根源と戦後ソ連邦

 トロツキーは、一九三六年に執筆した『裏切られた革命』において次のように問題を提出している。
 「大衆のソビエトが強制の機能をスターリン……一派に引き渡し、舞台から完全に消え去った……。……‥われわれは次のように自問しなければならない。国家のこの頑強な繁殖力の背後、とくにその警察化の背後には、どのような社会的原因があるのか、と。」(第5章の「三、テルミドールの社会的根源」)
 トロツキーは、これに対して次のように答えている。
 「現在のソビエト社会は、国家なしにやってゆけないし、ある限界内では官僚なしでもやってゆけない。……‥強制の機関としてのソビエト国家の存在を正当化するのは、現在の過渡的構造がなお社会的矛盾にみちており、消費の領域 ― すべてのものがもっとも密接かつ敏感に感ずるところ ― において極度の緊張があり、たえず生産の領域に押し入る恐れがあるという事実にある。……‥官僚支配の基礎は、消費対象の社会的欠乏にあり、それはすべてのものが互いに争う事態をもたらしている。……‥品物が少ないとき、……‥行列が非常に長いとき、秩序をたもつために警官を任命する必要がある。かくのごときが、ソビエト官僚の権力の出発点である。現在の生産の状態は、すべての人々にあらゆる必需品を保証することからなお遠い。だが、少数者に重要な特権をあたえ、不平等を多数者に拍車をかけるための鞭にするにはすでに十分である。これこそ、生産の増大がこれまで社会主義を強化せず、国家のブルジョア的特権を強化した第一の理由である」と(同上)。
 戦争直後から五〇年代初めにかけたソ連邦の経済的現実は、三〇年代中頃になされた以上のような指摘をあまり越えていなかった。戦後ソ連邦のこのような経済的出発のうえで、労働者大衆の生活条件は五〇年代から七〇年代にかけて漸次的かつ持続的に改善されていった。
 公式統計によれば、労働者の賃金は、一九四〇年を一〇〇として五〇年一九四、六〇年二四三、七〇年三六八と緩慢ながらも上昇をつづけ、また工業ならびに国家行政部門の賃金とコールポーズにおける給与の格差も縮小していった(表3)。労働者内部における賃金格差の持ち込みは、三〇年代におけるスターリンの超強行的工業化政策の重要な特徴をなしていた。だが、この賃金格差も三〇年代~五〇年代の四・一倍~八・一倍から一九五六~七六年の間に二・一倍に制限され、同期間に最低賃金が2倍以上に引き上げられ、低賃金労働者の割合が減少し、全体として労働者内部における賃金の平準化が進行したという(前掲『ソ連邦経済―構造と展望』)。経済部門によって違いがあるが、基本給と出来高払いの割合の点でも、一九五六年以降、後者の割合がある程度減少したという(同上書)。また、ブレジネフ期をつうじて、労働者自身の側においてもみずから賃金を平準化しようとする傾向が発展し、ゴルバチョフ派はこの傾向を「不当な均等主義」として非難し、その経済改革は新たな競争的賃金体系の導入を重要な課題の一つにしている。
 労働者の所得にしめる食料支出の割合の相対的低下と大衆の食生活の改善がみられ、澱粉食品から蛋白質食品への移行が進行してきてた。この過程は、食肉・牛乳・卵の生産の増大なしにはありえなかった。フルシチョフ期以降、農業生産物の国家買上げ価格の引上げによってソフホーズ・コールホーズ農民の所得の改善がはかられ、さらに畜産業の拡大とそのための飼料生産の増大ならびに飼料の確保が意識的にすすめられてきた。一九六〇年以降、食肉生産においてソフホーズ・コールホーズ部門が個人セクターを陵駕した。その結果、ソ連邦の年間総投資にしめる農業ならびに同関連部門への投資の割合は増大した。スターリン時代において、農業は超強行的工業建設に全面的に従属させられ、多大の犠牲を強制されたが、とくにブレジネフ期において農業生産の拡大は重要な政策課題になり、工業と農業の関係に重要な変化が見られ、工業が農業を支援するという新しい要素が発展しはじめた。一九七九年以降、ソ連邦の穀物輸入が急増し、さらに国家財政赤字が増大していったが、その背景にあるのは畜産業の拡大と旧価格によって蛋白質食品の供給を拡大するという政策であった。
 とくにブレジネフ期において顕著にみられた工業と農業の関係の変化は、毎年の総投資額のうち工業部門によって調達される部分の割合の増大という事実をともなっていたし、このことは、フルシチョフ期からブレジネフ期にかけてソ連邦経済が工業部門を根幹にする構造に全面的に転換したことを意味していた。
 トロツキーが一九三六年に『裏切られた革命』において指摘したソ連邦の経済状況は、フルシチョフ―ブレジネフ期をつうじて基本的に克服され、その経済は新しい発展段階に入ったのである。労働者の絶対的窮乏の状況は漸次的に克服されていったし、またソフホーズ・コールホーズ農民の経済状態も大幅に改善された。こうして、『裏切られた革命』において指摘されていたソビエト・テルミドールの「社会的根源」 ― スターリニスト官僚の専制的独裁支配の社会的基盤 ― は、まさにブレジネフ期をつうじて基本的に克服されたということができるだろう。
 この意味においても、ブレジネフ期は国家と経済のスターリニスト・モデルの熟成期であったいえるだろう。ゴルバチョフ体制のもとで労働者大衆と各少数民族の大衆の独自的登場が全面化していったが、その背後にあるのは絶対的な社会経済的窮乏ではない。ソ連邦において人々が要求しているのは、社会経済生活の新たの質的改善であり、自由の全面的な実現である。

