日本共産主義運動の特質 富士亜紀[中村丈夫](1975年?)

中村丈夫

三つの視点

 「共産党」を名のる労働者党の社会民主主義的変質、それを超えようとする「革命的」諸セクト=新左翼の自壊的挫折をあわせての日本共産主義運動の特質を主体的にとらえかえそうとする場合、つぎの視点を重視する必要があろう。
(一) 国際的には、民族国家主義、党(官僚)独裁、決定論的形而上学等々、マルクス・レーニン主義からの完全な背教にほかならないスターリン主義の圧力。
(二) 一国的には、「不連続の連続」たる戦前・戦後をつうじての独特の民族国家的統合力=日本ナショナリズムの浸透下に伝統化された「民権論=国権論」およひ集合体帰属の革命思想構造の拘束。
(三) 現状的には、俗流社会学的に「大衆社会」―「脱工業化社会」―「情報社会」などと呼ばれている日本社会はじまって以来のブルジョア市民社会の爛熟への対応。
 これらの視点から日本共産主義運動を歴史的に分析するということは、たんに党=綱領として反スターリン主義=新生レーニン主義、反民族国家主義=プロレタリア社会主義革命、反市民社会=労働者権力の立場を確立することにとどまるものではない。その作業は、この理論的立場を現実に物質的に保障する主体、党=機構を建設しうる組織の思想と科学をきずきあげることによって、はじめて実効性をもつ。

スターリン主義の下で

 国際スターリン主義の圧力は、コミンテルン―コミンフォルム期の外圧のみならず、主体の危機にさいしてとくに発現するスターリン的組織運営の内圧的衝動に顕著であるが、まず前者の「世界党」的指令がおよぼした惨憺たる影響を若干みてみよう。
 周知のように日本共産党は、一九六一年第八回大会決定の「人民の民主主義革命」―「民族民主統一戦線」綱領にいたるまでの三九年間、自製の綱領をもちうる理論的・実践的水準になかった。この党がとにかくも活動を開始したとき(一九二六年再建)、すでに国際共産主義運動はスターリン主義に深く汚染されており、コミンテルンの「援助」の主眼は、世界革命戦略の推進にではなく、「世界プロレタリアートの祖国」ソ連国家の防衛にあった。それでもブハーリン指導下に党指導部を参加させて作成された二七年テーゼは、革命戦略の奇妙な二元論的混乱のもとではあっても、山川イズム=合法主義と福本イズム=セクト主義を批判して、大衆のなかへの党活動の系統的展開を推進した。
 二元論的戦略とは、二段革命論(「日本のブルジョア民主主義革命は極めて急速度に社会主義革命に転化するであろう」―「天皇制」=ツァーリズムのロシア革命モデルの類推)と、ブルジョアジー権力主体論(「現代日本は資本家と大地主とのブロック、しかも覇権が資本家に属するブロックによって支配せられている」―ブハーリン流の「国家資本主義トラスト論」の適用)との二律背反的共存をいう(ちなみに、二七年以降の「正統派」・「労農派」の戦略論争、ひいては戦後の日共・社会主義協会のそれ――じつは両者の双生児的共通体質はここに由来する)。この矛盾は、党―労働組合の「伝導ベルト」論や統一戦線戦術の反レーニン的「下からの大衆奪取」的解釈などのスターリン・ブハーリン的組織戦術によって相乗され、肝心の山川イズム、福本イズム克服の思想的根拠を提供しえなくさせた。その結果、山川氏の方向転換論―協同戦線党論にひそむ反資本主義の大衆的政治行動への志向や、福本氏のルカーチ、コルシュ直訳的ではあっても哲学―戦略―組織にわたるマルクス主義の体系構築への志向は国際権威主義的に黙殺され、今日にいたるまで両イズムの最悪面のみが実践―理論の乖離下に反覆再出することになる。しかし、二七年テーゼは、その比重が実質的には大衆的労働者闘争にもとづく特殊日本的ブルジョアジー独裁(「天皇制」帝国主義)との対決にかけられており、大正デモクラシーから軍部ファシズムヘの移行期の情勢を比較的素直に反映している点で、この年、毛沢東が井崗山に根拠地を求めたような自立的な革命構想力が日本の主体にあれば、自製綱領へのたたき台たりうる一定の科学的水準になお立っていたと言えよう。

