ロシア過渡期経済政策と堕落した労働者国家ソ連邦についてのノート
〔『世界革命』1989年2~4月発表――2007年10月〕
酒井与七
―目 次―
はじめに――ロシア十月革命の性格とスターリニスト・テルミドール
第一部 トロツキーのロシア過渡期経済認識と政策構想
第一章 新経済政策(ネップ)
1 戦時共産主義主義について
戦時共産主義の性格/全面的国有化/ロシア過渡期の“国家資本主義”―
―レーニン/当初の展望
2 新経済政策(ネップ)
新経済政策の起源と前提/経済関係への“市場の形式”の導入/農民と自
由市場/国有工業と市場/私的資本の復活/過渡期における私的資本との
闘争/社会主義的原始蓄積/市場と計画/資本主義経済から社会主義経済
への過渡期と市場
第二章 トロツキーの過渡期経済政策構想――『ロシアは何処へゆく』
1 「新経済政策(ネップ)」の方法の再確認と問題の再設定
「新経済政策(ネップ)」の方法の再確認/過渡期経済における市場と計
画についての再確認/社会主義と資本主義の傾向の併存と闘争/問題の再
設定――「誰が誰にうち勝つか」
2 成果の総括と課題の設定――新たな工業化の課題と農業
評価の方法/生産力の急速な回復/相対的に強化された国有経済部門/農
業の位置と国有工業/農民層の資本主義的階級分化/新たな工業化の課題
3 ロシアの工業化政策と資本主義世界市場
ソビエト経済の新しい国際的経済基準/過渡期のソビエト経済と資本主義
世界市場/社会主義的原始蓄積の源泉と新たな経済成長の可能性/資本主
義世界市場と国際分業の利用 その一、その二/「結語」
4 若干の補足――プレオブラジェンスキーとトロツキー
第三章 過渡期労働者国家の経済計画のための三要素――市場・計画・ソビエト
民主主義
1 プロレタリア権力とソビエト民主主義――工業化と資本主義世界市場――
階級的国際政策とプロレタリア国際革命
『ヨーロッパとアメリカ』――『ロシアは何処へゆく』――『反対派政綱』
/過渡期プロレタリア権力・労働者国家の防衛/経済における「国際主義」
と「プロレタリア国際革命」主義
2 経済計画のための三要素――計画・市場・ソビエト民主主義
スターリン派の強制農業集団化と官僚的工業化/計画化の技術と経済計画
のための三要素――計画・市場・ソビエト民主主義/市場とソビエト民主
主義
3 過渡期経済と貨幣――『裏切られた革命』より
はじめに――ロシア十月革命の性格とスターリニスト・テルミドール
レーニンは、一九一八年、ロシア十月革命について次のように言及している。
「ロシアで勝利をえたのは、労働者とプロレタリアが人口中で絶対多数を占めていたからではなく、また彼らが高度に組織されていたからでもなく、極度に貧しく急速に没落した農民がプロレタリアを支持したからである。」「われわれロシアのプロレタリアートは、その政治組織や労働者権力の強さという点でイギリスやドイツより進んでいるが、整然たる国家資本主義の組織や文化の程度において、社会主義を物質的・生産的に“取り入れる”準備において、西ヨーロッパ諸国のうちのもっとも遅れた国よりも遅れている‥‥」と(「“左翼的”な児戯と小ブルジョア性について」一九一八年、『レーニン全集』三四七、三四九頁)。
そしてトロッキーは、「十月革命は何よりもまず民主主義革命であったのであり、このおかげでこそ十月革命がプロレタリアートの独裁を樹立できたのである」と述べている(「理論家としてのスターリン」一九三〇年、『トロツ キー選集』補巻三、六八頁)。
レーニンとトロツキーが指摘しているのは、後進的ロシアにおける十月革命の独特な性格、その複合性と永久革命としての性格である。十月革命のこのような独自性は、同時に、新しい革命権力の過渡期プロレタリア独裁権力としての歴史的な位置と課題をも規定していた。
トロツキーは、この点について『裏切られた革命』(一九三六年)において次のようにのべている。
「ロシア・ブルジョアジーがとるに足りないものであったために、後進ロシアの民主主義的諸任務――君主制や農民の半封建的隷属の清算など――は、ただブロレタリアートの独裁をつうじてのみ達成することがてきた。だが、農民大衆の先頭に立って権力を握ったプロレタリアートは、これらの民主主義的諸任務の達成にとどまりえなかった。ブルジョア革命は社会主義革命の最初の段階と直接に結びついていた。‥‥自ら袋小路に達した高度の(資本主義)文明諸国は、文明化の過程にある諸国の進路をふさいだ。ロシアがプロレタリア革命の道をとったのは、その経済が社会主義的変革のために成熟していた最初の国であったからではなく、ロシアが資本主義の基礎のうえでそれ以上発展することができなかったからである。生産手段の社会化は、国を野蛮状態から抜け出させるための必要条件であった。‥‥かつてのツァー帝国は、革命後一九年目の今日においてさえ、‥‥先進諸国の資本主義によってとっくの昔に解決された技術や生産性の諸問題を解決しなければならない‥‥。革命は‥‥生産手段を国家の手に集積することによって、新しい比類のない最も効果的な工業の方法を適用することができるようにした」(現代思潮社版、一二頁)。
資本主義の発展において後進的なロシアと、資本主義経済を基礎にブルジョア社会としてよりよく組織された西ヨーロッパとの相違は、ロシアにおけるプロレタリア独裁下の過渡期のあり方においてもそのまま再生産される以外にない。ロシアの非資本主義的過渡期も、その当初からの必然性として、きわめて特殊的、独自的なものたらざるをえなかった。プロレタリア独裁下のロシアは、広大な“口シア”的な経済的・“文化”的後進性から出発して、近代的工業生産を全国的・全ソ連邦的に形成しつつ、その社会経済的土台のうえで人民諸階級・諸階層を新たに国民的に――諸民族の国家的協同体として――組織する社会と国家を建設することを客観的に課題とした。
十月革命はまた、ヨーロッパを中心とした旧帝国主義体制の第一次世界戦争を通じた危機の全般化を直接的な背景としていた。この革命は、新たに創設された第三インターナショナルの国際的拠点であったし、ヨーロッパとアジアにおける国際革命の有機的構成要素であり、その一部であった。
だが、第三インターナショナルが体現したヨーロッパとアジアの国際革命が一九二〇年代~三〇年代に全般的に敗北あるいは流産してゆき、ロシア十月革命権力の困難は深まり、その国際的孤立の状況が確定していった。こうして、ロシア・プロレタリアートとその革命的前衛たるボリシェビキ党がなしとげた十月革命は、現実の歴史において一九三〇年代のスターリニスト・ソビエト・テルミドールに帰結しなければならなかった。
「十月革命のプロレタリア的性格は、世界情勢によって、および国内諸勢力の特殊な相互関係によって決定された。だが、階級自身は、ツァーリズムの野蛮な状況と後進的資本主義のもとで形成されたものであり、社会主義革命の要求の注文どおりのものというわけにはいかなかった。その正反対が真実であった。多くの面でいまだ遅れていたプロレタリアートが数ヵ月のうちに半封建的君主制から社会主義的独裁へ先例のない飛躍を遂げたという、まさにこの理由によって、その隊列中に反動が不可避になった。この反動は、あいつぐ一連の波となって展開された。外的条件や事件はさらに反動をはぐくんだ。‥‥力の類例のない緊張、そして希望と幻想の後、長期の倦怠や退廃と革命の結果にたいする完全な失望がきた。“平民的誇り”の退潮は、無気力と出世主義の氾濫に席をゆずった。この波のうえで、新しい指揮する階層がその地位についた。」(『裏切られた革命』、九六頁)
こうして、近代的工業生産の体系を新たに形成しつつ、人民諸階級・諸階層を新しい国民――あるいは諸民族の国家的協同体――として組織する社会と国家を建設するというロシア・プロレタリア独裁が直面した歴史的課題は、一九三〇年代に形成されたソビエト・テルミドールとしてのスターリニスト官僚専制国家・経済体制のもとできわめて独自的・特殊的に、そして過渡的に実現されてゆくことになった。
この過程は、一九三〇年代に始まり、第二次世界戦争をはさみ、主要にソ連邦の戦後の展開として一九八〇年代にかけて進行した。ソ連邦におけるこの歴史的過程は、いまだ経過途中として過渡的な段階にあり、決して完了していない。その現在の到達点と現在的諸問題を探り、そこで新しいソ連邦プロレタリア政治革命の課題が設定されねばならないだろう。
以上のような観点から今日のソ連邦とその諸問題をとらえる前提として、以下、二つの点を取り上げてみる。
その一つは、プロレタリア独裁下の過渡期社会・経済・国家をとらえる方法として、一九二〇年代から三〇年代にかけたトロツキーのロシア過渡期経済の認識と構想を整理してみることである。
その二つは、『裏切られた革命』(一九三六年)の分析と批判に基づいて、“堕落した”過渡期労働者国家ソ連邦を、一九三〇年代におけるソビエトーテルミドールの形成・確立、そしてその戦後の展開と現状という歴史的射程のもとにおいてみようとすることである。
第一部 トロツキーのロシア過渡期経済認識と政策構想
一九二〇年代にソ連邦共産党内で展開された経済政策をめぐる闘争について、われわれはある程度まで知っている。それは、ブハーリンとスターリンのブロックが体現した「穏歩前進」の「亀の歩み」経済路線とトロツキー左翼反対派が主張した積極的な「社会主義的原始蓄積」路線との対立として集約されていた。
トロツキーは、この点につついて、「今や如何」(一九二八年)という論文で次のように述べている。
「すでに一九二三年春のソ連邦共産党第一二回大会において、ソ連邦の経済問題について二つの立場がはっきりと現われていた。‥‥(ジノビエフとカーメネフを含む当時の多数派)中央委員会は農民との同盟を脅かす主要な危険は工業の時期尚早な発展から生じたものであると主張した。‥‥私が一二回大会で展開した見解は、反対の評価を提出していた。‥‥私は、とりわけ、もし工業が遅れたままにとどまるならば、豊作ということが社会主義的諸傾向にとってではなく、資本主義的諸傾向にとって主動因となり、社会主義経済を破壊する道具を資本主義分子の手に渡すことになるだろうという考えを定式化しておいた。二つの側から提出されたこれら二つの基本的定式は、その後、五年間の闘争を貫いていった」と(『レーニン死後の第三インターナショナル』現代思潮社)。
その結果、スターリンを中心とする党機関官僚分派は、一九二〇年代末から三〇年代前半に、強制農業集団化と強行的超工業化の路線に突きすすみ、前代未聞の政治テロをともなうスターリニスト官僚専制国家体制を形成していった。それは、ロシア十月革命が実現した過渡期労働者国家において生起した一つの歴史的テルミドール現象であったし、戦後ソ連邦の巨大な発展・展開もその基礎のうえで実現された。
一九二〇年代中頃、「社会主義的原始蓄積」の推進を主張する左翼反対派の闘争の過程で、トロツキーは過渡期ロシアのための経済政策の体系と構想を基本的な点ですでにまとめあげていた。以下において、十月革命がロシアにおいて実現した過渡期労働者国家についてのトロツキーの経済的認識と過渡期の経済政策構想について、われわれがこれまでほとんど注目しなかった側面を中心に跡づけてみることにする。それは、過渡期ロシアにおける“商品市場”と“経済計画”――あるいは労働者国家による“社会主義的原始蓄積”――との相互関係について、トロツキーがどのように認識・構想していたかということである。
戦後労働者諸国家の経済政策体系転換の流れが“ゴルバチョフ改革”としてソ連邦にまで押しよせてきている現在、トロツキーの過渡期経済についての認識とその政策構想はわれわれに新しい示唆と指針をあたえるだろう。それはまた、勝利した植民地革命の過渡期経済政策のあり方についても貴重な示唆をあたえるだろう。
トロツキーのロシア過渡期経済認識と政策構想は、一九二五年に発表された『ロシアはどこへ行く――資本主義へか社会主義へか』と題するパンフレットにおいて体系的にまとめられている(日本語版『ロシアは何処へ往く』田中九一訳、一九二七年刊)。この頃、トロツキーはまた『ヨーロッパとアメリカ』というパンフレットを発表しており、それは第一次世界戦争後の資本主義世界経済とその矛盾の構造をとらえ、ヨーロッパとアジアにおける国際プロレタリア革命の条件を展望している。これら二つのパンフレットは、当時の資本主義世界経済と過渡期ロシアについて相互に補いあい、対をなすものであったといえるだろう。
まったく同じようなことを、トロツキーのコミンテルン三大会報告「世界経済恐慌と共産主義インターナショナルの新しい任務についての報告」(一九二一年)と同四大会報告「新ソビエト経済政策と世界革命の展望に関する報告」(一九二二年)についても言うことができる。
そして、トロツキーのロシア過渡期経済認識と政策構想の最初の提示は、このコミンテルン四大会報告ですでになされていた。したがって、まず最初に「新ソビエト経済政策と世界革命の展望に関する報告」から見てゆくことにしよう(『コミンテルン最初の五ヵ年』下巻所収)。
第一章 新経済政策(ネップ)
1 戦時共産主義(一九一八年六月~一九二一年三月)について
トロツキーのコミンテルン四大会報告は、内戦と戦時共産主義の総括、新経済政策(ネップ)それ自体、そしてその展望の三つの部分によって構成されている。
<戦時共産主義の性格>
トロツキーの報告は、内戦期の戦時共産主義について次のように述べている。
「わが党は、権力を握ったとき、ほとんどたえまなく内戦のための必要に圧迫されながら仕事をすすめねばならなかった。」
「ソビエト政権の最初の五ヵ年をつうじてまっさきに問題になったのは、都市住民を飢餓からまもることであった。この問題は、食糧の配給制を確立することによって解決された。余剰食糧を農民から没収して、これを配給することは、本来、包囲された要塞がとるべき手段であって、けして社会主義経済がとるべき手段ではなかった。」
「経済管理のためのブルジョアジーの機関は、全国的な規模においてだけでなく、各々の企業内部でもすっかり破壊されていた。そこから、焦眉の基本的な任務がうまれた。すなわち、混沌とした産業上の遺産から戦闘に従事している軍隊や労働者階級のためにもっとも大切な必需品をひきだすため、たとえ粗末で一時的なものであっても、資本主義の機関にかわるべき機関をつくりだす任務が生れた。ことの性質上、これは厳密な意味では経済的任務ではなく、むしろ戦争のための生産の任務だった。労働組合の援助をうけて、国家は工業企業を占有し、極端に煩雑で扱いにくい集中化された機関を設けた。これは、欠陥だらけだったにもかかわらず、戦場にある軍隊に武器弾薬や食糧を供給することを可能にした。」
しかし、「農民の余剰農産物を没収する政策は、農業生産の縮小と減退をきたさぬわけにはいかなかった。賃金支払いを平等にする政策は、労働生産性の低下をきたさぬわけにはいかなかった。集中化された官僚的管理のもとに産業をおく政策は、真に集中化された管理や、利用できる労働力に応じた技術設備の十分な利用の可能性をなくした。‥‥こうした戦時共産主義の一切の政策は、包囲された要塞――つまり解体された経済と浪費された資源をともなう要塞の政権によってわれわれに押しつけられたのである。」
トロツキーの報告は、戦時共産主義の経済的諸方策がはたした役割を評価しつつ、「経済生活のなかで合理的なものは、かならずしも政治のなかで必要なものと一致しない」として、それが内戦の情勢によって政治的に強制された特殊な政策であったとこと強調している。
<全面的国有化>
この報告は、十月革命権力のもとで遂行された全面的な国有化政策についても同じような指摘をおこなっている。
「経済的立場からみるとき、ブルジョアジーから彼らの企業を収奪することは、労働者国家が新たにはじめから企業の開発を組織することができるかぎりで正当化されうるということは自明である。われわれが一九一七年から一九一八年にかけて行なった全面的な国有化は、そのような条件とはまったく一致しなかった。労働者国家の組織能力は、全体的な国有化からはるかに立ち遅れていた。」「われわれがヨーロッパで革命が勝利した後で社会主義的発展の舞台に登場することができたのであれば、ブルジョアジー‥‥を処置することは非常に簡単であったろう。そのような場合、われわれはゆっくりと大規模な企業だけを収奪し、中企業や小企業をしばらく私的資本主義の基礎のうえに残しておき、後日に、われわれの組織的・生産的能力と要求とを厳密に考慮して中企業を再組織することができたであろう。こうした順序が経済的“合理性”と調和したことは疑いない。」
