十月革命の予言者が遺したもの

かけはし 第2647・2648合併号 2021年1月1日

トロツキー暗殺80周年にあたって
レオン・トロツキー(1879年~1940年)

ミシェル・レヴィ

 レオン・トロツキーは、1917年10月の出来事のコースを大枠において――『永続革命論』の中で――予測した、唯一のロシア・マルクス主義者とは言わないまでも、数少ない人物の一人であった。しかし、彼は、予言者であることで満足しはしなかった。「武装せる予言者」として、彼は自らの予言の実現に積極的に貢献したのだ。
 しかし、この点だけが若きトロツキーの予言ではなかった。1904年の小冊子『われわれの政治的任務』において、彼は、ローザ・ルクセンブルクと同じように、ボリシェヴィキのジャコバン主義とその代行主義的傾向を批判した。トロツキーは、1917年に自らがボリシェヴィキ党に入党した後、この代行主義という議論をしなくなったわけではなかった。とりわけ、1923年からスターリニズムに対する中心的な批判者になる以前の、1920年~22年の時期においてもやはりその点を問題にしていた。

Ⅰ 永続革命論―弁証法の創造的展開

正統的な想定の大胆な踏み超え


 トロツキーの永続革命論は――一般的な意味で問題にされないかぎりでは、まず何よりももっぱらロシアでの論争と関連したものであって――、1905年~1906年のロシアの革命的激動期に生まれた。この革命の性格についてのトロツキーのテーゼは、ロシアの将来の問題に関する第2インターナショナルの支配的考え方からの根本的な断絶をなすものであった。マルクスとエンゲルスはためらうことなく、『共産党宣言』のロシア語版への序文(1882年)の中で次のように示唆していた。すなわち、「ロシア革命が西欧におけるプロレタリア革命の合図となり、こうした両者が互いに補いあうなら、現在におけるロシアの土地の共同所有は共産主義的発展の出発点となりうるだろう」(1) と。しかしながら、2人の死後、ロシアのナロードニキの展望に類似することになるのではないかとする疑念を生じさせるロシア革命の展望のこのコースは放棄されてしまった。ほどなくして、将来のロシア革命は、ツァーリズムの廃止、民主共和制の確立、農村における封建的残骸の一掃、農地の農民への分配という厳密なブルジョア民主主義的な性格を必然的、不可避的に帯びるとする観点がロシアとヨーロッパの「正統派」マルクス主義の間において普遍的な前提、信仰、となった。ロシア社会民主主義のすべての派が、この前提を議論の余地のない自らの出発点とみなした。その中で、論争があるとすれば、それは、このブルジョア革命におけるプロレタリアートの役割の解釈ならびに階級的同盟――自由主義ブルジョアジーとの同盟(メンシェヴィキ)かそれとも農民との同盟(ボリシェヴィキ)かどちらを優先すべきか?――に関する違いに関してであった。
 トロツキーは、この不可侵となってきたドグマを見直した最初で、しかも長年にわたって唯一そう主張し続けたマルクス主義者だった。1917年以前には、彼は、ロシア革命における労働者の運動のヘゲモニーを主張したのだが――このテーゼだけであれば、パルヴス、ローザ・ルクセンブルク、そしてその文書の一部においてレーニンも同じような主張をしていた――、それだけにとどまらず、民主主義革命から社会主義革命への急速な移行の可能性をも予想した唯一の人であった。
 トロツキーがその斬新な教義を革命派の新聞にいくつかの論文として最初に著したのは一九〇五年の期間のことであった。その後、それは、1906年に有名な論文『総括と展望』によってより体系的なものとなった。彼の考えがパルヴスの影響を受けたことは疑う余地のないところだが、パルヴスは、厳密に(ブルジョア)民主主義的綱領にとどまる労働者政府という考えをけっして超えることはなかった。パルヴスは、歴史の機関車を変えることを望んだのだが、そのレールを変えることは望まなかったのである(2)。
 《永続革命》という用語をトロツキーは、1905年11月の『ノイエ・ツァイト』紙におけるフランツ・メーリングの論文から着想を得たのだが、ドイツ社会主義の著者がその用語に付与した意味は、ロシアの革命派の著作の中でトロツキーが受け取ったものよりもはるかに急進性を欠く、もっと曖昧なものであった。トロツキーは唯一、1905年以来、「社会主義的任務」を実現する革命の可能性――、すなわち、ロシアにおける大資本家の資産の没収――他のロシアのマルクス主義者たちがユートピア的で冒険主義的だと一致して退けていた仮説――をあえて提起していた。
 トロツキーの政治的大胆さと永続革命論の起源に関する研究は、彼の立場が第二インターナショナルを支配していた正統派的立場とは大きく異なるマルクス主義の解釈ならびに弁証法の方法にもとづくものであったということを示している。それは、若きトロツキーが学んだ最初のマルクス主義哲学者がラブリオーラだったという点からも部分的に説明できる。トロツキーのヘーゲル的・マルクス主義の軌跡と着想はその当時非常に大きな影響力をもっていた実証主義と俗流唯物論とは対極にあった。

