私の「封建論争」[『経済学批判』第13号、1983年4月]
中村丈夫 長野大学
覆刻された岩波の『日本資本主義発達史講座』をひもとくと、さまさまな想いが浮び上ってくる。なかでも、愁雲莫々、惨霧モウ[サンズイ+蒙]々たる彼方に見え隠れするのは、鎮めようにも鎮められないだろう若き魂の数々である。いまを生きて、「封建論争」の功罪や双生児性の総括を試みられる人はまだいい。医者よ汝を癒せ、判事よ汝を裁け、だから。
半ばデカダン派であり、半ばマルクス・ボーイであった一九三六、七年のころ、「怖るべき児(アンファン・テリブル)」の石渡良一らと見様見真似の人民戦線を高校内に結成しようとしていた。共産党はすでに壊滅し、講座派学者もコム・アカデミー事件で消え、運動の先端は東交、市従など、後の日本無産党系が占め、イデオローグは唯研以外は労農派が前面に押し出されていた。私の場合は、母方の一族の影響もあり――『種蒔く人』の「飢ゆるロシアを救え」のカンパ芳名簿に記録されたくらいだから――、堺枯川、山川均、猪俣津南雄らを信じていた。そこに渡溝橋の銃声が響いた。アルツイバーシェフのサーニンを思わせる貴公子の石渡とは、何度かの心理戦をへて訣別し、情勢に立ち向う自信も失って、留年するはめになった。石渡は太平洋戦争で、飛行機事故で死ぬことになる。
三八年からグループができ、文化運動が盛んになったところに、大学生の篤実な先輩、伊藤隆文からオルグがかかった。この人が生きていたら、どんな大社会科学者になっていただろう、といまでも思う。彼が高校のとき書いたデカダンスの研究は、いずれもこの社会から出てゆこうとするデカダンと革命家との実存的な位相差を分析し、主体の企投を迫るものだった。何日か論争し、山田盛太郎『日本資本主義分析』などは「半機械学的・半建築学的で反弁証法的だ」と抵抗した。が、いまで言うなら一般教養と専門との落差は大きく、最後は、「革命党を創ろうとしているのはどちらか」という殺し文句を突きつけられ、潔く講座派の軍門に降った。
それからは、内田穣吉『日本資本主義論争』を手引きに、論争の諸論文を片端から漁り、彼我対照せざるをえなくなった。と、阿々羅不思議なる哉、マルクスのアジア的生産様式論―日本古代史論からアイルランド論―近現代農業構造論に及ぶ全戦線で、なにやら世界史の法則も日本の特殊性もわかった気になり、猛悪な絶対主義を戴く「二層穹窿」粉砕の展望も「示現」してくるではないか。熊本城に殺到する剽悍無謀の薩軍よろしく、「君見ずや南関北関道は歴々」と意気込んだ。
大学生との研究会では、矢内原辞任、大内・有沢追放に抗しえなかった学生運動が、河合擁護を機に再高揚し、平賀「粛学」では少なくとも相討ちにもちこんだいきさつが語られ、高校生たちを昂奮させた。記念祭歌に当選した拙作は、「聴け時代の児よ、遠雷はためき、文化の進歩の苦難を告ぐる、黒き嵐は吹き荒れぬ」といった、インタナンョナルのメロディに合わせたものだった。
第二次大戦が勃発し、肚も決って四〇年に大学に上ると、早速、合非のグループ活動に参加した。経友会、有カゼミ、公認研究会、セツル、学消などを抑え、延べ三ケタのメンバーを小人数づつの読書会に組織していたこの「日本共産党再建準備委員会東大グループ」の活動は、当時指導部だった先輩が戦後、「最後の東大細胞」という回想録に書いており、権力側からは内務省警保局編「社会運動の状況」昭一五年版にも記載されている。問題はその指針である。
まず「三二年テーゼ」を筆写させられ、つづいてディミトロフの論文が廻ってくるはずだった。講座派がその正しさの論証に極力努めた強行転化の二段革命のテーゼと、社会民主主義から自由主義左派にまで働きかけての反ファシズム人民戦線戦術との接合関係は疑われず、コミンテルンの権威のもとに直結させられていたようだ。読書会は『資本論』で、留年した伊藤[隆文]が来て懇切に指導してくれた。
『資本論』の端初をヘーゲル大論理学と精密に照合した彼の解説は、ローゼンベルグなどをはるかに抜くもので、いまなお私の理解の根底にある。「粛学」のあと荒廃した大学へゆくのは、経友会のフラク活動や連絡、謀議のためだけで、マルクス経済学にのめりこんだ。宮崎八郎ばりには、「誰か知らん凄月悲風の底、泣いて読む馬克思資本論」だった。わかる、わからない、はどうでもいい。階級とは? 階級の解放とは? 「一箇の自然史的過程」からの飛躍とは?
