「労働者」の定義(自営業者との相違、「雇用」か「委託」かの判断基準)についての一考察

投稿 西島志朗

アマゾン配達員に労災認定

 横須賀労働基準監督署は9月26日、アマゾンの下請け運送会社で「フリーランス」として働く男性の配達中のけがについて、労働災害と認定した。 アマゾンから受注する運送会社と業務委託契約を結ぶ「フリーランス(個人事業主=自営業者)」であるが、働き方の実態は雇用関係と同じだと判断した。労働基準法上の労働者と認定されれば、残業代や年次有給休暇も請求でき、最低賃金法の対象にもなる。これは大きな一歩前進である。
 1985年に「労働基準法研究会報告(労働基準法の「労働者」の判断基準について)」は、使用者の「指揮監督下にあるかどうか」(使用従属性)や「諾否の自由度」、「拘束性」、「固定的報酬の有無」、「報酬の労務に対する対償性」などの判断基準を示した。フリーランス(自営業者)か労働者であるかの判断は、表面的な契約の形式ではなく、「働き方の実態」によって判断するということである。アマゾンの配達員はアマゾンのアプリによって管理されており、明確な「使用従属性」があるとした横須賀労基署の判断もこの基準によるものである。

判断基準の見直しが必要


 「労働基準法研究会報告」(以下、「報告」)は、「労働基準法第9条は、その適用対象である「労働者」を「使用される者で、賃金を支払われる者をいう」と規定している。これによれば、「労働者」であるか否か、すなわち「労働者性」の有無は「使用される=指揮監督下の労働」という労務提供の形態及び「賃金支払」という報酬の労務に対する対償性、すなわち報酬が提供された労務に対するものであるかどうかということによって判断されることとなる。この二つの基準を総称して、「使用従属性」と呼ぶこととする」としながら、「現実には、指揮監督の程度及び態様の多様性、報酬の性格の不明確さ等から、具体的事例では、「指揮監督下の労働」であるか、「賃金支払」が行われているかということが明確性を欠き、これらの基準によって「労働者性」の判断をすることが困難な場合がある。このような限界的事例については、「使用従属性」の有無、すなわち「指揮監督下の労働」であるか、「報酬が賃金として支払われている」かどうかを判断するに当たり、「専属度」、「収入額」等の諸要素をも考慮して、総合判断することによって「労働者性」の有無を判断せざるを得ないものと考える」と、基本的な考え方を示した。
 「報告」はほぼ40年前のものであるが、現在でも、「労働者性」の判断基準として一定の効力を発揮している。しかし、いっそうのIT技術革新とコロナ禍での在宅勤務(テレワーク)の拡大等によって、働き方はさらに「多様化」した。内閣官房によれば、2020年のフリーランス人口は、約462万人にものぼる。総括して「フリーランス」と呼ばれているが、「ギグワーカー」「プラットフォームワーカー」「クラウドワーカー」「オンコールワーカー」など呼称もさまざまであり、業種も多種にわたる。
 引用した「報告」の後半は、「使用従属性」があいまいな「限界的事例」については、「他の諸要素」も考慮して「総合的に判断」するとしている。ここで「他の諸要素」とされているのは、「事業者性の有無」や「専属性の程度」であり、所有する生産手段が「相当高価なトラック」であったり、報酬が同様の業務に従事する従業員よりも「著しく高額」であったりすれば、「自営業者」と推定されるということである。
 つまり、労働基準法9条の規定する「使用従属性」があると明確に判断できず、「自営業者」と推定される要素があれば、「労働者性」が否定される可能性があるということである。「報告」は、時代の変化に十全には対応できなくなった。

「労働者類似の者」?

 「デジタルプラットフォームと労働法」(東京大学出版会2022)の中で、ドイツ法の分野の執筆を担当した橋本陽子は、ドイツの法学者ロルフ・ヴァンクの論説を紹介している。ドイツでも1990年代に、トラック持ち込み運転手やフランチャイジーをめぐって「偽装自営業」が問題になった。「ヴァンクは、法律学における概念には常に反対概念があることを前提としたうえで、職業活動には、労働法の適用される労働者と労働法の適用されない自営業者の2つのモデルがあり、市場で自ら取引する自営業者でない者が労働者であるという境界確定の基準を提唱した」(P28)。
 ヴァンクの主張は、下級審裁判所では採用されたが、ドイツ最高裁では受け入れられなかった。しかしその後の議論に大きな影響を与えている。橋本は「労働者とは別に、労働者類似の者という概念を設けると、労働者概念が狭く解される帰結をもたらすことになる」(P60)と指摘しているが、全くその通りだ。「純粋な労働者」よりも法的保護の範囲が狭まる中間的な概念は、労働者階級の既得権を削減する方向に作用する。