開かれた歴史的可能性の突き出し


若きトロツキーの著作と彼のロシア革命論を貫いて働くマルク主義の方法論のいくつかの独自的特徴は次のような点である。
①対立物の統一という弁証的概念への支持。ボリシェヴィキが、一方におけるプロレタリアートの社会主義的権力と他方における純然たる形式的な論理展開としての労働者と農民の民主主義的独裁とを実践において厳然と分離する立場であったのに対して、トロツキーは、ボリシェヴィキによって実践されたこのような厳格な分離を批判する。同様に、メンシェヴィキのチェレブニンに対する論争の一環としての驚くべき一節の中で、チェレブニンの政治的行動の分析的性格――すなわち、抽象的で、形式的、前弁証法的な性格――を非難している。「チェレブニンは、スピノザが、倫理を、幾何学的方法によって、組立てたように、戦術に基礎をおくのである」(3)。
②トロツキーは、プレハーノフのマルクス主義の本質的特徴をなす経済主義を公然と退ける。この断絶は、『総括と展望』の次のよく知られた一節が立証しているように、永続革命論の根本的な方法論上の前提のひとつである。
「プロレタリアートの独裁をある国の技術的な発展になんらか自動的に依存するとの考えに立つものと想像してみよう。これは愚かしいまでに単純化された『経済的』唯物論の誤った見解を導き出すことである。このような観点はマルクス主義となんら共通するものはない」(4)。
③トロツキーにあっては歴史の概念は、運命論的なものではなく開かれたものであった。彼は書いている。「マルクス主義の任務は、革命の内的メカニズムを分析することによって、革命がその発展において提起する可能性を見い出すことである」(5)。永続革命は予めの決められた結果ではなく、客観的なごく当然の現実的な可能性なのであって、その実現は、無数の主体的な諸要因と予測しえない出来事とにかかっている。
④大半のロシア・マルクス主義者たちが、ナロードニキとの論争のせいで、ロシア社会の形成の一切の特殊性を否定しようとして、西ヨーロッパの社会経済的発展とロシアの将来とが似通ったものになると主張したのに対して、トロツキーは新しい弁証法的立場の定式を提示した。彼は、ナロードニキのスラブ的特殊性とメンシェヴィキの抽象的一般論との両方を批判しながら、ロシアの社会の形成の特殊性とこの国に対する資本主義の発展の全般的影響との両方を同時に説明する分析を展開した。