三二年テーゼ

 問題の三二年テーゼは、一九二九年来の世界大恐慌下の労資対立の激化、中国侵略の全面開始の危機的情勢を背景に、プロフィンテルンやコミンテルン東洋部内部の非スターリン派が作成した日本プロレタリア革命の方針=三一年テーゼ草案にたいするトロツキー主義呼ばわりの頭ごなしの抹殺のかたちでつきつけられた。三一年草案は、階級闘争を不断に民族闘争に転化させる日本独特のブルジョア民族国家装置―「天皇制」の本質的解明に成功しておらず、二段革命対一段革命という二八年コミンテルン綱領の形而上学的革命類型論と『帝国主義論』の基本命題の枠内でしかとらえていないとしても、プロレタリアート独裁(「ブルジョア民主主義的任務を広範におびるプロレタリア革命」)を正面にかかげ、「金融資本覇権の確立、国家機関のファシズム化の条件下における経済闘争の拡大」、左翼組合=全協の大衆的再建と右翼組合内の革命的反対派活動の政治的重要性を強調した。もちろん草案は社会民主主義=社会ファシズムの定式に被われ、反ファシズム統一労働者戦線結成への道を閉していたが、自然成長的労働者闘争への献身と指導をつうじて、二七年以来の「テーゼ論争」の実践的不毛に断を下すきっかけを含んでいた。スターリン・クーシネンの手になる三二年テーゼは、この程度の「左翼日和見主義」をも断罪し、「軍事的警察的天皇制」―絶対主義にたいする「社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命」を強要したのである。
 三二年テーゼは、反ファシズム闘争の放棄と反ソ十字軍戦争の危険にたいする玉砕的決起を指令した。「天皇制にたいする大衆の闘争をただ表面上迫りつつあるファシスト・クーデターの危険にたいする闘争の軌道に導きいれることは特に危険であろう。日本に存在する絶対主義支配は、ブルジョアジーおよび地主の勤労者にたいする独裁の形態としてその抑圧的なる点において他の資本主義諸国におけるフアシズムにけっして劣るものでないという決定的な根本事実は、ある程度の歴史的特異性によって抹殺しさられてはならない。」そして「現在のごとき革命前の時期にあっては、右翼日和見主義が党内における主要な危険である。」理論的には資本主義―帝国主義と国家との関係、階級抑圧と他民族侵略との関係についての無知、実践的には反絶対主義――それは反資本主義放棄のアリバイ、免罪符となる――の呼号以外は無為のこの指令は、ファシズム期の幾多の貴重なプロレタリアート・人民の大衆的実践の無視のうえに、ただ日本共産主義運動の反専制的=民主主義郷愁的な小ブルジョア的体質の晶化と「天皇制」=絶対主義を定式化した「講座派」理論の固化を残したにとどまる。その後「だいたい一九三四年ごろから……単一の中央から真の指導活動を及ぼそうと考えるのが不可能になり、背理にさえなった」(トリアッティ)情勢のもとで、コミンテルンはディミトロフ・トリアッティの主導で脱社会主義的人民戦線戦術に転換、スターリンもソ連防衛の有効性をみてそれを承認する(一九三五年第七回大会)が、「日本共産党統一のために」(三五年)の社会大衆党との統一戦線、「日本の共産主義者への手紙」(三六年)の「民主主義日本の樹立」「人民憲法会議の開設」の反軍部人民戦線の指令は、反社会主義革命的三二年テーゼに接ぎ木して――こんどは「天皇制」との闘争を正面からかかげず――闘争を一般民主主義の枠内に拘制しようとするものであった。そのころ、社会大衆党が陸軍省国防パンフに賛成し、日中戦争を「日本民族の聖戦」と賛美し、東方会との合同を企図して、文字どおりの「社会ファシスト」の本性をしめし、合法マルクス主義者たる労農派=日本無産党のみが「人民戦線派」として弾圧され、共産党には「天皇制」に叩頭して反資本主義を許容してもらう転向者が続出していたのは、歴史の皮肉である。

