中国革命におけるトロツキズム

〔『トロツキー著作集 1937~38』下巻、柘植書房、1974年〕

酒井与七

-目次-
一 中国革命とトロッキー
二 第二次中国革命敗北の後に
  トロツキーの政治的総括
  第三次中国革命の綱領と階級的性格
  第三次中国革命の勝利か提起する問題
  トロツキーの戦術――党の再武装と民主主義的スローガン
  防衛から攻撃の準備ヘ――民主主義的政治闘争におけるプロレタリアートのイニシアチブ
三 瑞金ソビエト期
  瑞金ソビエトと全国的闘争の展望
  「第三期」論の袋小路
四 中日戦争と第三次中国革命
  中日戦争の展望
  抗日戦争に関するトロツキー
  中国トロツキストの政治的敗北
  トロツキストの誤り
  第三次中国革命の勝利とアジアにおけるトロツキズム

一 中国革命とトロッキー

 『トロツキー著作集』の本書には、日本帝国主義の中国侵略とこれに対する中国人民の抗日戦争、また全体としての中日戦争と極東における革命の展望に関する重要な諸論文が収録されている。第二次中国革命(一九二五~二七年)に関してトロツキーは多くの発言を行なっており(トロツキー『中国革命論』現代思潮社版参照)、第二次中国革命に対するスターリンの裏切り的役割を政治的にも理論的にも十分に明らかにしている。第二次中国革命の高掲、スターリンによって強制された中国共産党の裏切り的役割と革命の敗北の全般的経過については、ハロルド・アイザッsクス『中国革命の悲劇』(至誠堂)によって基本的に明らかにされており、第二次中国革命に関するトロツキーの主張の正しさは無条件に明らかである。
 『中国革命論』(現代思潮社)に収録されている第二次中国革命に関するトロツキーの諸論文、『レーニン死後の第三インターナショナル』(現代思潮社)第三章「中国革命の総括と展望」、また『永久革命論』(現代思潮社)によって、われわれはそのことを知ることができる。

 中国共産党の一文書は、瑞金ソビエト時代(一九三一~三四年)に関連して次のように述べている。
 「中国共産党の歴史において、一九三一年から一九三四年までの間、教条主義者は中国の特徴を否定し、ソ同盟のあるいくつかの経験をそのまま踏襲し、わが国の革命勢力に重大な失敗をなめさせた。この失敗はわが党に深刻な教訓を与えた。わが党は、一九三五年の遵義会議から一九四五年の第七回全国代表大会まての間に、この非常に大きな害をなしていた教条主義の路線をすっかり精算し、誤りをおかした同志をもふくめて全党の同志を団結させ、人民の力をのばして、革命の勝利をかちとった。」(一九五六年一二月二九日号『人民日報』社説「ふたたびプロレタリアート独裁の歴史的経験について」)
 ここには一つの歴史的真理がある。中国共産党に対する毛沢東のヘゲモニーは、一九三一~三四年の経験を基礎とし、大長征をつうじてほぼ確立されてゆくことになる。一九三七年七月以降の日本帝国主義による全面的な中国侵略に対する抗日戦争の組織をつうじて、「革命の重要な形態としての武装闘争」(胡喬木『中国共産党の三〇年』青木文庫一〇九頁)を根幹とする独自の体系としての毛沢東主義が確立していった。中国の民族ブルジョアジーを階級的に代表する蒋介石の国民党政府権力に対する第三次中国革命の勝利と中国に対する帝国主義支配の一掃は、毛沢東のもとに政治的に再組織され拡大強化していった中国共産党の指導のもとに実現された。
 第三次中国革命の経験の本質的な要素は、ホー・チ・ミンのベトナム共産党のもとで繰り返えされ、今日、インドシナ半島の三国において現に生きた革命のなかで実践されつつある。われわれはまた、現在、ビルマ、タイ、マレーにおいて共産党に指導された武装ゲリラ闘争をもっている。フィリッピンにおいても、近年、武装ゲリラ闘争が新しく発展している。かくして、第三次中国革命の勝利が提起する政治的・理論的問題は、東アジアにおいて今日なお現下の実践的問題である。
 第三次中国革命の勝利は毛沢東指導下の中国共産党の手中に帰した。トロツキズムは第三次中国革命において完全に敗北した。第三次中国革命における毛沢東と中国共産党の政治的勝利は、マルクス主義の歴史的全伝統とボリシェヴィキ・レーニン主義としてのトロツキズムに対して重大な政治的・理論的問題をつきつけた。われわれは、以下において、第二次中国革命の敗北から抗日戦争の開始にいたる三つの時期、すなわち第二次革命の敗北直後、瑞金ソビエト期、抗日戦争開始期の三つにわけてトロツキーの発言と主張をあとづけてみることにする。

二 第二次中国革命敗北の後に

トロツキーの政治的総括

 「中国共産党が一九二五~二七年の革命においてボリシェヴィキ的政策を遂行していたら、確実に権力を獲得していたろうと論ずるのは街学的である。だが、この可能性は全然問題外だと論ずるのも、また哀れむべき俗物根性である。労働者と農民の大衆運動
は、支配階級の崩潰もまたそうであったように、この権力獲得にとって完全に十分であった。……もしコミンテルンが多少とも正しい政策を遂行していたなら、共産党の大衆獲得の闘争の結果はまえもって決定されていただろう。つまり、中国プロレタリアートは共産党を擁護したであろうし、一方、農民戦争は革命的プロレタリアートを支持したにちがいない。
 「もしわれわれが北伐の最初において“解放された”地方にソビエトを組織しはじめたら(大衆は本能的にこのために闘っていたのである)、われわれは農民一揆をわれわれの側に結集し、われわれ自身の軍隊を建設し、敵の軍隊の根底を危くしたであろう。そして中国共産党は、――若年であるにもかかわらす――賢明なコミンテルンの指導によってこの非常時のうちに成熟し、よし一時に中国全体でなくとも、少くともかなりの部分で権力を獲得することができたであろう。そして、なかんずくわれわれは党をもったであろう。
 「ところが、まさしく指導部の内部においてまことに奇怪なことが、真に歴史的大悲惨事がおこったのである。ソビエト連邦、ボリシェヴィキ党およびコミテルンの責任者は、最初は共産党が独自の政策をもつことに反対して蒋介石を完全に支持し、つぎには農業革命の指導者として汪精衛を擁護した。レーニンの政策そのものを足下にじゅうりんし、若い中国共産党を麻痺させたのち、共産主義インターナショナル執行委員会は、ボリシェヴィズムにたいする中国ケレンスキー主義(国民党左派―引用者)の勝利、ケレンスキー派にたいする中国ミリュウコフ派(蒋介石と国民党右派)の勝利、そして中国ミリュウコフ派にたいする日本とイギリス帝国主義の勝利をまえもって決定したのである。
 「ここに、そしてただここにのみ一九二五年~二七年のおいて中国でおこった事件の意味があるのである。」(トロツキー「広東の武装蜂起」、『中国革命論』現代思潮社一一四~五頁)

 以上は一九二八年七月のトロツキーの発言であるが、これは毛沢東派による公式
の党史文献たる「若干の歴史的問題についての決議」(『毛沢東選集』第七巻、三一書房版所収)の第二次中国革命の政治総括部分と十分に読みくらべるに価いする。