ヨーロッパでの闘いの前進

 ヨーロッパでは、ウーバーやアマゾンの配送業務を引き受けて働く「ギグワーカー」の「労働者性」に関して、訴訟が繰り返されてきたが、近年はその「労働者性」を認める判断が定着しつつある。
 フランスでは2015年、ウーバーに客を奪われているタクシー運転手らが、空港や駅までの道を封鎖する抗議運動をおこなった。警察発表だが、抗議運動には約2800人が参加し、30か所以上で道路が封鎖された。フランス破棄院(最高裁)は2020年に、「ウーバードライバーは自営業ではなく労働者として扱われるべきだ」と裁定した。最高裁の裁定であるため、ウーバーはもう上訴できない。フランスやスペインでは、ウーバータクシーの営業を禁止した。
 イギリス最高裁は2021年4月、アメリカの配車サービス大手ウーバーの運転手について、個人事業主ではなく労働者として扱われるべきとの判断を示した。これにより、数千人の運転手は最低賃金や有給休暇が認められることになった(ただし、イギリスでは被用者employeeと労働者workerは区別されている。後者は自営業者self-employedと被用者の中間的概念)。ロンドンではウーバータクシーの営業認可が取り消された。
 イギリスマクドナルドは、批判の高まりを受けて「ゼロ時間契約」の従業員について、同社従業員11万5000人を「ゼロ時間契約」から固定時間契約に切り替えることを表明した。「ゼロ時間契約」とは「予め決まった労働時間がなく、仕事のあるときだけ使用者から呼び出しを受けて働く契約で、労働時間に応じて賃金が支払われる」(労働政策研究・研修機構)。日本では「オンコールワーカー」と呼ばれることが多い。

マルクス主義の観点から

 マルクス主義の観点からすると、「労働者」の定義(労働者性)は明確である。
① 生産手段を所有していない(生産手段からの疎外)。したがって、労働力を売ることで生活するしかない(労働力の商品化)。
② 自己の労働の生産物が、自分自身に帰属しない(生産物からの疎外)。つまり労働の対価を、労働力と「等価」の賃金として受け取るだけで、労働の生産物は資本が占有する。

 例えば、木工職人が自営業者であれば、かれは作業場や木材を加工する機械類や工具を所有し、つまり生産手段を私的に所有し、材料を購入して加工する。そして生産物(木工製品)は彼自身の所有物である。彼はそれを占有している。したがって、それをいつ、誰に、いくらで販売するのか、自身で決定することができる。かれは木工製品市場における経済主体である。
 しかし、木工職人が木工製品を製造販売する会社(資本)に雇用された労働者である場合、かれは会社が所有する生産手段と会社が購入した材料で、木工製品を製造する。かれはその労働の対価として、賃金を受け取るのみで、その生産物は会社が占有し、会社が販売する。

生産手段の一部を持ち込むケース

 仮に、この労働者が生産手段の一部(ノミやカンナのような工具類等)を持ち込んで仕事をする場合でも、主要な生産手段(作業場や機械類、原材料)は資本が所有しており、生産物の所有権は資本に帰属する。工具等の「持ち込み」は、前記①②の条件に全く変更を加えない。
 同様に、私的に所有するトラックや自動車、自転車等を「持ち込んで」、運送や配達を請け負う者は、生産手段の一部を所有しているだけであり、主要な生産手段は資本が所有し(アマゾン配送業務のもっとも主要な生産手段はそのプラットフォームである)、その生産物(運送・配達サービス)は資本に帰属する。したがって、かれは自営業者ではなく、労働者である。
 「持ち込み」のトラックが、「相当に高価なもの」であって、生産手段の「一部」だとは言えない状況(ほぼ全部)であったとしても、請負人が提供した労働による運送サービスに発注者が支払う対価が、もっぱら委託主に帰属する限り、請負人は労働者であると判断するしかない。かれは、発注者と交渉して運賃を決定することができないし、その形式的な権限も持たない。
 この業務の委託主(資本)が、この請負人は自営業者だと主張するのであれば、生産物(サービス)の対価はいったんすべて、その業務の請負人に帰属しなければならない。つまり、サービスの発注者が支払う対価は、請負人が発注者と交渉して決定した金額であり、それは直接請負人に帰属し、かれはその一部を契約条件に従って委託主に支払うことになる。それはおそらく、仕事の斡旋を受けた手数料や荷物を積み込む社屋の使用料といった名目になるだろう。しかし、現実はそうではない。委託主がサービスの対価を発注者と交渉して決定し、それを占有し、請負人には「手間賃」として「報酬」を支払うのである。「手間賃」は、請負人が提供した労働の対価以外の何物でもなく、その呼称は何であれ、「報酬の労務に対する対償性」は明白であり、つまり賃金である。
 このケースの実際の裁判では、「報告」の基準に則して判断され、このトラックドライバーの「労働者性」は認められなかった。このドライバーの受け取った報酬が、トラック協会が定める運送料よりも15%も低かったにもかかわらず! そもそも請負人が「持ち込む」トラックは、以前は資本が準備するものだったのではないか。委託主は、「外部化」によって資本を節約し、かつ「業務委託」を偽装して、労働法や社会保険法の適用をすり抜けているのである。

