官僚的ソビエト・テルミドールの“完成”

〔『トロツキー著作集 1938~39 下』1972年 解説より〕

酒井与七

目 次
一 レーニン主義の最後的清算
二 一国社会主義官僚体制の仕上げ
三 国際プロレタリアートの後退と敗北
四 第二次世界戦争と労働者国家ソ連邦
五 “非スターリン化”

 セルゲイ・キーロフの暗殺(一九三四年一月)をきっかけとしてはじまったスターリンの徹底的な反対派狩りと大規模な“粛清”は、三次にわたるモスクワ裁判と卜ハチェフスキーその他の赤軍最高将官グループに対する秘密裁判を頂点として、一九三六年から一九三九年初めにかけてソ連邦全土とその党ならびに全国家機関、コミンテルンの諸組織に対して大殺戮の嵐としてあれくるった。ゲ・ぺ・ウの暗殺組織は、ソ連邦の国境をこえてその手をのばした。かくして、ソ連邦内部における真正のボリシェヴィキ・レーニン主義者すなわちトロツキスト反対派は強制収容所内において肉体的に絶滅され、レーニン主義的ボリシェヴィキ党はスターリンのゲ・ぺ・ウによって最終的に解体され、ソ連邦の社会全体に対するスターリニスト特権官僚層のテロ支配体制が全面的にうちたてられた。
 スターリンとそのゲ・ぺ・ウによって組織されたテロの規模はすさまじいものであり、「一部の筋によると、軍だけでも全将校団の二五%にあたる二万人前後の将校が逮捕され、数千人が銃殺された。」(ドイッチャー『スターリン』みすず書房、下巻六七頁)このテロの嵐は、長年のスターリニストたちに対してもあれくるった。「ほとんど三年間にわたって、スターリンの鉄箒はたけり狂ったように政府、党のあらゆる部局を払い清めた。一九三六年に公職についていた多数の行政官のうち、三八年にもなお在職していたものはひと握りにも及ばなかった。(一九三六年に在職していた党州委員会書記のうち、一九三七年に再任命されたものは一人もいなかった。)度重なる粛清は、公的活動のあらゆる分野に数かぎりない欠員をもたらした。だが一方、一九三三年から一九三八年にいたる五年間に、約五〇万人の行政官、技師、経済活動家その他の知的職業にたずさわる人々が上級学校を卒業した。粛清のために欠員となった各部局を充した人々は、これらの新しいインテリゲンツィアであった。」「彼らはスターリンの支配に既得利益をもっていた。」(同書、六九頁)
 かくして、ソ連邦の全社会機構にわたる広範囲て深刻なゲ・ぺ・ウのテロと「大粛清」によって、スターリンの党機構と全国家機構が重大な政冶的変化をとげたことは明白である。
 三次にわたるモスクワ裁判と赤軍将官グループに対する秘密裁判をはじめとするスターリンのゲ・ぺ・ウの全国家的な政治的大殺戮は、党ならびに国家の全機構から可能性あるいっさいの反対派とその要素を暴力的に排除し、強制収容所内においてすら決定的に根絶しようとするものであった。それは、孤立した労働者国家における官僚的ソビエト・テルミドールの政治的、組織的な“完成”、すなわちスターリンを頂点とする官僚的専制支配体制の暴力的固定化を企図するものであり、農村の勤労大衆に対する新たな政治的同盟にもとづくソビエト労働者階級の反官僚政治革命に対する徹底的に反動的な予防的政治反革命であった。
 スターリンのモスクワ裁判と政治的大“粛清”について、以下のように政治的に特徴付けることができるだろう。

