トロツキストと第2次世界大戦におけるレジスタンス

戦争の入り組んだ性格と革命的戦略
第2次世界大戦終結から60年、マンデル没後10年
レジスタンスは「祖国防衛」闘争ではない

エルネスト・マンデル

解説

第2次世界大戦の一面的な総括批判する

 ナチス・ドイツと天皇制日本帝国主義の壊滅的敗北による第二次世界大戦の終結から六十年が経過した。この人類史上未曾有の破壊と惨劇を、「民主主義とファシズムの戦争」に一面化したり、ましてや日本の一部の極右派のように「欧米の植民地支配に対する自存自衛の戦争」などと規定する自己正当化に反対して、われわれはこの戦争を世界規模の階級闘争の帰結として歴史的に捉えなければならない。昨年不慮の死を遂げた同志高島義一は、戦後五十年にあたって、「連合国」帝国主義を美化し、スターリニズムを免罪する日本共産党の「第二次大戦論」を批判し、第二次世界大戦の意味を分析する論考を本紙95年8月25日号に掲載した(新時代社パンフレット『日本共産党はどこへいく』所収)。
 ここに掲載した、十年前に亡くなった故同志エルネスト・マンデルの文章は、第二次大戦において「五つの種類の戦争」(1 帝国主義間戦争、2 日本帝国主義に対する中国の民族防衛戦争、3 ソ連のナチスドイツに対する労働者国家防衛戦争、4 植民地人民の帝国主義諸国に対する民族解放戦争、5 ナチスに占領された欧州諸国におけるレジスタンスという戦争)が闘われたことを明らかにしている。そしてとりわけ「欧州諸国におけるレジスタンス」をめぐってトロツキスト運動の陣営内部で存在した意見の相違を明らかにし、今日にいたるもレジスタンス運動への参加を「祖国防衛主義」というブルジョアイデオロギーに屈服したものとしてセクト主義的に否定するフランスの「ルット・ウーブリエ」(「労働者の闘争」、LO)を批判している。
 この文章はもともと一九七六年にロンドンで開催された国際主義マルクス主義者グループ(IMG、当時の第四インターナショナル・イギリス支部)主催の「第四インターナショナルの歴史」に関する学校でのマンデル報告からの抜粋である。なお本論文に関連して、第二次大戦中における被占領下フランスでのトロツキストの闘いについては『トロツキー研究』14号「特集:平和のための闘争」(95年2月刊)に掲載されているイヴァン・クレボーとのインタビューなどを参照していだだきたい。(平井純一)