「あいまいさ」はありえない

 「フリーランス」を自認するイラストレーターが、ほとんど唯一の生産手段であるパソコンを所有し、不定期に仕事を受注し、専属性はなく、納品の期限や制作物の水準が指定されているだけで、労働過程で指揮監督を受けず、時間的な拘束を受けないとしても、かれが直接発注者に販売するのでなければ、つまり発注者から受注した会社がかれに仕事を委託し、イラストレーターがそれを請け負って商品を製作し、委託者がそれを発注者に販売するのであれば、かれは「自営業者」とは言えない。かれは、労働の対価として「手間賃」を受け取っているにすぎない。それは、販売の収益ではない。したがってかれは「労働者」であるというしかない。
 しかし、このイラストレーターが、発注者から直接仕事を受注し、制作物の価格を自ら交渉して決定できるのであれば、かれは「自営業者」といいうるだろう。ある仕事は「自営業者」として請け負い、ある仕事は中間搾取をする委託業者から引き受けて、「労働者」として働いているというケースもありうるのである。
 自営業者と労働者の「2つの顔」を持つとしても、ここにあいまいさはない。たとえば、飲食店の店主(自営業者)が、空いた時間にウーバーの委託を受けて配達をするというようなケースも増えてきた。かれが飲食店で顧客に食事を提供している時、かれは自営業者であり、ウーバーの配達をしているときは労働者である。

「労働者性」の本質に立ち返って


 こうして、①②こそ「労働者性」の本質であり、特に②を満たすかどうかが決定的に重要であることが判る。「労働者」は、生産手段から疎外された結果として、自己の労働の生産物を、つまり商品を、市場で販売してその収益で生活するのではなく、ただ労働力を資本に売ることによって生活する者なのである。
 「近代的プロレタリアート」、労働者階級が形成される現実的・歴史的な過程(その過程は現在でも世界中で継続している)についてここで詳細に触れることはできないが、資本による生産手段(土地など)のしばしば暴力的な占有、生産手段からの人口の大多数の疎外と自己の労働生産物からの疎外が、近代的労働者階級を生み出したのであり、その歴史的形成過程からすれば、前記①②が「労働者性」の本質であり、「使用従属性」はそこから派生したその現象であるにすぎない。「労働基準法研究会報告」が示した基準、使用者の「指揮監督下にあるかどうか」(使用従属性)や「諾否の自由度」、「拘束性」、「固定的報酬の有無」、「報酬の労務に対する対償性」などの判断基準は、副次的・派生的なものである。

自営業者でない者は労働者

 労働者であるか自営業者であるか、つまり雇用関係(契約)なのか、委託関係(契約)であるかの判断は、①②によらねばならない。①②の基準こそが、「委託契約」の偽装性を引きはがし、問題の本質を明確にするのである。
 この判断を簡明にするためには、「自営業者性が明白といえない者はすべて労働者」と定義すべきである。「主要な生産手段を所有し、仕事の進め方を自分で決め、かつ自己の労働の生産物(含サービス)を自ら市場で販売する経済主体」が「自営業者」である。
 フランスの最高裁は、「自営業者はクライアントを自分で管理する、価格を設定する、タスクをどのように実行するかを決める、この3つができなければならない」としている。この条件を完全に満たさない者は労働者である。実際、現代資本主義社会で働く者は、いずれかであるしかないのであり、「労働者類似の者」といった中間的な概念は、偽装委託、偽装フリーランスを増やすだけである。

