地球規模の環境破壊と「新しい労働運動」の進路

九〇年代―労働運動の攻勢を作り出すために

高島義一

 地球環境破壊に抗する闘いは、われわれが社会主義を目指しうる未来を残すとこができるか否かを賭けた闘いである。同時にそれは、社会主義を目指す運動として労働運動が復権しうるか否かを賭けた闘いでもある。現代資本主義の拡大再生産システムとしての「大衆消費社会」の「豊かさ」の幻想を断ち切らない限り、国家と資本から独立した労働運動を作り出すことはできない。以下は、労働運動の再生に向けた討論の素材として提起するものである。

二十世紀最後の十年の闘い

 二十世紀最後の十年間、一九九〇年代は、地球規模で現実化し始めた環境破壊をめぐり、人類が生き残りうるか否かをかけた十年間になるだろう。この十年間に、環境破壊にブレーキをかける方向へと転換する端緒をつくり出すことができなければ、事態はとり返すことができない深刻なものとなるだろう。
七二年のローマ・クラブによる『成長の限界』、八〇年の米大統領報告『西暦二〇〇〇年の地球』などで、“予測”として語られていた地球規模での環境破壊が、いまや深刻な現実となってあらわれ始めてたのだった。
かつて、「世界核戦争による両階級の共倒れ」と「人類の絶滅」の危機が語られた。しかしそれは、いかに深刻なものではあっても、あくまでも政治的緊張と対立の激化を前提とした可能性であった。そしてその可能性は、ペレストロイカと東欧における反官僚政治革命の進行とヤルタ体制の崩壊の中で、急速に薄らいでいる。
これに対して、人類の産業活動、とりわけ帝国主義諸国のエネルギーとその他の資源の大衆浪費が引き起こした地球規模での環境破壊は、すでに進行中の現実なのである。エコロジー問題は、二十一世紀に向けた労働者人民の最大の課題の一つとして浮上した。

1 地球環境破壊と現代資本主義

破局へ向かう行進がはじまった


八八年夏、アメリカの穀倉地帯を襲った大干ばつは、炭酸ガスなどの大量放出による“温室効果”によって、地球全体の気温が上昇し始めていることを強烈に印象付けた。このままで行くと、大気中の炭酸ガス濃度は二十一世紀半ばには産業革命以前の二倍に達すると見られている。その温室効果は、地上の平均気温を三度Cほど、両極では七度から一〇度Cほど上昇させる。大気の流れが変わり、気象は激変し、現在の穀倉地帯は砂漠化する。
八八年アメリカを襲った大干ばつは、その前ぶれと見られていた。ここ百年間で最も暑かった五つの年は、すべて八〇年代に集中している。このうち三つの年に、アメリカはじめ世界の穀倉地帯を干ばつが襲っている。八八年の干ばつでは、“世界のパンかご”アメリカの穀物生産量が、史上初めて国内消費量を下まわった。この間アメリカは、三億トン以上の穀物を生産し、うち二億トンを消費し、残りを輸出に回していたのである。八八―八九年度の輸出は、すべて備蓄されていた大量の在庫によってまかなわれた。八八年の大干ばつが繰り返されない保証はない。むしろ、干ばつはさらに頻発するだろう。
地球生態系を構成する生物は、限られた範囲の温度と湿度に対応しており、急激な気候変動に耐えられない。『西暦二〇〇〇年の地球』は「二〇〇〇年までに地上の動植物のうち五十万種が絶滅する」と述べていた。地球全体の温暖化は、種の絶滅を加速化する。
また、気温の上昇は、両極の氷を解かして水位を上昇させ、海岸に位置する多くの都市や、河口デルタ地帯に広がる多くの農地を水没させ、塩害で使用不能にすることになる。
半導体製造などのハイテク産業や、冷房装置の冷媒として大量消費されるフロンガスその他による、オゾン層の破壊も、すでに深刻な現実となった。南極上空では、大陸全体ほどのオゾンホールが発見されている。研究が進むにつれて、あらゆる予測を上まわってオゾン層の減少が進んでいることが明らかになってきた。
オゾン層の減少は、地表に到達する有害な紫外線の量を増やす。これによって、皮ふがんや白内障が増加し、人間の免疫システムを弱体化させ、さまざまな感染症にかかりやすくさせる。南極上空のオゾンホールが、アルゼンチンやチリ、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドなど、南半球の北部に向けて拡大していく可能性が指摘されている。最も致命的な皮ふがんであるメラノーマの発生率は、紫外線の影響を受けやすいすべての白人種のあいだで増加しているが、オーストラリアではこの五十年間で五〇〇%増加した。
植物も紫外線によって大きな影響を受け、光合成が阻害され、穀物の収量が減るなど重大な影響を受ける。海表で光合成を行う植物プランクトンの打撃は最も大きく、海の生態系が崩壊する。いずれにせよ、オゾン層が全面的に破壊されれば、ほとんどの動植物が生存できなくなる。
工場や自動車、発電所での化石燃料の燃焼によって発生する硫黄酸化物、窒素酸化物が作り出す酸性雨は、すでに北欧やカナダなどの多くの湖を死の湖に変えた。スェーデンでは、十万の湖のうち二万が魚のいない死の湖になっており、一万がその途上にある。さらに酸性雨は、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソ連、中国で、広大な森林を枯らしつつある。
熱帯雨林は、地球的規模で水、酸素、炭素、窒素の循環を助ける決定的役割を果たしている。資源としての有用性は言うまでもない。人工的に放出される大量の炭酸ガスを固定して酸素を放出し、温室効果をやわらげる役割も果たしている。その熱帯雨林が、年間千八百万ないし二千万ヘクタールの割合で減少している。すでに、世界の熱帯雨林の五〇%近くが失われてしまった。このままでいけば、二十一世紀半ばにはすべての熱帯雨林が失われる。
まさに、人類が生存し得る地球環境が、すさまじい勢いで破壊されつつあり、それは人類の未来を、確実に、現実に、急速に閉ざしつつあるのだ。