そうこうするうちに、伊藤[隆文]との断交の指令が上部から来た。挑発者の手に落ちた、とのことで、一同日和見を装って、温厚な彼をも憤らせたが、後に知ったのは、「工場へ」をスローガンとする別の「日本共産党再建グループ」と彼が連絡し、現場労働者教育に参画したためだった。そのうえ、「再建準備委員会」の方も上から壊滅し、大学では夏休みの前と後に一斉検挙を喰った。
警察で、最上層部にいた保坂浩明(金秉吉)とたまたま知り合った。彼は大学の組織から引き抜かれて、「再建準備委員会」の印刷局を担当していたので、人眼を盗んでは事件の概要を教えてくれた。保坂は未決監へゆき、私は知らぬ間に予備指導部に指名されていたが、起訴猶予となった。
その後、組織再建の中心に立ったのは、同学年の山口裕である。外柔内剛の強靭な性格と無類の説得力の持ち主で、一目も二目も置かなくてはならなかった。これは伊藤[隆文]からも示唆されていたが、問題となったのは、講座派理論の限界だった。『分析』、『機構』からは、金融資本論も中小企業論も、さらには人民戦線戦術も出てこない、再生産論はもともと流通論だ、やはり自動崩壊論ではないか?
三菱経研の三〇年代現状分析、友岡・木村のインフレ論争、藤田・小宮山の下請工業論争が検討され、栗原百寿『日本農業の基礎構造』が評価されたが、戦略戦術は絞りだせなかった。いまとなれば、「三二テーゼ」はスターリン的諸悪の根源、人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった。
太平洋戦争が一切を押し流した。民族政冶学やアジア解放の生産力理論が、講座派学者の口から語られるようになり、われわれ残党は四二年九月繰上げ卒業で軍服を着た。間際に山口[裕]が訪れてくれ、敗戦後の見通しや軍隊内活動を論じ合った。それが最後で、彼は島嶼戦で死んだ。
戦時の思想的振幅は、『或る戦時日誌』に恥をさらしているとおりである。労農派に戻ったり、講座派で突っぱったりしていたようだ。執行猶予で出てきた伊藤[隆文]は、情勢についてあまり多くを語らぬうちに再逮捕され、敗戦直後に獄死同然の早世、保坂は大いに情勢を語り、軍需インフレ期や戦争経済期の統計分析を要求した。この東洋の豪傑は戦後勇名を馳せたが、黒海のほとりで客死した。伊藤隆文が生き残ってさえいてくれたら……。
「封建論争」を子守歌として育つと、原理論はどうも弱い。「テーゼ論争マルクス主義」を生涯脱しえないのではないか、と惧れる。それでも、ともに逮捕された生き残り朋[ぽん]友の「資本論」学者と一杯呑むと、「労農派は合法マルクス主義、講座派はナロードニキ、その右派はレネガートだ」、「断乎護教連盟結成!」ランラ、ランラ、ととちくるうのである。本音でないこともない。
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私のなかの伊藤律
中村丈夫
[『労働運動研究』1991年2月]
疑問のいくつか
八月四日には自説を語る場がなかったから書け、と大金久典さんたちから勧められたが、伊藤律さんの事は私の心象のなかでまだ定まっていません。いくつか気にかかっている点についてだけ、述べさせてもらいます。
彼は、いろいろな意味で、日本の共産主義運動の体質というべきものを、とくに鮮明に表現していると思います、たとえば――
(一) 二・一ゼネス卜に到る戦後の革命的危機下での異例の昇進は、徳田球一さんの意志や律さんの資質もあったでしょうが、再建共産党指導部の歴史的無能を反映していたのでしょう。
(二) つづいて、きわめて不十分にしか討議されなかったが、綱領論争らしきものがあり(六回大会行動綱領―コミンフォルム批判―五一年綱領)、そこでも律さんは目立ったのですが、論争の意味はなおさだかではないようです。
(三) そして、かの中国での不当きわまる幽囚はまさに、朝鮮戦争とその収拾をめぐる東アジア運動史の致命的矛盾にかかわっていることは明らかでしょうが、真相はだれも口をつぐんで語りません。
