オリンピックはシドニーでおしまいにしよう

金権と国家主義の反動的スポー ツショーを21世紀に残すな!

 シドニー・オリンピックが始まった。テレビも新聞も、あらゆるメディアが「がんばれニッポン」「ニッポンチャチャチャ」の大騒ぎに明け暮れている。オリンピックは、国民統合の強化をねらう権力による国家主義と、サマランチらスポーツマフィアが支配する度はずれた金権・商業主義と、人格さえ押しつぶす勝利至上主義と、腐敗したゼネコン政治が作り出す反動的スポーツショーである。政府とマスメディアがあおりたてるオリンピックフィーバーに冷水を浴びせることが必要である。二十一世紀の世界にはオリンピックはいらない。

 国民統合のためのショーだ

 オリンピック憲章には「(オリンピックは)選手間の競争であり、国家間の競争ではない」とうたわれている。しかしそれが建前にすぎないことは、一八九六年の第一回アテネ大会からはっきりしていた。ギリシャは、オリンピックを通じて民族意識をかきたてることに全力をあげた。その愛国主義と民族主義を社会的基盤にして、オリンピックの翌年、ギリシャはトルコとの戦争に突入した。

 「近代オリンピックの父」とされているクーベルタンの意図は、プロイセンとの戦争に破れた祖国フランスの青年をスポーツで鍛え直したいというものだった。近代オリンピックは国家主義、愛国主義と切り離すことができない形で出発した。

 スポーツには独特の、意識の強い統合作用がある。自分たちの応援するチームの勝敗の行方に全員の意識が強く統合されていくことは、小学校の運動会を応援する父母の態度にも貫かれている。オリンピックでは、すべての選手が「国家の代表」として出場する。それを見る民衆は、自国の代表が「国旗」を胸につけて闘い、「国歌」が流れるなかを「国旗」がポールに揚がるのをながめることで「国民」としての誇りを感じ、しかもたくさんのメダルを獲得することで「大国意識」や「先進国意識」を満足させることになる。

 ロスアンゼルスとベルリン

 一九三二年のロスアンゼルス大会は、前年の満州事変開始と植民地かいらい国家である「満州国」の設立、上海事変など、天皇制日本帝国主義の中国への侵略戦争が全面化し、国際的な反日ムードが高まるなかで開かれた。日本選手団は金七、銀七、銅四計十八個のメダルを獲得し、参加三十八カ国中五位という好成績を納めた。それらはラジオ放送と新聞で連日大々的に報じられ、まさに「全国民的」な愛国主義的興奮の渦を作り出した。「時事新報」は「スポーツ外交の勝利 排日の本場に発揮した我が選手の日本精神」と報じ、「東京朝日新聞」は、明治神宮に参拝する選手団の写真と、天皇に満州国設立の報告に向かう関東軍前司令官らの凱旋パレードの写真を並べて載せ、「二つの凱旋」という大見出しで報じた(坂上康博『権力装置としてのスポーツ』講談社)。

 国家主義的国民統合を組織するというオリンピックの性格を、もっとも目的意識的かつ系統的に組織したのが、ロス五輪に続く一九三六年八月のナチス・ドイツによるベルリン・オリンピックであった。この年、三月にはドイツ軍がラインラントに侵攻、五月にはイタリアがエチオピアを併合し、七月にはヒトラーとムソリーニに支援されてフランコ将軍が反乱を起こし、スペイン内戦が始まっていた。

 このようななかでヒトラーは、ナチズムのもとでドイツが「強大国」に復帰したことと、「アーリア人種の優越性」を誇示するという観点から、オリンピックを徹底的に演出した。「聖火リレー」をはじめ、運営方法、演出方法も含めて、このベルリンオリンピックが今日まで続く現代オリンピックの原型となった。またヒトラーは連日、オリンピックスタジアムに顔を出し、観客から熱烈な歓迎を受ける様子を世界のマスコミに示し、「国民に愛されている指導者」として世界に登場することに成功した。

 メダル獲得数でヒトラーのドイツはアメリカに勝ち、ムソリーニのイタリアはフランスに勝ち、天皇の日本はイギリスに勝った。それは、ファシズム体制のもとで戦争に突き進んでいるこれら諸国の民衆の意識に、自分たちの体制の「優越性」を強く刻印するものだった。ベルリンオリンピックから三ヵ月後、日独伊防共協定が調印された。現に戦争が始まっているなかで、このようなオリンピックでの勝利が作り出した愛国主義的興奮は、侵略戦争を拡大しそのもとへ民衆を動員する基盤を強化したのである。

