過渡期とマルクス主義 - テーゼのまえに -
酒井与七
過渡期とマルクス主義
- テーゼのまえに -
酒井与七
目 次
まえがき
第一章 過渡期とマルクス主義
一 インターナショナルと党について
二 マルクス主義とヨーロッパの四〇年
三 いくつかの問題
四 いくつかのタイプの「マルクス主義」
第二章 インターナショナルについてのノート
一 共産主義インターナショナルの概念
二 一九三〇年代の性格
三 トロツキーの仮説 - 一九四〇年代を前にして
四 現実の一九四〇年代 - 西ヨーロッパ
五 現実の一九四〇年代 - 西ヨーロッパの外で
六 革命的マルクス主義古典派 - 都市と農村
七 革命的マルクス主義古典派と新しい植民地革命
第三章 現実の過渡期
一 第三インターナショナルの流産
二 問題点と仮定
三 裏返しになった過渡期世界
まえがき
以下の論稿は、一九六八年に雑誌『情況』に発表したものの再録である。今回、再録にさいして、若干の削除と字句上の修正をおこなった。内容的には執筆時のままである。本誌は七〇年代の同盟活動にかんする総括討論の一環として六〇年代から七〇年代にかけたいくつかの文書を再録してゆくが、その一部として以下の論稿をここに再録することにした。
わが同盟は、一九六六年、組織分裂とかかわるかたちで〝解党主義論争〟≠ネるものをもった。当時、私は〝解党主義〟≠ニされる立場において、この論争の直接の当事者の一人であった。〝解党主義〟§_争にかんするいくつかの文書は、今後、本誌上で再録されてゆくだろう。この〝解党主義〟§_争のとき、私の問題意識の背景をなしていたのが、以下の「テーゼのまえに」であった。この「テーゼのまえに」の第三章は六五年に、第一、二章は六七年に執筆されている。
私が一九五〇年代後半の全学連運動のなかにいた学生共産党員としてトロツキストとなり、第四インターナショナルの運動に獲得されたのは一九五九年であった。私は一九五六~五八年のあいだ頑固なスターリニストだった。トロツキーの文献に最初にふれたのは一九五八年十二月であった。第四インターナショナルの運動に獲得されて直ちに直面させられたのは、インターナショナルの組織分裂と「パブロ」派・「キャノン」派の政治的対立・論争であった。パブロ・キャノン論争が提起していた根本問題は、戦後世界全体とそこにおけるプロレタリア国際階級闘争の現実、とりわけスターリニズムと植民地革命の諸問題をトロツキズムの立場と方法においてどのようにとらえるべきか、そして戦後世界におけるプロレタリア世界革命をどのように展望しようとするのかという根本問題だった。
こうして、第四インターナショナル・トロツキストの立場と方法において、私自身、戦後世界の現実について考え、検討することをいやおうなしに迫られた。当時、かならずしも数多くなかったトロツキーの日本語版諸著作によってトロツキズムについて学びつつ、同時に、戦後世界とプロレタリア国際階級闘争の現実の歴史について考えなければならなかった。かくして到達した私の歴史にかんする問題意識の体系が、ここに再録する「テーゼのまえに」であった。それは、問題意識の体系としてまさに「テーゼのまえに」であったし、同時に、当時における私のトロツキズムの理解と受容であった。私はそこでトロツキズムのマルクス主義理論体系としての正しさを確信すると同時に、その立場からロシア革命以降の現実の国際革命の歴史について感ずる点を一連の問題意識の体系として定式化してみたのである。
私は、一九五九~六一年に直面したパブロ・キャノン論争とマンデル・パブロ・ポサダス論争について、当然ながら自己の解答をもてなかった。これらの第四インターナショナル内論争を私としてどのように歴史的に理解しようとするのか、そこから私としてどのように問題設定をおこなおうとするのか - 当時の段階における私の自己表現がこの「テーゼのまえに」であった。第四インターナショナル内における戦後の国際論争については、湯浅赳男『トロツキズムの史的展開』(三一書房)を見ていただきたい。
「テーゼのまえに」は、それ以降、私の歴史的問題意識として一貫して残りつづけたし、一九六〇年代末から七〇年代にかけてこの問題意識をもってわが同盟の闘いに参画していった。綱領的には、この「テーゼのまえに」は今日なお私の根本的問題意識である。現時点で読みなおしてみて、この「テーゼのまえに」を内容的に変更しなければならないと感ずる点はほとんどない。
今日までの二〇世紀の世界を階級闘争の歴史的観点からどのようにとらえようとするか。それは、現代の改革とインターナショナルのためのまったく予備的な作業にすぎないが、われわれがわれわれの未来を選択するうえで決定的な重要性をもつテーマである。
第一章 過渡期とマルクス主義
一 インターナショナルと党について
今日の革命、国際社会主義革命について考えようとするとき、つまり新しいインターナショナルとその各国における新しい革命組織について考えようとするとき、われわれが分析し明らかにしようとしなければならない問題は、すでに存在している物質性としての資本主義の支配的機構と組織、そして労働者諸国家に内包された諸矛盾の力学的構造だけではないし、またそのもとで解放への可能性を抑圧されている諸階級の自発的な闘争の傾向と性格だけでもない。これらの問題は、伝統的なマルクス主義的概念のなかで、客観情勢の分析(現状分析ないし史的現状分析)として、あるいは階級闘争の性格と路線と方向にかかわる戦略・戦術として考えられもし、実際にとりあげられてきたことでもある。しかしながらマルクス主義には、その上さらに、いうまでもなく党および党組織についての理論がある。
客観情勢の分析、階級闘争の戦略と戦術、党についての理論 - マルクス主義の伝統的思考は、国際社会主義革命について主としてこの三つの問題にとりくんできたといってよかろう。この範囲において、しかし、マルクス主義はこれまでどの程度まで正確かつ有効に機能=分析してきたか。どれだけ確かな理論的蓄積がなされてきたか。現在のわれわれとしては、そこに大きな疑問をいだかざるをえない。スターリニズムがこれらのマルクス主義の理論的諸分野において途方もなく大きな反動をなし、異常な歪みを深めてしまったのである。
今日の国際社会主義革命とそのインターナショナル、各国の革命組織について考えようとすれば、どうしても党の問題について特殊に客観化された歴史的・構造的な反省と分析が必要となる。つまり、潜在的に国際社会主義革命を欲求しそれを担うとされている階級の現実的で具体的な自発的意識性(自然発生性)に基礎をおきながら、自覚的に革命をめざす意識(自然発生性に物質的基礎をおく目的意識性) - この意識の歴史的・構造的な状況をそれ自体において相対的に独自化された反省と分析の対象としてとりあげねばならない。これが、革命を自覚した積極的・活動的意識性、つまり党とインターナショナルをめぐる客観情勢についての歴史的・構造的な反省と分析である。
現に存在している全ブルジョア的物質性(ブルジョア世界と労働者諸国家に存在する)の客観的矛盾と危機の進行は、その直接的結果として、そのもとに抑圧されている諸階級の抵抗的・反抗的な傾向と行動を自然発生的に生みだす。しかし、この全ブルジョア的物質性のの客観的矛盾と危機の進行は、そのブルジョア的物質性の具体的構造と性格に対抗し、それを打ち倒しうる目的意識性の性格と傾向を自動的に生みだすものではない。今世紀の歴史はこのことを鮮やかにものがたっている。そのような目的意識性の性格と傾向が物質的な力として成長を示しつつあるときにしか、インターナショナルと党は現実に可能なものになることができない。目的意識性のそのような客観情勢が欠けているところでは、インターナショナルとその諸党の呼びかけは、たんに形而上的な非現実的なものにとどまってしまう。だが、歴史のなかのある特定の時期において、形而上的な非現実的なものをすべて無意味であると断ずべきかどうかは、あらためて検討しなければならない問題だろう。この点で、ドイッチャーも、トロツキーの第四インターナショナル創設のための努力にかんする叙述において、主として歴史的事実をつみ重ねるだけで、そのことの意味および原因について充分に分析しているようには思えない。
