プロレタリア独裁と労働者政府のための闘い――藤原次郎「プロレタリアート独裁と“労働者政府”」によせて

酒井与七

1 藤原同志は、その論文「プロレタリアート独裁と“労働者政府”」において次のようにのべている。
 「私自身としては、過渡的スローガンとしての“労働者政府”のスローガンを絶対に必要なスローガンであり、“政府のための闘争”もまた同様であると考えている。
 ただ、“ブルジョアジーと手を切った労働者政府”という場合、この“ブルジョアジーと手を切る”という中味をもうすこし検討してみる必要があると思う。これは同志酒井が正しく指摘するように、労働者階級としての統一、ブルジョアジーからの階級としての自立ということにつきる。
 ただもう一つ、そこに含まれている“プロレタリア権力の樹立”としての“プロレタリアート独裁”という内容を明確にしておく必要があるように思われる。それは、過渡的スローガンの内容としては労働者階級の階級としての自立と統一ということに含まれるであろうし、それの貫徹ということにほかならないかもしれない。
 しかし、これまで強調してきたこととの関連でどうしてもこだわらねばならない点がある。
 なぜなら、“ブルジョアジーと手を切った労働者政府”という場合、この“ブルジョアジーと手を切る”という中味を、単純に、“政府”レベルにおいてブルジョア的、プチブルジョア的諸党と手を切るという意味で理解してしまう傾向がなきしにもあらずと考えられるからである。たとえば、公明党と手を切った“社・共政府”は、それだけでは“ブルジョアジーと手を切った”などとはけっしていえないということは、どのくらい明白だろうか。
  むしろ、“いや、社・共は最後の最後まで公明党(もしくは、その他のブルジョア的、プチブルジョア的政府)と手を切ることはありえない。大衆の圧力に押されて、社・共が、その連立政府から、そうした党の閣僚を追放するときは、社・共政府がふきとばされるときだ”という反論のほうが予想されるのではあるまいか。たしかに、そのとおりであるかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。社・共が、ブルジョア的・プチブルジョア的諸党と手を切り政府の構成から彼らを一切追放したとしても、それだけで“ブルジョアと手を切った”などとは絶対にいえない。
  つまり“ブルジョアと手を切る”ということの中味は、さきに述べてきた“すべての権力をソヴィエトへ”というスローガンが含んでいた中味と同様のものである。すなわち、資本の収奪、経済にたいする統制、武装の問題等々と同じくブルジョア国家機構の解体とプロレタリア権力の樹立にむけてブルジョアジーとの階級闘争に入り、決定的に突き進めるということなのである。」(『第四インターナショナル』第二四号、一二九~三〇頁)

2 「“ブルジョアジーと手を切った労働者政府”という場合、“ブルジョアジーと手を切る”ということの中味」は、「労働者階級の階級としての統一、ブルジョアジーからの階級としての自立ということ」、つまりブルジョアジー全体にたいする労働者階級の階級としての対立を実現するということである。そして、ブルジョアジー全体にたいして対立する「労働者階級の階級としての自立と統一ということ」の完全なる現実は、「“すべての権力をソビエトへ”というスローガンが含んでいた中味と同様のもの」、「すなわち、資本の収奪、経済にたいする統制、武装の問題等々と同じくブルジョア国家機構の解体とプロレタリア権力の樹立にむけて、ブルジョアジーとの階級闘争に入り、決定的に突き進める」というところまで、労働者階級の階級としての闘い――つまり階級闘争――が無条件に、中間的段階――つまり「民主主義的」段階――にとどまることなく、いわば永久革命的に貫徹することなしには絶対にありえない。
 この点にかんして、われわれは一般に次のようにいうことができる、――すなわち、ブルジョアジー全体にたいして階級として対立する労働者階級の自立と統一の完全な実現は、まさにブルジョア国家を基軸として社会全体にたいする支配階級に組織されているブルジョアジーの政治・社会・経済的支配全体にたいする労働者大衆の様々な階級的闘争の現実の発展、そしてこれら部分的諸闘争の発展の階級全体としての結論たる――すなわち労働者階級全体の統一した行動による――ブルジョア国家機構の解体打倒と革命的労働者権力の樹立、そして大ブルジョアジーの資本の没収と基幹的経済諸部門の単一国有経済化、つまり社会全体にたいするプロレタリア独裁体制をうちたてることをつうじてのみ基本的に達成される、と。