 今日に続く五輪の政治的役割

 オリンピックのこのような性格は戦後も変わらない。たとえば一九六四年の東京オリンピックは、日本が惨めな敗戦後の再建過程を抜け出し、「先進国」の仲間入りしたことを「全国民的」に実感させる役割を果たした。また八八年のソウルオリンピックは、八一年の光州蜂起弾圧で血塗られたイメージのノテウ軍事独裁政権が、世界に向けて「民主化」を華々しく演出するとともに、爆発的に燃え広がっていた反独裁民主化闘争を鎮圧しつつ、対立と抗争の続く韓国社会を国家主義的に統合しようするものにほかならなかった。

 九八年の長野冬季オリンピックでは、「がんばれニッポン」の絶叫と「日の丸」の波が作り出された。サッカーのワールドカップもまったく同様だが、このような国家主義的スポーツイベントは、教育労働者を中心にして長い間ねばり強く続けられてきた「日の丸」「君が代」の強制に反対する闘いを、一瞬のうちに無化してしまうような強烈な力で、青少年にそれを受容する意識を植えつけるのである。

 すなわち、オリンピックはスポーツのスリルと興奮と感激のなかで、心情を媒介として国家主義的国民統合を強化する手段になっているのである。国家主義は異端排除、排外主義と一体である。今年四月、JOC(日本オリンピック委員会)の八木会長が、長野オリンピック記念マラソンで去年に続いて今年もケニアの選手が優勝したことについて、「黒いのばかりに(優勝を)取られちゃかなわない」という人種主義丸出しの差別暴言を吐いて批判されたが、これこそ「建前」ではなく本音で語った「オリンピックの精神」なのである。長野冬季五輪で会場や関連施設建設に動員された多数の外国人労働者が、工事終了直後、一斉にオーバーステイで摘発され、排除されたことも記憶に新しい。

 資本のグローバリゼーションの進行のなかで、一国的政策の有効性が失われ、既成政治支配体制の統合力が衰退し、遠心化が強まっている時、国家主義的国民統合を強化するために、オリンピックという「国威発揚」を競う国際的スポーツイベントはますます有効である。だからこそ多くの国が五輪招致に夢中になるのである。

 IOCの独裁者サマランチは、スペイン人民戦線を血の海に沈めたフランコ総統の独裁に忠誠を誓ったファシスト党最高幹部の一人であった。一九七七年にスペインのファシスト体制が崩壊した時、サマランチはカタロニアで労働者の反独裁闘争に流血の弾圧を加える責任者であった。当時すでにサマランチはIOC副会長に就任しており、デモ隊への発砲を命じるその口で「オリンピックの理想」を語っていたのである。現代オリンピックを取り仕切ってきた独裁者に、むしろふさわしい経歴であるということができる。

 九九年一月に始まった、二〇〇二年ソルトレークシティー冬季五輪招致をめぐるIOC(国際オリンピック委員会)買収スキャンダルは、二〇〇〇年シドニー夏季五輪、九八年長野冬季五輪招致など、一連の五輪招致をめぐる世界的スキャンダルに発展した。

 暴露されたのは、IOC委員一人当たり十万ドルにも相当する金品の贈与、買春の斡旋、IOC委員が出身国で立候補した自治体首長選挙の選挙資金提供、土地転がしの利権供与、IOC委員家族の留学斡旋・就職斡旋、三流「芸術家」である委員の娘を出演させるコンサートの開催、家族・親族からその友人まで含めた豪華な招待旅行、IOC委員出身国スポーツ団体への資金やスポーツ用品提供と選手の国外研修斡旋など、ありとあらゆる買収工作だった。個々の委員に直接提供されるワイロから、各委員が国内のスポーツ団体に大して持つ支配力を強めるためのワイロまで、まさに考えつく限りのワイロで、オリンピックという巨大スポーツショーは売買されていたのであり、IOCが腐敗しきったスポーツマフィア集団にほかならないことが、全面的に暴露されたのである。

