「オートメーションと労働の未来」

書評 アーロン・ベナナフ著(堀之内出版2022)

投稿 書評 西島志朗

 かつてエルネスト・マンデルは、「労働価値説を証明する伝統的な3つの証拠」の3番目としてこう書いている。「人間労働が完全に生産とサービスのあらゆる形態から排除されてしまった、と想像してみよう・・・膨大な量の生産物が、いかなる人間もこの生産に従事しないために、何の所得も生み出さずに生産されるということになる。だが、もはやいかなる買い手もないのに、誰がこれらの生産物を「売ろう」とするのだろうか?」(「マルクス経済学入門」国際革命文庫P46)。
 誰も所得を得ることができなければ、商品は全く売れない。剰余価値は実現できず利潤はゼロとなる。交換価値は消滅する。つまりあらゆる物はもはや商品ではありえず、まるで空気のように、それを手に入れるための対価を必要としないことになる。したがって、人間の労働こそが価値を生み出している、ということが逆説的に証明される。
 実は、ここで紹介するベナナフの著書を読み進めるうちに、私はマンデルのこの文章を思い出したのだ。私がこの文章を読んだのは約40年前だが(マンデルが当時のフランス統一社会党パリ連合支部の学習会のためにこれを書いたのは1963年)、まるでSF小説のような仮定を置いて、説得力のある説明をしていることにいたく感心したのだった。

急速に導入されるロボット


 「今ある職業の七割が、AIとロボットに奪われる」。こういった「雇用危機」に関する言説が、まことしやかに語られている。実際、この数十年間に、製造業の生産現場は様変わりした。世界中に展開するグローバル企業の生産現場に、ロボットが急速に導入されている。最先端の自動車工場では、真っ暗な構内で24時間、産業用ロボットのアームが器用に部品を掴み取り溶接し組み立てる。まさにSFの世界だ。

 2021年のデータで、産業用ロボットは全世界で約350万台稼働しており、その35%は中国の工業地帯に集積している。中国では、特に2010年代から急速に産業用ロボットが導入され、2021年には「ロボット密度」でもアメリカを抜いた。
 この背景には、ホンダの100%子会社「本田汽車零部件製造」でのストライキ(2010年)をはじめ、半ば自然発生的で爆発的で大規模な、職場放棄、ストライキ、道路封鎖等による波状的な労働者の闘いがある。最低賃金は、深圳や重慶などの工業地帯で、2005年から2015年の10年間に3~4倍になった。
 中国政府は、ロボット産業の育成と生産現場へのロボットの導入を急ぐことになる。例えば「深圳市では、2014年から2020年までの7年間、産業用ロボットの導入補助金などに毎年5億元の予算を計上した」(三井物産戦略研究所「中国産業用ロボットの行方」2016)。

「雇用危機」の真の原因


 製造業の現場だけではない。ロボットやAIによる自動化(オートメーション)は、物流やサービス、対面販売の分野にまで広がりつつある。それが「雇用危機」、つまり世界的な失業の増加、大量の「半失業」というべき不安定雇用労働者の増加の原因なのだろうか。本書の著者ベナナフは、そうではないと言う。
 「製造業におけるアウトプットの伸び率は、どこか特定の国においてではなく、世界全体で低下傾向にある。1950年代および60年代には世界の製造業の生産は実質価値で年率7・1%拡大した。この伸び率は1970年代には4・8%へ、そして1980年から2007年の間には3・1%へと下落を続けた。2008年の危機から2014年までの間に、世界全体のアウトプットは年率1・6%しか増加しなかった。・・・注目に値するのは、これらの数字が中国における製造業の生産能力の劇的拡大を含んでいることである」(P64)
 「工業化という成長のエンジンは技術力の普及や国際的な冗長性(註1)、市場競争の激化のために停止してしまったが、それに取って代わるような急成長の源泉は現れなかった。・・・労働者はサービス部門を中心とする低生産性の仕事に留まるようになった。脱工業化が進んだ国では金融資本が膨れ上がり、新たな固定資本に長期的な投資をするのではなく相対的に流動性の高い資産を所有することによって収益を追求するようになった」(P83)
 ベナナフによれば、既に50年間、半世紀に及ぶ経済の停滞(経済学者はこれを「日本化」という)こそが、「雇用危機」の原因である。製造業の技術革新が生み出す「余剰人員」を、製造業の更なる成長が吸収した時代は遠い過去のものとなった。実体経済の利潤率は低迷し、過剰資本は資産価値への投機へ向かう。「ゼロ金利」でお金を借りて土地や金融商品に投資し、数%の収益を確保できるのであれば、利潤率の低い生産への投資意欲は減少する。資産バブルとその崩壊が繰り返される。バブルが崩壊し、経営が危機に陥れば、「人員整理」が行われる。

