『彼は早稲田で死んだ』

樋田毅著 文芸春秋社 1980円+税
大学構内リンチ殺人事件の永遠
書評

「内ゲバ」主義の根絶のために

 今年は、早稲田大学構内で、文学部2年生の川口大三郎さんが、自治会を暴力的に支配していた革マル派によってリンチされ虐殺されてから50年になる。1972年11月8日のことだった。
 1972年とはどういう年だったか。そのわずか4年前、1968年のフランス「5月革命」やベトナム反戦運動の世界的高揚は、日大、東大に代表される「全共闘運動」へと波及し、全国的な学生反乱・大学のバリケード占拠の波を拡大していった。
 このラディカルな学生反乱は、警察・機動隊を前面に立てた国家権力の弾圧(もちろん、それだけではないが)によって封殺された。しかし1970年代の前半と言えば「反乱の余韻」は、大学キャンパスの中でも広範に感じ取ることができた。国際的には何よりもベトナム革命に連帯する反戦運動の高揚、日本国内でも三里塚農民の新空港建設反対の実力闘争、そして沖縄の「本土復帰・米軍基地撤去」の闘いは、新しい、多様でグローバルな民衆反乱の可能性を印象づけるものだった。
 同時にこうした闘いの可能性を現実のものに転化していこうとするとき、「左翼」相互間の「内ゲバ」が果たした、反動的かつ犯罪的な帰結を徹底的に批判し、克服する課題を自らのものとすることが必要となった。左翼内部での「内ゲバ」現象は、もともとスターリニズムによって「革命の戦略」にまで体系化されたものと言えるだろうが、1960年代後半以後のラディカルな新左翼運動の中でも、同様に無残な形で継承・再生産されることになった。

残虐なリンチ殺人


 その典型は早稲田大学を拠点とした革マル派による学園暴力支配である。早大文学郎1年生の川口大三郎さんは、革マル派によって中核派の活動家と見なされ、拘束・リンチの末に殺害された。1972年11月8日のことだった。川口さんは中核派の呼びかける集会やデモにも幾度か参加した、正義感に満ちた活動的な学生だった。しかし早稲田大学を全国最大拠点とする革マル派にとって、新入生が中核派の集会やデモに参加するということ自体が「許せない」ことだった。
 「学生インター」に結集した私たちは、当時、東大・日大をはじめとした1960年代後半の学生運動=学生反乱の巨大なうねりが、1969年から70年以後、急速に衰退していった要因の一つは、国家権力の弾圧だけではなく、「新左翼」の中にも根深く継承されていたスターリニスト的な自己絶対化と排除の論理である、と強調していた。
 私たちにとって、革マル派による川口君虐殺は、「新左翼」の中に根深く浸透していた「内ゲバ主義」を徹底的に批判・根絶することの重要性を改めて確認させる事件だった。60年代後半のラディカルな青年・学生反乱を、「ベトナム・インドシナ革命の前進」に呼応する闘いに引き継ぐ上で、内ゲバの横行は、絶対に克服しなければならない課題であると私たちは深く確信していた。
 その意味で、私たちにとって革マル派による川口君殺害を糾弾し、「内ゲバ」を克服することは、新たな「ラディカリズム」に不可欠な「行動的民主主義」を定着させるための試金石だったのである。
 この本は、川口君の同期で1972年に早大第一文学部に入学した著者の樋田毅が、当時早稲田大学第一文学部自治会委員長で革マル派活動家だった田中敏夫の実家を訪れたところから始まる。田中敏夫は川口大三郎君が革マル派のテロ・リンチによって殺された当時、「革マル全学連」全体の指導的地位にもついていた。もっとも田中敏夫自身は、川口君殺害については、当時、別の大学にオルグに入っていたことが証明されて、直接罪に問われはしなかった。
 田中敏夫は別の事件で実刑の刑期を終えた後、1975年に帰郷し、父親が経営していた金属加工会社の業務を引き継いだ。しかし15年ほど前に会社をたたみ、2019年に亡くなっていた。中学生のころからデモにも参加し、田中にあこがれていたという連れ合いとなった女性の言では「最後まで心を開くことはなかった」という。

私たちはどう行動したか

 本書の著者である樋田毅が1972年に早大第一文学部に入学したとき、そこは革マル派の学園支配の最大拠点として、日常的な暴力が吹き荒れていた。民青、新左翼を含めて、革マル派の独裁的支配に異を唱える学生は、容赦なく襲撃され、追放され、学園での活動はことごとく不可能となっていた。大学当局は、こうした革マル派の暴力に見て見ぬふりを続けたのである。大学にとって、革マル派の自治会は管理支配体制の補完物の役割を果していた。
 革マル派の殺人的暴力による犠牲者は、言うまでもなく「中核派」と見なされた川口君だけではない。帰化した山村政明さん(朝鮮名:梁政明さん)は1970年10月6日、二文革マル派の執拗な暴力にさらされ、「肉親への遺書」と「抗議・嘆願書」を残して、25歳で命を自ら断ったのである。
 川口大三郎君虐殺事件は、こうした早大における革マル派による学生自治会の暴力支配と、大学当局自身による革マル派を利用した学生管理のあり方を体現するものだった。川口大三郎君虐殺事件を契機とした、早大学生の闘いはこうした暴力的な支配の構造に正面から向き合い、自由・権利を実現するための闘いであり、当時の学生インター(国際主義共産学生同盟)は早大の同志とともに支援の運動を自治会・サークルレベルで集中的に取り組んだ。
 私たちにとって、全共闘運動の終焉以後の全国学生運動の再建のためには、内ゲバ主義の克服、運動内部の民主主義の確立が、ベトナム・インドシナ革命との連帯、三里塚闘争とともに、全国的なテーマとなった。
 当時、学生インターの大衆的拠点だった、芝浦工大大宮校舎を襲撃した数十人の革マル派を、自治会の呼びかけ放送で1000人を超える学生が包囲し追放した闘いは、早大学生の闘いを支援する上で、重要な意味を持っていた、と私たちは考えている。この事件は、革マル派がわれわれ学生インターの早大学生への支援にいかに危機感をつのらせていたかを立証するものだった。この闘いについては『検証内ゲバ:PART2』(いいだもも 蔵田計成編著 社会批評社 2003年1月刊)所収「第四インター派の『内ゲバ』主義との闘い」を参照されたい。
 学生インターの拠点で「内ゲバ」を仕掛けようとした革マル派の企図は見事に打ち砕かれたのだった。