不可避的な経済的隷属打破の圧力

 『総括と展望』を独創的なものにしているのはまさに以上すべての方法論上の刷新である。ロシアにおける不均等・複合発展に関する研究を出発点にして――その結果として、この国は半分が外国資本である脆弱なブルジョアジーと近代的で例外的とも言える集中化されたプロレタリアートを抱えることになった――、トロツキーは、農民に支持された労働者の運動だけが専制と地主の権力を打倒して、民主主義革命を実現できるとする結論に達した。実のところ、ロシアにおける労働者政府という展望は、彼以外のロシアのマルクス主義者も、とりわけパルヴスも同じく提起していた。永続革命論の根本的な新しさは、将来のロシア革命の階級的性格に関する彼の定義よりもむしろ歴史的任務に関する彼の考え方にあった。
トロツキーの決定的な貢献はまさしく、ロシア革命が重大な民主主義的な変革を超えて、さらに明確な社会主義的内容をもつ反資本主義的な諸政策を実施することができるとする考えなのである。これまでの支配的であった主張を打破するこの仮説は実に簡明で、「プロレタリアートの政治的支配はその経済的隷属と両立しない」とするものである。
プロレタリアートは、ひとたび権力に就いて強制手段を支配することになったのに、どうして資本主義の搾取を許し続けなければならないのか?、ということだ。たとえプロレタリアートが当初、最小限綱領の枠内に自己限定することを望んだとしても、その立場それ自身の論理からして、集産主義的手段を取るように導かれていくだろうというのである。そう述べながら、トロツキーは、西ヨーロッパへと革命が拡大しなければ、ロシアのプロレタリアートは困難な中で長期にわたってその権力を維持し続けることになる可能性がある、と確信していた。

『総括と展望』と1917年

 『総括と展望』の中でトロツキーによって提唱された思想についてコメントしたアイザック・ドイッチャーは、赤軍の創設者であるトロツキーの伝記において、その最も見事な記述の一節の中で次のように書いている。
「彼のメッセージを、恐怖をもって読むにせよ、希望をもって読むにせよ、彼を、偉業と壮観においていっさいの歴史をしのぐ新時代の、霊感をうけた先駆者として見るにせよ、破滅と苦悩の使者として見るにせよ、彼のビジョンの雄大さと大胆さに、深く感銘せずにはいられない。彼は高くそそり立つ山岳の絶頂から、果てしなく広がる新しい地平線を見わたして、はるかかなたの、地図にものらぬ広大な陸標を指差すひとのように、未来を偵察したのである。なるほど、彼は、この展望の利く有利な地位から、脚下にひろがる全風景を眼中におさめることはできなかった。濃い霧の断片が、風景の一部をつつんでいた。距離と展望のいたずらで、谷間で見るとはちがって見えもした。彼は主要な道路の正確な方向を見あやまった。二つないしそれ以上の陸標が、一つになって見えたりした。彼は他日自分が滑りおちて、非業の死をとげる、岩だらけの峡谷の一つを、悲しくも見おとした。だが、その償いは、ユニークなまでに壮大な彼の視野であった。トロツキーが要塞内の彼の独房でえがいたこのビジョンに比べたら、レーニンやプレハーノフをふくめて、彼の最も有名で、最も聡明な同時代者たちの政治的予言は、臆病であるか、間がぬけているかした」(6)。
実際、1917年の出来事は、それよりも12年も前に、トロツキーの基本的予測を確認することになった。ブルジョア諸政党と労働運動の穏健派の翼となっていたその同盟者たちは、農民の革命的熱望や民衆の平和への願望に応えることができず、そのことが、2月から10月への革命運動の急進化を作りだした。
人々が「民主主義的課題」と呼んでいたものは、農民問題に関しては、ソヴィエトの勝利の後にはじめて実現されたにすぎない(7)。しかし、10月の革命派は、ひとたび権力の座に就くと、民主主義的課題のみの改革だけに自らをとどめておくことはできなかった。そこでは、階級闘争の発展力学が革命派をして社会主義的政策を公然と実施せざるをえなくしたのである。
実際、有産階級の経済的ボイコットと生産の全般的な麻痺状態という脅威の増大に直面して、ボリシェヴィキとその同盟者たちは、予測していたよりもかなり早いうちから資本の接収に向かうこととなった。1918年6月には、人民委員会議が産業の主要部門の社会化を布告した。
言い換えれば、1917年の革命は、(いまだ達成されていない)2月の「ブルジョア的・民主主義的」局面から、10月に開始された「プロレタリア的・社会主義的局面」へと間断なく発展する過程をたどったのである。ソヴィエトは、農民からの支持を受けながら、「非資本主義的な道」、すなわち、社会主義へと向かう過渡期を切り開く局面へと、間断なき革命的発展の過程をたどったのである。
しかし、ボリシェヴィキ党は、1917年4月にレーニンによって着手された根本的な戦略の転換のおかげではじめて、世界をゆるがすこの壮大な社会運動の主導権を取ることができた。この路線転換は、永続革命に非常に近い展望に沿うものであった。ペトログラード・ソヴィエト議長として、ボリシェヴィキ党の指導者として、赤軍の創設者として、トロツキーが十月革命の社会主義への「転換」を促す上で決定的役割を果たしたことは言うまでもない。