二 マルクス主義とヨーロッパの四〇年
トロツキーの理論は、レーニンやローザの理論をふくめて、現代マルクス主義の古典である。それらの理論の前提であり、また展望と主張の中心におかれていたのは、一九一〇年代半ばから一九四〇年代にいたる世界資本主義の政治・経済的危機のうちに世界資本主義の心臓部は打ち倒されるだろうし、世界の都市プロレタリアート、なかんずく西ヨーロッパのプロレタリアートが世界の都市において政治・経済・社会・文化の全般にわたって支配を打ちたてるだろうという立場であった。
ところが西ヨーロッパのプロレタリアートは、ロシアに基盤をおくプロレタリア革命のテルミドールというべき反動化、官僚的代行主義の発展にうちかつことができなかった。ロシア・プロレタリア革命の反動化に抗して、これを抑制し、この反動化から自立して、ヨーロッパ・ブルジョアジーにたいする自主的闘争を遂行することができなかった。その進歩的で社会主義的な自発的意識性も、ロシア革命の反動化に基礎をおいて形成された官僚的代行者たちの指導と統制のもとでのみ、西ヨーロッパ・ブルジョアジーとの闘争にとりくむことになったのである。正確には西ヨーロッパ・プロレタリア左派というべきだが、この左派は、スターリニズムの官僚的指導・統制機構から独立して、労働者大衆の進歩的で社会主義的な自発的意識性を - 少なくともヨーロッパ規模においてでも - 直接に結合することができなかった。その結果として、スペイン内戦にもっとも顕著にみられたプロレタリアートの自発的意識性にもとづく社会主義革命への発展傾向も、その国境の外に世界に頼るべき物質的力として政治的に独立した左翼勢力を見いだすことなく、ロシア革命の反動化のなかで圧殺されてしまった。
第二次世界戦争以前における大衆的規模での西ヨーロッパ・ブルジョアジーにたいする自主的闘争とその経験の弱さは、新しい左派の発展の条件・情勢・可能性をいっそう後退させながら、やがて第二次世界戦争というヨーロッパ情勢の反動の極致において、ファシズムとナチズム(=ブルジョア的最反動)にたいするプロレタリアートの抵抗と反抗の闘争をまたしてもスターリニズムの代行的官僚指導部のもとへ集中させていく。こうして、一九四〇年代の西欧プロレタリアートの闘争は、スターリニストの官僚的指導と統制のもとで展開されることになったのである。一九二〇年代と三〇年代にみられたトロツキズムの影響力も第二次世界戦争によって著しくそぎ落とされ、後退を余儀なくされた。これとは逆に、戦前、独ソ不可侵条約、モスクワ裁判その他によって西欧プロレタリアートに対する威信を低めていたソ連邦スターリニズムは、ナチス・ドイツとの闘争においてその威信を回復することになったものと思われる。事態はいかんともしがたく、絶望的であり、救いがたい。ここに一九四〇年代半ばから戦後の幻想の意識の時代がはじまる。
いずれにしても、一九一〇年代後半から一九五〇年代初頭にかけて世界資本主義が - 少なくとも西ヨーロッパにおいては - 政治・経済・社会的危機を持続し、そのなかで幾度か深刻な破滅的局面を迎えたにもかかわらず、この四〇年間をとおして西ヨーロッパのプロレタリア左派は勝利を手中にすることができなかった。二〇年代後半から三〇年代全体の重要な時期に、ロシア革命の反動化-スターリニズムから独立した大衆的政治勢力を発展させることができなかった。この発展があったならば! たとえ第二次世界戦争以前に革命に達しえなかったとしても、一九四〇年代の戦争と戦後の情勢のなかで大きな役割をはたしえたはずである。例えばユーゴスラビアでは、スターリニズムから組織的に独立した革命が発展しつつあった。ギリシャやイタリアにおけるパルチザン闘争、フランスのレジスタンス運動 - これらは自発的に社会主義の綱領を発展させつつあった。
本質的に重要なことは、スターリニストのあれこれの路線と方針の誤りや裏切りではない。スターリニズムとは、ロシア革命の反動化なのであり、その路線・政策・方針は正しいとか誤りとか裏切りといった概念でとらえらるべき性質のものではない。それらは、もちろんその枠内において - スターリニズムの立場から見て - 予測や戦術の失敗は当然であるとしても、それ自体スターリニズムとしては合理的なのである。重要で本質的なことは、西ヨーロッパのプロレタリア左派が、労働者大衆の広範な進歩的で社会主義的な自発的意識性に基礎をおいて、ロシア革命の反動から自立した全ヨーロッパ的な大衆的政治勢力を生みだし発展させることができなかった点にある。もちろん、彼らがロシア革命の反動から自由でありえなかったことは、けしてマルクス主義が歴史的に無効であるということにはならない。
三 いくつかの問題
一九一〇年代半ばから少なくとも一九四〇年代全体にかけたブルジョア・ヨーロッパの危機の四〇年の間に、西ヨーロッパのプロレタリアートが資本主義を打ち倒し、労働者ヨーロッパを打ちたてえなかったということ、ロシア革命の経過に直接の基礎をおく革命の反動化から自立しえず、これを克服しえなかったということは、いくつかの問題をマルクス主義になげかける。
その一つは、危機の四〇年間において、西ヨーロッパ・プロレタリアートが革命の反動から自立しえなかったのは何故かという問題である。もちろん、ロシア革命のテルミドールからヨーロッパのプロレタリアートが完全に自由でありうるなどというのは問題にならない。それにしても、なぜロシア革命の反動化が西ヨーロッパ・プロレタリア左派を圧倒し、その逆でなかったのか。
この問題の分析はまったく容易ならない数々の困難をはらんでいる。ヨーロッパ・プロレタリア左派がロシア革命の反動化=テルミドールに抗しえなかった原因・歴史的事情を明らかにするには、なによりもまずに二〇世紀にかけたブルジョア・ヨーロッパ、帝国主義ヨーロッパの形成について歴史的検討を必要とするだろう。
問題の二つめは、この四〇年間の危機のうちにヨーロッパ・プロレタリアートが勝利しえなかったという歴史的事実にもとづいて、以後の現代世界が、その歴史的事実の結果として、あるいはそれとの関連において、どのように形成されてきたかという問題である。
危機の四〇年間においてヨーロッパ・プロレタリアートがロシア革命の反動化に抗しえなかったというこの歴史的事実は、今日の世界に深い刻印をのこしている。今日の世界はすべてその結果の上に構成されているといっても過言ではあるまい。もちろん、この歴史的事実とその結果だけが、今日の世界を形成する一切であるというのではない。少なくとも一九五〇年代後半以降、資本主義は、その中枢部であるヨーロッパおよびアメリカにおいて新しい再度の生命力を獲得した。四〇年の危機の後に、再度の新しい生産力の上昇が資本主義的生産関係のもとで実現されつつある。この新しい生産力の発展と上昇は、現代のマルクス主義に新しい諸問題を提起している。
四 いくつかのタイプの「マルクス主義」
今日、いくつかのタイプの「マルクス主義」がある。
