連続講座「永続革命としてのロシア革命─マルクス・エンゲルスからトロツキー・グラムシまで」

第4回「ロシア革命からヨーロッパ革命へ」(上)
2月革命と10月革命めぐる論争

報告:森田成也

1  1905年から1917年へ(略)

2 1917年革命をめぐるいくつかの論点

 さていよいよ一九一七年革命に入りますが、この革命の詳細な経過についてはとても語ることはできませんので、一九一七年革命をめぐるいくつかの重要な論点を整理して、それについて簡単にコメントしておきたいと思います。

論点1:一九〇五年革命との連続性と非連続性

 まず最初は、一九〇五年革命と一九一七年革命との連続性と非連続性という論点です。まずは連続性から見ておきます。一九〇五年革命の出発点は、周知のように一月九日の「血の日曜日」事件です。そして、一九〇五年革命の象徴となったソヴィエトが結成されるのがその年の一〇月ですから、革命の勃発からソヴィエトの結成まで九カ月もかかっています。この期間は、二月革命から十月革命に至るまでの期間とほぼ同じです。もし一九〇五年革命がなかったら、一九一七年の二月に革命が起こってから実際にソヴィエトが結成されるまでに同じぐらいかかったとすると、十月の時点ではまだソヴィエトはできたばかりだということになり、とうてい革命に間に合わなかったでしょう。
ところがすでに一九〇五年革命においてソヴィエト結成の経験をしていたので、二月革命の勃発とほぼ同時にソヴィエトが結成され、あっというまに労働者・兵士・農民の圧倒的支持を受けるようになり、これが最初から革命の主役となります。もちろん最初、ソヴィエトの多数派を取ったのはメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)ですが、このソヴィエトが存在していたからこそ、その中での粘り強い活動(陣地戦!)を通じてボリシェヴィキは急速に支持を広げ、多数派になることができたのです。このソヴィエトなしに、十月革命は絶対に考えられません。つまり、一九〇五年革命は敗北したとはいえ、一二年間の中断を経た後、再び一九一七年に再開されたと考えてもいいわけです。これが両革命の連続性の決定的な側面です。
しかし、一二年間もの中断があったわけですから、もちろん大きな変化も存在しています。それは革命主体の決定的な分化です。すでに述べたように、一九〇五年革命の際には、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルが緊密に協力してソヴィエトを支え、さらにすべての派が事実上、トロツキーの理論的ヘゲモニーのもとにありました。しかし、その後の反動期と第一次世界大戦の勃発によって、そのような美しい統一性は完全に破壊され、メンシェヴィキもエスエルもかなり右傾化していました。そして実際に二月革命が勃発し、さらに連立政府ができて以降は、メンシェヴィキとエスエルの主流派は完全に帝国主義戦争を支える役割を果たすようになります。エスエルは本来はマルクス主義者以上に社会主義への直接的移行を展望していたはずなのに、右翼メンシェヴィキとまったく同じブルジョア臨時政府の人質と化し、ブルジョア権力を擁護します。このような政治的・組織的分化こそが、両革命の非連続性の面です。後述するように、この点は後に別の意味も持ってきます。

