見捨てられた理論的な核心

書 評『20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉
    ――左翼再構築の視座を求めて』
寺岡衛 著 江藤正修 編 つげ書房新社刊/1900円+税 

誤解に基づく「脱トロツキズム」の無効性

「永久革命」論は「経済決定論」なのか


 寺岡はトロツキーの永久革命論(永続革命論)について、「労働者と農民が民主主義革命をやるけれども、そこで権力を握ったら直ちに、社会主義的な変革を同時に進めていく」という考え方だと説明し、日本共産党の「三二年テーゼ」(1932年にコミンテルンが作成した「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」)に見られる「ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への強行転化」論と共通する性格を持っていたかのように述べている。
 寺岡は語る。「革命派が権力を握って、下部構造である経済的土台を社会主義的(国有化・計画経済)に転換すれば、上部構造の転換は容易に転換できるという自動反映論、逆に言えば経済決定論という考え方から、強行転化論や永久革命論は成り立っていたのではないか」。寺岡はさらに強調する。「ところが上部構造である従来の意識や道徳、歴史的な生活規範は、下部構造の社会主義的な体制への転換によって影響され、直ちに新しい大衆の生活文化や社会的秩序が生み出されるというような安易なものではなかったということをロシア革命は示したのではないか」(本書p160)。
 しかし、こうしたまとめ方はトロツキーの主張とはまったく異なる。ロシアから追放された後にまとめた、すぐれて論争的な書である『永続革命論』(1930年)を見ることにしよう。トロツキーは同著の「序論」と末尾(「永続革命とは何か?[基本的命題]――光文社古典新訳文庫『永続革命論』)で彼の主張を要約的に繰り返している。
 トロツキーが「永続革命」の核心としてそこで語っているのは、第一に後進資本主義国における民主主義革命は「プロレタリアートの独裁」をもたらし、権力を担ったプロレタリアートは不可避的に社会主義革命の課題に直面するという、革命の「永続的」=「連続的」性格の確認である。ちなみに寺岡は「社会主義革命と民主主義革命の複合的性格」をトロツキーが主張したように語っているが、これは誤りではないか? トロツキーはロシアにおける資本主義発展の「複合性」について強調するが、「社会主義革命と民主主義革命の複合性」とは言っていない。むしろブルジョア民主主義革命の課題と社会主義革命の課題の相違(段階の相違ではない)について明確にしつつ、その「連続的発展」について主張しているのである。
 第二は社会主義革命の永続的性格についてである。「不確定の長期間にわたって、また不断の内部闘争を通じて、いっさいの社会的諸関係が創造される。社会は絶え間なくその姿を変えていく。社会改造の各段階は先行する段階から直接的に生じてくる。この過程は必然的に政治的性格を保つだろう。……経済、技術、知識、家族、日常生活、習慣における革命は複雑な相互作用を通じて進行し、社会が均衡状態に達することを許さない。この点に社会主義革命そのものの永続的性格が示されている」(「序論」)。
 第三は社会主義革命の国際的性格である。「社会主義革命は国民的舞台で開始され、国際的舞台へと発展し、世界的舞台で完成する。こうして、社会主義革命は、言葉の新しくより広い意味において永続的なものとなる。それは、われわれの惑星全体での新社会の最終的勝利にいたるまで完成することはない」(「永続革命とは何か?[基本的命題]」。
 ここには恣意的な「強行転化」論や、下部構造の変革(国有化など)によって意識、道徳、価値規範における変革が自動的になされる、といった「経済決定論」の臭いなどは微塵もない。
 寺岡は意識、道徳、価値規範などにおける変革という問題の独自の重要性について、トロツキーが最も先鋭に問題提起したことを知らないはずがない。たとえばプロレタリア文化論争においてトロツキーの取った立場(『文学と革命』の諸論文)や、『日常生活の諸問題』に収められた一連の提起(『文化革命論』、現代思潮社)がそうだ。トロツキーは「上部構造」の領域における変革の独自の性格について最も自覚的な人物の一人であったことは、これらの論考においてはっきり見てとれる。にもかかわらず、永続革命論に「経済決定論」や「下部構造反映論」の罪を科すのは、とうてい理解できない。
 彼はその他にも、コミンテルン型の欧州革命論批判や、人民戦線批判の「最後通牒主義」などについて言及しているが、ここでは取り上げない。