律さん自身も、奇蹟的帰国後、それらの点の一部にわずかに触れるにとどまり、しかもその言葉によって、ときには非常に不思議な気持ちにさせられたこともあります。
だから、伊藤律を偲ぶということは、無茶苦茶ではあったが戦闘的であり、革命的ですらあった頃の日共を偲ぶということであり、偲ぶとは、いまでは、極力厳正に分析、批判することである、と考えます。
昇進の悲劇
律さんとの初対面は、政治犯釈放の報にあわてて上京し、先輩の保坂浩明さんにつれられて、焼けビルの人民社を訪れたときと思いますが、さしたる印象はありません。長谷川浩さんや彼を中心とするこのグループが、自立会組に吸収され、四回大会も終った頃、労農両運動のリーダーだった神山茂夫さんに呼び出されました。
「聞けば、叔父さんが農民運動で獄死したというじゃないか。弔い合戦だ。農民部へゆくといい、と僕は思う。」
[長谷川]浩さんの八王子での演説のおり、前座を勤めたのがきっかけで、否応もありません。たった一人の農民部員だった律さんが傍から助言してくれ、かの農業のブルジョア的進化の「二つの道」を定式化した、レーニン『社会民主労働党の農業綱領』をまず読め、と言うのです(その本は、一柳茂次さんが貸したものだということは、最近やっと知りました)。当時は、代々木の党本部は、ストライキマンやオルグの梁山泊といったところで、律さんも地下足袋姿で坂東の山野を走り廻っていました。私も四六年春、芳賀郡を拠点とした栃木、常東北部を中心とした茨城の大供米闘争に参画する機会に恵まれ、彼の出馬を仰ぎました。茨城では、山口武秀さんに止めを刺してもらいました。
また、律さんの指導で、あれこれの通達や「農地改革早わかり」などを書かされました。なにしろ頭の回転の恐ろしく早い人で、何を書けと指示するばかりで、方法とか資料とかを聞き返すと、とても厭がります。よければ一切手直しなし、悪ければただ突っ返すというスタイルです。これでは、だれもついてゆけません。農民部も充実し、のちに律さんに代って部長となる松本三益氏も着任しましたが、ときどきこぼしていました。
いちばん驚いたのは、他党やマスコミとの交渉など官房的業務をも颯爽とこなすようになった律さんが、五回大会で中央委員、書記局員となり、つづいて政治局員となったことです。私には、とても信じられない、党のイメージにも反するショックでした。労働運動の[長谷川]浩さんの場合はともかく、これは徳球さんのミス人事だ、といまでも考えます。
律さんを支えていたのは本来、文字通りの社会革命を現場で推進してきた――上からの農地改革に先制され、体制の掌に乗せられたとはいえ!――全国の農民運動者の同志たちでした。彼らとの連繋は、日農第一回大会での「黒田声明」の演出、第二回大会での社会党左派系との統一戦線、という水きわだった指導によって固められてゆきます。しかし、早くも四六年半ば頃からは、律さんはほぼ、雲のうえの官人と化してゆきます。しかも、農業革命は歴史的任務を終って、革命的農民運動は急速に退潮してゆくのです。
おそらく、四〇年代後半―五〇年代前半の日共指導部は、戦前に自製の綱領をもてず、しかも弾圧、壊滅、再建の短期循環により人的な統一性、連続性も保障されなかった歴史を総括できないまま、敗戦後の占領、冷戦、熱戦の激動に対応できない、レーム・ダック状況に苛まれていたのでしょう。事実、徳球さんの天成のリアリズムのほかは、人民戦線期にまで娑婆で活動していた大衆的カードルが、社民左派や平・民知識人との交友を運用して、というより当り前の現実感覚を働かせて、自然成長的運動に介入ないし便乗していたのです。
その徳球さんも、抜擢された律さんなど新側近も、集合体帰属、家父長主義などの日本的組織伝統にどっぷり潰っていたのは、まさに悲劇的だと思います。
私の印象では、彼はいつも、何かを取り返さねばならぬかのように、眼の周りに隈をつくって必死に働いていました。私の耳にも入ってくる真偽とりまぜての不評のなかで、彼は、関ケ原の「名誉ある没落」に恵まれた、石田三成にもなれない非運の軌道に乗せられていたのです。
民主主義と社会主義