一 レーニン主義の最後的清算

 スターリンのモスクワ裁判は、レーニン主義の伝統の放棄、すなわち革命的プロレタリアートの立場と国際革命の展望の放棄を最終的に暴力的に主張し、ロシア・ボリシェヴィキ党を政治的にも組織的にも最終的に絶滅するものであった。
 ボリシェヴィキ党のレーニン=トロツキー時代における最も指導的な中心メンバーは、スターリンをのぞいてほとんどすべて“国家反逆者、裏切り者”として処刑された。モスクワ裁判の中心的なほこさきは、トロツキーとトロツキズムにあった。レーニン=トロツキー時代のボリシェヴィキ党指導部全体は“反社会主義”的な“破壊活動主義者の集団”であったし、ただ一人スターリンだけが“社会主義の擁護者”だったと主張された。
 こうしてモスクワ裁判は、マルクス主義とレーニン主義の理論的ならびに政治的な全伝統に決定的に反するスターリンの一国社会主義(つまり帝国主義との反動的な現状維持的共存)の立場を、労働者国家ソ連邦における特権官僚層の徹底的に保守的で反動的な民族主義的国家哲学としてゲ・ぺ・ウのテロの力をもって主張するものであった。官僚のこの反動的な民族主義的国家哲学にわずかでも反対をとなえようとするものはテロの力によって殲滅されるということがモスクワ裁判によって宣告された。スターリンの一国社会主義の理論と立場は『全ソ連邦共産党(ボリシェヴィキ)歴史小教程』において官僚の聖典としてその歴史のねつ造を完成し、ゲ・ぺ・ウの秘密警察組織がその守りについた。
 かくして、スターリニスト官僚は、革命的プロレタリアートの階級的立場、その永久的国際革命の展望と綱領に対して、彼らのテロをもって敵対することを明らかにした。ゲ・ペ・ウのテロ組織によって武装したスターリニスト官僚機構によるソビエト強制収容所内のボリシェヴィキ・レーニン主義者に対する肉体的絶滅、そしてスペインとフランスにおける人民戦線路線とゲ・ぺ・ウ組織をつうじたプロレタリアートの革命的闘争に対する全力をつくしたサボタージュと解体抑圧、トロツキーやセドフをはじめとする第四インターナショナルの闘士に対する国際的暗殺の組織は、彼らにとって連鎖した一つの“闘争”だったのである。

二 一国社会主義官僚体制の仕上げ

 三次にわたるモスクワ裁判と赤軍将官グループに対する秘密裁判を中心とするゲ・ぺ・ウの大“粛清”の嵐は、同時に、テルミドール派特権官僚層によって構成される党と国家の全組織に対してもまたテロにもとづく秘密警察支配と統制の体制を全面的に確立するものであった。すなわち、スターリンの政治局を頂点とする党ならびに国家の全官僚機構に対する大規模な“粛清”は、国有計画経済にもとづく国家それ自体に依拠して労働者階級ならびに農村の勤労大衆に対する支配層として君臨するボナパルチスト特権官僚層内部においても、スターリンとその一国社会主義という反動的な民族主義的国家哲学に対する無条件的な集中と順応をテロの力をもって確立せんとするものであった。
 すでに政治的に堕落し、民族主義的ボナパルチスト特権官僚層の機関と化していたソ連邦共産党において、一九〇五年の第一次ロシア革命以来、一九二〇年代にいたるボリシェヴィキ的過去やその政治的思い出と何らかのかたちで政治的・組織的にむすびついている一切の要素を最大限に清算しなければならなかった。スターリンを頂点とする官僚の指導と統制の体系や一国社会主義という官僚の民族主義的国家哲学にほんのちょっとでも不信や疑惑をいだく(あるいは、そうなるかもしれない)一切の要素、また特権的官僚層の専制的ボナパルチスト支配に対する労働者大衆ならびに農村勤労大衆の不信と不満やゲ・ぺ・ウの恐怖支配そのものに対して動揺的ないっさいの要素――これらすべてが、党と国家の機構を現実に構成する官僚層内部において“絶滅”され、徹底的に抑圧されなけれはならなかった。
 レーニンの政治活動が断絶して以降、ボリシェヴィキ党の意識的に表現されたプロレタリア派は、一九二三年から一九二七~二八年にかけた党内闘争の後、党から決定的に排除された(一九二七年一二月、第一五回大会はトロツキー、ジノヴィエフの除名を確認し、さらにカーメネフ以下数十名の指導的反対派メンバーを除名。一九二八年ジノヴィエフ、カーメネフの屈服、一九二九年一月トロツキーの国外追放)。この間、党と国家において官僚と小ブルジョア勢力の圧力が一貫して増大し、プロレタリア的勢力とその政治的圧力は後退に後退をかさねていった。一九二九年にはじまる強行的超重工業化と強制的農業集団化をつうじて、スターリン派官僚はソ連邦経済の小ブルジョア的発展のコースを防衛するブハーリン派を追放したが、同時にスターリン派の主導のもとで一国社会主義官僚による労働者階級と農村の勤労大衆に対するボナパルチスト専制支配がつくられていった。かくして、一九三六年から一九三九年にかけてソ連邦の党と国家の全機構に対してあれくるった大“粛清”と政治的大殺戮の嵐は、直接にはボナパルチスト特権官僚層全体に対してスターリンを頭目とする一国社会主義“哲学”の恐怖支配と統制を決定的に確立するものであった。
 だが、このことは、官僚体制としてソビエト・テルミドールを確立することによって、労働者国家ソ連邦における労働者階級と農村の勤労大衆に対する官僚のボナパルチスト専制支配体制に最後の仕上けをほどこすものであった。また、それゆえにこそ、革命的プロレタリアートの階級的立場とその永久的国際革命の発展ならびに綱領に対して、スターリンのゲ・ペ・ウはねつ造とテロをもって同時におそいかかったのである。「この恥すべき芝居の目的は、反対派を根こそぎにし、批判精神の根源を絶ち、スターリンの全体主義体制を最終的に安座させること」だったのである(トロツキー「私は私の生命を賭ける!」、現代思潮社版『裏切られた革命』三〇三頁)。