ソ連邦におけるスターリニズムの終焉

 ソ連邦において、一九三〇年代に形成された国家のあり方としてのスターリニズムは終焉の局面に入っているというべきだろう。
 官僚体制の頂点による投資・価格・賃金の決定にもとづき、最末端の企業に生産その他の経済活動を行政命令として割り当てる指令の体系としてのスターリニスト計画経済モデルは、その破綻を完全に明らかにしている。スターリニスト経済計画方式にもとづくゴルバチョフ体制最初の第十二次五ヶ年計画は完全に破綻し、放棄され、「計画経済」全体が全般的混迷のなかになげこまれてしまった。スターリニスト計画経済方式からの何らかの転換は、もはや絶対的に不可避かつ切迫した課題になっている。
 スターリニスト党の頂点からする官僚層と社会全体に対する全一的な統制と掌握という党を基軸とする政治支配体制も、ブ`レジネフ期末にむけて明らかに弛緩しつつあった。
 それは、一方において、官僚層内部における個別グループの利害集団化や各地方・共和国の党官僚体制の「マフィア化」として顕著に進行し、官僚秩序の弛緩とともに汚職・腐敗が拡大していった。ブレジネフ体制は官僚の各部分による一種の「相互コンセンサス」体制になっていった。
 また工場労働者のあいだでは、各企業内における賃金の平準化を中心にして集団的独自化の傾向がいわば予備的に発展し、労働者に対する党および企業の個別支配の状況は消滅しつつあった。労働者は工場内における独自の集団的抵抗能力をいわば原初的に獲得しつつあった。このような労働者と官僚体制の末端としての企業経営管理部との間にいわゆる「なれあい」的関係 ― 非常に原初的な一種の相互契約関係 ― が形成されていった。労働者の徹底的な個別的分断と労働者に対するテルミドール恐怖支配は、ブレジネフ期をつうじて最後的な終焉をむかえていたといえるだろう。
 こうして、今日の時点から振り返ってみるとき、ブレジネフ期をつうじたスターリニズムの“熟成”過程において、党を基軸とする官僚的中央集権ならびに専制的政治支配の体制の分解と無力化が官僚層の内部と労働者大衆のおり方という点で予備的に進行していたといえるだろう。ソ連邦を構成する各少数民族の間における民族的意識の新たな発展も、この時期をつうじて進行したといえるだろう。
 このような状況のもとで、ブレジネフの後を継いだのが、ブレジネフ期においてKGBの再建に当たってきたアンドロポフであった。アンドロポフは官僚体制の引締めと秩序の確立、そして労働者に対する統制と労働規律の強化にのりだし、こうしてブレジネフ期の「停滞」を克服しようとする官僚体制の頂点からする努力の時期がはじまった。チェルネンコの後を継いで登場したゴルバチョフは、この点でアンドロポフの直接の継承者であった。ゴルバチョフの第十二次五ヶ年計画(一九八五~九〇年)は、官僚層に対する中央統制と労働規律の強化を一方のテコとして策定されていた。
 だが、この五ヶ年計画は一九八七~八八年に完全に破綻し、ゴルバチョフ体制の危機がはじまるとともに、各少数民族の民族的運動、大ロシア・東部ウクライナにおける様々な都市大衆運動、そして労働者の独自的大衆運動がソ連邦全体において急速に拡大発展していったし、同時に官僚層内部の様々な傾向が自己表現をはじめた。
 この春に実施された各共和国と各都市における選挙において様々な自主的・独立的傾向が全面的に進出し、党公認の官僚勢力は大幅な後退を余儀なくされた。リトアニアをはじめとして、バルト海沿岸三国の各共和国最高会議はソ連邦からの分離独立を公然と主張し、ウクライナではゴルバチョフ体制のもとでつづいてきた旧来の保守的党独裁体制が破綻し、ロシア共和国最高会議はゴルバチョフと対立するエイリツィンをその議長に選出した。カフカスから中央アジアにいたる各共和国もそれぞれ独自性を強めている。
 スターリニスト党を基軸とする全一的掌握と専制支配の体制は全戦線的に打ち破られ、官僚のもとで抑圧されていたソ連邦の社会がいねば自己を直接に表現しはじめた。ゴルバチョフのもとで進められてきた頂点からの体制の自由化は、ゴルバチョフ体制のもとにおける新たな政治的集中をつくりだすのではなく、社会が様々なかたちで自己を表現しようとする過程を促進する役割しかはたさなかった。
 また、ソ連邦の各少数民族と都市ならびに労働現場における広範な大衆の独自的自己表現は、少なくとも昨年以来、官僚的経済計画を攬乱する重大な要因に転化した。
 こうして、とりわけ一九八七一八八年以降、ゴルバチョフ体制のもとで進行してきた過程は、国家と経済の歴史的あり方としてのスターリニズムがソ連邦そのものにおいても最後的な終焉過程になげこまれたことを意味している。
 トロツキーが『裏切られた革命』で指摘している“ソビエト・テルミドールの社会的根源 ― スターリニスト官僚の専制的独裁支配の社会的基盤”はブレジネフ期をつうじて基本的に消滅し、ブレジネフ体制のもとで党支配の重大な麻痺的様相さへ発展しはじめていた。国家のあり方としてのスターリニズムは、ソ連邦そのものにおいても歴史的終焉のときを迎えていたといわねばならない。
 だが、ソ連邦において、東欧諸国で見られたような情勢展開の単純な繰り返しはないだろう。東欧諸国において急速に瓦解していった旧スターリニスト官僚体制と比較して、ソ連邦の国家・経済官僚体制はスターリニズムとして自己の“主体的な歴史”をもっており、相対的に強力であり、またソ連邦におけるプロレタリアートの潜在的力もはるかに強力であるだろう。ソ連邦各共和国のプロレタリアートは政治的に未経験ではあるが、全体として新鮮な階級である。
ソ連邦情勢の新段階