帝国主義支配と地球環境の破壊


気候まで変えるほどの大量の炭酸ガスを放出し、フロンガスを放出し、硫黄酸化物を放出し、窒素酸化物を放出して、地球環境を破壊している最大の下手人は、帝国主義諸国である。
人口で世界全体の五%しか占めないアメリカ合衆国が、全世界のエネルギーの二五%を消費している。アメリカ、日本、西ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、カナダのサミット参加七カ国だけで、全世界のエネルギー消費量の四五%を独占的に消費している。一人当たりの消費量では、アメリカはインドの三十五倍に達する。このような、帝国主義の大量浪費こそが、地球規模の環境破壊を進行させてきたのである。
現代資本主義は、地球を破壊するほどの巨大な生産力を作り出した。その生産力を生かし、利潤を生み出すためには、生活上の必要性とは無縁の大量消費、大量廃棄による新規需要の創造が行われ続けなければならない。そのために、国家の開発政策を大量浪費社会の基盤作りのために方向付け、あらゆるマスメディアや情報産業を通して新しい需要の「トレンド」を作り出す努力が重ねられてきた。人々の社会生活上の必要性がまずあって、その上で需要が生まれたのではない。あくまでも需要は、資本によって、創出されたのである。
このことを、日本を例にとって見てみよう。八八年度の日本の自動車生産台数は千五百二十四万台。八〇年以来九年連続世界一である。国際貿易摩擦の中で輸出比率は六割弱で頭打ちを続けているだけでなく、貿易摩擦を回避するための現地生産が急増しており、逆輸入さえ始まっている。国内の自動車保有台数も乗用車三千万台、商用車二千万台に達している。生産水準を維持し、拡大するためには、よりいっそう頻繁なモデルチェンジによる使い捨てを促進する以外にない。
家電製品など耐久消費財も同様である。カラーテレビは年産一千七百万台、百世帯当たり百八十台の普及率で、完全に飽和している。ワープロやパソコン、ビデオデッキなどのハイテク製品は、半年あるいは三カ月単位で次々と新製品を出し、購入したばかりの製品を陳腐化させて使い捨てを促進している。かつては耐久消費財であった時計も、カメラも、完全に使い捨ての時代になった。七五年に五千七百万個だった時計の生産台数は、八五年には二億六千万個に達した。もし国内消費でこの生産水準を維持するためには、日本人一人が年間ニ・二個の時計を“消費”しなければならない。

現代資本主義と大量浪費の構造


単なるモデルチェンジによる使い捨てだけでなく、国家の政策によって大量浪費が方向付けられる。八七年四月、中曽根自民党政府は国鉄分割・民営化を強行した。四万五千人の労働者が首を切られ、全国各地の地域住民の生活を支えていたローカル線をふくむ二千キロの国鉄線が廃止され、貨物部門の大幅な縮小が行われた。
国鉄分割・民営化の二カ月後、四全総が閣議決定された。その中心は、全国を高速道路のネットワークでつなぐ「交流ネットワーク構想」で、八八年に四千五百キロの高速道路を一万四千キロに伸ばすというものだ。これにもとづいて八八年度に始まった第十次道路整備五カ年計画には、五十三兆円の巨費が投じられようとしている。
窒素酸化物による大気汚染は、年ごとに悪化し、発表されるたびに「最悪の記録」を更新している。東京都の場合、排出される窒素酸化物の六七%が、自動車による。このような巨大な高速道路網の建設は、大気汚染をさらに深刻化させずにはおかない。
にもかかわらず、高速道路網の建設は、鉄鋼、セメント、石油化学など基礎素材から自動車など耐久消費材にいたる多様な商品の需要を創造する大きな波及効果を持ち、人的移動と物流の促進による市場拡大という経済効果を持つ。エネルギー効率で言えば、同じ輸送量を達成するために、乗用車は鉄道の六・九倍、貨物輸送ではトラックは鉄道の七・五倍のエネルギーを消費する。それは輸送効率の上からは浪費である。しかしそれはGNPを拡大し、資本の利潤を増大させるのである。
日本が世界最大の熱帯材輸入国であり、熱帯林破壊の主犯であることは有名である(本誌八九年七月三十一日号「環境サミットの反動的意図を暴く」高島義一を参照)。日本一国で、EC全体の輸入量を超える。木材輸入量のうち三三%がパルプ用である。紙需要はここ数年、著しい伸びを示している。需要の伸びの最大の要素はもちろん産業用で、七五年の新聞用が百九十九万トンから八八年の二百六十二万トンへ、出版業界が百十七万トンから百九十一万トンへ、印刷業が百二十万トンから三百十四万トンへと激増した。
新聞の需要増は増ページ競争によるものだが、増ページによって増えたのは企業広告だった。新聞紙面のほぼ五〇%が広告である。
最大の需要増を見せた印刷業用もまた、不動産から自動車、家電製品のカタログ、パンフレット、新聞折り込み広告、ダイレクトメールなど、企業広告である。使い捨てを促進するための頻繁なモデルチェンジ、次々に繰り出される「新製品」の洪水が、紙需要を激増させているのだ。オフィスオートメーションの進行もまた、紙需要を急増させている。これが、人間の文化的向上のためでないことは明白である。あらゆる資源の浪費を促進する手段として広告が激増し、そのために森林の乱伐にますます拍車がかかっていくのである。
最大のエネルギー消費産業は、電力産業である。IEA(国際エネルギー機関)加盟国全体で、電力産業は第一次エネルギー需要の三五%を消費している(八三年)。最終エネルギー消費のうち、電力は一六%にすぎない。電気は便利なエネルギーだが、火力発電で熱効率が四〇%、原発なら三〇%にしかならない。投入したエネルギーの三分の二以上が、廃熱として捨てられてしまうのである。
電力も、需要をはるかに超した生産能力をもち、固定費が高い原発をフル運動させるために、火力、水力の稼働率を急減さざるを得なくなった。たとえば九州電力では、八七年には二百九十万キロワットの原発の設備利用率が八一%に達したのに対し、五百十六万キロワットの石油火力原発と労働者発電の設備利用率はわずか九%であった。需要の減る冬などには、すべて止めても原発だけで電気が余ってしまう。だからこそ、危険きわまりない出力調整実験が、四国電力のように公然と、あるいは、東京電力のようにひそかに行われてきたのである。
そのうえ、需要の七〇%以上を占める産業用が、高電気料金を逃れるため自家発電による熱電力供給に向かっている。従って電力資本は政府と一体となって家庭用の電力需要の拡大に必死になっているのである。その最大の柱が、家庭用電灯線の電圧を二百ボルトにあげることである。そして都市ガスやLPGに代わる調理用熱源、灯油暖房に代わる電気暖房、電気温水器をはじめ、家庭エネルギーのすべてを電化しようとしている。
通産省・資源エネルギー庁は八八年に「電力二百V利用懇談会」を設置、自民党も政調会商工部会に「二百V利用促進研究会」を設置した。一九九五年までに、全家庭の六~七〇%を二百ボルト化し、電力の大量消費を促進したいというのが目標になっている。
ここにあげたのは、一部の例にすぎない。このような社会と経済のあり方が、すさまじい量のエネルギーと資源を浪費し、地球規模での環境破壊を現実化させてきたのである。