Ⅱ 労働者民主主義への内部的危険

「代行主義」の危険な傾向

 それでもやはり、革命の国際的拡大という論争の的となった問題がまだ残っている。その後の出来事は、条件付きのトロツキーの予測――ヨーロッパ革命が起こらなければ、ロシアにおけるプロレタリア権力は必然的に崩壊する運命にある――を確認したのだろうか? そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。ロシアにおける労働者民主主義は1919年~1923年にかけてのヨーロッパ革命の敗北のために生き残らなかったが、1906年の段階でトロツキーが予測していたような、ヨーロッパ革命の後退が資本主義の復活を生み出すことはなく、資本主義の復活はずっと後の1991年になって生じたにすぎない。しかしロシア内では、労働者権力が、労働者運動それ自身から生まれて来た官僚層の独裁に置き換えられてしまった。
ところで、たとえ1905年~1906年の時点でトロツキーがこの問題を予測していなかったとしても、それでもやはり、その頃、労働者民主主義が内部から脅かされるのではないかと彼は予感していたのだった。
ロシア社会民主労働党をメンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂させた1903年の党大会後に、トロツキーは『われわれの政治的任務』(1904年)と題する小冊子にそれを発表した。同じころ、ローザ・ルクセンブルクがドイツ社会民主党の理論機関誌『ノイエ・ツァイト』やロシアの『イスクラ』(1904年7月)に発表された論文(『ロシア社会民主党の組織問題』)で批判したのと同じように、トロツキーもレーニンとその同志たちを、中央集権主義的で、強権的、ジャコバン派的な着想の持ち主だと批判した。
それに対してレーニンはためらうことなく、『一歩前進、二歩後退』の中で、革命的社会民主主義者とは(階級意識をもった)労働者の組織と不可分に結びついたジャコバン派にほかならないと書いた(8)。ところが、若きトロツキーによれば、ジャコバン主義かマルクス主義かを選ばなければならない。なぜなら、革命的社会民主主義者とジャコバン派とは「深いみぞによってへだてられた二つの世界、二つの教義、二つの戦術、二つの考え方」(9)だというのである。
トロツキーのこの小冊子の中心的考えは、レーニンが提唱する方法論に表現されているのは「代行主義」の危険、ということであった。若きトロツキーによれば、『何をなすべきか?』の著者の考え方は、党が労働者階級を代行することになる一方、党それ自身の内部においても、「党組織―小さな委員会―が党全体を代行し始め、次には中央委員会が党組織を代行し、最後には一人の『独裁者』が中央委員会を代行するようになる」(10)というのである。われわれは、レーニンに対するこの批判を不当だとみなすことができるが、その批判は、直観的見通しからソ連邦のスターリン的な将来を忠実に映しだしてもいるのだ(11)。トロツキーは、この種の方法論を退け、それに代わる二つのスローガンを打ち出した。「プロレタリアートの自主的活動万歳! 政治的代行主義打倒!」と。