民主主義のために

 ここで本書『彼は早稲田で死んだ』の全体構成を紹介する。
第1章:恐怖の記録
第2章:大学構内で起きた虐殺
第3章:決起
第4章:牙をむく暴力
第5章:赤報隊事件
第6章:転向した二人
第7章:半世紀を経ての対話

 第1章は、最初で述べたように当時の早大1文自治会委員長だった田中敏夫の「その後」についてである。彼は1973年11月、川口君が亡くなってからほぼ1年後の11月7日に「自己批判」している。
 第2章以後は、1972年に早大1文入試に合格して充実したキャンパス・ライフを期待していた著者の実体験、すなわち革マル派の学園支配の現実と、早稲田祭が終わった直後の、1年生川口大三郎君虐殺という衝撃的事件を契機にした革マルの非道極まる暴力的決起に対する闘いが、リアルに描かれている。
 「革マルに殺されるぞ」という恐怖と、さらには殺した側が「追悼」を呼びかける欺瞞への怒りの中で「命を懸けても川口のために闘う」という同級生・同学年の学友たちの怒りはついに爆発的な姿を取った。早大の中で川口君虐殺への怒りの意思を最初に表現したのは、民青(共産党の青年組織としての日本民主青年同盟)が主導する法学部自治会だったという。同時にこの期に及んでも、早稲田大学当局は川口君の殺害を、「派閥抗争」によるものだと言いつくろった。
 「11月24日、村井資長早大総長は毎日新聞のインタビューで次のように語った。「確かに革マル派は悪いが彼らがねらうのは派閥抗争の相手で一種のケンカだ。ケンカは力の強いものが弱い者を倒す。この暴力が、正しいと信じることを勇気を持って主張する人に対して起きたのだとすれば、それを放置した責任は大きい。だが私たちの調査したところでは、こんどの事件の直接の原因は、川口君が“反早稲田祭”を掲げるグループの一人だったことだ。そのグループと革マル派の間の派閥抗争の論理が今度の事件に働いている」。
 このような形で、早大村井総長は「派閥抗争の結果として川口君は殺された」という主張によって責任回避を行い、革マル派による虐殺を事実上、不問に付してしまったのだ。
 本書は、1972年の川口君虐殺からの1年にわたる闘い(第3章の「決起」第4章の「牙をむく暴力」)を軸に、自治会を暴力的に支配する革マル派に対する学生たちの「民主主義のための闘い」の曲折に満ちた歩みを描いたものだ。

闘いはこれからも続く


 本書最終章=第7章の「半世紀を経ての対話」は、川口君虐殺の主導的とも言える役割を果した、当時の1文自治会副委員長・大岩圭之介との対話を中心に構成されている。大岩は米国、カナダを放浪した上で、米国のコーネル大学で文化人類学の博士号を取り、今や明治学院大学の人気教授となった。彼は「辻信一」名で「100万人のキャンドルナイト」運動の創始者の一人として、「スローライフ」を唱道している、というのだ。
 これには著者と同様に、私もびっくりせざるを得なかった。件の「キャンドルナイト」運動の名前を知ってはいるが、他党派活動家への「殺害」をふくむ内ゲバ主義と「スローライフ運動」との落差、変遷を大岩氏はどのように説明しているのか。
 討論の中で大岩(辻信一)は高校生時代の経験を語っている。
 「僕は人生を何かに向かって組み立てていくという感じはなくて、先のことはあまり深く考えずにかなり行き当たりばったりで生きてきた。それは子どもの頃からそうだった気がします」「学生運動では、暴力的な衝動も刺激されましたね。ある時、他校のデモを応援しに行くことになったんです。ラグビーの試合のような気軽な気持ちで出向いたら、そこで他校の生徒が教員の襟首をつかんで吊るし上げていた。それを見て『こんなことがありなんだ』と、僕は興奮したんですね。それからは、僕も暴力的になっていきました」。
 こういった調子で、大岩の話は続くのだが、これ以上彼の饒舌きわまる自己弁明ストーリーを引用するのは無駄だろう。
 著者の樋田さんは大岩との対談の後、「私はかつて、川口君を虐殺した革マル派に対し、寛容な心で接することなどそもそも可能なのかと思いあぐね、すぐには説得できなくても、いつか心を通わせ、互いを認め合う日が来ることを信じようと自分に言い聞かせてきた。大岩さんとの対談で、その願いが半世紀を経てやっと叶ったように感じた」と、述べている。
 しかし、やはり考えるべきは革マル派という組織そのものが、その内部から自己変革することが可能なのか、という問題なのである。それは依然として絶望的であることに変わりがない。
 同時に私たちは、「不寛容に対して私たちはどう寛容で闘いうるのか――。早稲田のあの闘いから半世紀を経た今も、私は簡単には答えを出すことのできないこの永遠のテーマについて考え続けている」という著者の締めくくりの言葉を共有して、これからも闘っていきたい。それは学生運動の再建というテーマを、現在どのように構想していくべきか、という問いでもある。     (平井純一)

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