論点2:帝国主義戦争の二重の影響

 よく言われるように、帝国主義戦争はツァーリ政権を崩壊させる上で決定的な役割を果たしました。すでに一九〇四~〇五年の日露戦争のような局地戦争でさえツァーリ政権は崩壊寸前までいったわけですから、第一次世界大戦のような総力戦にはとうてい持ちこたえることはできませんでした。そして、戦争の真っ最中に革命が起こったことが、その後の革命の運命に決定的な意味を持つことになります。
一九〇五年革命が最終的に挫折したのは、ツァーリの軍隊を革命の側に獲得できなかったことです。軍隊は最も後進的な民族や農民から調達され、都市の先進労働者・市民層の革命を粉砕するために投入されるというのが通常のパターンです。このパターンがこの時は成り立ちませんでした。農民兵が戦争の三年間の地獄のような経験を通じて、急速に革命化しました。そして、二月革命でできた臨時政府もこの帝国主義戦争を遂行するという立場を維持したために、臨時政府は急速に支持を失っていきました。
その意味では、戦争と敗北は革命を促進する役割を果たしたのは紛れもない事実です。しかし、敗北と革命との間には、すでにトロツキーが一九一六年の論文で書いているように弁証法的関係があります。トロツキーは、自国が敗北すればするほど革命にとって有利になるという意見を退けました。ある一点を超えると、敗北は革命を促進するのではなく、革命ごと国を崩壊させるからです。一九一七年においてはいわば、革命派が権力を握るスピードと、戦争によって国が崩壊するのと、どっちが早いかという競争になったのです。権力を取るのが遅ければ遅いほど、前線の崩壊は破局的に進行して、どんな形であれ講和が不可能になり、ドイツ軍によってペトログラードが占拠され、革命そのものが粉砕される可能性がますます高まります。こういう非常にギリギリの競争が一九一七年二月から一〇月にかけて行われていたのであり、ギリギリでボリシェヴィキによる権力獲得が間に合ったのです。(途中略)

論点3:二月革命と十月革命との関係

 論点の三つ目は、二月革命は確かにブルジョア民主主義革命で、十月革命はプロレタリア社会主義革命であるという図式がはたして正しいのか、という問題です。これは典型的なスターリニスト史観ですが、まったく一面的な議論です。二月革命は確かにブルジョア民主主義革命でしたが、一方ではそれはすでにブルジョア的限界を超えた内容を部分的に持っており、他方ではそれを完成させるはるか手前にあったという限界も持っていました。この二重の意味で二月革命を単にブルジョア民主主義革命として特徴づけることはできません。まず前者に関しては、何よりもソヴィエトという労働者権力の機関を成立させたことや、「命令第一号」に見られるように軍隊それ自体を民主化したことです。軍隊はどんな民主主義的なブルジョア国家においても専制的体制の下に置かれますが、二月革命は真っ先に軍隊を民主化し、その点でブルジョア的限界を超えた内容を持っていました。限界の方について言うと、たしかにツァーリ政権は倒れましたが、ロシアのマルクス主義者がロシアにおける民主主義革命のメルクマールとしてきた農民解放ないし土地革命は達成されていませんでした。二月革命後にできた臨時政府はこの点では何もせず、憲法制定議会を待つという姿勢で、むしろ農民が自発的に地主の土地を奪取して、自分たちの間で分配し始めたのを弾圧して、逮捕したりしていました。この意味でブルジョア民主主義革命は中途半端にしかなされなかったのです。
二月革命においてブルジョア民主主義革命の課題が十分に達成されなかったからこそ、革命的エネルギーはそのまま持続し、いっそう拡大し、十月革命にまで至ったのです。むしろ、二月革命がブルジョア民主主義革命としての「段階」をまっとうしていたなら、十月革命は起こらなかったでしょう。政権奪取直後に「平和に関する布告」などと並んで「土地に関する布告」を出して土地を農民にという積年のスローガンを実現した十月革命こそが、ブルジョア民主主義革命を完成させたのです。したがって、十月革命はブルジョア民主主義革命の完成であり、かつプロレタリア社会主義革命の開始であると言うことができます。その意味で革命は段階的に分かれていたのではなく、オーバーラップしており、複合的であったということです。これはトロツキーが後にいろんな論文で強調している重要な論点です。

論点4:一九一七年革命は機動戦の革命だったのか?

