低炭素経済は何をめざすのか 

地球の気候の救出か、それとも資本主義救出か
資本主義との調和に腐心する限り低炭素社会への転換は不可能だ

劇的かつ早期の削減がまず必要

 人間活動による二酸化炭素排出を、大幅に早期に削減しなければならない。このわれわれにとって死活に関わる課題に応える道として、低炭素経済という資本主義のあり方がさまざまな形で提唱されている。本紙前々号でもその一つとして、岩波新書『低炭素経済への道』が、批判的立場を明らかにしつつ紹介された。
 これらの提唱は、特に、リーマンショックが引き金を引いた世界経済危機が八〇年代以降の新自由主義とそのグローバリゼーションという現代資本主義のあり方の行き詰まりを人びとに見せつけ、同時に資本主義そのものに対する深い懐疑を成長させたという状況を前に、資本主義の新たな可能性を提示する意味を強調する形で、今、より積極的になされているように見える。実際日本の書店では、この種の著作は、〇八年後半以降から明らかに多く並ぶようになった。そしてオバマ政権が打ち出した「グリーンニューディール」なども、そのような転換に向かう流れがすでに現実になったものとして、積極的に位置づけられている。
 さてこのように提唱されている低炭素経済というものを、労働者民衆はどのように受け止めるべきなのだろうか。結論的に言えば、それは、共に歩み共に積極的に推進する価値のあるものなのか、それともそれとは別の選択のために闘うべきなのか、ということだ。以下ではこの問題を、先に挙げた『低炭素経済への道』を一つの素材として考えてみたい。
 まずこの問題を考え進める上で、労働者民衆が絶対的に必要とする選択の基準とは何か、を確かめておく必要がある。その場合それは何よりも、二酸化炭素排出の大幅かつ可能な限り早期の削減を必ず達成できることであり、これが問題の核心であることを確認しよう。とりわけ、もっとも貧困かつ脆弱な諸条件の下に暮らしている開発途上諸国の三十億人の人びとの上には、気候変動の被害がすでに現実の責め苦として集中的にのしかかり始めていることを確認する必要がある。この課題の達成をいたずらに遅らせる余裕はない。�小平の有名な言葉、「黒猫であれ白猫であれネズミを捕る猫がいい猫だ」は、ある意味でこの問題にこそふさわしい。
 その点で、低炭素経済の主張には明らかに積極的な要素がある。つまり、IPCC(気象変動に関する政府間パネル)の勧告を、法的拘束力ある目標として国際的に合意すべきとの立場を出発点に置いていることだ。先の合意の達成を最優先課題に起き、その観点から、先の著作では、必要な合意に抵抗を試みる勢力、特に日本の政財界や国家官僚機構にはっきり反対し、またその抵抗を正当化するさまざまな「理論的仕掛け」に対して具体的に精力的な反論を加えている。これらはまず、戦列を共にできるものとして肯定的に確認されてよい。また、先の著作の立場は、イギリスなどの政策に代表される排出削減の数値を定めたロードマップ作成とその法的確定―政府に対する期限を区切った実行の義務づけ―についても明確に支持を明らかにし、それを日本政府にも義務づけるべきとする。排出削減必達の確実性を高める要求の具体的提起であり、これもまた、この課題に対してどのような要求が必要なのかを考える上で、重要な問題提起だ。

厳しい課題が待ち構えている

 しかし、出発点が上のようだとしてもそれだけで、低炭素経済として提唱されている道が出発点で確認した目標にたどり着く経路につながっているかどうかは別の問題だ。この道がもっとも核心となる目的に適合しているかどうかは、それとして別に検証されなければならない。そしてその側面ではわれわれは、厳しい批判を明らかにせざるを得ない。
 まずその前提として、必要とされている削減目標が尋常ではない厳しいものであることを確認しよう。IPCCは先進工業諸国に対して、歴史的責任を考慮に入れたいわゆる「差違ある責任」原則の下に、現在から二〇二〇年までに二五~四〇%、二〇五〇年までに八〇~九五%(いずれも一九九〇年比)の削減が必要であると勧告している。
 第四インターナショナル第十六回大会で採択された「気候変動とわれわれの任務」決議は、気候を可能な限り危険性が低いレベルで安定させるためには、先の勧告すらおそらく十分ではないと評価し、先進工業諸国は最低限でも、IPCC勧告の上限、九五%削減を「真水」で達成することが必要だとしている。それは事実上、二〇五〇年までに先進工業諸国は、省エネルギーを劇的に進展させると共に、化石燃料の使用を基本的に停止し、エネルギー源をほぼ一〇〇%、再生可能エネルギーに転換しければならない、ということを意味している。われわれは文字通り極めて厳しい課題に直面しているのだ。
 言われている低炭素経済については、その厳しさに耐えられるものかどうかが問題となる。結論を先に言えば、低炭素経済論が描く経済ビジョンの下で必要な削減に達することはできない。それは出発点の目的を裏切るものとなるしかない。その逸脱は結局のところ、資本主義の枠組みを不動の前提とするところから、すなわち、この経済ビジョンがその中軸に位置づけた、それ自体としては本来適切な産業と社会の「イノベーション」という課題を、最後は資本の主導性に、資本の行う彼らの観点からする「合理的な選択」にゆだねてしまうところから発する。

