連続講座「永続革命としてのロシア革命─マルクス・エンゲルスからトロツキー・グラムシまで」

第3回 「ロシア・マルクス主義の成立から一九〇五年革命まで」(下)
プレハーノフが果たした積極的役割

2、ロシア・マルクス主義の生成―革命的ナロードニズムからマルクス主義へ(承前)

 三つ目に、ナロードニキたちは、その農村中心主義に反してテロ活動のための活動の拠点を農村から都市に移動させざるをえませんでした。というのも、ツァーリ自身や、また政府や行政機関の幹部がいるのは都市であって、農村ではないからです。そして、都市部においてテロへの支持を訴えるとなると、当然、その対象は主として労働者にならざるをえません。「人民の意志」派の当時の檄文や宣言の中には、労働者に直接訴えたものがいくつもあります。こうして、結果的に労働者階級に活動の重心を移すことになったわけです。
 四つ目に、実際ツァーリ暗殺に成功し、結果的に大弾圧をくらいますが、ツアーリの存在は絶対ではないという確信を先進的人民の中に広げるとともに、しかし個人の暗殺では社会の変革は不可能であることを教えます。というのも、暗殺されたアレクサンドル二世の代わりに皇帝になったアレクサンドル三世は父親以上に頑迷で保守的で残酷だったからです。個人的テロ以外の道を選択しなけれならないということが革命派にとって明らかになりました。結局、この路線は最終的にナロードニズムの壊滅をもたらして、ナロードニキの中のマルクス主義に親和的な人々の政治的自立を促します。その筆頭がプレハーノフとザスーリチでした。
 プレハーノフは亡命地のパリやジュネーブなどで毎日のように図書館に通って本格的にマルクス主義や哲学や経済学、人類学や近代史について猛烈な研究を行ないました。まさにマルクスが亡命地のロンドンの大英博物館でそうしたようにです。彼はそのような猛勉強を通じて自らの力でマルクス主義を再発見し、史的唯物論の正しさを確認するわけです。教条的にマルクス主義を受け入れたのではなく、歴史それ自身のうちに史的唯物論を再発見し、哲学の発展史のうちにマルクス主義へと至る必然的な道筋を見出したのです。
 こうした転換の過渡期にあたるのが、プレハーノフが訳した一八八二年ロシア語版『共産党宣言』です。プレハーノフは『共産党宣言』を訳す中で、この『共産党宣言』のドイツ革命論のうちに、ロシア革命論のヒントを見出します。このロシア語版には例の有名なマルクスとエンゲルスの序文が掲載されていますが、この序文とともにプレハーノフの序文も掲載されています。そこには皮肉なことに、マルクスとエンゲルスの序文が両者のナロードニキへの接近・融合を示しているのとは正反対に、ナロードニキからマルクス主義へと発展過程が示されているわけです。
 最終的にプレハーノフは、一八八三年にマルクス主義者となり、「労働解放団」を結成するとともに、その最初の事業として「現代社会主義叢書」の発行を開始し、その第一弾として『社会主義と政治闘争』を出版します。これは非常に短い小冊子でしたが、これに対してナロードニキから攻撃と反論を受けたので、プレハーノフはそれに答えて、はるかに分厚い反論の書、『われわれの意見の相違』(一八八五年)を出版します。これはほぼ全面的にナロードニキの理論を反駁したものであり、レーニンを含め、ロシア・マルクス主義の新しい世代をまるごと教育する上で決定的な役割を果たしました。同じく、今回の資料に訳出したヴェラ・ザスーリチの「エンゲルス『空想から科学へ』ロシア語版序文」やプレハーノフが第二インターナショナルの創立大会で行なった演説(一八八九年)なども非常に重要です。これらのロシア・マルクス主義の第一世代の優れた諸文献は、ナロードニズムの混迷と隘路を突破して、ロシアの革命家たちにとるべき道をはっきりと鮮やかに示したのです。プレハーノフを中心とするこの第一世代の偉大な巨人的努力なしには、レーニンもトロツキーも存在せず、したがってもちろんロシア革命もなかったでしょう。