持続不可能な経済・社会体制


地球規模での環境破壊が急速に現実化しつつあるにもかかわらず、この環境破壊に最大の責任を負う帝国主義において、“経済成長”は全般的に是認されている。「経済成長GNP〇〇%」は、当然のようにプラス概念として、良いこととして受け取られている。
しかし、このようなことが持続不可能であり、このような経済・社会のあり方を全世界に広げることが不可能であることを、地球規模に広がった環境破壊の現実そのものが動かしようのない形で突きつけている。たとえば、アメリカの自動車保有台数は一億五千万台、一・四人に一台の普及率である。これに対してたとえば中国では、千四百人に一台である。五十億人の地球全体がアメリカ人なみに車を持つと、現在六億台に迫っている自動車の数は、三十五億台と一挙に六倍増すことになり、それだけで世界の総エネルギー消費量を上回る。これに自動車を作るエネルギー、設備投資その他を加えると、現在の世界のエネルギー消費量を優に数倍する。
これは一挙に地球環境に壊滅的な打撃を与えるだろう。炭酸ガスの激増による温暖化、酸性雨の激化に加え、フロンガスによるオゾン層破壊の一層の深刻化が進行する。フロンの一人当たり使用量はアメリカが最大だが、その消費項目のうち最大の三九%が冷媒で、その中心がカーエアコンである。
このような、全地球化することの不可能な規模でエネルギーと資源を、帝国主義諸国が独占的に浪費し、地球環境に取り返しのつかない打撃を与える一方で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの貧しい諸国を中心に、七億七千万人もの人々が栄養不良の状態に置かれ、千四百万人の子供たちが毎年飢餓からくる病気で死亡しており、十三億人もの人々が清浄な飲み水を確保する手段もなく、一億人以上がホームレスの状態であり、読み書きのできる程度の教育さえ受ける機会を持たなかった八億八千万人の成人が存在している。
帝国主義諸国では、飼料穀物による畜産が中心になっているが、この方式で牛肉を一キロ生産するには七キロの穀物を必要とする。このようなアメリカ型食生活(飼料穀物による食肉と乳製品などを中心にした三千二百カロリー以上の過剰カロリー摂取―アルコールは除く)を全世界化すると、世界の全耕地で十二億人しか養えない。“飽食の時代”が言われだして久しい日本では、年間二千五百万トンの穀物をはじめ、膨大な食料品が輸入され、一千万トン以上の残飯が捨てられている。食糧消費においても、帝国主義的食生活を全般化し得ないことは明白である。