レーニンと帝国主義戦争


 私は、一九四〇年から四四年にかけての欧州におけるレジスタンス運動の諸問題に詳しく立ち入ってみたい。とりわけ私がそうしたいのは、私が尊敬しており、第四インターナショナルを支持するよう私が望んでいる一部の同志、フランスにおける「ルット・ウーブリエ(労働者の闘争)」の同志が、自らの特別な面目にかけて、第四インターナショナルに反対してこの問題を取り上げているからである。
 共産主義インターナショナルの創設以来、共産主義者は、帝国主義諸国における「民族防衛」や「祖国防衛」という思想を原則的に拒否することを教えられてきた。これは、帝国主義戦争とはいかなる関わりを持つことも完全に拒否することを意味していた。トロツキスト運動は、同じ精神で教育された。
 このことは、コミンテルンの右転換、そして西欧諸国と一部の植民地諸国のスターリニストが親帝国主義的排外主義の最悪の擁護者へと転換した一九三五年のスターリン―ラヴァル協定(訳注1)によっていっそう必要なものとなった。
 たとえばインドでは、それは一九四二年の民族的蜂起のスターリニストによる破滅的裏切りをもたらした。蜂起が起こった時、英植民地主義者は、インド共産党の指導者たちのために牢獄の門を開けて釈放した。それは彼らを、蜂起に反対し帝国主義戦争を支持するアジテーターに転換させるためであった。このとんでもない裏切りは、それに続く数十年間、ブルジョア民族主義者の国民会議派が大衆的影響力を持ちつづける基礎を据えることになった。
 われわれの運動は、帝国主義諸国における民族主義に反対し、どのような形態であれ帝国主義の戦争努力を支持する思想に反対する考え方を植えつけられていた。これは良い教育であり、私はこの伝統を修正しようと提案しない。しかし無視されてきたことは、第一次大戦における、もっと複雑なレーニン主義的立場の諸要素であった。
 当時のレーニンの立場を「これは反動的な帝国主義戦争だ。われわれはそれにはなんの関わりもない」という定式に切り縮めることができるとするのは、まったく事実ではない。彼は「少なくとも二つの種類の戦争がある。そしてわれわれは第三の種類の戦争を持ち込みたい」と述べた(第三の種類の戦争とはブルジョアジーに対するプロレタリアの内乱であり、それはロシアにおける戦争で現実のものとなった)。
 レーニンは、この二つの種類の戦争に区別をつけようとしない、国際主義的傾向内部のセクト主義的潮流と断固として闘った。彼は指摘した。
 「帝国主義間の戦争が存在する。この戦争については、われわれはなんらの関わりを持たない。しかし被抑圧民族による民族的蜂起の戦争も存在する。アイルランドの蜂起は一〇〇%正当なものである。たとえドイツ帝国主義がそれから利益を得たとしても、またたとえ民族運動の指導者がドイツ潜水艦と連絡を持っていたとしても、そのことはイギリス帝国主義に対するアイルランド独立戦争が正義であるという性格を変えるものではない。同様のことは植民地や半植民地の民族運動についても真実である。インドの運動、トルコの運動、ペルシャの運動がそれだ」。
 さらに彼は付け加えた。
 「同様のことは、ロシアやオーストリア=ハンガリー内部の被抑圧民族についても事実である。ポーランドの民族運動は正義の運動であり、チェコの民族運動は正義の運動である。帝国主義的抑圧者に対するいかなる被抑圧民族の運動も正義の運動である。そして、こうした運動の指導者たちが、こうした運動を政治的・組織的に帝国主義と結びつけて裏切りを行うかもしれないという事実は、これらの指導者たちを非難する理由とはなるが、こうした運動を批判する理由とはならない」。

五つの異なった戦争


 ここで、このもっと弁証法的で、もっと正確なレーニン主義的観点から第二次大戦の問題を見れば、われわれはそれが実際のところきわめて複雑な作業だったと言わなければならない。私は、やや強調し過ぎるという危険を犯して、第二次世界大戦は、現実には五つの異なった戦争の結合であったと言いたい。それは一見すれば突飛な主張であるかのように思えるかもしれないが、より厳密に調査すれば立証されるだろう。
 第一に、ナチス、イタリア、日本帝国主義を一方とし、英米仏帝国主義を他方とする帝国主義間戦争が存在していた。それは反動的戦争であり、帝国主義諸国の異なったグループ間の戦争であった。われわれはこの戦争に何の関わりも持たず、それに全面的に反対した。
 第二に、抑圧された半植民地国である中国の民衆による、日本帝国主義に対する自衛という正義の戦争が存在した。どの時点においても、蒋介石のアメリカ帝国主義との同盟は、中国の戦争の性質に関するあらゆる革命家たちの判断を変更することを、正当化するものではなかった。それは中国人民を奴隷化しようとする日本帝国主義の盗賊団に対する民族解放戦争であった。トロツキーはこの点に関して完全に明確であり、いささかのあいまいさもなかった。この独立戦争は、第二次大戦以前の一九三七年に始まった。ある意味でそれは日本が満州に侵略した一九三一年に始まり、第二次世界大戦とからみ合うことになったが、第二次大戦とは分離した自立した要素をとどめた。
 第三に、帝国主義に対する労働者国家ソ連の国家的防衛という正義の戦争が存在した。ソビエト指導部が、西側帝国主義と軍事的にだけではなく――それは完全に正当である――政治的にも同盟を結んだという事実は、決して正義の戦争という性格を変えるものではなかった。ドイツ帝国主義に対してソビエト連邦を防衛するためのソビエトの労働者と農民、そしてソビエト人民とソビエト国家の戦争は、いかなるマルクス・レーニン主義的観点から見ても正義の戦争だった。この戦争においてわれわれは、いかなる留保や疑問を付けずに、一方の陣営の勝利を一〇〇%支持した。われわれはドイツ帝国主義の殺人的強盗に対するソビエト人民の勝利を一〇〇%支持した。
 第四に、英仏帝国主義に対して、ある時には日本帝国主義に対して、そしてまたある時には交互に連続した形で両者に対して、大衆が開始したアフリカとアジアの抑圧された植民地人民の民族解放という正義の戦争(ラテンアメリカではそうした戦争はなかった)が存在した。帝国主義諸国のそれぞれの固有の性格にもかかわらず、これらの民族解放戦争もまた完全に正当なものだった。
 われわれは正しくも、日本、フランス、オランダの帝国主義に対して次々に闘ったビルマ、インドシナ、インドネシアのゲリラの勝利を支持するとともに、英帝国主義に対するインド人民の決起、そして小規模に始まったセイロンにおける決起の勝利を支持した。フィリピンでは、状況はさらにいっそう複雑だった。私はここで詳細に踏み込むつもりはないが、基本的な点は、こうしたすべての民族解放戦争は、その政治指導部の性格にかかわらず正義の戦争だったということである。この闘争の正しさを認識するためには、ある特定の闘争の指導部に信頼を置いたり、政治的支持を与えたりする必要はない。ストライキが信用できない労組官僚によって指導されている時、人は彼らにいかなる信頼も置かないが、そのストライキへの支持をやめることもない。
 さて最も複雑な五番目の戦争についてである。私はそれがナチ帝国主義に占領された欧州のすべてで行われたというつもりはない。それはとりわけユーゴスラビアとギリシャという二つの国、かなりの範囲でポーランド、そして初期的段階としてフランスとイタリアで戦われた。それは抑圧された労働者、農民、都市プチブルジョアジーによる、ドイツ・ナチ帝国主義とその手先に対する解放戦争だった。この戦争の自立的性格を拒否することは、実際には、西欧の労働者と農民は、その時点で彼らの心情が現にいる奴隷主の代わりに別の奴隷主を持ってくることに対してはっきりと反対するものでない限り、彼らを奴隷化している連中に対して闘う権利はないと語ることを意味する。それは受け入れることのできない立場である。