現に姿を見せていた危険な傾向


トロツキーは、レーニンに反対したが、それ以上さらに、『イスクラ』紙の特別版として出版された小冊子の文章の中にあった、たとえばウラル地方のボリシェヴィキ活動家のような、一部ボリシェヴィキの委員会が明らかにしていた憂慮すべき教義に激しく抗議したのだった。「このドキュメントを書いた連中は、プロレタリアートの独裁がプロレタリアートに対する独裁という表現をとって出現することを高らかに宣言する勇気がある。自らの自主的活動を通じて社会の運命を自らの手に掌握するのは労働者階級ではない。プロレタリアートを支配し、さらにこのプロレタリアートを通じて社会を支配することによって、社会主義への移行をもたらすのは、『強力な権限をもった組織』である」(12)というのだ。要するに、プロレタリアートに対する独裁という論争の中心問題がここには提起されているのである。
「妙な所があるというのではなく、わが党の脅威となる深刻な危険のきざしがあり、取り立てて臆病でもない人々に対してさえ背筋に震えが走るような結論をもつこの『ウラルの宣言』」に対して、トロツキーは、革命権力の行使における複数民主主義の必要性を主張した。「新体制の任務はまことに複雑であり、したがって経済上、政治上の建設のさまざまな方法を競合させることによって、息の長い『論争』によって、……社会主義世界と資本主義世界とのあいだのみならず、社会主義的内部のさまざまな諸潮流や傾向間の組織だった闘争によってはじめて、解決が可能になるだろう。それに、党内のさまざまな潮流は、プロレタリア独裁が前もって解決できない幾百幾千の新たな問題を提起するにつれて、不可避的に頭をもたげてくるものなのだ。……そして、いかなる『強力な権限を持った組織』であろうとも、この過程をスピードアップしたり簡素化したりするために、これらの傾向や潮流を消し去ってしまうことはできないだろう。社会に対して独裁権を行使するだけの力を持っているプロレタリアートが、自分たちに対する独裁を認めるはずもないことは十分に明白なのだ」(13)。
この結論があまりにも楽観主義的であるとしても、われわれは、「ボリシェヴィキの運動の一部の潮流の内部に働いている」危険な傾向――「強権的で反民主主義的傾向」――という「背筋に震えが走るのをおぼえる」ような、予感的で予言的でさえあるこのトロツキーのテキストの性格に驚かされるばかりである。
1917年7月、トロツキーはボリシェヴィキ党に入党した。この決定は、一方においては、1912年以降に彼が形成してきた「8月ブロック」のメンシェヴィキとの決定的な決裂から生じたものであったが、他方では1915年以来、ボリシェヴィキがたどった重大な転換にも由来していたのだった。ボリシェヴィキ党は大衆運動の不可分の一翼となったばかりでなく、レーニンの『4月テーゼ』を原動力として、トロツキーの永続革命論の戦略の基本的内容を取り入れた左翼的転換をも行ったのである(一部の古参ボリシェヴィキは1917年4月の時点でレーニンをトロツキストになってしまったと批判してこの転換に反対しさえした)。ボリシェヴィキへのトロツキーのこの加盟はそれ以降変わることはなかったし、1940年に暗殺されるまで、革命的路線としてのレーニン主義に依拠するとともに、党の重要性を確信し続けるということが、彼の政治的考察の中軸となった。

