エコ社会主義と脱成長論

かけはし 第2647・2648合併号 2021年1月1日

求められる相互理解と積極的同盟
相違を抱えた共同の実現へ
資本主義システムの破壊作用に抗して

ミシェル・レヴィ

意見の相違を
どう捉えるか


 エコ社会主義と脱成長運動は、エコロジー左翼のもっとも重要な潮流である。エコ社会主義者は、エコロジー的崩壊を回避するためには、生産と消費の規模を縮小する重要な措置が必要であることに同意する。しかし、エコ社会主義者は脱成長論を批判的に評価している。その理由は、次のとおりである。
?「脱成長」という概念が、オルタナティブなプログラムを定義するには不十分であること。
?「脱成長」が資本主義の枠組みの中で達成できるかどうかを明確にしていないこと。
?削減する必要のある活動と発展させる必要のある活動を区別していないこと。
 脱成長潮流はフランスでは無視できない影響力を持つが、均質なものではないことを考えておくことは重要である。それは、アンリ・ルフェーヴル(訳注1)、ギー・ドゥボール(訳注2)、ジャン・ボードリヤール(訳注3)らの消費社会批判やジャック・エリュール(訳注4)の「技術社会」批判から大きな影響を受けて、多岐にわたる考え方からなっている。対立しているわけではないとしても、かなり大きくかけ離れた少なくとも二つの極が存在している。
 一方の側には、文化相対主義(セルジュ・ラトゥーシュ)(訳注5)にひきつけられた西洋文化に対する批判があり、もう一方の側には普遍主義的な左派エコロジスト(ヴァンサン・シェイネ)(訳注6)、ポール・アリエス)(訳注7)がいる。
 世界的に有名なセルジュ・ラトゥーシュは、フランス「脱成長」理論家の中でもっとも議論の的となっている一人である。確かに、彼の議論は「持続的成長」の神話を打ち砕き、成長や「進歩」という信仰を批判し、文化的転換を呼びかけるという点において、部分的には正しい。しかし、彼の西洋ヒューマニズム、啓蒙思想、代表民主制に対する全面的な否定(普遍的な価値はないとする)、文化相対主義や石器時代への極端なまでの礼賛については、大いに議論の余地がある。
 しかし、もっと悪いことがある。彼がエコ社会主義者によるグローバルサウス諸国の発展のための提案――よりクリーンな水、学校、病院――を「自民族中心主義」「西洋化」「地域的な生活スタイルの破壊」として非難したことであり、この批判は支持しがたいものだ。
 最後に、資本主義批判はマルクスによってすでにおこなわれていて、それで十分なので、いまさら資本主義について語る必要はないという彼の議論はまじめなものではない。それはまるで、アンドレ・ゴルツ(訳注8)あるいはレイチェル・カーソン(訳注9)がすでに生産力至上主義による地球の破壊に対する非難をおこなっていた、それも「十分にやっていた」ので、それを非難する必要はないと言っているようなものである。
 左翼により近いのは、(シェイネやアリエスのような)その理論家の一部によるフランス「共和主義」を批判することはできるとしても、雑誌『脱成長((La Décroissance))』に代表される普遍主義的傾向である。第一の極とは違って、この脱成長運動の二番目の極――しばしば論争相手なのだが――には、グローバル・ジャスティス運動(ATTAC)、エコ社会主義者、急進的左翼政党との一致点が多くある。その一致点とは、給付の拡大(無料で提供される財、サービス、設備)、交換価値よりも使用価値を優先させること、労働時間短縮、社会的不平等に対する闘い、「非市場」的活動の発展、社会的ニーズと環境保護にもとづく生産の再組織化などである。
 多くの脱成長論者は、生産力主義に対する唯一のオルタナティブは成長を完全に止めるか、あるいはマイナス成長で置き換えること、すなわち、エネルギー消費を半分に減らし、独立した住宅、セントラル・ヒーティング、洗濯機などを放棄することによって、人々の過度に高水準な消費を劇的に減らすことであると信じているようである。これらの厳格な緊縮策や似たような緊縮策はまったく人気がないというリスクがあるので、「脱成長」論者の中には、ハンス・ヨナス(訳注10)が「責任原理」で展開しているように、ある種の「エコロジー独裁」という考え方をもてあそぶ人もいる。
 そのような悲観的な見方に反対して、楽観主義的な社会主義者は、技術的進歩と再生可能エネルギーの活用によって、無制限の成長と富が可能になり、誰もが「必要に応じて」受け取ることができると信じている。

