第三インターナショナルの歴史的敗北と戦後プロレタリアート

 われわれの討論のために

酒井与七

 目 次

はじめに
一 第二インターナショナルと第三インターナショナル
二 一九二〇年代�三〇年代の
第三インターナショナルの政治分化
三 一九三〇年のヨーロッパと戦後のヨーロッパ
四 戦後マルクス主義の崩壊とわれわれの新しい課題


はじめに

 様々なかたちであった戦後マルクス主義は総体としてその歴史的敗北を完結し、歴史的唯物論とプロレタリア階級闘争、プロレタリア独裁とその過渡期についてのマルクス主義の理論的根幹が様々な元「マルクス主義者」によっていとも容易に投げすてられている。
 戦後マルクス主義は、第二次世界戦争における対抗関係とその戦後的結果のうえで国際階級闘争と各国における労働者階級の運動を展望しようとした「マルクス主義」としてあった。この戦後マルクス主義は、現実の戦後国際プロレタリアートの現在の歴史的行きづまりと時代的破綻の状況を物質的基盤として、その総崩壊の状況になげこまれている。日本において戦後プロレタリア運動の歴史的敗北はまさに全面的であり、それは、戦後東アジア革命の中途挫折のうえにつくられてきた東アジア国際労農階級闘争の五〇年代 � 六〇年代の政治構造の最後的崩壊過程の一環として進行した。
 この状況のなかで、われわれは、戦後世界における国際プロレタリアートの歴史的限界とその政治的破綻・袋小路的行きづまりを克服する新しい国際的プロレタリア革命主体のための闘いという課題に現在あらためて先鋭に直面させられている。われわれは、トロツキー・第四インターナショナルの国際プロレタリア永久革命の理論と綱領の現実のプロレタリア内部におけるレーニン主義的再生のための闘いの課題にあらためて直面させられているのである。
 この闘いは、歴史的唯物論のうえに築かれている革命的プロレタリア共産主義理論としてのマルクス主義とトロツキーのプロレタリア永久革命の理論と綱領のための闘いとしてしかありえないし、それは先鋭なイデオロギー闘争・理論闘争を根幹にすえることなしにはありえない。
 そして、マルクス主義とトロツキー・プロレタリア永久革命論の現在における理論的・綱領的再生のための闘いは、第四インターナショナルをもその一部としてふくむ戦後マルクス主義総体を歴史的に総括する主体的作業と一体となり、そのことを基底にもつことなしにはありえない。
 戦後マルクス主義は、ロシア十月革命権力を中心とした第三インターナショナル運動の歴史的連続性のなかで、その内部分化と政治的退化・堕落のなかでとらえられねばならない。われわれは、戦後マルクス主義を、一九一七年ロシア十月革命にはっする全体としての第三インターナショナル運動の戦後的意識形態、第三インターナショナル運動の戦後的展開とその最後的な政治的破産のなかでとらえねばならない。
 以上の観点から、ここで、第三インターナショナルの歴史問題にたちいることにする。


一 第二インターナショナルと第三インターナショナル

1 一八四〇年代後半から第一インターナショナル期(一八六〇年代後半 � 一八七〇年代前半)、そしてマルクスとエンゲルスそれぞれの死にいたるまで、彼ら両人のプロレタリア共産主義の思想、理論、綱領、そして西ヨーロッパ各国労働者運動にたいする彼らの意識的な介入と工作があった。それは極度に孤立したものであった。彼らはそれをマルクス主義とはいわなかった。
 労働者階級の運動の実在的意識形態=イデオロギーとしてのマルクス主義は、第二インターナショナル(一八八九年創設)の時期にはじめて成立した。マルクス主義は、まず最初に、第二インターナショナル・マルクス主義として歴史的存在となった。そして第二インターナショナル・マルクス主義はヨーロッパ・プロレタリア運動の意識形態=イデオロギーであった。
 第二インターナショナル・マルクス主義の大勢は、資本主義の帝国主義的発展を基盤として改良主義化した現実の労働者運動とともに改良主義イデオロギー化=社会民主主義化した。他方、第二インターナショナルにおいて、革命的マルクス主義はポーランドやロシアなどごく少数の国々の労働者運動において少数派として発展しえたにとどまった。改良主義イデオロギー化した第二インターナショナル・マルクス主義は、第一次世界戦争とともに、各国帝国主義と政治的に同化し、最後的な堕落にむかい、革命的マルクス主義は国際的極少数派としてそこから分離・分裂した。
 第三インターナショナル・マルクス主義が、第二インターナショナル・マルクス主義に対抗し、それを革命的に克服せんとするものとして生まれた。

