気候の危機とは資本主義の危機の表現だ
ダニエル・タヌロへのインタビュー
環境のためには資本主義の根本法則への挑戦が不可欠
インタビューにあたって
ダニエル・タヌロの新著『不可能な緑の資本主義』(英語では「緑の資本主義の空論」)は、エコ社会主義に関するわれわれの分析的理解への大きな寄与である。タヌロはベルギーのマルクス主義者で、実績のある農学者であり、環境史および環境政策に関する多くの著作がある。
この本は、書名が示すように、主としてグリーン集団に対して書かれており、資本の利潤追求と蓄積の力学に挑戦しない気候危機解決のための主要な提案に対する強力な反論である。この本の多くは、第四インタ
ーナショナル指導部が国際討論の基調として二〇〇九年に採択したタヌロの報告書を大幅に拡張した改訂版と見ることができる。
タヌロのこの本には、彼の中心的テーゼを詳しく説明する多くの追加資料が含まれている。彼の中心テーゼとは、体制としての資本主義の「自然な」(本来の)機能と気候破壊は切り離すことができないこと、また差し迫っている危機に立ち向かい克服するための有効な「解放プロジェクト」は、自然の制約を認識し、社会的富の意味の根本的再定義を目指さすものでなければならない、というものである。
読者にとって特に興味深い話題は、ジャレド・ダイアモンドからハンス・ジョナスやヘルベ・ケンプに至る気候危機に関する人気のある書き手についての広範な批判、また、ジョン・ベラミー・フォスターやポール・バーケットのようなマルクス主義の書き手の寄与についての批判的評価である。タヌロは、移民管理に関するシエラ・クラブのキャンペーンや、炭素取り引きやエコ税などの費用効率性に基づいた市場メカニズムのような、多くの出来の悪い妙案に対して説得力ある反論を展開している。
この本の主要な特徴は、マルクス主義価値理論がエコロジー的危機をどのように説明し、その解決策を指し示すかについての説得力のある説明である。彼はまた、マルクスのエコロジーの大きな欠陥と彼がみなすところの、非再生可能な石油燃料資源への資本主義の依拠の重大な意味の不適切な評価を取り上げている。この側面は、「資本主義・自然・社会主義」の二〇一〇年一二月号に発表されたタヌロの記事「マルクス主義、エネルギー、エコロジー――正念場」で詳細に探求されている。
この傑出した本を、早く英語や他の言語に翻訳してほしいものである。
右のインタビューで、ダニエル・タヌロはこの本のいくつかの主要なテーマについて概要を語っている。このインタビューは、フランス語の「緑の資本主義について」からの私による翻訳である。(リチャード・フィドラー)
「緑の資本主義」はなぜ空論か
――ダニエル・タヌロさん、あなたは、
Les empecheurs de pense en rond/La Decouverte社によって出版された『不可能な緑の資本主義』の著者です。また、あなたはNGO「気候と社会的正義」の創立者でもあります。「緑の資本主義」とは何ですか――
D・T 「緑の資本主義」という表現は、二つの異なる意味で理解することができます。風力発電機の生産者は、緑の資本主義に従事していると自慢するかもしれない。この意味では、つまり経済の「クリーンな」部門にお金を投資するという意味では、緑の資本主義という形式は明らかに可能であり、かなり儲かるものです。しかし、本当の問題は、資本主義は全体として緑に変わり得るか、つまり、「資本」を構成する多数の競争している資本のグローバルな行動が、エコロジー的サイクル、そのリズム、そして天然資源が再構成される速度を尊重することができるのか、という問題です。
私の本が提起している問題は、この意味においてであり、答えは「ノー」です。私の主要な主張は、競争は資本の各所有者に、平均利潤より高い超過利潤を達成するために労働者をより生産性の高い機械と置き換えることを強制するということです。
このように、生産力主義は資本主義の核心です。シュンペーターが言ったように「成長のない資本主義は言葉の矛盾」です。資本主義的蓄積は潜在的に無制限であり、自然の資源は有限であるので、したがって資本と自然の間には敵対関係が存在します。たとえばGDP一%の生産に必要なエネルギー量の減少が観察されていることに示されるように、生産性競争は資本をますます資源効率的に導くという異議が出されるかもしれません。しかし、この効率の向上の傾向は明らかに直線的に無限に続くことはあり得ず、生産される商品量の増加によって相殺されそれ以上に消費されることをわれわれは経験的に知っています。したがって、緑の資本主義は、社会資本主義と同じように、自己撞着です。
