計画化の「枝」を取り戻さなければならない

エコ社会への移行
計画化のない移行は実行不可能 民主主義欠く計画化は有害無益

ミシェル・レヴィ

 Attacフランスの発行物の、年二回刊評論誌「ル・ポシブール」は最新号(二三号)で、エコロジー的かつ社会的移行に向けた計画化に関する一連の論評を特集している。そのほとんどは、社会主義的計画化対資本主義市場という課題に当てられている。そしてその論争は、二〇世紀社会主義の論争では突出したものだった。ミシェル・レヴィによるこの論評は、この論争を今世紀に浮上したエコソーシャリズムの枠組みの中に置いている。

エコロジー的移行と計画化

 社会的・エコロジー的移行のあらゆる根底的かつ真剣な移行における経済的計画化に対する必要は、「市場経済」の環境的変種、つまり「グリーン資本主義」に好意的なグリーン諸政党の伝統的な立場との対比として、より大きな容認を勝ち取りつつある。ナオミ・クラインは彼女の最新著作において、気候の脅威に対するあらゆる真剣な対応は「数十年間にわたる市場原理主義の間に容赦なくけなされてきた一つの技、つまり計画化を取り戻すことを必然的に必要とする」と認めている。これは彼女の観点では、産業の計画化、土地利用の計画化、農業の計画化、その職業が移行によりすたれさせられる労働者に対する雇用の計画化、などを含む。「これは、収益性よりもむしろ集団的優先性を基礎にわれわれの経済を計画するという考えを呼び戻す、ということを意味する」(注一)と。

計画化に民主的決定は不可欠


社会的・エコロジー的移行――エコ社会主義的オルタナティブに向けた――は、生産の基本的手段に対する民衆的統制と民主的計画化を伴う。投資と技術的変更に関する決定は、われわれがそれらを、社会の共通利益に奉仕し、環境を尊重するものにしたいと思うならば、銀行や資本主義ビジネスから取り上げられなければならない。
これらの決定を行う者は誰であるべきだろうか? 社会主義者はしばしば次のように、つまり「労働者」と応えた。マルクスは資本論第三巻で社会主義を、「自然との彼らの交換を合理的に規制する連合した生産者」からなる社会、と定めている。しかしながら同第一巻では、より幅広いアプローチを見つけることができる。つまり社会主義は、「共同で保持されている生産手段で働いている自由な人間たちの連合」と考えられている。これは大いにより適切な概念だ。つまり生産と消費は、「生産者」だけではなく消費者によっても、そして事実としては社会全体によって、生産に携わる住民あるいは「非生産的な」住民によって、合理的に組織されなければならない。そして後者は、学生、若者、主婦(そして主夫)、退職者、などだ。
この意味で全体としての社会は、推し進められるべき生産方向と教育、医療、あるいは文化に投資されるべき資源の水準を民主的に選択する上で自由になるだろう。商品の価格それ自身はもはや、供給と需要の法則には従わず、可能な限り社会的、政治的、環境的基準にしたがって決定されるだろう。
民主的計画化は、自ずから「専制的」であるどころか、社会全体の決定策定の自由な行使――資本主義の諸構造と官僚制の諸構造の枠内に具象化された「経済法則」と「鉄の檻」、および疎外からわれわれ自身を解放するために必要な行使――だ。労働時間削減と結びつけられた民主的計画化は、マルクスが「自由の王国」と呼んだものに向かう人間性に関わる相当な一歩になると思われる。つまり自由時間の増大は現実に、民主的な討論、および経済と社会の管理に対する労働者の参加に向けた一つの条件なのだ。
自由市場の代弁者たちは、組織された経済のあらゆる形態に対する彼らの断言的な反対を正当化するために、ソビエトの計画化における破綻を執拗に利用している。われわれは、ソビエトの経験の成功と失敗に関する討論に入り込まなくとも、ジェルギー・マーカスとブダペスト学派の彼の同僚が使用した表現を引用すれば、それが明らかに「需要に関する独裁」の一形態であった、ということを知っている。
つまりそれは、諸決定に関する独占権をテクノ官僚からなる小さな寡頭支配者に与えた、非民主的かつ権威主義的システムだった。独裁制に導いたのは計画化ではなかった。高まる一方の権威主義かつ非民主主義的計画システムを生み出したのは、レーニン死後の、ソビエト国家内における民主主義の高まる制限と全体主義的官僚権力の確立だった。社会主義が労働者と住民全体による生産過程に対する管理と定義されるべきであるとすれば、スターリンと彼の後継者の下のソ連邦は、この定義には達していない。