だが、「わが国のブルジョアジーは‥‥十月革命が何か重大な永続的なものだとはけして信じようとはしなかった。‥‥ブルジョアジーにとって、これらすべて(労働者政府の基本的な革命の政策)はまさに悲劇的な冗談であり、誤解であるように思われた。ブルジョアジーの財産を没収する以外に、彼らとその仲間たちに新政権を尊敬することを教えることがどうしてできたろうか。ほかに道はなかった。いっさいの工場や銀行や事務所や小さい商店や弁護士待合室がわれわれに反対する要塞になってしまった。これらの建物は、好戦的な反革命に物質的な拠点と有機的な通信網をあたえた。‥‥敵に打撃をあたえ、組織的な経済活動がそのことに絶えるかどうかという問題から離れて、彼らから栄養源を奪うことが必要だった。」(以上、四大会トロツキー報告より)
こうして、「大ブルジョアジーや中ブルジョアジーだけでなく、都市や農村の小ブルジョアジーをも全面的に収奪することは、経済上の利益ではなく、政治的必要によって命ぜられた手段だった」のであり、「労働者国家は、それが活動を開始するやいなや、最小の企業にいたるまで一切の工業企業をその手に握った」のである、と(トロツキー「ソビエト・ロシアの経済情勢に関するテーゼ」、『コミンテルン最初の五ヵ年』下巻)。
<ロシア過渡期の“国家資本主義”――レーニン>
事実、権力獲得直後のボリシェビキ党指導部は、急激かつ全面的な国有化を考えていなかった。
レーニンは、一九一八年に次のように述べている。
「国家資本主義は、わがソビエト共和国の現在の事態において一歩前進を意味する。」「ロシアの経済」は「過渡的性質」のものであり、「“社会主義ソビエト共和国”という言葉は、社会主義への転換を実現しようとするソビエト権力の決意をしめすものであり、けして現実の経済秩序を社会主義的であると認めるものではない」、と。
「現在の(経済)組織には、資本主義と社会主義の要素、部分、断片が含まれ」、「ロシアにおいて、現在、各種の社会経済関係のどのような要素があるのか」として、レーニンは以下の五つをあげている。
(一) 家父長制的な大多数の農民経済
(二) 小規模な商品生産(穀物を売る農民の大多数はこれに属している)
(三) 私経済的資本主義
(四) 国家資本主義
(五) 社会主義
このような現実のもとで、「もしドイツにおける革命が“生れる”のに手間どるとしたら、われわれがなすべき仕事は、ドイツの国家資本主義に学ぶことである。すなわち、全力を傾注して国家資本主義を踏襲し、野蛮なロシアによるこの西欧主義の踏襲を促進するために独裁的方法をも躊躇せず、野蛮と闘うためにいかなる野蛮な手段に訴えることも躊躇しないことである」とし、「私が国家資本主義を高く評価するのは今日に始まったことではなく、ボリシェビキが権力を獲得する前に同じ評価をしていた」ことを示すために、一九一七年七月に執筆した『さしせまる破局、それとどう闘うか』をあげている。
「われわれロシアのプロレタリアートは、その政治組織や労働者権力の強さという点ででイギリスやドイツより進んでいるが、整然たる国家資本主義の組織や文化の程度において、社会主義を物質的・生産的に“取り入れる”準備において、西ヨーロッパ諸国のうちのもっとも遅れた国よりも遅れている。このような特殊な条件下にある現瞬間において、もっとも組織的能力がある資本家にたいして、ソビエト権力のために仕事につき秩序整然と“国家的”大生産の組織に協力しようとするものにたいして、労働者が提供しなければならない特殊な“補償“の必要なことはあきらかではないか」と(「“左翼的”な児戯と小ブルジョア性について」一九一八年、『レーニン全集』二七巻三四七、三四九頁――この論文は一九二二年の「食糧税について(新政策の意義とその諸条件)」(『レーニン全集』三二巻)にも収録されている)。
レーニンがこの時点で構想していたのは、プロレタリア独裁権力による全般的な統制・監視下における一種の“混合経済”の時期であり、その提起はきわめて興味深い。レーニンのこの論文は、植民地革命の政治的勝利後の経済的課題との関係で、今日なおその生命力をもっているだろう。とりわけ、現在のニカラグア革命との関係で十分に一読の価値があるだろう。
革命勝利の直後、レーニンは始まろうとする過渡期の経済について非常に慎重であり、あらゆる工業企業の急激な全面没収を考えてはいなかった。だが、現実の内戦の情勢が戦時共産主義の諸方策をボリシェビキ権力に強制していった。
<当初の展望>
ずっと後に、トロツキーはこの時期について次のように述べている。
「戦時共産主義は、本質的に、包囲された要塞内の消費を体系的に編成することであった。」「しかし、戦時共産主義の本来の考えは、もっと広範な目的を求めていた‥‥。ソビエト政府は、分配においても生産においても、この編成方法を直接に計画経済体制に発展させることを望み、そのために努力していた。‥‥“戦時共産主義”から漸次的に、この体制を破壊することなしに真の共産主義に到達することを望んだのである。一九一九年三月(の第八回党大会で)採択されたボリシェビキ党の綱領は」そのことを示している、と。
ところで、この党綱領の草案は起草したのはレーニンだった(『レーニン全集』二九巻)。
トロツキーは戦時共産主義について次のように結論づけている。すなわち、「当時における一切の計算は西欧における革命の早めの勝利という希望にもとづいていた。‥‥そのような好運があったとしても、商業的手段のために、生産物の直接的な国家的分配を廃止することがやはり必要だっただろう、と確実に言うことができる」と(以上、『裏切られた革命』第二章)。
2 新経済政策(ネップ)
<新経済政策(ネップ)の起源と前提>
一九二一年三月以降、ボリシェビキ権力は、戦時共産主義の方策を最後的に放棄し、新経済政策(ネップ)に全面的に転換した。
「戦時共産主義から、すなわち包囲された要塞の経済生活を維持するための非常手段から、社会主義ヨーロッパの協力がない場合にも国の経済力が漸次に拡大することを保証する組織された手段に転ずる必要が生じた。‥‥軍事的勝利によって、軍事的必要によって命ぜられた手段から、経済上の利益によって命ぜられた手段に移ることができた。これがいわゆる新経済政策の起源である。」
実際に戦時共産主義の枠組みはもはや耐えがたいものになっていたし、農民と労働者のあいだで重大な経済的・政治的不満が拡大しつつあった。一九二一年二月のクロンシュタットの反乱が、ボリシェビキ権力の新経済政策への転化を決定的にした。
その前提をなすものは、十月革命の“経済制度”的成果の防衛であった。
「一九一七年三月、ツァーリズムは転覆された。同年十月に、労働者階級は権力を握った。文字どうり一切の土地が国有化されて農民にあたえられた。この土地を耕す農民は、いまでは国家に一定の現物税を支払う義務がある。そして、この現物税が社会主義建設の主なファンド(資金)である。一切の鉄道、一切の工業企業は国有財産となり、少数の些細な例外を除けば、国家は自己の利益のためにこれらの企業を経営している。信用組織はすべて国家の手中にある。外国貿易は国家が独占している。」
ここに「労働者国家の五年間の成果」とそれが防衛したものがあり、これらが新経済政策にむかう労働者国家の国民経済上の制度的テコであった。革命権力は、そのうえで、経済関係に「市場の形式」を全面的に導入した。
<経済関係への“市場の形式”の導入>
「われわれは解体されたブルジョア社会を国有化した。生死をかけた闘争のもっとも危険な時期のあいだに、消費資料の分配にかんして“共産主義”の政権をうちたてた。政治と戦争の領域でブルジョアジーを打倒することによって、われわれは経済生活を掌握する可能性をかちとった。そして、われわれは、都市と農村のあいだの関係や工業の各部門のあいだの関係、個人企業相互のあいだの関係について市場の形式をふたたび導入せざるをえなかった。」(以上、四大会トロツキー報告)
「ソビエト国家は、戦時共産主義の方法から市場の方法へ移行した。余剰農産物の強制的徴収は現物税によっておきかえられ、農民は彼らの余剰農産物を市場で自由に販売できるようになった。貨幣の流通は回復され、通貨を安定させるため多くの方法がとられた。商業流通の原則は国有企業の内部にも導入され、賃金はふたたび労働者の熟練や生産物によって決められることになった。多数の中小規模の工業企業は私企業に貸し付けられた。新経済政策の中核は、市場ならびにその方法と制度の復活におかれた。」(前掲「ソビエト・ロシアの経済情勢に関するテーゼ」)
<農民と自由市場>
「自由市場がなければ、農民は経済生活のなかで自分たちのおちつく場所を見いだすことができず、経営を改善して収穫をふやす刺激を失うだろう。」
「ただ国有工業を強力に発展させて、農民と農業にたいして必要とする一切のものを供給することができてはじめて、農民を社会主義経済の一般的な組織のなかにはめこむための土台が準備される。そして技術的には、この仕事は電化の助けによって解決されるだろう。」「だが、こうしたことのすべては、今日みられるような農民的所有者の経済生活の改善をつうじて達成されるのである。労働者国家は、このような目的を達成するために、小所有者の個人的な利己的利益を刺激する市場によるほかはない。‥‥プロレタリアートと農民のあいだに正常な関係が存在しない場合、わが国で社会主義を発展させることはできない。」
新経済政策のもっとも直接的な動機はここのところにあった。ボリシェビキ権力は、内戦の勝利のうえで、農業生産の回復と労農同盟のためにそうしなければならなかった。
レーニンは、農民からの割当徴発から現物税への移行を決定した第一〇回党大会(一九二一年三月)において、次のように述べている。
「戦争によってすっかり締め付けられたわれわれは、前代未聞の荒れはてた大規模生産を握っているプロレタリア国家権力と小農耕者との相互関係をどのようにして打ちたてるか、また小農耕者としてとどまるかぎり、この小経営にある程度の取引形態を保証することなしには生活することのできない小農耕者との共同生活の形態をどのようにして見いだすのかということに注意を集中することができなかった。‥‥この問題は、われわれが戦争の時期を終え、‥‥平和状態への移行を実現しはじめたわれわれの活動の政治的締めくくりをつけるものである‥‥。」「われわれは中農を経済的に満足させ、取引の自由を許さなければならない。さもなければ、国際革命が延びのびになっているさい、ロシアではプロレタリア権力を維持することはできない、経済的にできないのである」と(『レーニン全集』三二巻)。
<国有工業と市場>
だが、「新経済政策はけして都市と農村の相互関係からだけ生まれたのではない。この政策は国有工業の成長のために必要な段階である」と、トロツキーのコミンテルン四大会報告は述べている。
この報告は、「鉄道の例」をとりあげて、次のように述べている。
「一定の鉄道線が経済にとって有利であるかどうかは、われわれが社会主義経済の包括的な統計的計算の方法をつくりあげていないかぎり、市場の媒介によらずにそれを確認することができない。こうした統計的計算の方法は、‥‥ただ国有化された生産手段にもとづく広範な実際上の経験の結果としてしかえられないのである。」
「あたえられた歴史的段階では、運賃を定め、正確に簿記をつけ、商業計算をおこなわねば(ならない)。‥‥鉄道網の各種部分のあいだに損益のバランスを維持し、経済のその他の部分との同様なバランスと結びつけることによってのみ、われわれは社会主義計算の方法と新しい経済計画の方法とをつくりあげることができるだろう。」
「ここから、一切の鉄道が国有財産になった後も、個々の鉄道線ならびに一グループの鉄道線が、それに依存しており、かつまたそれに奉仕している一切の他の経済企業にたいして自己を調整するという意味で、それらの鉄道線に経済上の独立を維持することを許す必要が生じるのである。抽象的な計画や形式的な社会主義の目的は、それ自体ではけして鉄道の運営を資本主義の軌道から社会主義の軌道へきりかえるために十分ではない。一定の、むしろかなり長い時期のあいだ、労働者国家は、鉄道を運営する場合、資本主義的方法――市場の方法を利用せねばならないだろう」と。
実際に、大規模企業の国有化はそのまま維持されたが、その運営と管理は全面的に分権化された。燃料、冶金、兵器工業、輸送、銀行、外国貿易などの経済の“管制高地”は国家の直接的掌握のもとに止まったが、その他の国有企業は国家予算から独立し、財務・商業上の自主性をあたえられ、国家による生産割当てにしたがって生産する義務を負わなくなった。後者の企業群はトラストに連合し、それは新経済政策期の支配的な工業組織形態になり、一九二三年には国有工業の労働者の七五パーセントを占めた(P・R・グレゴリー、R・C・スチュアート『ソ連経済――構造と展望』教育社刊)。
また、新経済政策のもとで、家内工業への従事と雇用労働者二〇人以下の製造企業の設立が認められ、一〇人以下のすべての企業が非国有化され、多くの国有小企業が賃貸しで私的経営に委ねられた。
そこで、トロツキーの報告は次のように一般化して述べている。
「各企業が社会主義の有機体を構成する組織として計画的に機能するようになる前に、われわれは多年にわたって市場をとおして経済を運営する大規模な転換期の活動に従事しなければならないだろう。こうした転換の進行中に、各企業とその各部門は多かれ少なかれ市場のなかで独立の位置をもち、市場をとおして自己をテストしなければならない。これがまさに新経済政策の中核なのである。‥‥これは、資本主義経済から社会主義経済への転換期をとおして国有経済が発展する場合に避けることができない段階として、‥‥重大な意義をもっている。」
そして、「戦時共産主義は経済的統一の官僚主義的代替物をつくりだした。‥‥こうした官僚主義的な管理が個々の企業の特殊性を完全に均一化し、それらのもつ生産力や収益性を保証する見込みを一掃したことは自明のことである」と。
<私的資本の復活>
ところで、新経済政策による「市場や穀物の自由取引、競争、貸付けや譲与」は、その必然的結果として私的資本の復活をもたらさないわけにはいかなかった。
この点について、トロツキーの報告は次のように述べている。
「すでに商業の領域、とくに都市と農村をむすぶ通路にそった商業の領域において私的資本が復活した‥‥。わが国では、労働者国家が社会主義的な原始的蓄積の時期を経過しつつあるとき、個人商人の資本は資本主義的な原始的蓄積の段階を経過しつつある。個人商人の資本が頭をもたげると、それは工業のなかにも入りこもうとする‥‥。国家は工場を個人的な企業家に貸し付けつつある。したがって、たんに商業だけでなく、工業においても私的資本の蓄積は現に進行しつつある。」
この時点で、約一〇〇万の労働者が四千以上の国営企業で働き、その一企業当り平均は二〇七人であり、他方、貸出された企業の大部分は軽工業部門の地方的企業で、その労働者は一企業当り一七人であった。これらの企業の五一%が私的資本によって利用され、こうして「もっとも小規模な約二、〇〇〇の企業が私的資本の搾取のもとで四万ないし五万の労働者を雇って」いた。「商人の資本は、‥‥すでに工業の内部に侵入し、企業を借りうけ、これによって利潤をあげながら成長しつつある。」
「私的資本は商業の領域ではるかに広い役割を演じ」、「大雑把な推計によれば、私的商業資本はわが国の取引高の三〇%を占め、国家と共同組合はその七〇%を占めている。私的資本は、主として農業と工業との間の仲介者の役割をはたし、部分的には各種の工業部門の間の仲介者の役割をはたして」いた。新経済政策期において、農民はその生産物の約三分の二をなんらかたちで自ら直接に消費し、残りの三分の一だけが市場に流入し、農産物商品は全商業取引の三分の一以下であった。
そこで、トロツキーの報告は次のように結論づけている。
「理論の点」では、「プロレタリアートが権力を獲得した後、長い間、国営企業とならんで、技術的に進歩が少なく、集中化にあまり適していない私的企業が存在する」、「国営企業と私営企業の間の関係、そして個々の国営企業またはそのグループの間の相互関係が貨幣流通をつうじて市場によって規制される」、「こうした理由のために、われわれは、社会主義的な経済の再組織の過程と並行して、ふたたび私的資本の蓄積の過程が生ずるだろうということを認めた」と。
<過渡期における私的資本との闘争>
ところで、「こうした私的資本は、最初は商業の領域だけで、だが後には工業の領域にも入りこんで国家資本と競争する。」(前記テーゼ)「そこでは相変わらず同じ敵――労働者国家と資本主義のあいだの闘争がたたかわれる。だが、今度は、闘争は軍事上の舞台ではなく、経済の領域でひきおこされている。内戦中に赤軍と白軍のあいだで農民を影響下におくための決戦が闘われたが、今日では、農民の市場をかちとるための闘争が国家資本と私的資本のあいだで闘われる。」(トロツキー報告)