その一つはロシア革命のテルミドール=反動化を実際上認めない立場である。ソ連邦共産党二〇回大会以前のスターリニズムについては、いまさら問題にするまでもない。ここでは、今日その一派たるソ連邦共産党を中心とするモスクワ派、あるいはイタリア「マルクス主義」派・構造改革派について考えている。これらの「マルクス主義」に共通するのは、総じて「スターリン体制の誤り」をいう立場である。彼らは、これをロシア革命の反動化=テルミドールとして認めない。つまりロシア革命の反動化に対抗する自主的な立場と路線・傾向をあくまでも拒否する。こうして、これらの「マルクス主義」理論の特徴は、レーニン、トロツキー、ローザの古典マルクス主義のみるも無残な修正の流れにそって人民戦線論から構造改革論にまでいたる。彼らは、ヨーロッパ・プロレタリア左派の四〇年間の間の失敗の原因を人民戦線論や構造改革論の政治理論としての未発展・未確立のなかに求める。これはスターリニズムの擁護の変種であり、弁護論の一種である。つまり、レーニン、トロツキー、ローザなどの帝国主義時代の古典マルクス主義の立場とその発展がロシア革命の反動化によって歪められ、阻止されてきたことに問題を見いだすのではなく、彼らのいわゆる新しい「現代マルクス主義」の未確立のなかに問題を見るのである。
この種のマルクス主義は、マルクス主義を台なしにする文字どおりの修正主義の立場である。そして修正主義は、もちろん - 労働者国家においてであれ、ブルジョア国家においてであれ - 常に改良主義と労働官僚のイデオロギーである。
つぎに、この傾向と対立する別種の「マルクス主義」者たちがいる。
その一つは、ロシア革命の反動化に驚き、怖れ、再度ブルジョアジーの陣営に戻る人々 - これはもはやマルクス主義とは関係がない。
つぎに、ロシア革命の反動化=テルミドールを見て、ここからプロレタリア社会主義革命の要素の一切を否認し、これを「国家資本主義」その他の名称と概念でとらえようとする人々。この種の「マルクス主義」者たちは、ロシア革命の反動化そのものによって、自らのマルクス主義を喰いあらされてしまったのである。主観的にはロシア革命の反動化=テルミドールに反抗し、抵抗を意図しながら、客観的にはまぎれもなくこの反動化に屈服している。この種の「マルクス主義」は喰いやぶられたマルクス主義にほかならない。
三つめは、トロツキー左翼反対派の闘争が歴史的に成功しえなかったことから、レーニンとトロツキーのマルクス主義にどこか誤りがあるはずだと主観する「マルクス主義」者たち。この傾向の人々は、危機の四〇年において、なぜロシア革命の反動化に抗して自主的な大衆的ヨーロッパ左翼の傾向が形成されなかったのかという問題を忘れている。四〇年間の敗北の原因をレーニンやトロツキーの理論のなかに求めることは、これまたマルクス主義を台なしにしてしまう。それは、マルクス主義をまったく主観主義的な思いつきの寄せ集めにすることになる。
これらのイタリア「マルクス主義」・構造改革派と諸種の「新左翼マルクス主義」は一つの決定的な共通点をもっている。つまり、それらは、危機の四〇年間、あるいは少なくとも終りの三〇年間においてロシア革命の反動化=テルミドールがヨーロッパ・プロレタリア左翼を圧倒したという歴史的事実に問題の中心を定めるのではなく、なにか新しい「マルクス主義」理論の改変に救いを見いだそうとするのである。それは、歴史に求めるのではなく、歴史に逆らおうとする道である。このような道によっては、現代の古典としてのマルクス主義そのものを見うしない、理解することもできず、ただマルクス主義を台なしにするだけである。
これと同様なものに、自発的意識性と目的意識性の関係、あるいは党・組織と自然発生性の関係についての観点から大ざっぱに「ローザ・ルクセンブルグ派」と称せられる一つの傾向がある。それは、四〇年間の危機におけるヨーロッパ・プロレタリアートの敗北が左翼の目的意識性の結集体としての党組織ないし第三インターナショナルをとおして現実化されたという事情と直接に関係している。大衆の自発的意識性にたいする第三インターナショナルの権威と統制が微弱であるか、あるいは全然及んでいないときに、労働者大衆の進歩的で自発的意識性が闘争のなかで発展し、しばしば社会主義革命への傾向を実証したこと、 - これに反して一般に目的意識性の組織体である党が統制者ないし障害物として登場したこと、これらの事実から、これらの傾向の人々は目的意識性一般、党一般についてのマルクス主義の理論に反対し、疑問を提出するのである。
もちろん、自発的意識性と目的意識性の関係については、マルクス主義において完全に解明されれ、理論化されているとはいえないが、ヨーロッパの四〇年間の運動とその結果を理由にして、党と目的意識性の組織化一般を否定する傾向は、歴史にたいする誤った結論の出しかたをしているというべきだろう。党の形成なくして、革命は不可能である。自発的意識性と目的意識性の関係は、それを歴史のなかで具体的に情勢と可能性に結びつけて見ないならば、およそ無意味なものになるだろう。
このようないろいろのタイプの「マルクス主義」の立場では、現代を解明するための古典的マルクス主義の正しい理解がさまたげられてしまう。四〇年間の危機のなかで、ロシア革命の反動化=テルミドールがヨーロッパ・プロレタリア左派の意識性を支配したと見る立場によってのみ、マルクス主義の古典を正しく知り、そこから学びとることができるだろう。
(一九六七年二月)
二章 インターナショナルについてのノート
一 共産主義インターナショナルの概念
帝国主義、過渡期の労働者国家の社会階層としての諸民族官僚、植民地民族ブルジョアジー - これらすべてから独立的・自主的であり、労働者階級の国際的左翼の社会主義的で進歩的な自発的意識性に直接に基礎をおく大衆的インターナショナル。既存のブルジョア的物質性の一切にたいして独立的で自主的で革命的である。
二 一九三〇年代の性格
一九三〇年代に共産主義インターナショナルとしての第三インターナショナルは最終的な政治的破産と崩壊をとげ、新しい共産主義インターナショナルの絶対的必要性が客観的に提起された。
この時代は、資本主義から社会主義への移行の歴史的過渡期が、現実には、その最初の局面において「中世」的といわなければならないような性格のものであることをしめした。それは、具体的には、最初のプロレタリア革命であるロシア革命の側における国内的な物質的基礎の極度の社会・経済・文化的後進性および西ヨーロッパ資本主義の存続による国際的孤立による革命そのものの反動化、官僚の専制的代行主義の極度の発展を一方の極とし、他方、西ヨーロッパ・プロレタリア左派が、その目的意識性においてこのロシア革命の反動化に圧倒され、これから自主的に国際主義的ヨーロッパ社会主義への階級的闘いの政治的傾向を発展させなかったこととしてある。資本主義から社会主義への過渡期の意識はスターリニズムのもとに組み込まれていった。
資本主義の側の反動の極致はドイツ・ファシズムによってしめされた。
資本主義から社会主義への世界史的過渡期は、現実には、レーニン、トロツキー、ローザなどの初期帝国主義時代の古典マルクス主義者たちの時代の予測、つまり彼らの過渡期の意識を裏切り、これら初期帝国主義時代の古典マルクス主義の予測と展望の立場からするとき極度の歪みをともなった「中世」的なものとしてあらわれた。それは、これら古典マルクス主義の予測のうちで最も本質的あるいは根本的なものを裏切ったのである。現実の過渡期は、その過渡期の意識とともに、いわば「中世」的な、「暗黒」の「反動」的過渡期としてはじまった。
この「中世的な歪みの過渡期」の反映を、われわれはありとあらゆる歴史の現実、意識の現実のなかに見いだすことができる。
ここでは、その歪みをしめすありとあらゆるもののうち二つをあげておきたい。
* アンジェイ・スタワール「ソ連の官僚について」(同著『おごれる階級 - ソ連官僚
主義批判』時事通信社刊所収) - この論文はソ連邦の官僚の形成について最もすぐれ
たものの一つと思われる。
* アイザック・ドイッチャー『スターリン伝』 - ソ連邦における過渡期の暗黒がたえ
がたいほどに描かれている。