反官僚政治革命論の捉え方の誤り

 寺岡はトロツキーの官僚支配を打倒する「政治革命」論の限界をも指摘する。寺岡は、ソ連経済の生産力的拡大、近代化が「第二の補足革命」の主体となるべき労働者の自主的活動や市民の自立的民主主義意識を生みださなかったことを指摘して、次のように述べている。
 「そこにトロツキーの限界、反官僚政治革命論の一つの問題点がある。そのようにとらえると、第二の補足革命とは単なる政治革命なのかという疑問が出てくる。官僚を取り換えれば、あるいは官僚を追放すれば済むのかという問題である。トロツキーは第二の補足革命を反官僚の政治革命に限定している。そのことは国有化・計画経済によって社会革命の基盤は成立しており、問題はそれをゆがめ、堕落させ、危険にさらす官僚の政治支配のあり方ということになる。/だが労働者国家の社会、経済基盤とされる国有化・計画経済のあり方こそ、官僚の政治独裁と不可分の関係にあること、国有化・計画経済における上意下達の官僚的運営のシステムと官僚独裁の政治システムが相互に補完しあう一つの体制として成立していることが問題なのである」。
 「その意味では、単なる反官僚政治革命という枠を超えた社会革命という性格を、第二の補足革命は内包していたと思うが、その点が政治革命に限定されてしまった。すなわち反官僚政治革命とは国有化・計画経済をもって、社会革命(社会的所有)の基盤は成立しているという前提の上に、官僚支配をどう革命するかという考え方であったが、その限界が示された」(p138~139)。
 寺岡はトロツキーの政治革命論について「官僚を取り替えれば済む」ように主張していたかのように語っている。これはトロツキーの政治革命論に対する途方もない歪曲ではないか。トロツキーの主張については、やはり彼のソ連論についての主著である『裏切られた革命』を見るべきだろう。
 「問題はひとつの支配的徒党を別のそれととりかえることではなく、経済の管理と文化の指導の方法そのものをあらためることである。官僚専制はソヴェト民主主義に席をゆずらなければならない。批判の権利と真の選挙の自由を復活させることが国のいっそうの発展の不可欠条件である。それはボリシェヴィキ党をはじめとするソヴェト諸党の自由の復活と労働組合の蘇生とを前提とする。経済に民主主義がとりいれられるということはさまざまな計画を勤労者のためになるように抜本的に検討しなおすということを意味する。経済問題の自由な審議は官僚の誤りとジグザグがもたらす間接費を低下させるであろう。高いおもちゃ――ソヴェト宮殿とか新しい劇場とか見てくれのいい地下鉄とか――は労働者用の住宅のために押しのけられるであろう。『ブルジョア的な分配基準』は厳密にそれを必要とする範囲だけに限定され、社会の富の増大につれて社会主義的平等に席をゆずっていくであろう」(岩波文庫版『裏切られた革命」p360~361)。
 トロツキーはそのすぐ前の個所で「ボナパルティズム・カーストの打倒はもちろん重大な社会的帰結をもたらすであろう」とも述べており、問題がたんに政治権力上層部において支配的官僚集団を他のグループと取り換えることではないことを示唆している。なぜか。それは「生産手段は国家に属している。しかし国家は官僚に『属している』ようなものである」(『裏切られた革命』)というソ連邦において、特権的官僚集団を打倒する政治革命は、政治・経済・社会・文化全般における運営の方法の根本的変革に帰結するからである。 
 トロツキーは「計画化・市場・ソヴィエト民主主義という三要素の調整のみが、過渡期の経済の正しい方法を調整できる」と述べた(「第二次五カ年計画の開始に際して危機に陥ったソヴィエト経済」1932年、『ソヴィエト経済の諸問題』現代思潮社刊)。そしてトロツキーは、この方法は一九一七年の十月革命が達成した社会的所有関係の革命の基礎に立って可能であると考えた。スターリニスト官僚のボナパルティスト的支配が、その社会関係の土台をいまだ転覆していない限りにおいて、官僚支配の打倒は「社会革命」ではなく「政治革命」なのである。トロツキーの「第二の補足的革命」論が、寺岡の言うように「官僚支配を取り換える」だけのものだったのなら、それはそもそも「革命」の名に値しないだろう。

検証作業に求められる姿勢

 私は、本書で寺岡が提起している「市場独裁による人間の商品化」、「自然、環境の商品化」、「貨幣の商品化」(われわれの立場ではこうした表現は取らない。なぜならマルクスによれば「価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理者によって流通手段として機能する商品は、貨幣である」[『資本論』第1部第3章第3節]のであり、今日の金融投機においてはじめて貨幣が商品になるわけではないからである)という「三つの商品化」に対する「個人の人格権、人権の確立のための闘争」において「新しい人権闘争の第二段階、市民革命の第二段階が提起されている」という「第二の市民革命」論については、十分な検討と討論が必要だと考えている。
 そうした展望を出すために、ロシア革命から始まる社会主義革命論の総括・克服が必要だという寺岡の問題意識については理解できないわけではない。しかし寺岡の方法論は、そうした彼の新しい情勢評価と展望から、きわめて強引に「過去」をまるごと一体として清算しようとするものであり、その無理がトロツキーの主張をあからさまにねじまげて解釈し、否定する結果に導いてしまうのである。
 寺岡は以前から「構造」、「基盤」という語を多用していた。彼の主張には「構造」と「基盤」に物事を還元し、そこから現実を体系化し説明する傾向があるのだが、それが実は多くのものを切り捨てる結果になってしまうのだ。
 一九四〇年八月二十一日、トロツキーがスターリンの送りこんだ暗殺者によって殺害されてから今年で七十年になる。この「書評」は、トロツキーの主張の擁護と再確認に傾きすぎたかもしれない。書評としては、もう少し寺岡の「左翼再構築の視座」に即して論じるべきだろう。ただ私としては寺岡の「脱トロツキスト」宣言に対して、トロツキーとの決別の仕方としてはもう少し丁寧に行うべきだと言いたかったのである。
      (平井純一)

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