マルクス=エンゲルスの共産主義と過渡期
酒井 与七
「マルクス=エンゲルスの共産主義と過渡期」(二〇二〇年一一月)
.—- 目次 ————————–
はじめに
Ⅰ 「過渡期」と「共産主義社会」の二つの段階
1 マルクスの「ゴータ綱領批判」(一八七五年) ― “共産主義社会の二つの段階”
と “資本主義社会から共産主義社会への革命的転化の時期に照応する政治的
過渡期国家=プロレタリアートの革命的独裁”
[レーニン『国家と革命』第五章「国家死滅の経済的基礎」]
[「共産主義社会のより高度の段階」についての言及は非常に少ない]
[反資本主義過渡期と共産主義についてのマルクス=エンゲルスの概念的想定
には一八四〇年代後半から両人の晩年の時期まできわめて厳格な一貫性と系
統性がみられる]
2 プレオブラジェンスキーのとらえ方
3 レーニンとプレオブラジェンスキー
トロツキー『裏切られた革命』にみられる問題
Ⅱ 共産主義
1「共同の生産手段」にもとづく「協同社会」
[生産手段の共有にもとづく無政府的商品生産の克服としての計画的・意識的に
組織される社会的生産=「社会主義的生産」]
[生産手段の共同所有にもとづく社会的生産・サービス供与における労働時間に
よる直接的経済計算・経済計画と、他方、「労働証書」を介する共同体成員へ
の個別的物資・サービス分配]
[「生産の計画的な社会的規制」、「社会的生産」の「計画的・意識的組織」の
方法=「社会的労働量」の直接的計量・配分 ― 簿記と経済計算]
[社会的生産物・サービスの生活手段・消費対象としての各生産者への分配]
[「必然の王国」]
[旧ソ連邦官僚/行政的物財バランス式国有計画経済システムの “社会主義”]
スターリニスト計画経済制度
スターリニスト計画経済モデルの諸特徴
2 エンゲルスの『共産主義の原理』(一八四七年) と『反デューリング論』(一八七六~
七八年) ― 「現在の社会」から「共同社会」にいたる過渡期、分業ならびに階級の
廃止、新しい人間の形成、都市と農村の対立の解消
[エンゲルス『共産主義の原理』(一八四七年)]
[エンゲルス『反デューリング論』(一八七六~七八年)
Ⅲ 資本主義から共産主義への過渡期
1 「一つの世界革命」
2 イギリス・プロレタリア革命を梃子とする世界市場における資本主義の克服
3 階級的独裁と過渡期
4 コミューンの可能性
Ⅳ 過渡期の諸問題
1 過渡期の問題への慎重なアプローチ
2 過渡的方策・施策・措置
3 資本の収奪と生産手段の国家への集中
4 農業の共同化と農民的土地所有、プロレタリア革命と農民
5 反資本主義過渡期の経済管理を準備する資本主義
6 協同組合による経営の可能性
7 過渡期における国家様式 ― “民主共和制” と自治組織
8 トロツキー『総括と展望』(一九〇五年) にみる反資本主義過渡期展望
Ⅴ 過渡期と価値法則
1 過渡期の過程そのものについて
2 過渡期と商品経済
3 過渡期と価値法則の死滅
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.はじめに ——————————
この「マルクス=エンゲルスの共産主義と過渡期」のベースになっているのは旧稿の「マルクス=エンゲルスの共産主義と過渡期 ― 抜き書きとノート」(一九九三年) であり、旧稿は “共産主義と反資本主義過渡期” に関するマルクス=エンゲルスの著述・言及をかなり包括的に調べて ( ただし『経済学批判要綱』については調べていない)『ゴータ綱領批判』にある有名な定式化にもとづいて彼らの発言・言及を相互に関連づけ整理してみたものであり、本稿はその改稿版になる。
『新しい経済』の著者であるプレオブラジェンスキーは、一九二五年、ロシア十月革命と新経済政策 ( ネップ) の経験の上で資本主義から共産主義にいたる全過程に関するマルクスとエンゲルスの考えをかなり包括的に検討していて、その考察はプレオブラジェンスキー『社会主義とは何か ― 過渡期論の思想史的展開』(柘植書房 一九七八年刊) 第二章「共産主義者たち」の「マルクスとエンゲルス」(同書 六八~一二二頁) にまとめられている。その翻訳原本は E. Preobrashenskij “Die sozialistische Alternative, Marx, Lenin und Anarchisten über die Abschaffung des Kapitalismus” (Rotbuch Verlag, Berlin, 1974) で、これはプレオブラジェンスキーのロシア語論稿を東ドイツで翻訳・出版したものである。
プレオブラジェンスキーは同書で次のように述べている ― 「“ゴータ綱領批判” のうちの当該の数ページと折りにふれての若干の考察を別にすれば、マルクスが未来社会の諸関係にふれている章句の大多数は資本主義制度の科学的分析の延長である。」「マルクスが、科学的予見というかたちで、また作業仮説というかたちで …… 社会主義について少なくともその一般的諸傾向についてかなりまとまった観念を持っていたことは疑いない。しかし …… われわれがその著作に見いだすのは断片か …… きわめて一般的で最高度に抽象的な定式化だけである。とはいえ、これらの断片をすべて組み立ててみると …… この問題をとくに考慮することなくマルクスの著作をざっと読んだ場合よりもはるかに多くのものをえることができ」(六八~七〇頁)、「一定の体系に整えられるならば、純粋の引用だけがこの問題に関する彼らの諸見解について正しい考えをわれわれにあたえる。」(同上 九七頁)
旧稿は以上のような指示にしたがって作成されていて、彼の論稿から六五年ほど後の私の旧稿では東ドイツ・マルクス=レーニン主義研究所編集になる『マルクス=エンゲルス全集』の大月書店版全巻と詳細な索引を利用することができたので、プレオブラジェンスキーによる検討・考察よりも包括的になっていると思う。
以下においてマルクスとエンゲルスから引用するさい執筆時期をできるだけ明記している。また、本稿におけるマルクスとエンゲルスからの引用は大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』によるものであるが、引用文の文言は必ずしも『全集』のとおりではない。
旧稿では共産主義と反資本主義過渡期に関する言及・指摘を『マルクス=エンゲルス全集』からできるだけ集めようとしたので、内容的に繰り返しになっているところがかなりあり、いささか読みにくいものになっていたが、本稿ではその “繰り返し” をできるだけ少なくしている。また、トロツキー『裏切られた革命』にみられるマルクス「ゴータ綱領批判」ならびにレーニン『国家と革命』からの引用の間違い、旧ソ連邦行政的物財バランス式国有計画経済システムの特徴、トロツキー『総括と展望』にみられるロシア・プロレタリア権力の反資本主義過渡期展望の三項を追加している。
旧稿は一九九三年に日本革命的共産主義者同盟機関紙『世界革命』に発表されたものである。
二〇二〇年一一月
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.Ⅰ 「過渡期」と「共産主義社会」の二つの段階
..1 マルクスの「ゴータ綱領批判」(一八七五年) ― “共産主義社会の二つの段階” と “資本主義社会から共産主義社会への革命的転化の時期に照応する政治的過渡期国家=プロレタリアートの革命的独裁”
資本主義から社会主義への過渡期と共産主義の問題に関するマルクスの発言で最も重要なものはマルクス「ゴータ綱領批判」(一八七五年) の当該部分であるだろう。
「ゴータ綱領批判」第一章には「共産主義社会の第一段階」と「共産主義社会のより高度の段階」という有名な定式化があり、それは次のようにまとめられている。
① 「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階」
「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者はその生産物を交換しない。 …… 生産物に支出された労働がその生産物の価値 ― その生産物にそなわった物的特性 ― として現れることもない。 …… いまでは資本主義社会と違って、個々の労働はもはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在している。」
「この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれ出てきた母体たる旧社会の母班をまだおびている。したがって、個々の生産者は彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを ― 控除したうえで ― 返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは彼の個人的労働量である。」
「たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。個々の生産者はこれこれの労働 (共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで) を給付したという証明書を社会から受けとり、この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引きだす。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらう。」
「ここでは明らかに商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。 …… 個人的消費手段が個々の生産者のあいだで分配される際に商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つの形の労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。」「だから、ここでは平等の権利はまだやはり ― 原則上 ― ブルジョア的権利である。」
② 「それ自身の土台の上に発展した」「共産主義社会のより高度の段階」
「個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなった後、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となった後、個人の全面的発展にともなってその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになった後、その時はじめてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上に次のように書くことができる、 ― 各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(『マルクス・エンゲルス全集』一九巻、一九~二〇頁)
そして、「ゴータ綱領批判」第四章では資本主義から共産主義にいたる転化の時期について次のように述べられている。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもない。」(以上、同上二八~二九頁)
ここで述べられている「資本主義社会と共産主義社会のあいだ」の「革命的転化の時期」、それに照応する「政治上の過渡期」、「国家」が「プロレタリアートの革命的独裁」である時期は、第一章で述べられている「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階」と区別された独自の時期として主張されている。
したがって、「ゴータ綱領批判」のマルクスは、資本主義から共産主義の完成にいたる全過程を「資本主義社会と共産主義社会のあいだ」の「革命的転化の時期」としての「過渡期」とそれにつづく共産主義社会の「第一段階」ならびに「より高度の段階」に区分して考えていたのである。
このことは、マルクスが『フランスの階級闘争』(一八五〇年) で「ブルジョア自身が …… ブランキーなる名称をあたえた共産主義」=「革命的社会主義」について次のように述べていることからも明らかだろう ― 「この革命的社会主義が主張するところは革命の永続宣言であり、革命の階級的独裁である。すなわち、階級の区別一般の廃止、階級の区別の基礎となっている現在の全生産関係の廃止、これらの生産関係に対応する現在の全社会関係の廃止、そしてその社会関係から発生するすべての観念の変革のための必然的な過渡期としてのプロレタリアートの階級的独裁である。」(『全集』七巻、八六頁)
…[レーニン『国家と革命』第五章「国家死滅の経済的基礎」]
レーニンの『国家と革命』(一九一七年) もその第五章「国家死滅の経済的基礎」で「ゴータ綱領批判」の国家と共産主義に関する部分を取り上げている (『レーニン全集』二五巻四九四~五一三頁)。そこでは「資本主義から共産主義へ移行する特別の段階あるいは特別の時期」を「プロレタリアートの独裁、すなわち共産主義への過渡期」とし、「共産主義社会の低度と高度の段階」から区別していて、第五章「国家死滅の経済的基礎」の叙述は「一 マルクスの問題提起」、「二 資本主義から共産主義への移行」、「三 共産主義社会の第一段階」および「四 共産主義社会の高い段階」という構成になっている。