われわれは、資本主義から社会主義への「中世」的過渡期の歴史的一切のうち重要なもののすべてを歴史的に明らかにしなければならないだろう。このことは過渡期の歪みからわれわれの意識を解放し自由にするうえで重要である。またそのようにして、初期帝国主義時代、革命的古典マルクス主義の時代の過渡期の意識を現代のわれわれの意識のなかに最も正しく投影することができるだろう。
三 トロツキーの仮説 - 一九四〇年代を前にして
一九三〇年代末にトロツキーがたてた展望を次のように要約できるだろう。
① 第二次世界戦争をとおして、あるいはその後にブルジョア西ヨーロッパは公然かつ重大な危機にみまわれるだろう。
② 西ヨーロッパの労働者階級はその危機のなかで巨大な闘争的高揚をむかえるだあろう。それは深く社会主義的であるだろう。
③ 西ヨーロッパ社会主義革命の勝利のためには、新しい共産主義インターナショナルへ結集する指導部の形成が絶対に必要である。
④ 西ヨーロッパ労働者階級の政治的に先進的な諸層は、新しい共産主義インターナショナルの必要という政治的結論=自覚に達するだろう。
⑤ そして、以上の一切が実現されるならば、それは、ただ、スターリニズムに抗して初期帝国主義時代の革命的古典マルクス主義の立場を最も一貫して防衛しようとしてきた国際左翼反対派・第四インターナショナルの綱領と指導路線のもとに結集するだろう。
トロツキーにとって、国際左翼反対派・第四インターナショナルとは、いずれかの政治的グループやセクト的集団の私有物では絶対になかった。それは、歴史的に客観的な、国際労働者階級のいわば「公的」な組織として彼によって考えられていた。
四 現実の一九四〇年代 - 西ヨーロッパ
第二次世界戦争をつうじた、またそれ以降の一九四〇年代全体にわたる西ヨーロッパ労働者階級の闘争と運動は、現実にはスターリニズムと社会民主主義それぞれの支配的影響力のもとで進められた。また、その結果として、ブルジョア西ヨーロッパは打倒されなかった。
つまり、一九四〇年代にむけてたてられたトロツキーの展望・仮説のすべてが実現されることにはならなかった。前節の②、③項のトロツキーの仮説は、いわば再度の西ヨーロッパ社会主義革命の敗北によって証明されたわけである。とりわけ③項の証明は、あまりにも鮮烈にすぎるといわねばならない。
第一次欧州帝国主義戦争は、ロシアの労働者・農民・兵士のツァーリズムへの反乱と十月革命によって第一の打撃をうけ、水兵からはじまるドイツ労働者階級のカイゼルへの反乱が最終的打撃となって、終結へおいこまれた。
第二次の欧州帝国主義戦争とその終結においては、労働者階級の側の政治的闘争の状況ははるかに有利であったといわねばならない。スターリニスト官僚専制の直接の統制と組織下にあったとはいえ、「社会主義の祖国」ソ連の「赤軍」はほとんど全東欧とドイツの東部一帯を軍事的に支配し、イタリアとフランスという西ヨーロッパ帝国主義の最心臓部には、組織されて武器を手にした労働者階級の軍隊が存在し、ナチス・ドイツと戦闘をかわしていた。イタリアとフランスの武装労働者隊は、ナチス・ドイツの敗北にたいして重大な役割をはたしている。とりわけ、イタリアの労働者パルチザン部隊の軍事力としての役割は重要であった。大陸部西ヨーロッパの心臓たるブルジョア・ドイツは軍事的に完全な敗北をきっし、フランスとイタリアでは武装した労働者階級の隊伍があった。彼らは、ナチスとファシズムとのの政治軍事的闘争ですでに組織的に訓練された隊伍をもっていた。
これは、一九一八年のレーテに結集したドイツ労働者階級よりも政治・組織的により強固な階級的隊伍ではなかったろうか?
例えば、ユーゴスラビアではチトーを中心とする共産党の指導と組織のもとで、自国のナチス・ファシスト体制を軍事的に打ちたおし、社会主義への過渡期をおしひらく反資本主義的革命権力を樹立した。ギリシャでも、農民と労働者のパルチザンの戦闘が展開されていた。これ以上に有利な政治組織情勢を西ヨーロッパの社会主義は期待することができただろうか?
一九四〇年代半ばから四〇年代末までにかけた大陸部西ヨーロッパの情勢は、西ヨーロッパの社会主義にとって歴史上おそらく最も有利なものといわねばならないだろう。そして、イタリアとフランスの労働者階級のこの時期の闘争に最も支配的な影響力と指導権をもったのはスターリニズムの党だった。スターリニズムの党は、こうして、ヨーロッパ社会主義にたいする最も深く深刻な政治的反動を証明したし、またトロツキーの一九四〇年代にむけた仮説の②項と③項も西ヨーロッパ社会主義のこの流産をとおして証明された。とりわけ、西ヨーロッパ社会主義革命の勝利は「新しい共産主義にむけた指導部への結集を要求する」という仮説を。
チトーを中心とするユーゴスラビア共産党に指導された革命は、フランスとイタリアの「兄弟」党の指導路線の政治的日和見主義を批判し、スターリニズムの総本山クレムリンから政治的決別を余儀なくされた。
ミロバン・ジラスは、一九四三~四年頃のモスクワとユーゴ革命の関係について次のように述べている - 「ユーゴスラビアにおける革命の現実、つまりユーゴスラビアでは占領軍にたいする抵抗と同時に国内の革命が進行しているということ - このことをモスクワはけして完全に理解しなかった。」
このことは、一九四〇年代のユーゴ共産党が少なくとも客観的には新しい共産主義インターナショナルへ強く方向づけられていたことをしめしているように思われる。ユーゴのチトーを中心に形成された一九四〇年代の共産党がロシア革命の反動化=スターリニズムからの離反の道、独立的な革命の道にむかって進みつつあったことをしめしている。一九四〇年代の西ヨーロッパ労働者階級を基盤にして新しい共産主義インターナショナルへの傾向が物質的な政治勢力として発展しつつあったならば、ユーゴの革命がこれとの政治的同盟の道へと大きく引きつけられたであろうことは間違いない。
チトーを中心とするユーゴ共産党の歴史については、『チトーは語る』やその他の著作を参照されたい。なおユーゴスラビア革命とその共産党の研究は重要である。
一九四〇年代にむけたトロツキーの仮説の②および③項 - これは今日では常識の部類に属するかもしれないが - は、このようにして証明されたと私は考える。
そして最も決定的な仮説の④項が実現されなかった - 厳密にいえば「実現されなかった」というのは不正確だろう。いくらかでも十分に強力には実現されなかったというべきであろうか - これについては、一九四〇年代半ば以降のヨーロッパ労働者階級左派についてやや詳細な検討を必要とするだろう。ユーゴスラビアの例があるし、またイタリアやフランスについて検討が必要である。しかし、いずれにしても、スターリニズムの党への結集が決定的であり、この党の指導をとおしたスターリニズムが現実には支配的な役割・機能をはたしたことによって、トロツキーの仮説の④項は歴史的にいくぶんかでも有効かつ間にあって実現されなかった。その結果は、一九四〇年代のブルジョア西ヨーロッパの歴史始まって以来ともいうべき危機にもかかわらず、帝国主義ブルジョアジーの政治支配は持続した。
問題は、「歴史の力は官僚の力よりも強力である」(トロツキー「過渡的綱領」)という正しい主張とともに提起された仮説の④項「西ヨーロッパ労働者階級の政治的に先進的な諸層は、新しい共産主義インターナショナルの必要という政治的結論・自覚に達するであろう」ということが現実の歴史のなかで実現されなかったのはなぜか - また、その結果として、現実の世界はどのように構成されていったのか、きたのかということである。
この節の問題について考えようとするとき、ブルジョア北アメリカの特殊な政治的役割はもちろんきわめて重要である。
五 現実の一九四〇年代 - 西ヨーロッパの外で
西ヨーロッパの一九四〇年代の現実は前節のようであった。それは、初期帝国主義時代の古典的な革命的マルクス主義による過渡期の予測のうちで最も中心的な点を裏切るものであった。
