読書案内『反東京オリンピック宣言』

小笠原博毅・山本敦久編:航思社刊 2200円+税

もう一度読み返そう

もう一度読
み返したい
 この間、福島原発災害とコロナ・パンデミックを経験する中で、あらためて2016年8月に刊行された『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編:航思社刊)を再読した。実は、五年まえに刊行されたこの本についての紹介を、私は2016年の「反天皇制運動Alert」に書き、その縮小版を本紙の2017年12月18日号にも掲載していたのだが、そのことをすっかり忘れていた。
 しかし今、2021年のコロナ禍中のオリ・パラも終わりを迎えようとしている時、それにどう立ち向かおうとしてきたかを整理し、反対運動を「一過性」のものに終わらせないためにも、この本をもう一度取り上げるべきだと考えた。
 いずれにせよ 東京五輪本番の中で、多くの反五輪アクションが繰り広げられている今、1964年東京五輪と戦後史の問題をふまえて、この本をもう一度取り上げようとしなかったのは私にとっての反省点である。

総合的な五輪
批判の切り口
 あらためて『反東京オリンピック宣言』の内容を紹介しよう。同書は、鵜飼哲の巻頭言「イメージとフレーム―五輪ファシズムを迎え撃つために」に続いて全体で4部構成になっている。第Ⅰ部は「科学者/科学論」で池内了「私のオリンピック反対論―スポーツはもはやオリンピックを必要としない」、塚原東吾「災害資本主義の只中での忘却への圧力」(非常事態政治と平常性バイアス)――(ところでこの内容になぜ「科学者/科学論」という副題がついているのか謎である)。第Ⅱ部は「レガシー」と題して、阿部潔「先取りされた未来への憂鬱――東京二〇二〇年オリンピックとレガシープラン」、石川義正「『リップサービス』としてのナショナリズム」。
 第Ⅲ部は「運動の継承」をテーマに、酒井雅史「メガ・イヴェントはメディアの祝福を受けながら空転する」、浜口剛「貧富の戦争が始まる――オリンピックとジェントリフィケーションをめぐって」、小川てつオ「オリンピックと生活の闘い」、ジュールズ・ボイコフ「反オリンピック」(鈴木尚文訳)、鈴木尚文「祝賀資本主義に対抗する市民の力」、フィル・コーエン「ありがとう、でももう結構-オリンピック協約の贈与と負債」」(小美濃彰、友常勉 編訳)、友常勉「トラックの裏側――オリンピックの生政治とレガシー・ビジネス、そして効果研究」。
 第Ⅳ部は「アスリート」を題材に、小泉義之「競技場に闘技が入場するとき」、山本敦久「アスリートたちの反オリンピック」、テリエ・ハーコンセン「なぜ僕がいまだにオリンピックを憎んでいるのか」。そして最後が小笠原博毅の「反東京オリンピック宣言――あとがきにかえて」という構成だ。
 本書の意図は、「よりましなオリンピック」あるいは「オルタナティブ・対案」を提示するものではない。「あまりにも同調的な言説が溢れている中で、誰も何も言わないのは、戦争が終わってから『本当はあの戦争には反対だった』というような、後だしジャンケンのインフレを招くだけではないのか。そうではなくちゃんと反対している人間がいるということを、それもまたちゃんと言葉で表現したい、そのように考えこの企画を立てた」と小笠原博毅は本書のしめくくり「反東京オリンピック宣言――あとがきにかえて」の中で書いている。
 あらためてこの「宣言」の編者・寄稿者に感謝したい。

多面的視角
と鋭い分析
 本書に登場するボイコフの論文はきわめて冴えたものである。
 「国際オリンピック委員会(IOC)は多国籍企業ともグローバル機関ともつかない存在になっていて、国家機関、国際機関、各スポーツ連盟、スポンサー企業の結合した巨大な構造のど真ん中に腰を据える。……IOCはどこの国に行っても課税を免除されている。にもかかわらずIOCは、二〇〇八年夏季北京大会で三億八三〇〇万ドルの利益を得た。しかもこれは二四億ドルの総収入の大部分を、オリンピック・ムーブメントを構成する他の事業に回した後に残った分にすぎない。それでいて、独立機関による財務監査を課されることはない。金庫に流れ込む歳入の多くが最終的にどこに消えたのかは謎のままで、IOCの執行役員の報酬額は公表されることがない」。
 しかし私は2019年にボイコフ本人が来日し、反五輪のシンポジウムでメインの講演者として熱弁をふるったとき、実は彼の論文が『反東京オリンピック宣言』に訳載されていたことなどすっかり忘れていた。したがって、私が書き「かけはし」に掲載した同シンポの記事にはボイコフの発言は紹介しながらも、この『反東京オリンピック宣言』に訳載された彼の論文のことは触れていない。なんともお粗末だった。
 先述した小笠原博毅(神戸大教授)の一文に対しては、「コロナ危機下の五輪強行」という現実ともあいまって政府とマス・メディアの大宣伝にもかかわらず、底流では一定の変化が表れているのは確かだろう、という思いを強める。
 日本共産党が、この間「コロナ危機下の東京五輪反対」の立場で、「東京五輪中止」キャンペーンを繰り広げているのも、これまでとの違いを示すものであることは確かだ。しかしそれは、「国家の論理」「愛国主義」に貫かれた「メダル争奪戦」としてのオリンピック批判そのものとはほど遠いのである。

天皇・皇室の
果たした役割
 1年間延期になった「2020東京五輪」に反対する運動は、今後の私たちの闘いにとって重要な教訓を提示しうるものとなりうるし、そのためにも私たちはその成果も限界も共に討論し、引き継いでいく活動を呼びかけていきたいと思う。
 「国体(国民体育大会)」については、開催都道府県の仲間たちによって、主に「天皇出席の大会批判」などの切り口から、天皇賛美と開発行政の問題点を結び付ける活動なども小規模ではあれ取り組まれてきた。
 戦後憲法における国民統合の「象徴」としての天皇の役割と、「国民体育大会」を使った都道府県への「天皇巡幸」は不可分のものであり、さらに1964年の東京五輪では、開会式・閉会式にとどまらず、さまざまな競技のハイライトにおいて実に数多く、天皇・皇后、皇太子明仁・美智子夫妻をはじめとする皇族が出席し、「総ぐるみ」の態勢で、東京五輪各競技の「盛り上げ」に総力を挙げたのである。それは戦後憲法の下での「象徴天皇制」の完成形態を国際的に明示したと言いうるイベントであり、「戦後巡幸」を引き継ぐ意識的行動だった。
 しかし、「2020(2021)東京五輪」は「ナルヒト新天皇制」を国際的に印象付けるイベントとしては、ほとんどそうした機能を持ち得なかったというのが実際のところだったのではないだろうか。このあたりの問題は、さらに検討していく必要がある。
 ここに紹介した『反東京オリンピック宣言』でも「オリンピックと天皇制」について、独自に取り上げた論稿はないこととも重ね合わせて、今後の論議が必要だと思われる。つまり「2020(21)東京五輪」において「徳仁天皇制」はどこに存在していたのか、どういう役割を果したのか、というテーマについてである。ともに活動してきたみなさんの意見をお伺いしたい。
(2021年8月8日 東京五輪閉会式の日に 国富建治)

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