実態を無視した機械的二分論

書 評『20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉
    ――左翼再構築の視座を求めて』

寺岡衛 著 江藤正修 編 つげ書房新社刊/1900円+税 

誤解に基づく「脱トロツキズム」の無効性

はじめに


 今年四月に刊行された寺岡衛(以下敬称略)の新著である本書は、前著『戦後左翼はなぜ解体したのか』(2006年 同時代社刊)の続編というべき性格を持っている。私は前著への書評を本紙06年7月10日号と17日号に二回に分けて掲載した。
 旧第四インターナショナル日本支部の古参指導部で、組織分裂の際に第四インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)に参加した寺岡が、自身の経験を軸に、戦後の日本左翼運動の総括とその再生のための模索と考察の作業を継続していることには敬意を表明したい。だがその「敬意」は、決して内容への同意を意味しない。率直に言って前著と同様に、いやそれ以上に今回の著作に対して、私は少なからぬ疑問と批判を持っている。

「前期資本主義」と「後期資本主義」

 本書の冒頭部分で寺岡は、「前期資本主義と後期資本主義の相互関係の中で日本における戦後史の流れを考え直し」、「前期資本主義から後期資本主義に至る過渡期」としての第一次大戦から第二次大戦への「戦間期」の分析の焦点をあてた「国際的な視点」からの総括を試みた、と述べている。
 まず気になったのは本著のキーワードとなっている「前期資本主義」と「後期資本主義」という用語上の問題である。寺岡はレーニンが「資本主義の最高の歴史的段階」と呼び、かつ「死にかけている資本主義」(『帝国主義論』)と規定した「帝国主義」を「前期資本主義」の区分の中に押し込み、「後期資本主義」とは事実上、二〇世紀初頭のアメリカにおいて始まった「フォーディズム型生産・蓄積・統合様式」の意味で使用しているようである。寺岡は、「帝国主義」の概念と「後期資本主義」の概念を明らかにそれぞれ歴史的に段階の異なった二つのものとして記述している。寺岡によれば「後期資本主義」はレーニンの言う「帝国主義」ではない。「後期資本主義」についての厳密な規定を寺岡は与えていないのだが、書かれている内容からすればそのように読み取れる。
 ところで「後期資本主義」という言葉でわれわれが参照するのは、戦後の第四インターナショナルの中心的な理論的指導者だったエルネスト・マンデルが一九七二年に出版した大著『後期資本主義』(邦訳は3冊本で柘植書房刊 1980年)だろう。おそらく寺岡の「後期資本主義」という概念もマンデルからとったものと考えられる。
 しかしマンデルの「後期資本主義」という用語は、寺岡のそれとは基本的に異なっている。マンデルは次のように書いている。
 「われわれにとって、後期資本主義をマルクス主義的に分析する試みは、レーニンの帝国主義分析の確証として可能であるにすぎない。後期資本主義の時代は、資本主義的発展の新しい画期ではなく、むしろ帝国主義的独占資本主義のいっそうの発展にすぎないのである」(同著「序言」)。また「後期資本主義の概念は資本主義的生産様式の構造的危機の諸条件下での独占資本主義時代の、帝国主義の新段階としてより正確に表現されうる」(同著第6章「第3次技術革命の特殊性」)。
 この「後期資本主義」という規定は、マンデル自身によれば彼が一九六一年に書いた『マルクス主義経済理論』(邦訳『現代マルクス経済学』全4冊、東洋経済新報社刊 1972~74年)の第十四章「資本主義の衰退期」の記述の不十分性を改めようとするものであった(『後期資本主義』「序言」)。
 マンデルが、レーニンの規定に依拠しつつ第二次大戦以後の「後期資本主義」を帝国主義の新たな発展の局面として位置付けていることは明確である。言うまでもなくマンデルの論述は、決してレーニン「帝国主義論」からの演繹によって「後期資本主義」を説明しようとするものではない。ファシズム、第二次世界大戦、戦後資本主義の高度成長という現実の推移の具体的な解明の中からそれを論拠づけているのである。
 他方、十九世紀の産業資本主義段階から二十世紀初頭の帝国主義段階までを「前期」、同じく二十世紀の初頭にアメリカで始まるフォーディズム型資本主義を「後期」の開始と把握する資本主義の歴史に関する寺岡の独特の二分論は、あまりにも強引である。私は、寺岡がマンデルとは異なる内容を「後期資本主義」という用語に込めようとすることに反対しているわけではない。説明ぬきでそれが行われることに疑問を呈しているのである。