第三次中国革命の綱領と階級的性格

 「大中の土地所有者は(中国に存在するような)、外国資本主義をふくめて都市の資本主義と非常に密接に織りあわされている。中国には、ブルジョアジーに対立する土地所有階級というものがない。農村に最も広汎にひろまっており、一番憎悪の的となっている搾取者は、都市銀行資本の代弁者たる高利貸的富農である。したがって中国では、農業革命は反封建的性質をもつとおなじ程度に、反ブルジョア的性質をもつのである。富農が中農や貧農と手をくみ、あるいはしばしば彼らの先頭にたって、地主にむかって行進したわが十月革命の第一段階は、中国ではおこらない、もしくはほとんどおこらないだろう。中国における農業革命は、第一歩から、そしてその後においてもまた、少数の地主と官僚にたいする蜂起であるばかりでなく、同時に富農と高利貸にたいする蜂起であるだろう。ロシアにおいて、貧農委員会が十月革命の第二段階、つまり一九一八年の中ごろになってはじめて活動したとすると、中国では、農民運動が復活するやいなや、なんらかの形でただちに登場するであろう。富農の解体は、中国十月革命の第一歩であって、第二歩ではないであろう。
 「だが、農業革命は、現在の中国の歴史的闘争の唯一の基礎ではない。最も過激な農業革命、土地の一般的分割(共産党はもちろん徹底的にこれを支持するであろう)も、それだけでは経済的な袋小路からの抜け道とはならないだろう。今日、中国にとっては、国民的統一と経済的主権、つまり関税自主権、いっそう的確にいえは外国貿易の独占を獲得することが絶対に必要である。このことは世界帝国主義からの解放を意味する。
 「中国の産業において演ずる外国資本の大な役割と、この外国資本が自己の欲望を防衛するために自分自身の“国民的”銃剣に直接たよるという習慣のため、中国における労働者管理の綱領はロシアの場合よりもいっそう実現困難なものとなる。反乱が勝利したあかつきには、外国資本の企業、のちには中国資本の企業を直接没収することが、闘争によっておそらく絶対に必要となるだろう。
 「ロシア革命の“十月”の結果を決定したとおなじ客観的、社会的、歴史的原因が、中国ではさらにいっそう尖鋭な形をとってあらわれる。一方では、中国ブルジョアジーが外国帝国主義ならびにその武力と直接にむすひついており、他方、中国プロレタリアートは最初からコミンテルンやソビエト連邦と関係をむすんでいるので、中国国民のブルジョア的極とプロレタリア的極とは、もしそういうことができるなら、ロシアにおけるよりもいっそう激しく対立している。数的にいえば、中国の農民はロシアの農民よりもいっそう圧倒的な大衆を形成している。だが、その解決如何によって自己の運命が左右される世界的矛盾の万力に絞めつけられ、打ち砕かれているため、指導的役割を演ずることはロシアの農民よりもいっそう無力である。これは、現在ではもはや理論的予見ではなくて、徹底的にあらゆる方面からためされた事実である。
 「第三次中国革命のこれらの根本的な論争の余地ない社会的、政治的先決条件は、民主的独裁の定式が完全にその有用性をうしなってしまったことをしめすばかりではない。それは、さらに第三次中国革命は、ロシアに比較して中国が極端におくれているにもかかわらず、もっと的確にいえば、このように非常に立ちおくれているからこそ、十月革命の場合のように(一九一七年一一月から一九一八年七月まで)ただの六ヵ月も“民主的”期間をもたないだろうということをしめすものである。それは第一歩から、都市と農村におけるブルジョア財産の最も決定的な震動と廃棄を遂行することをよぎなくされるであろう。」(卜ロツキー「広東の武装蜂起」、一一二~三頁)
 「一九一七年一一月から一九一八年七月にいたるソビエト政権の第一期に……農民は労働者とともに農業革命を遂行したが、一方、労働者階級はまだ工場の没収はすすめえず、ただ労働者の管理を試みていたのである。……農業革命は頑健で強力な子供を生んだが、そのさい産婆の役目はプロレタリア独裁たけが演じた。……農業的・民主主義的革命の真の中核は勝利した労働者階級の責任となった。……もしブルジョア民主主義的段階は“民主主義的独裁”による農業革命の完成であるとするならば、それはブルジョア民主主義的段階を大胆に“飛躍”した十月革命にほかならなかった。」(同上、一二〇頁)
 「中国はまた、もっとも“アジア”的な奴隷形態の清算、民族的解決および国の統一という基本的目的のためのおそろしい残虐な長期にわたる大闘争に迫られている。だが、事態の進展が明らかにしたように、プチブルジョアジーがこれ以上に革命の指導権を、あるいは指導権の半分もにぎることが不可能なことは、実にここからきているのである。中国の統一と解放はいまや国際的な任務である。それはソ連の存在と同様な国際的意義をもっている。この任務は、プロレタリア前衛によって直接指導されるところの抑圧され踏みにじられた飢餓大衆の決死的闘争によってのみ、たんに世界帝国主義にたいするばかりでなく、また中国における経済的・政治的代弁者――“民族”的・民主的・ブルジョア的三太夫をふくむブルジョアジーにたいする闘争によってのみ解決することができるのである。そして、それはプロレタリア独裁にむかう道である。」(同上、一一九頁)

 いわば以上が第三次中国革命に関するトロツキーの綱領であった。第三次中国革命のこの綱領は、様々な迂余曲折と「新民主主義」論や「連合政府」論に具体的にみられる政治的「躊躇」にもかかわらず、には貧農層に主要な大衆的基礎をおく自己独自の党軍を権力闘争の手段として強力に確立していった毛沢東の中国共産党のもとに一九四九年の全国的勝利をつうじて基本的に実現されていった。

 ロシア十月革命において革命的権力の座についたのは、都市プロレタリアートをソビエトのもとに組織して武装蜂起にみちびいたボリシェヴィキ党であったが、第三次中国革命において革命的権力の座についたのは広大な農村下層大衆を自己独自の党軍に組織した毛沢東の中国共産党がであった。まさにこの点にこそ、ロシア十月革命と勝利した第三次中国革命との重大な歴史的ならびに政治的な相違があった。
 第三次中国革命の決定的な勝利においては、都市プロレタリアートの革命的に組織された大衆的隊伍が中国共産党の革命的全国権力の中心的基盤をなしたのではなく、抗日戦争期に農村の武装根拠地において用意された農村下層大衆を組織した党軍が権力奪取の手段となった。ロシア十月革命においては、党形成の全歴史をつうじてプロレタリアートの闘いと結合して闘いぬいたボリシェヴィキ党が革命的権力の中心をなしたが、第三次中国革命においては農村において準備された党軍の組織者としての中国共産党が革命的権力の中心をなした。
 すなわち、第三次中国革命の勝利において決定的に重要なことは、農村において準備された自己独自の党軍を権力手段とする中国共産党の革命的全国権力によってプロレタリアートの歴史的任務が基本的に実現されたということである。