三 国際プロレタリアートの後退と敗北

 三次にわたるモスクワ裁判と赤軍将官グループに対する秘密裁判、そしてソ連邦の党と全国家機構に対する大“粛清”は、ソビエト・プロレタリアートとプロレタリア世界革命にとって巨大な打撃であり、その重大な後退と敗北であった。
 まず第一に、スターリンのこの大“粛清”は、労働者国家ソ連邦の国有計画経済に巨大な損失をもたらし、赤軍の将校団に深刻な打撃を与えることによって赤軍の戦意と指導能力に深刻な危機をもたらした(事実、労働者国家ソ連邦は、独ソ戦において、決定的に弱められた軍事的指導能力をもってナチスの反革命的侵略をむかえなければならなかったし、緒戦の段階において深刻な敗北と後退を余儀なくされた)。また、モスクワ裁判と大“粛清”は、ソビエト大衆とヨーロッパを中心とする国際プロレタリアートの労働者国家ソ連邦への政治的結集にとって新たな打撃となった。
 かくして、スターリンを頭目とするボナパルチスト官僚体制の“一枚岩”的確立の企図が労働者国家としてのソ連邦の経済的、軍事的、国際的利益を直接に犠牲にして遂行された決定的に反革命的なものであることは完全にあきらかである。トロツキーは、スターリンを中心とするボナパルチスト専制官僚体制の存在そのものが、労働者国家ソ連邦の危機を不断にふかめ、帝国主義の反革命からソ連邦を防衛することを妨げる決定的な要因として明白になったと主張した。
 第二に、このゲ・ぺ・ウのねつ造裁判と大“粛清”は、プロレタリア革命のための闘争が現実に展開されていたスペインならびにフランスにおけるクレムリン官僚の裏切り的な人民戦線路線の採用と一体であった。ソ連邦内部におけるボリシェヴィキ・レーニン主義者の絶滅と一国社会主義にもとづく民族主義的ボナパルチスト官僚専制体制の仕上げのための大“粛清”は、ソ連邦の国境の外においてはプロレタリアートの国際的社会主義革命のための闘争を徹底的にサボタージュし抑制する路線として貫徹されねばならなかった。
 また、スターリンのねつ造裁判と大“粛清”の嵐そのものが、ヨーロッパ・プロレタリアートの社会主義革命にむけた統一の可能性に対して政治的に打撃となり、帝国主義とその社会民主主義に補足的な力を与え、人民戦線とその結果としてのプロレタリア革命の流産を促進したことも明白である。ゲ・ぺ・ウの大“粛清”かつくりだした労働者国家ソ連邦の政治的麻痺の状態は、ナチス・ドイツのヨーロッパにおける軍事的再武装とその冒険的反革命膨脹を大いに助けるものであった。それはまた、東アジアにおいて旧日本帝国主義の中国に対する革命的軍事冒険を力づけたことは明らかである。