『国家と革命』では、「共産主義社会の第一段階」は「生産手段はもはや個々人の私有でなく」「社会全体に属し」「資本家はもはやなく、階級はもはやない」「社会主義」とされていて、この「社会主義」のもとでは一つの社会階級としての小ブルジョアジーはもはや消滅しているだろう。
そして、「社会主義」についてレーニンは次のように述べている ― 「普通、社会主義と呼ばれているものをマルクスは共産主義義社会の “第一” 段階あるいは低い段階と呼んだ。生産手段が共有財産になっているので、これが完全な共産主義でないことを忘れなければ “共産主義” という言葉はこの場合にも使ってさしつかえない。」(同上書五〇九頁)
…[「共産主義社会のより高度の段階」についての言及は非常に少ない]
ところで、「ゴータ綱領批判」第一章の「共産主義」の部分では「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階」が中心で、「それ自身の土台の上に発展した」「共産主義社会のより高度の段階」については概括的特徴づけがあたえられているだけである。そして、マルクス=エンゲルスによる“共産主義”に関する言及はほとんどの場合に「共産主義社会の第一段階」についてであり、「共産主義社会のより高度の段階」についての言及は非常に少ないのである。
…[反資本主義過渡期と共産主義についてのマルクス=エンゲルスの概念的想定には一八四〇年代後半から両人の晩年の時期まできわめて厳格な一貫性と系統性がみられる]
また、いろいろと調べてみて非常に驚いたことの一つだが、反資本主義過渡期と共産主義についてのマルクス=エンゲルスの概念的想定には彼らの初期の時期から両人の晩年の時期まできわめて厳格な一貫性と系統性がみられる。エンゲルスには一八四四年の「国民経済学批判大綱」からの理論的一貫性の主張があり、マルクスについては、この草稿では一八四七年の『哲学の貧困』からの理論的系統性を紹介している。『哲学の貧困』・『共産主義の原理』・『共産党宣言』の時期から『資本論』・『反デューリング論』・「ゴータ綱領批判」の時期、そしてエンゲルスの最晩年にいたるまで、過渡期と共産主義についてのマルクス=エンゲルスの概念的想定には驚くべき終始一貫性がある。
..2 プレオブラジェンスキーのとらえ方
ところで、本稿の「はじめに」で指摘しているように、プレオブラジェンスキーは、一九二五年、資本主義から共産主義にいたる全過程に関するマルクスとエンゲルスの考えをかなり包括的に検討している。
「完成された共産主義社会は資本主義と共産主義のあいだにある過渡期諸形態と絶対に区別されねばならないという考えを述べたのはマルクスが最初である。…… マルクスには、社会主義と共産主義のあいだの区別について確定的な叙述は見いだされない。しかし、後の一連の考察から、彼が社会の発展のこの二つの段階を区別していることが見てとれる。彼は、この二つを、社会主義ではなお階級が存在し、またその結果、国家も存在するという点だけでなく、社会主義と共産主義では生産と分配の制度が異なるという点でも区別している。さらに、これに加えて、マルクスには資本主義から社会主義への(共産主義へのではない)過渡期の諸施策と呼びうるものが見いだされる。」(同上書七一頁)
また、プレオブラジェンスキーが「ゴータ綱領批判」を直接に取り上げているところでは、「共産主義社会の第一段階」について、それは「社会主義、すなわち、すでに搾取階級は基本的に解体されているものの社会の階級分化はなお解消されておらず、まさにそれゆえに国家がなお存在し、分配制度もなお資本主義的秩序の “母班” をおびているような社会制度なのである」と述べられている (一〇二頁)。こうして、レーニンの『国家と革命』と同じでプレオブラジェンスキーも「共産主義社会の第一段階」を「社会主義」としているが、レーニン『国家と革命』の「社会主義」では「生産手段はもはや個々人の私有でなく」「社会全体に属し」、「資本家はもはやなく、階級はもはやない」とされていて、他方、プレオブラジェンスキーの「社会主義」では「搾取階級は基本的に解体されている」が「社会の階級分化はなお解消されて」いないということで、両者の明白な相違がみとめられる。
プレオブラジェンスキーは「“共産主義の第一段階” がマルクスが別の個所で資本主義社会から共産主義社会への “革命的改造の時期”、“国家がプロレタリアートの革命的独裁以外の何ものでもありえない” 時期と呼んでいるまさにその時期であることは …… まったく明白である」と述べていて (一〇二頁)、マルクスが指摘している「資本主義社会から共産主義社会のあいだ」の「革命的転化の時期」、それに照応した「政治上の過渡期」、「国家」が「プロレタリアートの革命的独裁」である時期が「共産主義社会の第一段階」とそのまま重なり、資本主義から共産主義にいたる反資本主義過渡期が「社会主義」であるとされるのである。
プレオブラジェンスキーは「共産主義社会の第一段階」を「社会主義、すなわち、すでに搾取階級は基本的に解体されているものの社会の階級分化はなお解消されておらず、まさにそれゆえに国家がなお存在し、分配制度もなお資本主義的秩序の “母班” をおびているような社会制度」であるとしているが、そのような「社会制度」はプロレタリア革命権力樹立にともなう銀行・交通運輸・エネルギー部門・大規模な生産流通サービス企業などの国有化と資本の没収によるブルジョア支配階級の解体のうえに形成される社会 ― プロレタリア革命権力の樹立によって切り開かれる反資本主義過渡期社会の最初の状況 ― として想定できるだろう。
..3 レーニンとプレオブラジェンスキー
以上のようにレーニンとプレオブラジェンスキーは「共産主義社会の第一段階」と反資本主義過渡期の理解で対立しているが、この理論的相違をどのように考えるべきだろうか。
その鍵となるのは「ゴータ綱領批判」第一章で「共産主義社会の第一の段階」について言及している部分の冒頭であり、その記述は繰り返しになるが次のようになっている。
「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者はその生産物を交換しない。…… 生産物に支出された労働がその生産物の価値 ― その生産物にそなわった物的特性 ― として現れることもない。……いまでは 資本主義社会と違って、個々の労働はもはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在している。」
ところで、プレオブラジェンスキーの「社会主義」では「すでに搾取階級は基本的に解体されているものの、社会の階級分化はなお解消されて」いないとすれば、この「社会主義」のもとでは生産・流通・サービスなどの部門で少なくとも独立的小所有者層が一つの社会階級として存在していることになる。
独立的小所有者層は生産・流通・サービスのための手段を私的に所有して、それらを手段とする労働は個別的・私的であり、そのような社会経済的状況は「生産手段の共有を土台」とし「個々の労働」が「直接に総労働の構成部分として存在する」ような「協同組合的社会」というマルクスの想定と一致しない。独立小所有者層の生産物やサービスは必然的に商品として提供され、結局のところ価値法則にもとづく商品市場を介にして社会の「共有」部門の生産物やサービスと交換されねばならない。つまり、商品交換は存続しつづけるし、そのかぎりで「生産物に支出された労働がその生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現れることもない」ということは実現されていないのである。
エンゲルスは「フランスとドイツにおける農民問題」(一八九四年) で生産手段の「個別所有」と「共同所有」について次のように述べている ― 「生産手段の所有はただ二つの形態でしかおこなうことができない。すなわち、個別所有 (individual possession) …… としてか、それとも共同所有 (common possession) …… としてか、そのどちらかである。」「ここでは生産手段の共同所有が獲得すべき …… 主要目標としてかかげられている。これは …… 工業についてだけでなく、全体的に、したがって農業についてもあてはまる。…… 個別所有を維持するのではなく、それを取りのぞくことが社会主義の利益である。個別所有が存在しているところでは、またそれが存在しているかぎり、共同所有は不可能になるからである。」(『全集』二二巻、四八七頁) こうして、「協同社会」の基礎たるべき「生産手段の共同所有」は農業部門における独立的小所有者層の克服もその前提として想定されているのである。
したがって、「すでに搾取階級は基本的に解体されているものの、社会の階級分化はなお解消されて」いないとするプレオブラジェンスキーの「社会主義」社会は反資本主義過渡期の社会でなければならない。こうして、レーニンの『国家と革命』における「共産主義の第一段階」の理解が正しく、プレオブラジェンスキーの『社会主義とは何か』では先述のように反資本主義過渡期の社会と「共産主義の第一段階」とが歴史的に継起すべき異なる社会段階としてとらえられず、これら二つの社会段階を同一視する誤りが認められるのである。
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…トロツキー『裏切られた革命』とマルクス「ゴータ綱領批判」
ところで、トロツキーの『裏切られた革命』(一九三六年) におけるマルクス「ゴータ綱領批判」からの引用にも問題が認められる。
『裏切られた革命』第三章第三節「労働者国家の二重性格」の冒頭で「プロレタリア独裁はブルジョア社会と社会主義社会の間にかけられた橋である。…… 独裁を遂行する国家の任務は自分自身の廃止を準備することであり、この任務は付随的であるがきわめて本質的なものである」と述べられていて、その次々節において以下のような指摘と「ゴータ綱領批判」からの引用がある。
「社会主義国家はアメリカのような最も進んだ資本主義を基礎にしてさえ各人に必要なだけのものをすぐに提供できないだろうし、それゆえ、できるだけ多く生産するように各人に刺激をあたえざるをえないだろう。こうした諸条件のもとでは督励者の役割は当然にも国家が引きうけることになるし、国家としては、あれこれの変更や軽減を加えるにしても、資本主義があみだした労働報酬の方法に頼らざるをえないことになる。まさしくこの意味で、マルクスは一八七五年に次のように述べている ― “長い産みの苦しみの後に資本主義社会からあらわれでてくるような共産主義社会の最初の段階にあってはブルジョア的権利は …… 不可避である。……”(『ゴータ綱領批判』)」(トロツキー『裏切られた革命』岩波文庫、七六~七頁)
トロツキーがここで「社会主義国家」としているのは「ブルジョア社会と社会主義社会の間にかけられた橋である」「プロレタリア独裁」の国家、すなわち反資本主義過渡期のプロレタリア国家のことである。しかし、ここで「ゴータ綱領批判」から引用されているのは「共産主義社会の最初の段階」に関する指摘であって、「ブルジョア社会と社会主義社会」のあいだの過渡期としての「プロレタリア独裁」の時期に関するものではない。
つづいて、「消費財の分配にたいするブルジョア的権利はもちろん不可避的にブルジョア的国家をも前提にする。…… 共産主義のもとで一定期間のあいだブルジョア的権利が残存するばかりでなく、さらにブルジョアジーなきブルジョア国家さえも残存することになる」と『国家と革命』から引用されている。だが、レーニンのこの指摘もまた “共産主義社会の最初の段階” としての “社会主義社会” に関するものであって、やはり資本主義社会から社会主義社会への過渡期としてのプロレタリア独裁の時期に関するものではないのである。
こうして、『裏切られた革命』第三章第三節「労働者国家の二重性格」の冒頭部分における「ゴータ綱領批判」ならびに『国家と革命』からの引用には明らかな誤りが認められるのである。このことについて、対馬忠行も現代思潮社版『裏切られた革命』解説で批判的に指摘している。
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.Ⅱ 共産主義
..1「共同の生産手段」にもとづく「協同社会」
マルクスとエンゲルスが生産手段の共有にもとづく協同社会において想定していたのは、商品経済、価値法則、資本主義生産様式から解放された社会経済形態としての直接に共同的な社会的生産とそれにもとづく分配であり、マルクス=エンゲルスにおいては商品経済と価値法則に基づく資本主義生産様式の理論的把握と一体のものとして共産主義の概念的想定がなされていた。自然的諸条件と結合して実現される人間労働(「生産者 …… と自然の物質代謝」)の成果である生産物が普遍的商品経済のもとで交換価値をもつ商品として独自の運動法則を獲得し、その価値法則にもとづいて生産手段の私的所有が資本としてあらわれ、そのもとで労働力もまた独特な商品であり、社会的再生産の全体的バランスが商品市場における交換をつうじて実現されようとする ― そのような資本主義生産様式の克服あるいは理論的批判として生産手段の共有にもとづく協同社会 (「共産主義社会の第一段階」) とその生産様式が想定されていた。
…[生産手段の共有にもとづく無政府的商品生産の克服としての計画的・意識的に組織される社会的生産=「社会主義的生産」]