したがって、労働者国家の過渡期の経済においては、資本主義と社会主義の要素が複合して併存し、この二つの要素のあいだの闘争が長期にわたって展開されることになる。自由市場を基礎として、労農同盟の積極的防衛と農民市場における主導権のための労働者国家の経済的闘争が私的資本ならびに国際ブルジョアジーにたいして長期に展開される。
そこで、トロツキーの報告は、「市場の基礎のうえでひきおこされる経済闘争中のもっとも重要な武器は国家権力」であり、「いま一つの武器は国のもっとも重要な生産力をその手に握っていること」であるとし、さらに土地の国有化と農民からの現物税、そして労働者国家による国境の掌握(外国貿易の独占)をあげている。
トロツキーの報告の要約である前記テーゼは、この点について次のように述べている。
「この闘争のなかで、プロレタリアートは国のもっとも高度に発達した生産力と国家権力という有力な利点を自分の側にもっている。ところが、ブルジョアジーの側には、より大きな熟練とある程度まで外国資本との――とくに白衛軍の亡命者との――結びつきという利点がある。」
同時に、「労働者国家の課税政策と一切の信用機関の国家の手中への集中について、とくに強調しなければならない。これらは、経済の国家的形態、すなわち社会主義的傾向をもつ形態の私的資本主義的形態にたいする優越性を保証する二つの強力な媒介物である。課税政策は、たんに農業の領域だけでなく(現物税)、商工業の領域においても国家経済の目的のために私的資本の収入のますます増大する部分を吸収する機会を提供する。こうして、プロレタリアート独裁のもとでは、私的資本(利権の供与)は社会主義的原始蓄積に貢納を支払うことを強制されるのである。他方、国家の手に集中された商工業の信用制度は、過去数年間の統計が示しているように、国営企業に七五%、共同組合に二〇%、私企業にはせいぜい五%の信用を供与しているにすぎない」と。
<社会主義的原始蓄積>
トロツキーの報告は、こうして、労働者国家の社会主義的原始蓄積の課題を設定していた。
それは、直接的には、“国家資本”が私的資本とのあいだで展開する「農民の市場をかちとるための闘争」として提起されていた。それは、長期的には、「国有工業を強力に発展させて、農民と農業にたいして必要とする一切のものを供給することができ」、「農民を社会主義経済の一般的な組織のなかにはめこむための土台」を準備するという積極的工業建設の課題として提起されていた。
新経済政策の第二年目において、農業生産は戦前のほぼ四分の三であり(農業の外にでるのはその約三分の一)、工業生産は戦前の四分の一にすぎず、農業との関係で工業の位置は非常に悪化していた。そして、「生産を拡大するためには、われわれはまず原始的社会主義的蓄積の段階をとおらねばならない」と、トロツキーの報告は述べている。
「経済復活の端緒につくとともに、入手しうる資源が、主として、それがもっとも緊急に必要とされるところ、つまり労働者や農民の個人的もしくは生産的消費のための資財を生産する部門にむけられつつある‥‥。現在では、こうしたタイプの企業にブームがみられる。」(トロツキー報告)
他方、「重工業はまだ極端に困難な状態のなかにあるといわれている。だが、重工業がこのように遅れている理由は、過去数年間の条件によって生じたもので、また再建したばかりの商品経済の条件のなかに見いだされる。すなわち、農業ならびに軽工業の領域でまず成功がかちとられた後にはじめて、‥‥国家から最大の配慮をうけることを約束されている機械工業、金属工業、石炭・石油その他の燃料工業を正しく発展させるために真に刺激をあたえることができる。国家は、たえずその活動領域をひろげ、その手中にますます大量の運転資本を集中し、やがて国家による蓄積(“社会主義的な原始的蓄積”)の方法によって、その基礎的な資本を更新し、増加するだろう。」(前記テーゼ)
「技術的な指導者と商業上の指導者をもつそれぞれの国有工場は、頂上からの――つまり国家機関からの統制に従うだけでなく、下からの――つまり将来ながきにわたって国家の経済の規制者としてとどまる市場による統制に従わなければならない。国有の軽工業が市場に結集して国家に収入をあたえはじめるにつれて、われわれは重工業のための流通手段を手に入れるだろう。もちろん、これが国家が自由にしうる唯一の資源ではない。すなわち、農民から入ってくる現物税があるし、個人経営の商工業にたいする税金があるし、関税からの収入、その他がある。」(トロツキー報告)したがって、「国家による蓄積が私的資本による蓄積よりも進歩がのろいとか、それゆえ私的資本はこの闘争から勝利者として姿をあらわすだろうなどと仮定する理由はまったくない」と(前記テーゼ)。
こうして、トロツキーの報告において、「国家による蓄積」――すなわち社会主義的原始蓄積――の課題は、私的資本を不断に再生産する市場のうえにたつ過渡期経済という在り方のもとで、まさにその市場を基礎とし、同時に私的資本との闘争関係において設定されていた。
この報告は、「産業を統制するために、労働者国家は市場の方法に救いを求めた。ところで、市場は普遍的な等価物(通貨)をもたねばならない」として、通貨政策について、「わが国は新しい通貨の発行を拒否しはしない。だが、これは現実の経済過程と一致しなくてはならないし、それぞれの場合、国家の購買力を増大させ、こうして社会主義的原始蓄積をたすけるように計算されねばならない」と述べている。
同じく、一定の期間、「社会主義ヨーロッパの協力がない場合にも国の経済力が漸次に拡大することを保証する組織された手段」の一つとして、労働者国家の統制・管理下における国際貿易と外国資本(合弁会社、利権の供与など)の積極的な利用が、社会主義的原始蓄積のために主張されていた。
<市場と計画>
「国家による蓄積」――すなわち社会主義的原始蓄積――は、当然、労働者国家による経済の計画化の問題を提起する。
トロツキーの報告は、ロシア過渡期における市場と国家による経済の計画化について次のように述べている。
「わが国は、総体的な計画経済――つまり市場の働きのなかに意識的な命令による修正を導き入れる役割を引き受けることを拒否するものではない。だが、そうすることによって、わが国は、出発点としてなにか先験的な計算のようなものを選んだり、戦時共産主義のもとで行なわれたような抽象的な極端に不正確な計画上の仮定を選んだりしない。その出発点は、あくまでも、こうした同じ市場の現実の働きであって、市場を統制する手段の一つは、国の通貨ならびに集中された政府の信用制度の条件なのである。」
この報告を要約した「ソビエト・ロシアにおける経済情勢に関するテーゼ」は、同じく市場と経済計画について、次のように述べている。
「労働者国家は、一方ではその経済を市場の基礎に移しているが、ごく近い将来に計画経済を開始することを拒否するものではない。そして、工業企業の圧倒的多数と鉄道業のすべてがすでに国家の計算にもとづいて国家によって経営され融資されているというだけでも、こうした企業にたいする集中化された国家の統制が市場の自動的な統制と結びつけられることを避けがたいものにしている。‥‥現在の状況のもとで、国家経済の計画は、需要供給の自然な働きを全能の先見によって置き換えるというユートピア的な任務を自らに課しあたえるものではない。‥‥われわれの現在の経済計画は、財貨の分配と市場の規制の基本的形態としての市場を出発点としながら、信用や課税や産業や商業の一切の要因を結合して、市場の内部における国営企業にできるだけの優越性をあたえることである。この計画は、国営企業の間の相互関係のなかに最大限の先見と統一性を導きいれ、国家が市場にもとづいて、なによりもまず国営企業自身の間の相互関係の領域でできるだけ早く市場を廃止することを狙っている」と。
ここでは、プロレタリア独裁下の過渡期の経済において“市場”と“経済計画”を互いに排斥しあい、絶対的に対立するものとしてではなく、逆に「市場を出発点」とする経済計画、「市場の自動的な統制と結びつけ」られた「国家の統制」が主張されている。
トロツキーの報告は、過渡期における市場経済関係を前提とし、市場経済関係と複合した労働者国家の意識的・主体的な計画・統制・指導としての経済計画――すなわち社会主義的原始蓄積とその計画化――について語っている。経済計画とは即時かつ直接的に市場を消滅・廃止しようとするものではない。すなわち、過渡期における「総体的な計画経済」は「市場の働きのなかに意識的な命令による修正を導き入れる役割」であると定義されている。
市場・社会主義的原始蓄積・経済計画についてのこのような考えが、一九三〇年代に形成された官僚的・超中央集権的スターリニスト計画経済制度とまったく対立するものであったことは明白である。
<資本主義経済から社会主義経済への過渡期と市場>
トロツキーの報告は、ボリシェビキ権力が採用した新経済政策を“非常時の一時的な政策”としてでなく、過渡期労働者国家の相対的に長期にわたる一般的経済政策路線として説明している。
すなわち、「生産手段が私的個人によって所有され、一切の経済関係が市場によって規制された資本主義と社会的計画経済をもつ完全な社会主義とのあいだには多くの経過すべき段階」があり、「新経済政策は、本質的にはこうした段階の一つなのである」と。
この報告を要約した「ソビエト・ロシアにおける経済情勢に関するテーゼ」は次のように述べている。
「資本主義の支配体制から完全な社会主義にいたるまで、当然にも長い期間を経過しなければならない。この期間、プロレタリアートは、資本主義的な流通方法と組織形態(貨幣、取引所、銀行、商業流通)を利用することによって、市場にたいする統制をますます強化し、集中し、統一して、結局のところ市場を廃止し、それを、従来の経済発展の全体の過程から生まれ、将来の経済生活を管理するための前提条件を提供する集中された計画によって置き換えねばならないことはまったく明らかである。ソビエト共和国はいまこの道にそって進んでいる。だが、いまだ、それは究極の目的よりも出発点の方にはるかに近い」と。
このテーゼは、さらに「ロシアにおいて新と命名された経済政策が、どの程度まで、一切のプロレタリア革命にとって必然的な段階をなすものであるか」として、次のように述べている。
「経済生活を統制するために資本主義によってつくられた方法や制度を利用する問題については、一切の労働者政府は多かれ少なかれ資本主義から社会主義へ移行する途上でこうした段階を経過しなければならない。‥‥一切の新しい労働者政府は、多かれ少なかれやむをえず内戦のなかで資本家の経済機関である取引所や銀行やトラストやシンジケートなどを破壊した後、こうした制度をふたたび回復し、それらを政治的ならびに組織的に自己に従属させることを余儀なくされるだろう。それらをプロレタリア独裁の全機構と結びつけた後、創意にみちた活動によってそれらに精通し、しだいにそれらの助けによって経済生活を社会主義の出発点のうえに再建しなければならない。」
「いまだ建設中の社会主義が資本主義の外皮のなかで生存しつづけるこうした段階を労働者国家が経過する速度は、‥‥軍事的ならびに政治的情勢をはなれて考察するならば、プロレタリアートの組織と文化の水準、ならびに労働者国家が経済を握ったときに存在していた生産力の状態によって決まる」と。
こうして、トロツキーは、「一切の市場の方法や過程や制度をともない、市場を基礎としたプロレタリア国家による経済的管理」(前記テーゼ)について、これを特殊に後進ロシアでだけ適用されるものとしてでなく、プロレタリア独裁のもとで資本主義から社会主義にむかおうとする過渡期経済一般に適用される方法として主張していた。
次にとり上げる『ロシアはどこへゆく――資本主義へか社会主義へか』(一九二五年)において、以上のような方法にもとづいてロシア過渡期の経済政策の在り方がよりいっそう体系的に提示されている。
第二章 トロツキーの過渡期経済政策構想――『ロシアは何処へゆく』
一九二三~二四年、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンのトロイカにたいする左翼反対派の最初の闘争が展開され、その敗北の後、トロツキーは党と政府、そしてコミンテルンの指導の中心から排除された。一九二五年、トロツキーに割り当てられた仕事は、最高国民経済会議のいくつかの小委員会を担当することであった(利権、電気技術開発、科学技術の三つの委員会の議長)。その夏、トロツキーは『ロシアは何処へゆく――資本主義へか社会主義へか』を執筆した。そして翌年初夏から一九二七年にかけて、以前の反対派とジノビエフ-カーメネフ派のブロックによる合同左翼反対派の闘争がロシア・ボリシェビキ党の最後の党内闘争として展開された。こうして『ロシアは何処へゆく』は二つの党内闘争の中間期の産物であった。
一九二五年、革命ロシアの最初の体系的・包括的な国民経済統計表がゴスプラン(国家計画委員会)によって発表され、トロツキーはこの国民経済統計表をもとにして『ロシアは何処へゆく』を執筆した。執筆の時期からして、トロツキーのパンフレットは、論争としてではなく、控えめな“教育”的・“啓発”的調子で書かれており、後に党機関紙『プラウダ』にも発表された。にもかかわらず、当時のロシアの経済状況と労働者国家が積極的にとるべき過渡期の経済政策について、トロツキーは自己の考えの基本的枠組みを明確にしている。それは、一九二一年に採用した「新経済政策」の方法を再確認し、ゴスプランの国民経済統計表にもとづいて当時の経済状況について総括し、次にむかうべき課題の方向を提示している。
以下、トロツキーの『ロシアは何処へゆく』から抜書きするが、一九二七年刊の田中九一訳『ロシアは何処へ往く』(同人社書店)と英語版のLeon Trotsky “Challenge of the Left Opposition (1923-25)” (1975, Pathfinder Press)を併用する。日本語版と英語版では目次の構成が少し違うが、ここでは日本語版の目次構成を用いることにする。〔なお、トロツキーの『ロシアは何処へゆく』は一九九三年に西島栄訳『社会主義へか資本主義へか―過渡期経済と世界市場』(大村書店)として刊行され、容易に読めるようになっている。しかし、以下の抜書きでは内容的にPathfinder版英語訳にかなり依拠しているので、引用している文章は一九八九年発表時点のままにし、引用個所について西島訳大村書店版の該当ページを示している。――二〇〇七年一〇月〕
1 「新経済政策(ネップ)」の方法の再確認と問題の再設定
<「新経済政策(ネップ)」の方法の再確認>
トロツキーは、一九二五年の時点で、「新経済政策」の出発点を以下のように確認している。
「生産力の増大なくして、社会主義は問題にならない。われわれが現在到達している経済水準および文化水準のもとでは、生産力の発展は、ただ社会的経済制度のなかに生産者自身の個人的利益を組み込んではじめて実現可能になるのである。このことは、労働者の場合、労賃を生産力に応じて上下することによってなされる。‥‥農民の場合は、彼が私的経済を営み、市場向けに労働をおこなうことによって、個人的利益が実現されている。しかし、ここから困難も発生する。‥‥二千二〇〇万の農民経済(そのうち、国有のソビエト耕地、農民の共同耕作、農業“コミューン”などは、今日、ほんの小部分にすぎない)の市場向け労働は、必然的に、農民大衆の一方の極に、たんに裕福な経済のみならず、現実に搾取者としての経済をもつくりだし、他方の極に、今日の中農の一部を貧農に、また貧農を農業労働者に転化させるのである。」(「序文」、西島版一一~二頁)
ここでは、トロツキーのコミンテルン四大会報告と違って、自由市場を基盤として進行する「農業内部における資本主義的・半資本主義的傾向の増大」(同上、西島版一三頁)の問題――農業における「搾取者としての経済」と貧農・農業労働者の新たな形成――が指摘されている。
『ロシアは何処へゆく』は、また、ロシア過渡期の経済における市場と計画について次のように述べている。
「国家計画委員会(ゴスプラン)は、一九二五~二六年の社会主義ソビエト共和国連邦の国民経済“予定”数字表を発表した。」「この中に、一九一三年および一九二四~二五年度のあらゆる基本的事実と一九二五~二六年度の予定数字との簡単明瞭で解りやすい比較を見いだすことができる。」「この予定数字表のなかに、われわれは社会主義国家がはじめて経済の全部門、それらの相互関係ならびに発展にたいして計算を立てているのを見いだす。」(第一章の「一、本表の価値」、西島版一七~九頁)