計画化とは経済の根底的民主化

 ソ連の失敗は、その紛れもない非効率性と恣意性と一体化した官僚の計画化が抱える諸限界と矛盾を表示している。つまりそれは、真に民主的な計画化の適用に反対する議論としては役に立ちようがないのだ。計画化に関する社会主義者の概念は、経済の根底的な民主化にほかならない。つまり、政治的決定が指導者たちの小さなエリートによって行われてはならないとすれば、同じ原理がなぜ経済的決定に適用されないのだろうか? 
市場と計画化の仕組み、この間にある均衡という問題は、疑いなく一つの複雑な問題だ。確かに新たな社会の最初の局面期には、市場は確実になお重要な場を占めるだろう。しかし社会主義への移行が進むにつれ、計画化は一層重要なものになるだろう。
資本主義システムにおいては、使用価値は、交換価値と収益性の下位に置かれた、一つの手段――そして多くの場合一つの表現――に過ぎない(事実としてこれが、いかなる有用性もない製品がわれわれの社会になぜこれほどまで多いのか、を説明する)。計画化された社会主義の経済では、商品とサービスの生産は、使用価値という基準にのみ対応する。そしてそれは必然的に、めざましい経済的、社会的、環境的結果を伴う。
もちろん民主的計画化は、主要な経済的選択に関するものであり、地方のレストラン、食料品店、パン屋、小商店、職人事業、あるいは職人的サービスの管理には関わらない。同様に、重要な強調点として、計画化は労働者の生産単位内の労働者自主管理と対立するものではない。その一方、たとえば自動車工場をバスあるいは軌道車両の生産に転換する決定は、全体としての社会の任務となると思われる。そして内部の組織化と工場の操業は、労働者自身により民主的に管理されるだろう。
「中央集権化」あるいは「脱中央集権化」といった計画化の性格に関しては、これまでに多くの論争が行われてきた。しかし重要なこととして残るのは、あらゆるレベル――現場、地域、全国、大陸規模、そして望ましくは世界規模――における計画に対する民主的な統制だ。気候温暖化のような環境的課題は地球的であり、そのレベルでのみ対処可能なものだからだ。
この提案は、「包括的な民主的計画化」と呼ばれ得るだろう。このレベルであってもそれは、しばしば「中央集権的計画化」と描かれるものと対照をなす計画化だ。経済的で社会的な決定が、何らかの「中央」によって行われるのではなく、関係する住民によって民主的に決定されるからだ。

諸対立を前提とした決定過程

 もちろん、自己統治諸機関や現場の民主的な管理と他の大きな社会諸グループ間にはいくつもの緊張や対立が生まれると思われる。いくつかの交渉の仕組みがそうした多くの紛争を解決する助けになる可能性がある。しかし結局のところ、その見解を押しつける権利を行使するのは、それらが多数であるという条件の場合でのみ、関与する相対的に大きな集団に課されるだろう。
一例を挙げてみよう。自主管理工場がその有毒廃棄物を河川に投棄する決定を行うとする。地域全体の住民はその汚染に脅かされる。その時住民は、民主的な論争の後、この工場の生産は、その廃棄物を管理する満足のいく解決策が見つかるまで停止されなければならない、と決定するかもしれない。
エコ社会主義の社会では理想的には、工場労働者自身が、環境と当地住民の健康に危険な決定策定を避ける上での十分な環境意識をもっているだろう。しかしながら、もっとも全体的な利益を守る住民の決定策定権限を保障するための方策を導入するという事実は、前例のように、内部管理に関する諸問題が工場、学校、住宅地、病院、あるいは村落レベルで市民に付託されてはならない、ということを示すわけではないのだ。
エコ社会主義の計画化は、決定の各々のレベルで民主的かつ多元的な論争に基礎付けられなければならない。計画化機関の代表は、政党、政綱、あるいは他の何らかの政治運動の形態で組織され選出され、さまざまな提案がそれらが関係する全員に提出される。換言すれば代表性民主主義は、人々がさまざまな提案間で直接選択する――現地で、全国的に、そして終局的には国際的に――ことを可能とする直接民主主義によって、豊かにされ――改善され――なければならない。その時全住民は、無料の公共交通について、公共交通に補助金を出すための自家用車所有者が払う特別税について、化石燃料との間で競争力をもたせるための太陽エネルギーに対する補助金について、生産引き下げをたとえ伴うとしても、週労働時間の、三〇時間、二五時間、あるいはそれ以下にであれ削減について、決定を行うことになるだろう。