この観察は、二つの正反対の戦略的概念の間の論争を引き起こしました。ある人々にとっては、資本主義の自然発生的エコ破壊的機能は是正することができるものであり、それは市場メカニズム(租税、金銭的奨励策、取引可能な排出権など)にたよることによって体制内の政治的行動を通じて行われます。他の人々にとっては、私も含めて、われわれの政策は資本主義と手を切らなければなりません。なぜなら、環境が守るべきものであるとすれば、資本主義の根本的法則に挑戦することが絶対的に不可欠だからです。これは、この体制の基礎である生産手段としての私有財産にあえて挑戦することを意味します。
私の意見では、これら二つの路線の間の論争は、気候変動に対する闘争の例によって実践の中で決着します。開発の進んだ資本主義諸国では、われわれはわずか二世代の間に化石燃料の使用をほぼ完全に放棄する義務に直面しています。原子力を除外するとすれば(原子力は除外しなければなりません)、これはたとえばヨーロッパにおいては、エネルギー最終消費量を約半分にすることを意味し、これは物資の処理や輸送を大幅に削減することによってのみ可能です。
再生可能エネルギーへの移行とエネルギー消費量の削減は結びついており、費用効率性のドグマにとらわれた意思決定からは思いもつかない大きな投資を必要とします。費用効率性に代わるものは、社会的エコロジー的必要に重点を置いた民主的計画以外にあり得ません。このような計画は、石油、石炭、天然ガス、自動車、石油化学、造船および航空機製造の独占企業の抵抗を打ち破ることによってのみ可能です。なぜなら、彼らは可能な限り長く化石燃料を燃やし続けたいからです。
均衡条件の移行が真の危険
――気候変動はあなたの本の中心問題です。あなたはこの変動を「気候の傾き」と解釈しています。「傾き」とはどんな意味ですか。また、それはなぜ単なる変動よりも心配なのでしょうか――
「気候変動」(複数形の変動)は、過去の変動に似た気候変動の繰り返しを示唆します。しかし、現在と今世紀の終わりの間の数十年間に地球の気候は最後の氷河期からの二万年の間の変化と同じぐらいの変化を起こす恐れがあります。それを越えると六五〇〇万年前に形成された氷冠が最終的に解けるのをもはや防ぐことができない「傾きの点」からわれわれがそれほど遠くないところにいることは今や疑いありません。「傾き」という言葉は、この現実を記述するのに「変動」という言葉より明らかによりぴったりしています。この現象の速度は前例のないものであり、多くの生態系が適応不可能であり、大きな脅威を提起しています。このことは自然の生態系に当てはまるだけでなく、人類が作ったいくつかの生態系にも当てはまることを私は恐れています。
パキスタンで起こっていることを見なさい。英国の植民者が自分たちの帝国主義的利益に都合良く設計したインダス川の水管理メカニズムは、ダムと堤防を使用して広範な灌漑システムを提供するものですが、異常な洪水に直面して不適切であることが分かりました。このリスクはますます増大しています。なぜなら気候温暖化によってモンスーンの型がくずれ、豪雨の猛威が増加しているからです。
世界銀行や公共事業を専門とする巨大資本グループが提案しているような既存のインフラストラクチャーの強化によってこの(温暖化との)競争に勝つことを望むことは、私には幻想に見えます。堤防を建設するよりも、植民地化以前に実践されていた水のレベルの柔軟な管理を回復させる方が合理的でしょう。これは、インターナショナル・リバー・ネットワークが提案していることです。すなわち、洪水が堆積物をきれいに押し流して流域が泥で埋まることを防止することを可能にすること、デルタを養うこと、森林破壊を止めること、洪水を引き受ける地帯を確保すること、などです。
しかし、これには三〇〇〇キロメートル以上にわたるメカニズムの完全なオーバーホールが必要であり、これには土地管理、農業政策、都市政策、エネルギー生産などが大きく関係します。このようなオーバーホールは、二、三〇年で(つまり、このような範囲の作業を非常にすばやく)達成する必要がありますが、社会的には地主寡頭支配の権力への挑戦を意味し、債務を通じてIMFや世界銀行が強制する開発プログラムへの挑戦を意味します。この負債は帳消しにしなければなりません。さもなくば、再建は重い抵当を背負い込むことになり、国は絞め殺され、地球温暖化と低開発のあらゆるメカニズムが相互に結びついて負の影響が増幅していく後退のスパイラルの最初の例となる歴史に入り込む危険があります。