レジスタンス運動


 この大衆的レジスタンスの指導部がブルジョア民族主義者、スターリニスト、社会民主主義者に握られたままであったら、それが結局のところ西側帝国主義者に売り渡されただろうことは事実であった。運動の指導部からこれらのいかさま師を追放することによって、こうしたことが起こるのを阻むのは革命家の義務であった。しかし、このレジスタンス運動への参加をやめることによって、かかる裏切りを阻むのは不可能だった。
 この第五の戦争の背後にあったものは何だろうか。それは被占領諸国に存在した非人間的諸条件であった。誰がそれを疑うことができるだろうか。決起の真の理由は、フランス人民や共産党指導部の排外主義といった、なんらかのイデオロギー的枠組みであったなどと誰が語ることができようか。こうした説明はナンセンスである。人民は彼らが排外主義者だったから闘ったのではない。人民が闘ったのは、飢えていたから、超搾取を受けていたから、ドイツへの奴隷労働の大量の移送があったから、大規模な虐殺があったから、強制収容所があったから、ストライキの権利がなかったから、労働組合が禁止されていたから、共産主義者や社会主義者や労働組合活動家が投獄されていたからである。
 人民が決起したのはこうした理由からであり、彼らが排外主義者だったからではない。彼らはしばしば排外主義的でもあったが、それが主要な理由ではない。主要な理由は彼らが置かれた非人間的諸条件であり、その社会的・政治的・民族的抑圧であった。それは余りにも耐えがたいものであったため、幾百万の人びとが闘争の道に押しやられたのである。そして次の質問に答えなければならない。それは正義の闘争だったのか、それとも超搾取や抑圧に対して決起するのは間違っていたのか。西側あるいは西欧の労働者階級は、ナチの抑圧とナチの占領の恐怖に対して、闘争を控えたり、受動的であるべきだったなどと誰がまじめに主張できるのだろうか。このような立場は擁護できない。
 したがって唯一の正しい立場は、これもまた一九三九年から四五年にかけて進行していた自律的な側面としての第五の戦争があったと述べることである。正確な革命的マルクス主義の立場(私はそれをいささか言い訳的に語っている。なぜならこの立場は当初からベルギーのトロツキストによって擁護されていたものであり、私は当時それに対して欧州トロツキスト運動の中の右翼的であるとともに極左的な傾向として反対していたからである)は、以下のようなものであるべきだった。すなわち被占領下ヨーロッパにおいてナチ帝国主義に対するすべての大衆闘争と決起を、武装した闘いであれ非武装の闘いであれ、それらを勝利的な社会主義革命に転化するために闘うことである。つまり、西側帝国主義とつながり、実際にそうだったように戦争が終了した時点で現実的には資本主義を維持しようと望んだ闘争の指導部を追放するために闘うことである。