第三次中国革命の勝利か提起する問題

 一九三二年九月、トロツキーは「中国の農民戦争」という論文で次のように述べている。
 「中国“赤軍”の指揮官は、命令を発する習慣を身につけることにたしかに成功した。強力な革命的政党とプロレタリアートの大衆的組織とが欠けていると、指揮官層にたいする統制は事実上不可能となる。指揮官とコミッサールは情勢の絶対的支配者をよそおってあらわれる。そして都市を占領すると労働者を上から見下しがちである。労働者たちの要求は、彼らにはしばしば時機か悪かったり、無分別だったりするように思われるだろう。……
 こうして中国には、構成的には農民、指導部はプチブルジョアである軍隊と労働者とが衝突するための原因と根拠がとりのぞかれていないばかりでなく、その反対に全情勢はこのような衝突の可能性、それどころか必然性を非常に増大する。そのうえ、プロレタリアートが勝利するチヤンスはロシアの場合よりもはじめからはるかに不利である。」(前掲『中国革命論』三〇四頁)
 「官僚的中間主義は、中間主義として独立的な階級的支持をもつことはできない。だが彼らは、ボリシェヴィキ・レーニン主義者にたいする闘争において、右翼、つまり農民とプチブルジョアジーの支持をもとめ、彼らをプロレタリアートに対置せざるをえない。スターリニストとボリシェヴィキ・レーニン主義者との二つの共産党分派のあいだの闘争は、こうしてそれ自体のうちに階級闘争へ転化する内的傾向をはらんでいる。中国における事態の革命的発展は、この傾向をその結論にまで、つまりスターリニストにひきいられた農民軍とレーニン主義者にひきいられたプロレタリア前衛とのあいだの内乱にみちびくかもしれない。……
 「だが、そのような展望ははたして不可避的であろうか。否、わたくしはけっしてそうは思わない。スターリニスト分派(公式中国共産党)のうちには、農民的、つまりプチブルジョア的傾向ばかりではなく、プロレタリア的傾向もまた存在している。左翼反対派が、スターリニストのプロレタリア的翼のために、“赤軍”にかんする、またプロレタリアートと農民一般とのあいだの相互関係にかんするマルクス主義的評価を発展させ、この一翼と結合するために努力することが最も重要である。」(同上、三〇九~三一〇頁)

 トロツキーは、以上において、中国共産党が農村の武装根拠地の闘争をつうじてプロレタリア的な階級的性格をうしない、小ブルジョア的性格へと階級的に変質する危険性とそのような傾向に対するプロレタリア的な階級的立場からする意織的闘争の必要性を提起している。第三次中国革命の勝利という歴史的事実にてらしてこのトロツキーの警告をみてみるとき、われわれは次のようにいわなければならない。すなわち――

(一)第三次中国革命の中国共産党主導下の勝利にさいして、この党によって農村地域において準備された強大な党軍にいくらかても政治的影響力をおよぼしうるような組織されたプロレタリア前衛は都市において存在していなかった。
(二)農村地域において準備された強大な党軍を政治的に主導し統制する毛沢東の中国共産党は、蒋介石の国民党軍から都市部を奪取したとき、都市プロレタリアートの資本に対する大衆的闘争の発展をボナパルチスト的に(“情勢の絶対的支配者をよそおって”)確かに統制し抑制したが、自己独自の党軍を権力手段とする中国共産党は農村における土地革命を全面的に組織したし、国際貿易に対する国家独占をうちたて、大中の資本の国有化を事実上おしすすめ、国有計画経済制度を自己の基本的かつ経済的土台としていった。すなわち、第三次中国革命におけるプロレタリア独裁かはたすべき根本任務は、農村において準備された自己独自の党軍にもとづく中国共産党の革命的権力によって基本的に実現された。このかぎりにおいて、農村において準備された中国共産党の党軍がプロレタリアートの歴史的利害と階級的に全面的に衝突することはなかった。
(三)しかしながら、毛沢東の中国共産党は、都市においてプロレタリアートを中心とする被抑圧大衆をソビエトをつうじて全面的に組織化し、これを自己の大衆的な階級的基礎として決定的に確立する方向をとらなかったし、またそのかぎりにおいて全国的権力の座についた中国共産党は都市プロレタリアートならびに農村の諸大衆との関係における独特なボナパルチスト的性格を基本的に維持しつづけた。一九五〇年代から一九六〇年代にかけた中国共産党の常ない動揺とシグザク、そして毛沢東主義的“イデオロギー教育”と“整風”・“思想改造”運動を強調する重要な客観的要因の一つを、“プロレタリアートの独裁”を自己独自の党軍に基礎をおいていわば自己実現した中国共産党のホナパルチスト的性格のうちにみいださなければならない。

 つまり以上のような政治的構造をもって、トロツキーが明白に定式化した第三次中国革命のプロレタリア永久革命としての綱領は毛沢東の中国共産党の主導下に実現されたのである。

トロツキーの戦術――党の再武装と民主主義的スローガン

 「革命は今や退潮しつつある。……われわれは中国において退潮の時期にあり、したがって理論的深化、党の批判的自己教育の時期であり、労働運動の全範囲にわたり強固な支持点を創造、強化し、農村細胞を組織し、労働者と農民との最初は防衛的でのちには攻勢的となる部分的闘争を指導し統一する時期である。」(「広東の武装蜂起」前掲書一二三頁)
 「今日中国には革命情勢は存在しないということをはっきりと理解しなければならない。現在、中国でこれにとってかわりているのはむしろ反革命的情勢であって、これはいつまでつづくかわからない革命中間期に転化する。」
「中国共産党は……急転直下衰退しようとしている。彼らは、ころげ落ちて粉砕されないために、いかにしてあらゆる突起にすがりつき、あらゆる足場に執拗にかじりついたらいいかを知らねばならない。中国プロレタリアートは、その前衛をはじめとして、敗北による莫大な経験を同化し、新しい方法で活動しながら新しい環境を認識しなければならない。粉砕された隊列を再建し、大衆組織をあらたに樹立しなければならない。民族統一と解放、農業の基本的変革などの国で生起しつつある諸問題に対してどういう態度をとるべきかを、いままでよりもいっそう明日かつ鮮明に決定しなければならない。」「卜ロツキー「コミンテルン第六回大会後における中国問題」一九二八年一〇月、前掲『中国革命論』一四九~五〇頁)

 同時にトロツキーは中国共産党の当時の状況について次のように述べている。
 「われわれは……中国共産党が農民のあいだに数万の新党員を獲得したが(はたしていつまでか?)、一方、労働者党員の大多数を失ったことを知っている。……ことに中国のような大国では、たとえ都市や労働者、農民運動のもっとも重要な中心地で革命が敗れても、まだ消耗されない革命的勢力をもつ新手の、遅れているがゆえに新しい地方がつねに存在するものである。遠い辺境地では、革命の波がまだ長いあいだに新たにおこるだろう。……この運動が、上海、漢口、広東の戦闘のおくれた反響にすぎないということは明白である。革命が都市において決定的敗北をこうむった後でも、党はなおしはらくは目覚めつつある農民から幾万の新党員を獲得することができる。このことは将来における重大な可能性の前兆として重要である。だが、いま考察している時期においては、それは中国共産党の解体と清算の一つの形態にすぎない。なぜなら、プロレタリア的中核を失うことによって、党はその歴史的目的と一致しなくなるからである。」(同上論文、前掲書一三七頁)
 一九二七年の敗北のうえでトロツキーが提起したのは、たがいに関連しあう三つの任務であった。すなわち、――