この状況の中に、われわれは社会的問題と環境的問題がいかに相互に絡み合っているかを明確に見ることができます。実際、気候の傾きに対する闘いには、人々の必要を満足させることに重点を置いた開発の別のモデルに向けた政策の転換が必要です。このことなしには、さらに深刻な、もっと恐ろしい破局がもたらされる可能性が十分にあり、その主要な犠牲者は貧しい人々になるでしょう。これこそ、パキスタンの悲劇が発している警告です。
エネルギー転換の障害は政治
――あなたは、南の諸国は開発を進める過程で化石エネルギーの段階を飛び越え、再生可能エネルギーの段階に直接移行する必要があると考えています。再生可能エネルギーは(技術的および量的に)これを行うことができないという異議に対して、あなたはどう答えますか――
私は、そのような異議は誤っていると答えます。地表に到達する太陽エネルギーの流れは、地球のエネルギー消費量の八千倍から一万倍に相当します。技術的に可能な再生可能エネルギー、すなわち、既知の技術によって理論的に利用可能な再生可能エネルギーは(費用は別にして)、推定によれば世界の必要量の六倍から一八倍になります。この技術的可能性は、エネルギー研究政策において再生可能エネルギーの開発がついに絶対的優先課題になれば、急速に拡大することは確実ですが、現在はまだ最優先課題になっていません。再生可能エネルギーへの移行は確かに多くの複雑な技術的問題を提起しますが、それらの問題が克服できないと考える理由はありません。
主要な障害は政治的なものです。第一は、例外なく、再生可能エネルギーは依然として化石エネルギーより高価であることです。第二は、再生可能エネルギーへの移行は、ポンプの燃料を取り換えるような簡単な問題ではないことです。すなわち、エネルギー体系の転換が必要です。膨大な投資が必要であり、移行の当初には必然的に化石エネルギーの消費者が存在し、したがって温室効果ガスの追加の発生者が存在することになります。これらの追加の発生量は相殺されなければなりません。したがって、再生可能エネルギーへの移行には短期的にエネルギーの最終消費量の削減が必須条件になりますが、いったんこれを行えば、新しい地平が開かれます。
繰り返すと、資本主義的利潤と成長という二つが組み合わさった障害に立ち向かうことなしには可能な満足な解決策はありません。これは、特に、北の諸国が支配しているクリーン技術を、公共部門で実施し地域住民の管理の下に置かれることを唯一の条件にして、無料で南の諸国に移転させなければならないことを意味します。
労働は何に向けられるべきか
――あなたは社会的エコロジーを主張し、それをエコ社会主義と呼んでいます。エコ社会主義者とは何ですか。それは「純粋な単純な」エコロジストまたは社会主義者とはどう違うのですか――
エコ社会主義者は、エコロジー的危機を人類一般と自然の関係の危機として分析するのではなく、歴史的に規定された生産様式とその環境との関係の危機として分析し、したがって最終的には生産様式自体の危機の現れとして捉える点で、エコロジストと異なります。言い換えると、エコ社会主義者にとっては、エコロジー的危機は実は資本主義の危機の現われなのです(資本主義的生産力主義を猿まねしている、いわゆる「社会主義」社会特有の危機を見逃すわけではありません)。その結果、エコ社会主義者は環境のための闘いにおいては、常に社会的問題、すなわち富の再分配、雇用などを求める搾取され抑圧されている人々の闘いと結びつける要求を提起します。
しかし、エコ社会主義者は、あなたの言う「純粋で単純な」社会主義者とも異なります。それは次のような点です。彼にとっては、今日有効な反資本主義は、自然の限界と生態系の制約を考慮する反資本主義のみであるということです。これには多くの意味が含まれます。生産力主義や消費拡大主義と手を切ることはもちろんです。社会の展望の中では、基本的必要が満足されること、自由な時間や社会的関係が真の富を構成します。それだけでなく、技術や有害な生産への異議申し立てが、労働者の再転換の要求と結び付けられます。民主的に計画された経済の枠組みの中での生産と分配の最大限の非中央集権化は、エコ社会主義者が強調するもう一つのことです。