 ファシスト・サマランチの支配するIOCは、無税特権を行使する多国籍企業であり、オリンピックはその多国籍企業が打つスポーツ興行である。サマランチは世界最大のスポーツ用品メーカーであるアディダス社の会長ホルスト・ダスラーの資金援助を受けて、その資金でソ連・東欧やアフリカ、中南米のIOC委員を抱き込み、八〇年にIOC会長に当選することに成功した。サマランチはオリンピックの商業主義化を徹底させた。五輪マークの使用権が売り出され、オリンピック会場周辺のあらゆるスペースが売りに出され、「五輪公式スポンサー企業」の地位が売りに出され、テレビの放映権料も天井知らずに値上がりしている。コカコーラ社は、二〇〇八年まで二期分のスポンサー契約で一億ドル(約百八億円)を支払った。米NBCは、地域内での独占権とひきかえに二〇〇八年まで五期分の放映権料として三十五億七千万ドル(約三千八百億円)を支払った。

 このように、何十億ドルもの収入を上げるようになったIOCは、スイスのローザンヌに本拠を置く準国際機関としての無税特権を行使し、しかもその収支は非公開である。この巨額のカネを使って、サマランチらは世界のスポーツポリティクスを支配し、巨大な特権と利権にあずかり続けているのである。 

 勝利と新記録の自己目的化

 「国威」を発揚し民衆に「国旗」を打ち振らせて興奮させるためには、何よりもまず勝利しなければならない。また、大企業やマスメディアが宣伝のための巨額のスポンサー料や放映権料を払うに足る「見せるスポーツ」「見られるスポーツ」であるためには、人気選手、アイドル選手の派手なパフォーマンスと絶え間ない記録更新が必要である。世界新記録が一つも出ず、すべて「平凡な記録」に終わったオリンピックが何回も続くことを想像してみるがいい。大衆的関心が急速に失われていくことは避けられないだろう。

 こうして、勝利すること、新記録を出すことが自己目的化されることによって、あらゆる用具の改良からドーピングによる人体の改造までが自己目的化されることになる。新記録が出しやすいよう、合成ゴムやポリウレタンを流し込んで反発力を著しく高めた陸上競技の高速トラックは、筋肉や関節に負担がかかるため負傷者が出やすい。選手生命を短くする可能性があるにもかかわらず、こうした高速トラックはいまや常識となった。長野五輪では、氷の摩擦係数を極限まで小さくするために人工的に作った氷筍を輪切りにして並べたスケートリンクが開発され、スピードスケートではかかとの上がるスラップスケートシューズが話題になった。シドニー五輪では、従来の水着より抵抗を四〇%も減らせるという新素材の全身型水着や、従来品より空気抵抗を六%減らすことに成功したという陸上競技用ウエアまで登場した。

 ドーピングの広がりと建前

 言うまでもなくドーピングは体を破壊する。ホルモン剤投与による女性の「男性化」、不妊症、腎臓病、各種のガンなど、副作用は深刻である。一昨年、女子陸上競技のアイドル選手だったアメリカのジョイナーが突然死したのも記憶に新しい。彼女には常にドーピングのうわさがつきまとい、直接薬物を手渡したという証言もあった。

 かつての興奮剤などに代わって、今日では赤血球量を増やすエリスロポエチン(EPO・エポ)、ヒト成長ホルモン(hGH)、インシュリン成長因子(IGF)など、もともと体内にある成分であるためにきわめて検出の困難なホルモン系物質が広く使われている。今年五月はじめには、オーストラリアの円盤投げ選手であるウェルナー・リーテラーがhGHの使用歴を告白して引退を表明し、同時にオーストラリアの陸上選手の多くがこのような薬物を使用していると証言して話題になった(読売新聞00年7月27日)。

 これらのうち、エポについてはシドニー五輪開会直前の八月になって、フランスとオーストラリアで開発された検査方法を組み合わせれば検出が可能になるとIOCが発表した。しかしその他のホルモン系薬物については手つかずのままであり、勝った選手が薬物の力を使ったのか否かは、全くわからない状態にある。そして新しいドーピングの研究開発もまた続けられているのである。

 勝利と新記録を求める国家と企業にとって、勝利によって社会的地位と高額の報奨金や企業とのスポンサー契約を手に入れたい選手自身にとって、ドーピングは必然化する。そしてシドニー五輪直前になって国際陸連(IAAF)は、ドーピングで処分を受けていた女子陸上のオッティー、男子走り幅跳びのソトマヨル、男子長距離のバウマンらスター選手の処分を撤回したり、出場停止期間を短縮したりして、次々に出場可能にしてしまった。またIOCは今回、処分期間中であっても罰金を払えば出場できるということに道を開いた。あまり厳しくすれば、スター選手が減りすぎて興行的に成り立たなくなってしまうからである。