「発展しすぎた世界」


「われわれは先進世界なのではない。実際には発展しすぎた世界である。後進地域を抱えている世界での経済成長は、基本的には人間の社会的、道徳的、体制的、科学的な成長と相反するものである。歴史の流れの中で、現在われわれは極端に困難な決定に直面している。地球上で人間の生活が始まって以来、はじめて人間は自分ができることを慎むことを要求されている。また、経済的、技術的な発展を自制するか、少なくとも以前とは違った方向をとることが要請されている。地球上にあらわれる未来のあらゆる世代のためにも、不幸な人々とともに、幸せを分かち合わなければならない―それも、慈善的な精神からではなく、必要という精神からである」。
これは、現在のエコロジストの主張ではなく、七四年に発表されたローマクラブ第二レポートである。ローマクラブは、ブルジョア的民間研究機関で、当時、経団連会長植村甲午郎はじめ、東京電力会長木川田、関西電力会長芦原、NEC社長小林、日立製作所会長駒井など、日本独占資本を代表する人物がメンバーとして名を連ねていた。第二レポートの日本語版あとがきを書いたのは土光敏夫であった。
このレポートの美辞麗句とは裏腹に、「発展しすぎた世界」の一つとしての日本経済はさらに肥大化した。八五年には一国で世界の船舶の五二%、自動車の二七%、粗鋼の一五%、合成ゴムの一三%など、主要工業製品が軒並み世界総生産の一割を超えることになった。日本は人口で世界の三%、可住地面積では世界のわずか〇・一%を占めるにすぎない。可住地面積当たりのエネルギー消費量では、世界最大のエネルギー消費大国アメリカの九・六倍である。
また「不幸な人々とともに幸せを分かち合う」どころか、世界中から富をかき集め、世界最大の債権大国となった。世界銀行によれば、中東産油八カ国を除く「途上国」の債務残高総額は七〇年代前半には二千億ドル以下であった。しかしそれは、七〇年代後半に、世界的景気後退で投資先を求める帝国主義・金融資本の積極的貸付で急増し、八〇年代に入って債務危機が顕在化することによって増加率は鈍化しながらも増え続けた。八八年末には一兆二千億ドルを超えた。このため、利払いが急増し、八四年には債務返済額が貸付額を上回り、以後それが恒常化した。八八年には、累積債務「途上国」から帝国主義世界に、四三〇億ドルが流出した。帝国主義は、病人のふとんまではぎ取る高利貸しとなった。
七〇年代後半から八〇年代にかけて深刻化した「原料危機」による第一次産品の値の崩壊によって、帝国主義は原材料を買いたたき、それを通じてますます富み、第三世界をますます貧しくした。帝国主義諸国に富が移転し、貧困化が進み、累積債務が重くのしかかればのしかかるほど、外貨を稼ぐために輸出圧力がかかり、さらに第一次産品価格が崩落し、熱帯雨林をはじめとする資源の破壊、強奪が激化する。
このような、明らかに持続不可能であることを自ら熟知した経済成長を帝国主義・独占資本が続けることによって、そしてこの経済成長の過程で第三世界を徹底的に収奪し尽くすことによって、今日の地球規模の環境破壊が現実化したのである。
米環境保護庁の報告では、地球温暖化を防止するためにはただちに炭酸ガスなどの排出量を六〇%も削減しなければならない。しかも、帝国主義に比べて極度に低いエネルギー消費水準に抑えつけられている第三世界の消費量を大幅に増大させる必要があるとすれば、帝国主義工業国ではさらに徹底した削減が必要になる。しかし、大量消費を続けない限り自己を維持できない帝国主義・独占資本にとって、それは不可能である。不可能だからこそ、事態がここまで深刻化したのである。二十世紀最後の十年間は、人類が生きるに値する未来を残しうるか否かを問う十年間となるだろう。地球の未来を守るためには、帝国主義の支配を打倒しなければならない。

地球の未来を守る戦いの最前線


地球の未来を守る闘いの最先頭に立っているのは、第三世界の人民である。アジア、アフリカ、ラテンアメリカで自らが生きるために、貧困と闘い、環境破壊と闘う草の根的なコミュニティー運動が広がっている。
ブラジルで、アマゾンの熱帯雨林破壊に抗して闘っているのは、先住民であるインディオ数十部族と、五十万人に達するゴム採取農民である。皆伐に抗して、老若男女が道路を占拠し、地主に雇われた殺し屋のテロに抗して、部分的にではあれ政府の政策を変更させ、土地の破壊を食い止めることに成功し始めている。
インドネシア、タイ、フィリピンの熱帯雨林を事実上全滅させた日本資本が、現在皆伐を続けているのが、マレーシアである。マレーシア木材生産の四割を占めるサラワクでは、すでに三〇%に当たる二百八十万ヘクタールが伐採され、残るほぼすべての五百八十万ヘクタールに伐採の許可が出されている。これに抗する先住民の闘いは、すでに数百人の逮捕者を出しながら断固として続けられている。
「自助コミュニティ建設の世界最大の成功例は、たぶんリマのビラ・エルサルバドルだろう。ここでは、市民が五十万本の木を植え、二十六の学校、百五十の託児所、三百の共同炊事場を建設し、数百人の巡回ヘルス・ワーカーを組織した。その町は非常に貧しく、人口も三十万人にまで急増したのにもかかわらず、非識字率はラテンアメリカで最低の三%にまで低下し、乳児死亡率は国の平均を四〇%も下回っている。この成功に主に貢献したのは、女性グループの広範なネットワークと、ブロックごとの代表者レベルにまで浸透した隣保組織の民主的な運営組織である」(レスター・R・ブラウン『地球白書89―90』)。
世界でも有名な森林保護のための地域活動であるインドのチプコは、材木会社の伐採を木に抱きついて阻止した地元の女性たちの闘いから始まった。この運動は、資源保全を超えて生態系の管理や修復へと進んでいる。
ケニア女性国民会議が呼びかけたグリーンベルト運動は、百本を超す木の植えられた千のグリーンベルトとなって育っている。
インド、インドネシア、バングラデシュ、フィリピン、スリランカなどのアジア諸国、ケニア、ジンバブウェ、ブルキナファソなどのアフリカ、ブラジル、メキシコ、ペルー、ニカラグアなどのラテンアメリカ諸国で、それぞれ数千、数万、あるいは数十万の草の根自助組織があり、数万、数十万、数百万の人々を組織しており、自ら生きるための闘いを通して、環境破壊と闘い、地球の未来を守るために闘っている。
これらの運動の最大の特徴の一つは、女性が中心的役割を果たしていることである。これらの社会では、女性が料理、水や燃料の調達、子育ての全責任を負い、農作業の半分以上の責任を負っている。この重圧が、女性たちを結束させており、運動の前進はこれらの社会の男支配に抗する女性の団結を作りだしている。
しかしこれらの闘いが、帝国主義の投資計画、ODA(政府開発援助)をも通じた経済支配と収奪を、それ自身として根本的に断つことは困難である。資金の流れだけでも、毎年三百億ドル以上も帝国主義諸国に流出するような状況のままでは、個別の第三世界の闘いは限界に突き当たらざるを得ない。世界的な支配体制の壁に直面することになるのである。
問われているのは、帝国主義諸国内部から、第三世界人民の闘いに連帯する運動を、いかに作り出すのかということである。

