トロツキストと原子力エネルギー
投稿 〈時空の瞬間移動?!〉「かけはし」の一読者 「夢」
本紙読者からトロツキストは解放された未来の社会における原子力の平和利用についてどのように考えてきたのかを問う投書が寄せられた。それはわれわれ自身にとっても重要な問題を提起している。ぜひ積極的に意見を寄せていただきたい。あわせてトロツキーの見解を資料として掲載する。(本紙編集部)
はじめに
二〇一一年八月二九日号『かけはし』に「原子力とイデオロギー」と題された小文が載っている。
正直に言うと、この小文を読んだのはつい最近のことである。たまっていた「かけはし」に目を通していたらこの小文を発見した。(「週刊」というのは書くほうも大変だと思うが、読む方も実は大変なのである)
「かけはし」の読者のみなさんは、もう一度、じっくりこの「小文」を読んでいただきたい。手際よくまとめられたこの小文に「違和感」をもつのは私だけだろうか。
(1)
筆者・「岩」氏は、一九二六年、トロツキーが『ラジオ・科学・科学技術と社会』で「原子エネルギー」について述べている箇所を紹介し、「今ごろになって、この一文をもってトロツキーが原発推進論者であるかのようにほのめかす人が出ている」とおっしゃっている。
「ほのめかす人」の一文がどこに書かれている「一文」をさしていっているのか定かではない。紙数の制約もあるだろうが、このような場合、「ほのめかす人」がどこで、どのように書いているのか具体的にしていただかないと困る。
ひょっとして「岩」氏は、あるブログにあった「投稿」を読み、このことに触れた私の「無批判的一文」を対象に書かれたのではないか。それを補足する意味で。穿ちすぎか?
私が読んだあるブログへの投稿は次のようなものである。投稿者は、「『決定版・原発大論争』(宝島文庫/1999年刊)での室田武同志社大教授の文章が面白いので引用します」、といって室田氏の文章を紹介する。(これはその一部分)
原発はボイラーの湯沸かししかできない!
「……原発はボイラーの湯沸かししかできない。しかも3割程度のエネルギーしか使うことができない。原子力の最も適合した利用法は、原爆である。……原子力が石油や石炭に代わるエネルギーになるであろうという期待(証明ではない)を、世界で初めて明示的に述べたのは、ロシア革命の立役者であるレオン・トロツキーであり、1926年のことである。東電や電事連のイデオローグたちが、20世紀も末に近く、これほど科学や技術が進歩したはずの今日になっても、60年も昔のトロツキーの期待を旧態然と復唱しているのは、時代遅れというものではなかろうか」。
投稿者は、“ナマケモノなので知らなかった。この本、オススメです”と紹介している。で、投稿のタイトルが「東電や電事連はトロツキストだったの?」である。
このタイトルに眉をひそめ、過敏に反応する必要はない。
「岩」氏がいう「ほのめかす人」が誰であり、どのような文脈で語られているのか紹介されていないので何ともいえないが、先に上げた文脈からする「東電や電事連はトロツキストだったの?」という「発見と驚き」は、実に率直な問いであると私には思える。
ここには、原子エネルギーについて「世界で初めて明示的に述べた」革命家トロツキーの「先見性」への驚きがあり、「東電や電事連はそれをパクっちゃってるぜ!」、「してみれば……」というブラックユーモアがある(このユーモアは、ある面で的を射ている)。
そして室田氏は、「……60年も昔のトロツキーの期待を旧態然と復唱しているのは時代遅れというものではなかろうか」とあきれている。
「原発推進の責任」がトロツキーにないことは明白である。「岩」氏は、このブラックユーモアを見過ごせないと考えて、室田氏の「……時代遅れというものではなかろうか」を補足しているのかも知れない。
この論証が、「悪意に満ちた、ほのめかす人」への回答であれば、これでいいかもしれない。しかし、先の「発見と驚き」者への回答でもあるとすれば不十分ではないだろうか。