本来の目的からは最初から逸脱

 その逸脱がすでに現実となっていることは、先の著作の描く経済ビジョンの模範として著者たちが高く評価する、イギリスの気候政策にはっきり見ることができる。イギリスの二酸化炭素排出削減ロードマップ、炭素予算が目標としている数字が、二〇五〇年で一九九〇年比八〇%削減、すなわち、IPCC勧告の下限でしかないことに注意しよう。日本のエリートたちのエゴイズムむき出しの横車と比較すれば、確かに立派、野心的と言えるかもしれない。しかしそれでもそれはすでに、気候の安定化という絶対的要請からは逸脱しているのだ。
 しかも問題はそれにとどまらない。この数字には、EU域内の排出量取引、海外からの「排出削減クレジット」の購入による、削減量の帳尻合わせが含められているからだ。ここにある「排出削減クレジット」とは、ある国が海外で(事実上はもっぱら開発途上諸国で)森林保護・再生などの事業を行った場合や、当地の産業部門における排出削減を実行し成功した場合、それに相当する削減量を自国の削減量として繰り入れる権利を指す。そのような事業が行われる場合には両者の場合共に、当然のこととして当該国に対して投資が行われるから、その権利の取得は「購入」を意味する。もしかしたら第三国がそのようにして得た権利を文字通り「購入」する場合もあるかもしれない。蛇足ながら付け加えれば、それらの投資が自国における削減努力に要するものと比較して、多くの場合はるかに安上がりで済むことは容易に推察できる。いずれにしろ、二〇五〇年で一九九〇年比八〇%削減というイギリスの目標は、国内だけで達成するものではなく、「真水」ではない。
 しかし低炭素経済という観点からは、それでも世界総計としての二酸化炭素排出は削減される「はず」であり、しかも削減コストが最も低いやり方でそれが実現されるとして、また途上国と先進国の「連携」としても、それらの手法は、「賢い」洗練されたものとして高く評価されている。あるいは「連携」という同じ枠組みの中では、先進国から途上国への、在来型生産の移転・流出も、先進国側の排出を削減させ、途上国側のGDPを高めるとして、肯定的に評価される。

不公正が目的達成を遠ざける

 しかしそれらは明らかにおかしいのだ。「排出削減クレジット」について見れば、先進国は実際にはその分を相変わらず排出し続けていることを意味する。しかし権利を譲り渡した途上国側は、自国の労働者民衆の、どうしても必要な生活向上を図るための二酸化炭素排出の余地を、その分確実にそぎ落とされてしまうのだ。あるいは生産移転にも同じ種類の問題が刻み込まれている。途上国で生産される先進国住民の消費する製品に含まれる二酸化酸素排出は、先進国のではなく、途上国の排出として計算されるからだ。要するに、先進国側は見かけではなく実質の排出削減を免れ、依然として相当量の排出を続けることができるにもかかわらず、途上国側は、自国に割り当てられる排出量を自国民のために使用する権利を抑圧される。そこには明白な不公正がある。そして低炭素経済論はこの問題にほとんど注意を向けていない。
 地球気候の危機が化石燃料を好き放題に使ってきた帝国主義諸国、いわゆる先進工業諸国にもっぱら責任があることは、誰一人否定できない事実の問題だ。だからまた、「差違ある責任」原則が国際的合意となった。しかし低炭素経済論は、先の不公正な手法を「優れたツール」として位置づけ、それらの積極的活用をその内部に組み込むことで、肝心の「差違ある責任」原則を裏口から粉々に打ち砕くことになる。したがってこのようないかさま手法をひっさげて臨んでくる先進国側に、途上国側は納得するはずもない。彼らの激しい反発はまさに正当なのだ。コペンハーゲンCOP15が合意に失敗したことには、先進国側に責任のある十分な根拠があったと言わなければならない。それ故にまたコチャバンバの民衆サミットは、どうしても必要とされた。
 いずれにしろ低炭素経済論が先に見たような「不公正」を、しかも中心的な要素として組み込んでいる以上、そのビジョンが暗黙に期待する途上国での排出削減が期待通りに実現することはないだろう。開発途上諸国民衆の生活向上はまさに正当な要求だからだ。そして途上国の労働者民衆は、その要求の抑圧を決して許さないからだ。言われている低炭素経済という道を進む限りしたがって、世界総体としての削減も必要な水準には達しない。
 二酸化炭素の排出削減は何よりも、先進工業諸国が身を切って実行する以外にないのであり、それを回避する抜け道はない。しかし低炭素経済論は、事実上そのあり得ない抜け道を空しく探し求めるものとなっている。その先には行き止まりしかない。