帝国主義国人民が問われる


帝国主義国の労働者人民は、資本主義の拡大再生産システムとしての“大衆消費社会”の中で、このシステムを是認し、強いられた大量浪費を“豊かさ”と等値することを通して、資本主義支配を自ら安定させる役割を果たしてきた。そして、それによって結局のところ、人類の未来を食いつぶし、地球規模での環境破壊を現実化し、さらに第三世界人民に重大な惨害を押しつけてきたのである。二十世紀最後十年間を、このような構造から帝国主義労働者人民が意識的に離脱する十年間にしなければならない。
この間、官僚的に堕落した労働者国家も、地球規模での環境破壊を促進する役割を果たしてきた。これらの諸国では、大気汚染や水質汚染をはじめとする環境の危機は、おしなべてきわめて深刻である。官僚的非効率と原価計算を無視したデタラメな価格体系による原材料とエネルギーの浪費、産業活動が生み出す最終的結果に責任をとろうとしない官僚的無責任、人民による異議申し立てを許さないスターリニスト官僚の権力独占など、官僚支配の複合した諸要素の作用によって、環境破壊は激化するままにほとんど放置されてきた。
しかしいま、東ヨーロッパとソ連邦全体を貫いて決定的な勝利の一歩を印しつつある反官僚政治革命の進行は、このような状況から根本的に転換する主体的可能性を作り出した。官僚支配体制を打倒して社会を自らの手でコントロールしようとする闘いを開始した東ヨーロッパ、ソ連邦人民は、環境を守る闘いにおいてもまた、巨大な前進の可能性を手にしている。反官僚政治革命の過程が進行するすべての国々において、エコロジー運動の政治グループが大衆的に登場しており、あるいはこれらのグループが、官僚の権力独占を打ち破る上で大きな役割を果たしている。
この意味においても、問われているのはまさに帝国主義国の労働者人民なのである。

支配の拡大生産システム

資本の支配への正統化


エコロジーを守る闘いは、単なる平板な“全人類的課題”ではない。それは、この闘いが帝国主義支配と本質的に対決するという以上の、労働運動にとってきわめて大きな意味を持っている。帝国主義国の労働者人民は、第三世界や労働者国家人民に対して、環境を守る闘いの道義的主義責任を問われているというだけではない。
帝国主義諸国において、たとえば総評の解散と連合への吸収合併や、イギリス炭鉱ストの敗北に象徴されるように、労働者階級の国家と資本からの独立性が改良主義的水準においても解体され、労働運動は全般的に後退局面にある。この、後退局面にある帝国主義労働運動を再建する鍵を、エコロジー運動が握っているのである。
資本の支配は、単に国家の暴力装置によって維持されていてるわけでなく、圧倒的多数の労働者人民が総体としての資本主義経済システムに同意し正統化することによって、国家権力を通じた階級支配が“公”としての共同幻想となる。この同意と正統化が前提になっている限り、労働者政党が政権の座についても、資本の支配はゆるがない。西ヨーロッパ各国で繰り返し成立した社民党(労働党)政権の経験も、この事実をはっきりと語っている。
現代資本主義は、この同意と正統化を維持し、強化するシステムを、労働過程と労働力商品再生産過程としての消費過程の双方をつらぬいて、著しく発展させた。

労働過程の変化と階級意識の解体


帝国主義諸国において、労働過程の自動化が進行し、労働力が節約される一方で、管理・流通部門の拡大と、国家機構の肥大化にもとづく公務員の増加によって、“サラリーマン”的労働者の比重が高まっていく傾向が存在する。
このような“サラリーマン”的労働者の労働の主要な内容は、自ら資本の価値増殖の意志を体現し、“消費者”としての他者の意志に働きかけるというものである。セールスマンの労働は、文字通り資本の意志を体現して“消費者”の意識に働きかけ、資本の生産する商品への欲求を“生産”する。広告代理店からマスコミ・出版など情報産業の労働もまた、資本の要求にもとづいて次々に「トレンド」を作り出し、“消費者”の欲求を次々に“生産”するものである。多くの管理労働、事務労働者は、他の労働者(大企業では社内、下請け、孫請けの、多国籍企業では海外)の行動を資本の意志に基づいて規制し、管理する役割を果たす。管理労働の判断基準は、価値増殖の円滑な実現である。
帝国主義本国においては、多国籍企業化による生産の海外移転によって、このような過程に拍車がかかっている。いまや、本国には管理・販売部門、研究開発部門しか残っていない企業は珍しくない。これらの労働者の労働は、海外工場から最高の価値増殖を実現するために海外の労働者の労働を管理し、生産された商品に対する“消費者”の欲求を“生産”することであり、新しい欲求を生み出しうる“新商品”を開発することである。
このように、資本の意志を体現して他者に働きかける労働の範囲が広がることによって、労働者の意識が資本の意志に従属し、一体化していくことは避けられない。
本来、このような資本に強制された労働は、これ自身として個々の労働者にとって苦痛であり、意味をはく奪された労働である。ところが、労働者の意識が資本の意志に従属していくにしたがって、資本の意志を体現し、それを実現することによって“自己実現”するという転倒した状況さえ発生する。このような、労働過程の変容に基礎をおいた労働者の意識の変化を、サラリーマン的労働者から生産的労働部門の労働者にも拡大すること。ここにいわゆる“日本的経営”の意味がある。すなわち、全労働者階級のサラリーマン化である。日本人の“働き中毒”が指摘され、毎年数千人に及ぶ過労死が社会問題になっているが、それは単なる強制によるものでない。資本の意志を体現した労働を通じた“自己実現”という転倒が生じることによって、超長時間労働に耐える精神性が生まれていることが、その大きな背景のひとつである。
様々なイベントや企業メディアを通じて労働者の意識を資本の意志と一体化するための“動機付け産業”が、一個の“産業”として成立する時代である。そしてこのような企業と労働のあり方と調和しえない労働者の意識は、社会問題化、あるいは闘争化させないように“メンタルヘルス”で個的に処理する。
このような労働過程の変化にもつづく労働者の意識の資本との一体化こそ総評労働運動解体の背景のひとつであった。このような点においてわれわれは、七〇年代における第四インターナショナル全体の共通見解でもあった同志エルネスト・マンデルの次のような主張が、もはや正当性を持っていないことを認識しなければならない。
「十月革命後の生産力低下の主たる原因の一つは、専門的インテリゲンチアおよび経営幹部職の生産から離脱およびその妨害が一般化したことにありました。ついでながらエンゲルスは、先進工業国においてさえ、このことが社会主義革命の多かれ少なかれ普遍的な特徴となるのではないかとうい深い疑念を表明しています。しかし一九六八年五月以来多くの人たちが指摘しているように、今日の西ヨーロッパではこうしたことは最もありそうにないことです。というのは、専門的インテリゲンチアが遂行する労働の性格が根本的に変わってしまったからです。彼らの労働は、第三次技術革命の結果、生産過程にますます深く組み込まれるようになっています。インテリゲンチアがますますプロレタリア化してゆくのにつれて、専門的労働者はますます労働市場の諸法則の対象となってゆき、この結果、まずその実践的行動において、次いでその意識において、他の労働力の売り手と自己を同一視するようになる「傾向があります」(『マルクス主義と現代革命』柘植書房)。
このきわめて楽観的主義的主張とはほとんど逆の状況が、労働戦線内において生じていることは明らかである。