革命党の残骸

 ほとんど実践されえなかったがゆえにかえって聖化されたスターリン主義の綱領、三二年テーゼは「平和と民主主義」の追求に安住する戦後の合法日本共産党の戦略的思考をなお強く軌道づけつづける。米・英・ソ「民主連合」に体制化した国際人民戦線のもとで、共産党はしばらくは「天皇制」打倒に熱中していた(ただし敗戦から二・一ゼネスト不発にいたる革命的危機への介入は合法主義的に回避しての宣伝戦として)が、敗戦帝国主義が東西体制間対抗(対ソ冷戦・中国革命封じこめ)といわゆる大衆民主主義(平和憲法、労働組合主義、自作農主義、民主教育など)の最大限の利用をつうじて、ブルジョアジー独裁の国家再編成を進行させるや、「絶対主義的天皇制からブルジョア君主制への変質」下に「民主主義的変革を徹底する」ための主敵対象をみいださなくてはならなくなった。それは、なん人の眼にもみえるアメリカ帝国主義の世界一元支配の一般的認識とスターリン主義=ソ連崇拝とを重ねあわせ、反帝=反封建のコミンテルン植民地・従属国テーゼに上乗せして、二段革命論的に左翼ナショナリズムの戦略として設定された。すなわち、「日本の完全独立」―「民主民族戦線」の行動綱領(一九四七年第六回大会)。
 だが、日常闘争にそれなりの戦闘性を発揮し、産別会議を伝導ベルト下におき、中道左派内閣に失敗した社会党の票を奪って議会にも進出した共産党は、帝国主義諸国家間の対立――戦争の不可避性にまでいたるべき(スターリン『社会主義の経済的諸問題』)――に依拠して冷戦均衡を突破しようとするスターリン主義世界戦略の「きびしさ」に直面しなくてはならなかった。朝鮮戦争を目前にして一九五〇年一月、コミンフォルム機関紙は高飛車に「植民地収奪者的軍国主導者的」アメリカ帝国主義からの「独立」のための「決定的闘争」を強要し、平和・民主主義的野坂理論を帝国主義美化論として攻撃した。ただし、体制間矛盾より米日間(および米独間)の矛盾が「実際には」激しい(スターリン)―ソ連が核兵器を保有した以上は、ということであろう―ことを期待して、野坂氏の理論は「反愛国的な理論であり反日本的な理論である」との立場から。つづいて、おそらくは遭遇戦であったろう朝鮮戦争が中国人民義勇軍の出動によってかろうじて収拾され、休戦会談が開始された直後の五一年八月、武装闘争による「民族解放民主革命」の「新綱領」が追い討ちされた。共産党は非公然下に民族主義的主流派と「国際派」(のち大半は少なくとも同程度に民族主義的であることをばくろした)とに分裂し、前者は五三年四月サンフランシスコ単独講和条約が発効してから軍事闘争に入ったが、それは山岳ゲリラ根拠地工作と大衆的政治デモ便乗に尽きる戯画的挿話でしかなかった。冒険主義的スターリン戦略の挫折は東アジア共産主義運動の指導権を中国共産党に譲渡させ(五三年八月中ソ首脳会談以降?)、その推進によって五五年七月、主流派の統一破壊と「極左冒険主義」の自己批判にもとづく満身創痍の共産党の合同と合法化―六全協がもたらされた。それはもはや、事の如何を問わず朝鮮侵略の最大基地で機を失せず国際主義的義務として全力遂行すべきだった革命的軍事闘争をすら、プレハーノフ以下的な清算主義の次元で総括することしかできず、保守合同、左右両社合同に対応して、独占資本主義の高成長・強蓄積に議会主義的、組合主義的に追随するにすぎない、かつての革命党の残骸であった。たとえば、ほとんどの拠点経営に張りめぐらされていた細胞はレッド・パージによって一掃され、職業革命家にひきぬかれた多数の精鋭労働者は、「極左」行動自体よりも、それを総括しえない官僚的党指導部に反発して空しく市民社会に復帰した。
 一九五六年ソ連での「スターリン批判」の波紋は、党指導部からは、家父長的個人指導の弊は六全協で処理ずみと黙殺された。