「この表は一九二六年一〇月一日まで及んでいる。」「この見積もりは、単なる受動的予想の産物ではなく、能動的な経済計画の基軸である。それぞれの数字は、写真であるだけでなく、同時に指針ででもある。‥‥それは、理論的予想と実際的意欲との弁証法的結合である。いいかえれば、客観的な状況および傾向の計算と、労働者と農民の国家に強制された主体的任務との結合である。」(同上、西島版二一~二頁)
「国家が実施する経済過程は、一定の段階で“市場”に入りこみ、この市場の方法によって、国家が統制しえない自然的経済過程――これは、とりわけ、わが国で支配的な“原子化された”農民経済に起因している――と連結される。今日、計画的な経済管理は、大部分、統制され方向づけられている経済過程と、いまだそれ自身の市場法則に支配されている経済過程との結合にあることは明かである。いいかえれば、わが国民経済において、種々の発展段階にある社会主義的諸傾向が同じく種々の形成段階にある資本主義的諸傾向と結合し、からみ合っている。統制数字表は、この一組の過程と他の一組の過程との関係を反映し、発展する諸力の構成要素を明示している。この点にこそ、わが計画案の根本的な社会主義的意義がある。」(同上、西島版二三頁)
ここでは、トロツキーのコミンテルン四大会報告の立場――「一切の市場の方法や過程や制度をともない、市場を基礎とするプロレタリア国家による経済的管理」と意識的計画化の努力という立場――が、基本的に再確認されている。
<社会主義と資本主義の傾向の併存と闘争>
トロツキーのコミンテルン四大会報告は、市場制度を採用する労働者国家の過渡期経済において資本主義と社会主義の要素が複合して併存し、この二つの要素のあいだの闘争が長期にわたって展開されることになると指摘していた。『ロシアは何処へゆく』は、この点について次のようにのべている。
「われわれの経済において社会主義の傾向と資本主義の傾向の闘争――この両傾向の協力と競争がネップ[新経済政策]の本質をなしている――があるかぎり、この闘争の帰結は、これら両傾向の発展速度によって決定される。いいかえるならば、国営工業が農業よりも緩慢に発展すれば、農業が上述の両極――“上部”の資本家的農家と“下部”のプロレタリア――を加速度的に生みだすとすれば、この過程はもちろん資本主義の復活に導くだろう。」(「序文」、西島版一三~四頁)
コミンテルン四大会報告が商品市場を基礎にする「労働者国家と資本主義のあいだの闘争」について述べたとき、「都市と農村をむすぶ‥‥商業の領域」における私的資本の復活とその工業の領域への浸透の可能性を問題にしていた(本稿第一章、2「新経済政策(ネップ)」の「私的資本の復活」参照)。だが、それから三年後に執筆された『ロシアは何処へゆく』では、先に指摘しているように、農業それ自体における「資本主義的・半資本主義的傾向の増大」とそれがもたらす農民層内の新たな社会階級的分化の問題が前面に取り上げられている。
そこでは、「国営工業が農業よりも緩慢に発展」し、農業が「資本家的農家」と「プロレタリア」を「加速度的に生み」だせば、その過程は「資本主義の復活」に導きうるとして、「資本主義の傾向と社会主義の傾向の力関係の問題」は、主要に、労働者国家が直接に掌握する国有工業の発展と農業内部における「資本主義的・半資本主義的傾向の増大」のあいだの相互関係の問題としてあらためて提起されている。
トロツキーは「本書(『ロシアは何処へゆく』)では、農村内部の分化について統計的データを提供していない。なぜなら、この過程を全般的に評価しうる数字が収集されていないからである。この欠如は、‥‥むしろ二千二〇〇万農民経済の“分子”的変化を包含する社会的過程それ自体の特殊性にもとづいている」と述べている(「序文」、西島版一五頁)。だが同時に、農村内部で進展する階層分化を暴きだす統計数字は当時の党内支配勢力にとって都合の悪いものであり、この種の統計調査へのサボタージュがあった。合同左翼反対派の党内闘争が展開されるのは翌二六年から二七年にかけであり、この問題についてのトロツキーの発言は慎重だった。
<問題の再設定――誰が誰にうち勝つか>
しかし『ロシアは何処へゆく』において、「わが国において進行しつつある経済過程は、相互に排除しあう二つの制度――社会主義と資本主義――の闘争を構成する矛盾をもっている‥‥。まさに新経済政策期に移行する時点で、レーニンはこの歴史的問題を『誰が誰にうち勝つか』と短い言葉によって定式化した」と述べるとき(第一章の「一、本表の価値」、西島版二三~四頁)、トロツキーは、新経済政策(ネップ)のもとで進行した農業生産の回復とそれと同時に展開した農村内部の資本主義・半資本主義的階層分化との関係で、都市国有工業のあり方とその積極的発展の問題を設定していた。
こうして『ロシアは何処へゆく』は次のように述べている。
「わが経済発展の社会的形態は、社会主義的ならびに資本主義的な方法・形態および目的の協同と闘争を基礎にしており、したがって二重の性質をもっている‥‥。新経済政策によって、われわれの発展はそのような条件下におかれた。しかし、われわれの発展の矛盾した性格について、以上のような一般的観念をもつだけではもはや不十分である。われわれは、現在、これらの経済的矛盾を最大限に正確に測定する基準を必要としており、われわれの一般的発展の動的係数だでなく、あれこれの特定の傾向を比較しうる係数を必要としている。非常に多くのこと――事実、われわれの国内・国際政策のあらゆること――が、この問題にたいする回答に依存している。」(第一章の「二、問題の意義」、西島版二六頁)
「資本主義の傾向と社会主義の傾向の力関係の問題、生産力が増大するにつれてこれらの比重関係が変化する方向の問題について答えることなしに、われわれの農民政策の展望と生起しうる危険について明確な信頼しうる観念をえることはできない。生産力の発展につれて資本主義の傾向が増大するとすれば、あるいは社会主義の傾向の犠牲のうえで拡大するとすれば、農村における商品資本主義関係のこの拡大は、大変動的重要性をもち、われわれの発展コースを決定的に資本主義の軌道に押しやることになるだろう。その逆に、‥‥社会主義国家の手中にあり、またこの国家のためにあらゆる管制高地的位置を確保している生産力が、絶対量において急速に増大するのみならず、都市や農村の私的資本主義の生産力よりもはるかに急速に増大しているならば、――この事実がもっとも困難な復旧期の経験によって確認されるならば、農民の原始的基底から発生する商品資本主義の傾向のある程度の発展によって、われわれがなんらかの経済的危機と量から質への移行におそわれ、資本主義への突然の転化に直面することはないだろう。」(同上、西島版二六~七頁)
『ロシアは何処へゆく』は、農業における資本主義的傾向の発展を基盤にする「資本主義の復活」の可能性は「理論」的にありうることだとし、その条件を具体的に指摘している。すなわち、「支配的政党が政治ならびに経済において相次いで誤りを重ねるならば、その結果、現在のところ有望な発展をとげている工業の成長を妨げられるならば、この党が農村における政治的・経済的過程にたいする統制を手放すならば、そうすれば、もちろん、わが国における社会主義の目的は敗北するだろう」と(「序文」、西島版一四頁)。トロツキーがここで「理論」的可能性として挙げている諸条件は、当時の党内支配勢力が遂行していた政策のなかに現実的な要素として存在していたのであり、それがもたらした矛盾の先鋭化を基盤として、二六~二七年の合同左翼反対派の闘争が展開され、さらには二〇年代末から三〇年代初めにかけて、スターリンのもとに結集する党機関官僚分派は暴力的――上からの内乱的――な強制農業集団化と強行的超工業化の路線に踏み込んでいったのである。
だが『ロシアは何処へゆく』は、「われわれの予測において以上のような前提から出発する必要はない」、「われわれの任務・目的・方法は‥‥ひとたび獲得した権力を保持し強化する方法とプロレタリア国家の形式を社会主義の経済的内容でみたす方法を示すことである」として、次のように述べている。すなわち、「工業の発展が農村内部の(階層)分化の過程を追い越して中立化し、こうして農業の漸次的集団化のための技術的諸条件と経済的前提を創出できると考えうるあらゆる理由がある」と(「序文」、西島版一五~六頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、こうして(一)新経済政策のもとですでに到達している当時の経済状況について批判的に総括し、(二)次にむかうべき積極的工業化の方向を農業との関係で提示し、(三)ロシア過渡期の工業化政策と資本主義世界市場との新しい関係のあり方について課題を提起している。『ロシアは何処へゆく』のあと一つのタイトルは「資本主義へか社会主義へか」であり、その表題の意味がここにあった。
2 成果の総括と課題の設定――新たな工業化の課題と農業
<評価の方法>
『ロシアは何処へゆく』は、新経済政策(ネップ)のもとで到達した当時の経済状況の総括を「社会主義と資本主義のいずれに向っているか」という観点からおこなう上で、三つの側面――「わが国の生産力は発展しているか」、「この発展がとっている社会形態」、そして「その発展の速度」――からアプローチしなければならないという。「発展の速度」については、「世界経済の見地からするわれわれの発展速度」の問題であり、「世界市場」・「一般的分業制度」に入りこみ、「資本主義によって包囲されている」「われわれの経済発展の速度が、世界資本主義の経済的圧力と世界帝国主義の軍事・政治的圧力にたいするわれわれの抵抗力を決める」としている(第一章の「二、問題の意義」、西島版二五~八頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、以上三つの側面からゴスプラン発表(一九二五年)の国民経済統計表を評価し、「生産力の発展と‥‥この発展の社会形態については、統計表の答は明確であり、さらに良好である。‥‥発展速度の問題については、われわれの経済成長の過程でこの問題の世界規模における展開を目撃しはじめたにすぎない。‥‥そして、この問題は、現在始まっている局面におけるわれわれの経済発展の最高の基準、もっとも確実な試金石になっている」と結論づけている(同上、西島版二八頁)。
<生産力の急速な回復>
一九二一年以降の新経済政策(ネップ)のもとで、ソビエト政権下の経済は戦争と革命・内戦の打撃から急速に回復していった。
『ロシアは何処へゆく』は、「われわれの生産力の急速な回復はいまや周知のことである」として、ゴスプラン発表の国民経済統計数字表にもとづいて次のように要約している。
農業の回復――「一九二四~二五年度の農業生産(一九二四年の凶作に当っている)は豊作の年であった一九一三年の生産の七一パーセントである。現在の豊作を含む一九二五~二六年度の生産高は、‥‥一九一三年を越え、一九一一年の農業生産に近づくだろう。」(第一章の「三、生産力の成長」、西島版二九頁)
工業の回復――「今年度(一九二四~二五年)に、われわれの工業は、‥‥“通常”の年であった一九一三年の生産の七一パーセントである。来年度には、それは一九一三年の生産の九五パーセント以下になることはないだろう。このことは、事実上、回復過程の完了を意味する。一九二〇年‥‥の生産がわれわれの工場の通常能力の五分の一または六分の一まで低下していたことを想起するとき、この回復の速度を完全に評価することができる。われわれの大規模工業の生産は、一九二一年以来、三倍以上も拡大したのである。」(同上、西島版二九~三〇頁)
貿易、そして国家予算――「今年度、五億ルーブルに達しなかった輸出は、来年度には一〇億ルーブルをかなり上回るだろう。輸入も同じ発展を示している。」「国家予算は(今年度の)二五億ルーブルから(来年度の)三五億ルーブル以上へと増大するだろう。」(同上、西島版三〇頁)
こうして、『ロシアは何処へゆく』は、「生産力の発展はどうかという問題について、まったく反論の余地のない答がえられる。すなわち、市場の“解放”はわれわれの生産諸力にたいして巨大な刺激となった」と結論づけている(同上、西島版三〇頁)。
一九二一年以降、新経済政策(ネップ)のもとで進行した経済の回復は、たしかに非常に急速であった。ネップは、まさにこの側面において完全に成功したのである。その過程の統計数字上の概略を表1「一九二〇年~二六年の部門別生産」によって知ることができる。さらに三年後の一九二八年の主要経済指数の一九一三年との比較は、表2のとおりである。
表1 一九二〇~二六年の部門別生産
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1913 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926
工業(工場)生産(百万ルーブル:1926-7)
10251 1410 2004 2619 4005 4660 7739 11083
石炭(百万㌧d) 29.0 8.7 8.9 9.5 13.7 16.1 18.1 27.6
電力(百万KW) 1945 – 520 775 1146 1562 2925 3508
銑鉄(千㌧d) 4216 – 116 188 309 755 1535 2441
鉄鋼(千㌧d) 4231 – 183 392 709 1140 2135 3141
綿布(百万㍍b) 2582 – 105 349 691 963 1688 2286
播種面積(百万㌶f)
150.0 – 90.3 77.7 91.7 98.1 104.3 110.3
穀物収穫(百万㌧d)
80.1 46.1 37.6 50.3 56.6 51.4 72.5 76.8
鉄道輸送(百万㌧d)
132.0 – 39.4 39.9 58.0 67.5 83.4 –
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(アレック・ノーヴ『ソ連邦経済史』第四章、岩波書店)
表2 一九二八年の主要経済指数(一九一三年=100)
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国民所得 主要生産・取引指標
1913年価格 117 石炭 122
1926/27年価格 119 電力 203
銑鉄 79
工業生産 鉄鋼 102
1913年価格 129 綿布 104
1926/27年価格 134-139 穀物生産 87
運送貨物取扱い高 104
農業生産 外国貿易
1926/27年価格 111 輸出 38
輸入 49
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(P. R.グレゴリー、R. C.スチュアート『ソ連経済――構造と展望』
第三章、教育社)
<相対的に強化された国有経済部門>
ソビエト政権下における生産諸力回復の刺激となったのは「市場――すなわち資本主義経済秩序の要素」であり、それは「ブルジョア理論家・政治家たちを大いに喜ばせる」ものであった。「産業国有化(一九一七~一九年)と経済計画の方法」は、ネップ(新経済政策)への移行とその明白な経済的成功によって修復不可能なまで傷つけられたかに見えた(同上、西島版三〇頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、そこで、「社会主義経済の前提は生産手段の国有化である。この前提はネップの試練に耐えただろうか。商品の市場流通は国有化を弱めたのか、強めたのか」と設問して、第二の「生産諸力発展の社会形態」の問題に入ってゆく(同上、西島版三一頁)。
まず最初に、基本資本の部門別状況をとりあげ、ゴスプランの一九二四~二五年度初めの統計数字にもとづき、「国家が保有する資本は少なくとも一一七億金ルーブルで、協同組合は五億金ルーブルの保有で、私的――主要に農民の――経営は七五億金ルーブルの保有で」あり、「技術的な最先端部分」を包含する「総生産手段の六二パーセント余が社会化され」、「約三八パーセントは社会化されていない」としている(同上、西島版三二頁)。
農業については、「地主制――および農民経済の規模を越えるほとんどすべての土地保有――の清算は、モデル農場を含めて、大規模農場をほぼ全面的に清算し」、このことが農業の「一時的後退」の副次的原因になったが、「今年度の収穫は、大規模土地所有と資本家的“モデル”農場なしで、戦前期の農業生産の数字に到達するだろう」としている。『ロシアは何処へゆく』は、この点についての結論として、「封建的地主階級とそのすべての足場の“清算”は経済的に健全であることを証明した」と述べている(同上、西島版三二~三頁)。