「生産力発展」
の質的転換を


これら二つの学派は両方とも、肯定的か、否定的かの違いはあっても、「成長」や生産力の発展についての単純な量的概念を共有しているように私には思える。私にはより妥当に思える三つ目の立場がある。それは発展を質的に転換させるという立場である。
このことは、不用で有害な製品を大規模に生産することにもとづく資本主義の恐るべき資源浪費に終止符を打つことを意味する。軍需産業はよい例である。しかし、資本主義のもとで生産される「商品」の多くは、すぐに旧式になるように作られていて、大企業の利益を生み出す以外には役に立たないものだ。
問題は、抽象的な「過剰な消費」ではなく、広く行き渡った消費様式なのである。それは、実のところ、派手な消費、大量の廃棄物、商業による疎外、強迫観念にとらわれた商品の蓄積、「流行」によって押しつけられる見せかけだけ新しい商品の購入に基礎を置くものである。新しい社会は、本物のニーズを充足させる方向へと生産をふり向けていくだろう。それは、「聖書に書かれている」と言われるもの(水・食料・衣類・住宅)から始まり、医療・教育・交通・文化といった基本的サービスもまた含まれている。
本当の欲求と人工的で・見せかけの・間に合わせの欲求とをどのようにして区別するのか? 後者の欲求は心理的操作によって作り出されている。広告産業は、現代資本主義社会において生活のあらゆる領域に入り込んでいる。食品や衣類だけではなく、スポーツ・文化・宗教・政治も広告産業のルールにしたがって形成されている。広告産業は、永続的で攻撃的かつ狡猾なやり方で、われわれの街角、郵便受け、テレビ画面、新聞、風景に入り込んできている。そして、派手で強迫観念に駆られた消費習慣をつくるのに決定的に貢献している。さらに、広告産業は、人間という観点からは役に立たず、本当の社会的ニーズと真っ向から対立する「生産」分野において、膨大な石油・電気・労働時間・紙・化学製品・その他の新たな物質を浪費させている。これらすべてに消費者が対価を払っているのである。
広告は、資本主義市場経済の欠くことのできない側面だが、社会主義への過渡的プロセスにある社会では居場所を持たないだろう。その社会では、広告は消費者協会によって提供される商品・サービス情報に置き換えられるだろう。本当に必要なものと人工的な必要物とを区別する基準は、広告(コカコーラ!)を抑制した後に残ったものになるだろう。もちろん、しばらくの間は古い消費習慣が残るだろう。自分たちのニーズとは何かを人々に言う権利は誰にもないからである。消費パターンを変えることは、教育的チャレンジであるだけでなく、歴史的プロセスでもある。

競争の論理を
変えるために


商品の中には、自家用車のように、もっと複雑な問題を生じるものもある。自家用車は世間の厄介物で、世界規模で毎年何十万もの人々を殺し、障害を負わせている。そして、大都市において大気を汚染し、そのことで子どもたちや高齢者の健康に対して悲惨な結果をもたらし、気候変動にも大きく関与している。しかし、自家用車は、人々を職場や自宅に運び、余暇を過ごすという現にあるニーズを満たすものである。エコロジー問題に関心のある地方政府がヨーロッパのいくつかの町でおこなったローカルな実験によれば、バスや路面電車を支援して、個人所有車の役割を次第に制限することは可能であり、しかも住民の多数によって支持されているとのことである。
エコ社会主義社会への過渡的プロセスでは、高架や地下の公共交通が大きく拡張され、無料で利用できるようになるとともに、歩行者や自転車には保護レーンが用意されるだろう。自家用車は、ブルジョア社会では、執拗で攻撃的な広告によって売り込まれることで崇拝される商品となり、名声のシンボルや身分証明にもなってきたが、そのプロセスにおいてはずっと小さな役割しか果たさなくなるだろう
アメリカ合衆国では運転免許は公認IDになっており、個人的・社会的・性的な生活の中心になってきた。
新たな社会への移行過程では、鉄道輸送やフランスではフルタージュと呼ばれるもの(ある町から別の町まで鉄道で輸送されるトラック)に置き換えることで、トラックによる商品輸送――恐るべき事故や高レベルの汚染に責任がある――の徹底的な削減がより容易になるだろう。資本主義の「競争」という不条理な論理によってのみ、トラック輸送システムの危険な成長は説明できるからである。

「個人的欲求」
の変化も進展


悲観主義者は「そのとおりだが、各個人は果てしない刺激と欲望によって動かされる。そうした刺激や欲望は管理・チェック・抑制されなければならないし、必要ならば抑圧されなければならない。そして、このことによって、民主主義に対する制限が必要とされるかもしれない」と答えるだろう。しかし、エコ社会主義は、マルクスがすでに持っていた合理的な期待にもとづいている。つまり、階級のない社会、資本主義による疎外から解放された社会では、「個人の存在」が「所有すること」に対して優位にあるという期待にもとづいているのである。言い換えれば、製品を限りなく所有しようとする欲望よりはむしろ、文化・スポーツ・劇・科学・性・芸術・政治的行動による個人的成果のための自由時間が優位になるという期待である。
脅迫観念に駆られた物欲は、資本主義社会に固有の商品崇拝や支配的イデオロギー、そして広告によって引き起こされている。反動的言説がわれわれに信じ込ませたがっているように、それが「永遠の人間の本質」の一部であるという証拠は何もない。
エルネスト・マンデルが強調したように、「(減少しつつある『取るに足りない有用性』をもった)ますます多くの商品が継続的に蓄積されることは、万人に共通する、支配的でさえある人間行為の特徴では決してない。それ自身に価値を持つような才能や性向の発展、保健衛生や生活の保護、育児、豊かな社会関係の発展‥‥いったん基本的な物質的必要が満足させられたならば、これらすべてのことが主要なモチベーションになる」のである
このことは、とりわけ過渡的なプロセスの期間中において、環境保護に必要とされる手段と社会的ニーズとの間の対立、とりわけ貧困国におけるエコロジー的義務と基本的インフラを発展させる必要性との間の対立、広く行き渡った消費者習慣と資源枯渇との間の対立が生じないということを意味しない。そのような矛盾は避けることができない。複数主義的で開かれた討論を通じて社会自らが決定することによって、そうした矛盾や対立を解決することは、資本や利益という衝動から解放されたエコ社会主義的展望における民主的計画作成の任務になるだろう。そのような草の根の参加型民主主義が、誤りを避けるのではなく、社会的共同性によって自らの間違いを修正することを可能にする唯一の道である。