3、ロシア・マルクス主義者による晩期マルクスの隘路の克服


 ロシア・マルクス主義に対しては多くの偏見がありますので、ここではっきりとロシア・マルクス主義者の立場が晩年のマルクスのロシア論の混迷を乗り越える内容を持っていたことを強調しておきたいと思います。晩年のマルクスのロシア論に見られる複合発展史観に対してプレハーノフらロシア・マルクス主義者がロシアにおける単線発展史観を対置したかのような見方がしばしば見られますが、そうではなく、晩年のマルクスの抽象的で極端で非現実的な「複合発展」論に対して、プレハーノフらは現実的で具体的な本来の複合発展論を対置したのです。
 マルクスが、ロシア全体を農村共同体が存続している地域としてまるごととらえ、それと西欧の高度な技術との結合を展望しましたが、プレハーノフはロシア内部の発展の不均等性を的確に捉えていました。そしてプレハーノフは、別にロシアの農村共同体がすべて解体しなければロシアで資本主義が発展しないなどというような極論をとっていたのではなく、ロシアの農村共同体の解体過程そのものが不均等に進み、それがいち早く解体していった都市部近郊の農村共同体からプロレタリアートが輩出されていき、それを基礎にして、専制政府の上からの産業育成政策とあいまって資本主義が本格的に発展することは可能であり、すでにそうなっていると考えました。そしてこの若いプロレタリアートに基づいて専制政府に対する闘争を遂行して、専制を打倒することは可能である。そして、すでに西欧では資本主義が十分に成熟しており社会主義勢力が発達しているので、ロシアで農村共同体が解体しつくすずっと前に、西欧社会主義革命の助けを借りて、ロシアでは社会主義に移行することができる、と。このように、プレハーノフは極端な歴史的二者択一論でも極端な地理的二分法論でもなく、歴史発展の中間の道を展望するとともに、ロシアそれ自身の内部における不均等複合発展を展望していたわけです。
 したがって、プレハーノフの革命論も単純な二段階革命論ではありません。最初は絶対主義を倒すブルジョア民主主義革命を遂行した後に、西欧資本主義国家のように長期にわたる資本主義的発展の過程を経てからようやく社会主義革命の時代が到来すると考えたのではなく、マルクスの『共産党宣言』におけるドイツ革命論に学んで、ロシアにおけるブルジョア民主主義革命は、『共産党宣言』時点における西欧諸国よりもはるかに資本主義と社会主義勢力が発展した状況の中で遂行されるので、それはドイツ以上にロシアにおけるプロレタリア革命の序曲になると主張しています。
 この点から和田春樹氏などは、この時点でのプレハーノフの理論を二段階連続革命論であるとさえ言っているぐらいです。もちろんこれは過大評価であり、プレハーノフはあくまでも二段階不連続革命論だったのですが、二つの段階の間の期間は西欧の場合よりもはるかに短くてすむと考えていたのです。したがって、ロシアで社会主義革命が成功した暁には、農村共同体はまだ広範に残っているだろうから、そのときにはこれらの農村共同体をナロードニキのように社会主義建設の基盤として活用すればいいと考えました。実際、一九一七年の時点でも、農村共同体は六割ぐらい残っていたので、まさにプレハーノフやザスーリチの見通しどおりに事態は進行したのです。

4、ロシア・マルクス主義の本質(略)

5、プレハーノフからレーニンへ


 プレハーノフは、ロシア労働者階級こそがロシア革命の主体勢力であると宣言し、この観点こそがロシア・マルクス主義のその後の発展の礎石を築きました。第二インターナショナルのパリ大会で行なった演説の最後の有名な文句、「ロシアの革命運動は労働者の運動として勝利するだろう、さもなくばまったく勝利しないだろう」という定式こそ、トロツキーの永続革命論を含むその後の理論的発展のいっさいを内包するものでした。プレハーノフのこの業績はいくら強調しても強調しきれません。しかしロシアの労働者階級はロシアの少数派であり、人口の五~六%ぐらいです。この少数派だけではもちろんロシアで革命を起こしたり維持したりすることはできないので、同盟者が必要になります。この同盟者をめぐって、ロシア・マルクス主義のあいだで大きな理論的・実践的分化が生じるのです。
 プレハーノフが労働者階級の主たる同盟者として考えたのはブルジョアジーでした。ただし農民を軽視したり、否定したりしたわけではなく、労働解放団の第一次綱領(一八八四年)にも「労働解放団は、ロシアの勤労住民の圧倒的多数を占める農民をけっして無視するものではない」とわざわざことわっているぐらいです。けれども、都市部における主たる同盟者はやはりブルジョアジーであって、それゆえプレハーノフは、労働者政党の側があまりに急進的なこと(「赤い妖怪」)を言うとブルジョアジーが反発して逃げてしまうと考え、その点への政治的自制を絶えず強調するようになり、そのことがプレハーノフの属したメンシェヴィキの決定的な政治的制約となりました。
 それに対してレーニンは、労働者階級の主たる同盟者はブルジョアジーではなく農民であるとみなし、土地を求める農民の革命運動こそブルジョア民主主義段階における労働者階級の最も信頼の置ける同盟者であるとみなしました。そしてブルジョアジーに関しては、なるほど彼らは革命の最初の局面ではそれなりの役割を果たすだろうが、革命が深化すればするほど、ブルジョア民主主義革命の段階においてさえ彼らは革命運動に敵対するようになるだろうと考えました。これこそまさに、一八四八年革命の敗北の教訓にもとづくものであって、そのときよりもいっそう社会主義勢力が脅威となっている当時のロシアにおいてはいっそうあてはまります。それゆえ、ブルジョアジーの反発を恐れて政治的主張や行動を自制するのは革命派の自殺行為であるとみなしたわけです。もちろん、この点に関してトロツキーはまったくレーニンと同じ意見でした。
 本格的な革命が起こっていないときには、これはあくまでも潜在的な対立でしたが、一九〇五年に実際に革命が起こり、盛り上がってくると、この潜在的対立点は必然的に鋭い理論的・実践的対立に転化します。