 オリンピックの「華」である陸上競技と水泳では、記録されるのはかつては一〇分の一秒台の差であった。それがいまや一〇〇分の一秒台の差となり、すでに一〇〇〇分の一秒台の「差」を競う時代が始まっている。このようなコンマ以下の「新記録」をなんとかして出し続けるためにこそ、科学技術の粋を駆使した新用具や絶対に検出されない薬物の研究が進んでいるのである。

 「精神のドーピング」とは

 試合に臨む際の精神集中のためのメンタルトレーニングが、ますます「科学的」に行われるようになっている。選手に対して、脳が知覚できない無意識レベルの刺激(サブリミナル刺激)をトレーニングのメッセージとして与える「潜在知覚刺激法」(サブリミナル法)が開発され、「コードレスイヤホーンを通じて選手を催眠状態に誘導する」ことも可能になっている(中村敏雄『スポーツルールの社会学』朝日選書)。あらゆる潜在能力を発揮させるために、選手はいわば「マインドコントロール」下に置かれるのである。

 それはいわば、「精神のドーピング」である。まだこのような方法は広がってはいないが、それが一部で効果を発揮し始めれば、今日の徹底した勝利至上主義、記録至上主義、そしてなによりも商業主義のもとで、急速に広がらざるをえないであろう。すでにアメリカでは多くのスター選手が、科学的トレーニングからスポンサーとの交渉まで徹底してシステム化された、企業としてのスポーツクラブに所属している。勝たなければ、経営が成り立たないからである。

 今やオリンピックは、選手が「人間の可能性」に挑戦しているのではない。選手たちは、科学技術や薬物まで駆使して「人間の可能性への挑戦」という看板を維持し、興行成績を上げて利権を拡大しようとするスポーツマフィアたちの道具として、商品として一〇〇〇分の一秒台の「差」を競う戦いに「挑戦」させられているのである。

 運動から遠ざけられる民衆

 人体改造にかりたてるこのような勝利至上主義、記録至上主義は、スポーツ政策をゆがめる。小中学校時代からの徹底した差別選別による優秀な選手の育成に全力が注がれ、部活動の指導もそのような観点から行われることになって、より多くのこどもたちがスポーツを楽しみながら自分の可能性を伸ばしていくというスポーツ教育の本来の目的は、むしろないがしろにされていく。一般の授業と同様に、スポーツでも「落ちこぼれ」が作られ、「運動嫌い」が作られていくのである。

 文部省の保健体育審議会はこの八月、「スポーツ振興基本計画」の最終答申を発表した。そこでは、オリンピックの国別メダル獲得率の目標を三・五%とし、そのためにジュニア期からの一貫指導体制の整備、ナショナルトレーニングセンターの設置、指導者の養成を強力に進めることを打ち出している。「国策」としてのオリンピックのために、スポーツにおける幼少期からの差別・選別はますます強化されようとしている。

 そしてスター選手たちのスポーツショーをテレビで見物するだけの「観客」となる多くの労働者は、実際にスポーツ活動に参加する権利をますます奪われている。『レジャー白書99』は、スポーツ活動に参加した人口も参加日数も支出された費用も、九〇年代初めを頂点に文字通り激減していることを詳しく紹介している。たとえば、ソフトボール、ゲートボール、ジョギング、テニス、スキー、スケート、ゴルフ(練習場)などのスポーツ活動に参加した人口は、いずれも九五年を一〇〇とすると、九八年にはすべて六〇~七〇%に文字通り激減している。野球では、ゲームに参加した総実数が二千二百四十万人だった九一年のピークから、九八年の千六百十万人へ、六百三十万人も減少した。

 不況のなかで生活の余裕がますますなくなり、サービス残業を強制されてスポーツを楽しむ時間を奪われているだけではない。自治体の予算が切り下げられて公共スポーツ施設の使用料が値上げされ、リストラで職員や指導員が減らされ、採算の合わない施設は閉鎖されたり、民営化されてサービスが切り下げられている。オリンピックでのメダル獲得が至上目的化され、そのために多額の税金が注ぎ込まれる一方で、民衆一人一人が自らスポーツを楽しむ権利が侵害されているのである。