(一)敗北した第二次中国革命の全面的総括と第三次中国革命にむけた党そのものの全面的な綱領的再武装。トロツキーは、この点について「広東における武装蜂起」、「中国革命の総括と展望」(『レーニン死後の第三イソターナジョナル』第三章)、「コミンテルン第六回大会以後の中国問題」、「スターリンと中国革命」(前掲『中国革命論』所収)において歴史的、理論的、政治的に全面的に論じている。
(二)大衆運動における実践的課題として、国民党独裁体制の反革命的支配下における党組織そのものとプロレタリアートを中心とする大衆運動の防衛と再建のための闘争。
(三)コミンテルンのモスクワ路線たる超“左翼”主義にもとづく冒険主義路線(それは一九二八年六月のコミンテルン第七回大会において“第三期”論としてうちかためられた)の克服と党の根本たるプロレタリア的な階級的性格の防衛のための闘争。

 第一の第三次中国革命にむけた党の綱領的再武装については、先にふれているので、ここでは繰り返えさない。ここでは、都市ならひに農村における広大な被抑圧下層小ブルジョアジーを当面する民主主義的革命にむけて動員し、これを直接に指導すべき階級としてのプロレタリアートの政治的位置とて第三次中国革命のプロレタリア独裁をめざす永久革命としての性格をトロツキーが主張したということを確認するにとどめておこう。

防衛から攻撃の準備ヘ――民主主義的政治闘争におけるプロレタリアートのイニシアチブ

 第二次中国革命敗北後の反革命的情勢下における大衆運動の方針に関しては、国民党権力からする反革命的攻勢からプロレタリアートを中心とする大衆運動を防衛することに基本があるとトロソキーは主張した。それは、モスクワの「第三期」論が中国共産党に指示する冒険的自滅の路線、すなわち国民党反革命権力に対して都市労働者大衆を直接的な権力的闘争にむけて動員することに反対し、反革命権力による攻勢から何よりもまず労働者大衆の運動そのものの防衛をはかろうとするものだった。
 トロツキーは、同時に、大衆運動の防衛政策を前提としてプロレタリアートを中心とする全闘争の攻勢への移行を展望する過渡的闘争方向を提起した。
 一つは、プロレタリアーアートの決定的敗北と反革命の勝利という政治的基礎の上に中国のブルジョア的経済活動が相対的に活発化することによって、労働者大衆の経済闘争の条件が改善されるだろうし、共産党がその経済闘争をつうじて労働者を組織する可能性が与えられるだろうというものであった。中国経済もまた一九二九年の世界経済恐慌にまきこまれたが、一九二八年には上海だけで一二〇件のストライギがあったという。だが共産党の「赤色労働組合」主義は、労働組合の主導権を改良主義勢力の側においやり、労働者内部における党組織の崩壊を促進するだけであった。
 その二つは、八時間労働制、土地没収、中国の完全なる民族的独立の要求とむすびつけられた国民会議の要求のスローガンにもとづく民主主義的政治闘争の提起であった。この政治的キャンペーンは、反革命的国民党権力と対抗してプロレタリアートのヘゲモニーのもとに被抑圧下層小ブルジョア大衆を一つの全国的政治闘争にむけて過渡的に組織しようとするものであった。トロツキーはまた、情勢いかんによっては、たとえ極度に不安定なものであれ、国民党政権下における中間的な議会主義的時期の可能性さえありうると指摘し、そのような情勢の可能性をプロレタリアートの隊列の強化とその下層小ブルジョアに対する政治的ヘゲモニーの強化のために利用する用意がなければならいと主張した。
 トロツキーが提起した展望は、力関係上決定的な守勢と防衛の立場から出発しなけれはならないプロレタリアートの運動が、いっさいの民主主義的闘争の可能性をつうじて下層小ブルジョアジーとの政治的同盟関係を拡大発展し、かくしてプロレタリアートの権力をめざす直接的闘争のための条件をつくりだそうとするものであった。
 事実、かつての国民党左派汪精衛のもとに政治的改良主義の運動が一時期発展した。また、一九三一年九月の日本軍の満州侵略と一九三二年一月の上海攻撃以降、日本帝国主義反対の民族主義的意識が大衆的に高掲し、一九三二年には上海の日本人工場の労働者約一〇万人が二ヵ月半にわたってストライギを行なったという。このような反日闘争の大衆的発展は、反共を第一として日本帝国主義の中国侵略に屈服する蒋介石の国民党政権と政治的に衝突していった。
 しかし、中国版「社会ファシズム」論を全般的な政治方針とし、一九三一年一一月に農村根拠地において中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金ソビエト)を宣言した中国共産党は、このような政治情勢の発展をプロレタリァートとの政治的結合の強化のために利用することができなかった。党中央は、国民党政府の弾圧の強化と組織の崩壊によって、一九三一年後半から一九三二年にかけて上海からソビエト区の端金に移られはならなかった。

三 瑞金ソビエト期

 中国共産党のもとに組織された端金ソビエトにいたる運動について、一九三一年九一月、トロツキーは次のように述べている。
 「われわれは、自らの方法と任務を放棄することなく、当然にもこの(農民)武装部隊を断固として勇敢に防衛し、国民党の圧迫とブルジョアジーの罵詈雑言に反対しなければならない。……われわれは少なくとも『紅軍』の武装部隊のなかにわれわれの側の人間がいること、および反対派はこれらの武装部隊と農民の間で生死をともにし、この武装部隊と農民との連帯を誠実に保ち、また活動のなかで左翼反対派の組織を維持することを極めて強く希望する。」(中国語版トロツキー『中国革命問題』春燕出版社一七三頁)
 こうして、トロツキーは、モスクワと中国共産党の「第三期」論にもとづく超「左翼」的セクト主義の路線を徹底的に批判したが、農村に武装根拠地を形成した紅軍とそのもとにおける農民の運動に対してセクト的にこれを否定するような立場をとらなかった。トロツキーは、中国左翼反対派のグループがその一部分を紅軍の運動に直接に参加させることを検討してみてはと提起し、また「農民戦争のもつ巨大な革命的民主主義的意義をはっきりと」とらえ、「農民組織との必要な軍事的同盟を達成するために全力をつくす用意がある」(「中国の農民戦争」、前掲『中国革命論』三一〇頁)と述べている。
 一九三二年九月に中国左翼反対派グループあてにかかれた「中国の農民戦争」において、トロツキーはさらに次のように述べている。
 「中国南部諸省の農民運動を評価している二年前に発表された国際左翼反対派の宣言(“中国革命の任務と展望”――トロツキー『中国革命問題』春燕出版社に収録されている)は、次のように断言している――“裏切られ、粉砕され、土色になるまで出血した中国革命は生きているという証左をわれわれに与える。……農民反乱の広汎な洪水が工業中心地における政治闘争の復活のための刺激となりうることは疑う余地がない。われわれは断固としてこれに依拠する″と。……
 「諸君の手紙は、危機と日本の干渉のもとに、農民戦争を背景にして都市労働者の闘争がふたたびもえあがっているということを証明している。……現在、正しい政策をもってすれば、労働者を、そして一般に都市の運動を農民戦争と結びつけることができるだろうという希望を表明するための確固たる理由があることは明らかである。そしてこれは第三次中国革命の糸口となるだろう。」(前掲『中国革命論』二九八~九頁)

 すなわち、一九二七年の革命の敗北後、国民党の反革命支配体制に対するプロレタリアートと農民の新たな全般的闘争、「都市の運動と農民戦争を結びつけ」た全般的な反撃の闘争と第三次中国革命にむけた闘争展開の可能性についてトロツキーは主張している。それは中国情勢に関するどのような判断にもとづき、また「都市の運動と農民戦争を結びつける」可能性はどのように提起されていたのだろうか。

