原子力と社会主義
エネルギー政策の出発点を確認するために
高島義一
高島義一同志が理論誌「第四インターナショナル」52号(1985年11月号)に書いた「原子力と社会主義」のデータをアップしました。なお、「右島一朗著作集」にも同論文は収録されており、関連する反原発論文も入っています。柘植書房新社から発行されていて、入手可能です。
はじめに
私は、「世界革命」八九九号において原水禁運動に関する湯村論文(同八九五~八九七号)を批判する小論を発表した。「科学とマルクス主義-共産主義社会が原子力を選択する余地はあるか」と題するものである。私の主張は、「エネルギー源としての原子力が現在のみならず将来にわたって不可能であり、そしてそもそも不必要である」というものであり、この観点から「現在の原発には反対だが、動力として原子力エネルギーを選択するか否かは、将来の共産主義世代の選択しだい」という湯村論文の主張を批判したのであった。
そののち、この論文をめぐって何人かの同志と討論した結果、多くの同志が今もなお原子力エネルギーの本質的諸問題についてほとんど理解していないということが明らかになった。すなわち、多くの同志の認識は、“世界各地で反原発闘争が闘われており、現実に被害者も出ているようだから、とにかく「今の原発は危険なのだろう」”という程度のものであり、そこから同志湯村も陥った誤った結論が導かれていたのである。そしてこれらの同志が無意識の前提にしているのが「石油はいずれなくなるのだから、あとは原子力だ」というブルジョアジーのひところの宣伝と同水準の認識であり、また、「科学」そのものは善であるのだから、もし原子力エネルギーの現在の利用形態が危険であるとすればそれを利用しているブルジョアジーとその階級支配に問題があるのであって、社会主義、共産主義になれば、多分安全に利用できるようになるのだろうという空想的認識である。
総じて、これらの同志たちの認識は、全く事実にもとづかず事実によって基礎づけようという努力がほとんどなされていないという特徴を持っている。七三年の第一次石油危機からすでに十三年、七九年のスリーマイル島原発事故からすでに七年、エネルギー問題全般についても、原子力エネルギー問題についても、さまざまな大衆闘争の重要な課題となり、多くの論議が行われ、多くのすぐれた論考が各所で発表されてきたにもかかわらず、残念ながらこれらの同志たちはその闘いと運動に真剣に学ぼうとはしてこなかったのである。
私もこの七年あまりにわたって、「世界革命」紙上や本誌上にこれらの問題に関する論文や解説記事を何度となく発表し、資本と資本家政府の政策の危険性を暴露し、労働者人民がとるべき立場を提起してきた。本稿は多くの点でこれらのすでに発表したもののくりかえしになるところを含むだろうが、わが同盟のこれらの問題に関する理論的現状にかんがみ、あえて再整理し、問題を提起する。社会党と総評が連合政府構想と労戦統一にむけて反原発政策の放棄へとむかっており、共産党も現在の自民党政府の原発政策に反対であるとしても将来にわたってはあいまいなままにしており、社労党(旧マル労同)などのように「原子力こそ社会主義のエネルギー」などという反動的主張をくりかえしている部分も存在しているなかで、この問題についてわれわれがとるべき立場を再確認することは、それなりに意義あることであると思う。
中 原子力エネルギーの不可能性はすでに実証されている
ある同志は、「現在の原発が危険であるということがわかっていれば、反原発闘争を闘ううえで充分ではないのか。将来はどうなるのか、まだわかっていないのではないか」と私に問うた。そうではない。現在の原発が、現在われわれを危険におとしいれているばかりか、将来の世代を危険におとしいれ、未来を閉ざしているということは、別々の問題でなくひとつの問題である。原子力発電が核分裂エネルギーを利用するものである以上、大量の放射能の発生を不可避とするというところに、その危険性の根本があるからだ。現在が危険であることが本当にわかっているならば、将来にわたって危険であることは自明であるはずなのである。
「未来の世代に放射能が与える損害を考えに入れていない以上、原子力発電が経済的だというのは見せかけの議論である。放射性物質には半減期(放射能の強さが半分に減るのに要する期間)が何億年のものもある。人類は自らを破滅させるだろう。原子力は放射線を生み出す限り価値がない。あなた方は、それではなぜ私が原子力潜水艦をつくったのかと尋ねるだろう。それは必要悪なのだ。全部沈めてやろうかと思う。自分が果した役割を誇りに思ってはいない。……」(1)。
これは、“原子力潜水艦の父”と呼ばれ、戦後アメリカ核開発の最大の功労者の一人だったハイマン・リコーバー提督が、八二年一月に退役するとき、上下両院経済合同委員会で行った演説である。彼は、ノーチラス号をはじめとする原子力潜水艦を設計・建造し、六十三年間十三人の大統領のもとで海軍軍人としてすごしてきたという経歴を持ち、そして彼の開発した原潜用の加圧水型炉が、そのまま発電用原子炉の原型となったのである。アメリカの政府高官や軍人は、退役するととたんにリベラルになり、かつて自らがたずさわっていた政策を批判したりすることがよくあるとはいえ、自らの生涯を全否定するに等しいリコーバー演説は衝撃的であった。