「投稿者」は、「原発推進」に対する徹底的批判者であり、福島第一原発事故が生み出している放射能汚染の現実の中から、原発について諸々の著作を読み、必死に勉強する中で、この「発見と驚き」を述べているからである。
このような人々の問いにこそ答え、耐えうるものであってほしいと思う。
とすれば、「トロツキーについてはわかりました。ではトロツキー以後、トロツキストは原子エネルギーについて、どう考えてきたのでしょうか」ということに触れなければ「答え」にならない。これへの言及は不可欠である。「紙面の性格と限られた紙数の中では無理」というなかれ。「岩」氏の一文はこうしたことにも触れているからである。
(2)
問われているのは、一九二六年トロツキーが述べた「原子エネルギーへの期待」以降、いや、一九四〇年トロツキーがスターリニストによって暗殺されて以降でいい、その後原子力についてトロツキストはどうとらえ、どう語ってきたかである。
この欠落、この時代を空白にし一言も語らずに終わるのは「底抜けの客観主義」ではないだろうか。このような「客観主義」はトロツキーとは無縁であると思う。
この時代のある時期を生きてきたわれわれは、次のように問うべきではないか。われわれはトロツキーの死後、トロツキーの「原子エネルギーへの期待」、「科学技術の発展に対する底抜けの楽観主義」から免れていただろうか。トロツキーの「原子エネルギーへの期待」を越える認識をいつ手にし、今日手にしているであろうかと。
階級的視点に立って、「労働者国家」と「帝国主義国家」の核実験・核武装を区別し、前者のそれは支持し、後者のそれは徹底的に批判してきたはずである。「世界的二重権力」という時代認識にもとづいて。「絶対平和主義」を越えようと。
「原子力発電」についても、ブルジョアジーには無理だが、支配権力を打倒し、プロレタリア権力を樹立し、労働者ソビエトのもとであれば「原子力の制御」=「原子力のエネルギーへの利用」は可能であると考えてきたのではないか。
(3)
「岩」氏はいう。
一九二六年、「この段階でそれがどのようなものであるかは、具体的にはまったくわかっていなかったのである。……トロツキーは原爆の存在さえ知らなかった」。「だから、冒頭の引用と原爆や原発を直結させるのは、時空の瞬間移動に等しいほど無理がある」と。
「時空の瞬間移動に等しい?」。「時空の瞬間移動」をしているのは「岩」氏自身ではないだろうか。一九二六年から今日に至る間、われわれは過ぎ去ったあの時代に存在しなかったかのように語って終わるのは、「時空の瞬間移動」ではないのか。確実にあった時代の「消去」ではないのか。
「時間の瞬間移動」を可能にしているのは、トロツキー死後、核実験・原爆投下、原発について知ったトロツキストが、その時代時代において「何を語り、何を語ってこなかったか、今どう考えているか」を人々に語らないからである。語らないことを人々は知りようがないのである。そしてあるブログへの「投稿者」は、「福島原発事故」のさなかにトロツキーが語ったことを知ったのである。これを「時空の瞬間移動」と言われても「驚きを発見した人」は困ってしまう。「空白の時空」を埋めようがないのである。
(4)
筆者・「岩」氏は、最後にようやく一九二六年から今日に至る「空白の時空」に触れ、次の文章で結んでいる。
「だが二〇世紀後半では、科学と科学技術の多くが、それを支配する者たちによってイデオロギー的に粉飾されなければ存立できなくなり始めていた。原発がウソとごまかしのイデオロギー操作をともなわなければ推進できなかったのは、その象徴といえよう」。
この文章は、「ウソとごまかしのイデオロギー操作」をした者を「批判」して終わっている。まるで「他人事」のようである。「国家・資本」はそのようにふる舞い、多数派となった。そして、「福島」は起きている。
ではわれわれは?