プレオブラジェンスキーの『社会主義とは何か』は商品経済・価値法則の克服としての「社会主義的生産」について次のように述べている (ここでは「社会主義 ……」ということが「共産主義社会の第一段階」を意味する用法になっている) ―「生産の社会主義的組織の問題とは …… 商品経済の止揚の問題 ― すなわち商品経済の内部にひそみ、それを自然発生的に規制している原理、つまり価値法則の廃棄とこの法則およびその作用を経済の社会的記帳によって交替するという問題である。マルクスとエンゲルスのさまざまな著作において無政府的商品生産と計画化された社会主義的生産というまったく一般的に定式化された対照がひんぱんに見いだされる。」(『社会主義とは何か』八二頁)。
プレオブラジェンスキーはつづけてエンゲルスの『反デューリング論』(一八七六~七八年)から次のように引用している ― 「今日の生産力をついに認識されたその本性におうじて取り扱うようになれば、社会的生産の無政府性にかわって全社会および各個人の欲望におうじた生産の計画的な社会的規制が現れる。」(『全集』二〇巻二八九頁) また『反デューリング論』では「社会が生産手段を掌握するとともに商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態にかわって計画的・意識的組織があらわれる」とも述べられている (同上書二九二頁)。
…[生産手段の共同所有にもとづく社会的生産・サービス供与における労働時間による直接的経済計算・経済計画と、他方、「労働証書」を介する共同体成員への個別的物資・サービス分配]
生産手段の共同所有にもとづいて商品経済と価値法則を克服して実現される直接に共同的な社会的生産と消費財生産物・サービスの分配は、一方における労働時間にもとづく経済計算・経済計画と、他方、「労働証書」を介する共同体成員への種々の生活物資・サービスと文化的消費財・サービスの分配としておこなわれる。この点について『資本論』第一巻では次のように述べられている ― 「労働時間は二重の役割を演ずることになる。労働時間の社会的に計画的な配分はいろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係はここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」(『全集』二三a巻、一〇五頁)。
…[「生産の計画的な社会的規制」、「社会的生産」の「計画的・意識的組織」の方法=「社会的労働量」の直接的計量・配分 ― 簿記と経済計算]
プレオブラジェンスキーは、「生産の規制者としての価値法則の廃棄、そして社会主義社会ではそれぞれの生産物種類の生産に必要な社会的必要労働の規定を直接的方法でおこなうことの必然性」について、まず最初に『反デューリング論』から引用している。
「社会が生産手段を掌握し、生産のために直接に社会的に結合してその生産手段を止揚するようになったそのときから、各人の労働はその特殊な有用性がどんなに様々であっても初めから直接に社会的労働となる。そうなれば、ある生産物にふくまれる社会的労働の量を回り道して確かめるには及ばない。平均的にどれだけの社会的労働が必要かということは日々の経験が直接に示してくれる。」
「だから、…… 生産物に投入された労働量が社会には直接かつ絶対的にわかっているのに、その後も相変わらず以前に便法としてやむをえなかった単なる相対的で動揺的で不十分な尺度 ― すなわちある第三の生産物 ― でそれを表現し、その自然的で十全な絶対的尺度である時間で表現しないということは、社会にとって思いもよらないことである。」(『全集』二〇巻 三一八~九頁)
「資本主義的生産様式が解消した後にも社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は労働時間の規制やいろいろな労働の配分、…… それに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味でやはり有力に作用する」し (『資本論』第三巻、『全集』二五b巻、一〇九〇頁前出)、「簿記は、過程の調整や観念的総括としては、過程が社会的規模でおこなわれて純粋に個人的性格を失うにつれてますます重要に」なり、「共同体的生産では資本主義的生産でよりももっと必要になる」(『資本論』二巻、『全集』二四巻一六五頁)。
…[社会的生産物・サービスの生活手段・消費対象としての各生産者への分配]
以上においては、生産手段の共有にもとづいく社会的生産の「計画的・意識的組織」化が主張されているが、その社会的生産物の配分・分配についてプレオブラジェンスキーはマルクス『資本論』第一巻(一八六七年)から次のように引用している。
「共同の生産手段で労働し、自分たちのたくさんの個人的労働力を …… 意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。」「この結合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。」
「商品生産と対比してみるために、…… 各生産者の手にはいる生活手段の分け前は各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになる。労働時間の社会的に計画的な配分はいろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係はここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」(『全集』二三a巻、一〇五頁)
この点に関連して『資本論』第二巻では次のよう述べられている ― 「(資本主義的生産を克服した)社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に配分する。生産者たちは、たとえば指定券を受けとって、それと引き換えに社会の消費用在庫から自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指定券は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(『全集』二四巻、四三八頁)。
そして、先に引用しているように「ゴータ綱領批判」では次のように述べられている ― 「この共産主義社会」において「社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を給付したという証明書を社会から受けとり、この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵から等しい量の労働が費やされた消費手段を引きだす。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらう。」(『全集』一九巻 二〇頁)
こうして、反資本主義過渡期のうえで生産手段共有社会のもとで個別の労働者が賃金労働者になる契機が消失し、貨幣 (money =交換可能な一般的価値) が資本に転化する条件が失われ、また種々の生産物およびサービスの “不等価交換” にもとづく貨幣による利潤の形成の条件がなくなり、貨幣・通貨がいわば労働証書にすぎないものになってしまうといえるだろう。
また「労働者が二人いれば、たとえ同じ事業部門に属していても、彼らの一労働時間の価値生産物は労働の強度と熟練度におうじて常に異なるものになるだろう」 ― 「私的生産者の社会では、私人またはその家族が熟練労働者の養成費を負担する」が、「社会主義的に組織された社会ではこの費用を社会が負担する」し、「その果実、すなわち複合労働によってつくりだされたより大きな価値も社会に帰属する。」(『反デューリング論』、『全集』二〇巻二〇八頁)
…[「必然の王国」]
「資本主義的生産様式は …… それ自身の否定を生みだす。…… この否定は私有を再建しない。しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個別所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共有、そして労働そのものによって生産される生産手段の共有を基礎とする個別所有をつくりだす。」(『資本論』第一巻、『全集』二三b巻、九九三~五頁)
この社会においては商品交換と貨幣と資本は克服されているが、「万人が労働しなければならず」、「たとえ交換価値が廃棄されても、労働時間は …… 富の生産に必要な費用の尺度」であり(『剰余価値学説史』)、全体としての社会的再生産について労働時間にもとづく厳格な経済計算が要求され、各種生産物・サービスの「価値規定」はその社会的役割を維持していて、また「協業と土地の共有、そして労働そのものによって生産される生産手段の共有を基礎とする個別所有」がまだ存在している。したがって、この協同社会は資本主義的生産様式のいわば直接の否定=克服を完成したばかりの段階にあり、まだ「必然の王国」の枠内にとどまっている。
…[旧ソ連邦官僚/行政的物財バランス式国有計画経済システムの “社会主義”]
….スターリニスト計画経済制度
反資本主義過渡期国家ソ連邦の官僚的テルミドール国家は経済行政・管理機構と全面的に一体化・複合しているところに重要な特徴をもっている。特権官僚の政治権力が直接に経済を掌握し、国家の行政として経済が組織され、運営されている。
国家と経済の融合の趨勢はある程度まで反資本主義過渡期国家の一般的な性格といえるかもしれない ― 基幹的生産手段・経済諸手段の資本主義的私的所有制の廃止とそれらの国有化によって、私的所有制にもとづくブルジョア的・資本主義的な “国家と市民社会の分離” が崩壊するという意味で。とはいえ、現在の資本主義のもとでは国家と経済の癒着ははなはだ高度に進展している。
だが、ソ連邦のスターリニスト国家体制のもでは経済管理・組織の機能が過大に取り込まれ・複合化されているといえるだろう ― 資本主義企業組織の重要な部分と市場のメカニズムを過大に代位する側面において。
経済計画の立案・編成機構とその計画にもとづく経済全体の組織・執行・管理の機構のきわめて多層的構造 ― 分門別の政府経済担当省の経済行政・管理のテクノクラート官僚制と企業現場における経営管理者層のシステム ― が一元的中央集権原理にもとづく位階制的組織構造として形成されている。これは経済の現実の構造・機能・活動と相当程度まで一対一的に対応する経済官僚制・企業管理者層の体系として存在している。そこでは商品市場の基本的メカニズムに官僚的に代位する側面がかなりの程度まで重要な比重をしめている。この経済官僚制と企業経営者層の体系が独裁的政治権力組織としてのスターリニスト共産党によって組織され、掌握されてきた。
官僚制国家が独占的に掌握する国有「計画経済」の内部において市場とそのメカニズムは排除されており、純然たる官僚的行政指令・管理の体系として経済の計画・運営がおこなわれる。この経済行政・管理・運営のあり方は軍隊組織と非常によく似ている。この体系において、いわば軍団・師団の参謀部・指令部の位置をしめるのが特定部門の現場企業を統括する政府の各経済担当省であり、各企業や企業合同は軍隊における直接的戦闘部隊やその集合、あるいはその他の特定任務の遂行を課された個別部隊やその集合のようなものである。
部門別の経済担当省がゴスプラン(国家計画委員会)のもとに結集し、それぞれ配下の各企業・企業合同に「諮問」しつつ、国家の年次経済計画を作成する。毎年の投資についての決定はまさに国家としてこの段階においてなされる。この年次経済計画が、いわば市場に代わって、国民経済総体とその各部門の複合的バランス・均衡を確保するはずになっている。各経済担当省はこの年次経済計画を国家行政として執行・実施する直接的主体となり、それぞれ配下の企業と企業合同の現場的生産活動・経済活動を指揮・監督する。各企業と企業合同は直属の経済担当省から与えられた原材料・その他の投入資源をもって与えられた生産目標・経済活動目標の達成しなければならない。企業と企業合同の側には主体的な経済的位置はほとんどなく、それらは指令部から各種の補給をうけて特定任務の遂行に当たる個別部隊にすぎないのである。
全体としての年次経済計画の実現に責任をもち、その国家的執行にあたるのは、閣僚会議(ソ連邦政府)と各経済担当省である。経済活動の主体はまさしく官僚的政治権力であり、官僚制国家が全国民経済済を全面的に独裁してきた。
….スターリニスト計画経済モデルの諸特徴
① ソ連邦の官僚的経済計画は基本的に物財・物量レベル(物財バランス)でおこなわれており、市場とそれにもとづく価値基準は基本的要素として利用されていない。したがって、ソ連邦経済における価格は非常に“人為的”であり、“恣意的”である。
通貨計算と価格は、国有計画経済内部において企業にたいする財務的管理の手段としてきわめて部分的に利用されているだけである。また通貨・価格・市場は、労働者にたいする賃金支払いと大衆消費財の流通部門において、さらにソフホーズ・コールポーズにおける個人農業部門と流通部門との関係できわめて限定的に利用されてきたにすぎない。
② スターリニスト計画経済モデルには、以上のような性格 ― 市場・価値法則の官僚的圧殺にもとづく物財バランス方式 ― と結びついて、生産財・軍事部門のために消費財部門が全面的に犠牲にされる構造的メカニズムがあった。
スターリニスト計画経済モデルは孤立して堕落した労働者国家が帝国主義との戦争の脅威に直面するなかで形成されたものであり、官僚的戦時準備経済計画方式という性格をもっていた。戦後世界におけるアメリカ帝国主義との対抗関係のもとで、スターリニスト計画経済モデルのこのような性格は基本的に変わらなかった。