民主的決定と専門家の役割

 計画化の民主的な性格は、それを専門家の参加と相容れないものにするわけではない。その専門家の役割は、決定することではなく、民主的な決定策定過程の中で、彼らの議論――しばしば異なり、相互に相反してさえいる――を提示することだ。
「さまざまな政府、政党、計画機関、科学者、技術官僚が、あるいは提案を行うことができる誰であれ、人々に影響を与えようと諸提案を提起する。彼らがそうするのを妨げることは政治的自由を制限することになるだろう。しかし多党制の下では、そうした提案は決して満場一致とはならないだろう。つまり人々はさまざまな筋の通ったオルタナティブ間の選択肢を確保するだろう。そして決定の権利と権限は、他の誰かではなく、生産者/消費者/市民の手中に置かれるだろう。それについては何が父権主義、あるいは独裁なのだろうか?」(注二)。たとえばエルネスト・マンデルはこのように語った。
問題が一つ現れる。つまり、人々は、払うべき犠牲が彼らの消費慣習の一部を変えることである場合でも、環境を保護する正しい選択を行うだろう、というどんな保証がわれわれの下にあるのだろうか? そのような「保証」はまったくない。あるのは、消費財への物神崇拝が一旦取り去られるならば、民主的な決定の合理性が勝利を収めるだろう、という筋の通った展望だけだ。
人々はもちろん悪い選択を行うことで間違いを犯すだろう。しかし専門家自身も間違いを犯すことはないだろうか? 民衆の過半が彼らの闘争、自己教育、そして彼らの経験のおかげで偉大な社会主義と環境主義の意識に達することがないままの新たな社会建設、というようなことを想像することは不可能だ。それゆえ、深刻な過ち――環境的必要と一致しない決定を含む――は正されるだろう、と信じることは筋が通っている。
いずれにしろ、代わりのもの――無慈悲な市場、「専門家」による環境的独裁――が、あらゆる限界をもつ民主的な過程よりもはるかに危険とはならないかどうか、人は知りたく思っている。
一般が認めているように、機能する計画化のためには、計画を実行できる執行機関と技術的機関がなければならない。しかしそれらの権威は、より下位のレベルが行使する永続的で民主的な統制によって限定されると思われる。そしてその下位レベルでは、民主的な管理の過程で、労働者の自主管理が行われる。もちろんだが、自主管理や参加型会議に住民の過半が彼らの自由時間のすべてを費やすことになる、などと予期されてはならない。エルネスト・マンデルが認めたように「自主管理は不可避的に代表の消失を伴うわけではない。それは、市民による決定策定と、代表に対するそれらの各々の選出母体による厳格な統制とを組み合わせるものだ」(注三)。