ジャコビニズムの死

 内容のみならず形式まで中国共産党を模倣した日本共産党の一九五八年第七回大会提出の「党章」草案(不採択)、はじめての自製と称する六一年第八回大会採択の「反帝反独占」「人民の民主主義革命」綱領については、もはや述べるまでもないであろう。「高度な資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」での民主主義革命とは、「天皇制」の「象徴」化、独占資本の一元支配、地主制の解体などの変化――それでも民主主義革命の任務は達成されていない由――を逐次とりこみつつ、思想原型たる三二年テーゼの絶対主義の位置にアメリカ帝国主義を置きかえた、執拗なまでの二段革命的妄執である。アメリカ帝国主義と日本独占資本――軍国主義ではあるが帝国主義ではない由――との「二つの敵」との闘争とは、一つの敵ともたたかわない擬態であり、なんとしてでも反日本資本主義・反日本帝国主義国家の闘争を回避しようとするアリバイ工作である。まことに、「天が下に新しいものなし」である。
 この共産党が一九六〇年代に、ソ連の平和共存路線からも中国の反米戦争路線からも離れて「自主独立」を唱え、三〇万人にまで何「倍増」かし、市民社会の構成部分にまでのし上ったことは、三二年テーゼ以来のスターリン主義の呪縛からの解放を意味しはしない。日本共産党は、同党なりに、本場のスターリン主義の外圧にひきまわされたことを総括し、断乎として日本ナショナリズムと日本官僚制のうちに安住の地を求めたにすぎない。それは、スターリン主義の美事なビルト・インであり、構造化であり、まさに日本スターリン主義の完成である。
 ただし、「共産党」を名のる労働者党は、戦前とにかくも「天皇制」と対決し、戦後とにかくもアメリカ帝国主義と対決した革命的な情念ないしはエランを、日本帝国主義との相互補完的パートナーの地位をかちとる代償として喪失した。問題の主要側面は、スターリン主義の外圧にあるというよりも、それを受容し内圧化せずんばやまない同党伝来の革命思想構造にあると考えねばなるまい。一口に「ナロードニズム・マイナス・ジャコビニズム」とでも性格づけうべき同党の体質変化の歴史的過程を次にたどってみよう。

たどりついた宮本式民主主義

 国際スターリン主義の圧力下にパラノイア化した――とくに三二年テーゼの聖化このかた――日本共産党の二段革命的=反プロレタリア革命的な思想構造については、同党代表者の口から改めて確認してもらっておこう。時点はやや古い(『世界』七二年八月号、宮本顕治氏へのインタヴュー)が、昨今の同党内は、千人もの大会代議員に反対意見が皆無だったことを「派閥もないし、党内の基本路線上の対立もないという現状の反映」と誇示できるほど、「無葛藤理論」化ないし無理論化しているのだから、この率直な綱領的思想の表明は、鮮度を失っていないとみてよい。
「編集部=……いわゆる二段階革命論は、その当時から今日まで基本的な考え方として一貫されているといえるわけですか。
 宮本=そうです。政治的な自由をほとんど失っている状況のなかでは、まず民主革命をやり、その民主革命から社会主義革命へという発展的な革命の展望といいますか、或は、民主革命を社会主義革命へ転化するという方向、これは一貫した方向でした。私は、この五〇年の経過を見て、このことは当時としては非常な卓見であったし、社会科学的にみて正しかったと思います。」
 新左翼抑圧を警察に督促し、経済統制強化を国家に要請しうるほど政治的自由を満喫している状況ではどうか? やはり一貫してまず民主革命。「反帝反独占」の形容詞はかつての「反天皇制」や「反帝反封建」のそれと同様、ついに枕詞に終わり、民主革命=「民主連合政府」=議会多数派に収斂される。
 「代議制度は、人類の生んだ大きな知恵です。……本来、共産党の立場は徹底的な政治的民主主義を主張するというものであって、封建制度と違った新しい代議制度という形態は、さらに発展させるべき形態であって、けっして廃棄する形態ではないということですね。」
 せめて、民主革命論の最後の根拠たるべき残存天皇制については?
 「現在の天皇制は昔の絶対主義的な天皇制とは変って、ブルジョア的な天皇制として一種の役割を果たしていると思います。」それは「政治的民主主義に反する」から廃止すべきだが、「国民の常識としてもそういうものが廃止されても違和感がない、自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましいと思います。」
 かつて、五四歳で地下活動に入り、三二年テーゼを翻訳した河上肇博士は、宗教的人道主義から社会民主主義へ、そしてマルクス・レーニン主義への求道の感懐をつぎの一首に托した。「たどりつきふりかへりみればやまかはをこえてはこえてきつるものかな。」
 観念的ではあるがマルクス・レーニン主義の出発点=ブロレタリアート独裁・自国帝国主義敗北から宮本式民主主義=「人民的議会主義」・「独立・民主・平和・中立の日本」への共産党の退行過程をふりかえるとき、逆の意味での同じ感懐を抱くとともに、日本の革命思想の「民権論―国権論」的伝統の深さに驚嘆せざるをえない。本来、共産党の立場は搾取・抑圧・疎外を廃絶する徹底的な社会革命――それは社会的民主主義ないし社会主義的民主主義と呼べる側面をもつ――を主張するものであって、そのためにこそ国家権力の奪取・プロレタリアートの独裁を実現するのであることは、言うまでもなかろう。