「土地の国有化」については、「分割された農民の土地が極度に小さいので、その結果の評価はいまだなしえない」し、農業生産の将来の発展において土地国有化がはたしうる可能性に注目すべきであるとしている。農業における生産手段の所有形態については、「わずかに四パーセントが社会化されている」にすぎず、「残りの九六パーセントは農民の私有財産」であり、農業部門の生産手段はソ連邦の総生産手段の三分の一余であるとしている(同上、西島版三三頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、次に「わが過渡期経済」における工業の状況に入る。
工業の領域では、生産手段の社会化は八九パーセントで、鉄道を併せると九七パーセントになり、重工業だけだと九九パーセントに達しており、「国有化によってもたらされた所有制度が国家の犠牲によって変更されるようなことはなかった」としている。生産の面では、工業総生産において占める国有部門および協同組合部門の割合は、一九二三~二四年度七六・三%、二四~二五年度七九・三%、二五~二六年度予測七九・七%であり、私的工業生産の割合は二三~二四年度二三・七%、二四~二五年度二〇・七%、二五~二六年度予測二〇・三%であった(第一章の「四、国営工業の力」、西島版三四~五頁)。
これらの数字の総括として、『ロシアは何処へゆく』は次のように述べている。すなわち、「ネップ(新経済政策)のもとで最初に息を吹いたのは家内工業と小工場であった」し、「私的商業資本と、家内工業を含む私的零細工業との結合が‥‥原始的資本蓄積の過程をかなり急速におし進めたかもしれない」が、「ネップの最初の時期――それは再建の枠内にとどまり、国家にとってもっとも困難で危険な時期――の結果として、国有工業はその地盤を資本主義工業にたいして失わなかっただけでなく、逆に後者をしてさらに三パーセントだけ後退させた。ここのところに、この小さな数字の巨大な兆候的意義がある」と(同上、西島版三六頁)。同時に、工業内部において大規模企業の相対的比重が高まってゆく傾向についても確認している(第一章の「六、第一章の結語」、西島版四二~三頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、同じ傾向を商業取引の領域においても確認している。すなわち、国内取引における私的資本の割合は、一九二三年前半、五〇%であったが、同年後半には三四%になり、二四~二五年度には二六%まで下がった、と(第一章の「四、国営工業の力」、西島版三七頁)。
こうして、ネップ初期に相対的に大きな位置を占めた私的資本主義部門の社会的役割は、経済全体の急速な復旧のなかで工業と商業の双方において後退しはじめている。新経済政策期をつうじた社会化された部門の位置の相対的強化が確認されている。
だがトロツキーは、この問題について機械的に考えていたわけではなかった。『ロシアは何処へゆく』は、この点について、以下のような柔軟な観点を明らかにしている。
すなわち、私的工業にたいする国有工業の勝利を「不断に上昇してゆく」過程として機械的にとらえる必要はない、――国家が掌握している経済力に依拠し、発展の速度を高めるために、私的企業や資本主義的農業経営の比重の一時的な増大を認めることもありうる、――新経済政策下の私的工業の大部分は極度に分散した零細なものであり、私的生産の比重が「現在の二〇・七パーセント」を越えると、それがただちに社会主義建設にたいする脅威になると考える必要はないし、固定的な限界を設けるべきではない、――重要なのは「形式的障壁」ではなく、「発展の全般的力学」である、と(同上、西島版三七~八頁)。
<農業の位置と国有工業>
『ロシアは何処へゆく』は、経済全体における農業の位置、そして農業と工業の関係について次のように要約的に述べている。
「農民はその総生産の三分の一弱を市場に投じ、この農産物商品は市場における商品全体の三分の一強である。農産物商品全体と工業商品全体の割合は約三七対六三で、その変動はきわめて小さい。‥‥分散した農民経済‥‥において、その‥‥消費全体の三分の二強が市場から除外されており、残余の三分の一だけがこの国の経済にたいして直接に影響をあたえる。」農民はその総生産物の三分の二強を農村内部で直接に消費し、この部分は「市場に向う三分の一の農民生産のために必要な自然的な基礎である。この三分の一が、農村がその対価を都市から求める価値である。」(第一章の「五、労働者農民同盟(都市と農村の調整――英語版)」、西島版三九~四〇頁)
そのうえで、「都市と農村の統一のメカニズムはますます複雑になってゆく。わが経済はすでに世界経済に参入しており、都市と農村を結ぶ鎖に新しい環が加わった。農民の穀物は外国の金と交換され、この金は機械や農具、また都市と農村の更新の財貨となる。穀物輸出によって実現された金をもって取得する繊維機械は繊維工業の設備を維持し、‥‥農村に渡される織物の価格を安くする。この循環過程はきわめて複雑になる。だが、その基礎は依然として都市と農村のあいだの一定の経済的相互関係である。」(同上、西島版四〇~一頁)
「この関係は動的であり、その複雑な動的過程において主導的要因は工業である。すなわち、農業生産、とりわけその商品部分は工業の発展にたいして一定の限界を設けるが、その限界はなんら一定不変のものではない。工業の発展は(農産物)収穫の増大だけによって制約されるのではないし、この相互依存の関係ははるかに複雑である。工業は、ことにその最終製品の点で、たしかに農村に依存している。しかし、農村の成長と、工業‥‥内部における工業製品市場の確実な拡大とが並行して生起することができる。」(同上、西島版四一頁)
『ロシアは何処へゆく』は、ここのところで、農業の社会主義的再編成と国有工業の新たな積極的発展の課題を提起する。
「農業と工業が復旧過程を完了しつつある現在、工業はこれまでと比較にならないほどの誘発的要因になりつつある。農村にたいする都市の社会主義的影響――たんに廉価な商品(の供給)によってだけでなく、土地の共同利用を促進するますます改良されてゆく農具による影響――の問題が、その極度の具体性と巨大な規模で工業にたいして提起されている。」「農業の社会主義的改造は、たんなる組織形態としての協同組合のみならず、農業の機械化・電化・全般的工業化にもとづく協同組合によって達成される。すなわち、農業の技術的ならびに社会主義的前進は、わが国の経済全体における工業の優越性の増大と切り離しえない。そして、このことは、工業の発展‥‥が最初はゆっくりと――‥‥後には、ますます急速に――農業の発展‥‥を追い抜くことを意味する。」(同上、西島版四一~二頁)
<農民層の資本主義的階級分化>
『ロシアは何処へゆく』は、経済全体における農業の位置について述べている第一章「五、労働者農民同盟(都市と農村の調整――英語版)」で、「序文」ならびに第一章の「二、問題の意義」で言及している農村内部の新たな資本主義的階級・階層分化の問題をまったく取り上げていない。ここでは、農村経済は一つの統計的・抽象的な集合体として取り上げられているだけである。
しかし『ロシアは何処へゆく』第一章のこの項において、都市と農村の動的な経済的相互関係において工業が主導的要因であるとし、農業の社会主義的再編成の課題と農業の拡大のテンポを凌駕する国有工業の発展が主張されており、それは、当時、形成されたばかりのスターリンとブハーリンの右翼的ブロックが体現する「穏歩前進」・「亀の歩み」と「クラーク(富農)」との妥協の経済政策を明らかに批判していた。
一九二五年春から冬にかけて、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンの政治局“トロイカ”体制は分解した。レニングラードとモスクワの党組織を基盤とするジノビエフ-カーメネフ派を一方とし、党官僚機構を足場とするスターリンと新経済政策の右翼路線を代表するブハーリン派のブロックを他方として、新たな党内対立が発展した。その背後にあったのは、国内的には、新経済政策(ネップ)の経済的成果のうえで進行する農村内部における資本主義的階級分化と、都市と農村の関係をめぐる経済政策上の対立であった。それは、さらに一九二六~二七年におけるスターリン-ブハーリンのブロックにたいする合同左翼反対派の党内闘争として発展していった。
合同左翼反対派は、この闘争において『反対派政綱――党の危機とその克服の方法』を発表した(『ロシアは何処へゆく』の執筆から二年後の一九二七年夏)。この『反対派政綱』は、農村において進行する資本主義的階級分化について次のように述べている。
「二、五〇〇万の小農経営がロシアにおける資本主義的諸傾向の根本的な源泉をなしている。そこから漸次的に生まれてきたクラーク(富農)層は、資本主義の原始的蓄積過程を推進し、社会主義の陣地を大きく掘り崩している。この過程の命運は、究極的に国有経済の成長と私的経済との関係に依存している。わが工業の発展の遅延は、農民内部の階級分化の速度とそれから生起する政治的危険をはなはだしく増大させる。」(『反対派政綱』総論)
『反対派政綱』は、「最近の数年間、農村地域において資本主義的分化の方向が著しく進行した」として、その具体的な数字をあげている。
それによれば、当時、「馬も農具もなく」「零細な土地を耕作する貧農」のグループは三〇~四〇%をしめ、「農民経営の三四%を占める貧農が純所得額の一八%」をとり、同じ所得額を「農民経営の七・五%を構成する最上層」がとっており、一九二六年春に農村の「余剰穀物の五八%が六%の農民経営の手中にあった」としている。下層農民の解体と土地保有の集中の傾向が認められ、最上層の下層にたいする土地の賃貸しが拡大し、「農民保有の継続的な分裂は‥‥階級分化の過程を強め」、「機械や信用も、農業の社会化のテコとなるのではなく、ほとんどの場合、クラーク(富農)や上層中農の手中にはいり、‥‥農村労働者、貧農および下層中農の搾取に役立って」おり、農村の上層による雇用労働の利用も増大している、と(『反対派政綱』総論および第三章の「農民間の階級分化」)。新経済政策採用後の農村最上層による土地の賃貸しと雇用労働利用の増大傾向については表3を参照していただきたい。
表3 土地賃貸し農家と雇用労働利用農家(%)
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1922 1923 1924 1925
土地賃貸し農家 2.8 3.3 4.2 6.1
雇用労働利用農家 1.0 1.0 1.7 1.9
——————————————-
(アレック・ノーヴ『ソ連邦経済史』第4章、岩波書店)
『反対派政綱』は、このような農村の状況と都市の国有工業との関係について次のように指摘している――「農産物と工業製品の“鋏状”価格差はこの1年半でさらに拡大した。農民は、その生産物によって戦前価格の1・25倍弱を受け取り、工業製品のために戦前の2・2倍以上支払わねばならなかった。この支払い超過が‥‥農業と工業の対立を拡大しているだけでなく、農村における階級分化を大いに激化している」と(『反対派政綱』総論)。
この点について、トロツキーはその「理論家としてのスターリン」(一九三〇年)で次のように述べている。すなわち、十月革命は土地革命と租税の軽減によって「一年当り五億ルーブル」の利益を農民にもたらしたが、一九二六~二七年の時点で、戦前と比較した工業製品価格の上昇は一年当り「二〇億ルーブルの損失」を農民に強制し、その「差引勘定は一五億ルーブルの赤字」となっている、――「一切は農・工の価格の相互関係にかかっている。農村にとって有利な価格の相関関係に到達するには、一方における工業化のテンポの加速と他方における農村経済の集団化の促進が必要である。反対の場合になれば、農地革命の一切の成果は富農(クラーク)の手中に集積され、貧農は“鋏状”(価格差)によってもっとも激しく傷つけられ、中農層の分解は急速なコースをたどるだろう。これら一切は‥‥プロレタリア独裁の瓦解に帰着せざるをえない」と(『トロツキー選集』補巻3)。また「理論家としてのスターリン」では、反対派は「一九二三年から加速度的工業化の政策を対置し、工業における初期の成功をへた一九二六年から農村経済の機械化と集団化という政策を対置してきた」と述べられている。
<新たな工業化の課題>
過渡期ロシアにおける新たな工業化、すなわち社会主義的原始蓄積の課題は、当時、国有工業それ自体の客観的必要と、他方、土地革命の成果を基礎として新経済政策(ネップ)のもとで実現された農業の回復および農村内部で進行する新たな階級分化との関係で二重に提起されていた。
新経済政策(ネップ)のもとで急速に進行した工業生産の回復は、戦争および革命以前からの機械設備にもとづくものであり、その更新はほとんどなかった。一九二二~二四年の工業の回復は主要に軽工業で実現され、二四~二五年年度において生産手段生産部門が優位性をもち始めるが、それも「旧い基本資本」を基礎にしていた。二五~二六年度において革命以前からの固定投資資本が完全に利用されることになり、同時にその「基礎資本の更新に着手することになるだろう。‥‥これまで、われわれは既存の基本資本で仕事をおこない、それをときたま補充し、更新しただけであった。これからは、われわれの基本資本を新たに形成してゆくことになる。ここのところに、これからの経済的時期と過去になりつつある時期との根本的相違がある。」(『ロシアは何処へゆく』、第四章「経済発展速度の物質的限界ならびに可能性」、西島版六六~七頁)
こうして、一九二五~二六年には、軽工業から生産手段生産部門への相対的重点の移行と基礎的機械設備そのものの更新・拡大のために、国有工業それ自体にとっても新たな工業化計画の策定が必要とされていた。
『ロシアは何処へゆく』はまた、新経済政策(ネップ)の最初の時期の国有工業のあり方について次のように指摘している。
「これまで、経済の国家管理の利点は、生産の物質過程の編成および調整などの生産それ自体の領域では利用されず、個々の工業部門への物財・原料・設備・その他の供給という分配の領域――市場の言葉を用いると、運転資金と部分的な当初資本の投入――に限られていた。国家は、私有財産の桎梏から解放され、国家予算・国有銀行・工業銀行・その他の手段によって、経済の維持や再建、あるいはその発展のために必要な地点に資金を注ぎこむことができた。経済の社会主義的方法のこの利点によって、過去数年間、われわれは救われてきた。」そして、「全国規模の製品の標準化、生産過程の合理化、企業の専門化、すべての工場を‥‥単一の生産組織の巨大な分工場に転化すること、重工業と最終製品工業の生産過程の結合――これらすべての社会主義的生産の根本任務は、われわれの関心を引きつけ始めたところでしかない」と(第一章の「六、第一章のまとめ」、西島版四三頁)。
こうして、生産過程そのものの意識的・計画的編成もまた国家にとって新たな課題になろうとしていた。
後にトロツキーは、この時期に関連して次のように述べている。
「一九二七~二八経済年度において、工業が主要に革命前の機械で運営され、農業が旧来の道具で遂行される‥‥復旧期は終わりに近づいていた。それ以上の前進のためには、大規模な独自的工業建設が必要であった。暗中模索で、計画なしに、それ以上指導することは不可能であった」、「社会主義的工業化の仮設的可能性は、すでに一九二三~二五年、反対派によって分析されていた。その一般的結論は、ブルジョアジーから引き継いだ設備を使いつくした後、ソビエト工業は社会主義的蓄積の基礎のうえで資本主義の下ではまったく不可能な成長のリズムを達成しうるというものであった」と(『裏切られた革命』、第二章の一)。
3 ロシアの工業化政策と資本主義世界市場
<ソビエト経済の新しい国際的経済基準>
『ロシアは何処へゆく』は、第一次世界戦争以前のロシアを基準として、基本的にソ連邦一国の経済的枠組のもとで新経済政策(ネップ)のもとで達成された経済的諸結果を総括している。しかし、その結論としてソビエト権力の新しい国有工業建設――社会主義的原始蓄積――の課題を提起するとき、『ロシアは何処へゆく』は、一転して、当時の資本主義世界経済との関係において終始一貫した国際的な枠組と展望のもとでソビエト権力の新たな経済建設の課題とその性格を明確にしようとしている。
『ロシアは何処へゆく』は、当時の諸条件のもとで量的・質的に戦前水準へ到達すれば巨大な経済的任務を達成したことになるが、しかし「そこへの到達は世界資本主義との真実の経済競争が始まる出発点にわれわれをつけるにすぎない」として、次のことを積極的に主張している。すなわち、「戦前水準」・「一九一三年」の基準を放棄し、「われわれの全体的発展速度と世界経済の発展との相互関係」、資本主義世界市場の舞台における「労働生産性の相対係数」、「われわれの生産と世界市場における生産の比較を質および価格の点で表現する新しい指数」を新たな基準として全面的に採用すべきである、と(以上、第二章「ロシアと資本主義世界」、第三章「世界経済の相対係数」――西島版では第二章「われわれと資本主義世界」とその「世界経済の比較係数」の部分)。