 わが同盟第八回全国大会(一九七六年二月)のポルトガル革命にかんする決議は、次のようにのべている。
 「一般に、改良主義によってプロレタリアートを階級的に統一することはできないし、それゆえ、小ブルジョアジーの下層をプロレタリアートの階級的に統一したヘゲモニーのものに強力にひきつけることもできない。プロレタリアートの階級的統一とその政治的ヘゲモニーのもとに下層小ブルジョアジーをひきつけることは、ただ革命的に、すなわちプロレタリアートの自己の権力樹立を展望する反資本主義的な過渡的闘いをつうじてのみ可能となるのである。このことこそ、トロツキーのプロレタリア永久革命とレーニンの四月テーゼの方法、つまりプロレタリア階級闘争における統一戦線戦術の根本をなすところのものである。つまり、プロレタリアート内部における様々な分裂は資本主義的社会関係そのもののうちに物質的基礎があるのであり、それゆえ革命的な反資本主義的な闘争とプロレタリア独裁権力をめざすところの過渡的闘争だけがプロレタリアートの階級的統一をなしとげうるのである。第四インターナショナル創立大会において採択された『過渡的綱領』の真髄はまさにここにある……『過渡的綱領』の方法は、プロレタリアートの革命的な反資本主義的闘争を革命的労働者政府の樹立にいたる過渡的闘争として提起し、ブルジョア国家の直接的な解体打倒とプロレタリア独裁権力の樹立にむけてプロレタリアートの隊伍を階級的に統一せんとするプロレタリア革命とその階級的統一戦線戦術の統一した戦略体系なのである。この意味において、『過渡的綱領』の方法は、第三インターナショナルの歴史におけるその第三回大会と第四回大会の伝統を直接に継承しているのである。この二つの大会において、ヨーロッパ諸国の共産党の戦略・戦術における政治的武装をめざして、プロレタリアートの統一戦線戦術・過渡的諸要求のための闘争・労働者政府のスローガンにかんして積極的に問題が提起され、激しい討論が展開され、戦術にかんする諸テーゼが採択されたのである。プロレタリア統一戦線戦術、反資本主義的な過渡的諸要求のための闘争、そしてブルジョア政府の打倒と革命的労働者政府のための階級的闘い―――この三つは、プロレタリア革命の戦略・戦術の体系においてたがいに不可分な一体をなしているのである。」(『第四インターナショナル』第一九号一九七六年一月、一六四~五頁)
 われわれが労働者政府の樹立をめざす直接的な階級的行動を自己の煽動上の課題とするような情勢、あるいはまた「社・共政府」の可能性が現実のものとして提起される情勢は、労働者階級の闘いの全般的高揚をともなう一つの全社会的危機のもとにある情勢である。
 「階級的に問われていた(問われる――引用者)のは、ブルジョアジーの深刻きわまりない政治危機、プロレタリアートの自然発生的な階級的攻勢、全経済のはてしない危機という政治・経済の構造全体にわたるまさに全社会的危機を根本的に克服せんとする階級的な脱出口を明白に提出することであった(提出することである――引用者)。このような革命的危機の情勢において、プロレタリアートの階級的統一とそのヘゲモニーのもとに下層小ブルジョアジーを政治的にひきつけることができるのは、反資本主義的な決定的脱出口を明らかにする階級的展望以外にありえない。この点においてわれわれは、レーニンが十月蜂起むけて執筆した“さし迫る破局、それとどう闘うか”から十分に学ばねばならない。‥‥全社会的危機を民主主義的闘争によって解決することなど、およそ問題にならない。しかも、深刻な危機のもとにおける情勢の中間的発展は、広範な小ブルジョアジーをふくめた全大衆にたいして、この危機の抜本的克服策を最大の関心事にしていくのであり、そこにまた、プロレタリア革命の政治的条件のますます深まる成熟とともに、この条件が(積極的に、攻勢的に――引用者)活用されないとき一転してブルジョア反革命からする全面攻勢の条件に転化する必然性もあるのである。労働者はすでに資本主義的社会関係にたいする階級的攻撃に自然発生的にたちあがっており、このことはブルジョアジーの危機をますます深めていった。かくしてつくりだされた全社会的危機からの決定的な階級的脱出口は、経済の基幹部門における資本主義的社会関係そのものとブルジョア国家そのものを一掃し、全権力を労働者階級の手中に移し、全経済にたいする労働者階級を中心とする計画的な管理の体制をうちたてる以外にないのである。」(同上決議、同上誌一六五頁)