「大衆消費社会」の確立と肥大化


このような、資本の支配に同意しこれを正統化するシステムは、労働力商品再生産過程としての消費過程、生活過程においても、いちじるしく発展した。日本における戦後労働運動の解体、西ヨーロッパでも進行している労働運動の全般的後退は、アメリカ型「大衆消費社会」の確立とその肥大化の進行と一体であった。
労働力商品再生産過程としての消費過程、生産過程は、いまや消費財生産資本、流通資本、情報・コミュニュケーション資本、医療資本、教育資本などによって、そのあらゆる隅々まで支配されており、自己の欲求を資本によって提供される諸商品を通してしか充足させることができないという状態が作り出されている。そしてその大衆の“欲求”そのものが、広告代理店や新聞、テレビ、ラジオのネットワークを通じて形成された大衆“文化”によって作り出され、支配され、管理され、操作されている。
ここで作り出される欲求は、単なる道具としてのモノへの欲求ではなく、「差異への欲求」である。それはひとことで言えば次のようなものだ。「ある製品がすべての人に入手できるようになったとたんに、特権を持つ人びとのみが入手できる『よりよい』製品の提供によって、再び不平等が作り出される。この『よりよい』製品は、誰にでも入手できる製品を廃品に追いやり、価値を低下させ、それしか入手できない人びとの『貧困』の原因をつくり出す。ますます高度化するレベルでの不平等の再生産――つまり貧困と特権の再生産――は、需要を無限に生長させるための欠かせない条件である」(アンドレ・ゴルツ)『エコロジー共働体への道』)。
“大衆消費社会”において、このような差異性は、商品の使用価値の道具性に関与しない二次的、周辺的部分で肥大化させられてきた。たとえば自動車のひんぱんなモデルチェンジ、移動手段としての具体的使用価値と関係のない多品種化、ファッション化は、十五年から二十年の耐久年数のある乗用車を五年ごとに買い替えさせるためにこそ不可欠なのである。
生活過程のあらゆる側面が、資本の提供する商品を通じて充足され、しかもそのあらゆる領域で差異化が肥大化することを通して、生活様式や文化の上での階級的差異は後景化する。
かつて日本共産党の「赤旗」に連載された「現代の貧困」という記事の中で、四畳半の部屋で暮らし、毎日の食事は缶詰という青年がフェアレディZという高級スポーツカーを所有し、毎日それをピカピカに磨きたてるのを楽しみにしているという例が紹介されていた。零細企業の未組織労働者であるという地位を、彼は高級スポーツカーを所有することを通して観念的に離脱したのである。まさに資本の提供する商品を所有することが自己表現であり、自己実現でさえあるのだ。それは、差異化による差別を通じた自己実現である。
そしてこれが、女性差別、職業差別(職種―たとえば肉体労働、農、漁業への差別、本工内でもホワイトカラーとブルーカラーの差別、本工、下請け、孫請けの差別)、老人差別、障害者差別、地方差別など、あらゆる差別、分断構造と重層的、複合的に入り組んで、階級支配をあいまい化させ、後景化させている。
このような、資本の提供するさまざまに差異化された商品の消費が、労働者人民(いまや労働者階級のみならず小学生までふくむ)の自己表現であり、自己実現である時、そのような人間の本質的成長や発展とは無関係な消費=浪費の肥大化は、容易に「豊かさ」と等値される。そして労働者は、自らの労働とこのような「消費」と結びつけ、資本の拡大再生産に同意しそれを正統化していく。
資本主義的「豊かさ」への同意と正統化は、貧しさへのべっ視と一体である。それは、このような資本主義的、帝国主義的な消費の「豊かさ」(それはいまや地球環境全体を破壊しようとしている)が、第三世界からの過酷な搾取と収奪によって成り立っていることを自覚させない役割を果たしている。
東ヨーロッパにおける反官僚政治革命の過程の進行は、スターリニスト官僚支配を打倒し社会を労働者人民自身がコントロールしようとする闘いへの挑戦であり、帝国主義国内で闘う自覚的労働者人民を強く勇気付けている。しかしこの過程が、ブルジョアジャーナリズムの「共産主義の破産」とうい宣伝とも結びついて、「社会主義」=「消費物資の貧しさ」に対置する帝国主義諸国の「豊かさ」を強調し、それを通して広範な労働者人民の意識の中に資本の支配への同意と正統化を強めていることもまた冷厳な事実なのである。
このような、労働過程と労働力商品再生産過程としての消費過程における、資本の支配への同意と正統化を打ち破ることなしに、労働運動の国家と資本からの独立をかちとることはできないし、ましてや資本の支配を打倒することもまた不可能である。
そして、この資本主義的「消費」の極大化が自己の労働の目標となり、そのために「大幅値上げ」要求が繰り返される限り、資本の支配と根本的に対決する意識は生まれようはずがないのである。そのような闘いは、資本の拡大再生産を構造的補強するものとなり、資本にとっても操作可能なものとなる。たとえば九〇春闘の「攻防」の焦点が、八%賃上げか五%程度かにすえられているように。
このような構造全体を拒否し、それに対する闘いが問われているのである。

