映画紹介『戦争と女の顔』(ロシア/2019年/137分)『チェルノブイリ1986』(ロシア/2019年/136分)

2つの作品の共通点

 舞台を1945年秋から翌年初頭のレニングラードを舞台とした劇映画『戦争と女の顔』が封切られた。監督・脚本は、1991年ロシア生まれのカンテミール・バラーゴフ。本作は長編2作目だという。製作のアレクサンドル・ロドニャンスキーは1961年ウクライナ生まれで、ロスアンゼルスを拠点に活動している。最新作に今年5月に日本公開された劇映画『チェルノブイリ1986』(ロシア/2019年/136分)がある。
 『戦争と女の顔』と『チェルノブイリ…』には、製作者以外にいくつかの共通点がある。『チェルノブイリ…』の監督で主演も兼ねるダニーラ・コズロフスキーは1985年モスクワ生まれ。監督はともに若手だ。製作年と作品のボリュームも近い。現在、両作品とも日本公開の公式ホームページに反戦メッセージを掲載している。『チェルノブイリ…』の日本公開の公式発表は、ロシアのウクライナ侵攻前の1月中旬だったので、後から日本の配給元が両人がSNSで発表したメッセージを転載している。
 興味深いのは、ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの主作品と同じテーマであることだ。『戦争は女の顔をしていない』はアレクシエーヴィチはじめての単行本であり、脚本も兼ねるバラーゴフは「この映画を作る上で大きなインスピレーションとなり、まったく新しい世界を切り開いてくれました」とインタビューで語っている。映画にも原案として紹介されている。
 アレクシエーヴィチの名を国際的(日本にとも言い替えられるだろう)に広めた代表作『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(岩波現代文庫)も、多数の当事者の聞き書きをもとに構成された作品だ。この本は今年、増補された『完全版…』が単行本として出版さた。この本の冒頭に「孤独な人間の声」と題した消防士の妻の証言の一節がある。講談師・神田香織さんの演目は、この一節を語っている。

『チェルノブイリ1986』

 『チェルノブイリ…』では、作品中のエンドロールにも公式ページにもアレクシエーヴィチの名も著書名もない。ベラルーシに拠点を置いてきたアレクシエーヴィチは、ウラジーミル・プーチンの盟友アレクサンドル・ルカシェンコの政敵のひとりだ。一方、原発事故の緊急対応をし、なかでも落命した消防士らは英雄視されている。プーチンも大祖国戦争で落命した兵士らと同様に消防士を利用する。こうした背景から、両独裁者に忖度したと考えるほかはない。
 公式ページの紹介文の1つめの見出しに「事故の当事者だったロシアの映画界が、実話に基づいて映像化した知られざる真実」とある。2つめの見出しには「人生が激変した、消防士の壮絶な運命を描くヒューマンスペクタクル大作」とある。
 撮影は、ロシアで現役で運転しているチェルノブイリ原発と同型のクルクス原発でロケをし、スペクタクル感を醸しだし、最新のコンピューターグラフィックスの技術が真実感を補っている。製作のロドニャンスキーは、チェルノブイリ事故当時はドキュメンタリーが専門で、5日後から緊急対応を撮影した経験をもち、永らく劇映画化を構想していたという。それがCG技術の発展でかなったわけだ。「無数の目撃証言、記事、書籍、アーカイブ映像」などの綿密なリサーチをしたという。この無数の中に紛れ込ませたのかは、知る由もない。
 映画の主人公はダブルキャストで、消防士と離婚した妻だ。ふたりの間には男児がいる。消防士を演じたのがコズロフスキーだ。鑑賞前の下調べで、コズロフスキーは香水などのグローバル企業・シャネルのコマーシャルに採用されていたことを知った。映画では、シャネルのロゴマークが写る脈絡もない場面があった。
 似た邦画があった。2020年3月公開の『Fukushima 50』。地名と数字を組み合わせたタイトルの共通性も気になる。この作品に対しては、本誌2652号で「『フクシマ50』―驚くべき宣伝映画」というタイトルをつけて批判してる。投稿したSさんは、「東電の事故処理からの撤退に抗して取り組んだ当時の官邸の行動を歪曲しておとしめ、東電の所員を美化することにより東電の加害責任を回避させている。まさに、原発再稼働を進める安倍政権の意図通りの映画である」と断罪した。
 公式ページによれば今後、山形、福島、埼玉、兵庫、広島などでの上映が予定されている。