巨大なイノベーションが鍵だが

 ではなぜそのような迷路に入り込むのだろうか。
 すでに触れたが、低炭素経済論の核心は、産業イノベーションにある。今われわれに必要な二酸化炭素の削減がとてつもなく厳しいものであることは先に確認した。人びとの生活の必要を満たしつつその目標を実現するためには、現行の生産技術と生産システムの大規模な変更が必要となることは自明だ。その規模と質は、石炭から石油へ、の比ではない。何よりも、化石燃料と再生可能エネルギーではその性質が大きく異なるからだ。そのイノベーションは必然的に、社会のあり方にまで広がらざるを得ないだろう。人類は歴史上経験したことのないほどの規模と質の深さをもつ、また継続的なイノベーションを迫られていると言ってよい。
 その限りで、産業と社会のイノベーションに焦点を当てた低炭素経済論は、課題を適切に設定している。しかしそこで問題は、そのような規模と質のイノベーションが資本主義の下で、すなわち、個別の資本のより高い利潤を求める自由な活動の結果として実現可能なのか、として提出される。少なくとも二つの疑問は指摘できる。一つは、産業イノベーションとメダルの裏表の関係で生じる産業のスクラップ化が提起する、それ自体深刻な問題であり、もう一つは、このイノベーションに不可欠に必要となる、まさに天文学的に巨額な投資にブルジョアジーに応じてもらわなければならない、という問題だ。
 最初の問題については紙面の関係でここでは省略する。ただ、このスクラップ化も必然的に巨大な規模とならざるを得ないこと、したがって『低炭素経済への道』でごく簡単に触れられている職業訓練投資の強化、という程度ではまったく太刀打ちできない問題であり、まさにその深刻さが先進工業諸国における「真水」での削減回避の無視できない要因となる、という点については指摘しておきたい。
 さて二番目の問題だが、それは必要なイノベーションに対して、ある意味で先の問題以上に深刻な障害を作り出すと思われる。
 ここでわれわれは、個別の資本が目的としているものはより高い利潤の獲得であり、イノベーションそのものではないということを改めて確認しよう。しかもそれは、われわれ共産主義者の「偏見」などではなく、先の著作の中でもはっきり確認されているいわば政治的立場を超えた前提だ、ということも指摘したい。それはつまり、資本主義を前提とする限り、利潤が、しかも現行の生産で実現されているものよりも高い利潤が見込めない限りイノベーションは起こらない、ということを意味する。

規制への期待とその不確実さ

 ではどうするか。低炭素経済論がここで決め手とするものが規制だ。そこでは、二酸化炭素排出の大胆な規制の導入こそがイノベーションを引き起こす決定的な手段だとされ、その観点から規制に対する認識の転換が促されている。前掲書では、日本の世界に先駆けた自動車排ガス規制の「成功体験」やアメリカの経済理論家の学説などがその主張を支えるものとして援用されている。
 それらを待つまでもなくわれわれは、規制がある種の大規模なイノベーションを引き出すことを経験している。端的に「ケインズ革命」がそれであり、戦後世界的に標準化された「労働力市場規制」は確かに、大量生産―大量消費という産業と社会のイノベーションに、環境破壊という災厄を引き連れてだが、基礎を据えた。その意味で規制は、確かにイノベーションの引き金を引くことがある。しかしそれはあくまで「ことがある」であり、「必ず」という関係ではない。
 まして今われわれに必要とされているイノベーションは、広範な産業を巻き込んで巨大な連なりとして続く津波のようなイノベーションでなければならない。その実現のためには、そこに向けた大規模な継続的な投資転換が必要であり、それはその底に、ブルジョアジーの、先鋭な限られた少数ではなく相当部分の中に、高い利潤期待が共通に生まれているという条件が必要となる。しかし規制だけではそのような条件は生まれないだろう。実際津波のようなイノベーションは資本主義の歴史の中でそうざらにあったわけではない、ということも付け加えてよい。要するに低炭素経済論が描く、規制からイノベーションへ、というシナリオが現実化する確実な根拠はないのだ。