瑞金ソビエトと全国的闘争の展望

 先の手紙につづく同年一〇月の手紙において、トロツキーは次のようにのべている。

 「もっとも重要な二つの革命的問題、すなわち民族問題と農業問題がふたたび激化している。ゆっくりと這うように進んでいるが、全般的に勝利的な農民戦争の歩調は、国民党独裁体制が農村を満足させることもできないし、または農村をよりいっそうおとしこむこともできなかったことを証明している。
 もし農民戦争が農村とのつながりをもっている知識人を急進化したとすれば、他方、日本の干渉は都市の小ブルジョアジーを政治的にわきたたせた。これはまた権力の危機を深めるだけである。
 国民党の体制は、ファシズムよりもむしろボナパルチズムの特徴をより多くもている。国民党は、最小限の社会的基盤すら持つことなく、一方の帝国主義ならびに買弁の圧力と他方の革命的運動の圧力とのあいだにたっている。だがホナパルチズは、農民の土地に対する飢えがみたされるときにのみ、その安定をよそおうことができるのである。ところが、中国はそのようになっていない。かくして、軍事独裁体制の無能があるのであり、この体制はその敵対者の分散によってかろうじて維持されているのである。だが、その敵対者からする増大する攻撃によって、軍事独裁体制さえもが分解しはじめている。
 一九三五年~三七年の革命において、精神的にも物理的にも最大の被害をこうむったのはプロレタリアートであった。それゆえプロレタリアートは、現在、他の諸階級、すなわち学生をはじめとする小ブルジョアジーのみならす、ある意味において農民の後さえいるのである。まさしくこのことが、プロレタリアートがふたたび闘争にはいらないかぎり、第三次中国革命は勝利しえないし、よりいっそう発展することさえできないことをしめしているのである。
 革命的民主主義のスローガンが、今日の中国における前革命的情勢にもっともよく適合する。
 農民がいかなる旗をかかげていても、農業的小ブルソョア民主主義のために闘うことは、マルクス主義者にとってあたりまえのことである。日本の干渉によってふたたひ白熱のもとにおかれた中国の独立というスローガンは、民族的民主主義のスローガンである。軍事独裁体制の無能力と軍閥による国の分裂は政治的民主主義のスローガンを日程にあげる。
 学生たちは“国民党政府打倒!”と叫んでいる。労働者の前衛的諸グループはこのスローガンを支持している。“民族”ブルジョアジーは立憲体制を要求している。農民は、土地の欠乏、軍閥の桎梏、政府官吏高利貸に反抗している。このような状況のもとで、プロレタリアートの党は憲法制定会議の呼びひかけを中心的政治スローガンとして支持しなければならない。」
(「推測にふけるのではなく、行動のための戦略を」、”Writings of Leon Trotsky, 1932″, Pathfinder Press、二一二~三頁)

 卜ロツキーは、端金ソビエトの発展とそれが全国情勢に対して提起する政治的可能性を積極的に評価し、同時に日本帝国主義の中国東北部(満州)侵略がよびおこす中国大衆の民族主義的反日意識の高揚を重要な政治的チャンスであると考えた。だが、卜ロツキーにとって問題だったのは、「中華ソビエト権力は本質的に地方的、周辺地的性格をもっており、今日にいたるまで産業プロレタリアートのあいだに支点をまったく欠いている」(同上書、二一六頁)ということ、すなわち都市からの深刻な孤立にあった。「憲法制定会議は、その集中力としての重要性ゆえに、農業革命の発展において重要な段階をしるすだろう。地方の“ソビエト”と“紅軍”の存在は、農民たちが革命的代表を選出するのを助けることができるだろう。現在の段階において、これが農民運動を全国的でプロレタリア的な運動と政治的に結びつける唯一の方法である。」(同上書二一七頁)
 モスクワ路線にしたがう中国共産党は、農村における武装根拠地の形成と瑞金ソビエト政府の樹立にもかかわらす、当時の全国的政治情勢に対する超「左翼」主義的評価と極度にセクト的な政治路線(国民議会や憲法制定会議などのスローガンに反対)ゆえに、全国的には深刻な政治的孤立を余儀なくされていた。その意味において、農村の「解放区」をいわば冒険的な政治的袋小路のなかにとじこめていたということができる。
 トロツキーが瑞金ソビエトとの関係において主張したことは、革命的民主主義のスロ
ーガンをもって全国的政治情勢と都市プロレタリアートとの結合にむかい、蒋介石独裁体制の権力拠点そのものに攻撃をかけること、またかくして都市プロレタリアートの大衆的闘争の再建をつうじて圧倒的な農民的基礎のうえにたつ紅軍の運動に対するプロレタリアートの階級的指導性を強める道にむかって進むべきだということであった。それは、瑞金ソビエト運動の全国的な政治防衛と同時に、プロレタリアートの運動の強固な再建をつうじて第三次中国革命にむけた前進を展望せんとする路線だったのである。

「第三期」論の袋小路

 だが、一九三三年にヨーロッパにおいてナチズムの勝利を許したモスクワの「第三期」論とセクト的な超「左翼」主義の路線は、中国においては瑞金ソビエトの崩壊と紅軍の大退却=大長征にもたらした。武装根拠地を擁する農村部と国民党政府に反対する民主主義的闘争の可能性をはらんだ都市との政治的分裂は克服されえず、反革命的国民党政府は、一九三一年末から一九三四年にかけて五次にわたる根拠地包囲攻撃作戦を展開した。
 毛沢東派は、瑞金ソビエトの崩壊の原因を秦邦憲(博古)・立徳(オットー・ブラウン)・周恩来の正規戦軍事方針に帰している(「若干の歴史的問題についての決議」前掲『毛沢東選集』第七巻四八~五〇頁、胡喬木『中国共産党の三〇年』青木文庫四七頁参照)。われわれは、軍事方針の面においてモスクワ路線に反対する毛沢東の戦術的正しさを確認することができるだろう。だが毛沢東一派も、瑞金ソビエト体制と第三次中国革命へむかう全国的な政治的攻勢をむすびつける政治戦略の根本問題については基本的に沈黙している。
 大退却と大長征こそが第三次中国革命の勝利にむかう唯一の道であったとは絶対にいえないのである。もちろん、トロツキー自身が第三次中国革命の勝利の可能性と現実性の問題について述べているよりに(本稿の「トロツキーの政治総括」)、トロツキーが主張した瑞金ソビエト期における全国的政治方針によって確実に第三次中国革命への道がきりひらかれていたはずだということもできない。しかし、トロツキーが主張した政治路線は、日本帝国主義に対する中国の抵抗の可能性をより強化する方向であったし、同時に抗日戦争における都市労働者の闘争の比重を高める方向であったことはまちがいない。
 とりわけ第三次中国革命にいたる闘争の経過にてら
してみるとき、「現実的なものはすべて合理的である」ということに一つの真理がふくまれていることは確かである。毛沢東派の歴史に対する主張の方法は、まさに「現実的なもの――つまり毛沢東が第三次中国革命において政治的に勝利したという現実――はすべて合理的である」というものである。われわれは、毛沢東を頂点におく中国共産党が現実になしとげた事業、すなわち第三次中国革命の歴史的な巨大さと偉大さを強くたたえる。それはまさに世界革命の巨大な前進だったが、第三次中国革命の勝利にいたる道に真に学ほうと欲するわれわれは、「現実的なものはすべて合理的である」とする経験主義の「哲学」に屈服するわけにはいかない。われわれは、歴史に真に学ぶ方法、すなわちマルクス主義という批判的分析の方法を手ばなすわけにはいかないのである。