3 前項における私の論議とわが同盟第八回大会のポルトガルにかんする決議からの引用は、第一項において引用した部分において藤原同志が強調し主張している点を別の表現とことなった角度からのアプローチによって基本的に確認しているにすぎない。
 というのも、以上のかぎりにおいてとりあげられている問題は、レーニンが一九一七年の四月テーゼにおいて根本的に主張していること、レーニンの『国家と革命』においてその重要な論理的解明がすでにあたえられていること、ブルジョア国家とプロレタリア革命にかんするボリシェヴィキ・レーニン主義の根本的立場、ブルジョア国家権力の解体打倒とプロレタリア独裁権力樹立という根本主張にかかわることだからである。国家権力とプロレタリア革命にかんするボリシェヴィキ・レーニン主義のこの根本主張は、第四インターナショナルの理論上ならびに実践上における無条件の絶対的な前提である。それゆえ、わが第四インターナショナルの隊列内部において、この根本問題をめぐる対立の存在は絶対にゆるされない。
 労働者政府のスローガンとプロレタリア統一戦線の戦術的諸問題をめぐるわれわれ内部における意識的討論は、国家権力とプロレタリア革命にかんするボリシェヴィキ・レーニン主義の根本的立場にもとづいておこなわれている。『第四インターナショナル』第二三号(一九七七年一月)に発表した私の論文「労働者政府のスローガンと過渡的綱領」もまた、プロレタリア独裁権力の樹立という根本立場にもとづいて、労働者政府のスローガンとプロレタリア統一戦線政策、そして過渡的諸要求のための闘争にかんする戦術上の諸問題をやや全般的にとりあげている。また、『第四インターナショナル』上に発表された他の同志たちのすべての論文も、同一の根本的立脚点にたって、労働者階級にたいするわれわれの政府スローガンの問題を中心として、プロレタリア階級闘争の戦術上の諸問題を論じ、提起している。この点にかんしては、事実、それ以外にありえないからである。

4 それでは、藤原同志の論文――「プロレタリアート独裁と“労働者政府”」――の積極的意義はどこにあるのだろうか。それは、彼の論文の表題そのものによってしめされているように、プロレタリア独裁権力の革命的樹立ということそれ自体――つまりプロレタリア革命それ自体――と、プロレタリア革命の実現を戦略的にめざす労働者階級の階級的闘い全体の途上における重要ではあるが、やはり一つの戦術問題である労働者政府の問題との関係、あるいはこの両者のあいだのいわば「へだたり」をそれ自体として正面から理論的にとりあげたという点にあるだろう。一方における革命的プロレタリア独裁権力と他方における現実に成立するかもしれない様々な可能性――つまり革命的可能性と同時に、階級協調主義的可能性、また反革命的可能性さえ――をもった労働者政府との区別・相異をできるだけ明らかにし、鮮明に意識させようとすること、――ここに藤原同志の論文の中心眼目がある。
 藤原同志の論文のまず第一の意義は、革命的プロレタリア独裁権力と労働者政府とは同一ではないということ、すなわち、それが同一になることが可能性としてありうるとしても、この二つのものが明白にことなった政治的実体――あるいはことなった政治的カテゴリー――であるということを明白にすることによって、既存のブルジョア国家権力そのものの解体打倒とプロレタリア独裁権力の革命的樹立というプロレタリア革命の独自の根本任務をあらためて積極的に意識させるというところにある。革命的プロレタリア党の根本任務は、それ自体として様々な形態と政治的内容をもちうる労働者政府のための宣伝・煽動、またそのための闘争一般のなかに解消されてしまうのではなく、プロレタリア統一戦線にもとづく労働者階級の過渡的闘争としての自己の階級の政府――労働者政府――のための闘いをつうじて、なおそこにおいて一貫して貫徹されなければならない革命的プロレタリア党だけがにないうる独自の根本任務――労働者階級の全運動と闘いを既存のブルジョア国家権力の解体打倒とプロレタリア独裁権力の革命的樹立にむけて意識的かつ不断におしすすめ、指導し、組織しようとする独自の本質的に階級的な任務があるのだということ、――藤原同志の論文は、このことを積極的に意識させようとする。