 これはオリンピックではないが、財政破綻寸前の状態で二〇〇二年ワールドカップ横浜会場建設に巨費を投じた神奈川県では、そのあおりで一般の公共スポーツ施設の使用料が大幅に値上げされた。これもまた、国家主義的スポーツイベントが、民衆が実際にスポーツに参加して楽しむ権利を抑圧することのあらわれである。

 五輪は金権ゼネコン政治の代表

 国家主義をあおりたて、民衆のスポーツの権利を侵害するオリンピックは、税金を食い物にするゼネコン政治そのものでもある。長野冬季五輪では、競技施設・運営施設、関連道路や長野新幹線、付随する高速道路の建設費用などに、まさに兆単位の税金が注ぎ込まれた。招致当時JOC(日本オリンピック委員会)会長だったコクド社長堤義明は、八七年に成立したリゾート法を背景に、オリンピックと自らが率いるホテル・リゾート開発をリンクさせ、国立公園内まで乱開発の手を広げた。そして自分のホテルの前まで五輪道路を引き、西武系のリゾートを五輪道路や新幹線でつなぐというように、まさにやりたいほうだいをやってきた。

 ゼネコンや関連企業は大もうけし、それと癒着した政治家もおこぼれにあずかるからこそ、どこでも招致合戦が加熱し、IOC委員の買収に巨額のカネが注ぎ込まれてきたのである。長野県選出の衆議院議員北沢清功(社民党)は、「招致活動費のうち四億円が小沢一郎グループに渡った」と語っていた。

 二〇〇八年五輪大阪招致が進められている。これも長野五輪と全く同様である。「史上初の海上オリンピック」とは、主な競技場と選手村をゴミ処分場として埋め立てられているふたつの人工島に作り、市の中心部と結ぶというもので、一キロ掘るのに四百億円という地下鉄用の海底トンネルだけで数千億円かかるとされている。わずか二週間のオリンピックが終わってしまえば、あとは赤字を生み出し続けるだけである。大阪市も大阪府も財政破綻寸前になっていることは周知の事実である。社会保障・生活関連予算の切り捨てやリストラに全力を上げる一方で、ゼネコン政治の国家主義イベントには兆単位の税金を注ぎ込もうとしている。もし不幸にして五輪招致が成功すれば、長野五輪と同様にすべてのつけが住民に回ってくる。七六年モントリオール五輪の出費は予定の三倍を超え、開催から二十年の九六年になってもケベック州は四億二千八百万カナダドルの借金を抱え、払いおわるまであと十年かかるといわれていた。オリンピックフィーバーに沸いた長野でも、全く同様の深刻な事態が始まっている。

 改革はもはや不可能である

 これが現代オリンピックなのである。その改革はもはや不可能である。「商業主義」を規制してしまえば、IOCの利権がなくなってしまうだけでなく、あまりにも巨大化したオリンピックというスポーツイベントを組織し運営することも不可能になる。プロ化を規制すれば、一流選手のほとんどが出場不能になるだろう。「国家間競争」を象徴する「国旗」と「国歌」による表彰式を廃止することには、オリンピックを「国威発揚」の機会にしようとするほとんどすべての政府が反対するだろう。

 さらに、「商業主義」を厳しく規制したうえで、施設の建設に関して厳格な環境アセスメントを義務づけ、さらに詳細な財政支出計画の公開を義務づけ、赤字が予想される場合にはその返済方法まで含めて広く住民自身による審議を行うことを義務づけるなどの措置をとるとすれば、もはや立候補する都市はなくなるだろう。

 すなわち、オリンピックという腐敗したスポーツイベントを改革することはもはや不可能なのである。金権主義と国家主義、そしてそこから導きだされる勝利至上主義は、肥大化し放題に肥大化した「オリンピック」にかかわるあらゆる組織と運営の在り方そのものになってしまっているからである。スポーツを真に民衆自身のものにするためには、オリンピックは廃止するしかない。金権主義や国家主義を排し、スポーツマフィアたちの支配を排した国際的スポーツ交流は、全く別の形で作られる必要がある。それを考え、提案し、組織することが、心あるスポーツ実践者たちに求められている。  

(高島義一)

「かけはし」00年9月25日、10月2日号より

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