読書案内 『増補改訂版 県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む~沖縄出身兵170人の証言~』(下)
沖本裕司 編著/2000円
「中国での戦争体験記を読む」の後半は、県内21にのぼる各市町村史に掲載された戦争にかかわる住民たち「170人」の文章から転載した「資料編」である。ここに収録された文章も住民たちそれぞれに降りかかった悲しみ、苦しみ、驚き、そしてささやかな「喜び」もが率直に語られている。
大日本帝国の真実語る犯罪行為
しかし何よりも深刻なのは、そこに書かれた日本軍兵士たちの犯罪行為だ。
「日本兵は何か欲しい物がある場合には、民家でそれを徴発していた……ある日(月の晩)、八人の青年を引っ張り出して来て田んぼに並べ、日本刀(自分の家から持って来た私物品)の試し切りと言って、その青年たちの首を刎ねていた。その青年たちは、兵隊なのか、一般住民なのかわからないけれども、ただ若いというだけで兵隊の疑いと日本兵殺害の疑いをかけられ、首を刎ねられた」。
「また青年たちの手足を縛り上げて転がし、藁を少々かぶせて火をつけ、死ぬまで焼いたりもした。さらに、竹の先を火に焙り、そこに油を塗った竹槍で、裸にした現地の青年を何分で殺せるかを試したりもした。また、薄手のシャツ一枚を着せて何分で殺せるかとか、綿花の入った服一枚を着せて何分で殺せるかとか、いろいろな殺し方で中国の青年たちを殺した。時間は、前方で椅子に座った部隊長が計っていた」。(小波津正雄「極悪非道の日本軍」)。
このような残虐で非道な行為は、中国への侵略戦争における「帝国陸軍」の体質にかかわるものだった。それこそ「アジアの盟主」を自負した大日本帝国の真のあり方を示すものだった。
「日本軍は、しまいには毒ガスをまいた。それは窒息死させるガスだった。サイレンが鳴ったら毒ガスをまいたという合図だった。我われは防毒マスクを被った。ところが風は、日本軍の方に向かって吹いていたので防毒マスクの手入れが悪かったものは、ガスを吸い込み死ぬものもいた。私が見ただけでも、七、八人いた。結局自分で自分の首をしめる結果になった」(呉屋幸夫「中支での戦闘」)。
なお、この呉屋氏に続く泉川寛弘氏の文章(「中国戦線と戦友」)では、タイで行方不明となった同年兵の備瀬知三郎さん(沖縄出身)が、実に1975年になってベトナムで発見され日本に戻ってきたことも紹介されている。私は、このエピソードについては以前に一度、本紙でふれた。
記述は「軍隊慰安婦」についても
「軍隊慰安婦」についても記述がある。1941年の夏、中国の海南島へ日本の軍事施設を建設するために沖縄から出稼ぎに行った人の話を聞いてみよう。
「基地内には女の人は一人もいなくて、事務員も炊事係も全部男がやっていましたが、慰安婦は全部で十四、五名いて、その中には朝鮮人や沖縄出身の人も何名か交っていました。そこには毎日人がいっぱいで、列を作って並んでおり、慰安婦は多い時は一名で一日に四十名ぐらい相手にしていたそうです」。「慰安所に行く時は、その前に軍の医務室に行って『上陸します』と言って札をもらい、その札を持って行き、慰安婦に渡さなければなりませんでした。慰安婦の宿舎は別の場所にあり、慰安婦たちは週に一回、近くの海軍病院で検査を受けていました。(嘉手納良清「海南島出稼ぎと中国大陸での戦争体験」)
沖縄出身者のシベリア抑留
ただし、事の性格上「慰安婦を買った」との話を自ら明らかにしている例は、きわめて少ない。それに比して多く語られているのは、やはりシベリア抑留の苦難の体験である。
「私は昭和十七年(1942)二月十日に、満州国にあった南満州鉄道株式会社『満鉄』に入社しました。県立農林学校時代に募集があり入社試験を受け合格したのです。……五名採用されて三名が大連勤務でした。この会社には戦前の中等学校卒業生で沖縄からは私たちが初めてでした。満州に行くようになった動機は、戦前の封建的な家族制度の下で四男の立場から針路を大陸の満州に求め満鉄に志願したのです。向こうで骨を埋める立場で行きました」。
「戦前の中等学校卒は幹部候補生に受験する資格があったので受験し、甲種幹部候補生に合格しましたので、途中に、幹部候補生として吉林で教育を受けることになりました」「この教育隊の訓練中に第一線に動員され、牡丹江の近くで、敵のソ連兵と300mの近くまで接近し、まる三日間猛烈な戦闘にも参加しました。それは、私たちが訓練中にソ連兵が侵入してきたため防戦したわけです。ソ連の大型戦車を封ずるために、一度だけですが、肉薄攻撃といって20キロ火薬を抱きかかえ、兵隊もろとも戦車に突入して自爆する場面を目撃したことがありました」。
1945年8月、彼はソ連軍に降伏し、シベリアの収容所に送られることになった。彼が「日本」に返されたのは1947年11月9日。日本の敗戦から2年3か月が経っていた。「兵隊いじめ」をしていた日本軍下士官は、旧日本軍部下の怒りのため、ついに返されなかったという。(仲間清「満鉄入社とシベリアでの抑留生活」)
「満蒙開拓青少年義勇軍」
沖縄出身で「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加した少年の話も登場する。
「私の父、仲吉亀七はフィリピンのミンダナオ島に昭和十二年に移民しており、お盆や正月の時には、100円の仕送りがありました。しかし、当時はどこもそうですが、家族が多く、農業だけでの生活は大変でした」「昭和十八年三月、当時、金武青年学校校長の宜野座清秀先生から、私に満蒙開拓青少年義勇軍へ入隊を勧める話がありました。茨城県の内原にその訓練所があって、そこへ行くよう勧められました。その頃、私は一度は外地に出たいと夢を抱いていたので、行くことにしました。宜野座先生の話では、そこで訓練を受けて満州へ行けば、十町歩(約三万坪)の耕地が移住者に割り当てされるとの事でした」(仲吉幸雄「青年学校から満蒙開拓青少年義勇軍へ」)。
こうして沖縄を含めて全国から十代半ばの若者たちが、茨城県の内原訓練所に集められ、「満州」に送り込まれることになった。因みに茨城県水戸市には「水戸市内原郷土史義勇軍資料館」、「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所碑」が現在も「観光施設」として存在している。とりわけ首都圏で関心のある人は「沖縄と『満州』・アジア侵略」という歴史的連関に批判的意識を広げていくために一度「訪問」してみることも良いのではないか。
事実の重なりは現代に連なる
この「増補改定版」パンフレットは、まさに沖縄戦の一つひとつの現実が、近代以後の日本と東アジアの歴史の積み重ねの結果としてもたらされたものであること、そして悲惨な沖縄戦に導いた歴史的要因が、決して克服されてはいないことを、あらためて私たちに突き付ける多くの材料を提供している。ここから学べる教訓を、今こそ現実の運動の中で一つ一つ積み上げていく息の長い作業を東アジアの民衆とともに続けるとともに、運動にとっての未来への決定的な転換点を発見していく努力に全力を注ごう。 (平井純一)
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