リコーバーのもとで続々と建造された原潜は、八四年現在で百二十隻にのぼる。すでに六三年には攻撃型原潜スレッシャー号がニューイングランド沖で爆沈、六八年にはスコーピオン号が大西洋アゾレス諸島沖で沈没しており、いずれも原子炉の故障といわれている。この他、一九五四~八二年に二十九隻のアメリカ原子力推進艦船が原子炉事故を起こしたという(2)。そして、多くの原子力推進艦が耐用年数を過ぎ、アメリカ海軍省はそれを巨大な核廃棄物と化した原子炉もろとも海洋放棄する計画を立てている。また、軍用の核廃棄物タンクはあふれかえり、マンハッタン計画以来無造作にすてられた核廃棄物によって、全国百カ所以上の広い土地が汚染され、おどろくほどの数のガンや白血病が発生している。
退役するにあたってリコーバーは、このような自らが中心となってつくりだした現実の前にあらためてぞっとしたにちがいない。
リコーバーは、「放射線を生み出す限り、原子力は価値がない」と述べた。そして、原子力が原子力であるかぎり、放射線を生み出すのである。「地下を走る飛行機」が形容矛盾であるように、「放射線を出さない原子力」は原理的にありえない。したがってそれは価値がなく、有害なのである。
リコーバーが言うように、「原子力発電は未来の世代に与える損害を考えに入れていない」。「未来の世代に与える損害」が、どれほど大きなものになるのか、正確に予測することはできない。それは、原子力発電が日々大量に生み出す放射性廃棄物の毒性が、これまでの人類の経験をはるかに超えたものであるからだ。現在一般化している百万キロワット級原発が一年間運転すると、広島級原爆千発分の死の灰(核分裂生成物)と二百五十キログラムのプルトニウムが生成される。このプルトニウムで、長崎級原爆五十発分がつくれるが、プルトニウムを人が吸いこめば、わずか百万分の一グラムで致命的な肺ガンを引きおこす。「グレープフルーツほどの大きさのプルトニウムの塊は、現在生存しているすべての人々を殺すのに十分な毒性を持っている」(3)のである。そしてプルトニウムの半減期は二万四千年であり、大量の、さまざまな放射性物質をふくんだ核廃棄物が天然ウラン鉱石程度の放射能(それでも充分に有害であり危険である)にまで衰減するまでには、百万年もかかるのである。現在世界で稼動中の原発は三百三十六基、合計二億キロワットをこえた。一年ごとに広島原爆二万発分の死の灰と五十トンのプルトニウムがつくられている。核廃棄物は、高い放射線と崩壊熱を発生しつづける。これを常に冷却しながら絶対に外界に漏出しないように、人類の歴史の尺度をはるかにこえた長期間にわたって厳重に保管しつづけなければならない。東海村の使用済み核燃料再処理工場で、動力炉・核燃料開発事業団が「百年はもつ」と豪語した溶解槽が、わずか一年で穴があいてしまったことも記憶に新しい。しかも、問題となっているのは百年ではなく百万年である。そしてすでに世界各地で何度も廃棄物漏出事故が起こっており、周辺の環境を汚染している。
核兵器がつくられてからわずか四十年、原子力発電が「実用化」されてからわずか三十年のうちに生み出されたぼう大な核廃棄物は、今後百万年とすれば実に四万世代から五万世代にわたる未来の人類に、恐るべき負債としてすでに託されてしまっており、それは全世界で三百三十六基にのぼる原発によって日に日にすさまじい勢いで増加させられており、数百隻の原子力推進艦船によって増加させられており、核兵器製造の過程で増加させられている。それらの核廃棄物はすでに、人類を何万回、何十万回も殺せる量に達しているのである。
原子力はエネルギーを生み出しているか
原発がこれまでに生み出したエネルギーは、ふつうに思われているよりもはるかに小さい。よく口にされているたとえに、「わずか一グラムのウラン二三五は、石油二トンのエネルギーに相当する」というものがある。ところが、天然ウランを濃縮して核燃料にするために、まず巨大なエネルギーを要するのである。三%の濃縮ウラン一トンを製造するためのエネルギーは採掘から精練、転換、濃縮、成型加工、輸送をふくめると石油換算で約三千トンに達する(4)。とりわけ濃縮にはすさまじい量のエネルギーを要し、アメリカ・オークリッジの濃縮工場は、一九四〇年代には当時のアメリカの電力の実に六分の一を消費していた。また、建設中のフランス・ユーロディフの工場は四基の九三万キロワットの原発によって電力を供給されるが、これは一九五〇年にフランスが使用したのとほぼ等しい電力を消費するという(5)。そして原発は、火力、水力に比べて建設費がはるかに高い。これまで一般に言われてきた原発の経済性とは、燃料費の安さによるとされてきた。その燃料は、国家が投入した巨額の資金によって建設された工場で、原発の販路をひろげるために意図的に安く設定された値で販売されてきたために、「安かった」にすぎない。