読書案内『「ヒロポン」と「特攻」 女学生が包んだ「覚醒剤入りチョコレート」』

相可文代 著/自主出版本(2021年9月第2版)
梅田和子さんの戦争体験からの考察

 「ヒロポン」の名が付けられた覚醒剤は、とりわけ戦後に広がり大きな社会問題となった。ここで紹介するパンフレットは、神風特攻隊の兵士たちに高揚感を持って自殺戦闘に参加させるために「ヒロポン」が配られたことを紹介している。アジア太平洋戦争末期の日本軍の「戦闘」とは何だったかを照らし出すパンフレットだ。(編集部)

軍に供給する「チョコ」

 読者の皆さんは「ヒロポン」という覚醒剤(正確には覚醒剤・塩酸メタンフェミンの商品名)をご存知だろうか。「団塊の世代」ど真ん中の私が大阪府下の小学校に入学した1955年のころ、「ヒロポンはやめましょう」というポスターが電柱に貼りめぐらされていたことを、かすかに覚えている。「ヒロポンて何?」と聞いた私に、「お前は知らなくてもいい」と母は答えただけだった。なにかしら「禁断」の存在であることを、子どもの私も気づかざるをえなかった。「ヒロポン」の名称の由縁は、「疲労感がポーンと消える」という宣伝文句に発していることはずいぶん後から聞いた。
 ここで紹介するパンフレットは、「ヒロポン」とアジア太平洋戦争末期の「特攻作戦」との関係を、「ヒロポン入りチョコレート」の製造に関わった女学校生・梅田和子さんの証言を通じて明らかにしたものだ。梅田さんは1930年の生まれで、現在90歳を超えている。父親は弁護士、母親はいわゆる「ハイカラ女性」でモンペをはくのも嫌がり、「国防婦人会」の活動にも積極的ではないというリベラルな環境で育った。 
 梅田さんが大阪の府立大手前高等女学校に進学したのは、戦争真っ盛りの1943年だった。その後、府立茨木高等女学校に転校したが、授業はほとんどなく軍に送る物資の包装などの労働にほとんどの時間が費やされた。そこで行われていたことが、軍に送る「チョコレート」の包装作業だったのだが、その「チョコレート」こそ覚醒剤ヒロポン入りのものだった。

「飛行士」に「効果」

 以下は、日本で最初に「覚醒剤入りチョコ」を開発した岩垂荘二(陸軍航空技術研究所研究員)の文章に拠っている。
 「(覚醒剤入りの)チョコレートは今でいうチョコバーのようなもので、『菊の御紋』があった。それをハトロン紙のような紙に包んで箱に詰めた。工場には兵士が数人おり、チョコレートを運んできて、箱詰めにされたチョコレートを運び出した。将校が工場を管理しており、朝の9時から午後3時までが勤労奉仕の時間だった」。
 「『覚醒剤入りチョコレート』が作られるようになったのは、1943年にドイツ空軍がヒロポン入りのチョコレートを航空勤務者用として製造して飛行士に食べさせ、効果が大いにあがっているという報告が飛び込んできたことによる。川島大佐(川島四郎陸軍主計大佐)は鬼の首でも取ったような顔をして私(岩垂荘二)のところへこの情報を持ってきて、『おい岩垂、直ぐに作って、航空糧食として補給したい』と命令していったのを覚えている」。 「『早速私は日本の製菓会社を調査したところ大日本製菓(株)……が製造できるのを見付け試験品ができたのでチョコレートの中にヒロポンを入れ、特別に棒状のヒロポン入りチョコレートを航空糧食として補給した。今考えると、とんでもない、おそろしい機能性食品である』」。
 ただし最初の試作品が「大日本製菓」で作られたとしても、量産に移るにはチョコレート原料のカカオを入手することも簡単ではなかったため、作ることが出来た工場はおのずから限定されている、と著者は述べる。
 「当時の大阪北部にあった大きな菓子工場といえば、森永製菓の塚口工場であった。『森永製菓社史』によれば、戦時中に森永は台湾でカカオを栽培し、インドネシアのスラバヤにはチョコレート工場もあった。また、『社史』には『航空糧食などの軍需品を陸軍に納入した』とか、『鶴見、塚口、福岡などの主力工場菓子製造ラインはほとんど軍需用生産に切り替えられ』と書かれているので、塚口工場ではチョコレート菓子も作り、陸軍に納入していた可能性があるが、『ヒロポン入りチョコレート』も作っていたかまでは分からない」。
 「ヒロポン入りチョコレート」の試作品をつくったのは「大日本製菓」だったが、本格的な大量生産は、どこで行われたのかは定かではないと著者は書いている。

「隠ぺい・沈黙」超えて

 「他方、『ヒロポン』の製造者は特定できる。当時は、『ヒロポン』の中毒性はほとんど認識されておらず、『大日本製薬』(注:現在は大日本住友製薬。本社は大阪市)が、メタンフェタミポン系の覚醒剤を『ヒロポン』という商品名で、1941年から市販していた。岩垂はその『ヒロポン』を、航空兵たちの大好きなチョコレートに入れたのである」。
 アジア・太平洋侵略戦争の末期、日本軍の戦闘は、およそ「作戦」とは言えない「特攻戦闘=自爆・自殺」に依拠したものになっていった。この自殺戦闘に兵士たちを動員するためにこそ、兵士たちから判断・批判能力を全面的に奪ってしまう「覚醒剤」に依拠する度合いがいっそう強まった。今や「作戦」の名に値しない特攻・自殺戦闘のみが「反撃」を仮装する手段となってしまったのである。ヒロポンはそうした絶望的状況の中で、兵士たちを「戦闘」に駆り立てるために使われた。
 そこでは「ヒロポン入りチョコレート」にはじまり、「ヒロポン入り『元気酒』」、「ヒロポン錠剤」、さまざまな形での「ヒロポン注射」などがあった。忘れてはならないことは、この「ヒロポン」は特攻戦闘だけではなく、厳しい重労働を強制するための手段としても使用されたことである。
 それだけではない。冒頭でも触れたようにヒロポンの被害は、むしろ戦後においても多くの人びとの心身をむしばみ、労働者、庶民の生活をズタズタに引き裂いていく結果をもたらしたのだ。
 著者の相可さんは、「ヒロポン」使用証言があまりにも少ないことに疑問を呈している。
 「それにしても、多くの特攻兵が何らかの形で『ヒロポン』を摂取して(摂取させられて)、出撃したのではないかと思われるが、そのことを語っている人物が実に少ないことに驚く。高木俊朗は『特攻基地 知覧』で、特攻兵の行動・心情をリアルに伝えているが、ここには『ヒロポン』の話はない。高木は記者であり、当事者ではなかったから知らなかったのだろうか」と。多くの場合、特攻隊で生き残った兵士たちが「ヒロポン」の話を持ち出そうとはしなかったのは、死者への「負い目」があったことは理解しうるにしても、やはりそれが誤った歴史認識に道を開いてしまうことについて、ハッキリ指摘することが必要だろう。
 アジア太平洋戦争の実相に切り込むためにも読んでおいて損はない力作である。        (純)

The KAKEHASHI

購読料
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009  新時代社