「働き方の未来 2035」懇談会の報告

 日本の政府と資本は、「フリーランス」を基本的に「自営業者」と規定して、一定の「法的保護」を行う方向にある。2021年の「フリーランスガイドライン」も今年施行される「フリーランス新法」も、「個人が事業者として受託した業務に安定的に従事することができる環境を整備する」ことに重点を置いたものであり、「独占禁止法」や「下請け法」など経済法による保護が中心で、労働法の領域での対応は、労災保険の特別加入を認める対象を拡大するというレベルである。
 この背景には、「働き方の未来 2035」懇談会の報告(2016年)がある。そこでは、資本が求める将来の「働き方」が美辞麗句で飾られて、しかしあけすけに語られている。
 「2035年の企業は、極端にいえば、ミッションや目的が明確なプロジェクトの塊となり、多くの人は、プロジェクト期間内はその企業に所属するが、プロジェクトが終了するとともに、別の企業に所属するという形で、人が事業内容の変化に合わせて、柔軟に企業の内外を移動する形になっていく。その結果、企業組織の内と外との垣根は曖昧になり、企業組織が人を抱え込む「正社員」のようなスタイルは変化を迫られる」「働く人は仕事内容に応じて、一日のうちに働く時間を自由に選択するため、フルタイムで働いた人だけが正規の働き方という考え方が成立しなくなる。同様に、それより短い時間働く人は、フルタイマーではないパートタイマーという分類も意味がないものになる。さらに兼業や副業、あるいは複業は当たり前のこととなる。多くの人が、複数の仕事をこなし、それによって収入を形成することになるだろう。複数の仕事は、必ずしも金銭的報酬のためとは限らない、社会的貢献等を主目的にする場合もあるだろう。このように、複数の仕事をすることによって、人々はより多様な働く目的を実現することができる。また、一つの会社に頼り切る必要もなくなるため、働く側の交渉力を高め、不当な働き方や報酬を押し付けられる可能性を減らすことができる」。
 ここに書かれていることは、世界中で増大し、その労働条件の劣悪さから「プレカリアート」(不安定precariousとプロレタリアートの造語)と呼ばれる「終身不安定雇用」の労働者、「日雇い」どころか「時間雇い」の低賃金労働者が多数を占める世界である。
 「ギグワーク」や「オンコールワーク」をさらに増大させ、働く者の多数が、労働者ではなく自営業者となることを、資本はめざしている。「ウーバーイーツ」の配達員をはじめ、高齢者の業務委託や看護師の「日雇い派遣」などが増え続けている。労働者ではなく、自営業者または「労働者類似の者」であれば、労働基準法を基盤として形成された労働関係法規や社会保険制度の適用から逃れることができるからだ。

「働き方の多様化」は資本がつくに出した

 資本はこの数十年間一貫して、「外部化」(本来内製してきたものを子会社や下請けに外注)によって、「雇用」のリスクを軽減しようとしてきた。「社会の変化が多様な新しい働き方を生み出している」のではない。労働コストの削減を追求する資本が、主要に「外部化」によって、「多様な働き方」を作り出したのである。
 確かに、この「社会の変化」に、労働基準法の規定する「労働者性」の定義だけでは対応できなくなった。しかしそれは、「直接雇用」のリスクを「すり抜け」ようとたえず注力してきた資本が、新たなテクノロジーを利用することで生み出した「働き方の変化」であるにすぎない。それを新たな中間的な法的規定(「労働者類似の者」等)で固定化することを許してはならない。「直接雇用」のリスクの回避を目的とするあらゆる資本の方策は、厳格に禁止されねばならない。

雇用の劣化こそが問題


 「働く側が自由な新しい働き方を求めている」と喧伝されている。「若者は自由な働き方=フリーランスであることを望んでいる」といわれる。確かにそうだ。しかしこの背景には、雇用関係の下で働く労働者に対する、機械化と人減らしによる極限的な労働強化、労働のマニュアル化による生産過程での裁量の剥奪、低賃金と不払い残業、過労死水準の残業、厳しい「ノルマ」、不況期の容赦ない解雇等々によって、つまりこの数十年間の資本のあくなき攻撃によって、追い詰められた労働現場の実態がある。雇用関係の下で働くことに魅力を感じられないどころか、それが忌避されているのである。
 「フリーランス」は、「奴隷」のような働き方から逃れ、労働過程での自己実現や豊かな自由時間を希求する彼らの人間的な志向の表現に他ならない。しかし、「フリーランス」として働いて、その報酬に満足し将来に希望を持ちえている者は、ごく少数であろう。現に「フリーランス」として働いている者の多くは、正規雇用の機会に恵まれなかった結果として、あるいは雇用先の労働条件の劣悪さから逃れて、「ギグワーク」のような「自由な働き方」を選択せざるをえなかったのである。もし、職場に強力な労働組合が存在し、資本の一方的な労働強化を許さずに闘っていれば、かれらの多くは仲間と共にそこにとどまるだろう。
11月1日

The KAKEHASHI

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