矛盾を含んだ長期の過程


資本主義システムの「破壊的進行」からエコ社会主義への移行は、一つの歴史的な過程であり、社会、文化、また心性の革命的で恒常的な転換――そして前記で定義されたものとしての、幅広い意味における政治は、否定しがたい形でこの過程の心臓部にある――だ。そうした進展は、社会的、政治的諸制度内の革命的変化がなければ、またエコ社会主義的計画に対する住民の圧倒的多数による活動的な支持がなければ始められる可能性はない。これを明示することが重要だ。
社会主義と環境主義の意識は、その決定的要素が住民の闘争と集団的経験である一つの過程的なものだ。そしてそれらの要素は、現場レベルでの部分的衝突から始まり、社会の根底的変化の展望へと進む。この移行は、生産の新しい様式と民主的で平等主義的社会にのみではなく、暮らしのオルタナティブなやり方へも導くと思われる。つまり、広告により人工的に引き起こされる消費パターンと無益で環境的には有害な商品の際限ない生産を伴ったマネーの帝国を超えた、真にエコ社会主義的な文明化だ。
何人かの環境主義者は、生産力主義に対する唯一のオルタナティブは、全体としての成長を止めること、あるいはそれをマイナス成長――フランスでは「脱成長」と呼ばれる――で置き換えること、と信じている。これを行うためには、エネルギー消費を半分に削減する目的で、住民の過剰な消費水準を徹底的に引き下げること、中でも、持ち家、セントラルヒーティング、洗浄機をあきらめることが必要だ。これらのまた他の似たような過酷な緊縮策は極めて不人気となる可能性がある以上、脱成長の何人かの代弁者は、一種の「環境的独裁制」という考えで勝負に出ている(注四)。
何人かの社会主義者は、こうした悲観主義的観点に対抗する形で一つの楽観主義を披露している。それは彼らを、技術的進歩と再生可能エネルギーの利用が、限界を知らない成長と繁栄を許し、結果としてすべての者が「彼らの必要にしたがって」受け取ることをわれわれに許すだろう、と考えるよう導いている。
私にはそれは、これら二つの学派が「成長」に関する、また生産力の発展に関する、純粋に量的な概念――肯定的あるいは否定的――を共有しているように見える。私の考えでは、私にはもっと適切に思える第三の姿勢がある。つまり、発展の実質的な質的転換だ。
これは、無益あるいは有害な製品の大量生産に基礎を置いている、そうした資本主義が引き起こしている資源の怪物的浪費を終わりにすることを意味する。兵器生産がよい例だ。まさにこれらすべての「製品」は、資本主義システムの中で製造――それらの計画的陳腐化に基づき――されている。そしてそれらは、大企業に対し利潤を生み出す以外には何の目的もないのだ。
問題は、抽象化された「過剰な消費」ではなく、むしろ消費に刻印されている支配的なタイプであり、その主な特性は、見栄のための財産、大量廃棄、商品のとりつかれたような貯め込み、「ファッション」に強いられた偽りの珍しさの脅迫観念的獲得、といったものだ。新しい社会は、「聖書的」と表現され得ると思われるもの――飲用水、食品、衣類、住居――を始めとし、しかし基本的なサービス――保健、教育、文化、交通――を含んで、本物の必要を満たすことに向けた生産を志向すると思われる。
これらの必要が満たされていることからはほど遠い諸国、つまり南半球の諸国が、これから先進工業諸国よりもはるかに「開発され」なければならない――鉄道、病院、下水道、また他の諸施設の建設――ことは明白だ。しかしこれは、再生可能エネルギーを基礎とする、そしてしたがって環境に有害ではない生産システムに一致させられなければならないだろう。
これらの諸国は、すでに飢饉に打ちのめされている彼らの住民のために大量の食料を生産することが必要になるだろう。しかしこれは、ビア・カンペシーナ・ネットワークによって国際的レベルで組織された農民運動が何年も力説してきたように、家族単位、協同組合、あるいは集団農場によって組織された家族的有機農業を通して達成する方が、農薬、化学肥料、遺伝子操作種子の大量使用に基づく工業的なアグリビジネスの破壊的で反社会的な方法によるよりも、はるかに容易な目標なのだ。
資本家と先進工業諸国による南の諸資源の帝国主義的搾取と悪どい債務という現在のシステムは。北から南への技術的、経済的支援の高まりへと道を譲るだろう。欧州と北米の住民の生活水準を絶対条件として切り下げること――何人かのピューリタン的で禁欲的なエコロジストが信じているように見えるような――は、全く必要がないと思われる。これらの住民は、単に無益な製品を取り除かなければならないだけだろう。それらは、何らかの実体のある必要を満たすものではなく、そのとりつかれたような消費が資本主義システムによって維持されているものなのだ。彼らはこれらの消費を切り下げながら、実際にはより豊かであるライフスタイルに向かって進むために、生活水準の概念を再定義するだろう。