 八五年に出発したゴルバチョフ体制は、アンドロポフ路線の継承者として、国家と経済のスターリニスト構造を基本的な枠組として成立した。だが八七-八八年をもって、いわばスターリニズム終焉の情勢が政治的ならびに経済的に急速に発展し、ゴルバチョフ体制は危機と試行錯誤と政策的麻痛の状況に投げこまれた。さらに八九~九〇年をもって、スターリニズム終焉の情勢が全面化し、八五~八九年の旧ゴルバチョフ体制の時期が終わり、ソ連邦情勢はまったく新しい段階にはいった。
 スターリニスト党支配体制の分解と経済的困難が深まりゆくなかで、この三月、ゴルバチョフ体制は“権威主義”的大統領制へ移行した。
 第四インターナショナル統一書記局の「ソ連邦の改革と政治革命」(世界大会議案)は、「急進的改革派、官僚機構の一掃を望む大衆、そして保守的層の間で一定の潮流または個人が“ボナパルチスト”的役割をはたしうるかもしれない。これが、現在、ゴルバチョフがはたそうとしている役割である」として、危機の情勢下における新たなボナパルチスト政治体制の可能性について指摘していた(『世界革命』一九九〇年一月一日号)。
 ゴルバチョフ体制の“権威主義”的大統領制への移行は、一九三〇年代以来の党支配体制の危機の中で、スターリニスト党にかわって国家行政機構を官僚支配再編成の基軸にしようとする新たな企図であるだろう。それは、官僚勢力の結集を直接に国家行政機構を基軸にはかろうとするものである。この意味で、ゴルバチョフ体制は、一九八五年からの局面をこえて、新しい段階、いわば“新”ゴルバチョフ体制になったというべきだろう。
 このことは、七月に開かれたソ連邦共産党大会によって、いわば“党”の側からも確認された。
 一九八九年全体をつうじた東欧諸国スターリニスト体制の崩壊のうえで、ゴルバチョフ体制はアメリカならびに西ヨーロッパ諸国政府・ブルジョアジーと新たな「相互了解」の関係を取り付けている。アメリカ帝国主義と西ヨーロッパ諸国帝国主義は、その独自の利害にもとづいて「ゴルバチョフ改革」を戦術的に支持している。
 ゴルバチョフの「ベレイストロイカ」は、その国際関係上の枠組を形成するという点で、アメリカ帝国主義と西ヨーロッパ諸国帝国主義と一定の「相互了解」を取り付けることによって、もっとも明白な「成功」をおさめているといえるだろう。この国際関係上の枠組 ― 相互もたれ合い的側面をともなう新平和共存体制 ― は、新ゴルバチョフ体制を支える重要な要因 ― その国内政策上の重要な政治的手段 ― になっている。
 スターリニスト官僚党の絶対的中央集権体制の崩壊とともに、スターリニスト的ソ連邦国家の官僚的超中央主権体制の急速な瓦解が進行している。スターリニスト党の“廃位”と大統領職への政治権力中枢の移行というかたちでソ連邦国家体制の重大な再編成が見られたが、全連邦体制と各共和国ならびに様々な少数民族との関係のあり方という点でも旧来のスターリニスト的ソ連邦国家体制の解体・再編成が不可避の課題になっている。
 ゴルバチョフ体制は、全連邦体制と各共和国の旧来の関係の改革と新たな再編成を公式の政策課題としている。その基本的立場は、新しい条件のもとで官僚層を結集する全連邦的国家構造を防衛するというところにあるだろう。それは、独自の民族的運動を開始したすべての少数民族にたいしてソ連邦官僚国家権力として対決し、公然たる分離主義の傾向にたいして官僚的に統制しようとする方向である。この春以来のリトアニア共和国にたいする対決と官僚的経済抑圧は、少数民族全体にたいするソ連邦官僚機構の対決としてなされてきた。この点においても、新ゴルバチョフ体制は全体としての官僚機構の政府なのであり、いわゆる「保守派官僚」をも意識的にその基盤にしている。