システム変化
への共同闘争


エコ社会主義者と脱成長運動との間の関係はどのようなものになりうるだろうか? 意見の相違があるにもかかわらず、共通の目的をめぐっての積極的同盟は可能だろうか? 数年前に出版された『脱成長は望ましいものか?』という著書の中で、フランスのエコロジストであるステファン・ラヴィニョット(訳注11)は、そのような同盟を提案している。
彼は、二つの視点の間には多くの議論すべき問題があることを認めている。社会的階級関係への批判や不平等に対する闘いを強調すべきか、それとも生産力の際限ない成長への非難を強調すべきか? より重要なことは、個々人のイニシアチブや地域的実験、自発的な倹約なのか、それとも生産機構や資本主義という「巨大マシーン」を変革することなのか?
ラヴィニョットはどちらかを選ぶことを拒否し、これら二つの補完しあうアプローチを結びつけることを提案する。彼の見解によれば、問題は、多数派(すなわち資本非所有者)のエコロジー的階級利害のための闘いと根本的な文化的変化をめざす行動的少数派の政策を結合させるところにある。言い換えると、避けられない相違点や不一致点を隠すことなしに、人間の居住に適した地球が資本主義・生産力主義と相容れないことを理解し、それゆえにこの破壊的で非人間的システムから抜け出す道を模索するすべての人々の「政治的結合」を実現することである
私は、エコ社会主義者として、第四インターナショナルのメンバーとして、この視点を共有している。反資本主義エコロジーについてさまざまな考えを持つ人々がすべて結集することは、現在の文明の自殺的な進路を――手遅れになる前に――止めるという緊急かつ必要な任務に向けた重要な一歩である。

(訳注1)アンリ・ルフェーヴルは、フランスのマルクス主義社会学者・哲学者。日本語訳された著作には『空間の生産』、『都市の権利』などがある。
(訳注2)ギー・ドゥボールは、フランスの映画作家・著述家で、「シチュアシオニスト・インターナショナル(SI)」の創立者。シチュアシオニストは「状況主義者」と訳されることが多い。SIは、五月革命でも積極的な役割を果たした。
(訳注3)ジャン・ボードリヤールはフランスの哲学者で、消費社会の分析・批判で知られる。日本語訳された著作には『消費社会の神話と構造 新装版』『芸術の陰謀 消費社会と現代アート』などがある。
(訳注4)ジャック・エリュールは、現代テクノロジーを批判したフランスの社会学者・神学者。日本語訳された著作には『技術社会』がある。
(訳注5)セルジュ・ラトゥーシュは、フランスの経済学者で「脱成長論」の中心的な理論家。日本語訳された著作には『〈脱成長〉は、世界を変えられるか 贈与・幸福・自律の新たな社会へ』『経済成長なき社会発展は可能か? 〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』などがある。
(訳注6)ヴァンサン・シェイネは、脱成長を掲げるフランスの雑誌(La Décroissance)の創立者・編集者の一人。
(訳注7)ポール・アリエスは、フランスの哲学者で、脱成長論を唱える。
(訳注8)アンドレ・ゴルツ(一九二三~二〇〇七)は、オーストリア出身で、フランスで活躍した哲学者。政治的エコロジーの先駆者として知られる。日本語訳された著作には『資本主義・社会主義・エコロジー』がある。
(訳注9)レイチェル・カーソンはアメリカの生物学者で、一九六二年に出版した『沈黙の春』で環境破壊を告発したことで知られる。
(訳注10)ハンス・ヨナスはドイツ生まれの哲学者。『責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み』などがある。
(訳注11)ステファン・ラヴィニョットは、フランスの環境保護活動家・著述家。
(『インターナショナル・ビューポイント』一一月二五日、原文はRISEのサイトに掲載、RISEは二〇一九年のCWI分裂の際に、アイルランド社会党から離れたポール・マーフィ下院議員を中心に結成されたグループ)
(訳出および訳注作成にあたっては、『エコロジー社会主義 気候破局へのラディカルな挑戦』(ミシェル・レヴィ、寺本勉訳)を参考にさせていただいた)

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