人工的な偽りの必要からの脱却


人工的な偽りの必要から本物の必要をどう区別するのか? 広告産業――心情操作を通じて必要に影響力を及ぼす――は、現代資本主義社会における人間生活のすべての相に浸透してきた。すべてのことが、食品や衣料品だけではなく、スポーツ、文化、宗教、さらに政治にまでおよぶ多様な領域までもが、そのルールに従って形成されている。広告は、われわれの街頭に、われわれの郵便受けに、われわれのテレビ画面に、われわれの新聞に、われわれの風景に、狡猾で永続的な、また攻撃的なやり方で進入するにいたった。この部門は、はっきりと見える強迫観念にとりつかれたような消費慣習に直接力を貸している。
加えてそれは、他の天然資源の中でも、原油、電力、労働時間、紙、化学物質の異常な浪費――すべてが消費者の負担で――に導いている。それは、人間の観点では無益であるだけではなく、真の社会的必要には反してもいる「生産」の一部門なのだ。広告は資本主義市場では不可欠な一つの基軸であるが、社会主義への移行にある社会でそれはいかなる場も占めないだろう。それは、消費者団体によって提供される製品に関する情報とサービスで置き換えられると思われる。
本物の必要を人工的な必要から区別する基準は、広告を取り除いた後ではその永続性になると思われる。はっきりしていることだが、消費の過去の習慣はしばらくの間しつこく残るだろう。人々が必要とするものを彼らに告げる権利は誰にもないからだ。消費モデルの変化は歴史的な過程であり、教育的な挑戦課題なのだ。
自家用車のようなある種の製品は、もっと複雑な問題を巻き起こす。人を運ぶ車はよく知られた一つの厄介ものだ。それは世界中で毎年何十万人という人々を殺すか傷付けるかしている。それらは大都市の大気を汚染し――子どもと高齢者の健康に有害な結果を残して――、気候変動にも相当に力を貸している。しかしながら自動車は、資本主義の現在の諸条件の下では真の必要を満たしている。当局が環境を気づかっている欧州の諸都市では、いくつかの地方的実験――住民の多数が承認した――が、バスや路面電車に便宜を図って自家用車のスペースを徐々に限定することが可能、と示している。エコ社会主義への移行過程では、道が歩行者と自転車利用者のために保護される一方、公共交通が拡大され無料になる――地上と地下で――と思われる。したがって自家用車は、しつこく攻撃的な広告により助けられて物神崇拝的な産物になっているブルジョア社会においてよりも、その重要性がはるかに低い役割しか果たさないだろう。まさに自動車は、威信の象徴、アイデンティティの一象徴(米国では、運転免許証がアイデンティティカードとして認められている)になっているのだ。それは、個人的生活、社会的生活、さらに情愛生活の心臓部にある。
新しい社会へのこの移行期では、商品の道路輸送――悲劇的な事故と過剰な汚染の原因――を徹底的に削減し、それを鉄道やコンテナ輸送で置き換えることがはるかに容易になるだろう。トラック輸送における現在の発展を説明するものは、資本主義の「競争性」という道理に反した論理しかないのだ。