資本の選択にゆだねない削減へ

 したがって低炭素経済論は必然的に二つの仕掛けに依存することになる。その一つは、イノベーションから新たな資本主義の成長へ、という回路の挿入だ。『低炭素経済への道』でも明白な成長期待が随所で表明されている。明言されているわけではないが、その期待は現実には、政策による成長押し上げという、政治に対する要求へと形を変えるだろう。とは言え成長押し上げ政策の有効性それ自体は、現実にはすでに大きくそこなわれている。したがってこの回路からのイノベーション期待もおそらく裏切られる。しかし成長への固執が続く限りそれが、「真水」での二酸化炭素排出削減を押しとどめるものとして作用することは確実だと思われる。
 そして二つ目の仕掛けは、先の成長政策の一環とも言えるものだが、規制のあり方だ。低炭素経済論は、規制はイノベーションを促進し得る「スマートな規制」でなければならないと強調する。イノベーションの底に利潤があることを前提とする主張である以上、必ずしも明言はないが、その「スマート」さには利潤を保障するとの含意があると見るべきだろう。そして「スマート」さを代表するとされている排出量取引や、排出削減クレジットなどの手法が、資本の利潤に配慮したものであることは否定できない。
 二酸化炭素排出の劇的削減という本来の目的に照らして、このような「スマート」さには、その適合性に大いに疑問がある。たとえば、低炭素経済における中心的手法だと位置づけられている排出量取引にその例を見ることができる。この手法の一般的目的は、排出削減をもっとも費用の安い部分(産業や企業)で集中的に行う(削減しない企業は削減したところからその分の排出量を買い取る)ことにより、削減量総計の帳尻を合わせつつ、当該の経済社会全体では削減コストを最低にしよう、というところにある。
 しかしそれは、二酸化炭素排出の(したがって化石燃料使用の)劇的削減、再生可能エネルギーへの抜本的転換という肝心要の目標には明らかに矛盾するのだ。たとえば日本では、発電を含んで大規模事業所の排出量が日本全体の五〇%を占めるという(前掲書)。そしておそらく、これらの事業所における削減コストは相体的にかなり高いはずだ。日本経団連が排出規制に強硬に反対している理由もそこにある。とすれば排出量取引は、これらの事業所の見かけではなく本物の排出削減を遅らせることになるだろう。しかしエネルギー転換の要請から言えば本来、これらの事業所こそ排出削減に、またエネルギー転換のイノベーションに、真剣にかつ全力で取り組む必要があるのだ。そこには、資本の利潤に配慮した結果として、明白な本末転倒がある。
 なお排出量取引登場の背景には、資本に総量規制(キャップ)を呑ませるための取引という側面が確かにある。その限りでこの問題には一定の戦術的配慮は必要だ。しかし、排出量取引は明らかに大きな問題を抱えるものであり、少なくとも持ち上げてよいようなものではないことは確認しておきたい。
 最初に見たように、低炭素経済は、先進工業諸国における「真水」での劇的削減を最初から放棄するものだった。それはある意味で、この論が中心に置く、資本主義下での必要なイノベーションの実現に対する確信の弱さを、無言の内に告白しているのかもしれない。いずれにしろ言われている低炭素経済は、結局その本来の目的には奉仕しないだろう。それゆえわれわれ労働者民衆は、『低炭素経済への道』の著者たちが出発点に置いた真剣な願いを共にしつつも、またそれゆえにこそ、資本主義という縛りを振り払う道に踏み出さなければならない。それは確かに困難に満ちた道ではあるが、それを乗り越える突破口を何としても探し出さなければならない。そこにしか、地球の気候の救出を引き寄せる可能性はない。    (神谷哲治) 

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