③ スターリニスト計画経済システムはその固有の性格として一国志向的・一国閉鎖的である。
その経済計画の編成および執行の構造からしてスターリニスト計画経済モデルは一国的に自己完結・自己閉鎖しようとする性格をもっている。東欧各国において移植されたのも、その内在的性格として一国社会主義的な官僚的国有計画経済であった。
ソ連邦・東欧圏において統一的国際市場は形成されず、コメコン諸国間の国際貿易は基本的に物対物のバータ取引による「計画貿易」・「契約貿易」としてなされた。また、コメコンはソ連邦を中心軸にして「放射状」構造として形成され、ソ連邦以外のコメコン諸国間の相互的貿易関係は強力に発展しなかった。こうして、コメコン体制を構成する各国ごとに独特な閉鎖的性格とその限界づけられた性格を保持せざるをえなかった。
④ スターリニスト計画経済システムは伝統的農業を官僚の暴力によって解体し、官僚的に統制・支配された「集団農業」方式をつくりだした。その結果は農業部門における自主的生産意欲の全面的な圧殺であった。その補いとして、「集団農業」の維持のためにスターリニスト官僚体制はその当初から個人農業にたいしていわば補完的に妥協しなければならなかった。
..2 エンゲルスの『共産主義の原理』(一八四七年) と『反デューリング論』(一八七六~七八年) ― 「現在の社会」から「共同社会」にいたる過渡期、分業ならびに階級の廃止、新しい人間の形成、都市と農村の対立の解消
…[エンゲルス『共産主義の原理』(一八四七年)]
エンゲルスは『共産主義の原理』で「私的所有の廃止は一挙にできるだろうか」と設問し、次のように答えている。
「いや、できない。それは、いま現にある生産力を共同社会を打ちたてるために必要な程度にまで一挙に何倍にも増やせないのと同じことだ。したがって、おそらく来りつつあるプロレタリアートの革命は現在の社会をただ徐々に変革し、そして …… 必要な生産手段の量がつくりだされたときに初めて私的所有を廃止することができる。」(『全集』四巻、三八九頁)。
したがって、当時の資本主義と共産主義「共同社会」のあいだに「プロレタリアートの革命」のうえで「現在の社会をただ徐々に変革し」「必要な生産手段の量」をつくりだして「私的所有の廃止」を全面的に実現するにいたる一つの過渡的局面が想定されている。
そのうえで、『共産主義の原理』は「私的所有を最後的に廃止した結果はどうなるだろうか」と設問して次のように述べている。
「私的所有の圧迫から解放された大工業は非常な大きさに発達し、それにくらべると現在までにできあがった大工業も …… きわめてこせこせしたものに見えるだろう。このような工業の発達はすべての人の欲望を満たすにたりるだけの生産物を社会の用に供するだろう。 …… 私的所有や土地分割の圧迫によってこれまでの改良や科学の発達による成果を取り入れることを妨げられていた農業もまったく新しい飛躍をして、不足なく十分な生産物を社会の用に供するだろう。このようにして、すべての成員の欲望が満たされるように分配を整備しうるほどに十分な生産物を社会はつくりだすだろう。」
「これとともに、社会がたがいに対立する種々の階級に分裂しているのは余計なことになる。…… それは …… 新しい社会秩序と両立しないものにさえなる。なぜなら、工業生産と農業生産をいまいったような高さに引きあげるには、機械的・科学的補助手段だけでは十分でないからである。このためには、こういう補助手段を使いこなす人間の能力も同じようにこれに応じて発達していなければならない。…… 社会全体による生産の共同経営やそこからくる生産の新しい発展はまったく別の人間を必要とし、またこれを生みだすだろう。」
「各人がただ一つの生産部門に従属し、その部門に縛りつけられ、その部門によって搾取され、他のすべての素質を犠牲にしてただ一つの素質だけを伸ばし、一つの部門あるいは生産全体の一部門のなかの一部門だけしか知らないような今日の人間では、生産の共同経営などやれない。…… 社会全体が共同で計画的に経営する産業はあらゆる面で発達し生産の体系全体を見とおせる人間をなによりも前提としている。…… 教育は若い人々を …… 社会の必要や各人の好みに応じて生産部門の系列を順々に移ることができるようにするだろう。…… 共産主義的組織になった社会は各人に彼らの全面的に発達した素質をあらゆる方面にのばす機会をあたえるだろう。」
「ここから、都市と農村の対立もまたなくなるだろう。二つの違った階級が農業と工業を経営するかわりに同じ人間が農業と工業を経営することは、まったく物質的原因だけからしても共産主義共同社会の必然的条件である。農村で農業を営む人口が分散し、これとならんで大都市で工業に従事する人口が密集していることは工業と農業のまだ発達していない段階におうじた状態であり、これが将来のあらゆる発展の邪魔になることは今日すでに感じられている。」(以上、同上三九二~三頁)
…[エンゲルス『反デューリング論』(一八七六~七八年)
エンゲルスが以上のように主張したのは一八四七年である。それから三十年後、資本主義がその新しい生産力とともに帝国主義段階に入ろうとしていた時点で基本的に同一の考えが『反デューリング論』(一八七六~七八年執筆) において述べられている。
「搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と支配される階級とのこれまでのあらゆる歴史的対立は人間の労働の生産性が比較的に未発達だったという …… 事情によって説明される。実際の労働に従っている住民が自分たちの必要労働にあまりにも忙殺されていて、社会の共同事務 ― 労働の指揮、国務、法律事務、芸術、科学など ― に従う時間が彼らに少しも残されていないかぎり、いつでも実際の労働から解放されてこれらの事務に従う特別の一階級が存在しなければならない。…… 大工業によってなしとげられた生産力の巨大な増大によってはじめて例外なくすべての社会成員に労働を割り当て、そうすることによって各人の労働時間をいちじるしく短縮し、社会の全般的事務 ― 理論的または実践的な ― にたずさわる十分な余暇がすべての人々に残されるようにすることが可能になる。だから、いまこそはじめて支配し搾取する階級はすべて余計なもの、それどころか社会発展の障害物になったのである。」(『全集』二〇巻一八八頁)
「社会の全員にたいして物質的に完全に満ちたりて日ましに豊かになってゆく生活だけでなく、さらに彼らの肉体的および精神的素質が完全に伸ばされ発揮されるように保障する生活を社会的生産によって確保する可能性、そのような可能性がいまはじめて存在するようになった。」(同上、二九一頁)
「分配は純経済的考慮によって支配されるかぎり生産の利益によって規制されるだろうし、そして生産を最もよく促進する分配様式は社会のすべての成員がその能力を可能なかぎり全面的に発達させ維持し行使することができるような分配様式である ……。」(同上、二〇七頁)
「ユートピア社会主義者たちはすでに分業の結果を完全にはっきりと理解していた。すなわち、一方では労働者の発達が阻害されること、他方では労働活動そのものが同じ一つの行為を一生涯単調に機械的に繰り返すだけのものになり、その発達が阻害されることである。都市と農村の対立の廃止は旧来の分業一般を廃止するための第一の根本条件としてフーリエによってもオーエンによっても要求されている。…… この二人のどちらにおいても、社会のすべての成員が農業と工業の双方に参加する。…… 二人とも農業の内部でも工業の内部でも各人の仕事をできるだけ様々に転換させるよう要求しており、それに対応してできるだけ全面的な技術的活動のための教育を青年に授けるよう要求している。」(同上、三〇一頁)
「各人が解放されなければ社会は自分を解放できない。だから、旧い生産様式は根底から変革されねばならないし、ことに旧来の分業は消滅しなければならない。それに代わって次のような生産組織が現れねばならない。それは、一方では、なにびとも人間の生存の自然的条件である生産的労働にたいする自分の受持分を他人に転化することができず、他方では、生産的労働が人間を隷属させる手段でなくなり、各人に一切の肉体的および精神的能力をあらゆる方面に発達させ発揮させる機会を提供することによって人間を解放する手段となり、こうして、かっては重荷であった生産的労働が楽しみになるような生産組織である。」(同上、三〇二頁)
「都市と農村の対立を廃止することはたんに可能なだけではない。それは工業生産そのものの直接の必要事となっており、同様にまた農業生産の面からみても、さらに公共衛生の面からみても必要なことになっている。都市と農村を融合させることによってのみ、今日の空気や水や土壌の汚染を取りのぞくことができるし、そうすることによってのみ今日都市で痩せおとろえている大衆の状態を変え、彼らの糞尿が病気を生みだすかわりに植物を生みだすために使われるようにすることができる。」
「資本主義的生産の制限から解放された社会はさらに大きく前進することができる。全体としての工業生産の科学的基礎について理解をもち、その一人ひとりが多くの生産部門について始めから仕上がりまで実地の経験をつんでいる全面的に発達した生産者の一世代を生みだすことによって、この社会は遠距離から取りよせられる原料や燃料の輸送に費やされる労働をつぐなってはるかにあまりある一つの新しい生産力をつくりだす。」
「だから、都市と農村の分離を廃止することは、大工業を全国にわたってできるだけ均等に分布させることがそのための条件になるという面からみても空想ではないのである。なるほど、文明はわれわれに大都市という遺産を残したし、これを取りのぞくためには多くの時間と労苦を要するだろう。だが、それがどんなに長々しい過程であるにせよ大都市は取りのぞかれねばならないし、また取りのぞかれるだろう。」(以上、同上三〇四~五頁)
…[空想的社会主義者たちとマルクス=エンゲルス「共産主義」のエコロジー的性格]
以上によって明らかなように、マルクスとエンゲルスの共産主義は第一次産業革命期における空想的社会主義者たちの鋭い資本主義批判を積極的に引きつぎ、その時代との関係できわめてエコロジー的だったのである。
プレオブラジェンスキーは『社会主義とは何か』第一章「偉大な空想社会主義者」でサン=シモン、フーリエ、カベー、ロバート・オーエンについても検討しており、そのうえで次のように述べている ― 「都市と農村の矛盾という問題はすべての空想的社会主義者たちがきわめて注意深く取り扱ってきたものである。しかしながら、彼らの功績は、その克服の道を切り開くというよりは、むしろこの問題を提起し、この分離の諸原因とその否定的結果を説明することにあった。マルクスとエンゲルスもまたこの問題に大いなる注意をはらった」と(同書 一一一頁)。
『共産党宣言』にはこの点と関連する次のような記述がある。
「(批判的=ユートピア的)社会主義的および共産主義的著作は …… 現存社会のいっさいの基礎を攻撃している。だから、それらは労働者を啓蒙するためのきわめて貴重な材料を提供した。未来の社会についてそれら …… が提出している積極的命題 ― たとえば都市と農村の対立や家族や私的営利や賃金を廃止すること、社会的調和の宣言、国家をたんなる生産管理機関に転化することなど ― …… はすべて階級対立の消滅をいいあらわしたものに他ならない。」(『全集』四巻、五〇五頁)
.Ⅲ 資本主義から共産主義への過渡期
..1 「一つの世界革命」
マルクスとエンゲルスが想定した生産手段の共有にもとづく協同社会とそこにおける商品経済-価値法則-資本主義生産様式から解放された直接に共同的な社会的生産の実現はすでに達成されている最高の生産力を基礎にしてヨーロッパ-北アメリカ規模において考えられていたし、生産力のさらに高度の発展をテコとして展望されていた。資本主義は世界市場において成立していたし、その克服は世界市場のレベルでしかありえない。この克服は西ヨーロッパ諸国を中心とするプロレタリアートの国際革命を媒介して展望されていた。
エンゲルスは、一八四七年の一論文で、「民主主義は、すべての文明諸国においてプロレタリアートの政治的支配を必然的にもたらす。そして、プロレタリアートの政治的支配はあらゆる共産主義的施策の第一前提である」と述べている(『全集』四巻、三三三頁)。「共産主義の原理」では、「この革命」は「まず民主主義的国家制度を、そしてそれによって直接または間接にプロレタリアートの政治的支配を打ち立てるだろう。イギリスのようにプロレタリアがすでに人民の大多数を占めているところでは直接に、フランスやドイツのように人民の大多数がプロレタリアだけでなく小農民や小市民からなっている国々では間接に」と述べられている(同上三九〇頁)。
この革命の国際的性格について「共産主義の原理」は次のように述べている。
「大工業が世界市場をつくりだし、すでに地球上のすべての人民、とりわけ文明国の人民を互いに結びつけているので、どの国の人民も他の国で起こることに依存している。…… 共産主義革命はけっして一国だけのものでなく、…… 少なくともイギリス、アメリカ、フランス、ドイツで同時におこる革命となるだろう。この革命は、これらの国々でどの国がより発達した工業、より大きな富、また生産力のより大きな量をもっているかに応じて急激あるいは緩慢に発展するだろう。…… それは、世界の他の国々にも同じように著しい反作用をおよぼし、それらの国のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的地盤で起るだろう。」(同上三九一~二頁)