四 中日戦争と第三次中国革命

中日戦争の展望

 抗日戦争の問題については、中日戦争全体に関する展望と中国の抗日戦争そのものに対してとるべき態度の二点について、トロツキーの見解と立場を指摘しておきたい。
 中日戦争全体の展望については、本書〔『トロツキー著作集 1937~38』下巻〕に収録されている非常に短かい声明「中国と日本」によって基本的に要約されている。すなわち、明治以降の発展をもって形成された天皇制下の日本帝国主義の本質的な弱点に関するトロツキーの深い確信であり、抗日戦争をつうじて解放されるであろう中国人民の巨大な政治的エネルギーに対する確信であり、それゆえ中国の勝利(パルチザン戦・遊撃戦をふくめて)と日本帝国主義の敗北の必然性の主張である。「日本軍国主義の敗北は不可避であり、それほど遠い将来のことではない。」(「中国と日本」、『トロツキー著作集 1937~38』下巻 一五頁)
 「極東における展開は日本と中国の軍事力と内部状況に左右されるだろう。われわれはこの展開を長期的観点から検討しなくてはならない。日本が中国を征服するたけでなく支配をも行なうという可能性はありえない。朝鮮と満州の征服は、軍事的観点から見た場合、日本を弱体化した。現在の満州は、人口わずか七〇〇万であった今世紀初頭の満州とは異なっている。現在ではゲリラ戦に慣れた三、〇〇〇万人の貧農層を有している。彼らは、ロシア人であれ中国人であれ、いつでも敵の武器で武装することがてきる。
中国それ自体の人口は四億五千万人で、人口密度はきわめて高く、日本が移民しうる余地はまったくない。われわれは、イギリスが現在インドにかなり骨を折っていることを知っている。資本主義の没落期において、中国のような巨大な国の征服は不可能である。エチオピアの征服は可能であっても、中国の征服は不可能である。
 「さらに、日本――社会革命をはらんでいる国――マルクス主義で武装されていない世界の外交官は、現在、日本がどの程度まで内部爆発に近づきつつあるかについて知らない。農業面の状況を見ると、人口の半分は貧農であり、平均半ヘクタール以下の土地しか所有していない。兵士――同じ貧農・労働者――と軍部カーストとは異なる態度を取っている。さらに、旧来の伝統的軍国主義者と新しいプチブルジョア層とがいる。このプチブルジョア層は、軍国主義精神を鼓吹されてファシストとなり、“反資本主義”・反社会主義体制の確立を志向して全世界の征服を目論んでいる。これらのあらゆる矛盾は必す爆発するであろう。極東の情勢は日本に大爆発をもたらし、中国の抵抗は予想以上に成功するであろう。」(本書二一六~七頁)

 毛沢東の“持久戦論”は抗日戦争の長期的な戦略構想として有名であるが、トロツキーの以上の展望はまさに中日戦争を軸とする極東情勢の革命的展望として大胆でありダイナミックである。トロツキーは、常にヨーロッパ革命の見地から個々のヨーロッパ諸国の情勢をとらえたが、ここではまさに全東アジア規模における統一的な戦争と革命の展望を基本的に提起している。トロツキーの半植民地国中国に対する基本的な認識は、本稿の<第三次中国革命の綱領と階級的性格>において引用している部分にみごとに要約されているが、天皇制下における旧日本帝国主義に関する歴史的要約として一九二三年の「破局にむかって突進する日本」(『追放された預言者、一九二九~一九四〇年』新潮社版収録)がある。
抗日戦争に関するトロツキー

 抗日戦争に対するトロツキーの立場についてわれわれが注目すべきなのは「戦争に関する決議について」であり、そこでは次のようにのべられている。

 「極左的考慮に動かされて蒋介石とミカドとの間で多かれ少なかれ“中立”の立場を守ろうとする若干の同志たちは、いまや、彼らによれば諸君たちによって提起されたという第二線の塹壕に後退しようとしている。
 「私は、この文書のどの部分にも、どの文章にも異議を唱えることはできない。どの主張をとってみてもそれ自身として正しいが、いろいろな部分の釣り合いはあまり現実的ではないように思われる。戦争は行なわれている。
 最初の問題だが、中国の同志とその他すべての人たちは、この戦争を自分の戦争だと認めているのか、それとも支配階級が自分に課した戦争としてこの戦争を拒否しているのかということである。極左主義者たちは、この基本的問題に答えることを避けようとしている。彼らは、蒋介石の過去と未来の犯罪を非難することから始める。これはニューヨーク(エーレル主義者)やブラッセルでは可能だが、中国、特に上海では不可能であり、全く教条主義的な方法である。
 われわれは蒋介石を労働者の死刑執行人としてよく知っている。しかし、この蒋介石はいまやわれわれの戦争である戦争を指導せざるをえない。この戦争では、われわれの同志たちは最良の闘士でなければならない。同志たちが蒋介石を政治的に批判する場合は、この批判は彼が戦争をやっているということではなく、彼がブルジョア階級に高い課税を行なわす、労働者・農民を十分に武装させないで、戦争を非効果的にやっているということに向けられねばならない。
 他の諸国の同志たちは、これまで中国支部の最も重要なスローガンが“日本に対して戦争を準備せよ”であったことをほとんど知らない。しかもこのスローガンは正しかった。いまや中国の同志たちは抗日戦争と軍事的準備の最も強力な主人公であったという大きな利点を持っている。彼らは同じ平面で政治活動を継続しなければならない。
 私はこの点では、まぎれもなく潜在的な社会愛国主義者である極左派に対して少しも譲歩できないと信じている。彼らは自らの“中立”の処女性を守るために“いっさいの戦争”を拒否してはばからないかぎりにおいては、消極的な国際主義者にとどまっているのである。しかし、事態が戦争と戦争の峻別を彼らに強制する時には、彼らは簡単に社会愛国主義の立場にすべり込む可能性がある。」(本書四一頁)

