気候変動と資本の破産が結びつく

われわれが目撃しているのは長い危機の第1段階
始まっているのは資本主義の破綻ではなく人類の破局

長期拡大局面の終えん

 私が擁護する立場は、二〇〇七年八月に始まった危機は世界経済の長期拡大局面を終わらせる真の激変を表している、というものである。この激変は多数の要因が入り混じった危機の過程の始まりの先触れであり、それは一九二九年の危機に匹敵するが、非常に異なった文脈の中で起こっており、その要因は必然的に異なる。
 まず、一九二九年の危機が次のような過程として起こったことを思い起こすことが重要である。それは一九二九年のウォール街の大暴落に始まる長い過程であったが、クライマックスはずっと後の一九三三年であり、その後に長い景気後退の局面が続き、第二次世界大戦をもたらした。私がこのことを強調する理由は、私の意見では、われわれが目撃しているのは第一段階であり、ほんの最初の段階、同様の広がりとテンポ(類似性はそれ以上ではないとしても)を持った過程の始まりに過ぎないからである。現在ニューヨーク、ロンドンの金融市場やその他の大きな証券取引所で起こっていることは過程の一つの側面に過ぎず、ほとんど確かなことであるがこれは最も重要な側面ではなく、歴史的中間休止と解釈されなければならない。
 われわれが直面しているのは、マルクスが資本主義の歴史的限界と評した危機の形態であり、そこにはすべての矛盾が含まれれている。資本主義の「金融危機」の理論のいずれかのバージョンや同様のものを擁護しようとしているのではない。問題は、私の意見では、資本主義的生産の歴史的限界が明らかになった状況にわれわれが直面していることを理解することである。
 何を理解する必要があるのか。マルクス主義の説教師のように思われたくはないが、『資本論』の一節を読み上げよう。
 「資本主義的生産の真の制限は資本そのものなのである。このことは、資本とその自己増殖とが生産の出発点および終止点として、あらわれるということである。すなわち生産は資本のための生産でしかないのであって、逆に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程をたえず拡大し形成していくための単なる手段ではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化にもとづく資本価値の維持と増殖はこういう制限のなかでだけ運動しうるにすぎないのだが、こういう制限はしたがって、資本が自分の目的のために用いざるをえない生産方法、また生産の無制限な拡大、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件の発展をめざす生産方法と、たえず矛盾することになる。手段││社会的生産力の無条件の発展││が、現存資本の増殖という制限された目的とたえず衝突するわけである。だから資本主義的生産様式が物的生産力を発展させこれに見合った世界市場をつくりだす歴史的手段だとすると、それは同時に、この生産様式のこういう歴史的任務とこの生産様式に見合った社会の生産関係とのあいだのたえざる衝突でもある。」[『資本論』第三巻第十五章第三節、日高晋・長坂聰・塚本健訳、中央公論社]