このことは『共産党宣言』では次のように述べられている。
「ブルジョアジーは世界市場の開発をつうじてあらゆる国々の生産と消費を全世界的なものにした。産業の足もとから国民的基盤をとりさっ …… た。古来の民族的諸産業は滅ぼされ、なおも日々に滅ぼされていく。それらの民族的産業は新しい産業によっておしのけられ、これらの新しい産業を導入することがあらゆる文明国にとって死活の問題となる。それはもはや国内産の原料ではなくて …… 遠い地域で産する原料を加工する産業であり、これらの産業の製品は自国内だけではなく同時にあらゆる大陸で消費される。 …… 昔の地方的また国民的自給自足や閉鎖に代わって諸国民の全面的交通、全面的依存関係か現われてくる。」(同上 四七九頁)「ブルジョアジーが発展するにつれて、また貿易の自由がうちたてられ、世界市場が生まれ、工業生産やそれに照応する生活諸関係が一様化するにつれて、諸民族が国々に分かれて対立している状態は今日すでにしだいに消滅しつつある。プロレタリアの支配はこの状態の消滅をいっそうはやめるだろう。少なくとも文明諸国だけでも共同して行動することがプロレタリアの解放の第一条件である。」(同上四九五頁)
..2 イギリス・プロレタリア革命を梃子とする世界市場における資本主義の克服
ところで、マルクスは『フランスにおける階級闘争』(一八五〇年)においてフランスとそのプロレタリアートについて次のように述べている。
「産業プロレタリアートの発達は一般に産業ブルジョアジーの発達によって制約されている。産業ブルジョアジーの支配のもとで産業プロレタリアートははじめて自己の革命を国民的革命にまで高めることのできる広範な国民的存在となる」し、「産業ブルジョアジーは近代工業がすべての所有関係を自分自身に適合させて形成するところでのみ支配することができ、そして工業はそれが世界市場を征服したところでのみその力を獲得する。」「ところが、フランスの工業の大部分は国内市場でさえ多少とも修正された禁止的関税制度によってようやく維持しているにすぎない。だから、フランスのプロレタリアートは革命の瞬間にパリで事実上の権力と影響力をもち、そのために彼らのもつ手段以上の行動に駆り立られる」としても、「発達した近代的形態における …… 産業ブルジョアジーにたいする産業賃金労働者の闘争はフランスでは局部的事実」である(『全集』七巻、一六~八頁)。
「フランスでは正常ならば産業ブルジョアジーがなすべきことを小ブルジョアがやり、正常ならば小ブルジョアの任務であることを労働者がしている。それでは、労働者の任務は誰が解決するのか。誰も解決しない。それはフランスでは解決されない。…… フランス社会内部の階級戦は諸国民が相対峙する世界戦争に転化する。その解決 …… は、世界戦争によってプロレタリアートが世界市場を支配している国民 ― すなわちイギリス国民 ― の先頭に立たされる瞬間にはじめて始まる。革命はこの国で終結せず組織的に始まるのだが、それは息の短い革命ではない。今日の世代は …… 一つの新世界を征服しなければならないだけでなく、新世界に対処する人に席を譲るために滅んでゆかねばならない。」(同上七六頁)
マルクスはまた「賃労働と資本」(一八四九年)の冒頭で一八四八年の革命について次のように総括している ― 「革命的労働者の敗北とともにヨーロッパはその旧い二重の奴隷制、すなわちイギリス的=ロシア的奴隷制に逆もどりした。」「すべて革命的反乱はたとえその目標がまだどんなに階級闘争から遠く離れているようにみえても革命的労働者階級が勝利するまで失敗する以外にないこと、すべての社会改良はプロレタリア革命と封建的反革命が一つの世界戦争で武器をもって勝敗を決するまでユートピアにとどまることを証明した。」
また「賃労働と資本」の冒頭では「世界市場の専制的支配者であるイギリスによってヨーロッパ諸国のブルジョア階級が商業的に隷属され搾取されている」と言及されている。
こうして、イギリス、フランス、ドイツの労働者が中心的推進力となるべきヨーロッパ規模の国際革命を全般的枠組みとしてイギリスにおいてブルジョアジーを政治的に打倒しプロレタリアートの階級的政治支配を実現することが資本主義的生産様式から共産主義 ― 生産手段の共有にもとづく協同社会とその生産様式 ― へむかう過渡期の本格的開始の条件として想定されていた。資本主義は世界市場の形成と一体であり、イギリスにおいて最先端的に成立していたし、この中心部においてその歴史的克服のテコを獲得しなければならない。プロレタリアートの「革命はこの国(イギリス)で終結せず組織的に始まる」が、それは世界市場をともなって成立している総体としての資本主義を克服しようとする新らしい広大な過渡期の開始であり、これは「息の短い革命」たりえない。
イギリスが占める位置について、マルクスは第一インターナショナルの一文書(一八七〇年)で次のように繰り返している。
「革命的イニシアチブはおそらくフランスによってとられるだろうが、真剣な経済的革命のテコとして役立ちうるのはイギリスだけである。イギリスは、もはや農民が存在せず土地所有がほんの少数の手に集中しているただ一つの国である。また資本主義的形態 ― すなわち資本主義的企業家のもとに大規模に結合された労働 ― がほとんど全生産を支配しているただ一つの国である。また、人口の大多数が賃金労働者からなっているただ一つの国であり、階級闘争と労働組合による労働者階級の組織化がある程度の成熟と普遍性を獲得しているただ一つの国である。さらに、その世界市場の支配によって、その経済関係におけるどんような革命も直接に全世界に作用を及ぼさざるをえないただ一つの国である。地主制度と資本主義がこの国に古典的本拠をもっているとすれば、他方ではこれを破壊する物質的諸条件がここでもっとも成熟しているわけである。」「イギリスはたんに他の諸国とならぶ国として扱われるべきではない。 ― イギリスは資本の本国として扱われるべきである。」(『全集』一六巻、三八〇~一頁)
マルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』の時期から第一インターナショナルの時期、さらに第二インターナショナルが準備される時期にいたるまで、ヨーロッパにおけるプロレタリア革命を常にイギリス、フランス、ドイツの三国における革命を基軸に考えたし、一九世紀資本主義ヨーロッパの中枢部分をこれら三国のプロレタリアートが革命的に奪取するものと想定していた。
それは、イギリスが先導する産業革命の国際的展開を歴史的基盤として国際プロレタリアートによってイギリス中心の国際資本主義を克服する革命として、また政治的にはフランス革命におけるロベスピエールのジャコバン独裁期にみられた都市サンキュロットと下層農民大衆の “革命的民主主義” 運動を一九世紀産業プロレタリアートが歴史的に継承しようとするものとして構想されていたといえるだろう (山本統敏編『第二インターの革命論争』[一九七五年、紀之国屋書店] の解説論文「エンゲルスと第二インターナショナル」参照)。
..3 階級的独裁と過渡期
マルクスは、一八五二年の一手紙で、「近代社会における諸階級の存在を発見したのも、諸階級相互間の闘争を発見したのも」自分の独自の功績ではなく、自分が新たに証明したことは「(一)諸階級の存在は生産の特定の歴史的発展諸段階とのみ結び付いていること、(二)階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導くということ、(三)この独裁そのものは一切の階級の廃絶、階級のない社会への過渡期をなすにすぎないこと」であると述べている(「ワイデマイヤーへの手紙」、『全集』二八巻、四〇七頁)。
またエンゲルスは、『住宅問題』(一八七二年)において、パリ・コミューンにおいて「たんなる政治的革命家から一定の綱領をもつ社会主義的労働者フラクションになろう」としたブランキー主義者は「プロレタリアートの政治的行動の必然性や、階級とそれとともに国家の廃止への過渡としてのプロレタリアートの独裁の必然性に関するドイツの科学的社会主義の見解をほとんど文字どおりに宣言した」が、それは「すでに『共産党宣言』において表明されており、それ以来いくどなく表明されている」ものであると述べている(『全集』一八巻、二六二頁)。
プロレタリアートの独裁についての考えと「階級のない社会への過渡期」という想定はマルクスとエンゲルスにとって一体のものだった。
マルクスは、プロレタリアートの階級的独裁が意味するところについて「バクーニンの著書『国家制と無政府』概要」(一八七三年) で次のように説明している。
「“<支配身分まで高められた>プロレタリアートとは …… どういうことか?”(バクーニン) それはプロレタリアートが個別的に経済的特権階級と闘うかわりに彼らにたいする闘争で一般的強制手段を用いるだけの力と組織をかちとったということである。だが、プロレタリアートが用いることができるのは、賃金労働者として、したがって階級としての彼ら自身の性格を揚棄するような経済的手段だけである。…… 彼らが勝利するとともに彼らの階級としての性格は終わり ……、彼らの支配もまた終わる…。」(『全集』一八巻、六四三頁)
「他の諸階級、とくに資本家階級がなお存在するかぎり、プロレタリアートが資本家階級と闘うかぎり、なぜならプロレタリアートが政府権力を握ってもその敵と旧い社会組織はまだ消滅していないので、プロレタリアートは暴力手段を用い、したがって政府手段を用いなければならない ……。プロレタリアート自身がまだ一階級であり、階級闘争と諸階級の存在の基底をなしている経済的諸条件がまだ消滅していないとすれば、それは暴力をもって排除または改造されねばならず、その改造過程は暴力をもって促進されねばならない。」(同上六四一頁)
「旧社会を転覆するための闘争の時期にはプロレタリアートはまだ旧社会の基盤のうえで行動し …… なお多かれ少なかれ旧社会に属していた政治的諸形態をとって活動するので、この闘争の時期中はプロレタリアートはまだ彼らの最終的体制には到達しておらず、解放の後には用いられなくなるような解放のための手段を行使する ……。」(同上六四六頁)
「労働者とたたかう旧世界の諸階層にたいする労働者の階級支配が存続しうるのは階級の存在の経済的基礎が廃絶されるまでのことである。」(同上六四五頁)
そして、「プロレタリアートが政府権力を握っても、その敵と旧い社会組織はまだ消滅していない」し、「階級闘争と諸階級の存在の基底をなしている経済的諸条件がまだ消滅していない」ような時期、つまり「階級の存在の経済的基礎が廃絶されるまで」の時期が「資本主義社会から共産主義社会」への「過渡期」にあたることは明白である。
..4 コミューンの可能性
プロレタリアートの独裁と過渡期の問題に関してさらに興味深いのはパリ・コミューンとコミューンの可能性についてのマルクスの主張である。『フランスの内乱』のための草稿が残っているが、その第一草稿といわれるもので次のように述べられている。
「コミューン …… は国家権力が社会を支配し圧服する力でなく社会自身の生きた力として社会によって、人民大衆自身によって再吸収されたものであり、この人民大衆は自分たちを抑圧する組織された強力にかわって彼ら自身の強力を形成するのである。」
「それ(コミューン)は、社会的解放の政治形態、労働者自身によってつくりだされたか、あるいは自然のたまものであるような労働手段の独占者たちによる簒奪(奴隷制)から労働を解放するための政治形態」であり、「労働者階級の社会的運動」の「組織的行動手段」である。「コミューンは階級闘争を廃止するものではない。労働者階級は階級闘争を手段としてすべての階級と …… すべての階級[支配]を廃止することにつとめる。…… コミューンはこの階級闘争がその様々な局面をもっとも合理的で人道的なかたちで経過できるような合理的環境をつくりだす。コミューンが激烈な反動とまた同様に激烈な革命をよびおこすこともありうる。」
「労働者階級は …… 労働の奴隷制の経済的諸条件を自由な協同労働の諸条件とおきかえることは時間を要する漸進的仕事でしかないこと ……、そのためには分配の変更だけでなく生産の新しい組織が必要であること、…… 現在の組織された労働にもとづく社会的生産諸形態 …… を奴隷制の桎梏、その現在の階級的性格から救いだして …… 全国的および国際的に調和あるかたちで結合する必要があることを ……知っている。」「現在の “資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的作用” を “自由な協同労働の社会経済の諸法則の自然発生的作用” とおきかえることは …… 新しい諸条件が発展してくる長い過程をつうじてはじめて可能になることを彼らは知っている」と(同上、五一四~八頁)。
「資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的作用」を克服して「自由な協同労働の社会経済の諸法則の自然発生的作用」でおきかえることは「新しい諸条件が発展してくる長い過程をつうじてはじめて可能になる」のであり、これはまさに「環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程」であり、この過渡期をつうじて「今日の世代」は「一つの新世界を征服しなければならない」が同時に「新世界に対処する人に席を譲るために滅んで」ゆくことになる(前出)。「社会全体が共同で計画的に経営する産業は、あらゆる面で発達し生産の体系全体を見とおせる人間をなによりも前提にしている」し、「都市と農村の対立」の廃止ならびに「社会化された人間、結合された生産者 …… と自然の物質代謝」の合理的規制と共同的統制にむけて前進しなければならないのである。