律さんの革命思想をめぐる疑問の一端に触れてみましょう。ただし、彼の農業・農民理論自体の功罪については、すでに一柳さんがまことに厳正な評価を下しておられるので、ここで蛇足を加えるまでもありません。
私がもっとも関心を寄せていたのは、スターリン・クーシネン作成の三二年テーゼと、KI 七回大会(三五年)以降の人民戦線方式との関連でした。戦前の学生運動の頃から問題にされ、両者とも正しいならば、矛盾せざるをえない、と考えていたからです。
彼は、平気で両者を共存させていました。なんでそんなことを聞くか、という態度でした。どうも、前者の反絶対主義の「民主主義」と、後者の反ファシズムの「民主主義」とを、戦略―戦術関係として等置し、四七年あたりになると、今度は天皇制の地位に米帝を据えて「民族民主主義」として固め上げる、というものだったようです。この側面は、朝鮮戦争にともなう弾圧によって公然と強化され、やがてスターリンお墨付きの反米五一年綱領に到り、徳田名でその解説論文を書くのが、律さんの最後の綱領的活動となります。
だが、別の側面もあるようです。私は、労働運動を肌身をつうじて理解しない不安から、頼み込んでやっと四七年末の六回大会後、東京の地区に出ました。それまでのところで頭に残っているのは、やはり農業綱領をめぐってです。彼も以前から、理念的には土地国有に触れてはいましたが、いまや「人民民主主義」、すなわち社会主義への準備、過渡の不可欠の条件として、重要産業の国営人民管理とともに、土地国有を定言的に高唱します。
レーニンですら、農民大衆自身の要求となってのち、そして農民的所有のヴァリアントをつけて、国有を提起したではないか、と言っても、承知するものではありません。やっと、「人民政府ができるならば……国有に移す可能性が生れるであろう」ということで妥協してもらいました。
この農業綱領の解説を栗原百寿さん、菅間正朔さんと作成しましたが、水と油とを調停しようもなく、結局は訳のわからぬものになってしまいました。そのあと、「隠し田摘発」とか、「社共合同」闘争とか、思い付きがつづくようになります。
こういった、いわば経験主義的な民族民主主義の側面と、いわば理念主義的な社会主義のそれとは、律さんの内部でどう折り合っていたのでしょうか。彼が帰国後、八四年に書いた論文をみて、私は唸ってしまいました。いわく、吉田内閣以来、二つの民主主義化の間の闘争をつうじ、「階級関係は完全かつ根本的に変化した。革命の性格は社会主義へと進展した」。徳田対野坂の路線対立の底には、じつはこの転換があったと言うのです。
はじめに徳田社会主義路線ありき、とすれば、過去多くの反対派は何も苦労はしません。私見では、日本共産主義運動の伝統的特質は、社会主義革命とはほぼ一貫して無縁なところにありましょう。明治以来の「民権=国権」、労働運動と社会主義との不結合という民族国家主義的統合カヘの屈従は、国際的にはスターリン主義の圧力下に、「二段革命」志向(社会主義革命の回避)や社会排外主義のパターンを定着させてきました。
いまにして思えば、三二年テーゼは反ファシズム闘争の放棄、対ソ十字軍への玉砕的決起の指令であり、それを修正した人民戦線も、脱社会主義の次元で民主主義派と無条件に統一しようとする[ものであり]、レーニン的統一戦線の歪曲とみなくてはなりますまい。社会主義路線はなにも、一義的には結合しない土地国有に依拠するまでもないのです。それはなによりも、三二年テーゼをも人民戦線をもともに批判しぬく、大衆的政治闘争の実践的視点を要請したはずでした。
律さんが帰国後も一貫して、「野坂理論の継承、発展」と対決しようとしたのは、徳球さんの知遇に応えるためだけではないでしょう。彼なりに、日本的革命思想の超克という大変な課題をわれわれに残した、と考えてよいでしょう。
「友党」の狭間で
最後に、かの信じられないような、そしてだれも責任を負わない奇怪な二七年間の投獄の背景について、少し考えてみましょう。直接には、主流・国際両派幹部間の妥協取り引きの具、「六全協演出の犠牲に供された」(大金久典)との指摘には、全面的に同意します。