ジャコビニズムの思想構造

 周知のように、日本のプロレタリア革命運動は、最初から労働運動と社会主義との不結合を特徴としていた。明治社会主義の二大巨星、幸徳秋水と片山潜の場合、前者の民権左派→社会民主主義(第ニインター左派)→直接行動主義は、その革命性において、後者の職能別組合主義→社会民主主義(第ニインター中央派)→議会万能主義を圧倒していた。幸徳の反国家思想は、明治一〇年代の自由民権運動が群馬・秩父・飯田事件などのジャコバン的困民民権蜂起を見殺しに帝国憲法体制下に国権論に吸収統合されたのを超えて、民権左派の革命的民主主義を反戦→反帝を媒介に発展させたものであった。民権左派イデオロギーの頂点とされる植木枝盛の革命権・抵抗権論(「政府威力ヲ以テ檀恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得」)はなお「国権鞏固ならざればすなわち民権もまた安きこと能わざるなり」という情勢認識に制約され、「無上政法」(国際公法)・「万国共議政府」(世界連邦)のもとで「国家の解廃を速かならしむる」夢想にとどまらざるをえなかったが、幸徳はマルクス主義に触発されて、労働運動との結合の機会を得なかったとしても、いわば絶対自由主義・絶対平和主義を鋭い社会変革の思想に仕上げることができた。その反天皇制―反立憲制の視座は、労働組合期成会から東京市電ストにいたるまで明治期労働運動に密着していた片山がついに改良主義・合法主義を脱することができず、第一次大戦にいたるまでは天皇制のもとでの議会をつうじての社会主義実現をめざす(「我が帝国憲法は議会政策の実行に向っては完全無欠である」)立場にあったのと対照的である。在米の片山がレーニン主義者となるのはロシア革命後、一九一九年といわれる。
 プロレタリア革命思想が労働運動の大衆的基盤との接点を欠いたこの不幸なくいちがいを、後年、片山は「インテレクチュアリズム」(インテリ的偏向の意)と批判し、幸徳が「無政府共産主義」に偏したことから、「社会革命の理解の点では片山が数等上である」との評価がこんにちでも支配的なようだ。だが、レーニン主義は、政治的には、「二〇世紀のジャコピニズム」の労働者権力の形成を軸とする貫徹を原点としていることを考えれば、そのような次元での継承は非歴史主義的であろう。
 むしろ、このくいちがいは、第一次大戦を契機とする労働運動の本格的高揚のなかでもくりかえされたことが重視されなくてはならない。労働組合期成会の再版である友愛会以降の運動の自然成長的発展に革命的階級意識を外注したのは、まさに幸徳系である。さらに言えば、そのうち運動により密着したのは、ロシア革命をプロレタリアート独裁とうけとめ、大衆的政治行動をめざして「ボルシェヴィズム」を知的に主導した山川均よりも、独特なアナルコサンジカリズムに依って労働者階級内部での「革命の日常化」につとめた大杉栄であった。