邦題『戦争と女の顔』

 映画の原題はロシア語で『дылда [dylda] 』、英題は『Beanpole』、これを直訳風の邦題にすれば「のっぽ」「のっぽさん」だ。この作品は主人公にふたりを配置、ひとりが他方に対して使う「あだ名」だ。では、なぜタイトルは『戦争と女の顔』になったのか。
 アレクシエーヴィチの第一作ともいえる『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)は、3年前から小梅けいと(作画)と速水螺旋人(監修)によってコミック化されウェブで連載中、今年の3月26日に単行本の第3巻が販売され、版元のKADOKAWAは朝日新聞に全面広告を出稿した。第1巻は発売後1カ月で10万部を突破したという。タイトルを近づけないと、コラボした宣伝ができないからかもしれない。
 こうの史代の漫画『この世界の片隅に』(2007年~09年に連載)が16年に劇場アニメーション化され、このジャンルとしては異例のロングランとなった。18年には民放で連続ドラマ化、翌年にNHKは主人公の名を冠した「#あちこちのすずさん」という教育キャンペーンを行った。この流れに乗ったという説明だ。昨年11月発売の逢坂冬馬の『同志少女よ敵を撃て』(早川書房)も異例のロングセラーとなった。同書は、アレクシエーヴィチの作品や岩波新書の『独ソ戦』(大木毅/著)などを参考文献にあげている。コミックやアニメといった日本が得意な文化である一方、世界の各地域で多様な姿で取り組まれている社会的な動向の日本的な発現であることにちがいない。
 原作は、1978年からはじめた聞き取りが元になる。語られる内容は戦闘場面もあるが、活字から非体験者が想像、理解するには記録映画などの視聴経験が大きな要素となるだろう。コミックは、この証言を題材とした戦場の場面が大半となる。この映画には冒頭の背景のように、独ソ戦が終わり、ポツダム宣言調印から間もないレニングラードが舞台だ。戦場や戦闘の場面は一切ないが、民衆の飢餓は終わってはいない。スターリンやレーニンといった人物名や地名もでてこない、架空の物語にしている。
 看護師のイーヤは、戦場でPTSDを発症し除隊する。除隊するイーヤに、マーシャが自分が生んだ男児パーシェカをイーヤに託して育ててもらう。映画は、このおよそ3年後から回りはじめる。除隊したイーヤは傷病兵が多く入院する病院に勤務するが、時と場所をえらばずに心神喪失する。PTSDの発作だ。寝ころびながらじゃれ合っている最中に発作を起こし、パーシェカを圧死させてしまう。これがあらたなトラウマとなる。戦場で生殖機能をなくしたマーシャは復員し、パーシェカの死を知る。やがてマーシャは、自分の子としてイーヤに子どもを産ませようとする。
 アレクシエーヴィチの本にはこのような証言はない。著者とも親交のある沼野恭子東京外大教授は、映画のパンフレットに「映画のもとになっていると思われる証言をしたのは、ワレンチーナ・チュダーエワという実在の女性」と寄稿している(岩波現代文庫では168頁から)。マーシャには何かのショックで鼻血を出す戦傷の後遺症があり、ときには卒倒する。ワレンチーナは志願した高射砲指揮官になり、砲撃の衝撃で耳や鼻から血を流したと証言する。映画終盤で「私はおおぜいの男の現地妻だった」とマーシャが語ったエピソードは、ワレンチーナとは別の証言者のものだ。