ユーゴの社会主義革命


 欧州において一九四一年に始まったことは、永久革命プロセスの真に新たな改訂版であり、それはレジスタンス運動を社会主義革命に転化する可能性を持っていた、ということをわれわれは理解しなければならない。私は「可能性をもっていた」と述べている。しかし少なくとも一つの例は、現実に生起したことであった。それはユーゴスラビアで起こった。それはまさにユーゴスラビアの共産主義者が行ったことであった。
 彼らがその中で行った官僚的な方法、その中で彼らが犯した罪、その過程に伴った政治的・イデオロギー的偏向に対するわれわれの批判がいかなるものであろうと、彼らが行ったことはまさにそうした社会主義革命への転化であった。われわれはチトーの弁明者になろうとは思わないが、彼が行ったことを理解しなければならない。それは驚嘆に値することだった。一九四一年の蜂起の開始時点で、ユーゴスラビア共産党の活動的参加者はわずか五千人だった。
 しかし一九四五年には、彼らは五十万人の労働者・農民の軍隊の指導者として権力を獲得した。彼らは可能性と機会を見すえた。彼らは革命家として行動した。もしお好みの言い方をすれば、スターリニスト起源の官僚的中央集権主義の革命家として。しかし彼らを反革命と呼ぶことはできない。彼らは資本主義を破壊した。ユーゴスラビアで資本主義を破壊したのは、「冷戦」の結果としてソビエト軍が行ったことではなく、スターリンが行ったことでもない。それを行ったのは、スターリンに対する巨大な闘いを伴ったこの闘争を指導したのはユーゴスラビア共産党であった。
 あらゆる証拠が存在している。ソ連共産党からユーゴスラビアに送られたすべての書簡は「私有財産を攻撃するな。私有財産を攻撃することによってアメリカをソ連への敵対に追いやるな」と述べている。そしてチトーと共産党の指導者たちは、スターリンがああしろ、こうするなと言ったことに悪罵を投げかけたりしなかった。彼らは言葉の歴史的な意味で、永久革命の真の過程を指導し、外国帝国主義の占領に対する大衆的決起――それは階級を超えた基盤で始まった決起だったが、官僚的プロレタリア指導部の下にあった――を、真の社会主義革命に転化した。