6、一九〇五年革命の衝撃と革命論の分化

 一九〇五年一月九日の血の日曜日事件をきっかけとして、ロシア全土、とりわけその都市部において労働者の嵐のようなゼネストやデモンストレーションが巻き起こります。この労働者階級の戦闘性と行動性は、プレハーノフらが理論的に想定していた以上のものであって、レーニンやトロツキーの予想さえある意味で上回るものでした。
こうした中で、ロシア・マルクス主義者のあいだで新しい革命論が次々と生まれていきます。まずプレハーノフらのメンシェヴィキは、二段階不連続革命論を堅持しましたが、第一段階たるブルジョア民主主義革命と第二段階たるプロレタリア社会主義革命とのあいだの時間的距離は急速に縮小していき、しだいに二段階連続革命に近いものへと変貌を遂げ、時に「永続革命」という言葉さえ用いるようになります(その具体的な内実はトロツキーのものとは異なりますが)。しかし、あくまでも主要な同盟者はブルジョアジーであり、専制を打倒した暁に権力を握るのはブルジョア政党だから、労働者政党は急進的野党の位置にとどまって、下からブルジョア政権を突き上げて、より急進的な改革をやらせるべきだと主張しました。
それに対してレーニンは、周知のように労農民主独裁論を唱えます。労働者と農民の闘争が専制政府を打倒し、その暁には労働者の代表と農民の代表とがともに政府を構成して、上からと下からの徹底した民主主義革命を遂行するという展望です。ブルジョアジーは権力を取りたがらないし、たとえ権力を握っても民主主義革命を挫折させようとするだけだから、労働者と農民の党が自ら権力をとらなければ民主主義革命は遂行しえないとみなしたのです。しかし、レーニンは引き続き、二段階革命論を堅持していたので、この民主主義独裁はブルジョア革命の枠組みを突破することはできないだろうと考えました。
それに対してパルヴスとトロツキーは、なるほどたしかに農民の革命運動は労働者にとっての重要な同盟者だが、都市部においては革命勢力は労働者しかいないのであり、農民は下から反乱を起こせても、労働者政党に匹敵するような農民政党を成立させることはできない。したがって、結局、革命が勝利した暁には、革命的労働者政党の政権が、つまりは労働者政府が成立するだろうとみなしました。ここまではパルヴスとトロツキーはいっしょです。しかし、パルヴスは結局、段階革命論の枠内にとどまったのに対して、トロツキーはそれをも突破します。いったん政権についた革命的労働者政党は、その政策を人為的にブルジョア民主主義段階にとどめることはできないだろう、そのような政治的自制は労働者政府にとって自殺行為になるだろう。ブルジョアジーは労働者政権を倒すために、ロックアウトやサボタージュ、あるいはあからさまな反革命的行動に打って出るのであり、ブルジョアジーの経済的権力をそのままにしていては、民主主義革命でさえ徹底することはできない。労働者政府はその自己保存の論理からしても、資本主義的所有を侵害しないではおれないだろう、と。こうしてトロツキーは、段階革命論の枠を大胆に突破して、はじめて本来の意味での永続革命論を確立したのです。
実際、一九一七年においてブルジョアジーはロックアウトや生産のサボタージュ、物資の隠匿、買占めや売り惜しみなどを系統的に行なうことで、社会を混乱させ、労働者を疲弊させ、政府を自分たちのヘゲモニー下に置こうと画策しました。こうした策動を打ち破るためには、生産と流通の領域をも労働者政府の支配下に置かざるをえないのであり、ブルジョア革命の枠組みを大胆に突破せざるをえないのです。

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