エコロジー運動と労働運動

資本の支配とエコロジー運動


七〇年代後半に入って、帝国主義世界で労働運動は全般的後退の局面に入った。これとは逆に、西ドイツの「緑の党」に代表されるエコロジー運動が、急速に大衆運動化し、八〇年代後半に至って、ほとんど全西ヨーロッパ規模で一挙に政治勢力化した。八九年のヨーロッパ議会選挙は、エコロジー運動が大衆的政治勢力として西ヨーロッパ各国で登場しつつあることを、はっきりと示した。
その背景は、言うまでもなく温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、熱帯雨林破壊に代表される地球規模での環境破壊の進行であり、このままでは自分たちの、子供の、地球全体の未来がないとうい意識である。
六〇年代後半から全世界で高揚した急進的青年学生運動とともに、反公害運動もまた広がった。日本でも、七〇年代はじめに「水俣病」「四日市」など四大公害裁判闘争に代表される反公害闘争が全国で高揚した。そしてそれは、資本の野放図な環境破壊、毒物たれ流しを規制する上で大きな力を発揮した。
しかしこれらの運動を現在から振り返れば、全体として個別資本による環境破壊から犠牲者を救済することに留っていたと言うことができる。あるいは、資本主義的経済成長の永続を前提にして、またその生み出す「消費」の「豊かさ」を当然の前提として受け入れた上で、そこから排出される毒物の量に一定の枠をはめようとするものに留まっていた。
これに対して現在のエコロジー運動の特徴は、無限に肥大化しようとする「大衆消費社会」の「豊かさ」こそ、地球規模での環境破壊の根本的原因であるということから出発し、そのような「豊かさ」を受け入れてきた生活のあり方、社会のあり方を拒否しようとするところにある。すなわち、現代資本主義の拡大再生産システムから、意識的に自己を切り離そうとするのである。
このような帝国主義的「豊かさ」の犯罪性への認識は、その対極に生み出される第三世界の貧しさと、生きるための闘いとの連帯の意識を育んでいる。さらに、たとえば帝国主義による熱帯雨林破壊に抗するブラジルやマレーシア人民と連帯する行動をはじめ、帝国主義の侵略と搾取・収奪を告発する大衆運動を発展させている。
こうして帝国主義諸国におけるエコロジー運動の大衆的高揚は、現代資本主義の支配とその拡大再生産システムにトータルに対決する運動的・思想的な広がりを獲得しつつある。帝国主義諸国の権力の中に、このようなエコロジー運動の大衆的政治勢力化をこれ以上放置しておくことは重大な政治危機を招きかねないという危機感が生じたからこそ、鳴り物入りで「環境サミット」が開催されたのであり、資本家政府もまたエコロジーを守るために努力しているかのような幻想がふりまかれているのである。

反原発闘争が明らかにするもの


日本でも、このような現代社会のあり方を根本的に問うエコロジー運動が発展しつつある。それを代表するものが、八八年二月、四国電力伊方原発の出力調整実験強行を阻止しようとした反原発闘争の空前の高揚であった。
八六年四月のチェルノブイリ原発事故の放射能は、わずか一週間で八千キロも離れた日本にも降り注いだ。各地の雨水から飲料制限値を超える高い放射能が検出された。牛乳や農産物からも、予想をはるかに超える放射能が検出された。連日伝えられるヨーロッパをおおう深刻な汚染の現実は、事故が起きたらもはや取り返しがつかないということを、事実によって突きつけた。輸入された食品からも、きわめて高く設定された「制限値」を超える放射能が検出され、送り返されるものが相次いでいる。
チェルノブイリから一年数カ月を経て、全国にじわじわと広がっていたこのような不安に、伊方原発出力調整実験が火を付けた。
闘いの論理は、きわめて単純でわかりやすかった。原発を作りすぎたために発電設備が余り、しかも原発で出力調整を行うことがきわめて危険であり、しかも固定費の高い原発をフル運転する方が経営的にも有利であるからこそ、原発がベース電力となり、火力、水力のほとんどが止まるという状況が生じていたのである。しかし冬期など需要の低下する時期には、それでも余ってしまう状態になり始めたからこそ、危険きわまりない原発での出力調整実験を余儀なくされたのである。「それなら原発を止めて。いのちのために、明日のために」。まさにだれにでも理解できる、あたり前の要求であった。
この要求が「五五年体制」の崩壊と右翼労戦再編という政治的圧力によって低迷していた既成の反原発運動の頭上を飛び越えて、一挙に大衆化したのである。
この新しい反原発運動の高揚の背景は、チェルノブイリの直接的影響だけではなかった。それは、環境汚染、有害食品添加物のはんらんや、「過労死」が日常語となるような生命をむしばむ現代社会のあり方への全般的な不安のひろがりと結びついた。
したがってそれは、きわめて自然に、現代資本主義が強制する「豊かさ」の拒否へ、現代社会のあり方への根本的疑問へと向かっていった。原発こそ、不必要なものを必要だといって押つける現代資本主義の象徴であった。原発を何十基も建設することによって、GNPは増大する。しかしそれは人民にとって、ただ災いを深刻化させるだけなのである。
また原発は、下請けの原発労働者の過酷な被曝労働を前提に、そのような労働者の差別の上にはじめて成立している。原発の燃料であるウランは、南アフリカのアパルトヘイトとナミビア侵略、オーストラリアのアボリジニーやアメリカ・インディアンなど先住民の生存権はく奪と差別の上に、はじめて採掘が可能となっている。原発は、帝国主義国内部でも、都市の「豊かさ」の対極にある「過疎地」の貧しさにつけ込んで建設され、その核廃棄物もそうした「過疎地」に押つけられようとしている。
こうして、反原発運動に主体的にかかわっていた人々は、原発を通して、現代資本主義社会の「豊かさ」の真の姿とその拡大再生産を成立させているシステムを実感することになったのである。この闘いは、全国に広がり、拡大し、定着した。昨年の脱原発選挙は、反原発運動を担う勢力が国政選挙という大規模な政治戦を闘うまでに成長していることを明らかにした。
これらの闘いの先頭に、第三世界における生存のために環境を守ろうとする闘いと同様に、女性たちが立っていたのは偶然ではなかった。帝国主義諸国の女性たちは、労働力商品再生産労働としての家事労働を大部分を押つけられ、その点からも「暮らし」のあらゆる側面が商品化されていく「豊かさ」のおぞましさを実感しうる位置にいた。そして全般的な政治的・社会差別と抑圧から、資本の論理に支配された「会社人間」を中心とした「男社会」として成立する現代社会のあり方への根源的疑問と告発、闘いへと向かっていったのである。
このような、エコロジー運動、反原発運動を担う人々、とりわけ女性たちの意識と、たとえストライキで闘ったとしても「大衆消費社会」を前提にそのもとで「消費」の一層の肥大化のために「大幅賃上げ」を要求する労働者の意識と、どちらが資本の論理から自由であるか、どちらが国家と資本から独立しているか、問うまでもないのである。