2 第三インターナショナル・マルクス主義は、革命的ロシア・マルクス主義の闘いとボリシェビキ派の革命的プロレタリア党のための闘いを根幹とし、帝国主義戦争と社会民主主義の堕落に抗する革命的マルクス主義のための国際的闘いを助走とし、そしてロシア十月革命の勝利とそのプロレタリア独裁権力を国際テコとして、第二インターナショナルの左翼分裂として形成された。
 第二インターナショナルとそのマルクス主義は旧ヨーロッパを中心とした前期帝国主義の確立を物質的基盤として成立し、それは結局のところ前期帝国主義のあり方を構成する要素へと転落していった。だが第三インターナショナルとそのマルクス主義は、前期帝国主義の危機の爆発とその歴史的衰退・没落過程への突入を直接の時代的背景とし、この危機にたいするヨーロッパ労働者運動内部からの戦闘的反抗の企図を基盤とし、国際帝国主義と革命的に対立するロシア十月革命権力を主体的国際拠点として形成された。
 第三インターナショナルとそのマルクス主義のあと一つの重要な特徴は、その組織的・理論的運動がアジア・アラブ植民地世界のプロレタリアートのあいだに積極的足場を獲得しようとしたことである。アジア・アラブ植民地諸国の被抑圧諸民族は、一九〇五年ロシア革命と第一次世界戦争をもって、帝国主義支配にたいする民族的な反抗と反乱に踏みこみはじめた。第三インターナショナルとそのマルクス主義は、これら被抑圧植民地諸民族のあいだに共産主義的プロレタリア運動を独自に形成することを自己の課題として設定した。
 ここで留意しなければならないことは、マルクスとエンゲルスの一九世紀ヨーロッパ・プロレタリア共産主義の観点からするとき、このことはその主体的理論・綱領・運動領域のまったく新たな質的・歴史的拡大・飛躍を意味するものだったということである。マルクスとエンゲルスは、一九世紀ヨーロッパ世界をその主体的対象とし、そこでフランス革命以来のヨーロッパ民主主義革命と、イギリスにはっする資本主義的産業革命がつくりだす近代的賃金労働者階級を主体的社会階級とするプロレタリア共産主義革命との複合的相互関係を理論的、綱領的、実践的問題とした。したがって、マルクスとエンゲルスのプロレタリア共産主義理論には、植民地アジア・アラブ世界における共産主義的プロレタリア運動のための理論的示唆の要素はたしかにあった。
 だが、第二インターナショナル・マルクス主義との関係において、第三インターナショナルのこの新たな歴史的企図はまさに前代未聞のこと、驚天動地のことであった。現実には、この企図は革命的ロシア・マルクス主義の闘いとその理論的・政治的成果を出発点として始められた。それは、まったく手さぐりのうちに始められねばならなかった。
 こうして第三インターナショナルは、新生のロシア・プロレタリア独裁権力を橋わたしとし、帝国主義中枢ヨーロッパのプロレタリア運動とアジア・アラブ植民地諸国プロレタリアートの階級的闘いとを国際的に結合した新しいプロレタリア・インターナショナルとその革命的マルクス主義のために闘おうとした。
 第二インターナショナルは、旧ヨーロッパを中心とする前期帝国主義世界体制のその中枢におけるプロレタリア改良主義の運動であったし、そのマルクス主義は改良主義化し、親帝国主義的社会民主主義化をとげた。第二インターナショナルに革命的に対抗せんとした第三インターナショナルは、前期帝国主義のヨーロッパ帝国主義�アジア・アラブ植民地構造総体の革命的解体打倒を課題とするユーラシア的プロレタリア・インターナショナルとして自己の展望を設定しようとした。それは、前期帝国主義の没落的危機に対応し、そのヨーロッパ�アジア・アラブ構造の革命的打倒とユーラシア・プロレタリア国際革命の実現を直接的課題とするプロレタリア・インターナショナルの企図であった。

3 ヨーロッパ諸国の労働者大衆は、前期帝国主義確立期とそれが危機にむかう最初の局面において、おおむね第二インターナショナル各国運動をつうじて階級としての結集・組織化を基本的になしとげていた。
 もちろん、その政治的性格と組織形態は様々であった。一方の端には、労働組合的結集から議会労働党の形成にむかったイギリス労働者階級がもっとも改良主義的階級としてあった。他方の極には、革命的プロレタリア党のための闘いを階級結集の基軸とし、一九〇五年と一九一七年の革命において革命的階級として結集した絶対主義ロシアの諸民族プロレタリアートがいた。
 トロツキーは、第一次世界戦争勃発直後に発表した『戦争とインターナショナル』の序文で次のような主張をおこなっている。すなわち、第二インターナショナルはヨーロッパにおいて労働者を階級として結集・組織するという歴史的役割をはたしたが、政治的に堕落してしまった、 � 第二インターナショナルにとってかわるべき新しいプロレタリア・インターナショナルの歴史的任務は、被抑圧植民地諸人民の反乱と結合した帝国主義の国際的打倒と自己の直接的なプロレタリア革命の実現にむけて、すでに階級として組織されているプロレタリアートを再組織化し、革命的戦闘にむけて全面的に動員することである、と(トロツキー・アンソロジー『永久革命の時代』河出書房)。
 第三インターナショナルがアジア・アラブ世界で直面したのは、帝国主義の植民地支配にたいする民族的反抗と反乱にたちあがりはじめた被抑圧諸人民の闘いのなかで、これら社会における圧倒的少数派としての植民地プロレタリアートをまったく新たに、ほとんど零から独立的な革命的階級として組織し、結集してゆくことだった。そこには、第二インターナショナル期の革命的ロシア・マルクス主義が絶対主義国家権力にたいする革命的民主主義の闘いのなかで実践的課題として直面した労働者階級組織化の課題とある程度まで共通するものがあった。
 第二インターナショナル期の革命的ロシア・マルクス主義は、階級としていまだ未組織な労働者を絶対主義国家権力打倒の闘いにむけて革命的階級として組織し、結集することを課題にしていた。ロシア・マルクス主義とそのプロレタリア運動においても、ブルジョア民主主義的改良主義の潮流がメンシェビキズムとして形成され、発展した。だがロシアは絶対主義ロシアであり、その資本主義はヨーロッパにおいて後進的なものであった。かくしてロシア・メンシェビズムは、西ヨーロッパの社会民主主義勢力がそれぞれ自己の帝国主義のもとでその政治・経済構造のなかで獲得していった物質的基盤を自己のものとして実現しえなかった。プロレタリアートの社会改良主義運動をかかえこんだ西ヨーロッパのブルジョア民主主義的帝国主義と、他方、プロレタリアのあらゆる運動を抑圧する絶対主義ロシアの帝国主義とのあいだには重要な相違があった。
 ロシア・ボリシェビズムの革命的プロレタリア共産主義運動のための闘いは、メンシェビズムのブルジョア民主主義的・改良主義的性格にたいする終始一貫した政治的党派闘争をともなって展開された。革命的プロレタリア共産主義潮流としてのボリシェビズムは、ロシア・プロレタリアートとの直接的結合関係をもった革命党のための闘いとして現実に存在した。第一次世界戦争以前に革命的プロレタリア党のための直接的な組織的闘いが終始一貫して展開されたのは、ほぼロシアにおいてだけだった。ボリシェビキ派のこの主体的闘いを歴史的基盤として、一九一七年のボリシェビキ党は、レーニンの「四月テーゼ」以降、プロレタリア革命のために闘おうとする意識的分子をトロツキーをはじめとして自己の隊列のもとに総結集し、十月の権力奪取にむけてプロレタリアートの精力的・活動的多数派へと急速に転化していった。レーニン、トロツキーがのべているように、ロシアにおいてプロレタリアートの権力奪取としてのプロレタリア革命は相対的に容易だったのである。
 だが第三インターナショナルがヨーロッパ世界で直面した政治組織的課題は少々異なっていた。第三インターナショナルがヨーロッパ世界全体で直面したことは、次のことであった。すなわち、帝国主義のブルジョア民主主義的政治・経済体制のもとでひとたびは第二インターナショナル各国運動として社会民主主義的に組織された労働者階級を、帝国主義の国際的打倒とプロレタリア独裁権力樹立をめざす革命的階級闘争にむけて根底的に再組織するということ、 � ひとたびは社会民主主義的階級として組織され結集された労働者階級を対象として、暦史的につちかわれた第二インターナショナル社会民主主義をこの階級それ自体のなかで政治的に克服し、労働者大衆をまったく新しい革命的階級として組織しなおしてゆくという大変な課題であった。
 第三インターナショナルは、その当初から、とてつもない共産主義的目的意識性と忍耐力がもとめられるこの遠大な課題について鮮明な自覚をもっていたわけではない。第三インターナショナルのレーニン・トロツキー指導部が自己の急進主義的革命主義について自己批判をおこない、この課題を意識的に設定したのが、一九二一年の第三回大会だった。そして第三インターナショナルによるこの課題の解決に、ロシア十月革命権力の政治的命運とともに、プロレタリア世界革命の全命運がかけられていた。