Ⅲ 責任の共有と1923年の転換

代行主義イデオロギーの実行者

 ソヴィエト権力の最初の数年間は、たとえそれがスターリンの全体主義的な体制とはなおほど遠いものであったとしても、民主的自由の制限が次第に高まっていくという特徴を示した。ローザ・ルクセンブルクは、ボリシェヴィキと連帯していたが、それでも有名な小冊子『ロシア革命論』(1918年)の中で新革命政権によって取られた、憲法制定議会の解散、反ソヴィエト政権派の政党や新聞の禁止などの強権的政策を批判した。
レーニンやその同志たちとともに、レオン・トロツキーもこの路線に対する責任を共有している。彼にあっては、1920年~1922年の期間、それが極度の中央集権主義という特徴を帯びるという極端な形を取ることとなった。労働の軍隊化や労働組合の国家化の提案がそうしたものであった。これらは、レーニンと党の多数派によって退けられたことは、それにその極端さが最も明白に表現されたことを示していた。言い換えれば、彼は、1904年に危険であると非難した代行主義的テーゼをある意味において自身で実践しようと試みたのだった。
概して、トロツキーは、この期間中、「ジャコバン派」風の「強権主義」に強く刻印された考え方と主張を展開するようになった。これは、小冊子『共産主義とテロリズム』(1920年、カウツキーの批判への反論)と『赤軍と白軍の狭間に』(1922年、これは、グルジアへのソヴィエトの侵攻の正当化の試みであったが、同時にその当時の政治論争への彼の発言でもあった)。たとえば、ソ連邦共産党第10回大会(1921年3月)で、彼は次のように公然と提唱した。「党は大衆の自然発生的気分に一時的な動揺があっても顧慮することなく、たとい労働者階級のなかにすらも一時的な気迷い、ためらいがあってもこれも無視して、自己の独裁権を保持する責任がある」(14)。さらに、コミンテルン第2回世界大会における発言においても(1920年7月)代行主義的イデオロギーの壮大な調子のこうした主張を展開した。「今日、わたしたちはポーランドの政府から和平を結びたいという申入れを受けとっている。だれがこのような問題を決定するのか? わたしたちは人民委員会議をもっている。だが、人民委員会議もまた一定の統制に服さなければならない。だれの統制に? 一定の形をとらない混沌とした大衆としての労働者階級の統制に服するのか? そうではない。提案を討議にかけ、それにたいして返答すべきかどうかを決定するためには、党の中央委員会が召集される。そして、わたしたちが戦争をやらなければならず、新しい師団を編成しなければならず、そのために最優秀分子をみいださなければならないばあいには、わたしたちはどこへむかうか? 私たちは党へむかう。わたしたちは中央委員会へむかう」(15)。.
この時期においてすら、トロツキーが第3インターナショナルの前に提起されていた問題に対しては、以上の立場とは大きく異なる姿勢を示していたというのは事実である。ヨーロッパにおける「党」と「大衆」との関係に関する彼のビジョンは、矛盾しているとは言え、ソ連邦に向けて彼が提唱していたビジョンとは大きく異なっていた。これと同じ時期、彼はその発言の中で、イタリアについて次のように強調するよう配慮していた。「人民大衆の意志のかわりにいわゆる前衛の決意をおこうとする考えかたは、絶対にゆるすことができないし、また非マルクス主義的だ」(16)。そして、1920年11月、コミンテルン執行委員会におけるドイツ問題に対する彼の演説においても「大衆を教育することと指導者を選ぶこと、大衆の自発的行動が発展するとそれに対応して指導者にたいする統制を確立すること――これらすべてのことは、おたがいにむすびあい・おたがいに条件となりあっている現象の過程なのだ」(17)、と述べている。

正当な転換だが未回答の問題が


トロツキーが、党とソヴィエト国家の内部で官僚層の権力が徐々に強化されつつあることを知るようになった1923年に大きな転換が生じた。彼は、『新路線』の中で機構のこの傾向を次のように非難した。機構は、「指導的幹部とそれ以外の大衆とを対立させ、大衆を単なる指導的幹部の働きかけの対象にすぎなくしてしまう傾向がある。……機構が党内の生きた活発な民主主義を弱めるやり方をとる時、『代行主義』の危険が出現し、党の指導はその執行諸機関(委員会、ビューロー、書記等々)の行政的指令といれかわっていく」(18)。トロツキーは、やがてスターリン的官僚に対する中心的な対立者になっていき、われわれはその後の彼の著作の中で――たとえば、『裏切られた革命』(1936年)のように――、ほとんどその一言、一言が社会主主義的民主主義と『われわれの政治的任務』の複数制を強く擁護する彼の主張を改めて見出すことになる。
トロツキーは、自らが(メキシコで)暗殺される直前、『スターリン伝』を執筆していた。その時、自らの青年時代のこの著作を最後に振り返っている。「1904年に私の書いた『われわれの政治的任務』と題するパンフレット――それは、私のレーニン批判としては未熟で、誤っているものもすくなからず含んでいるが――のなかには、当時の『委員たち』の思想傾向をかなり正確に特徴づけている頁がある。翌年、レーニンが大会[第3回党大会、1905年4月]において高い地位にある強力な『委員たち』に反対して行わなければならなかった闘争は、私の批判の正しさを完全に確証した」(19)。
トロツキーは、こう述べることによって、未来のスターリニズムがボリシェヴィキ的中央集権化の中にすでに含まれていたとするテーゼを空虚で歴史的根拠を欠いているとして退けた。スターリニズムの基盤は、中央集権主義という抽象的な「原理」や地下の職業革命家の位階制の中にではなくて、1917年以前と以後のロシアの具体的な諸条件の中に求められなければならない。スターリニズムによる粛清自身が逆説的にも、彼にとってボリシェヴィズム批判への決定的な答えをもたらしたのだ。スターリンは、古参ボリシェヴィキ親衛隊の全員を虐殺することによってはじめてその権力を決定的に確立することができた(20)。
トロツキーのこの主張は正しい。しかし、われわれは、1917年以前のボリシェヴィキの一定の権威主義的伝統ならびにスターリニズムが飛躍的に発展した1918年~1923年の期間の反民主主義的実践の役割についての疑問を回避することはできない。十月の革命派は、ある程度まで、後には自分たちを破壊してしまう官僚的ゴーレム(人造人間)の創造に――そうとは意識しないままに――寄与する役割を果たさなかっただろうか?