フランスでの右翼的誤り


 一九四五年の末にユーゴスラビアは労働者国家となった。一九四四年から四五年にかけて巨大な大衆決起があり、労働者は工場を接収し、土地は農民によって奪取された(後に、過剰な、そして余りにも中央集権的やり方で国家が接収した)。私有財産は大部分が破壊された。ユーゴスラピア共産党が資本主義を破壊したことをだれも否定しない。それが労働者民主主義を弾圧し、さらにはトロツキストとして告発された一部の人びとを射殺するといった(トロツキストというのは事実ではない。ユーゴスラビアには当時もそれ以前もトロツキスト組織の支部はなかった)、それ自身の官僚的方法で行われたとしてもである。またユーゴスラビア共産党は、東欧でなされたような外国の軍隊を伴った一種の官僚主義的行動を通じてではなく、真の民衆的革命、巨大な大衆動員、かつてヨーロッパで見られた中で最も大規模な動員によって、資本主義を破壊したのである。ユーゴスラビアで起こったことについて学習すべきである。ブルジョア著述家が述べているように、どの村でも内乱があったのである。これこそが真実である。それと比較できるのはベトナムだけである。
 したがって、革命家はユーゴスラビアで共産主義者が行ったことを他の被占領諸国でも基本的に行おうとすべきだった、と私は思う。もちろん、官僚化された労働者党と特権的官僚制によってではなく、労働者評議会が直接的に行使する労働者民主主義と労働者権力をもたらす、よりよい方法とよりよい結果をともなって。
 一九四五年に欧州で革命が敗北したのはすべてわれわれの失敗によるものであり、われわれがレジスタンス運動で正しい路線を適用しなかったからだ、と言いたいのではない。それは途方もないことである。かりに最善の路線を取っていたとしても、力関係が現実に存在したものである限り、われわれは成功しなかったであろう。
 共産党とわれわれとの力関係、共産党の威信、共産党とソ連との結びつき、長期にわたる敗北の結果としての労働者の階級意識の低い水準――これらすべてが、トロツキストが大衆運動の指導権をめぐってスターリニストと競い合うことを不可能にさせていた。したがって右翼的、極左的双方の意味においてなされた誤りは、実際には歴史にほとんど影響を与えなかった。それらは、将来においてこうした誤りを繰り返さないために政治的結論を引き出さなければならない教訓というだけである。われわれはこうした失敗のために歴史に影響を与えることができなかった、と言うことはできない。
 こうした教訓は二重の性格を持っている。フランスの二つのトロツキスト組織の一つだったPOI(国際主義労働者党。当時の公式支部)の指導的同志たちは、一九四〇年から四一年に右翼的誤りを犯した。これは疑いない。彼らは私が概括したような本質的に正しい路線から出発して、行き過ぎへと踏み込んだ。この路線の適用は、彼らが「民族ブルジョアジー」と呼ぶ人びととの一時的なブロックをふくむものであった。
 私は、彼らが自らの立場を支持するトロツキーの一句を利用することができたことを付け加えるべきだろう。こうした問題を拙速に判断する前に、そのことを思い起こそう。この一句はトロツキーの最後の論文の最初の部分に出てくる。「フランスは被抑圧諸国に転化しつつある」(訳注2)。被抑圧諸国においては、帝国主義に反対する「民族ブルジョアジー」との一時的、戦術的協定を拒否する原則的理由は存在しない。いくつかの条件がある。われわれはブルジョアジーとの政治的ブロックを形成しない。しかし民族ブルジョアジーとの純粋に戦術的な協定は受け入れ可能である。たとえば、われわれはインドで一九四二年の決起においてそうした協定を結ぶべきだった。それは戦術の問題であって原則の問題ではない。
 POI指導部の立場で間違っていたことは、一時的で危急の情勢から外挿的な推定を行ったことである。もしフランスが恒久的に半植民地国になったのであれば、別の話だ。しかしそれは、戦争の中でのエピソードにすぎない一時的な情勢だった。フランスは帝国主義的構造を持った帝国主義国のままであり、それは多くの植民地人民を搾取し、その帝国をアフリカで無傷のままに維持するドゴール派の活動を通じて継続されていた。たんにフランスの領域内において数年の間に起きたことに照らしてブルジョアジーへの態度を変更するのは、その中に大きな政治的誤りの種子を宿した早まった動きであった。
 それは現実には、実践の上では何ももたらさなかった。フランスのトロツキストは一九四〇~四一年にブルジョアジーとブロックを組むことで「裏切り」を行ったという人びとは、理論的誤りの萌芽と階級闘争における実際上の裏切り的関与との違いを理解していない。それが問題になった時には、ブルジョアジーとのどのような合意も、支持も決して行わなかった。
 ストライキが起こった時はいつでも、フランスのトロツキストは一〇〇%労働者の側に立っていた。それがフランスの資本家に対するものでれ、ドイツの資本家に対するものであれ、両者が結びついたものであれ、ストライキが起こった時はいつでも、彼らはあらゆる場合に労働者の側にいた。そうだとするならどこに裏切りがあったというのか。それはありうる政治的誤りと実際上の理論的誤りを混同するものだ。結果としてそれは、もしかすると深刻な結果をもたらしたかもしれない。しかし現実にはそうしたことはなされなかった。それが誤りだったことは、当然にも私は否定しない。しかし誤りに反対して闘ったPOI少数派の同志たちは、すばらしい活動をしたし、一九四二年までにそうした誤りは取り消され、再び誤りが犯されることはなかった。