強調することが重要だと私が考えることの一つは、農業労働の生産性上昇を社会主義に向かう前進の一歩と見る従来の社会主義者の見方を問題にする必要があるということです。私の意見では、この考え方はわれわれが環境の尊重を高めるという要件を満たすことを許しません。実際、エコロジー的により持続可能な農業や林業は、より少ない労働ではなく、より多くの労働を必要とします。たとえば、生垣、木立、湿地を再形成し、作物を多様化し、有機的生産のために闘うことは、エコロジー的保全の仕事に投入される社会的労働の割合の増加を意味します。この労働はおそらく科学的、技術的に高度なものになり、すきやくわに戻るわけではないが、容易に機械化できないでしょう。
「世話をする」文化(私はこの概念をイザベル・ステンジャーから借用しました)を経済活動に、特に生態系に密接な影響を与える経済活動に浸透させなければならないと私が考える理由がここにあります。われわれは自然に対する責任があります。ある意味で、これは左翼が人の介護、教育などの分野に適用してきた論理の拡張を意味します。看護士をロボットに置き換えるべきだと主張する社会主義者はいないでしょう。われわれはすべて、患者がより良い看護を受けられるように、より良い賃金を支払われているより多くの看護士が必要であることを認識しています。それでは、必要な変更を加えて、同じことを環境に適用してみましょう。より良い世話をすることが必要なら、より多くの労働、知性と人間の感性が必要になります。「純粋で単純な」社会主義者とは反対に、それが困難をともなうとしても、エコ社会主義者は、緊急性を認識しているがゆえに、それを革命後まで延期するのではなく、これらの問題のすべてを搾取され抑圧されている人々の闘いの中に持ち込もうとします。
鍵は抜本的時短と公共部門拡大
――私を含む多くの人々が、気候変動に対する有効な闘いには生産力主義的資本主義と手を切ることが必要であることを確信しています。この意味で、あなたは「社会化された人間、共同化された生産者」に訴えています。彼らは誰ですか。特に何ができるのですか――
あなたがほのめかしているのは、私の著書の巻頭に掲げたマルクスからの引用、「自由は、……自然との相互交換を合理的に調整する社会化された人間、共同化された生産者に存する」ですね。マルクスの思考の中では、交換の合理的調整が資本主義の消滅の条件になっています。実際、一方では、すべてのものが対立しあう闘いは生産者が共同しようとする試みを恒久的に弱めます。他方では、生産者の重要な部分である賃金労働者は、生産手段から切り離されています。天然資源を含む生産手段はボスのものです。決定する権限を奪われている労働者は、生産に関する何ごとも合理的に調整することはまったくできません。自然との交換を合理的に調整できないことは言うまでもありません。
社会的存在となるには、生産者は、搾取者に対する闘いにおいて団結することを始めなければなりません。この闘いは生まれながらにして、生産手段の集団的接収と天然資源の集団的利用の必要性を指向します。これは必要なことであるが、自然とのより調和のとれた関係のためには十分とはいえません。
とは言え、具体的な行動についてさまざまな生産者のグループが、人間と自然の間の相互交換を合理的に調整する必要性をどのように理解しているか、または理解していないかを調べることによって、われわれはあなたの質問に答えることができます。現在、農業企業に反対して動員された先住民や小規模農民たちからエコ社会主義的にもっとも進んだ立場が発せられていることは驚くべきことです。これは偶然ではありません。どちらのグループも、生産手段から切り離されていないか、あるいは完全には切り離されていません。したがって、かれらは環境との相互交換の合理的な調整についての具体的な戦略を示すことができます。先住民の人々は、気候の防衛を、森林と共生する彼らの前資本主義的ライフスタイルの保全に有利な追加の主張と見ています。
ビア・カンペシーナ農民運動の場合は、テーマに関する具体的要求の全体的プログラム「農民は気候を冷却する方法を知っている」を作成しています。これに比べると、労働運動は遅れています。これはもちろん、個々の労働者がそれぞれ自分の生活を維持するために彼を搾取している会社の円滑な活動を望む傾向があるという事実のためです。