 
(注記)
(1)、マルクス、エンゲルス『共産党宣言』(光文社古典新訳文庫、2020年)
(2)、パルヴスとトロツキーの違いについては次のものを参照すること。
Alain Brossat, Aux origines de la revolution permanente: la pensee du jeune Trotsky, Maspero, Paris 1974.. レーニン、ルクセンブルク、トロツキーの間のこの問題に関する一致と不一致については、次のノーマン・ジラスの著作が興味深い。Norman Geras, The legacy of Roza Luxemburg, New Left Books, Lonnd、1976. フランス語の論文としては、Norman Geras et Paul Le Blanc, <<Marxisme et parti 1903ー1917(Lenine, Luxemburg, Trotsky)>>、Cahiers dEtude et recherche no, 14, 1990 (https://iire.org/sites/default/files/iire-shop/pdf_cer_14.pdf).
(3)、トロツキー『1905年』)
(4)、トロツキー『結果と展望』(現代思潮社、1980年、61~62頁)。
(5)、トロツキー『結果と展望』(現代思潮社、1980年)。
(6)、アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者 トロツキー』(新評論、1992年、181頁~182頁)。「80頁のこの小冊子のうちに、この人間の骨子があった。それから生涯のあいだ、彼は革命の指導者として、赤軍の創立者として、統率者として、新しいインターナショナルの首唱者として、それから追われる亡命者として、1906年に自分がきわめて簡潔に表明した思想を擁護し、彫琢するのである」(同右書、182頁)。
(7)、それは後になってレーニンが次のように書いている通りであった。「だが、1917年4月いらい、十月革命のずっとまえから、われわれが権力をにぎるずっとまえから、われわれは人民にこう公然とかたり、説明した――いまでは革命はこれにとどまることはできない、なぜなら、国は前進し、……社会主義への前進を要求する(だれがこれをのぞむとのぞまないとにかかわりなく)経済的破滅は未曾有の規模に達しているからである」(「プロレタリア革命と背教者カウツキー」、『レーニン全集』第一八巻、大月書店、320頁)。
(8)、レーニン『一歩前進、二歩後退 エヌ・レーニンのローザ・ルクセンブルグへの回答』(「レーニン全集」第七巻、大月書店、512頁)。
(9)、トロツキー「われわれの政治的課題」(大村書店、1990年、192頁)。
(10)、同右書、117頁~118頁。
(11)、アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者 トロツキー』(新評論、1992年、108頁~112頁)。
(12)、トロツキー「われわれの政治的課題」(209頁)。
(13)、同右書、214頁。
(14)、アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者 トロツキー』(新評論、1992年、108頁~112頁)。
(15)、トロツキー『党の役割に関する同志ジノヴィエフ報告に関連して』(「コミンテルン最初の5カ年」(上)、トロツキー選集、現代思潮社、1962年、131頁)。
(16)、トロツキー『共産主義インターナショナル第三回大会の「バランス・シートについての報告」』(「コミンテルン最初の5カ年」(上)、トロツキー選集、現代思潮社、1962年、389頁)。
(17)、トロツキー『ドイツ共産主義労働者党の政策について』(「コミンテルン最初の5カ年」(上)、トロツキー選集、現代思潮社、1962年、195頁~196頁)。
(18)、トロツキー『新路線』(柘植書房、1989年、32頁)。
(19)、トロツキー『スターリン』Ⅰ(合同出版、1967年、113頁~114頁)。
(20)、トロツキー『スターリン』Ⅲ(合同出版、1967年、640頁~641頁)。

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