「アナ・ボル論争」は、日本的=年功序列的労資関係・企業組合への生産関係の独占資本主義的再編成につれて「ボル」の勝利(労働組合同盟にたいする総同盟の勝利)に帰してゆくが、その「ボル」たる総同盟内部では改良主義的右派が優越した。総同盟第一次分裂以降、左派-評議会-全協の革命性は、共同印刷、日本楽器など大工場ストを指導しえた初期を別として、少数精鋭、直接行動などサンジカリズム的ラジカリズムにつらぬかれたことを思うと、勝利したのはじつは本質的には「アナ」であったかもしれない。
 日本共産党創設以降の赤色労組主義―多数派への転化の回路なきセクト的少数派の悲劇的運命、すなわち一貫した理論と実践との不結合・背離は、なにもコミンテルン・プロフィンテルンのスターリン主義的指導の誤りによるだけではない。また、一九二二年結党―二四年解党―二六年再建の過程での、さらには労農党―共産党の二重組織下での組織論――とくに党理論――の貧困や、「インテリ中心の党」という体質的欠陥をうんぬんするだけで、この不結合を解明しうるものでもない。
 両大戦間の時期に国際スターリン主義の圧力に抵抗し、それを克服しかけた党もあったのである。解党は論外としても一九一八―二三年の世界的な革命的動乱期における社会民主主義からの分離とそれとの統一戦線の形態は各国の具体的条件によって多様でありえたし、とくに日本のような苛烈な条件では合非の結合の形態には特殊な配慮も必要であった。また社会主義的に後進的な国で同化された伝統的知識人がしばし運動の先頭に立つことは当然であり、げんに日本労働運動は彼らの影響下に、多くの日本的社会民主主義者――のち文字どおりの社会ファシストに移行する――とならんで、一定の有機的知識人=運動幹部をうみだしていた。問題は、もはや民権左派ゆずりの「露国虚無党の例にならう」革命的民主主義の延長上には期待できないプロレタリア社会主義革命の思想を日本の土壌から創造する主体的努力であったろう。ロシアでならナロードニズム、とくに左翼エスエルとして結晶しえた革命的民主主義の運動と運動主体は、後発日本では、とくに口シア革命の光茫のもとでは、科学的社会主義としてのマルクス主義の装備を着用して登場した。幸徳―大杉はまだアナキズムを提唱していたが、渡り職工的熟練工の解体はその自立性を「前向きに奪回しようとする思想」(熊沢誠氏)としての理論的サンジカリズムに終止符を打った。反天皇制帝国主義のジャコビニズムの噴出がいまやほぼマルクス主義の外観をまとい、しかも天皇制国家=ブルジョア民族国家であるがゆえに、それがつねに民権論→国権論の伝統的な水路に回帰しうるという思想構造を自覚的に破砕しえなかったところに、日本共産党の総体としての限界があったと言えよう。
 そのジャコビニズムはもろかった(スパイの系統的侵入や大量転向)。しかし、共産党は、戦後、かつての鮮烈なジャコビニズムを想起しては面を俯せなくてはならなくなる。