.Ⅳ 過渡期の諸問題
..1 過渡期の問題への慎重なアプローチ
プロレタリアートの政治的支配の実現としての「労働者階級の政府」のもとで展開されるはずの「資本主義社会から共産主義社会」への過渡期についてマルクスとエンゲルスがその具体的様相について想定する言及や指摘は非常に少ない。マルクスとエンゲルスはプロレタリアートの階級的独裁と一体のものである反資本主義過渡期の存在とその基本的課題について理論的あるいは概念的にきわめて厳格だったが、その具体的な想定や細目については非常に慎重であり、また柔軟だった。そして、この慎重さは意識的なものだった。
エンゲルスは「住宅問題」(一八七二~七三年) で次のように述べている ― 「将来の社会の仕組みについてユートピア的学説を編みだすことはわれわれの仕事ではない」(『全集』一八巻二一九頁)、「現存の社会の対立やその他のなんらかの対立が解決されるべき形態を “現存の諸関係から出発して” あえて指定しようとするとき …… ユートピアが生まれる」(同上二七八頁)、「われわれがなしうることは …… 従来のすべての生産様式の基礎的諸条件の認識から出発して資本主義的生産の没落とともに従来の社会のある種の取得形態が不可能になることを確認することだけである。」 (同上二八三頁)
マルクスも一八八一年の一手紙で次のように述べている ― 「未来の革命の行動綱領の純理的で必然的に空想的な先取りは現代の闘争をそらすものでしかありません。…… 進行しつつある支配的社会秩序の解体にたいする科学的洞察と政府という旧い妖怪 …… によって …… 激高へかりたてられる大衆、同時に巨大な進展をとげつつある生産手段の確固たる発展 ― これらは実際にプロレタリア革命が勃発する瞬間にその …… 直接的な即座の行動様式の諸条件があたえられていることを保証するのに十分です。」(『全集』三五巻一三一~二頁)
しかし、マルクスとエンゲルスにはプロレタリアートの政治的支配下における過渡期とその課題について一定の重要な指摘がある。ここでは、そのいくつかについて見てみよう。
..2 過渡的方策・施策・措置
エンゲルスは一八四七年の論文で「プロレタリアートの政治的支配はあらゆる共産主義的施策の第一前提である」としたうえでドイツの「共産主義者 …… が私的所有廃止の準備として提案している …… 社会改革」について次のように述べている ― 「競争を制限し、個々人の手に大資本が堆積するのを制限するあらゆる施策、相続権のあらゆる制限または廃止、国家の側からする一切の労働の組織 ― これらすべての施策は革命的施策として可能であるばかりでなく、また必然でさえある。…… それは私的所有廃止のための準備として、過渡的中間段階として可能なのである。」「これらの諸施策」は「工業、農業、商業、交通の発展から、これに依存するブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の発展から自生的に必然的に生まれる結果として考えられる」のであり、「最終的施策としてでなく、階級闘争そのものに由来する暫定的社会救済策として生まれるものである。」(『全集』四巻、三二九~三一頁)
エンゲルスは、一八四七年の別の論文でも、「現行の富の生産と分配の様式を本質的に変えるような措置 ― すなわち、時の経過とともに一国の生産力の支配権を全人民にあたえ、一切の個人的 “雇い主” を一掃すべき措置」について言及している (同上、四四九頁)。
『共産党宣言』では次のように述べられている ― 「プロレタリアートはその政治的支配を利用してブルジョアジーからしだいに一切の資本を奪いとり、一切の生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産力の量をできるだけ急速に増大させるだろう。 …… このことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係への専制的侵害に …… よらねば不可能であるが、しかし、これらの方策は運動の進行につれてそれ自身の枠をこえて進むものであり、生産様式全体を変革するための手段として避けることのできないものである。」(前出)
『宣言』は、その上で、「最も進歩した国々で …… 全般的に適用できる」諸方策として「土地所有の収奪と地代を国家の経費にあてること」、「強度の累進税の実施と相続権の廃止」「亡命者・反逆者の財産の没収」、「国家資本による国立銀行をつうじた信用の国家への集中」、「全運輸機関の国家への集中」、「国有工場と生産用具の増大ならびに単一の協働計画による土地の開墾と改良」、「万人平等の労働義務と産業軍 ― とくに農耕産業軍 ― の設置」、「農業経営と工業経営を統合し、都市と農村の対立の漸次的除去に努めること」をあげている。
またマルクス=エンゲルス起草の「ドイツにおける共産党の要求」(一八四八年)では当時のドイツの状況に対応した一七項目にわたる方策が提出されており、それらは国家組織のあり方に関する政治的方策、封建的遺制の廃止ならびに様々な過渡的社会経済方策の三つによって構成されている (『全集』五巻、三~四頁)。
これらは労働者階級による政治権力奪取と直接または間接に結びつけられた “過渡的政策” の体系であり、マルクスとエンゲルスはこの基本的方法を最後まで堅持している。
このことに関連して、エンゲルスは一八八一年の手紙で次のように述べている ― 「われわれが積極的提案をおこなうとき実行可能な提案だけおこなうべきだということはまったくそのとおりである。…… われわれが資本主義的生産の転覆にみちびく社会主義的方策 …… を提案するとき、実質上は実行可能であるが現政府にはやれないような方策だけを提案しなければならない。」(『全集』三六巻、三七二~三頁)
マルクスとエンゲルスによる以上のような方策・方法は、レーニンが一九一七年十月を前にして権力奪取のための闘いと結びつけて提出した「さし迫る破局 ― それとどう闘うか」の立場、コミンテルン第三・四回大会がプロレタリア統一戦線と労働者政府のための闘いと結びつけて提出した過渡的諸要求についての指示、さらにトロツキーが一九三〇年代において労働者階級による権力奪取のための闘争の行動綱領として提出した「過渡的綱領」として歴史的に継承されるのである。
..3 資本の収奪と生産手段の国家への集中
「プロレタリアートの政治的支配」が実施すべき過渡的方策、私的所有の廃止という「社会の終局の根本的変革の実現を目標とする過渡的措置」あるいは「資本主義的生産の転覆にみちびく社会主義的方策」の中心をなすのは、「ブルジョアジーからしだいに一切の資本を奪いとり、一切の生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中する」方向にむかう方策であるだろう。『フランスの階級闘争』では、「資本にたいする強力の背後には生産手段の取得、結合した労働者階級の支配下に生産手段をおくこと、すなわち賃労働と資本の撤廃およびこの両者の関係の撤廃がある」と述べられている (『全集』七巻、三九頁)。
ところが、『共産党宣言』は当時の「最も進歩した国々」で「全般的に適用できる」諸方策として「土地所有の収奪」と地代の国家への引渡し、「信用の国家への集中」、「全運輸機関の国家への集中」、「国有工場と生産用具の増大」 などを明記しているが、工業生産手段の国家による直接的収用については言及していない。
エンゲルスの「共産主義の原理」では、「地主、工場主、鉄道所有者、船主の財産」を「国営産業の競争」または「政府紙幣による賠償」によって「漸次的に収用する」こと、そして「プロレタリアートの労働または業務を国有地、国有工場、国有作業所において組織し、こうして労働者間の競争をなくし、また工場主がいる間はその工場主に国家が支払うのと同じ高さに引き上げた報酬 (労賃)を支払わせる」こと、さらに「国家資本をもつ国有銀行をつうじて信用制度と貨幣取引を国家の手に集中し、すべての個人銀行や金融業者を禁止する」こと、そして「国有の工場、作業所、鉄道、船舶の増加」と「国家の手に一切の運輸機関を集中する」ことなどが主張されている (『全集』四巻三九〇~一頁)。
また「ドイツにおける共産党の要求」の過渡的社会経済方策の部分では、「すべての私的銀行の廃止と国立銀行の設立 (信用制度を全国民の利益のために統制し、大金融業者の支配を掘りくずす)」、「すべての交通機関 (鉄道、運河、汽船、道路、郵便など)を国家の財産とする”」こと、「国立作業所の設置」などとなっている。
こうして、プレオブラジェンスキーは、「“党宣言” と “共産党の要求” の項目 …… から明らかであるように、マルクスとエンゲルスは …… プロレタリアの権力奪取後の時期については極度に穏健なネップをもって、しかもわれわれの現在のネップよりもはるかに穏健なネップで始めるよう助言をあたえた」と述べている (『社会主義とは何か』七三~四頁)。
エンゲルスは、一八五〇年の一論文で、「住民の三分の二が産業プロレタリアであるイギリスにおける普通選挙権は労働者階級の独立的な政治的支配とそれと分かちがたい社会状態のあらゆる革命的変革を意味する」し、「イギリスにおけるプロレタリア革命の最初の結果は、国家すなわち支配者としてのプロレタリアートの手中への大工業の集中だろう」と述べている (『全集』七巻、二四七~八頁)。一方、エンゲルスの「住宅問題」(一八七二年) では、「プロレタリアートが権力を掌握するとき生産用具、原料および生活手段をあっさり暴力的に奪取するかどうか、また …… 補償をすぐに支払うか、それともその所有権を長期の賦払いによって償却するかということは問題ではない。そのような問題に前もってどんな場合にも当てはまる答をあたえようとすることはユートピアを製造することである」とされている (『全集』一八巻、二八〇頁)。
..4 農業の共同化と農民的土地所有、プロレタリア革命と農民
農業の問題に関連して、「共産主義の原理」は、「プロレタリアートの労働または業務を …… 国有地において組織する」ことを主張し、また「国民の共同団体のための共同住宅として国有地に大住宅をつくる。この共同体は工業と農業を営み、田園生活と都市生活の長所を結合し、その両生活様式の一面性と不便を免れる」と主張している (『全集』四巻、三九一頁)。『共産党宣言』は、「土地所有の収奪」、「単一の協働計画による土地の開墾と改良」、「農耕産業軍の設置」、「農業経営と工業経営を統合し、都市と農村の対立の漸次的除去に努めること」を主張している。
「ドイツおける共産党の要求」では次のようになっている ― 「これまで農民を苦しめてきたあらゆる封建的負担、あらゆる貢租、賦役、十分の一税などはなんらの補償なしに廃止される」、「王侯領その他の封建的領地 …… は国家の財産にする。これらの領地では農業は大規模に科学の最新の方法を用いて全国民の利益のために経営される」、「農民の地所に設定された抵当権は国家の財産であると宣言される。農民はそれらの抵当権の利子を国家に支払う」、「小作制度の発達した地方では地代または小作料は租税として国家に支払われる」、そして以上の「方策はみな、国費の支弁に必要な手段をせばめることなく、生産そのものを傷つけることなしに農民と小作人にたいする公共の負担その他の負担を軽減するために実施されるものである。」 (『全集』五巻)
そして「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」ではいわば「ドイツおける共産党の要求」の説明として次のように主張されている。
「ブルジョア民主主義者が労働者と衝突する第一の問題は封建制廃止の問題だろう。小ブルジョアは第一次フランス革命のときのように封建的領地を農民に自由な所有としてあたえ ……、農村プロレタリアートをそのまま残すと同時に小ブルジョア的農民階級をつくりだそうとするだろう。この階級はいまなおフランス農民がたどっているのと同じ貧困化と負債化の循環をたどることになろう。」「労働者は農村プロレタリアートの利益とさらに自分自身の利益のためにこのような計画に反対しなければならない。労働者は没収された封建的所有をそのまま国有地とし、労働者入植地にあてるよう要求しなければならない。結合した農村プロレタリアートが大規模農業のあらゆる利点を用いてそれを耕作する。こうすれば、ぐらついているブルジョア的所有関係のまんなかで共同所有の原理がただちに強固な基礎を獲得することになる。民主主義者が農民と結ぶように、労働者は農村プロレタリアートと結ばねばならない。」(『全集』七巻、二五六~七頁)
エンゲルスは、「フランスとドイツの農民問題」(一八九四年)で、「生産手段の共同所有」という「主要目標」は「そのための基盤がすでに整っている工業についてだけでなく、 …… 農業についてもあてはまる」とし、「個別所有は、それが存在しているところでは、また存在しているかぎり、共同所有を不可能にするからである」と説明している (前出)。
だが、エンゲルスは大土地所有と農民的小土地所有の取り扱いを区別していた。エンゲルスは、同じ論文で「われわれが国家権力を握るとき、大土地所有者についてやらねばならないように小農を力ずくで収奪する …… などということはとうてい考えられない」、「小農にたいするわれわれの任務は …… 力ずくでなく実例とそのための社会的援助の提供によって小農の私的経営と私的所有を協同組合的なものに移行させることである」と述べている。