結論的に言うと、新自由主義的攻勢に直面して労働者の連帯の後退が大きいほど、労働者の間で環境意識を発展させることは困難になります。これは大きな問題です。なぜなら、労働者階級は、生産における中心的役割のゆえに、環境を救うために必要な反資本主義的オルタナティブのための闘いにおいて主導的役割を果たすことが求められているからです。先住民や農民組織や若者は、気候運動に労働組合を巻き込むことに関心を持っており、共同行動や下部組合員との接触を強めています。労働運動自体の内部においては、雇用、所得、労働条件に関する問題に対処しながら同時に温室効果ガス排出量を削減するのに役立つ要求を推進することが任務になります。
この点で重要な問題は、賃金減額をともなわない、仕事のペースの劇的な低減とこれを補償するための追加雇用をともなった、労働時間の全面的な根本的な削減の必要性です。もう一つの側面は、労働者と利用者の管理の下での公共部門の拡大です。すなわち、無料の第一級の公共輸送、公有エネルギーサービス、公有の建物断熱・改修企業、などです。エコ社会主義者は、このような要求を掲げることを推進するために果たすべき役割を持っています。
終末論的理解は真の脅威を隠す
――『不可能な緑の資本主義』では、われわれが人類の新時代(Anthropocene Era)に入ったこと、特に産業化時代以降の温暖化の暴走の責任が主として人間にあることをいまだに理解しない人々からの、不適切な杞憂(きゆう)であるという非難をあなたは恐れていないように見えます。「持続可能な開発」や「グリーンウォッシング」(訳注)のような緑の資本主義は、この責任を否定したい、「今までどおり続けたい」という欲望を反映しているのではありませんか。生産力主義的資本主義を放棄するのであれば、まず消費者および生産者としてのわれわれの行動を変えるべきではありませんか――
私は杞憂性ではありません。私の著書は、地球温暖化の症状とその考えられる影響に関しては、ほとんどもっぱらIPCCの報告書に基づいています。この報告書で地球温暖化の症状とその影響に関して言われていることは、査読を受けており、「良心的科学」の優れた要約であると私は思います。最近の発見に関してIPCCに多少遅れている点もあるのは本当ですが、これはその所見の多くを変更するようなものではありません。
実は、私はパニックや誇張した主張を恐れています。それはあまりにもしばしば、真の脅威や真の責任を覆い隠す傾向があります。気候の傾き論は容易に終末論に手を貸し、「地球の危機だ」、「生命の危機だ」、「人類の危機だ」、「光合成の天井」がわれわれの頭上に落ちてくる、やその他もろもろを唱える教祖には事欠きません。これらはすべて言いすぎです。地球は何も恐れておらず、地上の生命は非常に強靭であり、人類は、それを望んだとしても、たとえ原爆を使ったとしても、おそらく絶滅させることはできないでしょう。
わが種(人類)については、気候変動自体は人類を危険にさらすことはありません。気候変動がもたらす危険は、もっと限られたものです。約三〇億人が生活条件の大きな悪化をこうむる危険があり、そのうちのもっとも貧しい数億人は生存そのものを脅かされるでしょう。政策立案者はこのことを知っており、だから何もしていないか、ほとんど何もしていません。費用がかかりすぎ、したがって企業の円滑な活動を阻害するからです。これがありのままの現実です。
あまりにもしばしば、破局論は潜在的な蛮行を覆い隠し、あいまいな全体的な罪の意識の中に問題を薄めます。「責任の追及で時間を浪費してはならない」、「われわれはみんな有罪だ」、「みんないっしょに努力しよう」、といった具合です。その間に、エネルギー・ロビーはだまって絶え間なく石炭と石油を燃やし続けています。
このことは、あなたの質問の第二の部分である、生産者および消費者としてのわれわれの行動の変更についての質問に関係します。私が前に述べたことからすれば、被雇用者は生産者としての行動を変えることができないので、それは何の意味もありません。誰が、どのように、なぜ、誰のために、どれだけの量を生産するか、どんな社会的および環境的影響があるか。毎日の生活の中で、ボスだけがこれらの質問に答える権限を持っており、究極的には、彼らは利潤に従って答えるのです。従業員は、利潤以外の基準に従って、経営に異議を唱えより良く行う能力があることを認識するために、経営についてひとこと言ってみることができるだけです。これは労働者管理の力学であり、エコ社会主義者は、環境問題を達成するためにこの古い要求をどのようにふたたび取り上げることができるか、検討する必要があります。