資本がしかける階級闘争

 労働力は生産性の低いサービス部門に流れこみ滞留する。サービス産業は技術的に「ロボット化」が進行しにくい部門である。資本は新たに設備投資するよりも低賃金を利用して利益を上げようとする。技術的な限界もある。外食産業で、客がタッチパネルで注文するところまでは比較的容易にできるが、すべての注文をロボットが調理し、AIを搭載したロボットがそれを客席に運ぶことには大きな困難がある。ホテルの客室のベッドメイキングや高齢者の介護をロボットが行うことは不可能だろう。わずか1000円の時給(日本の最低賃金はようやく1000円を超えた!) で働く非正規労働者を使う方がはるかに「合理的」だ。GPSが進化し、スマホが普及したことで、「ギグワーク」が可能となった。プラットホームを握る資本が利益をピンハネし、その分賃金は押し下げられる。雇用ではなく請負であると偽装すれば、労働基準法の適用を回避することさえできる。
製造の現場に導入されたロボットは、上司に文句を言わないし、サボタージュもストライキもしない。それは熟練を解体することで、生産過程での労働者の力を弱め、作業のマニュアル化を容易にし、労働者を「アトム化」する。労働者は生産過程の中軸から締め出されて、ごく少数の管理者を除いて、補助的な労働に携わる多数の非正規労働者が機械のリズムに合わせて作業に従事する。機械化を進める資本の狙いは常にここにあった。
 生産の現場でもサービスの現場でも、技術革新が「雇用破壊」を必然化するかのような言説が流布している。そうだとしたら、労働者はますます不安定で低賃金の雇用にしがみつかざるを得ないのだろうか。いや、そうではない。「中立的な立場の科学者の研究が新たな技術革新をもたらし、科学の発展の必然的な結果として、生産現場にロボットやAIが導入され、雇用が失われる」という言説をそのまま信じるとしたら、それはあまりにもお人よしだ。資本は絶えず闘っている。この言説は、資本のイデオロギーであり、利潤率の低下と「闘う」資本の階級的攻撃の隠れ蓑なのである。

資本主義の次に来る社会


 この著書の後半は、「未来社会をどう構想するのか」ということをめぐる議論である。ベナナフは、「オートメーション論者」の「ユートピア的思考実験」を、未来を構想するために有益であると評価する。
 このままオートメーション化が進めば、やがてあらゆる労働がロボットとAIに取って代わられ、すべての物とサービスは「無料」になる。まるでマンデルが労働価値説の証明のために仮定したSFのような世界だ。「誰もが社会的倉庫やサービスセンターに立ち寄って欲しいものを持っていくことができるが・・・その代わりになにかを提供することは全くない」(P174)。
 これはもはや資本主義社会ではない。「共産主義」の世界だ。しかしあくまで空想の世界である。少し巻き戻して現実に近づけると、人口の大多数が働く場を失うかわずかな機会しか与えられない状況、つまりさらなるオートメーション化によって大量失業が出現したとすると(いま私たちはその戸口にいるのだろうか)、「ユニヴァーサル・ベイシック・インカム」(UBI)が必要になる。左派の「オートメーション論者」だけがUBIを支持しているわけではない。イーロン・マスクやビル・ゲイツもそれが必要だと主張しているらしい(確かに、UBIが実現すれば、資本はもっと低賃金で労働者を雇用できるだろう)。
 しかし、UBIを必要とする社会とは、すべての人間がほんの少しずつ社会的に必要な労働を担えば、生活に必要な財とサービスを無償で入手できる社会が可能となる生産力の基盤が完全に成熟している、ということに他ならない。
 ベナナフの議論は、新自由主義の構造改革やケインズ主義的な需要管理に対する批判から、社会主義社会の構想まで多岐にわたり、その内容をここで詳しく紹介することはできないが、ヨーロッパやアメリカで盛んに議論されている「資本主義の次に来る社会」に関するイメージと構想、そこへいたる道についての議論を活性化することは、日本の左派にとっても大変重要な課題だと思う。
「序文」の中で、執筆の目的をベナナフはこう述べている。
 「本書において私は、ポスト希少性(註2)の未来を生産の完全なオートメーション化なしで実現する可能性を探求する。すなわち、私たちに共通する社会的な存在の仕方の中心に労働を置くことなく、労働生活に尊厳や自律性、そして目的を取り戻すような仕方で、必要な労働をシェアすることによってである・・・本書の執筆を通して、私はさらに確信するようになった。より人間的な未来に向けて潮目が変わるか否かは、労働者の多くが労働需要の継続的低下とそれに伴って拡大する経済的格差を受け入れることを拒否するか否かにかかっているのだ」。

[註]
(1)「冗長性」とは、余分なものや重複が多いこと。ここでは生産設備の重複や余剰が増加しているという意味。つまり過剰生産。
(2)「希少性とは、資源が限られている経済における財の入手可能性のことを指す。あらゆる財が無限に生産されることはなく、人間の欲求が完全に満たされる財は存在しないことから、希少性が生じる。消費者が財を購入するための予算が不足していることを指すこともある。対義語は「豊富性」である」(Wikipedia)。ここでは、必要な財やサービスが商品として存在し、手に入れるためには対価が必要である状態をさす。空気には希少性がないので無償で得られる。

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