 まさにここのところにこそ、プロレタリア統一戦線にもとづく労働者階級の過渡的闘いとして、労働者階級にたいして自己の階級の政府――労働者政府――のための階級的に統一した闘いをわれわれが現実的に提起しようとする根本、その大前提がある。
 われわれ自身が革命的プロレタリア党の全国的な建設という立場に意識にたつからこそ、すなわち、ブルジョアジーの全社会にたいする支配と対立するプロレタリアートの階級的闘いを既存のブルジョア国家の暴力的な解体打倒と新しい革命的プロレタリア独裁権力の強行的な樹立にいたるまでいわば永久的に闘いぬこうとする真に階級的な根本的立場にわれわれが意識的にたつからこそ、――他でもない、まさにこのプロレタリア独裁の実現というわれわれの徹底的に意識的な立場ゆえにこそ、労働者階級の自己の階級の政府――労働者政府――のための現実的闘いをこの階級の階級的に統一した過渡的闘争としてわれわれは実践的に提起することができるのであり、またそのように提起するのである。
 もしプロレタリアートの階級としての闘いを既存のブルジョア国家の解体打倒とプロレタリア独裁権力の樹立にいたるまで中間段階をおくことなく、不断に、永久的におしすすめているという真に階級的な立場、あるいは根底的という意味での真にラディカルな階級立場にたつのでなければ、労働者階級の自己の階級の政府――労働者政府――のための過渡的闘争を提起するということそれ自体がそもそもありえないことになってしまう。なぜなら、既存のブルジョア国家権力の解体打倒と革命的プロレタリア独裁権力樹立という階級的な立場と展望なしには、労働者階級の自己の階級の政府――労働者政府――をめざす過渡的闘争ということそれ自体が、われわれにとってまったく無価値で、意味をなさないものになってしまうからである。
5 たとえば、革命的プロレタリア独裁権力の樹立という展望とはまったく無関係な、そのような展望から完全に切断された労働者階級の政府のための闘い、あるいはそのような労働者階級の政府とは、一体、何を現実に意味しうるだろうか。
 そのような政府は、政党的にはたしかに労働者階級だけに基礎をおく一つの労働者政府ではあろうが、既存の資本主義的生産関係に何ほどかの改良をほどこしはするが、その根本には絶対に手をつけようとせず、資本主義的社会制度の枠内において既存のブルジョア国家権力機構と積極的に共存し、純粋にブルジョア民主主義の制度的限界――たとえばブルジョア議会内閣制度――内においてしか行動しない改良主義的な階級協調主義的労働者政府でしかない。それは、いわば民主主義的中間段階に固定する一つのブルジョア民主主義的労働者政府という以外にない。
 このような民主主義的中間段階にはじめから固定化されたブルジョア民主主義的労働者政府、あるいは改良主義的な階級協調主義的労働者政府を目標とする闘いは、その闘いの方法においても、はじめから必然的に改良主義的で、ブルジョア民主主義的となり、全体として厳密にブルジョア議会主義のルールの枠内にとどまることになるだろう。
 そこでは、旧来からの労働組合官僚機構の労働者大衆全般にたいする徹底的な官僚的抑圧と統制が厳格に維持されなければならないだろうし、労働者大衆全般の自発的戦闘性にもとづく労働者諸組織のプロレタリア民主主義化は絶対にゆるされないということになる。なぜならば、旧来からの労働組合官僚機構の労働者大衆全般にたいする官僚的抑圧と統制は、ブルジョア国家の議会主義的体制――つまりブルジョア民主主義制度――を積極的にささえる本質的な構成要素の一つなのであり、ブルジョア国家の議会主義体制は、労働者大衆全般の自発的戦闘性にもとづくプロレタリア民主主義の労働者運動としての実現と本質的にあいいれないからである。伝統的労働組合官僚機構が労働者大衆全般の戦闘的自発性の発展によって危機におちいるという事態は、そのままただちに国家のブルジョア民主主義体制全体の危機の深化をしてはねかえる。だから、議会主義的ブルジョア国家の警察と改良主義的労働組合官僚機構は、労働者運動内部における先駆的な「過激」分子を統制し、抑圧し、弾圧するために必然的にブロックをくもうとするのである。
 かくしてまた、たとえ改良主義的な階級協調主義的労働者政府が成立したとしても、そのようなブルジョア民主主義的労働者政府は、議会主義的ブルジョア国家の警察ならびに軍隊と積極的にブロックをくみ、労働者階級内部の前衛的勢力と戦闘的部分を統制し、抑圧し、さらには反革命的に鎮圧しようとさえするであろう、――もちろん、現実の力関係と労働者階級内部の全体として情勢をそれがゆすると彼らが考えられるときである。事実、一九一九年のドイツにおける「社会主義的」労働者政府はこのことをおこなった。