一九二五年のゴスプラン(国家計画委員会)の国民経済統計表は、「獲得した位置を保持し、経済情勢が許すあらゆる地点で、一時にわずか一歩であっても、年々、確実に社会主義にむかって前進する」ことが当面する経済的課題であると述べていた。この結論は、ブハーリン-スターリン派指導部ブロックの「亀の歩み」と穏歩前進の経済政策路線を表現していた。
これを批判して、『ロシアは何処へゆく』は次のように述べている。
「“一時にわずか一歩であっても”、年々、社会主義にむかう前進という言葉は、その前進の速度はさして重要でなく、趨勢が社会主義の方向へ向いてさえいれば最終的にその目的に到達するに違いないと解釈されうる。このような推論は完全に誤っている‥‥。実際には、前進の速度こそが決定的要素だからである。」これまで、新経済政策(ネップ)のもとで国有経済部門と私的資本の相対的発展速度の問題が重要であった。だが「はるかに重要なのは、われわれの全体的発展速度と世界経済の発展との相互関係である。ゴスプランの注釈は、この問題について直接に言及していない。したがって、この問題の全面的検討がよりいっそう重要である」と(第二章、西島版四九~五〇頁)。
『ロシアは何処へゆく』はさらに次のように述べている。
「ソビエト経済の動的均衡を閉じられた自足的単一体の均衡と見なすことはまったく許されない。‥‥時の経過とともに、われわれの内部的経済均衡は輸出と輸入の達成によってますます維持されることになる。この状況をその結論まで考察し、そこからあらゆる結論を導きださねばならない。国際分業体制に入りこむ程度に応じて、わが国内経済の諸要素――商品の価格や品質など――は世界市場における同一の要素にたいする明白かつ直接的な依存を深めてゆくことになる。」これまで工業生産の価値量を比較・計量するのに戦前水準の一九一三年価格体系を利用してきたが、それはソビエト経済の復旧期に対応するものであり、しかもその時期は終わりつつある。「経済発展の基準に関する全問題は別に次元に移行しつつある。今日以降、われわれの生産が量・品質・価格の点でヨーロッパ市場または世界市場における生産から遅れている度合を不断に知る必要がある。‥‥品質および価格の両方の点でわれわれの生産と世界市場における生産との比較を示す新しい指数にわれわれの注意を集中しなければならない。この新しい尺度、すなわち国内に限定されるのではなく、いまや普遍的に適用されるこれらの相対係数だけが、レーニンの“誰が誰にうち勝つか”という公式によって表現される過程の様々な段階を計量する将来の基準になることができる」と(第三章――西島版、第2章の「世界経済の比較計数」、五五~六頁)。
こうして、トロツキーは、ブハーリンとスターリンのブロックの経済政策路線における閉鎖的・孤立的・「一国社会主義」的傾向に反対し、依然として市場経済をともなう新経済政策下の新しい経済局面において、世界市場にたいして「開かれた」・「国際主義」的な経済政策の方向を主張していた。『ロシアは何処へゆく』は、新経済政策(ネップ)のもとで始まっていたソビエト経済の資本主義世界市場への復帰のうえで、新たな経済的課題として、資本主義世界市場への参入を拡大し、ヨーロッパ-アメリカの生産力水準への到達にむけて積極的努力を開始すべきであると提起していた。
「しかし、世界市場への“増大する参入”はより大きな危険を意味しないだろうか。‥‥この考えが多くの人々の頭脳を悩ませている。生産に携わっている人々のあいだに、“孤立”経済の意識的・無意識的な支持者を数多く見いだすことができる。‥‥だが、その反対の、しかもけして小さくない危険もある。それはわれわれの経済的進歩を足踏みさせ、その前進の速度を遅らせることであり、この危険は世界関係のすべての可能性の能動的利用にともなう危険よりも小さいというわけではない」と(第七章「「恐慌およびその他の世界市場の危険性」――西島版、第三章の「世界市場における恐慌とその他の危険性」、九四頁)。
もっとも終始一貫した「プロレタリア世界革命」主義者であったトロツキーは、ロシア過渡期の経済政策構想において、孤立を指向する国際経済政策に反対し、帝国主義が支配する資本主義世界市場への積極的な参入とその意識的な利用を主張する「経済的国際主義者」だったのである。
<過渡期のソビエト経済と資本主義世界市場>
復旧過程は孤立した経済という枠組のもとで基本的に進行したし、その過程を資本主義世界から切り離して考えることができたが、輸出入の急速な増大とともに、そのような状況は全面的に変化しつつあるとして、『ロシアは何処へゆく』は次のように述べている。
「われわれは世界市場の一つの構成部分――たしかに極めて特異な構成部分であるが、やはりその構成部分――になりつつあり、その結果、世界市場の全体的要因が何らかの変動をきたすと、それはわが経済にたいしても必ず影響をあたえることになる。」「世界市場の変動からの過去の独立性は消滅しつつある。わが経済のあらゆる根本的過程は、世界市場において支配的な同様な過程と結びつけられるだけでなく、ある程度まで、経済状況の変動を含めて、資本主義の発展を支配する法則の作用から影響を受けるようになりつつある」と(第七章「恐慌およびその他の世界市場の危険性」、西島版八五頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、そこで、過渡期のソビエト経済と資本主義世界市場との関係について次のように一般化して述べている。
「一見したところ意外におもえるこの状況は、いわゆるネップ(新経済政策)の本質に根ざしている矛盾――孤立した国民経済という狭い限界内ですでに述べた矛盾――のより強力な表現にすぎないのである。われわれの現在の秩序は、資本主義にたいする社会主義の闘争を基礎にしているだけでなく、一定の限界内において社会主義と資本主義の協力にも基礎をおいている。‥‥資本主義経済制度と社会主義経済制度‥‥の共存と協力(後者が前者の方法を適用する)にともなう危険性は、資本主義の諸力がわれわれを凌駕する可能性のうちにある。」「われわれは経済的に普遍的分業体制のなかに入り込み、‥‥世界市場を支配する法則の作用の影響下にあるのであり、こうして、経済における資本主義の傾向と社会主義の傾向との協力と闘争ははるかに大規模なものとなり、ますます大きな困難をもたらすことになる。」(同上、西島版八八~九頁)
「ネップ(新経済政策)を最初に導入したとき国内経済で直面した問題と、現在、世界経済とのより緊密な関係から発生する問題との間には、深くかつ当然しごくな類似性がある。だが、その類似は完全なものではない。‥‥ソビエトの領域において、社会主義の経済は‥‥労働者国家を味方にもっていた! 世界市場の領域では、社会主義は資本主義と立ち向かわねばならないし、後者は帝国主義国家によって護られている。ここでは経済が経済にたいして闘うだけでなく、政治が政治にたいして闘う」と(同上、西島版八九~九〇頁)。
そして、「資本主義世界経済制度のもとで、ソビエト国家は一つの巨人的な私的所有者である。それは自己の商品を輸出し、外国商品を輸入し、信用を求め、外国の技術設備を購入し、さらには混合企業および利権譲渡の形態で外国資本を引き付けようとする」と(第五章「社会主義的発展と世界市場の資源」――西島版、第三章、七三頁)。
「われわれが世界市場の一部になるにつれて、われわれの展望のみならず、われわれの危険も増大する‥‥。その源は‥‥やはりわが農民経済の分散した性格、われわれの技術的後進性、そして世界資本主義の現在の生産力がわれわれをはるかに凌駕していることのうちにある。」(第二章、西島版五〇頁)国民所得にもとづく計算によれば、アメリカの「労働生産性は、その利用可能な機械・組織・労働方式にもとづき、わが国の場合の一〇倍、少なくとも六倍の高さである」として、『ロシアは何処へゆく』は、この生産力上の格差を明確にとらえ、そのギャップの縮小をソビエト権力の意識的課題として新たに設定しなければならないと主張していた(同上、西島版五三~四頁)。
<社会主義的原始蓄積の源泉と新たな経済成長の可能性>
そこで、労働者国家による新しい産業投資――社会主義的原始蓄積――の経済的源泉とそれにもとづく経済成長の可能性が問題になる。この問題は、『ロシアは何処へゆく』の第四章「経済発展速度の物質的限界ならびに可能性」(西島版、第二章の「発展のテンポ、その物質的限界と可能性」)で検討されている。
それは、まず最初に当時の工業設備の利用状況と新しい投資の動向について次のように指摘している。
「一九二二~二四年において、‥‥工業の全般的前進は主として軽工業における前進によるものであった。今経済年度(一九二四~二五年)において、生産手段を生産する工業部門にその優位性が移行しはじめる。しかし、この後者も旧来からの基礎資本のうえで回復してゆく。来年度には、ブルジョアジーから引き継いだ固定投下資本は一〇〇パーセントまで利用され、わが基礎資本の更新を開始することになっている。」ゴスプラン(国家計画委員会)の見積りでは、投資総額一八億ルーブルのうち九億ルーブルが「新しい投資、すなわち全経済における新しい蓄積によって与えられるものである」とされていた(同上、西島版六六~七頁)。
戦前におけるロシア工業の年平均成長率は六~七パーセントであり、かなり高いものであった。一九二四~二五年において、旧来の生産設備にもとづく復旧過程の結果、工業の年成長率は「四〇~五〇パーセント」にもなっていた(本稿の第二章2の表1参照)。そこで、新経済政策(ネップ)のもとで急速に進行した経済復旧過程が終るとき、過渡期ロシアの工業生産の年成長率は戦前ロシアの水準に戻るのだろうかと設問して、『ロシアは何処へゆく』は次のように述べている。
「この問題にたいして、現在、正確に答えることは不可能である。にもかかわらず、次のように言明することができる――すなわち、社会主義国家と国有工業が存在しており、そして(輸出入を含む)基本的経済過程にたいする調整が漸次的に確立しているという事実にもとづいて、戦前水準に到達した後でも、われわれの拡張係数は、戦前の係数のみならず、資本主義諸国の平均的係数をもはるかに凌駕することができるだろう」と(同上、西島版六九~七〇頁)。
その根拠として、『ロシアは何処へゆく』は以下の諸点をあげている。
(一) 過渡期ロシアには寄生的諸階級が存在していない。戦前の蓄積は六パーセントではなく、少なくともその2倍はあった。その半分は寄生的諸階級によって浪費され、残りの半分だけが生産に振り向けられたにすぎない。したがって、工業の成長率を一二パーセントまで、少なくとも九~一〇パーセントまで高めることができる。
(二) 私有財産の障壁の除去によって、国家は必要な資源を必要な部門に任意に振り向けることができるし、資本主義よりもはるかに有効に資源を利用することができる。
(三) 工業生産力を国家によって統一的に標準化・専門化し、その統合的な有機的編成をおこなうことによって、工業成長率の継続的な上昇を期待することができる。
(四) 資本主義経済は周期的景気変動と恐慌をとおして発展するし、ソビエト経済の世界市場への参入の拡大によってその影響を受けることになるが、計画にもとづく生産と経済の調整によって、その影響を緩和し、より多くの蓄積を実現することができるだろう。
そのうえで、『ロシアは何処へゆく』は次のように結論づける。すなわち、「以上四つの長所‥‥を正しく利用するならば、わが工業拡張の係数は‥‥六パーセントの二倍どころか、三倍、あるいはそれ以上になることができるだろう」と。(以上、西島版七〇~一頁)
『ロシアは何処へゆく』は、さらに続けて次のように指摘している。
「問題はこれで尽くされているわけではない。これらの長所は、‥‥世界市場によって与えられる可能性によって、さらに巨大におし広げられるであろう。‥‥世界市場をわれわれの目的のために正しく利用するならば、相対係数を社会主義に有利に変えてゆく過程を著しく加速することができるだろう」と(同上、西島版七一~二頁)。
表4 工業産出指数(1900~13年)
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1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906
100 103.1 103.8 106.5 109.5 98.2 111.7
————————————————-
1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913
116.9 119.5 122.5 141.4 149.7 153.2 163.6
————————————————-
(アレック・ノーヴ『ソ連邦経済史』第一章、岩波書店)
表5 戦前ロシアの国民所得における最終使用の割合(百分率)
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個人消費 政府 純国内投資 純外国投資
1909-1913 79.5 9.8 12.1 -1.5
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(P.R.グレゴリー、R.C.スチュアート『ソ連経済――構造と展望』第二章,
教育社)
<資本主義世界市場と国際分業の利用――その一>
『ロシアは何処へゆく』は、過渡期ソビエト経済の資本主義世界市場への参入とその利用について、以下の諸点を積極的に主張している(以下、第五章「社会主義的発展と世界市場の資源」より――西島版、第三章)。
(一)ソビエト経済は資本主義世界市場に参入するし、その国際分業体制の一部になることそれ自体を意識的に利用すべきである。
「戦前に資本主義ロシアと世界資本との間に存在していた相互関係の複雑に入り組んだシステムを忘れるべきでない。‥‥工場設備のほぼ三分の二は外国から輸入されたものであったし、[現在も]この条件は‥‥変っていない。」したがって、「これから数年間」、必要とする機械設備の「五分の二、多くても半分」までを自国で生産すべきであり、「新しい機械の生産」に向けて全面的に飛躍しようとすれば、経済の各部門の均衡ならびに各経済部門内部の固定資本と流動資本の均衡を破壊し、経済拡大の速度を著しく低下させることになる。それは、「外国の機械または一般に必要な外国商品の輸入よりもはるかに危険である」と。
(二)直接的な購入および外国企業への利権の譲渡をつうじた「外国の技術、外国の生産方式」の積極的導入。
(三)「農業にとって、外国貿易の決定的重要性は非常に明白である。‥‥農産物と引き替えに、われわれは農業機械またはその生産のために使用する機械を取得するだろう。」
(四)しかし「われわれが必要とするのは機械だけではない。原料、半製品または消費財であっても、われわれの経済システムのギャップを埋めることができるすべての外国製品は、一定の状況のもとで、われわれの再建の速度を速めることができる。」必要とされる市場の均衡を実現し、労働者と農民の需要を充たす消費財の輸入も、それが正しくなされれるとき、経済の全般的発展を速めることができる。国有工業と国内商業の活動を柔軟に補足する外国貿易は、経済発展を加速化するための強力な武器である。
(五)外国信用の利用。「歴史的進化の弁証法は、一定期間、資本主義をして社会主義の債権者たらしめるだろう。資本主義も封建制度の乳房から滋養物をとったではないか。歴史の債務は支払わなければならない。」
(六)外国資本への利権譲渡――「利権譲渡は、外国の機械と外国の生産方法をわれわれに供給し、世界資本の蓄積によってわが国の経済を資金的にまかなうことを意味する。一定の工業部門では、利権譲渡はより大きな位置を占めるだろうし、またそうならなければならない。」このような外国資本の活動はソビエト国家の監視と統制のもとにおかれる。
(七) 「全システムの“極致”として、ありうべき国債についても考慮しなければならない。そのような借入は、われわれの将来の社会主義的蓄積にたいする貸付金のもっとも純粋な形態である。貸付として与えられる金は“普遍的等価物”であり、これによって、外国から完成品、原料、機械、特許などを購入し、ヨーロッパおよびアメリカから最良の機械工や技師を呼びよせることができる」と(以上、西島版七三~六頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、以上をうえで次のように述べている。