4 第三インターナショナルのヨーロッパ各国共産党は一九一九年�二〇年に第二インターナショナル各国党の大衆的分裂をつうじて形成され、いくつかの重要な諸国では初めから大衆的共産党としてつくられた。
 だがこのことは、理論と綱領�党組織�党と階級の関係(党による階級の主体的組織化とそのための様々な戦術・大衆組織方針)をワンセットとする体系として、革命的前衛党そのものとこの党を中軸とする階級的プロレタリア革命主体の独自的構造が形成されたことを意味するものではなかった。
 第二インターナショナル各国党の大衆的分裂をつうじた第三インターナショナル各国共産党の形成は、それまで第二インターナショナル各国党のもとに組織されていた労働者階級の先進的・自覚的分子が、帝国主義の危機の尖鋭化と社会民主主義指導部の公然たる反階級的裏切りに直面し、ロシア十月革命権力とプロレタリア独裁のための闘いに大量的に引きつけられたことの即物的表現以上のものではなかった。それは、歴史的に第二インターナショナルのもとに組織されてきたヨーロッパ各国プロレタリアート自身の主体的情勢として、新しい階級的プロレタリア革命主体の独自構造を形成・組織するための条件があたえられ、前衛的プロレタリア革命党のための闘いの出発点があたえられたことを意味するものだった。
 かくして、ヨーロッパ世界における新しい革命的プロレタリア・インターナショナルのための闘いは、第三インターナショナル第一 � 四大会をもって、その出発点につき、現実に開始されたのである。それは、ロシア十月革命権力の存在とともに、まぎれもない歴史的事実であった。
 だが、第二インターナショナルのもとで社会民主主義的に組織されてきた労働者階級それ自体のなかで、いわばこの階級そのものであった社会民主主義を政治的に克服し、労働者大衆を新たに革命的階級として全面的に根底的に再組織するという第三インターナショナルの課題 � この課題の解決は、ロシア・ボリシェビキ党とそのレーニン・トロツキー指導部にとって、アジア・アラブ植民地諸国におけるプロレタリアートの独立的な共産主義的組織化の課題がそうであったように、基本的に未知・未経験の領域であった。

5 ここでわれわれが留意しなければならないことは、第二インターナショナルの中軸的党であるドイツ社会民主党にみずから身をおき、一八九五年エンゲルスの死とともに始まったドイツ社会民主党�第二インターナショナルの修正主義論争にその当初から最後まで一貫してかかわりつづけたのは、ポーランド人の革命的マルクス主義者ローザ・ルクセンブルグだったということである。ローザと同世代のレーニンと両人よりも十年若いトロツキーは修正主義論争の国際的中心には登場していない。
 第二インターナショナルの国際的中心部において修正主義、社会改良主義、階級協調主義、親帝国主義的社会民主主義に抗し革命的マルクス主義と非妥協的プロレタリア階級闘争路線のために終始一貫して闘いぬいたのは、ローザただ一人であった。第二インターナショナルにおいて革命的マルクス主義を代表したのは、レーニンでも、トロツキーでもなく、ローザ・ルクセンブルグというマルクス主義の巨人だった。
 その非妥協的な革命的反修正主義闘争ゆえに、また一九〇五年ロシア革命以降、ドイツ社会民主党と第二インターナショナルを戦闘的プロレタリア階級闘争の路線にむけて積極的に転換させようとする公然たる闘争ゆえに、ローザはドイツ社会民主党・労働組合官僚の政治的憎悪の的となり、また一九〇五年革命直後には、ドイツ社会民主党と第二インターナショナルの政治的現状維持を根本的立場とする中間派マルクス主義のカール・カウツキーと決別した。
 後にレーニンも告発しているように、カウツキーは、このときすでにその政治的現状維持の立場において階級協調的社会改良主義を事実上防衛する側にまわっていたのである。レーニンがカウツキーと政治的に決別するのは、一九一四年、第一次世界戦争勃発の時点である。第二インターナショナル全体にたいする政治的認識の点で、レーニンはローザに遅れていたのである。
 第二インターナショナルのなかでロシアは一つの政治的辺境であったし、またロシアの革命的マルクス主義者たちは絶対主義ロシアにおける労働者の革命的組織化の仕事に基本的に没頭しつづけたのである。
 ドイツ社会民主党によるローザ・ルクセンブルグの政治的虐殺は、第三インターナショナルのための闘いにとってまさに計りしれない打撃であった。その政治的威信においてレーニン、トロツキーと対抗しえるものは、ただ一人、彼女しかいなかった。ローザが存命していたならば、第三インターナショナルのレーニン・トロツキー指導部の急進主義的革命主義の克服はより速やかであっただろう。ローザがドイツにおいて共産党のために闘いつづけていたならば、レーニンはポーランド情勢についてローザに相談していただろうし、またレーニンの赤軍ポーランド侵攻の方針にたいして彼女は不退転の分派闘争をいどんでいただろう。ローザは、第三インターナショナルのそもそもの当初からプロレタリア統一戦線戦術の実践を要求していただろう。