 現在のポルトガルにおけるソアレス社会党政府も、ブルジョア国家の危機の情勢下における改良主義的階級協調主義にもとづくブルジョア民主主義的労働者政府以外のなにものでもない。現にこのソアレス社会党の「労働者政府」は、一九七五年のポルトガル労働者の先進的部分による急進的で戦闘的な闘争展開全体に対立し、ポルトガル軍隊の意識的なブルジョア分派の十月クーデターによってこの急進的で戦闘的な労働者運動がおしかえされ、ブルジョア国家の秩序が何とか中間的に回復する過程において成立したのであった。ソアレスの社会党政府は、ブルジョア軍隊によって積極的にささえられている。そして、この改良主義的階級協調主義の労働者政府はポルトガル労働者の階級的闘いの前進をおしとどめ、西ヨーロッパ・ブルジョアジーの公然たる支援のもとでポルトガル・ブルジョア国家の議会主義的秩序を何とか強化せんとすることをその基本的なブルジョア的――あるいはブルジョア民主主義的――任務としている。一九七五年のポルトガル階級闘争の概観については、第四インターナショナル国際執行委員会一九七六年二月総会の決議「ポルトガル革命テーゼ」(『第四インターナショナル』第二一号、一九七六年七月)をみていただきたい。
 労働者階級の自己の政府――労働者政府――のための階級的に統一した闘いの実現を、既存のブルジョア国家の解体打倒とプロレタリア独裁権力の革命的樹立という永久的な戦略的展望のもとで、そこに意識的に位置づけられた階級的戦術として――つまり、労働者階級の階級として統一した闘いをプロレタリア革命にいたるまで現実的におしすすめようとする過渡的闘争としてわれわれが提起しようとするのだということが、以上の論議によって逆説的に非常にあきらかになるだろう。

6 われわれは、ブルジョア政治支配のある一定の危機と労働者階級の側のある一定の主体的闘争情勢をとらえて、既成の改良主義的労働者諸組織と労働者階級全体にたいして、ブルジョアジー全体と手を切り、ブルジョアジー全体と対立する労働者階級の政府――労働者政府――のための階級的に統一した全面的な闘争にはいることを実践的によびかける、――つまり煽動する。
 この時点における情勢いかんによって、それは、具体的な内容として社会党・共産党の政府、社会党の政府、共産党の政府、社・共に民社党さえくわえる政府、社・共に労働者階級のより左翼的な戦闘的全国組織や潮流をくわえる政府、あるいは労働者階級内部において大衆的な全国的二重権力組織が明白に発展しつつある情勢のもとでは、そのような全国的二重権力組織の政府等々というように、労働者政府としてのあらゆる可能性をもっている。煽動として提起される労働者政府のスローガンの具体的な内容は、まさにその時々の具体的な情勢に規定されて定式化されるのであって、われわれはこれを何か固定化したものとしてとらえてはならない。なぜなら、それは時々の具体的情勢に応じた戦術の問題だからである。
 われわれにとって普遍的な過渡的政府スローガンは、“ブルジョアジー全体と手を切り、ブルジョアジー全体と対立する労働者階級の政府――つまり労働者政府”である。政府問題をめぐるわれわれの階級的宣伝の中心は、まさにここにおかれなければならない。これがわれわれの日常的実践における一般的な過渡的政府スローガンなのであり、われわれはこの一般的な過渡的政府スローガンを、時々の情勢のもとで、必要におうじて様々なかたちで戦術的に具体化するのである。

7 ブルジョア政治支配体制の一定の危機と労働者階級の闘争の高揚したある特定の時点をとらえて、たとえばわれわれが“社会党・共産党政府を樹立せよ!”という具体的な労働者政府のスローガンをまさに直接的な行動目標として煽動するとしても、そのことは、けっして、われわれが改良主義的な階級協調主義的労働者政府――民主主義的中間段階にはじめから固定するブルジョア民主主義的労働者政府――のための闘いを労働者階級によびかけるということなのではない。