そして、マルクスの「バクーニンの著書『国家制と無政府』概要」(一八七三年) において農民にたいするプロレタリア革命の実践的立場が以下のようにまとめられている。
「農民が私的土地所有者として大量に存在しているところ …… では次のようなことが起こる。すなわち、農民がこれまでフランスでやってきたようにあらゆる労働者革命を妨げ挫折させるか、あるいは (私有者としての農民はプロレタリアートに属せず、またその状態からいってプロレタリアートに属する場合にも自分では属していないと信じているから)農民の状態が直接に改善されて …… 農民を革命の側に獲得するような諸方策をプロレタリアートが政府としてとらねばならないか、どちらかである。しかも、その諸方策は土地の私的所有から集団所有への移行を萌芽状態において容易にし、その結果、農民がおのずから経済的に集団所有に進むような諸方策であって、たとえば相続権の廃止を布告したり農民の所有の廃止を布告したりして農民の気を悪くするようなことをしてはならない。後者のようなことができるのは、 (イギリスにおけるように)資本家的借地農業者が農民を押しのけてしまい、現実に土地を耕す者が都市労働者と同じようなプロレタリア、賃金労働者となっており、したがって都市労働者とまったく同一の利害を間接にではなしに直接にもつようなっている時にかぎられる。バクーニンの革命戦役のさいのように、単純に大きな領地を農民にとりこませて分割地を大きくすることによって分割地所有が強化されるようなことをしてはならない。」
「徹底した社会革命は経済的発展の一定の歴史的諸条件と結びついている。それらの条件は社会革命の前提である。したがって、社会革命は資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆のなかで相当の地位を占めるようになったところではじめて可能である。そして、彼らがなんらかの勝利のチャンスをもつためには、彼らは少なくともフランスのブルジョアジーが彼らの革命にあたって当時のフランス農民のためにしてやったのと同じ程度のことを必要な変更をくわえて直接に農民のためにしてやることができなければならない。」(以上、『全集』一八巻六四一~三頁)。
..5 反資本主義過渡期の経済管理を準備する資本主義
プロレタリアートの政治的支配下における経済の管理と運営についてマルクスとエンゲルスはどのように想定していただろうか。この問題に関する両人の直接の言及はますます少なくなる。ここでは、資本主義生産様式がいわば過渡期の経済管理・運営のための要素を準備する側面について『資本論』第三巻で述べられている部分をみてみよう。
…[資本所有と企業経営・管理の分離]
まず資本主義生産様式下の「監督と指揮の労働」に関連して『資本論』第三巻二三章「利子と企業者利得」に以下のような記述がある。
「資本主義的生産それ自身は指揮の労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。…… この指揮労働が資本家によっておこなわれる必要はなくなった。」「資本家の労働」が「社会的労働としての労働の形態」つまり「一つの共同の結果を生むための多数人の結合と協業から生じるかぎりでは、この労働は資本とかかわりない」のである。
「管理賃金は商業的管理者にとっても産業的管理者にとっても企業者利得からまったく分離してあらわれるし、労働者の協同組合工場でも資本家的株式企業でもそうである。」「協同組合工場」では「管理者は労働者たちから給与を受け取り」、「労働者たちに対立して資本を代表する」ものではない。「信用制度とともに発展する株式企業には、機能としてのこの管理労働を自己資本であろうと借入資本であろうと資本の所有からますます分離してゆく一般的傾向がある。」「信用の発展につれて …… 貨幣資本そのものが社会的性格をもつようになり、銀行に集中されて、もはやその直接の所有者からでなく銀行から貸し出されるようになることによって、他方では、借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどのような権原によっても資本の所有者でない単なる管理者が機能資本家に属するすべの実質的機能をおこなうことによって残るのはただ機能者だけになり、資本家は余計な人物として生産過程から消えてしまう。」(『全集』二五a巻四八四~七頁)
…[株式会社]
また株式会社制度に関して『資本論』第三巻二七章「資本主義的生産における信用の役割」に以下のような記述がある。
「株式会社の形成」によって「生産規模の非常な拡張がおこなわれ、個人資本には不可能だった企業があらわれた。」「生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本がここでは直接に個人資本に対立する社会資本 (直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本の企業は個人企業に対立する社会企業としてあらわれる。それは資本主義的生産様式そのものの限界内における私的所有としての資本の廃止である。」
「現実に機能している資本家が他人の資本のたんなる支配人、管理人に転化し、資本所有者はたんなる所有者、たんなる貨幣資本家に転化する ……。」「株式会社では機能は資本所有から分離されており ……。このような資本主義的生産の最高の発展の結果こそ、資本が生産者たちの所有に、といっても、もはや個別の生産者たちの私有としてでなく結合された生産者 …… の所有、直接的社会所有としての所有に再転化するための必然的通過点である。それは、他面では、これまでまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者たちのたんなる機能、社会的機能に転化するための通過点である。」
ここのところで、エンゲルスは一八九〇年代時点で次のように書き加えている。
「以上のことをマルクスが書いてから …… 株式会社の二乗三乗を表わすような新たな産業経営形態が発展してきた。」「競争の自由もついに終末に達し、その公然たる不面目な破産を自分自身で告げざるをえない。しかも、どの国でも一定の部門の大産業家が生産の調節のためにカルテルを結成することによってである。一つの委員会が各経営の生産すべき量を決定し、結局、入ってくる注文を分配する。しかも、いくつかの場合には一時的に国際カルテルさえできた。」「このような生産の社会化の形態もまだ十分ではなかった。…… 生産規模がそれを許したいくつかの部門では、その事業部門の総生産を集中して統一的管理機関をもつ一つの大きな株式会社にするまでになった。」「これはイギリスの全アルカリ生産をただ一つの事業会社の手に収めさせた。…… 技術上の指揮はこれまでと同じ人々の手に残されているが、事業管理は役員会の手に集中されている。…… こうして、全化学産業の基礎をなしている部門でイギリスでは独占が競争にとってかわり、全社会による、国民による将来の収奪のためにもっとも好都合に準備されている。」
そのうえで、マルクスによる次のような記述がある。
「これは資本主義的生産様式そのもののなかでの資本主義的生産様式の廃止であり、したがってまた自分自身を解消する矛盾であって、この矛盾は …… 新たな生産形態へのたんなる過渡点としてあらわれる。このような矛盾として、それはまた現象にもあらわれる。それはいくつかの部面では独占を出現させ、したがって国家の干渉を呼び起こす。それは新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺の全制度を再生産する。それは私的所有による制御のない私的生産である。」(以上、同上五五六~九頁)
…[信用・銀行制度]
『資本論』第三巻三六章「資本主義以前」には、さらに信用・銀行制度に関して以下のような記述がある。
「銀行制度は形態的組織や集中という点からみれば …… およそ資本主義的生産様式がつくりだす最も人工的で最も完成した産物である。それだからこそ、イングランド銀行のような機関が商業や産業の上に巨大な力をふるうのである。といっても、商業や産業の現実の運動はまったくこのような機関の領域の外にあり、この運動にたいしてこのような機関はまったく受動的関係にある。たしかに、それとともに社会的規模での生産手段の一般的な簿記や配分の形態はあたえられているが、しかし形態だけである。」
「信用・銀行制度は …… 産業資本家に社会のあらゆる処分可能な資本、そして潜勢的でまだ現実には使用されていない資本までも用立てるのであり、したがって、この資本の貸し手もその充用者もこの資本の所有者でもないし生産者でもないのである。このようにして、この信用・銀行制度は資本の私的性格を廃棄するのであり、したがって潜在的に、ただ潜在的にのみ資本そのものの廃棄をふくんでいる。銀行制度によって、資本の分配は私的資本家や高利貸しの手から一つの特殊な業務として、社会的業務として取り上げられている。」
「最後に、資本主義的生産様式から結合労働への移行にさいして信用制度が強力なテコとして役立つであろうことは少しも疑いない。とはいえ、それはただ生産様式そのものの他の大きな有機的諸変革との関連のなかで一つの要素として役立つだけである。」しかし「生産手段が資本に転化しなくなれば (このことのうちに私的土地所有の廃止もふくまれる)、信用そのものにはもはやなんの意味もない ……。」(『全集』二五b巻七八二~三頁)
..6 協同組合による経営の可能性
『資本論』第三巻二七章では「協同組合工場」について次のように述べられている。
「労働者たち自身の協同組合工場は、旧い形態のなかでではあるが旧い形態の最初の突破である。…… それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえない。しかし、資本と労働の対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、初めはただ労働者たちが組合として自分たち自身の資本家であるというかたち、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるというかたちであるとしてもである。」
「資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかっただろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかっただろう。信用制度は資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化してゆくための主要な基礎をなしているが、それはまた多かれ少なかれ国民的規模で協同組合企業がだんだん拡張されてゆくための手段も提供する。」
「資本主義的株式企業も協同組合工場と同じように資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよい ― ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。」(『全集』二五a巻 五六一~二頁)
ここで取り上げられているのは資本主義体制の枠内における「労働者自身の協同組合工場」である。
この点についてマルクスは第一インターナショナルの一文書 (一八六七年)で次のように述べている ― 「われわれは協同組合運動が階級対立に基礎をおく現在の社会を改造する諸力の一つであることを認める。この運動の大きな功績は、資本にたいする労働の隷属により窮乏を生みだす現在の専制的制度を自由で平等な生産者連合社会という福祉をもたらす共和的制度とおきかえることが可能なことを実地に証明する点にある。」「しかし、協同組合制度が個々の賃金奴隷の個人的努力によってつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるかぎり、それは資本主義社会を改造することはけっしてできないだろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大で調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法ではけっして実現できない。」(『全集』一六巻 一九四頁)
先に見たように、マルクスの『フランスの内乱』では、「労働者階級の政府」としてのコミューンのもとで「協同組合の連合が一つの計画にもとづいて全国の生産を調整し」、「それを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣を終らせる」とすれば、これこそ「可能な共産主義」であると述べられていた。
マルクスの「土地の国有化について」(一八七二年)という短い論文には、「生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画にしたがって意識的に行動し、自由で平等な生産者たちの諸協同組合からなる一社会の自然的基礎になるだろう。これこそ一九世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である」という記述もある (『全集』一八巻、五五頁)。
またエンゲルスは、一八八一年の一論文で農業の問題に関連して「われわれをどうしても土地の国有化と国民的管理のもとで協同組合によるその耕作に向かわせざるをえないだろうというのが、その結末だろうし、また結末でなければならない」と述べている (『全集』一九巻、二六五頁)。