二 一九二〇年代�三〇年代の
第三インターナショナルの政治分化

6 第三インターナショナルは、旧ヨーロッパを中心とする前期帝国主義の没落的危機の発展に対応し、社会民主主義的に堕落しはてたヨーロッパ・プロレタリア改良主義の第二インターナショナルと対決し、ヨーロッパ帝国主義�アジア・アラブ植民地体制全体の革命的打倒とユーラシア・プロレタリア国際革命の実現を直接的課題として出発した。それは、ヨーロッパ�アジア・アラブにまたがり、帝国主義中枢と植民地世界のプロレタリアートを統一する単一の国際共産主義運動の組織的実現を企図した。
 だが第三インターナショナルは、第一�四大会期(一九一九�二二年)をもって現実的な出発点についたばかりのところで、レーニンの病気と死とともに、その前進を停止し、一九二〇年代の停滞と退化、そして一九三〇年代の最後的な敗北と堕落のコースにおしやられた。
 第三インターナショナルはレーニンの監督とトロツキーの指導をうしなった。第三インターナショナルには、レーニンとトロツキーを越える指導部は事実として存在しなかった。トロツキーを排除するスターリン、ジノビエフ、カーメネフのトロイカ体制(旧ボリシェビキ「労農独裁」ブロック)のもとでジノビエフが第三インターナショナルの指導にあたったが、それは第三インターナショナルの一九二〇年代の混迷、停滞、退化の出発点であった。
 第三インターナショナル運動とその主体的国際拠点たるロシア十月革命権力は、一九二〇年代に困難な壁と歴史的限界に直面しなければならなかった。第三インターナショナルは、一九二〇年代に帝国主義ヨーロッパにおいて第二インターナショナルの社会民主主義をその組織的基盤たる労働者階級のところで政治的に克服し、プロレタリア革命にむけて突破してゆく展望を主体的に実現してゆくことができなかった。
 第三インターナショナル運動と新生のロシア・プロレタリア独裁権力は、一九二〇年代に前期帝国主義の中枢たる旧ヨーロッパのプロレタリア大衆のあいだで政治的袋小路におちいり、行きづまってしまった。その政治的限界は、一九二〇年代後半の第二次中国革命にたいする第三インターナショナル・モスクワ指導部の破滅的裏切りとして貫徹され、ヨーロッパ世界においてはイギリス炭鉱労働者のゼネストにたいする裏切りとして貫徹された。

7 第三インターナショナルの運動はすでに一九二〇年代にして政治的停滞・退化にむかい、その歴史的限界を露呈しなければならなかった。
 その必然的結果として、第三インターナショナルとそのマルクス主義は一九二〇年代をつうじて新たな政治的内部分化を発展させた。それは、トロツキー左翼反対派、スターリン官僚的中間派、ブハーリン右翼反対派への三分化として表現された。
 ここで注目しなければならないことは、一九二〇年代後半の政治的三分化において、ジノビエフとカーメネフが脱落し、政治的に消滅していったことである。このとき、レーニンと旧ロシア・ボリシェビキの革命的民主主義労農独裁論の時期が名実ともに最後的に終焉したといわねばならない。
 このとき以降、トロツキー、スターリン、ブハーリンによって人格的に代表される三派の相互関係と別のところで、「レーニン主義」についてたてることができなくなった。このとき以降、十月革命と内戦期を担いぬいたロシア・ボリシェビキの国際主義的プロレタリア左派はトロツキー左翼反対派のもとに結集した。かくして、トロツキー左翼反対派なしには、もはやレーニン主義の歴史的連続性について語りえなくなった。
 トロツキーは、ジノビエフ、カーメネフ、クループスカヤなどと組んだ合同左翼反対派の闘争とその敗北をつうじて、かってレーニンの革命的民主主義労農独裁論のもとで結集してきた旧ロシア・ボリシェビキの時代的終焉とその必然的な内部分化をはっきりと意識していたように思われる。
 トロツキーは、一九〇五年革命を直接的背景とするレーニンの革命的民主主義労農独裁論とトロツキーのプロレタリア永久革命論との対立は、一九一七年の十月革命にいたる闘いによって実践的に解決されたという態度をとっていた。合同左翼反対派は、スターリン・ブハーリン派の第二次中国革命にたいする裏切り的な段階論的「四階級ブロック」路線を批判し、これと闘争した。だが第二次中国革命の路線をめぐる闘争において、旧ボリシェビキの労農独裁論の図式から抜けでることのなかったジノビエフ、カーメネフとの妥協もあって、トロツキーはプロレタリア永久革命論の立場を公然と主張していない。
 第二次中国革命の総括にかんしてトロツキーが自己のプロレタリア永久革命論の立場を公然と明らかにするのは、合同左翼反対派の敗北とジノビエフ、カーメネフとの政治的決別の後である。
 合同左翼反対派の敗北の後、トロツキーは『レーニン死後の第三インターナショナル』、『永久革命論』、そして『ロシア革命史』を執筆した。
 前二書は、ヨーロッパを中心とする前期帝国主義の没落的危機とそこにおける帝国主義打倒の国際プロレタリア革命の綱領 � その根幹はヨーロッパ社会主義合衆国であった � を積極的に明らかにし、そのうえで帝国主義危機の時代におけるプロレタリア永久革命の理論を新たに体系化するものであった。『ロシア革命史』は、以上の立場から、一九一七年革命の内的な階級的政治力学の真実を明らかにするものであった。
 『レーニン死後の第三インターナショナル』と『永久革命論』はトロツキーの次のような確信をしめすものだった。
 すなわち、レーニンの革命的民主主義労農独裁論とそのもとに結集してきた旧ロシア・ボリシェビキの政治的・組織的延長上には、ロシア十月革命権力の社会主義的展望=第三インターナショナルの国際プロレタリア革命のための闘いの継続はもはやありえないということ、 � 第三インターナショナルの闘いは、ヨーロッパ社会主義合衆国の展望を根幹として前期帝国主義体制打倒の国際革命の綱領を鮮明化し、その理論を帝国主義危機の時代におけるプロレタリア永久革命論として新たに体系化することなしにはもはやありえない、 � かくしてレーニンの時代は一九二〇年代をもって現実に終ったのであり、レーニンのロシア・ボリシェビキ党と十月革命権力のための闘いは第三インターナショナルの国際的闘いとして新しい綱領と新しい理論体系をもってするカードル群の新たな国際的・ロシア的結集の闘いをもってしかもはや継続しえない、と � このようにトロツキーは結論をくだし、決断したのである。
 トロツキーのこの決断は、一九三〇年代における第三インターナショナル国際左翼反対派と第四インターナショナルのための政治組織的闘いとして貫徹される。トロツキーは、この決断と新たな闘いにおいてレーニンの前衛的プロレタリア革命党の方法を継承していた。
 トロツキーが主張したボリシェビキ・レーニン主義とは、かくして、帝国主義危機の時代におけるレーニン主義組織論のうえにたつ新トロツキー主義だった。それは、『われわれの政治的任務』(トロツキーのレーニン組織論批判)と『結果と展望』がセットになった自然発生主義的な第二インターナショナル・トロツキー主義と明確に区別されるものであり、第三インターナショナルの国際綱領とプロレタリア共産主義の理論として一九二〇年代後半にトロツキーによって完成され、体系化されたものである。

