私にとっての「左翼道」の先生楽しかった談論風発のひと時

中村丈夫さんとのことなど(下)

酒井与七

「大ブント」構想
という「憶測」

 ところで、『マルクス主義革命論史』の編者の顔ぶれとの関係で、これには廣松渉さんの「大ブント構想」との重なりがあったのではないかという憶測があるようです。
 この点について、一九六七年の社会主義労働者同盟結成以来、中村さんのもとで活動されてきた大石和雄さんは、『紙碑 中村丈夫』(彩流社2008年刊)において、中村さんは『マルクス主義革命論史』の「編集・執筆作業に六九年秋頃から携わっている……。これにはブント系の廣松渉氏、第四インターの酒井与七氏も加わっており、ある人はこれを『大ブント構想』の一環というが、その真相を私はよく知りえていない」と述べています(同書、69頁)。
 このことは、まず第一に、中村さんの人柄にかかわる問題であるように思われます。中村さんは労働者階級のための政治とその組織の問題についてきわめて厳格な人であり、自ら所属する組織で確認された方針として以外に政治諸グループの統合に関係することに手出しするようなことは考えられないことであり、そのような振る舞いは中村さんの「左翼道」に反することのように思えます。
 第二に、中村さんには一九七五年に発表された「日本共産主義運動の特質」という重要な論文があり、その終節には、「日本共産党の社会民主主義的変質は……六〇年代後半からはもはや同党とはかかわりなしに成長した広義新左翼諸派を輩出させた。それらがスターリン主義とジャコビニズムをどのように超克し、革命的民主主義の再生からどこまで社会主義革命のヘゲモンとして進出しえたか、また今後しうるか――それは……凡百の情勢分析や戦術決定よりも比重のかかっている思想的課題である」という指摘があり、その結語として「われわれの場合も、革命的民主主義と社会主義との連続=断絶の弁証法、階級闘争における全人民的危機としての民族問題の定位の弁証法を十全に把握するにはいたっていない。それをにぎりしめるために日本共産党の栄光と汚辱を総括しうるならぱ、そのとき新左翼は幾多の自壊を超えて自己内部の日共的体質をも変革し、世界―日本のプロレタリアートのヘゲモン党を創出しうるであろう」と述べられています。
 したがって、中村さんにとって労働者階級のための統合的政治組織が現実の展望としてありうるとすれば、「スターリン主義とジャコビニズムを……超克し、革命的民主主義の再生から……社会主義革命のヘゲモンとして進出し」うる政治的傾向の成長が明らかに認められる状況のもとにおいてになるでしょう。しかし、一九七〇年代前半において「内ゲバ」争闘の世界に自壊的に滑落していった日本「広義新左翼諸派」は、スターリニズムの堕落した政治のレベル ― 「日共的体質」 ― にしっかりと踏みとどまり、およそ「革命的民主主義」とは似ても似つかぬものになりはて、そこには「社会主義革命のヘゲモン」を予感させる片鱗さえうかがえなかったのでした。
 中村さん自身、このことについて、その「日本共産主義運動の特質」の冒頭で「共産党を名のる労働者党の社会民主主義的変質、それを超えようとする革命的諸セクト=新左翼の自壊的挫折」と指摘されています。その結果ということもあってだろうと思いますが、中村丈夫さんの基本的な行動指針・原理は一九七〇年代をつうじて「量は少なくとも質のよいものを」という方向に強く傾斜していったように思われます。
 第三に、私が直接に関知するかぎりでは、つまり『マルクス主義革命論史』刊行にかかわる三人の編者のあいだの現実の関係としては「大ブント構想」のようなものは何もありませんでした。このこととの関連で思い出されるのは、むしろ逆方向のことで、「マルクス主義革命論史」三冊の刊行のうえで中村さん、廣松さん、私、そして紀伊国屋書店編集部の山崎さんによる慰労会が催され、そこで私がブントは小ブルジョア急進主義そのものであるといって廣松さんに食いついたような次第でした。
 また、中村さんとの私の付き合いは一九六〇年代末近くから一九八〇年代にわたっていますが、その関係は基本的に個人的なものにとどまり、当然にも情勢や運動についていろいろ話し込んでいますが、それらは政治論議ではあるが、かなりまとまりのない談論風発のたぐいのものであり、政治組織に直接かかわる「生臭い」ことにたちいるようなことはありませんでした。
 一九七〇年代中頃だったように思いますが、四・二七叛軍兵士裁判のための合宿研究会の一つで、私が世界情勢について地球をまるごと俯瞰するような具合の報告レジメを提出し、中村さんがこのレジメはあたかも政治統合を提起するようなものになってますねという趣旨のコメントをされたことがあります。このとき私がどのように答えたか記憶していませんが、いずれにしても、それ以上の話は何もありませんでした。