他方、西ヨーロッパの外、アジアと東ヨーロッパでは革命的マルクス主義古典派の先人たちの予測とはまったく異なった現実の過渡期の前進があった。
それは、一方では、ユーゴスラビア、中国、ベトナムの民衆的・人民的な民族革命の反資本主義的社会革命への発展である。これらの諸革命は、国民経済の産業的中心部門を革命国家の直接の支配下におき、経済計画による国民経済の発展の道にむかって進んだ。他方、ユーゴスラビアをのぞく全東欧は、ソ連邦国家のナチス・ドイツにたいする軍事的勝利から出発して、ソ連邦国家の直接の支配・統制・指導・組織のもとに反資本主義的な政治・経済・社会革命におおわれた。この場合、ユーゴスラビアや中国・ベトナム革命が本質的に民衆=人民的なものであったとすれば、ユーゴをのぞく東欧の革命は国家革命あるいは国家=官僚革命とでもいうべきものである。北部朝鮮は後者にぞくするであろう - ただし北部朝鮮については、朝鮮戦争という第二革命ともいうべき歴史的に重大な経過があるので、特殊の検討が必要だろう。
「予定された」社会主義のセンターたる西ヨーロッパの社会主義は敗退し、それから相対的に(絶対的にではない)独立にアジアと東欧にまったく独特の反資本主義の諸革命、過渡期の現実の前進が実現された。これは、初期帝国主義時代の革命的マルクス主義=革命的マルクス主義古典派の過渡期についての予測の基本的構造とは大変に異なるものである。
東欧の国家=官僚革命を別にして、この相違のうちまず目につくのは、植民地の民衆=人民革命が西ヨーロッパの社会主義革命から相対的に独立に達成されたということである。これは、一面では西ヨーロッパの社会主義の敗北の問題であり、すでに問題としてこの断章でとりあげていることである。
この相違の重要な他の面は、これらの植民地革命の民衆=人民的な性格、階級的構造にかかわる問題である。
中国とベトナムの民衆=人民的民族革命が植民地旧農村の最も抑圧された社会階級・階層に民衆=人民的基盤をおき、プチブルジョア的インテリゲンツィアがその多くを提供した職業的革命家集団によって政治的に導かれたものであることは、今日、周知のこととなっている。これら植民地革命の中心的で主要な組織機構・機関は、既存の支配的国家機構にたいして公然と独立的で対抗的に存在した貧農に基礎をおく民衆=人民的革命軍であった。一九一七年のロシアでは労働者と貧農の民衆=人民的革命機構・機関の中心がソビエトであったとすれば、これらの諸革命では革命の民衆=人民的機構・機関は直接に軍事的な戦闘組織=軍隊という姿をとった。この民衆=人民的革命機構・機関に政治的指導を与えたのは、革命的「職業」軍人をふくむ職業的革命家の集団であった。中国では、それは二〇世紀の諸条件下の太平天国の革命といえるかもしれない。
トロツキーは、中国革命のこの問題について「中国の農民戦争」(一九三七年)をかいている。
ユーゴスラビアの民衆=人民的民族革命について私はつまびらかではないが、まえに引用したミロバン・ジラスはその「スターリンとの対話」で次のような注目すべき発言をしている。
「‥‥私は農民の新しい革命的役割を強調した - ユーゴスラビアの蜂起を、私は、実質上、農民反乱と共産主義的前衛の結合に帰着させた。」(同上書英語版二八頁)
またわれわれは最近のキューバの成功とアルジェリアの失敗という類似した経験をもっている。キューバやアルジェリアの場合、その民衆=人民的軍隊の指導部を構成したのは、より多くプチブルジョア的インテリゲンツィア、職業的自由業者であり、彼らは革命の中心部へと参加するにしたがって職業的革命家になっていった。
ついでにいえば、ロシア・プロレタリア革命の職業的政治指導層の構成においても同様の性格を見てとることができる。ロシアの場合、インテリゲンツィア革命家と労働者カードル層との結合がその革命党を構成した。極端かつ一般的にいえば、革命とは、インテリゲンツィア革命家層と反乱する大衆との、その大衆の準備されたカードル層をとおした結合ということもできよう。インテリゲンツィア革命家層=インテリゲンツィア出身の職業的政治・革命指導者層は、大衆の反乱の中に目的意識性を実現・付与しようとし、大衆の中で準備されたカードル層は大衆の側の自発的意識性を表現しようとするといえよう。
もちろん、ユーゴスラビアと中国の二つの革命を比較してみるとき、前者の民族的社会階級構造における都市労働者階級の客観的な相対的比重の高さは、政治的民族革命の後、この革命をささえる社会階級としての都市労働者階級の位置を中国の場合よりもはるかに高いものにしているだろう。このことは、同様に、キューバについてもある程度までいえることだろう。
六 革命的マルクス主義古典派 - 都市と農村
いずれにしても、これら民衆=人民的革命の政治的・階級的構造は革命的マルクス主義古典派たちの仮説と重要な相違をしめしている。
先にあげたトロツキーの「中国の農民戦争」においても示されているが、トロツキーの場合、彼の永久革命の理論 - そのもっとも代表的な著作「結果と展望」では、都市が主導する革命についての考えと主張が最も体系的に述べられている。その考えと理論は、革命において、歴史・文化・社会・政治的に最も進んだ都市が主導権をとらざるをえないこと、そして帝国主義時代において、ただ都市の諸階級のうちプロレタリアートだけが - たとえその量的比重が小さくても - 革命の最も徹底した急進的な主導的役割を担い、遂行しうることを断定的に主張している。量的に圧倒的多数をしめても、農村の最も抑圧された貧農を中心とする階級は、その歴史・社会・経済・政治的後進性と小ブルジョアとしての階級的分散性からして、革命全体にたいする主導権と指導性をあたえることはできない、と。トロツキーによれば、植民地の革命においても、革命は植民地都市の労働者階級の主導のもとでのみ遂行されるとした。いうまでもなく、この労働者階級は、植民地農村の最も抑圧された階級の全国的反乱と政治組織的に同盟・結合し、反乱する全国農民にたいする全国的指導を自己を独自に全国的に組織化することによって与えようとする。
トロツキーのこのような理論と考え方は、いうまでもなく特殊に「トロツキー」的なものではなかった。これは、とりわけ農村小ブルジョアジーを政治=階級的に特徴づけたマルクス自身の理論の伝統の立場にたつものであった。
レーニンの場合も、その政治理論的な初期の仕事は、ロシアの小ブルジョア農村社会主義のイデオロギー=ナロードニキとの激しい理論闘争であった。彼は都市労働者階級の立場を最も強力におしだした。
彼が一八九五年に書いた「ロシア社会民主主義者の当面する任務」は、ナロードニキとのイデオロギー理論闘争の実践的結論をのべたものであって、そこでナロードニキ派と党派的に対立して、都市の労働者階級を組織し、政治的に訓練し、ただ都市のこの階級に最も徹底して依拠することによって、ロシア絶対主義に深く敵対する農民に最もよく応えることができるとする立場をあきらかにしている。また一九〇五年革命のさなかで書かれた「ロシア社会民主主義の二つの戦術」においても、レーニンはこの立場を同様に強く明らかにしている。ロシア革命の社会・政治的な最も深い急進性を保障するものはまさしく都市の労働者階級であると主張することによって、ブルジョア革命派たるメンシェビキ以上に過激で急進的なブルジョア革命の立場を明らかにしている。その中心スローガンは最も民衆=人民的なブルジョア革命(「革命的臨時政府」のスローガン)である。それは、明らかにマルクスの一八五〇年の「共産主義者同盟中央委員会の全同盟への回状」 - 有名な「永続革命」のスローガンを結語とする - と内容的につながっている。