8 一九二〇年代末から三〇年代前半にかけたロシア十月革命権力の新段階たる官僚的予防政治反革命としての性格をもつ政治的反動化=ソ連邦労働者国家のテルミドール的・一国社会主義的固定化は、スターリンの官僚的中間派の主導下でスターリン分派自身の内部的再編成をともなった進行した。
 官僚的予防政治反革命としての性格をもったスターリニスト・テルミドールは、二〇年代末のトロツキー左翼反対派とブハーリン右翼反対派を肉体的に抹殺し、殲滅していった。
 だがその創始者たちの肉体的殲滅にもかかわらず、ブハーリン右翼反対派の綱領は、スターリニスト国家官僚それ自体のうちで、その内的メカニズムにもとづいて、一九四〇年代�五〇年代�六〇年代�七〇年代�八〇年代と一貫して生きつづけ、官僚内部におけるその強靭な生命力を証明した。労働者国家の一国社会主義官僚は、当初のスターリンとブハーリンの二つの綱領をかならず保持しつづけたのであり、スターリン自身からしてそうであった。
 ブハーリンの綱領は、一九四〇年代後半の東欧諸国、五〇年代以降のユーゴスラビア、一九五六年のポーランドとハンガリー、一九六八年のチェコスロバキア、そして七〇年代以降あらゆる労働者国家をとらえていった。今日、すべての労働者国家で流行となっている「経済改革」路線と「社会主義的市場経済論」なるものは、ブハーリン主義とその官僚的綱領の実践以外のなにものでもない。また帝国主義諸国共産党の「ユーロコミュニズム」化とは帝国主義諸国共産党のブハーリン主義化以外のなにものでもない。
 だがトロツキー左翼反対派の綱領は、その革命的プロレタリア性からして、あらゆる官僚から永久破門される以外になかった。プロレタリア永久革命を理論的根幹とするトロツキー左翼反対派の綱領は、もはや、その後の国際プロレタリアートの現実の歴史にゆだねられたのである。
 ブハーリン主義とその綱領の主体は労働者国家の官僚であり、労働者国家は戦後世界において拡大した。だがトロツキー主義とその綱領は、そのレーニン主義的プロレタリア革命主体の構造を現実のプロレタリアートのあいだで新たに歴史的に建設するという課題に直面した。トロツキーは、それを第四インターナショナルのための闘いとして展開しようとした。

9 第三インターナショナルは、ヨーロッパ世界�アジア・アラブ世界にまたがるプロレタリア・インターナショナルの企図であった。第三インターナショナルとそのマルクス主義の一九二〇年代から三〇年代前半にかけた内部的政治分化は、たんにロシア�ヨーロッパ部分において発展しただけではなかった。その政治分化は、東アジアの植民地世界においても、ロシア�ヨーロッパ部分における内部分化と連動しつつ、まったく独自の傾向を生みだしていった。
 それは、都市プロレタリアートの運動と闘争に直接的かつ基軸的基盤をおくのではなく、政治的辺境地域おける共産党の独自的・長期的武装闘争路線の形成としてあった。この路線を体現したのが、中国共産党の独自的武装闘争派傾向を代表した毛沢東であった。
 独自的・長期的武装闘争が中国共産党の全般的な戦略的路線として確定してゆくのは、一九三〇年代後半、大長征のうえで抗日戦争をつうじてであった。だが、その最初の原型は、上海蜂起の敗北、そしてモスクワの官僚的冒険主義によるいくつかの都市軍事蜂起の惨敗のうえで、モスクワの指導を拒否する毛沢東・朱徳の井崗山の軍事闘争にあった。
 共産党による独自的・長期的武装闘争派傾向を、ロシア�ヨーロッパ部分におけるトロツキー、ブハーリン、スターリンの三派関係の枠内で分類することはできない。それは、第三インターナショナルが植民地世界をかかえこむことによって、第三インターナショナル運動内部において発展した独自の傾向 � 革命的民族共産党派というべき第四の傾向だった。
 中国共産党毛沢東派は、第三インターナショナル全体におけるスターリン派モスクワ官僚の全般的ヘゲモニーを認めたし、スターリニスト・テルミドール化された官僚的ソビエト連邦を「社会主義国家」(=労働者国家)として承認した。だが毛沢東派は、自己の独自的な武装闘争勢力=党軍を基盤として、スターリン派モスクワ官僚の中国革命と中国共産党にたいする指導をボイコット・拒否する立場をとった。毛沢東派を特徴づけるものは、独自的な党軍を基盤とする革命的民族共産党という立場である。それは、スターリニスト・モスクワ官僚と国際的に妥協しつつ、トロツキー左翼反対派と異なるかたちで自国における革命的闘争を民族的に展望した。
 一九三〇年代後半、インドシナ共産党のホー・チ・ミン指導部が中国共産党毛沢東派の路線をベトナムにおける革命的民族共産主義の路線として採用した。まったく同様の傾向が、第二次世界戦争中、チトー指導部下のユーゴスラビアにおいて発展した。
 また、第三インターナショナルの外部から出発したカストロ・ゲバラの革命的武装闘争運動が、五九年の権力獲得後、まったく同様の位置を占めることになった。それは、さらにニカラグアをはじめとする中米諸国における革命的闘争として現在的に引きつがれている。