極左的誤りと召還主義


 しかし私の意見では、セクト主義的誤りはそれ以上に深刻だった。ここでトロツキスト運動の極左派は、レジスタンス運動内部のいかなる進歩的要素をも拒否し、大衆的レジスタンス、武装した大衆闘争と、大衆を誤導するブルジョア民族主義者、社会民主主義者、スターリニストのマヌーバーや計画との区別を拒否した。この誤りは、大衆の重要な生きた闘いに関することがらへの召還をもたらしたため、よりいっそう重大なものであった。今日にいたっても、被占領諸国における大衆運動を帝国主義と同一視する――彼らは、「ユーゴスラビアの戦争は帝国主義戦争だった。なぜなら民族主義者によって遂行されていたからだ」と述べている――ことに固執する同志たち(「ルット・ウーブリエ」グループのように)は、マルクス主義的方法を完全に修正している。
 彼らは、大衆運動の階級的性格をその客観的ルーツと特徴によって規定するのではなく、そのイデオロギー的基礎によって規定している。これは史的観念論への受け入れがたい後退である。労働者が民族主義的スローガンを掲げて搾取と抑圧に対して立ち上がったとき、諸君は「決起は正しい。スローガンを変えてほしい」と言う。諸君は「決起は間違いだ。なぜならスローガンが間違っているから」とは言わない。スローガンがブルジョア的だからといって決起がブルジョア的になるわけではない。そんな主張は間違いであり、完全に非唯物論的アプローチである。
 トロツキーは、彼の最後の基本文書である一九四〇年の緊急会議の宣言(訳注3)において、まさにこうした誤りに関してトロツキスト運動に警告した。彼は、国家防衛について語る場合でもブルジョアジーと同じようなやり方で労働者を判断しないよう、注意することを指摘した。彼らが語っていることと、それが何を意味するかを区別すること、彼らが使っている言葉ではなく彼らの関わりの客観的歴史的性格を判断することが必要だった。そしてトロツキスト運動のセクト主義的部分がそれを理解しなかったこと、そして幾十万、いや幾百万の民衆を巻き込んだ大激突に召還主義的立場を取ったことは、第四インターナショナルの将来にとってきわめて危険であった、というのが事実である。
 イデオロギー的分野でこうした激突から召還することは、生きた革命的運動にとって完全に自殺行為であった。しかしわれわれはユーゴスラビアに支部を持っていなかった。そしてもし持っていたとしたら、それは幸いなことにセクト主義的なものではなかっただろう。そうでなければ、われわれが今日持っているような権威をともなって、ユーゴスラビアの共産主義者と労働者に語りかけることはできなかっただろう。われわれのユーゴスラビアへの最初の関与はやっと一九四八年になってからであった。それは良い経験であった。したがって今や、われわれはユーゴスラビアで汚れなき旗印とモラル的権威をもって語りかけることができるのである。
 しかしもし一九四一~四四年にユーゴスラビアで「ルット・ウーブリエ」の路線が実践に適用されていたならば、そしてその内戦においてユーゴスラビアのトロツキストが中立の立場にあったならば、われわれは現在自らを誇ることはできないし、第四インターナショナルの綱領を防衛する強い立場にいなかっただろう。実際には、後にトロツキストになったユーゴスラビア共産主義者の一部の人びとは内戦の英雄であった。それは彼らに一定の地位と道徳的権威を与えているのである。そのことは彼らとわれわれが、ユーゴスラビアでトロツキズムについて討論するのを容易にしている。もしわれわれが巨大な内戦の中で受動性と召還という道徳的汚辱にまみれなければならなかったとしたら、今日、われわれは少なくともきわめて悪い立場にあっただろう。
訳注1 一九三五年五月、スターリンと仏外相ラヴァルによって調印された仏ソ不可侵条約。それはスターリンが「民主的」帝国主義フランスと協調し、フランスの軍備拡張を支持するにまで至ったことを示していた。フランス共産党はそれに追随することによって自国帝国主義防衛の立場を強制された。『トロツキー著作集10 一九三四~三五下』柘植書房刊所収「スターリンは、第三インターナショナルの死亡証明書に署名した」を参照。
訳注2 トロツキー「われわれは自己の路線を変えない」(一九四〇年六月三〇日)。『トロツキー著作集1 一九三九~四〇上』柘植書房
訳注3 「帝国主義戦争とプロレタリア世界革命に関する第四インターナショナルの宣言」、『トロツキー著作集1 一九三九~四〇上』柘植書房
(「インターナショナルビューポイント」電子版ウェブサイトより)         

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