レーニンの一九〇五年革命までの重要なイデオロギー活動の一部はエス・エル(社会革命党)との闘争であったし、それは、ロシア絶対主義下の貧農層の革命的性格の強調と同時に、その指導部の政治的に分散的で小ブルジョア的な動揺性にたいする深い不信と批判によって労働者階級の主導権を対置するものであった。レーニンの場合も「絶対に都市から」、「その労働者階級に依拠して」であった。しかも、そのレーニンはロシア旧体制下の貧農の革命的性格を最も深く確信していたのである。
一九〇五年革命後のロシア社会民主党内のボリシェビキの政治綱領的論争にさいして、ローザはレーニン派を支持した。
七 革命的マルクス主義古典派と新しい植民地革命
初期帝国主義時代の革命的マルクス主義者たちの革命における都市と農村、労働者階級と農民の相互関係についての理論と主張は、一九〇五年と一九一七年のロシア革命と流産を余儀なくされた一九二〇年代の中国革命によってその正しさが証明されている。
とりわけ一九二〇年代の中国革命については、ハロルド・アイザックスの「中国革命の悲劇」によって、中国の歴史上、ロシアの労働者階級よりもはるかに若い、まったく生まれたばかりの労働者階級の一九二〇年代の革命における闘いが描かれている。全中国革命にたいする覇権を求める階級としての中国労働者階級が主張されている。第三インターナショナル中国支部としての中国共産党は、一九二〇年代の中国の革命的闘争の時代に、若く、しかし徹底的に革命的・急進的な中国労働者階級に依拠して中国革命全体にたいする覇権を最も深く一貫してもとめ追求すべきであった。それは、初期帝国主義時代の革命的マルクス主義がしめし要求する綱領的な世界社会主義革命への道であった。
しかし、現実の一九二〇年代の中国革命において、中国共産党のインテリゲンツィア指導部は、ロシア革命の反動化=官僚的代行主義の発展によって、その統制のもとにたつことを余儀なくされた。中国労働者階級が自己の共産党をとおしてえた綱領的革命路線は、第三インターナショナルの政治指導部におけるスターリニズムの台頭によって、民族ブルジョアジーへの政治的従属というものであった。中国労働者階級は、一九二〇年代の革命的闘争の全期間をつうじて、全中国革命における政治的主導階級としての可能性を自発的な「自然発生性」においてしめしながらも、初期帝国主義時代の革命的マルクス主義の綱領的道を目的意識性としての全国政治指導組織=中国共産党のなかに獲得することができなかった。当時、中国の全革命が必要としていたのは、「革命の先輩」としての教父的で専断的な第三インターナショナルの民族ブルジョアジーへの政治的従属を強いる「指導」ではなく、初期帝国主義時代の革命的マルクス主義の荒々しい民衆=人民的な革命の深まりそのものを要求するような綱領的路線であったろう。それは、労働者階級が自分自身を直接に全国的に組織化しようとする全国的反乱によって、量的に圧倒的な農村の最も抑圧された階級と諸階層の反乱を政治的に指導しようとすることであった。アイザックスの「中国革命の悲劇」は、このことがどのようにさえぎられていったかということを生々としめしている。
一九二〇年代の中国革命は、敗北をとおして初期帝国主義時代の革命的マルクス主義の歴史的な正しさを証明している。それは絶対的に正しかった。
しかし、一九四〇年代に発展した革命は、これらの初期帝国主義時代の革命的マルクス主義の古典的な理論的予測とは別様のものであった。現実には、まったく独特の予想されない姿で植民地の諸革命、植民地での現実の過渡期が生まれ発展した。
ここでもやはり新しい問題が提起される。初期帝国主義時代の革命的マルクス主義は歴史の現実のなかで正しさがしめされている。そして、現実の革命の最初の敗北の後に、過渡期はその理論的予測とは別様に前進した。そしてマルクス主義はこのことをどのように説明するのか?
これは一つの問題である。ドイッチャーは「毛沢東主義」において一つの解明をこころみている。この新しい植民地革命=植民地世界における新しい過渡期の前進は、四〇年の危機のヨーロッパと密接な歴史構造的関係をもっている。
(一九六七年五月)
第三章 現実の過渡期
一 第三インターナショナルの流産
1 レーニンとトロツキーの第三インターナショナルの展望は現実の歴史において裏切られ、実現されなかった。
レーニンとトロツキーの第三インターナショナルの展望は帝国主義時代の世界の革命であり、ロシア革命を出発点にして西方への永続的発展と東方への永続的発展による世界革命であった。
彼らの予測と展望には、ロシア革命によって打ちたてられたロシア・プロレタリア独裁の政治的堕落という状態はふくまれていなかった。これは一九二一~二二年にすでにはじまっていた。
2 レーニンの「帝国主義論」は、第一次世界戦争の帝国主義戦争としての必然性を分析・主張しつつ、帝国主義そのものの分析を試みている。
a 生産力の巨大な発展にもとづく産業独占の国内・国際的形成。
b 産業資本と銀行資本の癒着と金融資本の寡頭支配の確立。
c 資本の過剰と資本輸出の発展および近代帝国主義の植民地政策の発展。残余の世界の 帝国主義宗主諸国による植民地としての分割の完了。
d 帝国主義宗主諸国間の生産力発展の不均衡による植民地再分割闘争の必然性。強盗間 の戦争としての帝国主義戦争の必然性。
e 植民地人民の帝国主義にたいする反乱の必然的条件の形成。
f 植民地超過利潤にもとづく労働者階級の買収とその分裂、社会民主主義の物質的基盤。他方、ブルジョア的反政府派の形成。
g 帝国主義の腐朽的性格。金融資本に集中する生産の社会化の進展 - 社会主義の物質的前提。
h 帝国主義の次にくるものとしての超帝国主義は歴史的現実としてはありえない。帝国 主義にとって、歴史的現実としては帝国主義戦争以外にありえない。
i こうして帝国主義に直接に引きつづく時代は社会主義であり、帝国主義とは社会主義 の直接の前夜である。
3 第一次世界戦争は、世界帝国主義の発展の必然的な結果として爆発した。この帝国主義世界戦争は、ヨーロッパで長期にわたって激しく荒れ、世界帝国主義のヨーロッパ部分を深く危機におとしいれた。この世界戦争は帝国主義の危機をとおして植民地の危機をも生みだした。
第三インターナショナルを創設した理念は、ヨーロッパを中心とする世界帝国主義の深い危機(植民地の危機もふくむ)にたいして世界社会主義革命をもってこたえようとするものであった。
ヨーロッパで危機は直接的であった。ロシアの革命とプロレタリア独裁の成立。旧オーストリア帝国の解体とハンガリー革命、ドイツ帝国主義の敗北と危機、イタリアの危機。
旧ドイツ帝国・旧オーストリア帝国下の東欧諸国、ドイツ自身、イタリア、フランスでは第三インターナショナルは大衆的党を獲得した。
第三インターナショナルは、このように直接の危機にあったヨーロッパに活動の最重点をおいた。
第三インターナショナルは革命ロシアの危機と帝国主義ヨーロッパの危機に直接に対処し、アジアを中心とする植民地の革命にたいする準備をはじめた。第三インターナショナルは、帝国主義ヨーロッパの危機と必然的な植民地世界の危機を予測した - 世界帝国主義の危機として。
革命ロシアにとって、帝国主義ヨーロッパは政治経済上決定的な生命線であった。
4 一九一七~二一年の世界戦争末期から終戦後の数年にわたる時期に、東欧、ドイツ、イタリアでプロレタリア独裁はうちたてられなかった。赤色ハンガリーは続かなかった。一九一七年から一九二二年 - これは依然として根本的に第二インターナショナルの時代であった。
第二インターナショナルのなかにあって、労働者階級に基礎づけられ、革命を直接に当面する任務とし、そのために闘い(党内闘争としても)、その経験をもっていたのは、ひとりロシア社会民主党のみであった。この党は、二〇世紀とともにロシア革命のために一貫して準備され、闘争し、革命を経験してきた。