そして原子力には、毎年巨額の国家資金が研究費として注ぎこまれてきた。七六年に決定された日本の「原子力研究開発利用長期計画」では七八年から八七年までの研究開発資金は計四兆円にのぼるとされている。このほとんどが国家資金だがこれらは原発の「コスト」からは当然のようにのぞかれている。これらを計算に入れ、核廃棄物の管理と建設費に近い資金がかかるともいわれる廃炉の費用まで入れると、原発は消費するより多いエネルギーを生み出しているのか、きわめて疑わしいと言えるのである。たとえば、アメリカエネルギー省の核廃棄物管理の予算は八二年度民間廃棄物管理に二億一千ドル、軍事廃棄物は三億七千八百万ドルだった。また、アメリカエネルギー省のエネルギー研究主査であるジョン・デューナ氏の試算によれば、廃炉の解体処理に二億~十一億ドル、その解体物(核廃棄物のかたまり)を二十年管理するとして二百三十億ドルかかるという。日本円に換算すれば、廃炉関連だけで約六千億円である。しかも、二十年で管理が終わるわけではない。
今後数万世代が破滅を回避するために、核廃棄物の管理のために費やさなければならないエネルギーが、原発がこれまでに生みだしたわずかなエネルギーをはるかに上まわることはあまりにも明白である。われわれには、将来への負債をこれ以上大きくする権利はない。
「階級社会でなくなれば原発の危険性はなくなるのでは」という意見がある。ところが放射能は人工的に衰減させることができない。だからブルジョア学者たちでさえ、「安全になるまで百万年」と言わざるを得ないのである。自然界の法則まで共産主義が変化させることはできない。また、このような意見の人達が頭に浮かべている「原発の危険性」とは、スリーマイル島事故や、それを越える最大級の事故で何千、何万の死者や遺伝障害やガン死者が出る危険性であり、日常原発労働者が強制されている過酷な放射線被曝労働の危険性であろう。一円でも多くの利潤を生み出そうとする資本の支配のもとでは、安全装置や定期点検にかける費用はできうるかぎり削減され、その分だけ危険性はますであろう。しかし、あまりにも原発が危険なため、ブルジョア支配のもとでさえ、二重、三重の安全施設をほどこさざるを得ず、原発建設の費用は増大する一方である。このため建設費は高騰をつづけており、アメリカではこれが主な原因となって予定された原発建設は次から次へとキャンセルとなり、ついにGE(ジェネラル・エレクトリック)社が原発からの撤退を宣言するまでになっている。ブルジョア支配が一掃され、二重、三重の安全施設が四重、五重となり、より綿密な点検が行われ、原発労働者がより一層放射線被曝をまぬがれるようになるとすれば、建設と維持に費やされる費用は、現在とは比較にならないほど大きくなるだろう。たしかに危険性は減少するかもしれない。しかしそれは、どうみてももはやエネルギー源ではなく、単なるエネルギー消費装置であるだろう。そしてそうなっても、核廃棄物だけは依然として生み出されつづけるのである。
「石油にかかわるエネルギー」の幻想
「石油と石炭がなくなったあと、原子力という選択肢も残すべきではないのか」という意見もまだ存在する。核廃棄物の問題が存在しないとしても、そもそも原子力は石油と石炭に変わることはできない。原発は電気しか生まず、電気は現在のエネルギー使用形態のわずか一~二割しか占めないからである。原発で自動車は走らず、飛行機は飛ばない。そしてもし仮にすべてのエネルギー使用形態が電気になると仮定しても、今度は石油・石炭という資源問題がウランという資源問題にかわるにすぎない。しかも、ウランの埋蔵量は石炭、石油、天然ガスにオイルシェール、オイルサンドを加えた化石燃料に比べると極度に少ない。これら化石燃料の埋蔵量は実はいまだ極めて大きく可採年数は現在のエネルギー使用量でおそらく千年規模のスケールであろう(6)。もちろん技術的にはさまざまな困難があり、環境破壊の問題も山積しているが。
これに比べてウランはどうだろうか。「ウランの全資源量は四九〇万ショートトンだが、この全資源量は軽水炉発電所の八〇ギガワット(=八〇〇〇億ワット)の燃料にすぎないことに注意する必要がある」(7)。八千億ワット、すなわち八億キロワットとは、現在全世界運転中の原発三百三十六基計二億三千キロワットで割れば、何と四年に足りない。これは天然ウラン一ポンドあたり十~三十五ドルで回収可能な量とされているから、ウラン燃料の高騰によってさらに低品位鉱が採掘されれば増大するであろうが、それでも可採年数はおそらく数十年程度であろう。石炭・石油にかわりうるはずがないのだ。