ブルジョア的人権プラス民族主権

 猿がラッキョウの皮をむくかのように、戦後「平和と民主主義」期の合法共産党がそのジャコバン的革命性を逐次剥ぎとっていった過程については詳述しない。本来、世界的な資本主義の搾取・抑圧・疎外にたいしては憤らず、もっぱら一国的にブルジョア的基本人権と民族主権の侵害に対して憤る小ブルジョア的民主主義的革命性は、「米占領軍―解放軍」規定や「天皇制打倒の人民戦線」(徳田・志賀)とか、「占領下の平和革命の可能性」(野坂)の再出発点からしてつまずかざるをえなかった。この革命性が、中国革命―米帝アジア戦略転換を機に左翼ナショナリスト的によみがえり、朝鮮戦争と非合法化のもとでの「民族独立行動隊、前へ前へ進メ」の雄叫びを頂点として、六全協後凋落してゆく経過は、まともな戦後運動史ならひとしく記しているところである。構造的に民主主義が実現された基盤のうえに残ったのは、せいぜい右翼エスエル程度のナロードニズムであり、独占資本の高成長・強蓄積とブルジョアジー独裁の強化はその体制内化を仕上げてゆく。
 なかでも、評議会以来の大衆的労働運動との接合が産別会議の崩壊にみるようにみじめに失敗したことは、社会主義的イデオロギー・戦術の欠如をまざまざとしめした。生産管理の大衆的創意は、ストライキの代用品としての利用と経営権―労働権のブルジョア法原理への屈服によってつみとられた(共産党の指導は一九一七年ニ~一〇月における労働者統制へのメンシェヴィキの抑制と同種のものであった)。共産党―産別関係は最悪の伝導ベルト方式―フラクション操縦主義とそれへの細胞活動の従属、および赤色労働組合主義によって硬直化した。かりに二段革命戦略であっても、レーニン主義的なそれは、プロレタリアートの目的意識的な社会主義的ヘゲモニーによる労働者・半プロレタリア同盟の民主主義的独裁をめざすべきものであるが、共産党の労働者指導はまさに逆、無限の社会主義的可能性を秘めた労働者民主主義の圧殺、ブルジョア民主主義への統合でしかなかった。大杉栄の水準に及ばぬこと数等である。これでは、日本的社会民主主義主導の労働組合、産業報国会をへてはじめて全階級的に普及した企業組合および大企業組合連合を実体とする労働組合が、たちまち反共民主主義に奪回されたのは不思議ではない。戦前・戦後を一貫する強烈な民族国家的統合力―日本ナショナリズムのもとでは、プロレタリアートは、自然成長的運動のまま放置されるならば、経済的には生活防衛者、政治的には愛社―愛国者の枠を容易に突破しえない。これは、幸徳―片山のくいちがい以来の日本労働運動史の教訓ではなかったか。
 民主主義に跼蹐[きょくせき]する日本共産党が、組織論においてついに党内民主主義の革命的な政治的理解に到達しえず、徳田家父長体制から宮本家父長体制に編成替えされたにすぎないことも、日本共産主義運動の特質を物語るものである。同党は、天皇制ブルジョア社会の組織的特徴である集合体帰属のエートスやモラルとプロレタリア的な自覚的規律との質的差異について、一度として反省したことはなかった。階級のヘゲモニー装置たりえないものがひたすら一枚岩党をめざせば、少数派排除をくりかえして警察的官僚的装置に達するほかはない。そのことは党内はもとより党―大衆の結合を決定的に妨げる。その限界を超えて量的に拡大しようとすれば、党―綱領の成熟市民社会への迎合に対応して、党―機構を市民社会の結合原理―利益配分に即して編成するほかはない。党勢拡大手紙運動にはじまる「代々木株式会社」建設の成功の道は、レーニン主義的な「新しい型の党」の死滅の道であった。

社会主義のヘゲモン党へ

 以上のような日本共産党の社会民主主義的変質は、六〇年全学連のいわば「原理」反対派、第七~八回大会社会主義革命派のいわば戦略反対派、第九回大会親ソ派のいわば戦術反対派などの党内分派闘争をへて、六〇年代後半からはもはや同党とはかかわりなしに成長した広義「新左翼」諸派を輩出させた。それらがスターリン主義とジャコビニズムをどのように超克し、革命的民主主義の再生からどこまで社会主義革命のヘゲモンとして進出しえたか、また今後しうるか――それは、世界革命・日本革命のための凡百の情勢分析や戦術決定よりも比重のかかっている思想的課題である。
 かつてドイツ社会民主党は、未完の民主革命を追求して、みずからが西欧民主主義の一特殊類型になりはて、ドイツ共産党は、労働組合左派(革命的オプロイテ)をも吸収してワイマール共和国に敵対したが、右往左往的戦術反対派を超ええず、凶悪な極右ナショナリズムの前に屈した。中国共産党は、人民的革命伝統を歴史主義的に総括した「具体的マルクス主義」をもって民族民主革命に勝利したが、その民族国家主義によってプロレタリア世界革命の道を自閉している。われわれの場合も、革命的民主主義と社会主義との連続=断絶の弁証法、階級闘争における全人民的危機としての民族問題の定位の弁証法を十全に把握するにはいたっていない。それをにぎりしめるために、日本共産党の栄光と汚辱を総括しうるならぱ、そのとき新左翼は幾多の自壊を超えて自己内部の日共的体質をも変革し、世界―日本のプロレタリアートのヘゲモン党を創出しうるであろう。

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[共産主義運動の特質 中村丈夫(1975年?)
 三つの視点/スターリン主義の下で/三二年テーゼ/革命党の残骸/
 ジャコビニズムの死/たどりついた宮本式民主主義/ジャコビニズムの思想構造/
 ブルジョア的人権プラス民族主権/社会主義のヘゲモン党へ]

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