四 第二次世界戦争と労働者国家ソ連邦

 かくして、大“粛清”による労働者国家ソ連邦の政治・軍事・経済的弱体化、フランスとスペインにおけるプロレタリア革命の流産と決定的敗北、反革命的ドイツ帝国主義の強化と東アジアにおける旧日本帝国主義の軍事的膨脹、ソ連邦とヨーロッパにおけるスターリンの一国社会主義テルミドール官僚のプロレタリアートに対する力の強化という圧倒的に困難な政治的力関係のもとで、ヨーロッパ・プロレタリアートと全世界の被抑圧人民は、一九三九~四一年にかけて全開してゆく第二次帝国主義戦争の情勢をむかえねばならなかった。すなわち、以上がまた、第二次帝国主義戦争をむかえる時点において第四インターナンョナルが直面しなければならない困難な国際的政治情勢だったのである。
 第二次世界戦争の結果、労働者国家ソ連邦は、スターリンの一国社会主義テルミドール官僚の指導(あるいは非指導)にもかかわらず、ヨーロッパ戦線におけるナチス・ドイツに対する勝利者となることができた。それはまた、一九五〇年代をつうじて史上最大最強の帝国主義アメリカ合衆国に対抗する強大な軍事・経済的国家へと発展した。
 第二次世界戦争において、その民族主義的テルミドール官僚体制にもかかわらず、労働者国家ソ連邦を反革命から救いだし、勝利者へと導いた基本的要因は、主体的には国有計画経済にもとづく労働者国家としての資本主義に対する社会経済的優位性であり、また客観的にはアメリカ合衆国を一方の極としドイツならびに日本を他方の極とする帝国主義それ自体の内部分裂とその政治的危機の深さにあった。そして、一九四○年代末から一九五〇年代にかけて労働者国家ソ連邦をアメリカ帝国主義の包囲から防衛した力は、一九四九年に勝利した中国革命であり、西ヨーロッパにおける帝国主義の危機の深さとそのプロレタリアートの抵抗闘争であった。

五 “非スターリン化”

 一九四〇年代から一九五〇年代にかけた全世界人民の最大の歴史的勝利は、中国革命とその新しい労働者国家の成立であった。だが、新しい労働者国家の中国は、東アジアにおけるアメリカ帝国主義の反革命的重圧との対決において、自己の広大な農民大衆とソ連邦に頼らなければならなかったし、西ヨーロッパのプロレタリアートならびにアジアにおける永久革命の発展に依拠しえなかった。それゆえ、西ヨーロッパのプロレタリアートがその社会主義革命の勝利まで闘いえなかったがぎりにおいて、新しい労働者国家中国は、その巨大な世界史的勝利にもかかわらず、ソ連邦における一国社会主義的テルミドール官僚を国際的に克服する位置につきえなかった。
 にもかかわらず、とりわけ中国革命の勝利によって、一九四〇年代から一九五〇年代にかけて労働者国家ソ連邦にとってかつてなく有利な国際的力関係がもたらされた。だが、その力関係がもたらしたものは、フルシチョフによって主導された“非スターリン化”――すなわちソ連邦の一国社会主義的テルミドール官僚層内部におけるゲ・ぺ・ウの“恐怖”政治の排除――にとどまり、この民族主義的ボナパルチスト官僚専制体制そのものの政治革命による打倒までは進みえなかった。しかし、ゲ・ぺ・ウによる官僚の“恐怖”政治の排除は、労働者階級の政治革命の闘いにとって基本的に有利な力関係の進展を意味するものであった。事実、テルミドール官僚体制のもとで労働者国家ソ連邦が覇権を拡大した東ヨーロッパ諸国において、一九五〇年代から一九六〇年代にかけて政治革命の課題が実践的に提起されたし、ソ連邦内部においても労働者ならびに農村における勤労大衆の独自的な大衆闘争がふたたび発展しはじめ、官僚層内部における新たな政治的分化が進行しはじめた。

(一九七三年六月四日 酒井与七)

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