映画と性的描写をめぐって

 国によっては年齢制限のある性的描写が複数ある。鑑賞前に、次の文章を読めたことが大きな助けになった。
 日本映画史を専門とする木下千花京大教授は、雑誌「ユリイカ7月号ー特集:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ」(青土社)に「肉の空洞―フェミニスト映画批評の性器的展開のために」と題した論評を寄稿している。木下は、2019年にニューヨーク映画祭にバラーゴフの発言、たとえば「登場人物の力を借りて私の女性的な(feminine)な側面を発見することです」を紹介する。木下はこの発言を「男性として異性に魅せられるとか同情するとか恐れるとか、他者として発見するとかいったこととはまったく別ごとであり、本質的な両性性の認識を示している」と評価している。また、第一作の『Closeness』やアレクシェーヴィチの本を参照し、「問題は同書が痛切に語るように、戦後、従軍した女性たちの多くが個別の経験の如何を問わず、家父長的な規範を逸脱した存在として差別されたことである」と告発する。
 木下は3月24日、映画や映像メディアの研究者と批評家3人とともに共同声明「映画監督・俳優の性加害についての報道をうけて」を発表し、多数の賛同を集めている。
 『この世界の片隅に』を読んだり観たり、『同志少女よ敵を撃て』やコミック版『戦争は女の顔をしていない』を読んだ人は100万人を超えるだろう。この内の大多数は、1986年のチェルノブイリ原発事故後の脱原発運動の盛り上がり、2011年の東京電力福島原発事故後の盛り上がりに加わったひとびととは薄い重なりだろう。つまり、未来を担う層だ。  (7月17日 KJ)

映画監督・俳優の性加害についての報道をうけて共同声明文(抜粋)


―冒頭から約660字を省略―
 研究者・批評家である私たちが本件にとりわけ関心を寄せ、強い憂慮の念を抱いているのは、このような性暴力が監督と女優という映画・メディア産業におけるジェンダー化された権力関係に立脚して行使され、容認され、あるいは見過ごされてきたと考えるからです。
 監督と俳優の間の関係は、教員と学生/生徒、雇用者と被雇用者、上司と部下など、他の領域において見られる権力関係と多くの点において共通しています。しかし、映画・メディア産業に固有の幾つかの要素がからみあい、男性監督と女性俳優の間の権力関係をより強固に、あるいは複雑にし、場合によっては加害者と被害者の両者にとって性的行為の暴力性を隠蔽してきたのではないでしょうか。なお、本共同声明文では、榊氏の事件の性質と社会、とりわけ映画・メディア産業における現状に鑑み、加害者を男性、被害者を女性として論を進め、下記のような歴史的経緯を可視化して議論の俎上に載せるために、女性俳優に対してあえて「女優」という呼称を使っています。しかし、このことは男性が被害者になってこなかったことを意味しません。私たちは、現在の日本における男女の非対称な権力関係を見据えつつ、性暴力をめぐる議論を、男女を逆転させ、あるいは同性間で、もしくは多様な性的アイデンティティを包む文脈へと広げてゆくべきだと考えています。
 女優という職業においては、高度の才能、訓練、専門性が要求される演技という技能を核としつつも、身体的な特徴や「魅力」のような、多くの職業ではあくまで私的領域に属するものとして公的業務においては括弧にくくりうる要素が、往々にしてこの中心的技能と不可分に結びつけられてきました。そして、女優という職業は、しばしば本来の労働契約を逸脱した性的サービスの不当な要求というリスクを伴ってきました。演技が親密な身体的行為もしくはそのシミュレーションを含む場合には、そうした要求がエスカレートし、女優の人間としての尊厳が軽視される危険性が増すことは想像に難くありません。
 映画をはじめとした映像は、観客/視聴者の最も親密な感情や欲望に訴え、妄想や幻想を刺激し、明らかにし、創造する媒体です。そうであればこそ、なおさら、その製作プロセスには、権力関係に対する自覚が求められます。フリーランス・個人事業主が多数を占める今日の日本映画の製作現場では、とりわけ、脆弱な立場に置かれる俳優やスタッフの人間としての尊厳が守られる労働環境と、高度なガバナンスの意識が必要とされます。
 本共同声明文は、映像メディア業界に対し、製作現場における人権侵害を抑止し、被害が生じてしまった場合は解決と救済を行うための実効性のある仕組みを確立するよう提言するものです。私たちは、研究者・批評家として、勇気ある告発を行った被害者の方々に対するサポートと連帯の意思を重ねて表明するとともに、今後の経緯を注視し、映像メディア産業における性暴力抑止と人権尊重の取組に協力してゆく所存です。

呼びかけ人:相川千尋(翻訳者・編集者)、菅野優香(同志社大学教員)、木下千花(京都大学大学院教授)、鷲谷花(映画研究者)
*全文は以下のサイトで。https://site-7320300-3059-8403.mystrikingly.com/

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