「以上すべてから、すべての経済問題について正しい――すなわち系統的かつ科学的な――態度決定をおこなう必要があきらかとなる。」「問題は、全体としての過程の力学を加速させるために、適切な時点で世界経済の諸要素を導入することによって、工業の基礎的諸部門と全経済の動的均衡を維持することにある」と(西島版七六~七頁)。
<資本主義世界市場と国際分業の利用――その二>
『ロシアは何処へゆく』は、つづいて、ソビエト国有工業の新たな建設の課題と結びつけて、その生産力体系の計画的・有機的な統合化とその全面的な専門化・標準化の必要を主張している。「社会主義の根本的な優位性はまさしく生産そのものの領域にある‥‥。この可能性は、これまでソビエト経済によってほんのわずかしか利用されていない‥‥。この点で、最初の課題は、化学技術知識およびすべての産業上の発明を真に国有化することである。第二の課題は、工業全体と経済各部門のエネルギー需要を集中的・計画的に解決することである。第三の課題はすべての製品の標準化であり、最後に各工場を系統的に専門化することである」と(第六章「生産過程の社会化」――西島版、第3章の「生産過程の社会化」、七九~八〇頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、第七章「恐慌およびその他の世界市場の危険」(西島版、第3章の「世界市場における恐慌とその他の危険性」)において、ふたたび過渡期のソビエト経済と世界市場との関係の問題について取り上げている。前項である程度まで第七章を利用しているので、ここでは資本主義的景気変動との関係についてだけ見てみよう。
『ロシアは何処へゆく』は、この点で、普通の資本主義的トラスト」とソビエト国有工業を次のように比較している。
「資本主義的トラストは、絶対に確実な需要だけを充たし、需要の確実な拡張の度合いだけ自ら拡張し、経済状況の変動にともなうすべての危険をいわば生産予備軍の役割をはたす弱体で一時的な企業にできるだけ押しつけようとする。」ところで、「社会主義工業は“すべてのトラストのトラスト”である。この巨大な生産体は、市場需要のすべてのカーブとの関係で、個々の資本主義的トラストよりもはるかに小さな変動ですますことができる。トラスト化された国有工業は、先行する全発展によって確実になっている需要だけを充たすようにし、市場の収縮におそわれるかもしれない一時的な余剰需要を充たすために、私的資本主義の予備軍をできるだけ利用するようにすべきである。そのような予備軍の役割は、利権譲渡にもとづく工業を含む国内の私的工業ならびに世界市場の商品群によってはたされるだろう。まさにこのような意味で、国内商業制度と利権譲渡政策の調節装置としての重要性について述べたのである。」(西島版九二頁)
「国家は、生産過程の維持、改善および計画的拡張のために絶対的に必要な生産手段、原料、消費財などを輸入する。‥‥一方の農民経済と他方の世界市場が恐慌をもたらす変動の二つの源泉である。しかし経済政策のあり方によって、国内需要が強力に増大するとき、その確実な部分だけを国家の生産によって充たし、他方、適切な時点における完成品の輸入と私的資本の利用によって一時的な過剰需要を充たそうとすることができる。こうして、世界経済状況における一時的な不況がわが国有工業にたいして重大な影響を与えることはないだろう。」(西島版九三頁)「世界分業体制はわれわれが無視しうるようなものではない。そこから発生する手段を自己の利益のために利用することによってのみ、われわれはすべての分野における発展を加速化することができるのである」と(西島版九三~四頁)。
こうしてトロツキーは、ソビエト経済の問題をとらえるさいにも、資本主義が歴史的に形成した国際分業制度にもとづく単一の世界市場――単一の世界経済――という観点を一貫して堅持していたのである。まさにそのような立場ゆえに、ロシア過渡期経済をとらえ、その新たな工業化の課題と展望を提起するとき、トロツキーはその階級的現実主義の立場を終始一貫して堅持したのである。それは、当然のことながら、資本主義がつくりだした一つの国際的有機体としての世界経済全体をプロレタリア国際革命によって獲得するというマルクス主義の綱領とも一致していたのである。
<「結語」>
『ロシアは何処へゆく』の第八章「結語」(西島版、第三章「結語」)では、二つの点について指摘している。
その一つは『ロシアは何処へゆく』そのものの限定された性格についてであり、次のように述べられている。
「私は、この論文全体において経済過程といわばその論理的進化の基礎のうえにとどまってきた。こうして私は、‥‥他のすべての要素を意識的に除外してきた。‥‥内部的な経済過程は複雑な政治的反射作用を生みだし、この後者が極度に重要な要素に発展することがある。農村内部の経済的分化は、‥‥けして直接的な経済的危険‥‥を意味しないが、にもかかわらず一定の状況下では社会主義的発展に否定的影響を及ぼす政治的傾向を生みだすこともある。」
「国内的ならびに国際的な政治的諸条件は錯綜した諸問題の連鎖であり、その個々の問題はそれ自体において――もちろん経済情勢との緊密な関係のもとでだが――検討されねばならない。経済的基礎の発展諸傾向の概観は‥‥政治的上部構造におけるすべての変化を完全に説明することはできない。後者はそれ自体の論理とそれ自体の任務および困難をもっている。一般的経済路線は、政治路線に取って代ることはできず、ただ政治路線を容易にするだけである」と(以上、西島版九六~七頁)。
こうして、当時、政治的発言を官僚的に制限されていたトロツキーは、『ロシアは何処へゆく』が余儀なくされている限定的性格について読者に注意し、あわせてブハーリンとスターリンのブロックに政治的警告を発している。
二つめは、ヨーロッパ・プロレタリア革命についての結論的な言及であり、当時、スターリンとブハーリンがすでに掲げはじめていた「一国社会主義」の綱領の否定である。
「プロレタリア革命が、これからの数年間、ヨーロッパにおいて発展するならば、社会主義の勝利の問題はそのもっとも簡単な解決をえることができる。この「変形」は、けして最もありそうもないということではない。社会主義的予見という観点からするとき、そのような情勢はわれわれにとっていかなる困難も意味しない。ソ連邦の経済とソビエト・ヨーロッパの経済が結合すれば、アメリカの抵抗がいかに強力なものであっても、社会主義的生産と資本主義的生産の比較係数の問題は勝利的に解決されるだろう。また、アメリカの抵抗がどれほど長く持続しうるかということも、疑わしくなる」と(西島版九七~八頁)。
ここで述べてられていることは、同じ頃、トロツキーが別に執筆したパンフレット「ヨーロッパとアメリカ」の結論とまったく同一であった。
4 若干の補足――プレオブラジェンスキーとトロツキー
一九二四年以降、プレオブラジェンスキーとブハーリンの間に「社会主義的原始蓄積」論争が展開されたが、これに関連して、アイザック・ドイッチャーは『トロツキー伝』第二巻でプレオブラジェンスキーとトロツキーの違いについて次のように述べている。
「彼(トロツキー)は、原則として農民が原始的蓄積の負担を始めから終わりまで引き受けねばならぬという見解をとるのを拒んだ。また彼は、工業化の歩みをプレオブラジェンスキーが予想したほどに強行的なものとは主張しなかった。二人のあいだには、さらに奥深い相違があった。プレオブラジェンスキーが構成した基本原理は、国際革命への依存を口にしながらも、社会主義的原始蓄積がソ連だけによって、あるいは恐らく未発達の諸国と提携するソ連によって達成されるという意味にとられうるものであった。この見通しは、トロツキーには非現実的に見えた。どうしてソ連だけの力で西欧が到達している高い工業水準へ上昇できるのか、彼には解しかねた。そして、これは“一国社会主義”との知的な和解への発端をつくりだす見通しであった。」(同上書、二五五頁)
ドイッチャーのこの指摘は、このノートでやや詳細に紹介した『ロシアは何処へゆく』によってある程度まで確認できるだろう。ここで、この問題にかんするトロツキーの直接の言及をあげておくことにしよう。
「1 価値法則と社会主義的蓄積の法則の(対立し、調和する)相互作用という観点にもとづくわれわれの経済の分析は、原則的に、非常に有効な接近方法であり、より正確には唯一の方法である。そのような分析は閉じられたソビエト経済という枠組みから始めなければならない。しかし、現在、この方法的接近方法が“一国における社会主義の発展”を予定する完結した経済展望に転化される危険性がある。次のように予想し、恐れる理由がある――すなわち、レーニンからの誤解した引用にもとづくこの哲学を支持者たちが、プレオブラジェンスキーの分析を半自動的過程を一般化する接近方法に転化するということである。価値法則と社会主義的蓄積の法則の相互作用を世界経済の脈絡のなかにおかねばならない。そこで次のことが明白になる――すなわち、NEP(新経済政策)という制限された枠組みのもとで作用する価値法則は、世界市場を支配する価値法則からの増大する外部的圧力によって補足され、ますます強力になりつつあるということである。」
「2 このこととの関連において、わが経済発展の速度の問題――とりわけ工業化の速度――が決定的に重要になる。外国貿易の独占は、社会主義的蓄積に奉仕する強力な要因である――強力であるが、全能ではない。ソビエトの製品の価値が世界市場における製品の価値に年をおって近づくかぎりにおいて、外国貿易の独占は価値法則の外部的圧力を緩和し、調節することができるだけである。ソビエト製品の価値を計算するさい、当然、社会的立法の間接費用を考慮に入れるべきである。しかし、経済システム間の世界的経済競争という脈絡においては、上述の必要条件が完全に有効である――すなわち、ソビエトの工業化の速度は、ソビエトの製品がわれわれの労働者と農民に解るようなかたちで世界市場の製品に接近することを保障するようなものでなければならない。」
「7 農業と工業、私的投資と国家投資の配分と再配分の問題は、農村が“植民地”のように取り扱われるという伝説にたいする反論と結びつけられねばならない。」(以上、トロツキー「経済的諸問題についてのノート――社会主義的蓄積、計画原則、そして原則の欠如」一九二六年、Leon Trotsky “The Challenge of the Left Opposition (1926-27)”, Pathfinder Press, New York, 1980)
第三章 過渡期労働者国家の経済計画のための三要素――計画・市場・ソビエト民主主義
1 プロレタリア権力とソビエト民主主義――工業化と資本主義世界市場――階級的国際政策とプロレタリア国際革命
<『ヨーロッパとアメリカ』――『ロシアは何処へゆく』――『反対派政綱』>
トロツキーの『ロシアは何処へゆく』は、一九二五年、政治的にきわめて制約された条件のもとで執筆された。この時期のトロツキーについて、ドイッチャーは次のように述べている。「トロツキーが軍事人民委員部を去ってから、彼の党内闘争に一つの休止期がきた。これは一九二五年中から一九二六年の夏に入るまでつづいた。この期間中、トロツキーは‥‥公に論争的な意見を述べなかった。中央委員会や政治局の閉ざされた扉のうちでさえも、討論をつづけようとしなかった。彼は敗北を認め、中央委員会が彼に押しつけた制限にしたがった」と(『トロツキー伝』二巻、二二〇頁)。
『ロシアは何処へゆく』は、直接に政治の問題に立ち入らないで、過渡期ソビエト経済の当時の状況と新たな課題ならびに実現可能な展望について論じている。政治を“抽象”した経済という枠内においても、土地革命のうえで進行しつつあった農村内部の新たな資本主義的階級分化の問題は直接かつ詳細には取り上げられていない。にもかかわらず、トロツキーは、とりわけブハーリンとスターリンの右翼ブロックに対立する自己の経済政策にかんする見解を明らかにしていた。一九二七年夏に合同左翼反対派の『反対派政綱』が起草されたが、トロツキーにとって、その経済政策部分の前提になっていたのは『ロシアは何処へゆく』で体系化していた考えであった。『反対派政綱』の第四章「国有工業と社会主義の建設」はトロツキーによって直接に起草されたものであるという(注)。事実、この第四章の大部分は『ロシアは何処へゆく』を短く要約したものであるということができる。
注 Leon Trotsky “The Challenge of the Left Opposition (1926-27)”,
Pathfinder Press, New York, 1980)、三〇一頁。
他方、先にあげた『ヨーロッパとアメリカ』(一九二四~二五年)は、第一次世界戦争後の資本主義世界経済の基本矛盾をアメリカとヨーロッパの間の対立としてとらえ、そのうえでヨーロッパ・プロレタリア革命の条件とヨーロッパ社会主義合衆国の国際的展望を提示し、さらにロシア十月革命権力を橋渡しとするヨーロッパとアジアの革命の国際的合流をプロレタリア世界革命の綱領として主張していた(酒井与七「アメリカ帝国主義とプロレタリア世界革命の綱領」参照、『第四インターナショナル』 号所収)。
そこで、『ヨーロッパとアメリカ』、『ロシアは何処へゆく』、そして『反対派政綱』を一組のものとして見るとき――これら三つの文書をいわば包括的・補足的・総括的にまとめたものとして『レーニン死後の第三インターナショナル』の三つの章と付属論文「今や如何」(一九二八年六~七月)をあげることができる――、過渡期ロシアにおける課題にかんするトロツキーの基本的立場を以下の三点に要約することができるだろう。
<過渡期プロレタリア権力・労働者国家の防衛>
(一) 革命的プロレタリア前衛党としてのボリシェビキ党、十月革命に政治的起源を持つプロレタリア権力、そしてプロレタリア民主主義と労農同盟の実現を複合的に包含するものとしてのソビエト民主主義の防衛。
このことは、なによりもまず過渡期のロシア労働者国家それ自体が、労働者階級を直接的な基盤とし、労農同盟に支えられて存立しなければならないということである。
この点については、『反対派政綱』第四章の冒頭部分だけ引用しておこう。
そこでは、「現在の予備的段階ならびに資本主義の包囲と世界革命の遅延という現在の歴史的条件下における社会主義的発展の基本条件は、少なくとも以下の諸問題を近い将来において解決することを保証するに十分な速さの工業化のテンポである」とし、その最初の「問題」が次のように指摘されている。
すなわち、「国内におけるプロレタリアの物質的地位を絶対的にも相対的にも強化しなければならない(雇用労働者数の増大、失業者数の減少、労働者階級の物質的水準の改善、とくに基礎的な健康の基準に見合うような一人当り居住面積の拡大)」と。
戦時共産主義末期における「労働の軍隊化」以来、トロツキーは工業の防衛・再建、社会主義的原始蓄積ならびに経済計画を一貫して主張しつづけたが、その背後にあった根本的な動機は、ここで明白に指摘されているように、十月革命権力の直接的な階級的基盤たるべきプロレタリアートを一つの社会経済的階級として物質的に防衛・強化・拡大することであった。当然のことながら、一つの社会経済的階級としてプロレタリアートが現実に実在し、日々の労働と日常生活をとおして生きてゆくその隊列が物質的に強化・拡大されることなしに、プロレタリア権力が実存し、主体的に強化されてゆくということはありえない。トロツキーは、この前提のうえで、プロレタリア権力を実在する労働者階級に最大限に意識的・革命的に基礎づけるために、プロレタリアートの前衛としてのボリシェビキ党の防衛とプロレタリア民主主義の防衛という主体的な階級的課題を設定していた。「今や如何」は、階級と国家と党の主体的な相互関係について次のように述べている。
「先進諸国のプロレタリアートがしっかりと決定的に権力を握るまでは、過渡的なソビエト体制のもとで危機を避けることはできない。しかし、支配的政策の任務は、ソビエト体制内部の危機が体制全体の危機になるまで蓄積するのを阻止することである。そのための第一の条件は、支配階級としてのプロレタリアートの位置と自覚を保持し、発展させ、強化することである。このための唯一の手段は、自主的で、柔軟で、積極的なプロレタリア党である。」「一つの体系としての正しい政治路線は、党内においてそれを練りあげ、適用する正しい方法なしには、まったく考えられない。」「意識的なプロレタリア民主主義の決定的な保証こそ、その上で党が前進し、またその手段によってのみ党が労働者階級と労働者国家を指導できるものなのである」と(『レーニン死後の第三インターナショナル』現代思潮社版、二九七~二九九頁)。