新しい局面と2つの要素

 この文章には、今日ではもはや使われなくなった「歴史的任務」のような用語が確かに使われている。他方では、来るべき年月に目撃するであろう危機は、まさにマルクスが直感し、今や十分に存在している世界市場を基盤にして展開されるであろう。これが、われわれが世界情勢を取り扱う上で一九二九年とは異なる第一の点である。中国やインドのような国は、当時はいまだ半植民地国であったが、今日ではもはやそのような性格は持っていない。これらの国の特殊な特徴(複合的不均等的発展の表現)は分析において注意を要する。しかし、これらの国は、今や単一世界経済、歴史上現段階までは見られなかった規模で統一された世界経済に、全面的に参加している。
 したがって、始まった危機は、その文脈において、一九二九年の場合とは異なる意味で独特である。これが第一点である。第二点は次のことである。私の意見では、この新しい歴史的段階において、この危機は、われわれが最初の兆候を経験している世界的な気候の危機とこのような資本の危機とが結びついた形で進行するであろう。
 人類の真の危機であるような複合的関係の局面にわれわれは入っている。これには戦争も含まれる。非常に広範な戦争、世界戦争、それは現在では核戦争以外にありえないが、世界戦争の勃発を除外するとしても、われわれが直面している危機は新しいタイプの危機であり、資本主義の枠組みの中で人類がかえりみず乱暴に扱ってきた自然が容赦なく反応してくる状況の中で始まったこの経済危機の結合である。それはわれわれの議論からほとんど除外されていたものであるが、中心的な現象として姿を現している。
 たとえば、ごく最近、フランスの社会学者フランク・プポーの著書を読んで学んだことであるが、ボリビアのラパスやエルアルトの水源であるアンデス氷河の減少が八〇%以上進んでおり、約十五年でラパスとエルアルトは水を得られなくなると推定されている。これは、革命的マルクス主義者を自認するわれわれが対処できないことである。われわれはこのような自然とこのような広がりを持った事実について議論してこなかった。しかし、この事実は、当然、ボリビアの階級闘争を実質的に変化させる可能性がある。たとえば、論争の的であるスクレへの首都移転問題は、ラパスの水が枯渇するのであれば、「自然現象」となるであろう。
 われわれは、この種の事実が階級闘争に干渉する時代に入ったのである。問題は、革命的サークルの中ではほとんどだれもこのことを語らないことである。われわれは、その重要性が現在は無視できるようなことを議論し続けている。それらは、われわれが目を向けなければならない挑戦課題に比べればまったく小さな問題である。

資本の「内在的制限」の克服

 資本主義の制限の問題の議論を続けるために、マルクスからの引用に戻ろう。前述の一節の前に、次のように書かれている。「資本主義的生産は、自分に内在するこういう制限をたえず克服しようとするが、しかしこれを克服する手段は、この制限をあらたにかつより強大な規模で自分に加えるものでしかない。」[前掲書]分析や議論において役立つ避雷針が存在した。過去三十年間の間、米国の背後にひかえるブルジョアジーが資本の固有の制限を克服するために実施した手段は、主として次の三つであった。
 第一に、金融、貿易および投資の自由化の全過程が存在した。すなわち、一九二九年と一九三〇年代の危機に基づいて第二次世界大戦、中国革命と民族解放戦争の後に出現した政治的関係の破壊のプロセスである。これらの関係は、西ヨーロッパやラテンアメリカにおいては資本の存続に影響を与えるものではなかったが、同時に資本に対する部分的な統制を表していた。しかし、これらの関係はすべて破壊された。
 資本の固有の制限を克服するために使用された第二の手段は、未曾有の規模で、架空の資本、信用の形態を創出することに頼ったことである。それらは、体制の中心である諸国において、不十分な需要を拡大した。
 第三の手段は、資本にとって歴史的に非常に重要なことであるが、世界資本主義体制の完全な構成要素として、ソビエト連邦とその「衛星諸国」が復帰したことである。特に中国の復帰はいっそう重要であった。なぜなら、財産と生産の関係の統制された変更によって特徴付けられるからである。
 これら三つの過程の互いに相反する影響の枠組みの中で、始まった危機の広がりと新しさを把握することができる。