エコ社会主義支える合理的仮定

 悲観主義者はこれらの提案に対して、次のように応えるだろう。すなわち、確かにそうだろうが、しかし個々人は、限りのない欲望と欲求に突き動かされ、それらは統制され、精神分析の対象にされ、抑制され、必要とあれば弾圧も行われなければならないと。その時民主主義は、一定の制限にしたがわされる可能性が生まれるだろう。
それでもエコ社会主義は、以前マルクスが進めた一つの合理的な仮定を基礎にしている。つまり、非資本主義社会における「所有」を上回る「存在」の卓越性、つまり無数のものを所有しようとする切望を上回る自由時間の優越性であり、実体ある活動、文化の、スポーツの、レクリエーションの、科学の、情愛の、芸術の、さらに政治の活動を通した、個人的達成感だ。
商品に対する物神崇拝は資本主義システムに特有のイデオロギーと広告を通じて、とりつかれたような購買を励ましている。これが「永続的な人間の本性」の一部である、というような証拠は一切ない。したがって次のようなマンデルの指摘があった。
「一層多くの物財に対する絶えざる蓄積(『限界効用』の下落を伴う)は、人間の振るまいがもつ普遍的な、あるいは有力とも言える特徴、というようなことは決してない。彼自身のための才能や好みの発展、命や健康の保護、子どもの世話、心情的安定と幸福の前提条件としての豊かな社会関係の発展、これらすべてが、基本的な物質的必要が一旦満たされたならば、主要な動因になる」(注五)と。
われわれが上述したようにこれは、特に移行期では、対立が存在しないだろう、ということを意味するわけではない。つまり、環境保護の必要と社会的必要の間、特に貧しい諸国内での環境的要請と基本的施設を発展させる必要の間、民衆的消費慣行と資源の不足の間、というような対立だ。社会階級のない社会は、矛盾や対立のない社会というわけではない。これらは不可避だ。
したがって、社会自身が決定を行うよう導く開かれ多元的な議論を通してそれらを解決することは、資本と利潤の制約から解放された、エコ社会主義の展望を起点とする民主的計画化の役割になるだろう。そうした共同かつ参加型の民主主義は、間違いを犯すことを避けるためではなく、社会の集団性自身を通してそれらを正すためのただ一つの道だ。

エコ社会主義潮流が唯一の希望

 グリーン社会主義を、さらにある人びとの言葉ではソーラー共産主義までも夢見ることは、そしてこの夢のために闘うことは、われわれが具体的で差し迫った諸々の改良の実行には挑まない、ということを意味するわけではない。われわれは「クリーンな資本主義」に関し幻想をもつべきではない。とはいえその一方われわれは、時間を稼ぎ、公的当局にいくつかの初歩的な変化、つまり遺伝子操作の全般的留保、温室効果ガス排出の徹底的な削減、アグロ産業生産における産業的漁業と化学物質のような農薬の使用に対する厳格な規制、公共交通のはるかに大々的な発展、漸進的なトラックの列車による置き換え、といったことを強要することに勤めなければならない。
これらの差し迫ったエコ・社会的諸要求は、それらが「競争性」という要件に順応しないという条件で、急進化過程に導く可能性がある。マルクス主義者が「過渡的綱領」と呼ぶものの論理にしたがって、各々の小さな勝利、各々の部分的前進は、より大きな要求に、もっと根底的な目標に即時に導く。
具体的な諸問題をめぐるこれらの闘争は、部分的な勝利がそれ自身で有益であるからというだけではなく、それらが環境的、社会主義的意識に力を貸すからという意味でも、重要だ。その上これらの勝利は、底辺からの活動と自己組織化を推し進める。これらは、世界の根底的な転換、すなわち革命的な転換を達成する二つの必要かつ決定的な前提条件だ。
アントニオ・グラムシが理解した意味において、社会主義的、環境主義的綱領がヘゲモニーをもつことがない限り、抜本的転換もまったくないだろう。一つの意味では、時間はわれわれの味方だ。われわれが、ますます近づいている脅威――たとえば気候変動――によって悪化を続けるだけの環境問題を解決できる、ただ一つの変化のために活動しているからだ。
他方で時間は尽きようとしている。そしてその打撃は二、三年の内に――その時間がどれほどあるかは誰も言えない――逆転不可能になる可能性もあるのだ。楽観主義になる理由はまったくない。何しろシステムの頂点にいる現在のエリートたちがもつ力は巨大であり、急進的反対派の力は今なおささやかなものだ。しかしながらそれらだけが、資本主義の「破壊的な進行」にブレーキをかけるためにわれわれの元にある唯一の希望だ。(二〇二〇年四月三日)

(注一)ナオミ・クライン『火災中:グリーン・ニュー・ディールにとっての重大問題』(二〇一九年)。
(注二)エルネスト・マンデル『権力とマネー』(一九九二年)。
(注三)同右。
(注四)ドイツ人哲学者のハンス・ヨナスは、一九七九年刊行の著作で、自然を救出するための「慈悲深い独裁」の可能性を提起し、オランダ人エコファシストのペンティ・リンコラは二〇〇四年刊行の著作で、あらゆる経済成長を阻止することのできる独裁制を代弁した。
(注五)エルネスト・マンデル、前掲。(「インターナショナルビューポイント」二〇二〇年五月号)

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