さらに先に引用したエンゲルスの一八八六年の手紙では次のように述べられている ― 「僕の提案は既存の生産のなかへ協同組合を根づかせることを要求しているのである。協同組合に土地をあたえるべきであり、さもなければその土地は資本主義的に利用されることになる。パリ・コミューンが要求したように、労働者は工場主たちが休止させている工場を協同組合的に経営しなければならない。…… そして完全な共産主義経済への移行に当って中間段階としてわれわれが協同組合的経営を広範囲に応用しなければならないだろうということ、このことについてマルクスも僕も疑問をもったことはなかった。ただ問題は次のように取り計らわねばならない。すなわち、社会が、したがってまず国家が生産手段を所有し、そうすることによって [個別の] 協同組合の特殊利益が社会全体に対立して設定されないようにしなければならない。」(『全集』三六巻 三七五頁)
..7 過渡期における国家様式 ― “民主共和制” と自治組織
過渡期における国家様式に関連して、エンゲルスは「一八九一年の社会民主党綱領草案の批判」で次のように述べている。
「わが党と労働者階級が支配権をにぎることができるのは民主的共和制の形態のもとにおいてだけ ……である。この民主的共和制はすでに偉大なフランス革命が示したように、プロレタリアートの独裁のための特有な形態ですらある。」「プロレタリアートが用いることができるのは単一不可分の共和国の形態だけである。」「統一共和国ということになる。けれども、今日のフランス共和国のような意味の共和国ではない。これは、一七九八年に創立された帝国から皇帝を取りのぞいただけのものである。[フランス革命期の] 一七九二年から一七九八年までフランスの各県、各市町村はアメリカ型の完全な自治をもっていた。われわれもまたこれをもたなければならない。自治制をどう組織すべきか、どうすれば官僚なしにやっていけるかは、アメリカとフランスの第一共和政とがわれわれに示した ……。」(『全集』二二巻 二四一~四頁)
以上の点について森杲『アメリカ資本主義史論』(ミネルヴァ書房 一九七六年) で次のように指摘されている ―「エンゲルスはアメリカの下層階級が独立革命で創始したパルチザン的戦闘方法と各地に自生した自治組織を再三たかく評価した。彼はフランス革命のジャコバン独裁の時期の革命権力の組織がアメリカの自治組織に類似しているとみなし、“(プロレタリア独裁のもとで) 自治制をどう組織すべきか、どうすれば官僚なしでやっていけるかはアメリカとフランスの第一共和制とがわれわれに示した ……” と述べている。」(同書 一五頁)
..8 トロツキー『総括と展望』(一九〇六年) にみる反資本主義過渡期展望
トロツキーの『総括と展望』(一九〇六年) ではプロレタリア権力下における反資本主義過渡期が以下のように展望されていた。
「マルクスが述べているようにパリの労働者はコンミューンから奇跡をもとめはしなかった。今日でも、われわれはプロレタリアートの独裁から即時の奇跡を期待することはできない。国家権力は全能ではない。プロレタリアートは権力をうけとりさえすれば少数の訓令によって資本主義を社会主義ととりかえることができるなどと想像することは馬鹿げている。およそ経済構造というものは国家の活動の所産ではないのである。プロレタリアートは集産主義の方向への経済的進化を促進させ、その道程を短縮するために全力をもって国家権力を行使することができるだけである。
生産の社会化はいちばん困難でない部門ではじまる。最初の時期、社会化された生産は商品流通の法則によって私的工業企業とむすびついたオアシスの形態をとるであろう。すでに社会化された工業によって掌握される領域が拡大すればするほどその利益はいよいよ明白となり、新しい政治体制はいっそう堅固になったとを感じ、プロレタリアートのより一層の工業計画はますます大胆になるであろう。
これらの計画においてプロレタリアートはその革命的政策において国内階級関係だけでなく国際プロレタリアートの全歴史的経験に頼るように国内生産力だけでなく国際的技術に頼ることができるであろうし、また頼るであろう。
プロレタリア体制はその当初からロシアの巨大な人民大衆の運動がむすびついている農業問題の解決を企図せざるをえないであろう。プロレタリアートは、他のすべての問題の解決におけると同様、この問題を解決するにあたっても自己とその経済政策の基本的努力、つまり社会主義的工業のためできうるかぎり大きな領域を獲得するための基本的努力を自分の出発点とするであろう。農業問題におけるこの政策の形態とテンポはプロレタリアートが支配しうる物的資源と可能な同盟者を反革命の陣列においやらぬように自己の活動を展開する必要との両方によって決定されなければならぬであろう。」(『ロシア革命史』第三巻、岩波文庫 五九二~三頁)
以上のようなロシア・プロレタリア権力下における反資本主義過渡期展望がマルクス=エンゲルスによる 「資本主義社会から共産主義社会への革命的転化の時期」についての想定と完全に一致することは明白である。
.Ⅴ 過渡期と価値法則
..1 過渡期の過程そのものについて
マルクスとエンゲルスはプロレタリアートの階級的独裁の実現をもってする過渡期の開始とその過渡期のうえで実現される共産主義的「協同社会」に関する概念的な想定や規定について明示的に述べている。 だが、過渡期の開始から共産主義的「協同社会」にいたる中間の過程 ― 過渡期の過程そのもの ― に関する言及はほとんど見られない。
この問題に関連して、エンゲルスは一八九〇年の一手紙で「未来社会における生産物の分配」方法をめぐる討論について言及し、次のように述べている。
「分配方法は本質的にはやはり分配されるべきものがどれだけあるかにかかっていること、そしてこの分量はやはりおそらく生産と社会的組織の進歩につれて変化するだろうし、したがっておそらく分配方法も変化するだろう ……。…… “社会主義社会”は不断の変化と進歩をたどるものとしてでなく、不動でそれきり変わらないもの、…… それっきり変わらない分配方法をもつべきものと思われているのです。だが分別をもってやれることは、ただ(一)初めに採用する分配方法を発見しようと試みること、(二)それ以後の発展がたどる一般的傾向を見いだそうと努めることだけです。」(『全集』三七巻、三七九~八〇頁)
エンゲルスは、ここで、過渡期の最初の課題と方策に関する実践的な想定だけが現実的であり、以後の発展については一般的傾向の予見しかできないと主張している。先に見たように、マルクスとエンゲルスは過渡期の過程そのものについて非常に慎重であり、同時に柔軟だった。
..2 過渡期と商品経済
ところで、過渡期の問題の一つとして、過渡期の過程そのものにおける商品経済と価値法則、その様々な経済的カテゴリーの位置はどうなるだろうか。
マルクスとエンゲルスはプロレタリアートによる政治権力の獲得と同時に生産手段の私的所有が全面的に廃止されると考えなかったし、商品生産様式とその前提である私的所有制の完全な廃止・克服を共産主義的協同社会にいたる過渡期の課題として想定していた。
工業における基幹的生産手段、全国的通信・運輸・流通手段、信用金融機関、大土地所有などのプロレタリア権力による国有化は私的所有の完全な廃止を意味しないし、また商品生産様式とその価値法則の全面的な廃棄・克服をただちに実現するものではない。様々な生産部門と流通部門において多種多様な中小規模の独立的経営があり、またヨーロッパの大陸諸国においては様々な独立的小農民経営と小土地所有があった。土地をふくめた生産手段と信用金融・通信・運輸・流通・サービスなどの手段がすべて共同的な社会的所有に転化しないかぎり、少なくともその度合において商品交換とそれを支配する価値法則は残りつづける。
エンゲルスは、一八八六年、「完全な共産主義経済への移行に当って中間段階としてわれわれが協同組合的経営を広範囲に応用しなければならないだろうということ …… についてマルクスも僕も疑問をもったことはなかった」と述べていた (前出)。そして、様々な経済部門における中小規模の企業体においてこそ協同組合的経営が広範囲に採用されるだろうし、マルクスとエンゲルスは独立的小農民経営の協同組合経営をつうじた自主的で漸次的な共同化を主張していた。また、生産手段が国有化されていても、国家から委託または貸与される生産手段にもとづく個別の協同組合企業は独立した経済的経営単位であるだろう。プロレタリア国家による何らかの統制があるとしても、そのような協同組合企業は基本的に商品経済という枠組を前提とし、少なくとも一定の範囲で価値法則にもとづいて経営される以外にない。したがって、そのかぎりにおいて、過渡期における協同組合的経営方式のもとでも資本の再生の基盤になりうる原初的「資本蓄積」の要素の完全な排除はありえないことになる。
この点と関連して、「協同組合的経営を広範囲に応用しなければならない」と述べているところで、エンゲルスは「社会が、したがってまず国家が生産手段を所有し、そうすることによって [個別の] 協同組合の特殊利益が社会全体に対立して設定されないようにしなければならない」と主張していた(前出)。つまり、自然発生的には「社会全体」に対立する「協同組合の特殊利益」といわれていることのなかに過渡期における原初的資本蓄積の可能性が潜在しているのである。
また、エンゲルスの「住宅問題」(一八七二年)では次のように述べている ― 「労働人民による一切の労働用具の “現実の奪取”、全産業の掌握 (がなされた場合) …… “労働者人民” は家屋、工場、労働用具の総体的所有者にとどまり、それらのものの用益権は少なくとも過渡期のあいだは費用の補償なしに個々人または協同組合に引き渡されることはおそらくないだろう。それは、土地所有の廃止が地代を廃止することではなく、かたちを変えて地代を社会に譲渡することであるのとまったく同様である。だから労働人民による一切の労働用具の現実の奪取は賃貸借関係の維持をけっして排除するものではない。」(『全集』一八巻 二八〇頁)
..3 過渡期と価値法則の死滅
「共産主義の原理」-『共産党宣言』-「共産党の要求」は銀行・信用制度の国家への集中を非常に重視していて、「国家資本をもつ国有銀行をつうじて信用制度と貨幣取引を国家の手に集中し、すべての個人銀行や金融業者を禁止する」(「原理」)、「国家資本による国立銀行をつうじた信用の国家への集中」(『宣言』)、「すべての私的銀行を廃止し、一つの国立銀行を設立する。その発行する銀行券は法定通用力をもつ」(「要求」) と主張していた。
また前項でみたように、エンゲルスは、過渡期において「“労働者人民”は家屋、工場、労働用具の総体的所有者にとどまり」、そのうえで「賃貸借関係の維持」を排除せず、「土地所有の廃止」が「かたちを変えて地代を社会に譲渡する」ことであると主張している。ところで、労働者人民の総所有制にもとづく「賃貸借関係」 ― 家屋、工場、労働用具の「用益権」を「費用の補償」にもとづいて「個々人または協同組合に引き渡す」こと ― は過渡期において信用関係が存在することを意味する。
信用と銀行制度は普遍的商品/貨幣経済様式と価値法則にもとづく経済的存在である。こうして、過渡期におけるプロレタリアートの政治支配はそのような経済的カテゴリーを積極的に利用し、意識的に制御しなければならないとマルクスとエンゲルスは主張していたのである。
ところで、マルクスとエンゲルスが生産手段の共有にもとづく協同社会において想定していたのは商品経済、価値法則、資本主義生産様式から解放された経済的社会形態としての直接に共同的な社会的生産とそれにもとづく分配である。
「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者はその生産物を交換しない」し、「生産物に支出された労働がその生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現れる」こともなく、「個々の労働はもはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在している」おり(「ゴータ綱領批判」前出)、そのような社会における「各人の労働は、その特殊な有用性がどんなに様々であっても、はじめから直接に社会的労働」となり、「社会は生産物にどんな価値も付与しない」のである(『反デューリング論』前出)。そこでは、全社会的な経済計算と経済計画は商品経済の価値法則から解放された労働そのもの ― その労働時間 ― にもとづいておこなわれる。
それでは、少なくとも過渡期の当初における商品経済と価値法則にもとづく様々な経済的カテゴリーの存在と、他方、共産主義的協同社会における商品経済・価値法則を全面的に克服した労働時間計算制の実現のあいだの関係はどうなるのだろうか。
商品経済と価値法則 ― 市場と貨幣 ― を暴力的・行政的に圧殺することはできないし、労働時間計算制を機械的・行政的に導入することはできない。過渡期においてプロレタリアートの政治支配が経済を管理制御する能力を経験的過程をつうじて獲得しつつ、同時に社会的生産力の発展が農業をも統合しつつ新しい段階に入ることをつうじて、商品経済と価値法則の完全な克服・廃棄が準備されなければならないだろう。それは、国家と同じで、死滅の過程をたどる以外にないのである。
The KAKEHASHI
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