 もちろん、社会党と共産党による一つの労働者政府が現実に成立したとしても、この社会党・共産党政府が、労働者大衆の多数からする政治的幻想を積極的に利用し、またブルジョア国家機構と直接的に協力しさえして、労働者階級の下から圧力とその前衛部分からの意識的闘争に全力をあげて抗し、改良主義的な階級協調主義的政府として民主主義的中間段階にふみとどまるために全力をつくし、かくして一九一九年のドイツにおいてそうであったように反革命的役割さえはたそうとするだろうことはまったく明白である。この場合、社会党・共産党による労働者政府が改良主義的階級協調主義という本質的性格をもった労働者政府であるということについて、われわれとしてはいかなる幻想もあってはならない。だが、このような社会党・共産党による労働者政府が現実にどのような役割をはたしうるか、またこの改良主義的労働者政府が結局のところどのような運命をたどるか――すなわち、労働者階級の有効な活動的多数派が革命的前衛勢力のもとに結集することによって、革命的プロレタリア独裁権力の樹立をつうじて左から革命的に粉砕されるか、それとも、そのようにはならず、逆に労働者階級のブルジョア改良主義派とプロレタリア革命派への政治的分裂がついに克服されず、労働者階級の自然発生的戦闘性が退潮にむかい、公然たるブルジョア反動政府によって右からとってかわられることになるか、――このことは、その局面における全体としてのブルジョアジーとプロレタリアートの力関係と、とりわけプロレタリアート内部におけるブルジョア改良主義派とプロレタリア革命派とのあいだの具体的な政治的勢力関係の推移によって決定されるのである。
 いずれにしても、労働者大衆の闘いの決定的な全般的高揚がつくりだす革命的危機の情勢の結果として、あるいは社会的危機の情勢下における労働者大衆の多数による自己の政府のための闘いの結果として、このような労働者政府が現実に成立するという事態は、社会全体における労働者階級とブルジョアジーとの全般的力関係において前者によって圧倒的に有利な情勢が客観的につくりだされているということ、ブルジョアジーの社会と国家にたいする直接的掌握と主導権がすでに深刻な危機におちいっているということを意味する。そして、ここにおいて問題になることは、このまさに危機の情勢、労働者階級にとって根本的に有利な政治的力関係を踏み台としてブルジョア国家権力の最終的解体打倒とプロレタリア独裁権力の決定的樹立の行動にむけて、労働者階級内部における政治諸勢力の関係がどの程度まで成熟しているかということであり、またこの情勢をプロレタリア革命の決定的行動にむけて真に主体的に利用しうるプロレタリア革命党の政治的、組織的全力量である。まさにこの決定的な革命的危機の局面において、プロレタリア革命党は、その真価、その真の階級的戦術能力と組織的力量をとわれるのである。ここに、一九一七年のレーニンとトロツキーのボリシェヴィキ党と一九一九年のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのスパルタクス団との決定的相異があった。

8 かくしてわれわれは、既存のブルジョア国家の解体打倒と革命プロレタリア独裁権力の樹立というプロレテリア革命の根本的な階級的立場に確固としてたつからこそ、現実の情勢、現実の労働者階級の闘い、そしてわれわれの現実の実践的介入の結果として、あるいは成立するかもしれない社会党・共産党による労働者政府やその他様々な姿をとりうる労働者政府それ自体にたいしていかなる幻想ももたないのである。問題なのは、常に、その局面、その時点におけるプロレタリア革命党のまったく主体的な能力いかんである。
 現実の労働者階級の運動全体におけるプロレタリア独裁派、あるいはプロレタリア永久革命派としてのわれわれは、資本主義的社会関係に若干の改良をほどこしはするが、その生産関係の根本には絶対に手をつけようとしない、また政治的には既存のブルジョア国家機構を解体してまったく新しい革命的プロレタリア権力を創出しようとするのではなく、ブルジョア民主主義制度――つまり議会制民主主義にもとづくブルジョア国家――の限界内に一貫してとどまろうとする民主主義的中間段階、――社会主義革命の途上における一つの戦略的に固定された民主主義的中間段階という第二インターナショナル社会民主主義以来の段階論と実践のすべてにたいして一貫して対立し、このメンシェヴィキ的改良主義路線との系統的な政治的闘争を展開するのである。