そこで「もし増殖炉が配置されるなら、この燃料からとりだせるエネルギーは六〇~一〇〇倍に増加する」(8)とされている。しかし、そのためには高速増殖炉が実用化されなければならない。いうまでもなく増殖炉は、軽水炉などに比べてはるかに危険である。増殖炉では、高速の中性子が作用しているため、減速材として水を使えずそのかわりに六百二十度の高温で溶融した金属ナトリウムをつかっている。ナトリウムが熱交換器に送られ、蒸気を発生させてタービンを動かすのである。常温でも金属ナトリウムは水や空気と反応するので、自然界では常に化合物の形で存在している。少量のナトリウムを水と接触させると激しい爆発が起こることは、中学校の化学の実験で誰でも経験があるだろう。増殖炉の中のナトリウムが蒸気発生器の薄い金属膜からほんのわずかでも漏れ出せば、激しい爆発が起こって猛毒のプルトニウム燃料と死の灰を周辺にまきちらすことになるだろう。
軽水炉において、蒸気発生器細管にピンホールが生じ、放射能で汚染された冷却水が漏れだすのは、きわめてありふれた事故である。たとえば関西電力の美浜一号炉では、八千四百本の蒸気発生器細管のうち二千二百本にピンホールや減肉化などの異常が発見され、四年以上も停止したのち破損した細管すべてにセンをして運転を開始したほどだ。高速増殖炉においては、ピンホールが生じればただちに爆発という最悪の事態になるのである。しかも、ナトリウムの激しい反応性のため金属の腐食はいっそう早く、ピンホールの危険はいっそう大きくなるだろう。技術的困難はあまりにも多く、あまりにも危険であり、現在の軽水炉のような形でさえ「実用化」されることはないだろうということは、充分に予想しうる。
もしこの増殖炉が何とか運転可能になったとしても、いささかも問題は解決しない。まず第一に軽水炉の使用済み核燃料を再処理してプルトニウムと燃え残りのウランを回収しなければならず、第二に増殖炉の使用済み燃料を再処理して「増殖」したプルトニウムを抽出しなければ何の意味もないからだ。ところで、軽水炉の使用済み核燃料でさえ、そのあまりの高放射能のために再処理はきわめて困難であり、莫大な費用がかかる。日本の東海村再処理工場は、建設費の十倍もの経費を補修その他のためにつぎこんで二千億円以上も費したが、運転、停止をくりかえし、事実上ほとんど止まったままであり、アメリカはすでに再処理そのものから撤退した。アメリカでは原発の使用済み燃料は、そのまま高レベルの核廃棄物として毎年何億ドルもの費用を費して保管されているのである。それは経済的にはむしろ当然のことである。アメリカだけでなく、イギリスも西ドイツも再処理が経済的に引きあわないことをすでに認めた。そして通産省の電気事業審議会料金制度部会も、再処理費が燃料価値を大幅に上回ることを認めた。通産省の見積りによれば使用済み核燃料一トンあたり、一億五千万円―一億七千七百万円の損失になるという(9)。すなわち、再処理すればするだけ損をするというわけだ。回収されるプルトニウムとウランより、そのために注ぎこまれるエネルギーの方がはるかに多いのである。
下北半島に日本帝国主義が総力をあげて建設しようとしている軽水炉核燃料再処理工場は、建設費一兆円を要するとされている。この工場の再処理能力は一年に八百トンであるから、もし予定通り稼動したら毎年千二百億~千四百億円の損失が生じることが、すでに明らかになっているのである。まさしくエネルギーを湯水のように飲みこむ工場である。
そしてそのかわりに吐き出されるのが、大量の放射能なのだ。再処理工場は、原発の一年分の放射能を一日で出すと言われており、イギリスのセラフィールド(ウインズケール)工場付近では、八三年に周辺の海藻から平均値の約千倍の放射能を検出、数カ月にわたり約四十キロにおよぶ海岸が立ち入り禁止となった(10)。二万羽を超えた海鳥は一割以下に激減し、十歳以下のガン発生率も近くの村では平均の十倍になっているという。しかもこのウインズケールの再処理工場は、七三年の事故以来ずっと停止したままである。海底に放出され蓄積された放射能が海岸から風で運ばれているとすれば、事態を「解決」する道は、ただ住民を疎開させるしかなくなるというのだ。
再処理工場は、核廃棄物のかたまりである。もし最悪の事故が起った場合、西ドイツの原子炉安全研究所の試算では、百キロさきに住む人でも致死量の十倍から二百倍の放射線をあび、風向きによって死者は三千万人に達するという。そして八〇年四月、フランスのラ・アーグ再処理工場で、このような最悪の事態になる寸前の事故が発生した。変圧器のショートによる火災で工場全体が停電し、そのため使用済み燃料や高レベル廃棄物プールの冷却が止まり、崩壊熱でプールが沸騰しはじめたのである。二時間後に火災は鎮火し、二十キロはなれたシェルブールから運ばれた移動発電器で冷却が再開されたため、かろうじて大災害には至らなかったが、この時フランスは壊滅的打撃を受ける危機に現実に直面していたのである(11)。
増殖炉の再処理工場は、軽水炉の再処理よりいっそう危険な核分裂発生成物を含む燃料をあつかうため、青写真を描くことさえできず、世界的にも試験的な技術すら開発されていない(12)。もし、そのような再処理工場をつくることが可能だとしても、それは天文学的な量の資金、すなわちエネルギーの投入を要し、しかも超大量、超高放射能の核廃棄物を生み出すだろう。高速増殖炉もまた、湯水のようにエネルギーをのみこみ死の灰だけを増殖するのである。