三 一九三〇年のヨーロッパと戦後のヨーロッパ

10 第三インターナショナルは、一九二〇年代にヨーロッパ・プロレタリアートのあいだでその社会民主主義勢力を政治的に克服する展望を獲得しえなかった。第三インターナショナルのこの主体的限界は、ヒトラー・ファシズムの帝国主義ブルジョア反革命にたいするドイツ・プロレタリアートとドイツ共産党の殲滅的敗北として貫徹した。第三インターナショナルのヨーロッパ各国共産党は、同時に、階級的プロレタリア革命主体としての構造とその可能性を全般的に喪失し、モスクワ官僚の外交政策に全面的に従属し、さらに各国の帝国主義ブルジョア民主主義との和解と妥協にむけた堕落的進化の過程になげこまれた。
 最初の労働者国家ソ連邦の官僚的一国社会主義国家へのテルミドール的堕落とヨーロッパ各国共産党の帝国主義ブルジョア民主主義との階級協調的和解・妥協にむけた堕落的進化は、相互に連動しあうワンセットの過程 � ロシア十月革命権力を主体的国際拠点とする第三インターナショナルのヨーロッパ世界における全面的流産・敗北という一つの歴史的現実として進行した。
 ロシア・ボリシェビキ党の十月革命権力と第三インターナショナルは、ヨーロッパ世界において帝国主義ブルジョア民主主義とそのプロレタリア的構成要素たる第二インターナショナル社会民主主義をプロレタリア大衆のあいだで政治的に克服しえず、その結果、帝国主義と社会民主主義的改良主義の政治の水準までみずから下降し、堕落していったのである。ヨーロッパ世界において、帝国主義と第二インターナショナル社会民主主義の側がロシア十月革命権力と第三インターナショナルを逆に政治的に屈服させ、堕落させ、歴史的に破綻にみちびいた。
 一九三〇年代後半のフランス・プロレタリアートの闘いはこの政治的壁を突破しえず、帝国主義ブルジョア民主主義の政府としての人民戦線政府をこえてプロレタリア革命の闘いに突進しえなかった。またフランコのブルジョア軍事反革命にたいするスペイン労働者の革命的闘いは、帝国主義ブルジョア民主主義ならびに第二インターナショナル社会民主主義とブロックをくんだスターリニスト・モスクワ官僚と第三インターナショナルによって内側から絞殺された。[ついでながら、一九三〇年代後半におけるスペイン・プロレタリアートとヨーロッパ世界の関係は、イベリア半島のプロレタリアートとヨーロッパ世界の関係として一九七〇年代にも基本的にくりかえされた。]
 社会民主主義と対決し、アジア・アラブ植民地反乱と国際的に結合して帝国主義を打倒せんとする革命的プロレタリア階級闘争のための闘い、すなわち第三インターナショナルのための歴史的闘いは敗北し、崩壊した。最初の労働者国家ソビエト連邦は官僚的一国社会主義国家へとテルミドール的堕落をとげ、モスクワ官僚とヨーロッパ各国共産党は帝国主義ブルジョア民主主義と社会民主主義との階級協調的和解・妥協にむけてまいもどり的に下降し、堕落していった。第三インターナショナルは帝国主義と第二インターナショナル社会民主主義にみずから敗北した。
 ヨーロッパ世界におけるプロレタリア運動の主体的情勢という観点からするとき、現実の歴史的事態は、官僚的一国社会主義の労働者国家ソ連邦の形成という新しい要素をともないつつ、いわば第一次世界戦争以前の状況、つまり「振りだし」の情勢にまいもどったのである。
 第二次世界戦争をつうじて、ヨーロッパ・プロレタリア運動の主体的情勢の以上のような政治的・歴史的性格にはいかなる基本的変化もなかった。
 第二次世界戦争において、官僚的一国社会主義の労働者国家ソ連邦とヨーロッパ・プロレタリアートはナチス・ドイツ帝国主義のヨーロッパ支配とイタリア・ファシズムにたいする軍事的・政治的闘争を展開し、そこからヨーロッパを解放した。だがこの闘争は、帝国主義ブルジョア民主主義と第二インターナショナル社会民主主義との和解と妥協という政治的レベルにおいて展開された。
 かくして実現されたヨーロッパの解放は、西ヨーロッパにおいては帝国主義ブルジョア民主主義にむけた解放、すなわち社会民主主義的改良主義にむけた解放であり、ユーゴスラビア(アルバニア解放はユーゴスラビア解放の一部だったか?)を例外とする東ヨーロッパにおいては官僚的一国社会主義の労働者国家ソ連邦の政治軍事的覇権の確立と新たな官僚的労働者諸国家の成立としてあった。
 そこには、ヨーロッパ永久革命のためのプロレタリア革命主体の独立的政治構造はユーゴスラビアをのぞいて存在していなかった。それは第三インターナショナルの敗北・流産・堕落によって最後的に解体されたままであった。

11 トロツキー、ひきつづいて第四インターナショナルは、一九三〇年代後半と第二次世界戦争中をつうじて、レーニン的プロレタリア革命主体の構造を現実のプロレタリアートのあいだで新たに建設する闘いを展開しようとした。だが、戦争直後の世界にむけたその直接的結果は組織的に実りあるものではなかった。
 一九三〇年代中頃をもって、第三インターナショナルとそのヨーロッパ各国共産党の階級的プロレタリア革命主体としての可能性は最後的に全般的に崩壊し、レーニン主義的プロレタリア革命主体の独自的構造をまったく新たに建設するという課題が国際プロレタリアートの歴史的現実にたいして直接になげだされた。だが、ヨーロッパ世界のプロレタリア運動総体におけるテルミドール的政治反動・政治的退歩が現実にはきわめて深刻なものであったことが事実として明らかにされたにすぎなかった。
 第三インターナショナルのボリシェビキ・レーニン主義、ロシア左翼反対派とトロツキー・プロレタリア永久革命論の理論と綱領にもとづく新たな独立的プロレタリア革命指導部、レーニン主義的プロレタリア革命党のための意識的・主体的闘いにたいして最小限の政治的エネルギーを補給しうる労働者階級自身の力が、暦史的現実として欠如していたのである。[第二次世界戦争とともにはじまっていたヨーロッパ・プロレタリア運動総体の政治的退化・テルミドール的反動は、それほどまでに深刻なものになっていた。]
 プロレタリア革命の事業は、直接にはレーニン主義的プロレタリア革命党の独自的闘いに媒介されることなしにはありえないが、究極的には、レーニン主義的党に栄養とエネルギーを補給し、支えることをふくめて、労働者階級自身の事業である。革命的前衛と現実の階級との関係は、対立と相互浸透をともなう主体�客体の弁証法的関係としてしかありえない。党はプロレタリア革命の理論と綱領を主体的に体現しようとするが、その党は自己の独自的な大衆運動、自己の独自的な大衆の組織化なしにはありえないし、また発展しえない。
 第四インターナショナルのための闘いは、ヨーロッパ世界の一九三〇年代�四〇年代のプロレタリアートのあいだで革命的前衛と階級との以上のような関係の最小限の原基形態を実現しえなかった。結果として、暦史的現実において、トロツキーはボリシェビキ・レーニン主義と自己のプロレタリア永久革命の綱領を理念と理論として防衛することしかできなかった。