ドイツでは、一九〇八~一〇年、すでにその危機の端緒がはじまっていた(ローザ・ルクセンブルグ『ドイツ社会民主党の危機』参照)。だが第二インターナショナルは、ロシアの党あるいはまたポーランドのローザ派をのぞいて、革命にむけてではなく改良に順応してきた。
第三インターナショナルの西ヨーロッパ諸支部は、こうして第二インターナショナルから突然分裂し、その政治指導を革命ロシアのボリシェビキにあおがなければならなかった。
この点で、ローザ派の伝統 - 第一次世界戦争以前にさかのぼってロシア・ボリシェビキとならぶ経験をもつポーランドのローザ派の運動は注目される。ポーランド共産党は一九三六~三七年にスターリンによって解体させられたが、このことはこの党の革命的伝統がついにスターリンの完全な支配を許さなかったことをも示しているだろう。スターリニストにたいする反対派がこの党の多数を握りつづけた。これはまた、トロツキーと第四インターナショナルにたいするポーランド左翼反対派の独自の立場とも関係しているだろう(ドイッチャー『トロツキー伝』第三巻、「第四インターナショナル創設」の項参照)。
第二インターナショナルから分裂し、第三インターナショナルを誓った西ヨーロッパの革命的左翼は、世界戦争後の政治情勢の発展のテンポに間にあって政治的成熟をとげることができなかった。これは、第二インターナショナルの破産の第三インターナショナルへの継承というべきだろう。
これら西ヨーロッパ諸国共産党の多数派機構は結局のところロシア革命から自立することができなかった。
5 コミンテルン第三回大会において、レーニンとトロツキーは、自ら右派と称してすら、第三インターナショナル西ヨーロッパ諸支部の政治的成熟のために奮闘せんとした。
だが、この成熟の以前に、革命ロシアそれ自身の政治的堕落がはじまった。西ヨーロッパの諸党はこの政治的堕落のまきぞえをくらい、ついに自らをこの堕落から解きはなつことができなかった。
第三インターナショナルは第二インターナショナルの死とともに流産した - この意味で、第三インターナショナルはついに成立しえなかったといえよう。それは第二インターナショナルの破産の一部であるといえよう。第二インターナショナルとその時代と世代は、堕落した労働者国家、歪められてしまった社会主義的過渡期の国家ソ連邦を生みだしえたにとどまった。
6 第二次中国革命が国共合作のもとで急速な発展をはじめたとき、すでにロシア革命は政治的堕落をはじめており、この巨大な第二次中国革命の波は第三インターナショナルあるいは第二インターナショナルによって流産に導かれたのである。
二 問題点と仮定
7 以上からいくつかの問題がでてくる。
a 革命ロシアが、第一次世界戦争直後、危機のヨーロッパに主力をそそいだの誤っていたか?
「戦争がまきおこすあらゆる機会をとらえて、ピラミッド(帝 国主義・植民地体制)の下部(アジア・アフリカ・東欧)の動揺を促進することに主たる打撃方向を決定すべきであった」のか?
この路線によっては、ロシア革命の政治的堕落と時間に間にあって闘争することはできなかっただろう。つまり、ロシア革命を支柱とする第三インターナショナルは、巨大な第二次中国革命を流産に導く歴史的力を奪いとられなかっただろう。
b 第二インターナショナルから出発した西ヨーロッパ諸国共産党(ドイツとフランスがその中心)は、なぜスターリニズムへの屈服から解放されることがなかったのか?
ポーランドの党はその革命を勝利に導くことができなかった。だがこの党は一貫してスターリニズムへの反対をつづけ、暴力的・官僚的な解体をスターリニズムに強制した。
いかに巨人トロツキーとても、歴史そのものに逆らうことはできない。これは歴史的唯物論のイロハである。では何故、ドイツ・フランスの西ヨーロッパで階級の自発的な意識性はトロツキストの傾向を生みださなかったのか?
今日、日本では、階級の分子的意識作用の自発的・自然発生的結果としてトロツキストの傾向を生みだしつつある。このような歴史の自然的過程なしに、意識化されたトロツキストの分派をつくることはできない。
西ヨーロッパで労働者階級の分子的意識作用のなかにトロツキーと第四インターナショナルが基盤を見いだしえなかったのなぜか?
c 第二次中国革命がスターリニズムに屈しなければならなかったのは何故か?
あの巨大な第二次次中国革命を流産に導く力をスターリニズムは一体どこから手にいれたのか? どの歴史的要因がそれを可能にしたのか?
第三インターナショナルの中国革命・第二次中国革命は流産した。
d そして最後に、レーニンとトロツキーたちはロシア革命という巨大な事業を夢み、これを道半ばまでおしすすめることによって誤っていたのか?
8 私はここで一つの仮定をたてたい。
もしコロンブスがアメリカ大陸を発見できなかったならば、つまりこの地球に南北アメリカ大陸という資本主義と帝国主義にとっての予備地が存在していなかったらと仮定する。
これはとてつもない仮定である。
この南北アメリカ大陸は歴史的に近代の大陸であり、資本主義の大陸である。
もしアメリカ大陸が地球上になかったとすれば、資本主義はこのように長く生きのびなかっただろう。
第一次世界戦争の巨大な財政的まかない手は北アメリカであった。この戦争をとおして、北アメリカは最大級の帝国主義への移行を実現しはじめた。この戦争後、ドイツと西ヨーロッパの最大の救済者は北アメリカではなかったか?
北アメリカ大陸 - ここに重大な鍵の一つがかくされているように思われる。
9 私はさしあたって並列する三つの問題を提出する。
a 第二インターナショナルの破産について - これは、帝国主義の発展がつくりだした改良主義機構の問題である。
第一次世界戦争後の西ヨーロッパの客観的な経済条件によっても、いまだ革命のための条件として不十分であるといわねばならないのだろうか? 第二次世界戦争後の事態については別にするとしても。
b 労働者国家ソ連邦の民族官僚と世界革命・国際階級闘争との関係の性格について。
これは特殊な検討を必要とする。
c 以上の諸条件と結合した北アメリカ合衆国の世界革命における特殊な位置と役割。
第一次世界戦争とともに公然と戸をおしひらいた世界革命は、その第一波として堕落した労働者国家ソ連邦をのこして流産した。このことの原因を帝国主義の予備力としての植民地における革命の未進展のなかに見いだそうとしても、ほとんど意味ある結論を引きだしえないだろう。
三 裏返しになった過渡期世界
10 第四インターナショナルの世界運動はトロツキーの展望にしたがっては実現しなかった。これは第二インターナショナルの破産である。第二インターナショナルの世代 - その革命的左翼たち(レーニン、トロツキー、ローザの三大革命家を人格的代表とする)の世界革命についての展望は流産し、裏切られた。彼らは前期帝国主義の時代、世界革命の最初の波の世代であった。トロツキーは、この革命の展望を最後まで歴史の反動に抗してかかげつづけようとした。トロツキーは、世界史のこの反動を実践上の結論において認めることを拒みつづけたというべきだろう。
世界史と世界革命の歴史の現実は、こうしてレーニン、トロツキー、ローザたちの世代の予測と展望を裏切り、それとは異なった道筋を歩んだ。世界革命の最初の波は官僚の波をのりこえることができなかった。
11 世界革命の最初の波の流産の結果を見てみなければならない。この革命の最初の波の破産そのものが現実の世界、世界革命の歩みを規定する。レーニンとトロツキーとローザたちの予測と展望からするならば、世界革命は逆立ちし、あるいは裏返しで進んだといいうるかもしれない。
12 第三インターナショナルによる第二次中国革命によって切り開かれるべき全アジア革命の戸は開かずじまいでおわった。