このような問題をすべて捨象して、百年後のエネルギーのすべてを原子力に代替したらどうなるかということを、ローマ・クラブ第二レポートが予測している。そのためには、五百万キロワットの高速増殖炉を全世界で二万四千基建設しなければならず、百年でそれに達するためには、毎週四基の増殖炉を建設しなければならない。しかもこれは増殖炉の寿命を考慮に入れておらず、寿命を三十年とすれば廃炉となる増殖炉を補充するためだけに毎週二基を建設しなければならない。単に補充するための費用だけで、世界の総生産の六〇%に達する(13)。言うまでもなくこの費用には、使用ずみ燃料再処理の費用や、核廃棄物の処理と管理の費用は計算されていない。これを加えれば、優に世界の総生産を数倍するであろう。
このような、原発をつくるためだけに存在する社会が成立するはずもないことは多言を要しない。そもそも自らの総生産を数倍する費用をつぎこんでエネルギーだけを「生産」するという仮定がブラック・ユーモアである。そしてそのはるかに以前に、重金属などほとんどの地下資源が原発のために投入されることで枯渇する。もちろんプルトニウムをつくりだすためのウランも含めてである。銅、ニッケル、マンガン、鉄、鉛などの鉱物資源がなければ、一基の原発も建設することができない。そして、使用量が現在のままであって今後増えないとしても、鉛の資源耐用年数(枯渇するまでの年数)は三十七年、亜鉛は二十六年、銅は六十三年、ニッケルは八十六年、マンガンは百六十四年である。(14)。この埋蔵量が数百、数千倍になることが必要である。そのためには、もういくつかの地球を運んでこなければならないだろう。
このように、原子力エネルギーを「未来のエネルギー」とする考え方は、全くありそうもない仮定のうえに仮定を重ね、さらにその上に壮大な空想を重ねたようなものに他ならないことが、すでに証明されている。
冒頭に紹介したリコーバーの演説にも見られるように、ブルジョアジーにとっても原子力が未来のエネルギーではないことは本当はすでに明らかになっているのである。八〇年六月アメリカ民主党が採択した綱領は次のように述べている。「省エネルギーと再生可能エネルギーを、将来のエネルギーとして優先しなければならない。連邦政府が再生可能エネルギーと効率向上に乗り出すにつれ、そして代替燃料が将来利用可能になるにつれ、原子力発電所からは整然と撤退することになろう」(15)。科学的な論争としては、結着はすでについているのである。
核融合の夢と科学的現実
「それでも、核融合はクリーンなエネルギーで、しかも無限のエネルギーを生み出すのではないか」。科学に学ぼうとせず、現代科学技術の生み出した幻想を信仰する人々はなおこう問いかける。まさしくこれもまた、仮定の上に仮定を重ねた幻想にすぎない。
核融合が要する反応温度は、太陽の中心の十倍の二億度、反応圧力は同じく二兆気圧である。全く当然のことながら、地上に存在するどのような金属も鉱物も、この温度と圧力に達するはるか以前の段階で溶け、沸騰し、蒸発してしまう。水爆は核融合反応によって巨大なエネルギーを引き出している。そのために水爆では、まず原爆を爆発させ、一瞬核融合の反応温度と圧力をつくりだすのである。これを人間がつくった容器の中でつくりだし、しかもそれを制御することが不可能であることは、容易に予想しうる。しかし、「不可能であることが完全に証明されきったわけではない」ということで、毎年巨額の国家資金が投入されている。
原研が建設しようとしているJT―六〇は「五十万キロワット級の火力発電所を二~三基建設できる費用を投入し、三十五万キロワットの電力を消費して運転する。しかしこれだけ消費してなお、電力発生はおろか、核融合反応すら予定していない。その前の前の段階なのだ。原研が今後計画している諸施設の費用の合計は五兆円という」(16)。
核融合には、重水素とリチウムが必要だ。リチウム6を人工的核反応によってトリチウムとし、これを重水素と反応させるのだが、リチウム6は「全資源量としても全世界に七万トン弱しかないと推定されている」(17)。すなわち、もし仮に核融合が実現したとしても、リチウムがつきればそれで終りである。すこしも「無限」ではない。
しかもそれは「クリーン」でもない。「核融合の場合、同出力の原子力発電に比べて……四倍の中性子を発生する。しかもそれは原発の中性子に比べて、はるかに高いエネルギーの中性子である。この中性子は、核融合の装置を放射化し、劣化させる。そこで、これを新品と交換しなければならない。試算によれば、その量は、毎年六〇〇トンといわれており、原発から出る放射性廃棄物の一〇倍になる。中性子を扱うかぎり、汚い技術であって、クリーンという表現は絶対に正しくない」(18)。
核融合もまた、仮定のうえにいくつもの仮定をつみ重ね、しかもそのうえで核廃棄物だけを生産し、ぼう大なエネルギーと巨額の資金をのみこむ浪費装置の研究にすぎないことが明らかになった。こうして、原子力エネルギーが原子力エネルギーである限り、核廃棄物を不可避的に生み出すことによって、動力としての使用は不可能であり、それが生み出すエネルギー以上のエネルギーを消費せざるを得ず、ただ大量の貴重な資源を浪費して人類の未来をますます困難にするものでしかないことは明白なのである。