自由化、世界市場、競争…

 まず最初に、ソ連崩壊後の旧ソビエト「陣営」の資本主義への統合および中国の資本主義への統合がつくり出した空間における、世界的規模で行われた自由化と規制緩和の矛盾した影響を見てみよう。自由化の過程とは、第二次世界大戦終結時の国際的枠組み内に構築された規制の要素を解体することであり、規制のメカニズムを完全に取り去った資本主義をもたらした。
 資本主義が規制緩和されただけでなく、世界市場が実際に全面的に創出され、マルクスにとってほとんど直感と予想にすぎなかったものが現実になった。世界市場の概念を特定することは有用である。「市場」という用語は、資本の活動の制約から解放された価値設定の空間を指し、資本がこの空間を真の国際的中央集権化と集中のメカニズムの基礎として使用することにより、この空間は資本が剰余価値を生み出し実現することを可能にする。これは開かれた、非均質的な空間であるが、資本の移動にとっての障害の厳格な削減をともなっており、地球的規模での価値設定のサイクルの組織化を可能にする。
 この空間は、すべての国々のすべての労働者をお互いに競争させることを可能にする状態をともなっている。したがって、この空間は、産業予備軍は真にグローバルであり、マルクスが研究した形態における蓄積の過程への労働者の統合または拒否の流れを支配するのは全体としての資本であるという事実の上に据えられている。
 人類および世界の大衆がこの生産に同意する可能性は非常に限定されているという条件の下での「生産のための生産」の過程の全般的枠組みとはこのようなものである。全体としての資本にとって、そして特に個々の資本にとって、資本の価値設定のサイクルの積極的な結果を得ることがますます困難になっている理由がここにある。
 また、このことは、「競争の盲目的な法則」の演じる役割が絶えず拡大し、世界市場に対してますます決定的なものになっているという事実にも由来する。中央銀行や政府は互いに協定を結び危機を克服するために協調しようとすることはできるが、資本間の恐るべき競争の舞台となっている世界空間に協調を導入することが可能であるとは、私には思えない。
 今や、資本間の競争は、世界体制の旧来の先進国部分の資本間の関係をはるかに超えている。この競争には資本主義的観点から見て低開発国部分も含まれている。なぜなら、世界市場においては、非常に寄生的な部分を含む独特な形で、帝国主義中枢部の伝統的枠組みからはずれた資本の中央集中化の過程が起こっているからである。これに関連して、世界的枠組みにまったく新しいものを導入するような状態が起こっている。
 過去五十年間に、特にごく最近の局面において、独自の権利として世界独占のパートナーとして自らを統合する能力を備えた産業グループが体制の特定の段階にまで発展してきた。インドおよび中国において、本物の強力な資本主義的経済グループが形成された。金融レベルでは、石油収入と固有の寄生性の表現としての君主の富の基金が、資本の中央集中の重要点となっている。それらは独自の戦略と独自の力学を持ち、資本のいのちが決定される重要点の地政学的関係の構成を多くの面で変化させており、この傾向は今後も続くだろう。
 したがって、われわれが考慮しなければならないもう一つの側面は、この危機が、敵対する者のない世界権力として米国が振舞うことができた段階の終焉をしるしていることである。私の意見では、われわれはメスザロスが二〇〇一年の彼の著書の中で分析した局面を抜けたのである。米国はテストされるだろう。短期間のうちに彼らの世界関係は変化したのであり、権力は共有されなければならないという事実に基づいて米国は彼らと再交渉し再編成を行わなければならないだろう。
 もちろん、これは資本の歴史において平和的には決して起こらなかったことである。したがって、第一の要素は、資本の制限を克服するために資本が選択した手段の一つが緊張、対立、矛盾の新しい源となっている、ということであり、この危機を通じて新しい歴史的段階が開かれたのである。