 トロツキーがここで批判しているのは、一九三七年に「第四インターナジョナルのための運動」国際書記局によって発表された決議に対してである。だが、卜ロツキーの以上の発言を念頭において、一九三八年九月の第四インターナジョナル創立国際会議において採択された決議である「極東における戦争と革命の展望」(『第四インターナジョナル』誌、一九七四年一月、第一一号)を綿密に検討するとき、この決議もまたやはり重大な問題をはらんでいるといわなければならない。
 「極東における戦争と革命の展望」の終わりの六つの項をみるとき、「特に中国において、ボリシェヴィキ・レーニン主義者は反日闘争に大胆に参加し、闘争の必要性と大衆の利益に合致したスローガンを各新局面においてかかげねばならない。こうした方法によって、彼らは大衆の信頼をかちとり、大衆を革命的行動をめざす自分自身の自立した組織へと動員することができる」(同上『第四インターナショナル』誌一五二頁)と指示しているが、全体としては困難な大衆運動の状況、そして後になってあらわれるであろう大きな可能性について客観的に述べるにとどまっている。以上に引用した実践への唯一の指示も極度に一般的である。かくして全体の基調は将来の可能性に対して待機的であり、そこから論理的に導ちびき出される直接的任務の性格は不可避的に宣伝的なものにならざるをえない。
 蒋介石のもとにおいて抗日戦争がどのような水準のものになっていたとしても、日本に対する戦争そのものに現に参加すること、――このことをトロツキーは中国のトロツキストたちに要求した。われわれはこのことが最も決定的であると考える。日本帝国主義の中国に対する全面的軍事侵略の開始以降、トロツキーは中国における情勢の中心環が戦争という情勢そのもの、そして何よりも中国の日本に対する戦争、すなわち抗日戦争にあると主張したし、だからまた中国人民の抗日戦争の遂行を直接的な中心任務として主張した。このときトロツキーは、抗日戦争の貫徹、そこにむけた中国人民の実践的動員を中心軸として全体としての第三次中国革命の勝利にいたる道を展望しようとしたのであり、中国東北部(満州)の解放、朝鮮人民の闘いの爆発、日本帝国主義の内部的危機の深化と日本労農人民の大衆的闘争の爆発を展望せんとしたのである。トロツキーが、中国人民の抗日戦争の貫徹をつうじて、中国、朝鮮、日本を結ぶ極東アソアにおける革命的情勢の発展とプロレタリアートの主導下におけるこの地域の各国的ならびに国際的な永久革命の勝利のために闘うことを主張したことは全く明らかである。
 抗日戦争の防衛と貫徹に関する以上のような主張が、トロツキーにおいて労働者国家ソ連邦の極東地域における防衛の課題と結びつけられて意識されていたこともまた明白である。事実、広大な日本軍占領地域における中国共産党指導下の抗日武装抵抗闘争の大衆的組織は、中国人民の抗日闘争の中心として、日本帝国主義を政治軍事的に牽制し、一九四一年独ソ戦において危機にたつ労働者国家ソ連邦を極東地域において助け、日本帝国主義をして米・英・蘭に対する自殺的な軍事的冒険(太平洋戦争)に追い込んでいったのであった。
 天皇制下の日本帝国主義は、ロシア十月革命に対する反革命的干渉戦争たるシベリア出兵以来、東部ソペリアとモンゴルに対する野望をすてたことは一度としてなかったし、中国東北部(満州)をおさえる日本帝国主義の関東軍は常にソ連邦シベリアとモンゴルに対する軍事的冒険を意図しつづけてきたのであった。そして、その最大のチャンスが、独ソ戦初期におけるナチス・ドイソ中央ヨーロッパ軍のレーニングラード、モスクワ、スターリングラードにむけた怒涛の進撃のときであったことはいうまでもない。だが、日本帝国主義は千載一遇のこのチャンスを利用することができなかった。このとき中国人民の抗日抵抗戦争は依然として日本帝国主義の兵力を中国にひきつけており、一九四一年、日本軍は共産党指導下の抗日抵抗戦争区に“三光戦争”として悪名たかい殲滅作戦を開始していたのであった。中国に対する短期戦勝という日本帝国主義の当初の思惑はくずれさり、中国の抵抗の持続は、一九四一年一二月、ついに日本帝国主義をして米・英・蘭に対する太平洋戦争という自己破滅的な軍事的冒険にかりたてていったのであった。

中国トロツキストの政治的敗北

 いずれにしても、「極東における戦争と革命の展望」は、現に展開されている戦争という情勢下において中国トロツキストが抗日戦争の最前線に参加していくための実践的な行動綱領について明白な指示をあたえていない。
 ところで毛沢東は一九三八年に有名な「抗日遊撃戦論」を発表していた。共産党は、大長征のうえで陜西省北部の根拠地を中心に自己独自の軍隊を再組織していたし(“八路軍”)、掲子江地域においても独自の軍事組織を再編成していた(“新四軍”)。中国共産党は、日本軍占領地域の農村部において抗日組織と自己の軍事組織を拡大していった。「八路軍の兵力は一九三七年七月の三万から一九三八年の一〇万六千に、そして一九四〇年には四〇万人に増大した。一方、新四軍も約一万人から始まって、一九三八年には二万五千人に達し、一九四〇年には二〇万の兵力に達した。」(ジェローム・チェン『毛沢東――毛と中国革命』筑摩書房、二二一頁)スターリンの人民戦線路線と全般的に合致する毛沢東・陳紹禹(王明)の中国共産党の蒋介石国民党に対する政治路線とは別に、中国共産党は、旧国民党の政治支配が日本軍によって解体されていった日本軍占領地域において農民層の自然発生的な抗日抵抗の運動に実践的な組織と指導を与えていった。たが中国トロツキストが現実にとったのは、これらの抗日抵抗闘争への実践的参加ではなく、都市における待機と宣伝の立場であったといわなければならない。
 蒋介石の国民党政府は、日本帝国主義の全面的な軍事侵略に対して一貫して軍事的受動の立場に終始し、アメリカ帝国主義の動きをみながら情勢を待機した。だが、中国共産党は、蒋介石の国民党によって放置された日本軍占領地域にはいり込み、その農村部において抗日抵抗闘争の組織を政治軍事的に発展させた。一九四五年の日本帝国主義崩壊後における真の勝利者の分岐は、まさに以上の立場と路線の根本的な相違のうちにあった。
 日本軍占領下の都市(主要には上海)において地下生活下にとじこめられていた中国トロツキストは、都市をも含くむ大衆的抗日闘争の新しい高揚という情勢を待機することによって、中国共産党指導下の第三次中国革命において完壁な政治的敗北を喫したのであった。すなわち、トロツキーの批判と抗日戦争に対する実践的参加の決定的な強調にもかかわらす、中国人民の抗日戦争においてその最先頭にたったのは毛沢東の中国共産党であったし、それゆえ第三次中国革命の政治的勝利もまた毛沢東とその指導下の中国共産党の手中に帰した。