トロツキーの死後、二〇世紀後半から二一世紀の今日に至るなかで、トロツキーを師とするわれわれは、「原子力」についてどのような態度をとってきたのであろうか。トロツキーが知りえなかった「原爆・原発」が示す「事実」を知りながら、どのような思想を持ち、対峙してきたのだろうか。その「イデオロギー」が人々の心をとらえきれず、多数派となりえなかったのはなぜだろうか。
「批判」とは、「自己を問う」ことである。トロツキーが原発について「無責」であることの「論証」と二〇世紀後半と現代を語る「結びの一文」はワンセットである。この一文の底流にある思考法は同一である。限られた紙数ゆえに、では説明できない性格をこの一文はもっている。
(5)
さらにこの小文の結びは、「的」をはずしている。
「福島原発事故」が明らかにしたのは、「……ウソとごまかしのイデオロギー操作をともなわなければ推進できなかったのは、その象徴といえよう」、というようなことではない。
「原発は、イデオロギー操作で制御できるものではない」という事実を明らかにしたのである。これはもちろん、その対極にあった「イデオロギー」を、同時に無効にしている。「原発とイデオロギー」という適切なタイトルをつけながら、自己の「イデオロギー」を批判の対象から除外して平然としているのは致命的ではないだろうか。
東日本大震災・原発事故・放射能汚染、この大災害の現実のなかで、「問われない者」、「問われないイデオロギー」があるだろうか? われわれは、あまりの鈍感さゆえにことの核心を捉えきれず、直面するこの事態に正面から向き合う機会を再び逃すのか!? これをさえぎっているのが疑うことのない「自己のイデオロギー」だとしたら、「原発とイデオロギー」のタイトルは誰につけるのがふさわしいのだろうか。
ものごとはいつも両義的である(高島義一氏がこのことについて初めて触れ、この限界を超えようと試みている。重要な見解を残していると思う。だがこの見解が、福島原発事故以降、どう論議され深められているかわからない)。
(6)
最後にひとつ。
「岩」氏の文章の対極に故高木仁三郎さん、小出裕章さんの次の言葉を見出すのは意味のないことではないと思う。
故高木仁三郎さんは、一九九九年九月三〇日、茨城県東海村のJCOウラン加工工場で発生した「臨界事故」に対して次のように述べている。
「この事故は、原子力産業や政府はもちろんですが、原発反対派の私自身も含めて、根底から今までの原子力問題に対する態度の甘さを認識させられ、痛感させられる、そういう事故だった」。(『原子力神話からの解放』講談社+α文庫P17)
そして小出裕章さんは、「私は、原発をやめさせるために原子力を研究してきたつもりです。だからこそ私は原子力の専門家として、福島の第一原発の事故を防げなかったことをほんとうに申し訳なく思います」と述べている。(「原発はいらない」幻冬舎ルネッサンス新書P18)
両氏は、「そら、言ったとおりだろう!」などといわない。「原子力産業や政府」を批判して終わりとはしない。
また全国の原発立地の地元で一貫して原発に反対してきた人々の中に、「この言葉を口にしてはならない」と戒めている人々がいると聞く。原発推進側に行った人々を今度こそ、あの悪夢から連れ戻すために。それが困難な闘いであることを知るがゆえに。今度こそ本当に多数派になるために。この態度は実に重要な「思想」を表現している。
原発をめぐる根底的批判と決着は、「イデオロギー闘争」ではありえない。それを越えたところで語る「言葉」=「思想」なしに多数派となることはできない。今始まっており、腹を決めて始めなければならない「脱原発」=「国家・資本の脱構築」に向かう長い闘いの道は、このことを何よりも求める。
いつまでもトロツキーを頼り、トロツキー賛美・防衛に明け暮れるのは、「トロツキー的思考」に反するのではないか。
そろそろ、トロツキーの鋭くかつ柔軟な、時代を捉える思考を現代に生かすべきではないか。それは、「自己を問う」ことから始まると思うのだが。
今こそ、内と外を越えて自由で活発な論議をするとき、「チャンス」ではないだろうか。
資料
トロツキー「無線、科学、技術、社会」 一九二六年三月一日の報告より
『文化革命論』(現代思潮社刊)所収
……放射能の諸現象は、原子内のエネルギーの解放という問題にわれわれを連れていく。原子は、全一的なものとして、強力な隠されたエネルギーによって保たれているのであり、物理学の最大の課題は、このエネルギーを汲み出し、隠されているエネルギーが泉のように噴出するように、栓を開くことにある。そのとき石炭や石油を原子エネルギーに取り替え、それを基本的動力とする可能性が開かれてくるのだ。この課題はまったく望みなきにあらずだ。だがこれはなんという展望を開いていることだろうか! この一事からして、科学・技術的知識が大転換に近づいており、人間社会の発展における革命の時代は物質の認識やその獲得の領域における革命の時代と合致しているのだ、と主張することができる。解放された人類のまえには無限の技術的可能性が開かれているのだ。
The KAKEHASHI
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