中 なぜ原発が推進されてきたのか
アメリカ帝国主義と原子力発電
一九五三年十二月八日、アメリカ大統領アイゼンハワーは、国連総会で歴史的演説を行った。「原子力平和利用」を大々的に打ち出したこの演説は、きわめて秘密主義的であったアメリカの原子力政策を転換させるとともの、国際的に原子力発電が展開する契機となった。しかしそれまで、アメリカは原子力発電にはきわめて消極的だったのである。
このアイゼンハワー演説の背景は何だったのだろうか。それは、四九年のソ連原爆実験の成功、五二年イギリスの原爆実験、五三年八月のソ連水爆実験によって、アメリカの核独占が崩壊したのみならず、核戦略そのものの再考がせまられたことによる。核拡散は不可避であった。しかも、すでにアメリカよりははるかにすすんでいるソ連やイギリスの原子力「平和利用」が「実用化」し、その他の諸国にもひろがれば、アメリカの統制のおよばないところで核拡散が急速に進行する恐れがあった。原子力の軍事利用も「平和利用」も、技術的には同じ原理によるものだからである。「当時イギリスは、軍事用のプルトニウム生産と発電の両方を同時に行うことのできる天然ウラン型の原子炉の開発に力を注ぎ、世界市場への原子力技術の売り込みをねらっていた。そこでアメリカは、ソ連とイギリスの先手を取って原子力の『平和利用』を全世界的に大々的に呼びかけることによって、アメリカの『これまでの原子力兵器優位、原子力原料独占をひきつづき確保し、『また将来の世界の原子力産業を支配』』しようとしたのである。それがアイゼンハワーの『原子力平和利用』の隠された意図であった」(19)。アメリカは、不可避的な原子力発電による核拡散を、自らが支配し管理しようとしたのである。
同時に、アメリカの原子力産業にとっても原子力発電が必要になりはじめていた。当初アメリカ原子力産業が原発にはほとんど関心を示さなかったのは、政府の手あつい庇護のもと核兵器生産で独占的利益をあげていたからであった。ところが、核兵器の過剰生産の進行によって、資本にとっても原発が必要になりはじめていた。「一九五〇年代の中頃までは国内の原発の建設が遅れていたために、原子力産業界は生産能力の過剰に脅かされていた。その一方で潜在的な海外市場は三〇〇億ドルにも達すると見積られていた」(20)。
さらにつけ加えれば、「平和利用」への転換によって、盛りあがりつつあった核兵器禁止の国際的世論をかわそうという狙いもあった。アメリカに対抗して核開発をすすめてきたソ連邦は、同時に強力に核兵器禁止を訴えていた。「大統領の演説は、原子力エネルギーの平和開発見通しに注意を向けることにより、ソ連を守勢に追いこんだ。演説は一般の人々の希望と、科学者や知識階級の関心をとらえた」(21)。
この「一石三鳥」の狙いはみごとに成功し、原発はアメリカ原子力産業の柱となった。アメリカ政府はぼう大な研究費の撒布による国家助成、民間電力会社の原発建設に対する直接出費、プライス・アンダーソン法(原子力災害国家補償法)の制定によるバックアップに加え、各国と二国間協定を結んで輸出入銀行の長期融資を行い、原発の輸出拡大につとめた。融資額は六十六億ドル以上に達しその返済期間は長く、他のいかなる輸出に対するより補助金の比率が高い。
原子力発電が華々しく登場したこの登場のし方に、原子力発電の帝国主義と資本にとっての意味が鮮明にあらわれている。すなわち「一九五〇年代に原子力発電が選択された契機は、決して原子力がエネルギー源として経済的にも、技術的にも安全性においても適格な条件を備えていたからではなく、むしろエネルギー問題とは全く異質の契機、すなわち冷戦体制下におけるアメリカの世界戦略およびアメリカ国内における巨大企業を中心とした原子力産業の世界市場戦略こそ、原子力『平和利用』、原子力商業化の要だったのである」(22)。アメリカでは、いまや原発は完全に行きづまった。一九七一年から七八年までに発注された原発四十一基のうち、すでに百四十基がキャンセルとなった。そのうえ七八年以降新規発注は一基もない。いまやアメリカは、原子力発電から全面的に撤退しつつある。しかしアメリカの原子力産業は、レーガンの拡軍拡のもとで本来の軍需産業として生き残ることができる。
日本帝国主義と原子力発電
ところで日本はどうか。
『原子力工業』八〇年一号で、今井隆吉(日本原電技術部長から石油外交のためクウェート大使となった人物で、現在は軍縮問題国連大使)は述べる。
「(原子力エネルギーの利用は)在来の産業技術と違って、『燃料サイクル』の上に乗った巨大なシステムであり、しかもその出生以来今日に至るまで軍事的な『核』ときわめて密接に関連している」「今日のような原子力を取巻く環境が難しい世の中になってなお原子力発電を強力に進めているのが核兵器国のソ連とフランスであり、兵器の基盤を持たない西ドイツが脱落しかかっていることは、もちろんそれが単一の要因ではないことは明らかではあるが、何か示唆的である」「今日、新規原子力発電所の注文が途絶えたことで一つの危機に見舞われている感のあるジェネラル・エレクトリック(GE)、ウェスチングハウス(WH)などのメーカーにとっても、他面ではトライデント新潜水艦、核弾頭組立て工場など軍事面で核技術の連続性が保たれる仕掛けそのものは揺るがずにいる」。