同時に、何の証明もないのですが、四〇―五〇年代の東アジアの革命運動史の矛盾、とくに、スターリンの冒険主義的な限定戦争計画とその挫折、中国による尻ぬぐいと東アジア主導権のソ→中の移行が、律さんの運命に関連しているのではないか、というのが私の問題意識です。
四八―五一年、私は地方にあり、地下に入り、[長谷川]浩さんについて九州へ行きました。秋の一日、連絡に上京し、ある一室に入ると、珍しや律さんです。用談のあと、「少し話そう」と中共の大衆路線など分析してみせます。中国へ密航するのだな、これが一期一会か、と思いました。どうも淋し気なので、人を介して自重自戒を伝言しておきました。
戻ってからのある日、[長谷川]浩さんが温顔を曇らせて、薄い小紙片を手渡します。私が危険人物だから厳重監視するように、とあります。「何をしたんだ」、「何もしませんよ」、「志田君は猜疑心が強い。近く召喚されるだろうが、注意してな」――累を及ぼしただろうに、密書をみせてくれた[長谷川]浩さんには、いまも感謝しています。
周知のように、その後、幹部諸氏は、スパイ事件をでっちあげ、ベリア銃殺にからめて律さんを抹殺してしまいました。日本国内でならば、到底できる所業ではありません。
私は、鍵の一つは五一年末発表の「スターリン論文」(『ソ連における社会主義の経済的諸間題』)にひそむような気がします。そこでは、対ソ十字軍はもはや困難となり、資本主義諸国家間(たとえば米独間、米日間)の戦争の方が不可避だ、とされています。この独断にもとづき、冷戦均衡の突破を試みて、四八―九年ベルリン封鎖につづいて、五〇年朝鮮戦争が勃発したのではないでしょうか(インドネシアのマデウン反乱、フィリピンのフク団攻勢も)。コミンフォルム批判のスタイルは、三二年テーゼに相似しています。
だが、冒険はみじめに失敗し、義勇軍の血をもって事態を収拾した中共は当然、五二年夏(モスクワ)、五四年秋(北京)の中ソ首脳会談その他で、ソ共に種々の譲歩を迫ります。スターリンの挫折と死は、資本主義との共存的腐朽を意味するフルシチョフ主義を発酵させ、人民革命を不当周延させた毛沢東急進思想は、やがて「大躍進」と中ソ対立を噴出させます。その前段階で、五一年にすでに朝鮮休戦会談が始まり、サンフランシスコ講和会議が開かれた以上、もはや証文の出し後れでしかない五一年綱領や軍事方針をかかえたまま、徳球さんは悶死せざるをえませんでした(彼はコミンフォルム批判の形式には反発し、スターリンにも文句をつけたのですが)。
孤立した律さんの隔離審査はモスクワの命令とされ、無期監禁は「依託」されたとしても、事実上北京の責任でなくてはなりません。六全協決議原案は五四年夏、モスクワでまとめられたというが、行きがかり上そうなので、日共への指導権はすでに中共に委ねられていたと思われます。彼は、その間の真空のポケッ卜に落ち込んだ観があります。
東アジアの革命運動は、朝鮮戦争以降、一時下降線をたどり、やっと上向くのは五四年、ディエンビエンフーの勝利からです。この間の流れの底にあるものに律さんが気づき、そのことが彼にはマイナスに響いたことも考えられます。彼は生涯、「友党」については緘黙を守りました。
ジャコバン的人間?
伊藤律さんの事については、わからないことがまだ多すぎます。わかろうとすることへの障害も、まだ少なくないようです。いつかは、わが国のみならず、ソ、中、朝の研究者の力をも借りて、前述のような疑問も解かれると思いますが、そうなったところで、彼という特異な人間像が浮彫りになるわけではないでしょう。
彼ほど、夢魔のように、善くも悪くも人を悩ませた性格は、珍しいのではないでしょうか。伊藤律何者ぞと、ときには自問しても、的確な答えは出ません。ただ、眼に浮ぶのは、残骸化する以前のシャコバン的革命党の前線で、必死に働いていた律さんの姿です。あの気魄があればこそ、超長期の非人間的環境にも耐えぬいたのだと思います。
注:[xxx]は、筆者によるものではなく、コンピュータ・ファイルにおこす際に挿入したものである。
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