無統制の架空資本の創出

 経済中心の資本が制限を克服するために取った第二の手段は、支払能力を有する需要の拡大の完全に人工的形態の創出に全面的に頼ることである。架空資本の他の形態の創出に加えて、これが現在の金融危機の条件をもたらした。「ヘラミエンタ」の同志たちがスペイン語に翻訳して発表した記事の中で、私は架空資本とその蓄積およびそれを特徴付ける新しいプロセスの問題をかなり詳しく検討した。
 マルクスにとって、架空資本とは、すでに行われた投資の「影」である証券の蓄積である。債券や株式の形をとって、その所有者の目にはそれらは資本として映る。全体としての体制にとってはそれらは資本ではないが、その所有者にとってはそれらは資本であり、「正常な」経済状態の下では、資本の価値設定の過程の最後においてそれらは所有者に配当や利子を保証する。
 しかし、危機状況においては、その架空の性格が明らかになる。過剰生産の危機が発生し、会社の破産などが発生すると、この資本は突然消失する可能性がある。株式市場の急落によって、資本のあれこれの量が「消失した」ことを新聞で読んだことがあるだろう。これらの量は、資本としていわゆる正しく存在していなかったのである。これらの株式の所有者にとってそれらの権原が配当および利子に対する権利、利潤の一部を受け取る権利を表しているにもかかわらず、である。
 もちろん、今日の大きな問題の一つは、多くの国において、年金制度が架空資本に、すなわち危機のときには消失する可能性がある利潤の分け前に対する請求権の形態に基づいていることである。
 一九八〇年代および一九九〇年代の自由化と金融グローバリゼーションの各段階に、架空資本の蓄積が増大し、特に投資基金、年金基金および金融基金が保有する架空資本が増大した。一九九〇年代の初期から中期および今世紀に入って表れた非常に新しい傾向は、特に米国および英国において、信用の形態をとった架空資本の創出の途方もない推進が行われたことである。会社への信用だけでなく、特に家庭へのローン、消費者信用および抵当である。このようにして、われわれは創出された大量の架空資本の質的急増を目撃した。これが、まったく予測可能な出来事のような小さなショックに対してさえ、傷つきやすさともろさを著しく高めた。
 たとえば、十分研究されたこれまでの経験に基づいて、資産ブームはよく知られた内因性の理由から必ず終わることをわれわれは知っている。株式市場には株式の値上がりには限界がないという幻想が存在することは比較的理解できるが、これまでの歴史全体が、資本部門ではこれは真実ではないことを示している。建物や住宅について言えば、ブームはいつか終わることは不可避である。しかし、金融投機の成長と成功の継続への依存の度合いが非常に強く、この正常で予測可能な出来事が巨大な危機をもたらす要素に転化した。
 これまで述べたことに加えて、さらに、ブームの最後の二年間に、返済能力をほとんど持たない家庭にローンが認められたことを付け加える必要がある。それだけでなく、これらすべてのことが新しい金融「テクニック」と結び付けられた。私は、前述の「ヘラミエンタ」の記事でこのことを説明しようとしたのであるが、これは、いったい何を買ったのか誰にも正確には分からないような方法で指定合成証券を銀行が販売することを可能にするものである。二〇〇七年に始まった「サブプライム」効果の感染の破壊的な性格と、とりわけ「毒性効果」が各銀行間の関係を強烈にむしばんだという事実を説明するとすれば、このようなことであった。
 今や、われわれはこの過程の「破綻」を目撃している。銀行の平均有効資本保有額の三十倍もの負債比率(当時「回収可能」と考えられた負債を含む)がもたらしたn乗の架空性を持った「資産」の蓄積を消去することが必要である。この「破綻」はもちろん金融資本の集中にとって有利である。
 バンク・オブ・アメリカがメリル・リンチを買収したとき、それは集中の古典的な過程を象徴していた。九月十七日に経験した危機の飛躍は、財務省と連邦準備銀行がリーマン銀行の破産を妨げないという決定によってもたらされた。九月十八日には、彼らは立場を変えて、AIG保険グループに大量の支援を行うことを決定した。
 負債の国有化の過程は、架空資本の新たな創出を暗黙に意味している。米国の連邦準備銀行は、架空資本の量を増加させて崩壊しかかっていた架空資本(銀行および投資基金)の制度的中央集中化の幻想を維持しているが、いつか財政の圧力の強烈な増大を強いられることが予想される。これは国内市場の収縮と危機の加速を意味し、事実上連邦政府が対処できない事態である。このように、われわれは、何も解決しないまっさかさまの飛び込みを目撃しているのである。
 この過程の枠組みの中で、君主の富の基金の力が増大している。その効果は、金融分野における資本家間配分を、このタイプの基金を蓄積している年金部門に有利に変化させたことである。また、これはこの過程の擾乱のもう一つの要因である。
 この第二の側面の最後に、剰余価値の実現にとって決定的である資本価値設定サイクルの戦略的中心としての特性を米国に与えたのが、GDPの七~八%の国際収支赤字であることを想起する必要がある。米国支配の下での資本にとってだけでなく、全体としての資本の価値設定過程にとってもこのことはあてはまる。
 今、ほとんど避けることのできない景気後退に直面して、中国が米国に代わって剰余価値の実現のこの側面を保証する場所となることができるかどうかという大きな問題が発生している。連邦準備銀行および財務省の介入の程度が、これまでの米国の活動の収縮と輸入の減少が緩慢で限定的である理由を説明する。問題は、経済政策の単一の機関として流動性の創出の増大をいつまで維持できるかということである。すでに存在する架空資本の価値を維持するために流動性の形で架空資本を創出することには限界がないということがあり得るだろうか。私にはこの仮定は非常に危険であると思えるし、米国のエコノミストたち自身もこれに対する疑いを深めている。

中国の過剰蓄積?