ところが、日本が核兵器の生産に公然と乗りだすためには、当面政治的危険が大きすぎる。そこで「二十世紀末まででは、主要国の中で、唯一日本だけが、原子力に頼らなければならない国である。……いままで、米や独に追いつけ追いこせでやってきた日本は、いま『米、独がやめても、日本だけはやる』という覚悟が必要な客観情勢にある。日本には、自主開発の力がある。ただひとり原子力の道を歩んでいく勇気が、日本の指導者や国民にあるかどうかにかかっている」(23)。ということになる。
すでに日本の原子力産業は、日本帝国主義にとって死活的な位置を占めるまでに肥大してきた。原子力発電は、その「核燃料サイクル」までふくめ、不況から脱出しきれない諸産業にとって欠かすことのできない市場を提供する。八〇年三月に成立した、民間核燃料再処理工場の建設をめざす「日本原燃サービス」(株)には、鉄鋼、非鉄金属、セメント、建設、機械、電機、損保など、日本の代表的独占資本百社が参加している。また、通産省はここ毎年景気刺激策として原発を中心とする電力資本の設備投資の前倒し発注を要請している。今年十月十五日、政府が決定した三兆円の内需拡大政策の柱のひとつが、電力投資を一兆円増額することである。レーガンの核軍拡が、アメリカ帝国主義にとってまさしく「軍事ケインズ主義」に他ならないなら、全面的過剰生産に陥った日本帝国主義にとって原発はいわば「原子力ケインズ主義」の役割を果しているのである。
また日本帝国主義は、一流の帝国主義としての地位を防衛するために、核兵器の開発能力を常に高く維持しつづけなければならない。ウラン濃縮にしろ、原発の運転にしろ、使用済み核燃料再処理にしろ、核兵器開発の技術と一体である。そもそも原発は、イギリスがそうであったように、核兵器のためのプルトニウム生産炉の廃熱を発電に利用したものだった。また核融合は言うまでもなく水爆の開発のひとつであり、そのレーザー炉はまさしくSDI(スターウォーズ計画)の柱のひとつとしてのレーザー開発と一体である。したがって、日本帝国主義は原発から撤退するわけにはいかず「ただひとり原子力の道を歩む」悲愴な決意を固め、それを労働者人民に強要しているのだ。
労働人民は、これを拒否しなければならない。
労働国家と原子力発電
それでは、労働者国家の原発について、どのような態度をとるべきだろうか。ソ連邦をはじめ、東欧諸国はいずれもかなり大規模な原子力発電の計画をもっている。また中国は先ごろ日本との原子力協定に調印し、原発の積極的導入をめざしている。われわれは、労働者国家のこのような原発建設に、断固として反対する。
われわれは、労働者国家の核武装の権利を防衛せざるをえない。もしソ連邦が核武装せず、アメリカ帝国主義の核独占がつづいたなら、つい先日も第二次大戦直後のアメリカの対ソ全面核戦争計画が明らかになったように、そして朝鮮戦争やベトナム・インドシナ戦争など、植民地解放革命や“東西対立”の激化の中で何度となくアメリカ帝国主義が核攻撃を検討し、計画し、準備したように、「第二、第三のヒロシマ・ナガサキ」が確実におとずれていたであろうからであり、それによって国際階級闘争がとりかえしのつかない大後退を強いられたであろうからである。アメリカ帝国主義に核使用のフリーハンドを与えてはならない。この一点において、われわれは労働者国家の核武装を防衛せざるをえないのである。
しかしそれは、きわめて痛苦な選択である。なぜなら、労働者国家が核兵器を研究し、開発し、実験し、生産するすべての過程において、多数の被曝労働者が生み出されてきたし、生み出されつづけるからであり、労働者国家の核実験による放射能もまた、帝国主義のそれと同様に全世界の人類を確実に傷つけているからである。アメリカ、ピッツバーク大学のスターングラス教授は、五〇年代から六〇年代にかけた米ソ英の大気圏内核実験によって、胎児、乳幼児、そして成人の死亡率が上昇し、そのため、十五年間に世界で数百万人の死ななくてよかった人々が余分に死んだという詳細な研究を発表している(24)。われわれが労働者国家の核武装を防衛するという時、このような恐るべき現実が同時に認識されていなければならない。
スターリニズムの裏切りは世界革命を遅れさせ、帝国主義を生き延びさせた。帝国主義は自らの延命の最終兵器を生み出し、そして今世界の労働者人民は、労働者国家の核武装という両刃の剣によって、自らを傷つけつつ自らを防衛せざるを得ないところにたち至っているのである。したがって問われているのは、一刻も早くスターリニズムにかわる革命的指導部をつくりだすことであり、一刻も早く帝国主義を打倒して世界革命を完遂することなのである。労働者国家の核武装を防衛するということは、このような強烈な自覚と目的意識性と同義なのである。