12 かくして、第二次世界戦争をつうじてヨーロッパがナチス・ドイツ帝国主義の直接的ブルジョア反革命支配とイタリア・ファシズムから「解放」されたとき、そのプロレタリアートのあいだには歴史的に準備された階級的プロレタリア革命主体の独自的政治構造は、事実上、皆無であった。ヨーロッパ・プロレタリア革命の主体的要素が全ヨーロッパ的構造としてなかったのである。
 この歴史的陥没をプロレタリア大衆の様々な大衆闘争をもって大衆運動主義的に埋め合わせることは、マルクス主義の歴史的唯物論とレーニン主義的前衛党理論に反することである。事実、大衆運動主義によってそれを埋め合わせることは絶対的に不可能であるというマルクス主義とレーニン主義の真理は、一九四〇年代後半�五〇年代前半のヨーロッパ情勢の展開そのものによって証明された。イタリアとフランスにおいて、イギリスを初めとするその他の帝国主義ブルジョア民主主義諸国において、強力なプロレタリア大衆運動はあったが、プロレタリア革命はなかった。プロレタリア革命の主体的推進力がなかった。
 これが戦後ヨーロッパの出発点だった。
 階級的プロレタリア革命主体の独自的政治構造、プロレタリア革命の主体的推進力の欠如 � 戦後ヨーロッパ・プロレタリアートのあり方を歴史的に特徴づけるこの現実は、一九五〇年代�六〇年代�七〇年代、そして八〇年代の今日にいたるまでまったく不変不動である。プロレタリア革命のための主体的要素の欠如という最も決定的なこの歴史的現実の枠内において、一九五〇年代�六〇年代�七〇年代�八〇年代前半の様々な労働者運動、すなわち改良主義的労働者運動が東西ヨーロッパにおいて展開されてきたのである。
 西ヨーロッパ・プロレタリアートは、一九五〇年代後半から六〇年代全体にかけた帝国主義国際経済の全般的拡大成長発展を基盤として、経済土台決定論的に突然に改良主義化したのではない。このプロレタリアートは、その歴史的・政治的性格において、戦後の当初から改良主義的だったのである。
 戦後世界における東西ヨーロッパ・プロレタリアートのあり方は、その歴史的に規定された政治的性格において、帝国主義ブルジョア民主主義との関係において、そもそもの初めから改良主義的だったのである。帝国主義の国際的打倒とプロレタリア国際革命のための革命的プロレタリア・インターナショナルたろうとした第三インターナショナルはすでに一九三〇年代に破産し、全面的堕落にむかったたのであり、トロツキーの第四インターナショナルのための闘いは現実のヨーロッパ・プロレタリアートのあいだに最小限の「生命の泉」さえ見いだすことができなかった。

13 この点について、同志織田は同盟十二回大会にたいする「情勢・任務」報告において次のように述べている。
 「帝国主義中枢諸国のプロレタリアートは戦後三〇年の資本主義経済の再建と成長を担い、完全雇用と高福祉をかかげる国民共同体の幻想のなかに組み込まれた。西ヨーロッパ・プロレタリアートは第二次世界大戦において反ファシズム闘争を闘い、独自の政治的結集と戦闘力を蓄積してきたが、戦後の革命期をプロレタリア独裁の樹立にむけて切り開くための社会主義の綱領をクレムリンとその忠実な輩下としてのスターリニスト諸党によって奪われ、人民戦線的民主主義の綱領のもとで資本主義ヨーロッパの再建を許容しなければならなかった。この決定的な裏切りを出発点とするヨーロッパ・プロレタリアートの戦後史はパックス・アメリカーナのもとで〝ケインズ的世界〟≠ノ労働力として包摂されていく過程にほかならなかったのであり、スターリニスト諸党は国際スターリニストの分解と対立の過程でそれぞれ一国主義的な改良主義的〝進化〟≠汲ーるユーロ・コミュニズムとなることによって、一番後からこの共同体に馳せさんじたのである。」(『第四インターナショナル』第四九号、一〇二�三頁)
 西ヨーロッパ諸国プロレタリアートが戦後資本主義経済の再建をにない、「完全雇用と高福祉をかかげる」新帝国主義的国民国家共同体のなかに組み込まれてゆくうえで決定的だったのは、戦後の革命期をプロレタリア独裁にむけてきりひらくべき社会主義革命の綱領をクレムリンとスターリニスト諸党によって奪われ、人民戦線的民主主義の綱領=新帝国主義的ブルジョア民主主義の綱領のもとで資本主義ヨーロッパの再建を許したということである。「この決定的な裏切りを出発点とするヨーロッパ・プロレタリアートの戦後史」のそもそものあり方のところに問題がはらまれていた。
 ヨーロッパ・プロレタリアートの戦後的あり方については、さらに歴史的・政治的にたちいった検討が必要とされる。
 一九二〇年代�三〇年代の第三インターナショナルの闘いと運動は当然にもヨーロッパ・プロレタリアートの大衆的左派潮流によって現実に担われたものであり、ヨーロッパ・プロレタリアート自身によって直接に体験されたものである。ロシア十月革命権力を国際的拠点とし、プロレタリア独裁を実践的綱領としてかかげたこの第三インターナショナルの闘いと運動が歴史的に破産し、決定的に敗北した。まさにその政治的・歴史的結果として、広範なプロレタリア大衆それ自体の意識の中で、一九三〇年代後半から四〇年代にかけてプロレタリア独裁の綱領の崩壊が進行し、帝国主義ブルジョアジーと共存する民主主義の綱領、すなわち第二インターナショナルの綱領が復活し、強まっていった。戦後の革命期において、人民戦線的ブルジョア民主主義の綱領は、モスクワ官僚と各国スターリニスト党が裏切り的に押しつけただけでなく、各国共産党のもとに結集していたプロレタリア大衆それ自体の歴史的な政治意識のなかにもその基盤があったのである。
 ここでわれわれが見落としてならないのは、ヨーロッパ世界におけるプロレタリア運動の政治的改良主義化・ブルジョア民主主義化が一九三〇年代という前期帝国主義国際経済の崩壊的危機の頂点において生起したという歴史的事実である。このプロレタリア運動がその革命的政治主体の構造を最後的にうしない、まさに政治的に改良主義化・ブルジョア民主主義化したのは、帝国主義ブルジョアによる経済的買収によるものではなかった。プロレタリアートは、国家権力をめぐる政治闘争において敗北し、決定的に後退させられることによって、政治的に退化し、ブルジョア民主主義化したのである。それは、社会の上部構造の次元・位相における政治的主体としての労働者階級の敗北と後退をつうじてもたらされたのである。一九三〇年代のヨーロッパ世界の歴史的テルミドール状況はプロレタリア大衆の意識においても貫徹した。
 人はパンなしには生きられないが、「パンのみによって生きるにあらず」である。階級も生身の政治的存在であり、様々な夢と希望と熱情があり、また憔忰と虚脱と幻想がある。経済土台決定論は、前期帝国主義上昇期における第二インターナショナルの改良主義とその社会民主主義化を非常にせまい限界内で説明しうるかもしれないが、経済的土台決定論をもって第三インターナショナルの改良主義と社会民主主義化を真にとらえうると私は考えない。経済的土台決定論は第二インターナショナル・マルクス主義の方法ではあるが、マルクス�エンゲルスの革命的プロレタリア共産主義の方法、そしてローザ、レーニン、トロツキーのマルクス主義の方法ではなかった。