 最後に、固有の制限の克服を追及する資本の第三の道に目を向けよう。ここに最も重要で最も興味深い問題が提起される。私は、資本主義的生産の社会的関係の体制の拡大、特に中国への拡大について言及した。これはかってマルクスが可能性として言及したが、ごく最近になって現実になったことである。そして、これは危機の要因を増加させる条件の下で行われた。
 中国における資本の蓄積は、国内プロセスとして行われ、完全に記録された出来事に基づいて行われたが、ほとんど語られてこなかった。すなわち、米国から中国への経済の第二部門(消費財部門)の生産の移転である。このことは米国の赤字(貿易赤字および財政赤字)の増大と大きな関係があり、この赤字は米国の広範な「再工業化」によってしか逆転できない。
 これは、米国と中国の間に新しい関係が確立されたことを意味する。それは帝国主義国と半植民地国の関係ではない。米国は新しいタイプの関係をつくり出し、彼らは今やこのことを認識し結果を引き受ける上で困難に直面している。中国は貿易黒字に基づいて何億ドルも蓄積し、それはただちに米国に貸し付けられた。この結果の一つが、ファニーメイ(連邦住宅抵当公庫)とフレディマック(連邦住宅抵当金庫)の国有化である。中国銀行はこれらの企業の一五%を保有し、米国政府に対してこれらの企業の価値引き下げを受け入れないことを通知した。これらは、まったく新しいタイプの国際関係である。
 しかし、生産に影響を与えるような輸出の大幅な減少の形で危機が広がり、中国の銀行構造や上海証券取引所に危機が広がった場合には、何が起こるだろうか。前述の記事では、この問題について最後のページで述べただけであったが、ある意味でこの問題は危機の次の段階にとって最も決定的な問題である。
 中国においては、中国政治機構の部門間の対抗のプロセスおよび外国企業をひきつけるための彼らの間の競争と結びついた資本間の競争の内部プロセスが存在する。このことが、大規模な自然破壊に加えて、膨大な生産能力の創出のプロセスをもたらしている。すなわち、中国では資本の過剰蓄積が集中しており、これはいつの日か維持できなくなるだろう。
 ヨーロッパでは、生産能力と雇用の移転、すなわち資本主義世界の唯一のパラダイスである今日の中国への移転が、巨大産業グループの間で周知のことになっている。私の想定は、中国へのこの資本の移転が、これまでの蓄積の運動の変化をもたらしており、資本の有機的構成のあらたな増加を引き起こしているということである。
 蓄積は、生産手段において強く、原材料や不変資本の他の構成要素については非常に浪費的である。第一部門(生産手段)の生産能力の大量の創出が中国の成長の推進力になってきたが、この生産を流通させ価値および剰余価値を実現することを可能にする最終市場は世界市場である。世界市場を悪化させることにより、景気後退はこの過剰蓄積を強調する。ミシェル・アグリエッタはこれを特に研究しているが、彼は実際に過剰蓄積が存在することを認め、中国において生産能力創出の急激なプロセスが存在し、このプロセスは外部市場が収縮したときすべてのこの生産の実現の問題を提起するであろうことを認めており、このことが現在始まっていることを認めている。
 実際、中国は真に決定的な役割を演じている。なぜなら、中国経済の小さな変動が世界の他の多くの諸国の経済状況を決定するからである。ドイツにとって輸出が減少し景気後退に入るには、中国の投資財への需要がわずかに減少するだけで十分である。中国におけるこのような「小さなゆれ」が、いたるところに非常に強烈な反響をもたらしている。アルゼンチンの場合もこれは明らかだろう。