 プロレタリア革命派としてのわれわれは、労働者大衆にたいする自らの直接的影響力をプロレタリア独裁の立場から一貫して組織し、かくして自らをプロレタリア革命党として不断に建設することによって、労働者階級の自己の政府のための闘いをそれ自体の自然発生性に放置するのではなく、これを既存のブルジョア国家の解体打倒とプロレタリア独裁権力の樹立へと中断することなく永久的に発展する――あるいは飛躍する――ための真に過渡的な闘争たらしめようとするのである。これこそ、藤原同志が強調してやまないプロレタリア革命党のまさに本質的な根本任務である。そして、労働者階級の有効な活動的多数派をプロレタリア革命の寸前、つまり蜂起の寸前までみちびき動員しようとする階級的戦略・戦術としての「過渡的綱領」の全体系の意義は、実践的にはまさにかくしてのみ成立するのである。
 「たとえ労働者階級の多数が依然として改良主義的労働者諸政党を自己の党であるとみなしているとしても、もしこれからの多数の労働者が改良主義的指導部を強制して、ブルジョアジーと手をきった労働者政府のための闘いに現実にむかおうとするとき、情勢は前革命的、さらには革命的となる。
  このような情勢のもとでわれわれは、個々の政治局面の具体的な展開のなかで、
 ●ブルジョアジーとの妥協とブロック政策へとむかおうとする個々のあらわれすべてにたいして具体的かつ明白に反対し、ブルジョアジーに階級として対抗するプロレタリアートの統一という立場を一貫して堅持し、
 ● 国際的諸問題と国内的な政治・社会・経済的諸問題をめぐるわれわれの階級的な過渡的諸要求を全面的に宣伝・煽動し、
 ● 労働者大衆のブルジョアジーとその国家にたいする現実の諸闘争の革命的発展、そしてブルジョアジーとその国家の側からする抵抗の強行的な粉砕と敵階級の全面的な武装解除を実現するための大衆的二重権力組織の形成とその階級的な全国統一にむけた全面的な煽約と様々なイニシアティブをとるのである。
 こうしてわれわれは“過渡的綱領”とプロレタリア統一戦線戦術体系をもって、われわれ自身をこれら労働者大衆の有効な多数派指導部へと急速に発展・転化させ、ブルジョアジーと手をきった労働者政府の樹立をめざす過渡的闘争に決定的にふみこんだ労働者大衆の現実の闘争を革命的プロレタリア独裁政府の樹立のための決定的な階級的闘いへとそのまま発展させようとする。
 今日われわれの主張をなかなか理解することができない労働者大衆の多数は、以上のような前革命的あるいは革命的危機の情勢のもとにおいて、ブルジョアジーとの妥協とブロック政策にたいする一貫した階級的反対とブルジョアジーにたいしてプロレタリアートは階級として統一して対抗しなければならないという立場、重要な国際的諸問題と国内的な政治・経済・社会的諸問題にかんする階級的な過渡的諸要求、そしてブルジョア支配とその国家にたいする闘いにおける様々な大衆的二重権力組織の形成とその階級的な全国的統一の必要性をより速やかに理解し、うけいれ、吸収し、実践してゆくだろう。われわれは、こうして、プロレタリア統一戦線戦術の方法をもって、労働者大衆の圧倒的多数の隊伍をブルジョアジーとその国家にたいする決然たる非和解的な階級的対立にみちびき、労働者大衆の階級的隊伍をブルジョア支配とその国家の最終的解体打倒と革命的プロレタリア独裁政府の樹立にむけて全面的に組織的に武装し準備しようとするのである。」(酒井「労働者政府のスローガンと過渡的綱領」、『第四インターナショナル』二三号一九七七年一月、七七頁)

9 革命期におけるプロレタリア革命党の大衆煽動と大衆組織の戦術体系としての「過渡的綱領」は、様々な過渡的諸要求、帝国主義戦争や労働者国家と植民地問題にかんする実践的態度やスローガン、革命期における労働者大衆の工場委員会、労働者自衛武装組織あるいはソビエトなどの様々な過渡的闘争組織、都市ならびに農村における被搾取小ブルジョア大衆にたいする積極的な同盟政策の提起、プロレタリア統一戦線戦術にもとづく労働者農民政府のスローガンなどを明示している。
 「過渡的綱領」において明示されているこれらの要求やスローガン、また大衆的闘争組織のどの一つをとりあげてみても、そのそれぞれが、労働者大衆を階級的に統一して旧ブルジョア国家権力の最終的打倒とプロレタリア独裁権力の決定的樹立の直前までみちびくという過渡的性格を部分的にもっている。いいかえれば、「過渡的綱領」が提起する様々な要求、スローガン、大衆的闘争組織は、それらをばらばらにして個別にとりだせば、ただ部分的にだけしか過渡的でないということである。
