読書案内 『山谷 ヤマの男』(10月11日発行)
多田裕美子著/筑摩書房 1900円+税
女性の目線で写す 山谷労働者の素顔
目つきの鋭い男が、レンズを睨みつけている。顔に差す朝の光が、彫りの深さを際立たせている。写真家・多田裕美子さんが、山谷に暮らす男たちを撮った写真集。印刷はすべてモノクロで、読む者の想像力をかきたてている。
「山谷」と書いて「ヤマ」と読ませる。ヤマという呼称には、独特の郷愁がある。出稼ぎ労働者が出身地の風景と重ね合わせたかも知れぬ。ヤマは彼らにとって、かけがえのない第2の故郷でもあろう。
多田さんは1999年からの2年間で合計120人の男たちを撮影した。その中から数人のポートレートと、山谷周辺の風景を選んだ。日雇い労働者がこの街で暮らした時間を記録。海千山千の強者に向き合い、自身が成長していくなかでの葛藤や失敗談が、本書の読みどころである。
「山谷」という街とは
「山谷」とは、東西に走る都内明治通りを挟んで、北は荒川区南千住、南は台東区日本堤、清川の周辺一帯を指す。中央を吉野通りが南北に貫き、その中心に泪橋がある。
かつて石神井用水が音無川(王子川)として、北区王子から田端~西日暮里~日暮里~東日暮里を流れ、三ノ輪橋付近で分かれた。支流のうち南東方向の流れは、「思川」(おもいがわ)として泪橋をくぐり、山谷堀から隅田川(大川)へと合流した。
「泪橋」の名を世に広めたのが漫画「あしたのジョー」である。橋の下に造られた「丹下拳闘クラブ」の小屋は、現在の交差点西南のセブンイレブンの位置に当たる。丹下段平の名セリフ「泪橋を逆に渡る」とは、「人生の敗者」が「勝者」へと上り詰めるための、激励の言葉である。
数年前。私は地域の仲間と久しぶりに「夏祭り」に出かけた。2人で酒を飲んでいるうちに逸れてしまい、1人で帰宅した。若い頃は、なぜか山谷に着くまでに何度も道に迷った。数年後に地図を開いて納得した。明治通りと日光街道が交差する大関横丁から、言問通りが隅田川に着く西詰交差点まで、道路が扇状に形成されている。この独特の地形ゆえに、まっすぐ歩いているつもりでも方向感覚を見失ってしまうのである。
激突の80年代
1980年代初頭の山谷は荒れに荒れていた。道路を制圧する労働者たちのデモ行進は、機動隊と激しくぶつかり合った。映画『山谷(ヤマ) やられたらやり返せ』製作中に監督の佐藤満夫さんが刺殺され、後を引き継いだ山岡強一さんも映画の完成後に射殺された。
国家権力と労働者の流血の激突。都会の片隅の「暴動」を写真に収めたいと考えるカメラマンは、当時も多かったに違いない。興味本位や功名心から格好の報道ネタとして参じる者もいれば、労働者の側に立ち、足繁く通い詰めるジャーナリストもいただろう。高度成長を過ぎバブルの崩壊を経て、その時々の社会の底辺を象徴する。そんな被写体としての魅力が、この街にはあった。
著者が他の野心家と違ったのは、両親が泪橋で食堂を経営していたことに由来する。居酒屋も兼ねる「丸善食堂」は、1日の仕事を終えた労働者でごった返していた。20歳代の彼女は「山谷」というものを、コの字のカウンターのある「店の中だけの世界」と捉えていた。客にレンズを向けるとコップを投げつけられ、父親に厳しく叱られた。それでも撮影した写真を大きく伸ばして渡すと、予想外に喜び、大切にしてくれる客もいて、写真家としての彼女の背中を押すことになった。
信頼関係と承認と
やがて彼女は親に内緒で玉姫公園に機材を持ち込み、「屋根のない写真館」を開設する。人物写真を撮るには、まず被写体との信頼関係と承認が必要になる。この当然の条件を、「撮りたい」という熱意で獲得していく。口論の末に逞しいボディガードができ、現場に通い続けることで労働者の協力も得て、撮影は軌道に乗る。山谷の人々に過去を聞くことはタブー。彼女が聞き出した物語は興味深いエピソードであふれている。
「山谷で出会う男たちは、末っ子の確率が高かった」とも書く。「何故か七人兄弟の末っ子が多かった」。「貧乏でも大事にされ甘やかされた子供時代があったのだろう。でも家に残ることは許されず、早くから集団就職や出稼ぎで東京に出てきた。山谷の男たちが人懐っこいのは、甘えん坊の末っ子が多いことが原因かもしれない」(P76)。私もなるほどと思う。
温かいまなざしで語る
多田さんは今、「泪橋ホール」という食堂兼映画館を運営している。古き良き時代の映画を楽しみ、自慢のギョーザを格安で提供している。店の情報は「東京新聞」が継続的に取材、紙面に反映させている。山谷のために献身的に働く姿には、頭が下がる思いである。
評者・桐丘がこの歳になって、改めてこの街を眺める視点は、若い頃とは大きく異なっている。何年か先、自分もこの街で暮らすことになるかも知れないという、漠たる不安があるのだ。
山谷は今、「若くて勇ましかった『労働者の街』から、老いと病に苦しむ『福祉の街』に変わってしまった」(P203)。ヤマの存在は、決して他人事ではない。
2016年8月の初版発行。新刊ではないが、エッセイ風の文体で一気に読める。「男」たちの写真集ではあるが、たった1人だけ若い女性も文章で登場する。この街に根を張って、出会いと別れを繰り返してきた。
「山谷という街は、優しさと怒りが極端に強い街、自分と同じひとりがいる街、愚痴を言わず、過去を語らず、ひたすら酒を呑む男たち、滑稽なくらい最後まで、自分と生きた男たちがいた街」(P20)。一読をお勧めする。
(桐丘 進)
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