闘う労働運動の再構築のために


現在、「連合」と対決し闘う労働運動の再構築を目指す勢力の中で、総評労働運動の弱点であった企業主義や男子本工労働者中心主義を克服しようという観点から、「社会的労働運動」という新しい概念が提起されている。ひとことで言えば、総評労働運動を崩壊に導いたこのような弱点を克服するために、圧倒的多数の中小未組織労働者の組織化をすすめ、資本主義の生み出すあらゆる差別・抑圧や社会的腐敗と闘い、反戦・反安保闘争や自民党政府との闘いをも労働運動が自らの任務とするということである。
しかし、全労協や十月会議系の労働者の集会の中でさえ、「日本資本主義は絶好調、資本は大もうけにもうけている。この経済大国日本を築きあげたのは労働者の力だ。だから大幅賃上げをストライキで」というような、旧来の総評労働運動の発想そのままの主張が繰り返されているのも現実である。また、国家・資本の侵略的総路線の一環である臨調・行革攻撃と最も厳しい攻防を闘ってきた国鉄清算事業団闘争の中で、「お父さんを職場に戻して」という男子本工労働者中心主義をそのまま文字にしたようなスローガンがかかげられている。このような総評労働運動の弱点を引きずったままで、国家・資本から独立した闘う労働運動を作り出すことはできない。
闘う労働運動は、エコロジー運動や反原発闘争を真に自らの課題として担いぬき、それを通してその中で生まれつつある思想的・運動的広がりをわがものとしなければならない。「社会的労働運動」の実践が問われているのである。
われわれは、「大衆消費社会」の「豊かさ」とは何なのかを、あらためて問わねばならない。往復三時間もかけて満員電車で通勤し、「過労死」が日常語と化すほどの長時間過密労働に耐え、その代償として、つかの間の「個的空間」を得る手段ないしステータスシンボルにすぎぬファッション化されたマイカーを持ち、「ウサギ小屋」にはパソコンをはじめ置き場もないほどの電化製品を持ち、地域で遊ぶ空間を奪われた子供たちはファミコンゲームとだけ“友情”を結び、食品添加物に満たされた加工食品のはんらんと飽食の果てに、小学生の中にさえ高血圧、動脈硬化などの成人病が広がっている。
大気は汚染され、窒素酸化物の濃度が年々「最悪」の記録を更新し、清浄だったはずの地下水はハイテク工場からたれ流される発がん性化学物質で汚染されている。たまの「気晴らし」には、文化・情報資本が提供する「文化」商品を受動的に消費するか、観光資本が乱開発した商品としての「リゾート」を消費する。
このような「豊かさ」の結果、日本経済は国内だけで年間、金属くず一億千二百五十万トン、鉱さい七千五百四十万トン、汚泥七千五百七十万トン、廃酸一千百五十万トン、廃アルカリ五百七十二万トン、廃油三百六十万トン、廃プラスチック二百万トンをはじめ、大量のゴミ、毒物を廃棄物として排出している。このような、日本における環境負荷能力をはるかに超える廃棄物・毒物を生産するために、第三世界の環境が耐える範囲をはるかに超える規模で乱開発し、資源を収奪してきたのであり、その結果、いまや地球全体の環境を取り返しのつかぬほど傷付け、破壊してきたのである。
このような「豊かさ」と、それを生み出す現代資本主義の拡大再生産システムを拒否すること、それが「新しい労働運動」の進むべき方向であり、「社会的労働運動」の出発点である。そのためにも、労働運動がエコロジー運動を自ら担い、その成果に学ぶことが求められているのである。
要求されているのは、「より少なく働き、より少なく消費し、より良く生きる」という方向性である。そのために労働運動のあり方、その要求の体系もまた、根本的に組み替えられなければならない。労働時間の徹底的短縮の要求は、その中心になるだろう。資本に管理された労働が生活の主要部分を占めている状態では、多くの労働者が「仕事こそ人生」的意識状況にあるのは当然である。生活の自律性を取り戻すために、労働時間の短縮は絶対条件である。
もちろんこのような転換は「耐乏生活のすすめ」ではあり得ない。帝国主義内部にも、これまで述べてきたように重層的差別構造が存在し、極端な格差が存在し、飢餓やホームレスが存在するからである。だからこそ「社会的労働運動」なのである。
地球の未来のために、そして国家と資本から独立した労働運動を再建するために、反原発運動をはじめとするエコロジー運動を労働者が担いぬこう。二十一世紀を、社会主義へ向かう全世界的攻勢の中で迎えるために。


「世界革命」1990年1月22日号より

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