次のように結論づけることができるだろう。
トロツキーの場合、社会主義的原始蓄積とその意識的な計画化の課題は、極度に困難な状況下にある過渡期プロレタリア権力・労働者国家をなによりもまず労働者階級そのものとの関係において維持・防衛するという課題との緊張した相互関係のもとで意識され、提起されていた、と。過渡期ロシアにおける新たな経済的課題とプロレタリア権力の階級的防衛という課題のこの緊張した相互関係を明示的に提起しているのが、一九二三年の『ニュー・コース』である。さらに、基本的に同一の観点からボリシェビキ党体制の問題を総括的に取り上げているのが、『レーニン死後の第三インターナショナル』に収録されている論文「今や如何」である。この論文は、あまり読まれていないが、非常に重要である。
<経済における「国際主義」>
(二) 国家によって監視・統制される商品市場制度に基づく総体としての過渡期ソビエト「国民経済」というあり方を前提とし、国有工業を基軸とする新たな工業化政策・社会主義的原始蓄積の計画的推進と農業生産の集団化の課題の設定、そして資本主義世界市場の意識的・積極的利用。
この点については、前章で『ロシアは何処へゆく』を詳しくあとづけた。ここでは、再確認の意味で、『反対派政綱』から以下の引用をあげておこう。
「資本主義と社会主義という非和解的に敵対している二つの社会体制の間の長期にわたる闘争において、その結果を究極的に決定するのはそれぞれの体制下の相対的労働生産性である。そして、市場の条件のもとで、この相対的労働生産性は国内の価格と世界の価格の関係によって測定される。レーニンが、最後の演説の一つにおいて、“われわれが従属し、結び付けられ、抜け出ることができないロシア市場および国際市場”が強制する“試練”について党に警告したとき、この根本的事実を考慮していたのである(注)。」「われわれは、閉鎖的な国民経済の中に後退することによって、資本主義の包囲から逃げだすことはできない。」「外国貿易の独占‥‥が現在建設中の社会主義経済を防衛できるのは、ただその経済が世界経済における技術・生産コスト・品質・価格の一般的水準に接近しつづける限りにおいてである。経済管理の目標は、前進の水準と速度の不可避的低下という犠牲をともなう閉鎖的な自給自足経済ではなく、まさにその正反対のもの、すなわち世界経済におけえるわれわれの相対的比重を全面的に高めることでなければならず、それはわが発展速度を最大限に増大させることによって達成されねばならない。」「国内における任務は、適切な階級的政策によるわれわれ自身の強化によって、労働者階級と農民との適切な関係によって、社会主義建設の道をできるだけ先まで進むことである。ソビエト連邦の内部的資源は巨大であり、このことを完全に可能にしている。この目的のために世界資本主義市場を利用するが、われわれの根本的な歴史的予測は依然として世界プロレタリア革命のより一層の発展と結合することである」と(『反対派政綱』第四章「国有工業と社会主義の建設」の「ソビエト連邦と世界資本主義経済」より)。
注 レーニン「ロシア共産党(ボ)第十一階級大会への中央委員会の政治報告」
(一九二二年三月)、『レーニン全集』三三巻、三八〇頁。
<プロレタリア国際革命の立場>
(三) 階級的国際政策の堅持とプロレタリア国際革命との合流の立場――とりわけヨーロッパとアジアにおける国際革命の追求。
この点についてもっとも包括的なのは、いうまでもなく『レーニン死後の第三インターナショナル』である。その第一章はプロレタリア世界革命の綱領を取り上げ、第二章でヨーロッパにおける階級闘争の革命的戦略・戦術を総括的に論じ、第三章ではアジアの植民地永久革命のために中国革命を政治的に総括している。
2 経済計画のための三要素――計画・市場・ソビエト民主主義
<スターリン派の強制農業集団化と官僚的工業化>
「個人農業経営にたいする優柔不断、大規模計画にたいする不信、最小限テンポの擁護、国際問題の無視――これらすべてを一緒にしたものが、一九二四年の秋、ドイツ・プロレタリアートの敗北の後にスターリンが最初に提唱した“一国社会主義”理論の本質をなすものであった。‥‥強化されたクラークは、中農を味方につけ、都市を穀物の封鎖で服従させた。一九二八年一月、労働者階級は迫りくる飢餓の亡霊と直面した。」この追い詰められた状況のもとで、党機関官僚分派としてのスターリン派は、「非常手段」による穀物徴収から「階級としてのクラークの清算」・「完全な集団化」、そして超強行的な官僚的工業化の道に押しやられていった。それは「内乱の雰囲気」を復活させ、また当時の政府首相ルイコフ、共産主義インターナショナルの中心たるブハーリン、全ロシア労働組合中央評議会議長トムスキーの右派ブロックは排除された。(以上、『裏切られた革命』第二章の「二、急転換」)
スターリン派党機関官僚勢力は、一九二九年以降、強制農業集団化と超強行的工業化に踏み込み、同時に、商品市場を制度的枠組とする新経済政策(ネップ)の方法を官僚的に撲殺してしまった。「ネップ下の過程で不均衡にぶつかると、官僚はネップを清算した。官僚は、市場の方法にかえて、強制の方法をいっそう広範に行使するにいたった。」(トロツキー「第二次五ヵ年計画の開始に際して危機に陥ったソビエト経済」、『トロツキー選集』補巻三、一三七頁)
「第二次五ヵ年計画の開始に際して危機に陥ったソビエト経済」(以下「危機に陥ったソビエト経済」という)は一九三二年に執筆されたもので、このノートの第二章であとづけたトロツキーの過渡期経済についての方法と立場にもとづいて、一九二九年以降の強制農業集団化と官僚的工業化の最初の結果を批判的を総括している。ここでは、そのうち「社会主義的計画化」についてだけ見てみよう。
<計画化の技術と経済計画のための三要素――計画・市場・ソビエト民主主義>
「危機に陥ったソビエト経済」は、「社会主義的計画化の根本的前提は、まず十月革命のなかに、次にソビエト経済の基本的法律のなかに含まれている。中央集権化された経済を指導する政府の諸機関は、この数年来、機能している」としたうえで、次のように述べている。
「調和した経済という明確な体制を先験的に創造することはできない。仮設としての計画は、旧来の不均衡をその枠内に含まざるをえなかったし、新たな不均衡の発展を回避することもできなかった。集中化された指導部は、たんに巨大な保証であるだけでなく、同時に誤謬も集中されて、幾何級数的に倍加するという危険をつくりだす。計画を実現する過程において、計画を不断に正しく調整すること、獲得された経験にもとづいて部分的ならびに全面的に再構成すること、ただこうすることによってのみ、計画にたいして有効な経済的性格を確保することができる。」「社会主義的計画化の技術は天から降ってくるものではないし、権力奪取とともに完全に準備されて与えられるのでもない。この技術の習得は、一歩一歩の執拗な闘争によってのみ獲得しうるのであり、たんに一要素によってでなく、新しい文化と経済を構成する幾百万という諸要素によって可能になるのである。‥‥すべての問題は、まさに計画化の作業のなかにある」と(同上、「計画化の技術」)。
こうして、もっとも強硬な「経済計画」主義者であったトロツキーは、現実の経済計画化そのものについては非常に慎重であり、それはただ経験にもとづく漸次的接近の方法によってしか達成できないと主張している。トロツキーは、このような慎重な見解を一九二二年の新経済政策(ネップ)に関するコミンテルン報告ですでに明らかにしていた。
「危機に陥ったソビエト経済」は、「計画を実現する‥‥諸機関」、「計画の検証ならびに調整」の方法・手段、そして「計画が成功する諸条件」について、次の「三つの制度」を検討しなければならないと指摘している。すなわち、――
「一、特殊な国家諸機関、すなわち中央と現場における諸々の計画委員会のヒエラ
ルヒー(位階構造)。
二、市場を規制する制度としての商業。
三、経済建設をめざし、大衆に生き生きとした刺激をあたえる制度としてのソビ
エト民主主義」と。
「危機に陥ったソビエト経済」は、結論として、「国家が管理する計画」、「市場」、「ソビエト民主主義」という「三つの要素の調整のみが、過渡期の経済の正しい方向を保証できる」と述べている。
<市場とソビエト民主主義>
経済の計画化のためには、いうまでもなく、プロレタリア独裁権力としての労働者国家の中央集権化された計画機関と経済管理・指導の諸機関が必要である。だが、労働者国家による経済の計画化は、同時に、全国的な商品市場という経済制度とソビエト民主主義という政治制度を必要とする、とトロツキーは主張している。
経済の計画化と市場、そして農業集団化と市場の関係について、「危機に陥ったソビエト経済」は次のように述べている。
「国有経済、諸々のグループ、協同組合、個人などの無数の参加者の要求と力関係は、たんに計画のための諸々の委員会の統計上の報告によってだけでなく、需要と供給の必然的な影響をとおしても示されるのである。計画は市場を媒介として検証され、相当程度、このことによって達成されるだろう。市場自身の調整は、そこに立ちあらわれる諸傾向を基礎としなければならない。前述の諸機関は、商業的計算を手段として経済を総合的に理解していることを実地に示さなければならない。過渡期の経済制度は、ルーブルの統制なしには考えられない。‥‥貨幣単位が確定しなければ、商業的計算は混乱を増大させることにしかならない。」(同上、「計画経済の諸条件と諸方法」)
「ネップ(新経済政策)の行政的窒息の後、経済計算や賃金は意味をなさない言葉になってしまった。経済計算は市場の諸関係なしには不可能である。」(同上、「ネップの窒息、貨幣の膨張、そしてソビエト民主主義の清算」)
「集団化が成功しうるのは、コルホーズの互恵的な諸関係ならびにコルホーズと現代世界の諸関係を商業的計算にもとづいて編成することによって、個別のコルホーズの利害を共通にさせることができる範囲でしかありえない。このことが意味することは、現段階における集団化の正しい経済的方策は、ネップ(新経済政策)の廃止ではなく、その諸方法の継続的な修正でなければならないということである」と(同上)。
労働者国家の経済計画とソビエト民主主義の関係について、「危機に陥ったソビエト経済」は次のように述べている。
「国民所得の配分の問題は計画の中軸である。この問題は、プロレタリアートそれ自体の種々の階層をふくむ社会的諸集団と諸階級の闘争を貫いている。社会的・経済的諸問題でもっとも重要なものは、工業が農業から受け取るものと工業が農業に与えるものとの均衡としての都市と農村の同盟、基礎資本建設の資金と賃金のための資金との関係としての蓄積と消費の関係、労働の種々の部分(熟練労働者と未熟練労働者、臨時労働者、専門家、指導する官僚)の調整、最後に都市で清算される国民所得を農民階級の種々の階層への配分などであり、これらすべての問題が存在するだけでも、幾百万という利害関係者の干渉を回避している官僚層の先験的な決定を許すことはできない。」「計画化の根本的諸要素とみなされる重大な諸利害のための闘争によって、集中した経済としての政策の領域に入りこむことになる。ソビエト社会の社会的諸集団の隊伍は、ソビエト、労働組合、協同組合、そしてとりわけ指導する党である(でなければならない)。国家が管理する計画化、市場、そしてソビエト民主主義という三つの要素の調整のみが、過渡期の経済の正しい方向を保証できる。」(同上、「計画経済の諸条件と諸方法」)
「つい昨日から始まったことではないが、労働組合、ソビエト、そして党の動揺が進行した。都市と農村の利害の衝突、プロレタリアートと農民層の様々な部分の諸要求に直面した官僚層は、どのようなものであれ、その批判、抗議、要求をますます乱暴に窒息させた。‥‥官僚制の頂点は、とどのつまり、社会主義的計画化の領域において不可謬であると自ら宣言した‥‥。かくして、社会主義建設の基本的機構であるソビエト民主主義の弾力的で柔軟な制度は清算された」と(同上、「ネップの窒息、貨幣の膨張、そしてソビエト民主主義の清算」)。
3 過渡期の経済と貨幣――『裏切られた革命』より
最後に、『裏切られた革命』第四章「労働生産性のための闘争」の「一、貨幣と計画」から、過渡期の経済における貨幣の問題についてトロツキーが述べている部分を引用しておこう。
「国家と貨幣という二つの問題は、結局、問題中の問題である労働生産性に帰着し、多くの共通する特徴をもっている。国家の強制は、貨幣の強制と同じように、階級社会から引き継いだものである。‥‥共産主義社会において、国家と貨幣は消滅するだろう。」
「生産手段と信用の国有化、国内取引の協同組合化あるいは国営化、外国貿易の独占、農業の集団化、遺産相続法――これらは、貨幣の個人的蓄積に厳しい制限をくわえ、その(高利貸的、商業的、工業的な)私的資本への転化を妨げる。しかし、搾取と結びついたこれら貨幣の諸機能は、プロレタリア革命の初めにおいて清算されるのではなく、緩和された形で、一般的商人、債権者および工業家たる国家に移される。同時に、価値尺度、交換手段、および支払いの媒介物としての貨幣のより基本的な諸機能は、保有されるばかりでなく、資本主義のもとにおけるよりもより広範な活動の分野をえる。」
「計画の規制と統制には二つのテコが必要である。関心ある大衆自身が指導に真に参加する形での政治的テコ――これはソビエト民主主義なしには考えられない。また、一般的等価物の助けによって、先見的な計算を実際にテストする形での金融的テコ――これは安定した貨幣制度なしには考えられない。」
「ソビエト経済における貨幣の役割は、終わっていないだけでなく、‥‥なお前途遼遠な発展をもっている。資本主義と社会主義のあいだの過渡期は、全体としてみれば、商業の位置の切り下げでなく、その非常な拡大を意味する。工業のすべての部門は、それ自身で変形し、成長する。新しい部門が継続して発生し、すべての部門は量的にも質的にも相互の関係を決定されねばならない。自足的な農民経済と閉じこめられた家族生活の清算は、これまで農民の囲い地や彼の私的な住居の壁という限界内で費やされていた労働エネルギーのすべてが社会的交換や事実上の貨幣流通の領域に移行することを意味する。一切の生産物とサービス業が、歴史上はじめて相互に交換されるのである。」
「成功的な社会主義建設は、生産者と消費者の直接の個人的利害――エゴイズム――を含むことなしには考えられないが、このエゴイズムは、そのサービスにたいして、慣例の信頼しうる弾力的な道具たる貨幣をもってしてはじめて成果をあげるだろう。労働生産性の向上とその生産物の品質の改善は、工業のあらゆる細胞に自由に浸透する正確な尺度、すなわち安定した通貨単位なしにはまったく達成しえない。したがって、資本主義のもとでそうであるように、過渡期経済においても唯一の正貨は金を基礎としたものであることはあきらかである。‥‥独自的な基礎、すなわち金の基礎を奪われてしまったソ連邦の貨幣制度は、多くの資本主義諸国のように必然的に閉鎖的性格をもっている。世界市場にとって、ルーブリは存在しないのである。‥‥歴史的任務は、絞め殺されることを避けようとするだけでなく、世界市場の最高の成果と向かいあって、時間の最大限の節約を保証し、したがって文化の最高の開花を保証する徹頭徹尾合理的で強力な経済をつくりだすことである。」
「絶えまない技術革命と大規模な実験を経過しているダイナミックなソビエト経済は、何よりも安定した価値尺度の手段によってたえずテストされることが必要である。理論的にいっても、もしソビエト経済が金ルーブリをもっていたとしたら、五ヵ年計画の結果は今日とは比較にならぬほど有利なものだったろう‥‥。」
ところが、一九二〇年代末~三〇年代のソビエト・テルミドールのもとで確立した官僚的中央集権経済計画システムは、“市場を媒介として検証される”べき“商業的計算”――商品市場を前提とする価格計算――を排除した。だが、いかなる経済計画もそれを計量しテストする物質的基礎・尺度をもつことなしにはありえない。スターリニスト経済計画システムは、その計量とテストの方法として物財・物量的計算――「物財バランス」の方法――を採用した。
この経済計算・バランスの方法はいわばはなはだ原始的なものであり、この方法それ自体のうちに様々な矛盾と限界がはらまれていた。それは、まさに方法として、一国社会主義的であり、ソビエト・テルミドール官僚制と対応していた。
〔『世界革命』1989年2~4月発表――2007年10月〕
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