熟考と議論を続ける

 最初に述べたことに戻ろう。一九二九年に匹敵するとしても、この危機の局面は一九二九年とは異なっている。なぜなら、当時は最初の瞬間から米国の過剰生産の危機が発生した。後になってそれは深まったが、最初から過剰生産の危機であることは明らかであった。今日では、反対に、中心的資本主義大国が実施した政策がこの瞬間を遅らせているが、彼らはこれ以上のことを行うことはできない。
 同時に、一九二九年と一九三〇年代にも起こったように、異なる条件と形態の下であっても、危機は資本主義にとっての世界レベルでの経済的力関係の全面的再編成の必要性と結びつき、中国や世界の他の部分との関係を再交渉する際に、米国の軍事的優越性がただの一要素であり、従属的要素であることを米国が知る瞬間が来るだろう。もちろん、彼らが予測不能な結果をともなう軍事的冒険に乗り出さない場合のことである。現在のところは、いずれにせよ国内政治情勢がこれを許さないが、景気後退が長期の不況と革命的運動をもたらすと、これを除外することはできない。
 これらのすべての理由から、現在のところは金融危機の段階にあるとしても、われわれが取り扱っているのは一つの金融危機以上のものである、と私は結論する。この集会では架空資本の糸をほぐす試みに集中し、この資本を解体するのが困難であるのはなぜかを理解することに集中しなければならないとしても、われわれは無限の広がりを持つ危機に直面しているのである。
 私がブエノスアイレスに到着しこの集会に来るまでの私に対する質問や種々の評論記事から考えると、私が資本主義の現瞬間の破局主義的姿を描こうとしていると多くの人々が思っているという印象を受ける。実際、私は、われわれが破局のリスクに直面していると考えており、それは資本主義の破局や「金融危機」ではなく、人類の破局であると考えている。
 われわれが気候の危機を真剣に考えるならば、おそらくすでに何らかの兆候が存在しているのである。たとえば、私はメスザロスの立場に賛成であるが、この問題を同じように重要であると考える人は多くない。この立場から見ると、われわれは差し迫った危険に直面しているのである。悲劇的なことは、現在の瞬間には、その存在が考慮されていない一部の人々にしかこの問題が直接的な影響を与えていないことである。
 ハイチで起こるかも知れないことは歴史的重要性があると思われていない。バングラデシュで起こっていることは影響を受けない地域の人々には重みを持っていない。ビルマで起こっていることもそうである。なぜなら軍事政権の支配がこれが知られるのを妨げているからである。中国においても同じである。われわれは成長の指標については議論するが、他のエコロジー的破局については議論していない。なぜなら、抑圧機構がこの問題に関する情報を統制しているからである。
 最悪なのは、「エコロジー的危機は主張されているほど深刻ではない」という意見が、メディアによって絶えず伝えられ、左翼知識人のメンバーを含めて深く浸透していることである。私はこの問題について仕事を始めており、書き始めているが、金融危機の開始によってある程度関心を金融に戻すことを余儀なくされた。しかし、このことに私は余り満足していない。なぜなら、私にとって本質的なことは別のレベルにあるからである。
 結論を述べよう。これらはすべて、資本主義の歴史上比類のない五十年にわたって続いた(一九七四~七五年の短い中断を除く)蓄積の長い局面の後に起こっているという事実、また、資本主義的指導的サークル、および特に中央銀行は、一九二九年の危機から学んでいるという事実は、すべて危機の発展がゆっくりしていることを意味する。二〇〇七年九月以降、指導的サークルは絶えず「最悪の事態は過ぎた」という主張を繰り返しているが、確かなことは「最悪の事態」はこれからであるということである。
 私が状況の重大性を過小評価するリスクを主張し続ける理由がここにある。われわれの分析とこれらの問題へのアプローチの仕方においては、結局「何も起こりそうにない」という主張を無意識のうちに内在化する可能性を、少なくとも可能性を、組み込まなければならないということを私は示唆したい。

 われわれは、二〇〇八年九月十八日にブエノスアイレスで行われたアルゼンチンの雑誌「ヘラミエンタ」の集会での講演(二〇〇八年十月に「ヘラミエンタ」第三十九号に発表された)をここに再録する。

▲ フランソワ・シェスネは、ATTACフランスの科学評議会のメンバーで、経済に関して複数の著書と多くの記事を執筆している。
(「インターナショナル・ビューポイント」08年11月号)

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