 第十二次五ヶ年計画とスターリニスト的「経済発展加速化」路線は一九八七~八九年の時点で破産し、経済的困難・矛盾がますます深まるなかで、スターリニスト計画経済方式からの何らかの転換はもはや絶対的に不可避かつ切迫した課題になっていた。こうして新ゴルバチョフ体制は、市場メカニズムの導入を中心とするきわて大規模かつ一定の体系性をもった「経済改革」プランの策定にむかった。これは、経済の建設と運営におけるスターリニズムの終焉という状況を反映しているが、同時に、ゴルバチョフ体制の出発にさいして採用された「経済発展加速化」戦略がそうであったように、追いつめられた官僚体制が余儀なくされたあと一つの経済的ギャンブルという側面をもっているだろう。
 これは、旧来の価格体系の全面的改革 ― その根幹は消費物資・サービス価格の大幅引上げである ― を企図し、各企業における労働者集団の原初的な平等主義的団結を解体しようとするものであり、工場労働者大衆および都市大衆からするきわめて大規模な大衆的反対と抵抗に直面するだろう。この経済改革は、すでに部分的に始まっているように各共和国間ならびにロシア共和国内における各地域の経済的矛盾や対立を新たにつくりだし、ソ連邦の民族問題をさらに激化してゆくだろう。
 またゴルバチョフ体制のソ連邦としては、この市場主義的経済改革をやりとげることなしに、資本主義世界市場への積極的参入をはたしえないだろう。
 新ゴルバチョフ体制は、アメリカ・西ヨーロッパ帝国主義との新たな国際関係の枠組を重要な政治的武器としつつ、ソ連邦の各少数民族の運動と対決した官僚的ソ連邦体制の再編、そしてエ場労働者ならびに都市大衆述接的な利益と衝突する新たな市場主義的改革の実現を基本的な課題にしているし、その成否にかけられているだろう。この意味で、一九八五年以来のゴルバチョフ体制の行詰まりが深まり、スターリニズ終焉の状況が全般化するなかで、官僚体制の政治的頂点からする新たな局面打開の企図がまさに新ゴルバチョフ体制として始まっている。
 ゴルバチョフ大統領制の“権威主義”と“強権性”、は、各少数民族の運動と対決し、工
場労働者の抵抗闘争の大衆的発展と対決するうえで不可欠な要素である。ゴルバチョフ大
統領制の権威主義的・強権的権限は、旧来のスターリニスト絶対主義専制支配にとってか
おる官僚支配の不可欠の要素であり、いわゆる保守派官僚も「急進」的市場主義改革派官
僚・知識人も権威主義的大統領制を積極的に支持している。それは、さらに究極的な裏付
けを必要とするし、国防省の軍隊とKGB・内務省の治安軍によって保証されなければ空
しいものになってしまう。また、この意味でも、ソ連邦を構成する各少数民族の運動と工
場労働者大衆ならびに都市大衆との関係で、新ゴルバチョフ体制は依然として浮動的・動
揺的性格をもちつづけるだろう。
 ソ連邦の情勢は、この春以降、ゴルバチョフ新大統制のもとで全連邦国家のもとに直接的に結集しようとする官僚勢力と、各小数民族の民族的要求ならびに労働者大衆の独自的運動との新たな政治的・社会経済的対決の局面に入ったといえるだろう。「権威主義」的大統領制が導入されたが、各小数民族の大衆とロシア・東ウクライナ・白ロシアなどの都市大衆と各企業における労働者大衆の運動は依然として拡大しつづけている。全連邦国家の官僚的頂点からする情勢全体に対する掌握力はさらに弱体化し、全連邦国家体制とその経済の危機は新ゴルバチョフ体制のもとでさらに一段と深まってゆくだろう。
 この過程をつうじて、各小数民族の独自的運動の拡大発展と並んで、ロシア・東ウクライナ・白ロシアにおける労働者の新たな再組織化の過程が進行するだろう。だが、その過程は様々な経験を媒介にしなければならないし、単線的には進行しないだろう。プロレタリアートを階級的主体とする政治革命のための闘争を展望するとき、ソ連邦労働者の新たな前衛的運動が形成されねばならないし、そこにはまたソ連邦の民族問題と社会経済問題、東欧とヨーロッパ全体の問題、国際情勢全体の問題に独自に応えようとする綱領を形成・獲得してゆくという課題がある。この過程において、一九二〇~三〇年代の左翼反対派の政治的伝統を再獲得してゆく努力が同時に重要かつ不可欠の課題になるだろう。