 そして、これらの様々な過渡的要求、過渡的スローガン、過渡的な大衆的闘争組織のどの一つをとりあげてみても、そのそれぞれが個別的に、あるいはそのうちのいくつかが革命期の情勢下において実現する可能性は十分に存在する。それは、ブルジョア支配階級の側の危機の深さの度合いと労働者大衆の側の自然発生的な革命的高揚の度合いによる。
 たとえば、様々な産業部門の固有化は相当の範囲までひろがりうる、――フランス、イタリア、イギリス、ポルトガル、また植民地世界の諸国におけるこれまでの現実はそのことをはっきりとしめしている。労働者の工場占拠や事実上の労働者管理はこれまでしばしばあったし、社会民主主義は西ヨーロッパにおいて労働者自主管理について語っている。労働者階級の武装も、社会民主主義とスターリニスト指導部のもとで相当の範囲まで拡大することができる。――たとえば、ファシズム勝利以前のドイツにおいて社会民主党とドイツ共産党はそれぞれ自己の指導下に労働者武装組織をもっていたし、オーストリア社民党もまた一九三四年の決定的敗北までは自己の労働者武装組織をもっていた。一九三〇年代後半のスペイン内線においては、ブルジョア共和派までがフランコの反革命勢力にたいする軍事闘争をみとめた、――もちろん、ブルジョア共和政府の秩序のもとではあったが。フランスとイタリアの共産党は、反ナチ、反ファシストの労働者武装闘争の伝統をもっている。植民地世界の諸国において、植民地ブルジョア民族主義の諸傾向は、これまでしばしば大衆を武装してきた、――たとえば、今日、われわれはレバノンにおける内線とパレスチナ武装諸組織をもっている。ついでながら、日本の社会党は過去において大衆の「過激な」闘争にしばしばひきよせられた――そして、これからそのようなことは絶対にないなどと想定するとすれば、大まちがいをおかすことになるだろう。
 労働者政府についていえば、すでにのべたとおりだが、これまたふんだんにその階級協調主義的なブルジョア民主主義的労働者政府の実例をあげることができる。一九一九年のドイツには労兵評議会(レーテ)さえあった。一九年のハンガリアでは、ハンガリアの社会民主党は、弱体な共産党と手をくんで、「赤色ソヴィエト共和国」さえ組織した!
 すなわちここにあるのは、「過渡的綱領」が提起する様々な要求、スローガン、大衆的闘争組織は、そのいずれをとっても、それが個別に部分的に実現されても、そのことによって旧ブルジョア国家の打倒とプロレタリア独裁権力の樹立にまで自動的にゆきつくということには絶対にならないという明白このうえない真理である。この明白な真理は、国家についてのマルクス・レーニン・トロツキー主義の基本理論、すなわち旧ブルジョア国家の解体打倒と新しいプロレタリア独裁権力機関をうちたてるところにプロレタリア革命の根本任務があるというマルクス主義の立場の正しさを過去の歴史がくりかえし、くりかえし証明してきたということをいいあらわしているにすぎない。
 藤原同志は、その論文「プロレタリアート独裁と“労働者政府”」において、労働者政府のための闘いそれ自体、そしてたとえ現実に成立するかもしれない労働者政府のそれ自体は、自動的にそっくりそのままプロレタリア独裁をもたらすわけではないと正しく指摘したが、このことは、「過渡的綱領」がかかげる過渡的な要求、スローガン、大衆的闘争組織のそれぞれすべてについて、そのままあてはまることなのである。
 あるいは、端的にいえば、このことは「過渡的綱領」のすべてにあてはまることなのである。なぜならば、もともと「過渡的綱領」の階級闘争の全戦術体系は、革命期の情勢のもとで労働者大衆の諸闘争を現実にみちびき、その階級的隊伍を統一して、旧ブルジョア国家権力の最終的打倒とプロレタリア独裁権力の決定的樹立の直前にまで過渡的におしやることをその基本的課題、うけもち範囲としているからである。
 「過渡的綱領」は、労働者階級をプロレタリア革命の決定的行為の直前までみちびき、準備するが、それ以上のことは絶対にしない。それ以上でも、それ以下でもない。それは過渡的なものなのであり、この過渡的闘争の最終段階をふみこえるために飛躍する任務は、もっぱらプロレタリア革命党の任務であり、その主体的力量にかけられている。

一九七七年五月二八日

THE YOUTH FRONT(青年戦線)

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