天皇制支配と「市民社会」

 寺岡の図式的な資本主義の「前後期二分論」は、その内容において明らかな単純化が見られる。たとえば寺岡は、「前期資本主義」において「国家の強制機能と資本の収奪機能は、前期資本主義における生産力発展の不可分の機能であると同時に大衆の貧困化、窮乏化を不断に強制していく関係にあった」のに対し、「後期資本主義」では「資本と国家の文明的な社会的作用が全面的に発揮されるところに、大きな転換点が存在した」(P202~3)と対比的な特徴付けを行っている。
 総じて寺岡の「前期」と「後期」の時期的区分には、二つの時期の異なった「構造」と「基盤」を対比させ、その「構造」や「基盤」からそれぞれの性格の違いを際立たせようという方法が見られる。たとえば「前期資本主義」の支配が「前近代的な略奪的要素」を含む国家による民衆の「直接的支配」であるのに対し、「後期資本主義」の場合は基本的に「中流型市民社会」を基盤にした「統合・包摂」の機能を特徴とする、と語るように。
 寺岡は「前期資本主義」を基盤とした天皇制日本帝国主義に特徴的な支配のあり方を「家父長制的」で「前近代的」なものと捉える。彼はこうした前近代性が戦後の「第一次市民革命」においても温存され、個人の自立や人権意識の確立を著しく阻害したと捉え、左翼の危機の要因をここから説明しようとするのだが、それはあまりにも粗雑である。
 寺岡は第二次大戦以前の「前期資本主義」としての日本には「市民社会」は存在せず、あったのは天皇制イデオロギーに支配された「共同体社会」だったと主張する。これを彼は「天皇制ボナパルティズム」と規定している。しかしボナパルティズムは「市民社会」が成立していない前近代的な「共同体社会」の産物ではなく、あくまで近代的資本主義国家を前提としているのである。寺岡のような見方からすれば、戦後憲法は何の市民社会的基盤もないところに、まさしく占領軍によって外部から「押しつけ」られた、ということになりはしないか。だが、大正デモクラシーから昭和初期の日本社会において、近代的「市民社会」が大都市を中心に形成されていったことは歴史学上の「常識」と言えるのではないか。
 そして戦後の象徴天皇制を支える市民意識の基盤を「前近代性」の残滓のように捉えるのではなく、むしろ「後期資本主義」と都市型市民社会の本格的形成と爛熟、家族制度の変容を通じて再編されるプロセスの中でこそ把握することが必要なのではないか。
 寺岡は前著『戦後左翼はなぜ解体したのか』の中で、「雅子問題」で露呈した象徴天皇制の危機を論じる中で、戦前の「神聖天皇制」から戦後の「象徴天皇制」を支えた精神的要素の継承を指摘し、「ところがこの精神的要素は、今日育ちつつある自立的個人を基礎とする近代民主主義の人権思想とは衝突するし、また現在若者の中にはびこる利己的欲望の追求を自由と考えるミーイズムとも相容れない」(P76)と述べている。したがって「近代人権思想」や利己的個人主義の貫徹が、象徴天皇制的統合を崩壊させるという主張となる。
 だが問われるべきは、近代市民社会の人権思想や利己的個人主義が、国家との関係においてどのように自己貫徹できるのか、ということである。むしろ象徴天皇制国家の「統合・包摂」機能が、危機の中で自己を貫くことのできない市民社会イデオロギーや個人主義をも取り込もうとするところに問題があるのではないか。「後期資本主義」の危機そのものが、近代的個人意識・自立した市民意識の危機を促進している中で、われわれは「象徴天皇制」国家を支える意識がむしろ新たに再生産されていると考えるべきではないか。
 それ以外にも、「前期」と「後期」を図式的に二分する寺岡の論述には、実際の歴史の展開と相違する事例や記憶違いと思われるミスがままあるのだが、繁雑にすぎるのでここではいちいち取り上げない。総じて寺岡は、レーニン、トロツキーに代表されるボリシェビキの革命戦略を「前期資本主義」に対応した「機動戦」戦略と規定し、それは今や乗り越えられるべきものと結論づけた上で、「後期資本主義」に対応した革命戦略はグラムシが提起した「陣地戦」戦略を基底に据えたものでなければならない、というところから総括を組み立てようとしているようである。

総括の方法をめぐって

 寺岡は本著で「数年前まで私はトロツキストと呼ばれていたが、最近では私がそう呼ばれるのはふさわしくないと考えるようになっている。/なぜかというと、トロツキーやレーニン、ボルシェビズムと言われる思想的流れの主要なテーゼを全面的に見直さなければならないと思っているからである。前衛党の問題やプロレタリア独裁、トロツキーの主要な綱領的立場とされる永久革命論、もっといえば窮乏化理論から帝国主義戦争論にいたるまでのテーゼを全面的に見直さなければ、今日の歴史的総括に対応できないと考えるからである」と書いている。その意味でこの著は「脱トロツキスト」宣言である。
 私は、寺岡がこうした立場で総括を深め、革命運動の新しい展望を描き出そうとすることになんら反対するものではない。異なった立場から総括を突き合わせ、過去を見直す論議を深めることは、左翼の再生にとって不可欠なことだろう。立場は異なるとはいえ、私はこのような寺岡の姿勢を否定はしない。むしろ「過去の総括」とは、多くの場合、「新しい戦略・方針」の「直観的」獲得とそのより精密な定式化のためになされる。つまり方針が総括の内容を規定するのである。したがって寺岡が彼の言う「第二の市民革命」論にもとづいて、過去を乗り越えようとする方法そのものについては否定すべきではない。
 だが寺岡の方法論は、新たな展望・戦略・方針の獲得と、それによって規定される過去の理論的総括・克服を過剰なまでに「一体化」させようとしている、と私には思われる。新たな展望・戦略・方針を「直観的」(私は、この「直観的」という言葉を否定的な意味で使っているのではない)に仮説として打ち立てた際に、その任務・方針と過去の総括の「一体性」については、十分な慎重さが必要であり、任務・方針の提示と総括の提示には、論理的にも時間的にも「相対的な分離」という作業プロセスを置くことが必要なのではないか。現在的な任務・方針の提起と過去の歴史的総括を性急に一体化して提起した場合、総括にかかわる分野にはかなりの無理が生じることが多々あるからである。寺岡の「第二次市民革命」という問題意識から発する任務・方針と総括の「過剰なまでの一体化」の弊害が、トロツキーを克服しようとする寺岡の試みの中にも現れている。
 たとえばトロツキーの主張について、その歴史的限界を克服しようというのであれば、少なくとも彼の主張が何だったのかについての正確な理解が必要だろう。ところが寺岡がトロツキーの主張だとするものについては「コミンテルン綱領批判」の一節を除いては、まったく文献の「引用」という形式がとられておらず、きわめて不正確なものとなっている。
       (つづく)
      (平井純一)

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