第二次中国革命の勝利によって一九三〇年代の中国が新興の近代民族への強固で独立的な発展の道へ乗りだしていたならば、そのとき日本天皇制帝国主義の中国と東南アジアにむかった野望は絶対的に短命であったろうし、あるいはむしろそのような野望そのものが成り立たなかっただろう。日本天皇制帝国主義は、その危機を内部にむけて充満させ、一九三〇年代に自爆せざるをえなかっただろう。一九二〇年代から一九三〇年代にかけた日本の労働者と農民の解放闘争は、ついに全労働者階級、全農民の多数派の運動へと発展しえず、天皇制帝国主義によって粉砕されてしまった。
このことは、第二次中国革命の敗北にもとづく天皇制日本のアジアにたいする帝国主義的冒険と深く関係している。帝国主義日本は、その危機を革命の流産した弱体なアジアへ排外主義的に輸出し、天皇制帝国主義の「強さ」という幻想を獲得することができた。
また第二次中国革命の勝利という仮定は、一九三〇年代のインド情勢を深く変えていただろう。勝利せる中国革命は、インドの全被抑圧大衆がガンジーやネルーのブルジョア民族主義の非暴力と合法主義の枠に満足することを許さなかっただろう。一九三〇年代をとおして、インドは革命と反革命の全国内乱の時代に吸いこまれていっただろう。
中国とインドの革命 - これは植民地アジア全体の革命であり、日本天皇制帝国主義の「大東亜共栄圏」の野望の根底を奪いさるものである。この革命アジアに対抗させられる天皇制帝国主義日本が、一九三〇年代に内部危機に見舞われないなどと想像することができるだろうか? インドの革命がイギリス帝国主義にとってどのような意味をもつか明らかだろう。
第三インターナショナルはアジア革命において流産した。
一九三〇年代の日本知識人左翼の「転向」とその非合理主義・神秘主義への移行は、第三インターナショナルのアジア革命の歴史的全構造のなかでとらえられ、分析され、批判されねばならない。一九三〇年代の日本知識人左翼の崩壊は、彼らのモラルを深く浸蝕し、この世代はついに再起することができなかった。彼らはアジア・太平洋戦争後のほぼ一五年間を虚偽イデオロギーの幻想にもとづいてなんとか生きてはみた。だが一九六〇年代の現実は、彼らが一九三〇年代の崩壊からついに再起しえなかったことをしめしている。革命の敗北の醜悪さと暗黒さを彼らはその醜態をさらしてわれわれにしめしている。そして不幸なのは、わが知識人の四〇才代である。彼らは破産した知的先導者たちしかもつことができなかった。この迷える四〇才たちの不幸さの度合いは、戦後の「転向論争」の不毛な「一国共産主義」的水準にしめされており、右や左の政治情勢の流動の間に右往左往する姿(共産党旧国際派とその今日の構造改革・モスクワ派諸集団と人格)にしめされている。
実際、われわれが学びうる知的先導者たちはは、たしてどこにいるというのだろうか? われわれは深く先導者たちをもとめてきたのだが。
13 第三インターナショナルの西ヨーロッパ革命はドイツ・ファシズムに敗北し(スペインでフランコに敗北し)、フランス帝国主義はナチス・ドイツ帝国主義に屈服した。こうしてファッショ・イタリアの危機は、ついに爆発することなく、第二次世界戦争までひきのばされた。
帝国主義イギリスは、こうしてドイツ・フランスをとおした西ヨーロッパ革命の波から防衛され、中国革命の流産によってその最大の植民地インドの反乱から防衛された。
革命ロシアは一九三〇年代とともに急速な産業化・工業化の道へ邁進したが、それは国家官僚の暗黒な専制体制の確立をともなってであった。
ロシア革命のトルコをとおした中近東への波及も停止した。
アジア革命の流産と西ヨーロッパ革命の流産は、アフリカを革命の嵐にまきこむことをやめさせた。
14 一九二九年にはじまる世界経済恐慌は、三〇年代全体をとおして世界経済の危機としてつづいた。もちろん、これはロシア革命にも打撃をあたえた。
一九三〇年代全体をとおして北アメリカ帝国主義経済は危機をつづけた。一九三三年からはじまるルーズベルトのニューディールも絶対にこの危機を解決しなかった。
北アメリカ合衆国では、この経済危機を土台に労働者階級の圧倒的多数が戦闘的労働組合運動へ流れこんでいった。市街戦をまじえる激烈なストライキ闘争も闘われた。今日なお、北アメリカ労働者階級は一九三〇年代の深刻な不況の記憶から解放されていない。
第二次世界戦争にいたるほぼ一〇年間の危機の時代と戦闘的労働組合運動にもかかわらず、北アメリカのプロレタリアートは政治闘争へと成熟し、権力に挑戦するまでいたることができなかった。一九三〇年代の帝国主義北アメリカ経済の危機にもかかわらず、プロレタリア北アメリカはうちたてられなかった。戦闘的労働組合運動の枠をうちやぶりえなかった(ジェームス・ボックス『アメリカン・レボリューション』合同出版、参照)。
われわれは、ここにも第三インターナショナルのヨーロッパおよびアジアにおける流産の結果を見なければならない。
第一に、ヨーロッパ革命の流産は、政治的に最も遅れた北アメリカ・プロレタリアートに社会主義という対置された展望をさししめすことをさまたげた。大西洋の反対側にプロレタリア独裁のヨーロッパ合衆国を仮定することによって、北アメリカ・プロレタリアートの政治意識は巨大な力で社会主義アメリカの展望へ導かれたであろう。
第二に、ヨーロッパとアジアの革命が流産しなければ、第二次世界戦争はあのようなものとして一九四〇年代に不可能である。ヨーロッパとアジアの戦争が危機のアメリカ経済を救った。帝国主義北アメリカにこの世界戦争という絶対的救済者が訪れなかったとすれば、ニューディール下の危機はつづき、北アメリカ・プロレタリアートは結局のところ社会主義革命の道に進むか、あるいはファシスト北アメリカを迎えねばならなかったであろう。
北アメリカの政治意識の反動は、この国のトロツキスト党SWP(社会主義労働者党)のインテリゲンツィア指導者たるシャハトマンとバーナム(『経営者革命』の著者として彼が行きついた見解を知ることができる)の堕落によってもしめされている(トロツキー『マルクス主義の擁護』、ドイッチャー『トロツキー伝』第三巻参照)。
北アメリカ帝国主義の救世主たる第二次世界戦争をとおして、この帝国主義は新たな飛躍的巨大化へむかい、そのプロレタリアートの政治的成熟はおしとどめられた。
ヨーロッパとアジアの革命の勝利的前進によってアジア・中近東・アフリカが革命による解放へむかうとき、一九三〇年代の全ラテンアメリカの民族主義運動が労働者・農民の帝国主義支配にたいする反乱として発展したであろうことは明白であろう。
15 第一次世界戦争とロシア革命からはじまった第三インターナショナルの流産=第二インターナショナルの破産は、こうして文字どおり全世界をかけめぐった。
第三インターナショナルの流産は、こうして、歴史の「予定」されたコースにたいする単なる「裏切り」にとどまらない。つまり第三インターナショナルの流産は、レーニン、トロツキー、ローザたちに人格的代表を見いだす第二インターナショナルの革命的左翼が予測・展望した世界革命の全行程を「ねじまげ」てしまった。これが現実の世界史の行程であった。
スターリニズムによる裏切りの結果の現実によって、つづく全世界の革命の可能的な構造と諸条件そのものを、レーニン、トロツキー、ローザたちの世代の予測の前提となったものから大きく変えてしまった。このことは前期帝国主義世界から後期帝国主義世界への時代的移行を準備した。
レーニン、トロツキー、ローザは第三インターナショナルそのものの人と世代であり、そして第三インターナショナルそのものが流産した。レーニン、トロツキー、ローザたちが誤っていたのではない - 歴史において彼らは絶対的に正しかった。
現代のわれわれは、この世界革命史=過渡期世界の現実をわれわれの意識に獲得し、われわれの時代を展望しようとしなければならない。 (一九六五年六月)
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