トロツキストの誤り

 トロツキー死後、第三次中国革命におけるトロツキズムの決定的な政治的敗北の要因として、二つの主体的な過ち、致命的な欠陥を指摘しなければならない。それは、「極東における戦争と革命の展望」にもみることができる。
 (一)まず第一に決定的なのは、すでにトロツキー自身によって指摘されているように中国人民の抗日戦争に対する事実上の召還的な待機主義の態度である。すなわち、日本に対する中国の戦争に実践的に直接参加しようとするか、否かという問題である。
 (二)第二は、中国共産党の性格とその国民党に対する政治的関係の評価における誤りである。
 まず第二点から検討することにするが、「極東における戦争と革命の展望」は中国共産党について次のように述べている。
 「国民党と支配階級の犯罪を目前にして、スターリニストは自分たちの政治的自立性と革命的綱領を放棄し、恥すべき沈黙を守った。こうして彼は国民党がやってきたこれらの犯罪と裏切りの片棒をかつぐことになったのである。中国の革命家を狩りたてることにおいて、スターリニストはスペインとソ連における場合
と同様に反動の先導者の立場にたつ。」(前掲『第四インターナジョナル』誌一五〇頁)
 第四インターナジョナルの創立国際会議が承認したこの主張は、半分は正しく、他の半分において誤っていた。一九三七年から一九四〇年にかけた全抗日戦争期の現実に照してみるとき、以上の主張が、蒋介石の国民党政府に対する中国共産党の政治的独自性の可能性の評価において決定的な誤りを含んでいたことは、今日、まったく明白である。
 一九三六年一二月の西安事件(日本軍から追いたてられた中国東北部の軍閥張学良が、西安において蒋介石を監禁し、ブルジョア民族主義の立場から共産党を含む反日“統一戦線”を要求した。中国共産党もこれを支持し、蒋介石はその要求をうけいれる)をきっかけにして、厳密にブルジョア民族主義の枠内における第二次国共合作が成立し、中国共産党はプロレタリア的綱領の独自性を全面的に放棄し、地主の土地没収の政策を停止した。中国共産党の紅軍は、国民党政府下の“八路軍”と“新四軍”とされた。モスクワはまた、一九三七年末に子飼いの陳紹禹(王明}を延安におくり返した。スターリンの当時の国際路線たる反動的な人民戦線路線は、中国共産党によってその基本路線
として受けいれられたのである。だが、ここで見落してはならないのは、中国共産党が八路軍と新四軍において自己独自の組織的主導権を確保していたということであり、第二には日本軍占領地域において農村の反日抵抗運動を政治軍事的に組織していったことである。
 毛沢東もまた蒋介石との対立を徹底的に回避しつづけたが、一九三九年末以降、蒋介石は共産党に対する弾圧や攻撃を強めてゆき、一九四一年一月、新四軍一万名が蒋の軍隊によって撃滅された。だが新四軍は独自に再建され、中国共産党の国民党政府に対する独自性が強化されていった。また独ソ戦においてソ連邦が危機にたつ一九四一年から一九四二年にかけて、日本軍の徹底的な共産党攻撃という困難な条件のもとに中国共産党は第一次整風運動を展開し、モスクワ直系の勢力を党内から一掃し、毛沢東派としての中国民族共産主義体制を党体制として形成していった。かくして、一九四五年日本帝国主義敗北後の蒋介石の国民党軍と全国的に対決する基礎が客観的に形成されたのであった。
 次に第一の問題点にもどるが、この点において決定的に重要なのは、現実に展開されている実際の抗日戦争に対して、いかなる階級的幻想をもつことなく、それらの抗日戦争の力を具体的に積極的に評価し、現に存在している抗日戦争の勢力から出発して、その力の強化とプロレタリア的ヘゲモニーの形成を準備しようとする実践的態度を中国トロツキストがとらなかったということである。すなわち、中国共産党が綱領的な階級的独立性を放棄して、国民党とのあいだにブルジョア民族主義の立場からプロック政策をとったとしても、その八路軍と新四軍による現実の反日抵抗闘争の政治軍事的組織化に対してその進歩性と可能性を積極的に評価し、自らもまたその組織の大半を農村における現実の抗日抵抗闘争の実践的組織化にむけて動員し、中国共産党とのあいだに戦術的
行動協定をむすほうとする態度をこそとるべきだったのである。この意味においてわが中国トロツキストは占領区農村における中国共産党の運動に対して自己破滅的なセクト主義と最後通牒主義の態度をとったといわなければならない。中国共産党によって占領区農村において組織された抗日の政治軍事的運動に対する極度にセクト的な態度が、毛沢東派の中国共産党と蒋介石の国民党とのあいだの関係の性格に対する致命的な判断のあやまりに導いていったといわなければならない。
 もちろんわれわれは、現実の抗日戦争に対して以上のような実践的態度をとっていたならば、中国トロツキストが第三次中国革命において、その指導権とまではいわないまでも、それなりに強力な勢力として発展していただろうなとと幻想するわけではない。たとえトロツキストの闘士たちが占領区農村において抗日の活動に実践的に参加しても、中国共産党がこれを具体的に見い出したとき、トロツキストの闘士にスターリニスムヘの転向を迫るか、そうでなければ“粛清”していたであろうことも全く確実である。事実、一九四五年以降、ター・ツタオをはじめとするベトナムのトロツキストの多くがホーチミンの勢力によって肉体的に抹殺されたのであり、一九五一年サイゴンにおいてベトミンの組織と接触を試みた中国人の一同志もまた行方不明となったのである。
 トロツキーをはじめとする幾干・幾万の闘士たちをスターリニストのゲ・ぺ・ウによって殺害されたトロツキストたちが、スターリニストの党に対して恐怖感をもたざるをえなかったのも事実なのであった。だが、決定的に重要なのは綱領の実践的連続性と現実の闘いのなかでしかきずきえない真の政治的伝統であることも明白である。ただ
全力を傾注して現実の戦争に参加し、部分的であれこれを自ら組織しようとすることによってのみ、毛沢東のボナパルチスト的民族共産主義体制に対してプロレタリアートの国際主義的前衛を代表して政治的に闘いぬかれるべき歴史的連続性とそのために真の遣産が残されていたであろう。中国におけるトロツキズムの運動は毛沢東の第三次中国革命の勝利とともに政治的に崩壊してしまったのである。
 一九四九年中国共産党の全国制覇以降も、一定数のトロツキストの闘士たちが上海をはじめとするいくつかの地区にとどまり、中国共産党の権力下に活動をつづけたが、一九五二年二月にいっせいに逮捕され、中国内部における卜ロツキズムの運動は組織的に壊滅された。今日なお卜ロツキストが中国の獄舎につながれている。

第三次中国革命の勝利とアジアにおけるトロツキズム

 抗日戦争の組織を跳躍台とする第三次中国革命における中国共産党の圧倒的な勝利は、一九三一年以降とりわけ陳紹禹(玉明)、秦邦憲(博古)によって代表されたモスクワ直系を排し、党に対する自己の主導権を確立した毛沢東とその一派、すなわち中国の民族共産主義者たちの全面的な政治的勝利であった。かくしてまた、勝利した第三次中国革命と中国共産党に対するモスクワの官僚的統制力は決定的に崩壊したのである。
 同時にまた、第三次中国革命における民族共産主義としての毛沢東派の巨大な政治的勝利と中国トロツキズムの完壁な政治的敗北は、一九三〇年代以来のアジアとインド亜大陸における国際トロキズム運動(中国・ペトナム・イソド・セイロシ)を一九四〇年代後半から1960年代にかけてほぼ全面的に崩壊させてゆくことになったのである。アジアにおいて一九三〇年代末以降トロツキズムの運動が大衆運動のなかで一貫して連続しているのは、ただセイロシにおいてのみである。そして、このセイロシにおいても運動の中心部は社会民主主義的に堕落した。インドネシアにおいて、その独立後の階級闘争の発展を基礎に一九五〇年代中頃から一九六〇年代にかけてインドネシア共産党の系統から分離したトロツキズムの運動の発展(イブヌ・パルナを指導者とするアコマ党――この運動は日本における同時期の歴史的に類似したトロツキスム運動よりもはるかに進んだ性格をもっていた)があったが、一九六五年の反革命クーデターもあって自己を確
立することができなかった。一九五〇年代末以降の日本における政治的なトロツキズム運動の発生も、同じくアジアにおけるトロツキズム運動に対する政治的重圧から自由ではなかった。すなわち、一九五〇年代末から一九六〇年にかけた日本「新」左翼諸傾向の形成は、日本というその民族主義的壁を絶対にこえることができなかったし、それゆえ平和主義左翼の枠内においてしか成立しえなかったのである。アジアにおいてトロツキズムは、ペトナム人民がきりひらいた一九六〇年代末以降の新しい情勢において、自らの新しい政治的伝統の形成、アジアにおける真に国際主義的な土着のための闘いをまさに手さぐりのうちに再び開始しなければならなかったのである。

付記――この解説において、第三次中国革命と中国共産党の問題そのもの、またそこで提起される理論上の問題なとについて十分にたちいることができなかった。この点については別の機会にとりあげるだろう。

一九七四年六月三〇日
酒井 与七

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