評議会共産主義
という独自性

 中村丈夫さんは、一九六〇年代央過ぎから一九七〇年代にかけて国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みから左翼共産主義者として抜け出し、ソ連邦を初めとする堕落した既存「社会主義」国家群をそのものとしてもはや袋小路におちいっている「前期社会主義」として批判し、新しい労働者革命による「前期社会主義」の克服をふくむプロレタリア社会主義世界革命を主張する独自の政治的立場をまとめてゆかれました。その中心となる考えが「評議会共産主義」という独自の主張であり、その理論的構想をまとめる重要なステップとなったのが中村さんが『第三インターとヨーロッパ革命』(第三巻)の解説論文として執筆された「レーニンと第三インターナショナル」でした。
 他方、私は『第二インターの革命論争』(第二巻)の編集をつうじて第二インターナショナルについていろいろと新しい知識を獲得し、ことに第二インターナショナルの時期をつうじたローザ・ルクセンブルグの傑出した左翼としての役割について認識を新たにすることができました。また『第二インターの革命論争』そのものは、一九七〇年代におけるわれわれのグループ形成において、マルクス主義とトロツキズムを歴史的連続性においてとらえるという意識をより明確にするという点でいくばくかの役割をはたしたように思います。

「講座派は結局
ナロードニキ」

 中村さんは一九八三年に私の「封建論争」という文章を発表していますが、そこでいまとなれば、「三二テーゼ」はスターリン的諸悪の根源、人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった。一九四〇年代初頭の東大在学中(?)にともに逮捕された生き残り朋友の「資本論」学者と一杯呑むと、「労農派は合法マルクス主義、講座派はナロードニキ、その右派はレネガート[背教変節者]だ」、「断乎護教連盟結成!」ランラ、ランラととちくるう(原文のまま)のである。本音でないこともないと述べられています。そして、この「資本論」学者は「飯田貫一」氏または「田代正男」氏ではないかと推測されるそうです(フェニックス社前田浩志さん)。
 人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかったと考える中村さんは、一九七五年の『第三インターとヨーロッパ革命』解説論文で明らかなように、コミンテルン第三回大会の統一戦線戦術を労働者統一戦線→労働者評議会革命の立場としてとらえていて、そのプロレタリア革命を主張する立場は明白に一貫していました。
 われわれやブントよりも前の世代の共産党員で、大きくは「社会主義革命」派・構造改革派として分裂していった部分はすべて右翼人民戦線派であったと一九六〇年代中頃以降の私は考えていたのですが、中村丈夫さんは明白に左翼共産主義の方向をとり、その例外をなしていたのです。
 また中村さんが一九九一年に発表された「私のなかの伊藤律」という文章には、日本共産主義運動について以下のような示唆にとむ指摘があります。
 「私見では、日本共産主義運動の伝統的特質は、社会主義革命とはほぼ一貫して無縁なところにありましょう。明治以来の『民権=国権』、労働運動と社会主義との不結合という民族国家主義的統合力ヘの屈従は、国際的にはスターリン主義の圧力下に、『二段革命』志向(社会主義革命の回避)や社会排外主義のパターンを定着させてきました」。「いまにして思えば、三二年テーゼは反ファシズム闘争の放棄、対ソ十字軍への玉砕的決起の指令であり、それを修正した人民戦線も、脱社会主義の次元で民主主義派と無条件に統一しようとする[ものであり]、レーニン的統一戦線の歪曲とみなくてはなりますまい。社会主義路線は……なによりも、三二年テーゼをも人民戦線をもともに批判しぬく、大衆的政治闘争の実践的視点を要請したはずでした」。
ところで、「日本共産党の運動はもちろんのこと、日本新左翼(ブント・中核派)の運動も基本的に『民主主義』的運動にすぎず、そこには労働者の社会階級闘争という考え方が一貫して欠如していたのであり、したがって社会主義運動は存在しなかった」というのが一九六〇年代~一九七〇年代に獲得した私の基本的な考えでした。そして中村さんは、「人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった」ということと「講座派はナロードニキ」という立場から、以上のように考える私をランラ、ランラの「護教連盟」の新参として認め、談論風発の相手にしてくださったのではなかろうかと思っています。
 昨年九月、四・二七叛軍兵士裁判関係者の河鰭定男さん、佐藤正兵さん、水谷驍さん、そして古川純教授と一緒に東京練馬区富士見台のお宅を訪れ、中村さんの奥さんとお子さんに懐かしむ感じをもって応対していただき、中村丈夫さんの遺影に五人でお線香をあげました。その際、 私が訪ねることになっている日には「父の様子がいつもとすこし違うような感じがしたのですが、父とのあいだに何かあったのでしょうか」と、お子さんから尋ねられました。この話を聞いて、中村さんが私との談論風発の議論を歓迎されていたのだろうと推察し、感謝の念とともに大きな喜びを感じました。
 先に述べているように、一九六〇年代末頃から一九八〇年代にかけて少なくとも年に一度は中村さん宅を訪ねるようになり、ヨーロッパとアジアの旅行をすると必ず報告にうかがうようになっていたし、私としては中村さんからいろいろと左翼道の薫陶をうけました。ここで、中村丈夫先生、奥さん、そしてお子さんに、いろいろとお世話になったことについて感謝のお礼をしなければなりません ― どうもありがとうございました。
 (2008年10月6日)

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