表1 1951-85年の各五ヶ年計画の実績(年伸び率%)
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5次 6次 7次 8次 9次 10次 11次
各五ヵ年計画 1951 1956 1961 1966 1971 1976 1981
-55 -60 -65 -70 -75 -80 -85
————————————————————————-
生産国民所得 11.4 9.2 6.5 7.8 5.7 4.3 3.6
工業総生産 13.2 10.4 8.6 8.5 7.4 4.5 3.7
農業総生産 4.2 6.0 2.6 4.3 1.1 1.6 1.1
労働者・勤労者数 4.5 4.3 4.4 3.2 2.5 1.9 ほぼ1
投資 13.4 13.0 6.2 7.6 6.9 3.4 2.9
採取産業生産高 5.1 4.7 1.9
社会的労働生産性 6.8 4.6 3.2
資本生産性 -2.7 -3.1 -2.9
工業原料利用効率 1.1 2.5
————————————————————————-
(木村哲三郎編『「ソ連型社会主義国の経済改革』アジア経済研究所)

表2 実質 GNP 成長率の国際比較(アメリカCIA 推計)、年平均増減率
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1961 1966 1971 1976 1981 1982 1983 1984 1985
-65 -70 -75 -80
——————————————————————
ソ連 4.7 5.0 3.0 2.3 1.5 2.5 3.4 1.4 1.2
アメリカ 4.6 3.0 2.2 3.4 1.9 -2.5 3.5 6.5 2.3
日本 6.8 11.2 4.7 5.0 3.7 3.1 3.2 5.1 4.6
西ドイツ 4.7 4.2 2.1 3.4 – -1.0 1.5 3.0 2.4
——————————————————————
(小川和男『ベレイストロイカの経済学』ダイヤモンド社)

表3 労働者・勤務員とコルホーズ員の賃金
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1940 50 60 65 70 75 80 85 86
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労働者・勤務員 100 194 243 291 368 440 510 574 591
月額ルーブル 33.1 64.2 80.6 96.5 122.0 145.8 168.9 190.0 195.6
—————————————————————————–
コルホーズ員
月額ルーブル 74.9 92.0 118.9 153.4 163.0
—————————————————————————–
(重光晶『ソ連の国民経済』東洋経済新報社)

表4 農業投資の割合と食肉・牛乳・卵の生産(年平均)
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1961 1966 1971 1976 1981
-65 -70 -75 -80 -85
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総投資にしめる
農業・同関連投資(%) 20 24 27 28 27
食肉生産(100万トン) 9.2 11.6 14.0 14.8 16.2
牛乳(100万トン) 64.7 80.5 87.5 92.7 94.5
卵(10億個) 28.7 35.8 51.4 63.1 74.4
————————————————————-
(小川和男『ペレイストロイカの経済学』ダイヤモンド社)

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