四 戦後マルクス主義の崩壊とわれわれの新しい課題

14 ヨーロッパ・プロレタリア運動の主体的政治状況という観点からするとき、第二次世界戦争直後のヨーロッパ世界は、ソ連邦・東欧諸国において拡大再生産された官僚的労働者諸国家体制を新たにともなって、いわば一九世紀末から二〇世紀初頭の「振りだし」的情勢にまいもどっていた。そして戦後世界の国際プロレタリアート全体のあり方を根本的に規定したのは、ヨーロッパ世界全体におけるプロレタリア運動のあり方だった。
 このようなものが戦後プロレタリア運動の現実の出発点であったし、また戦後マルクス主義の出発点であり、その運動的基盤だった。ヨーロッパ世界において主体的政治状況という点でいわば「振りだし」にもどってしまった戦後プロレタリア運動は、それ自体としては初めから歴史的破綻を予定されていたといわねばならない。ヨーロッパ世界を中心とする戦後マルクス主義は、第三インターナショナル・マルクス主義の戦後的退化・堕落形態として、その出発の時点においてすでに歴史的に敗北したマルクス主義だったのであり、その最後的崩壊も必然であった。
 すでに歴史的に敗北したマルクス主義として出発した戦後マルクス主義は、戦後労働者諸国家体制の袋小路的行きずまりが全般的に顕在化するなかで、イデオロギーとしての最後的崩壊過程になげこまれてしまった。第二インターナショナル・マルクス主義としてはじまり、国際プロレタリア運動の一つの歴史的意識形態としてあったマルクス主義の最後的終焉の過程が現に進行している。
 だがこのことは、マルクスとエンゲルスのものであった一九世紀プロレタリア共産主義の方法と理論、レーニンが体現したロシア・ボリシェビキの革命的プロレタリア階級闘争の方法と理論、そしてロシア十月革命の勝利とロシア左翼反対派の闘いのうえできずかれたトロツキーのプロレタリア永久革命の方法、理論、綱領の死滅を意味するものではない。それらは歴史的に実在したものであり、それらが真実のマルクス主義として新たに見いだされ、今日の現実のなかで主体化されることによって、その生命力が再生され、復活されねばならない。
 マルクス、エンゲルス、ローザ、レーニン、トロツキーたちが誤っていたのではない。そうではなく、問われているのは、現在に生き闘うわれわれ自身がマルクス主義の死滅にすすんで加担するのか、それとも革命的プロレタリア共産主義の思想、方法、理論を今日の現実のなかで真に主体化し、その生命力ある再生を現実の革命的国際プロレタリア運動として新たに実現してゆこうとするのかということである。
 マルクス主義再生の闘いは、革命的プロレタリア運動の国際的形成のための闘いとしてしかありえない。現在、あらためてわれわれに突きつけられているのは、一九三〇年代のトロツキーの国際左翼反対派と第四インターナショナル=新しい革命的プロレタリア・インターナショナルのための闘いを今日の世界において真に歴史的に継承し、再生してゆこうとするのか、否かということである。
[同盟十二回大会の「情勢と任務にかんする決議」はこの点にかんして次のように述べている。
 「帝国主義中枢諸国のプロレタリア運動が今日のレベルにおいて権力奪取に向かうことは、ラクダが針の穴をくぐるよりも難しいことである。プロレタリア革命に前進するプロレタリア運動を組織するためには、プロレタリアートの政治的ヘゲモニーを労働官僚から革命派が奪わねばならない。プロレタリア革命はプロレタリアート内部の〝革命〟≠K要とする。‥‥〝あるがまま〟≠フプロレタリアートはつくり変えられねばならない。プロレタリア革命は、それなしには生きていくことができないことを自覚し、そのために自己の全存在をかけようとするプロレタリアートが階級として実在しなければ勝利しえない。かかる自覚は組合主義的には生まれえない。それは、全世界の危機をみずからの肩に背負おうとする先鋭な国際主義的・政治的自覚でなければならない。今日のプロレタリア運動の改良主義的受動性が裏切りの結果として生みだされたものであるにせよ、その克服の闘いはプロレタリアート自身の変革をめざさねばなければならない。」(前掲誌四〇頁)
 「われわれ�第四インターナショナルは、来たるべき危機にむかって今日から闘いぬこうとする。プロレタリア革命派の潮流全体の強化、その統一的前進のために、われわれは闘う。だがわれわれは、この闘いがわれわれ自身�第四インターナショナル自身のプロレタリア世界革命のレーニン主義的前衛党としての強固な政治・組織力をきずくことなしに達成されないことを厳しく自覚する。‥‥わが同盟の闘いは第四インターナショナルの綱領に獲得せんとする闘いである。プロレタリアートを獲得するために闘うことと、われわれ自身をそれにふさわしいものへと鍛えあげていくこととは、一つである。」(同上、四八頁)]
一九八五年九月二三日

(付記)
 戦後世界における国際プロレタリアの現実のあり方とその運動、そしてそこにおける戦後第四インターナショナルの諸問題については、稿をあらためて検討することにする。

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