消費については、個人の変化と集団的変化を区別する必要があると私は考えます。全体として見れば、飛行機で旅行する人が別の方法で彼のCO2排出量を相殺することは良いことであるのは確かです。しかし、たいていの場合、この相殺によって、彼がやましくない心を安く手に入れ、しかも不可欠の構造的変化のための政治的闘いから逃れることを許容することになります。この種の行動を奨励すことは「グリーンウォッシング」に従事することであり、実際には「今までどおり続ける」ことを意味します。
集団的変化は別の問題です。集団的変化は、別の可能な論理の妥当性を確認するのに役立ち、オルタナティブな慣行の創出に役立ち、構造的変化が必要であることの理解に寄与し、集団的変化は社会的動員を通じて実現するでしょう。これらの変化、たとえば農民からの有機農産物の共同購入や都市コミュニティー・ガーデニングは、奨励されるべきです。
第三の道は存在しない
――金銭的費用や社会的コストに関係なく、気候の傾きに対して闘うことができますか。別のモデルを構築し社会全体を危うくするリスクを冒すことは、緊急の課題でしょうか。自然と文明の間で、どちらを選ぶべきですか――
もうひとつの気候政策は文明に対して自然を優先させるという名の下に社会全体を危うくするものであるという主張は、現実を転倒させるものです。現実に起こっていることは、現在の政策が文明を危うくしているのであり、しかもわれわれの共通の相続財産である自然に対して巨大な取り返しのつかない打撃を与えているのです。この政策は費用効率性のドグマに完全に従っており、それが何をもたらすかをわれわれは知っています。おろかにも、まっしぐらに壁に頭をぶつけようとしているのです。
もちろん、別の政策においてさまざまな措置の費用が重要でないというふりをすることはできません。排出量を削減する同等の戦略の間では、他の条件が同じであれば、共同体にとって最小コストのものを選ぶのが妥当です。しかし根底には、費用以外の基準に導かれた、特に質的基準に導かれた別の政策がまず存在しなければなりません。技術的用語で言えば、不可欠の基準は、系全体レベルにおけるエネルギー効率性の基準です。
偉大なアメリカのエコロジスト、バリー・コモナーは、二〇年以上まえにこの主張を発展させました。彼は次のように述べました。何千キロも離れたところから石炭を輸送して発電し、これをふたたび何百キロも送電して家庭でお湯を沸かすのに使用することは、熱力学的不合理である。これは太陽熱温水器で容易に行うことができる。社会的用語で言えば、主要な基準は人民とその福祉の保護、特にもっとも貧しい人々の保護です。今日、この基準はひどく無視されており、したがって、とりわけパキスタンの悲劇が起こりました。
――最後に、エコ社会主義的プロジェクトは近い将来実現可能であると考えていますか――
このプロジェクトの実現可能性は、一方の資本主義と他方の搾取され抑圧されている人々の間の力のバランスに完全に依存します。この力のバランスは、現在、資本に有利です。このことをごまかすべきではありません。しかし、第三の道は存在しません。市場メカニズムを通じて気候を守ろうとする試みは、エコロジー的非効率性と社会的不正義を一貫して暴露しています。抵抗以外の道はありません。抵抗のみが力のバランスを変えることができ、正しい方向への部分的改革を強制することができます。コペンハーゲンは第一歩となりました。コチャバンバにおけるサミットは第二歩でした。前進を続け、団結し、動員し、社会的正義の中で気候を守るグローバルな運動を構築しましょう。これは、緑の資本主義の幻想を養っている人々のロビー活動よりもはるかに有効です。(二〇一〇年一〇月七日)
この記事は
climateandcapitalism.comで最初に発表された。
▼ダニエル・タヌロは実績のある農学者でエコ社会主義的環境保護主義者で、「ラ・ゴーシュ」(第四インターナショナル・ベルギー支部LCR―SAPの月刊誌)の寄稿者である。
(「インターナショナル・ビューポイント」二〇一一年二月号)
訳注
グリーンウォッシング。「ホワイトウォッシュ」とは建物の壁などを白く塗る塗料のことであるが、うわべを飾る粉飾を意味する「ホワイトウォッシング」という使い方が生まれた。ここからさらに「グリーンウォッシング」という言葉が生まれた。
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