 論点の四つ目はグラムシとの関係で重要な論点です。グラムシはその「獄中ノート」において、周知のように、ロシア革命が機動戦としての革命の最後のものであって、その後、陣地戦の時代になるという時代的図式と、「東方の機動戦、西方の陣地戦」という地理的図式を示しました。そのおかげで、あたかも一九一七年革命が全体として機動戦であったかのような常識が成立しています。さらにグラムシが、不幸なことに、この図式にトロツキーの永続革命論を機動戦の典型としてオーバーラップさせたために、「ロシア革命=機動戦=永続革命」という図式が広く共有されることになりました。しかし、これは何重にも大きな間違いです。
まず第一に、一九一七年の革命を十把ひとからげにして、機動戦と特徴づけることはできません。機動戦の革命と言えるのは二月革命だけです。まさに街頭にわーと人民大衆が出て、一気に政権が倒れ、革命が成立します。まさに典型的な機動戦の展開であり、ある意味で歴史上、最も成功した機動戦だったと言えます。
ところがこの機動戦の結果どうなったか。反革命派によるブルジョア政権が成立したのです。トロツキーは『ロシア革命史』においてこれを「二月革命のパラドックス」と呼びました。なぜなら、二月革命を実際に遂行した人々と最も対立していた人々、いかなる革命にも反対していた人々が革命の結果として権力を握ることになったからです。これは機動戦のある種の宿命です。事前に有機的に組織された下からの運動、力にもとづいておらず、一気に既存の政権を倒すわけですから、当然、倒れた政権の後を継ぐのは、すでにそれ以前において、政治的経験や支配の経験を積んできた旧勢力ないしその片割れということになるわけです。ですから機動戦として二月革命は、それが機動戦であったがゆえに、その使命を真に達成することはできないわけです。
では、この二月革命の後で何が起こったかというと、レーニンの有名な「四月テーゼ」によって、ボリシェヴィキが、トロツキーの言う「思想的再武装」を行って、事実上、永続革命の路線へと転換すると同時に(その転換は最初はまだ不十分なものでしたが、しだいにより明確なものになる)、すぐに決起するのではなく、あるいは臨時政府打倒のスローガンを掲げるのでもなく、大衆を説得し、ソヴィエトや軍隊の中で粘り強く支持を広げていくという陣地戦の戦術が提起されたのです。レーニンに一カ月遅れてロシアに帰還したトロツキーもまったく同じ立場を取りました。臨時政府の即時打倒だと血気にはやる極左派をなだめながら、レーニンおよびトロツキーはソヴィエトや組合や工場や軍隊の中でこつこつと支持を広げていくのです。つまり、永続革命の戦略的路線をとることと、陣地戦の戦術的路線を取ることとが、同時に実行されたのであり、それこそが「四月テーゼ」の決定的な意義でした。この下からの陣地戦を通じて、軍隊、工場、ソビエトという決定的な三つの戦略的拠点において、ボリシェヴィキは多数派になりました。だからこそ十月革命は、ほとんど流血なしに成功したのです。
つまり、二月革命が歴史上最も成功した機動戦の革命であったとすれば、十月革命は歴史上最も成功した陣地戦の革命であったと言えます。そして、それがあまりにもよく成功した陣地戦であったがゆえに、後年、それは「クーデター」であるとさえ言われるようになりました。たしかに、赤衛軍が冬宮を襲って占拠するといういかにも機動戦的な事態が起こりましたが、実際にはそれは最後の仕上げにすぎなかったのであり、革命の趨勢は、すでに軍隊(とくにペトログラード守備隊)の兵士も工場の労働者も、ボリシェヴィキが多数派でトロツキーが議長であるペトログラード・ソヴィエトの指令に従うようになった時点で決せられていたのです。
第二に、そもそも永続革命論は戦略的・歴史的概念であって、機動戦か陣地戦かという戦術的概念と機械的に結びつくものではありません。状況によってどちらの戦術とも結びつきうるし、むしろすでに述べたように、陣地戦なき機動戦は旧権力の残党による政権簒奪を生むのですから、プロレタリア革命を有機的に包摂している永続革命論は、陣地戦を必然的に包含する概念であるとさえ言えます。

論点5:ソヴィエトと憲法制定議会との関係(略)

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