われわれが、労働者国家の核武装を防衛せざるを得なかったとしても、労働者国家の原発を防衛する必要は全くない。それは、これまで述べてきたことで明らかなように、労働者国家の人民を傷つけ、労働者国家の資源を浪費し、労働者国家を弱体化させるからである。われわれは、労働者国家を防衛するためにも、原発を推進するスターリニスト官僚を打倒しなければならないのだ。
それでは、なぜ労働者国家で原発建設がおしすすめられているのだろうか。それは、官僚支配体制のもとで、核廃棄物の処理までふくめた長期的未来にわたるエネルギー収支の計算が行われていないからであり、帝国主義の科学技術と常に対抗しつづけたいという官僚的欲望からであり、労働者人民に対する重大な危険性を無視、あるいは軽視しているからである。
「一九四六年から四八年までの間に、われわれの作業員の一部が放射性の白内障にかかっていた」。これは一九六八年にソ連の原子力研究所長アレキサンドロフが、過去の原子炉に比べて現在の安全さを強調しようとして述べたことである(25)。放射性白内障は、被曝が二百レントゲン以上にならないと通常あらわれない。そして数時間内に四百レントゲンを浴びると致死量となるのである(26)。当然、ガンや白血病も非常な多数にのぼっていることは間違いない。ソ連の核開発の中で、いかに労働者が深刻な被曝労働をさせられていたか、想像にあまりある。スターリン時代、このような工場の建設や操業において、最も過酷な労働は通常囚人が行っていた。もちろん、アレキサンドロフが自慢したように、現在はこれほどひどいことはないだろう。しかしソ連邦で被曝労働が一掃されているとは、とうてい考えることができない。ソ連の原発の特徴は、格納容器がないことである。圧力容器がむきだしになっているのだ。もし事故が起って放射能が圧力容器から放出されれば、ただちに外界に出ていってしまうのである。これも、放射線被害をソ連官僚が軽視していることのあらわれではないのだろうか。
またわれわれは、「ウラルの核惨事」(メドベージェフ)を忘れることはできない。一九五七年、ソ連のロシア共和国内ウラル地方の工業都市チエリアビンスク地方の北方の町クイシツイム付近で、軍事用プルトニウム生産原子炉の使用済み核燃料・廃液の保管場所の大爆発が起った。ソ連から追放された科学者ジョレス・A・メドベージェフ(スターリン研究で有名なロイ・メドベージェフの双生児の兄弟)の推理によれば、冷却不十分な廃棄物タンクの爆発か、しみ出したプルトニウムの濃度高まって連鎖反応を起したことなどが考えられる。いずれにせよ、ずさんきわまりない廃棄物管理が原因である。この結果、八百~千二百平方キロを半永久的に居住不能なほど放射能汚染し、数百から数千人が死亡した。ソ連邦はもちろん、米英日など帝国主義諸国政府も、この事実を知っているにもかかわらず、原子力開発の危険性が知れわたるのを恐れていまだに公表していない(27)。
八四年、サンフランシスコで開かれた全米放射線被害者大会は、全米に核被害者の総数を約百万人と推定した。原爆復員軍人二十五万人、核実験場作業員二十五万人、ネバタの風下と太平洋地域の実験場の風下住民十二万人、核兵器関連施設の作業員二十五万人、ウラン鉱山労働者一万五千人、広島・長崎の日系・韓国系被爆者千人である(28)。この“ヒバクシャ・インUSA”に匹敵するか、あるいはそれを超える規模の“ヒバクシャ・インUSSR”が存在することはうたがいない。
科学と科学技術
最後に、多くの同志が「原子力エネルギーの可能性」について幻想をいだく根拠のひとつとなっている、「科学」と「科学技術」のとらえ方についてひとことふれておこう。
多くの同志が、物質の本質を解明する「科学」と、それをさまざまに応用してなされる「科学技術」あるいは「技術」を混同している。現代国家にとって、科学技術は体制維持のための手段となっている。体制の維持のために国家と資本が科学技術発展の方向を決定し、そこに巨額の資金が投入されて技術開発がすすめられている。この流れからはずれ、あるいははずされてしまえば、研究費や研究場所の確保はもちろん人材の補給すらままならない状況が生まれている。核戦争を支える先端技術の開発にぼう大な資金と人力と物量が投入され、いわゆる「基礎科学」もその大きな部分はそこから流れ出る資金によって支えられるような状況におちいっている。
二度にわたる帝国主義戦争が、科学技術のあり方がこのような形になっていくのを決定的に促進した。それが、ひとつのシステムとして確立したのは、原爆の開発をめざしたアメリカの「マンハッタン計画」であった。
物質の本質を解明する「科学」の発展は、自然必然性への洞察を深めるものであり、人類を「自由の王国」へ一歩近づけるものであることはまちがいない。原子物理学の発展もそのようなもののひとつであろう。しかしそれを応用して開発された核兵器という「技術」は、人類を「自由の王国」へ近づけるどころか、人類史そのものを終らせてしまう可能性すら持っており人類にわざわいしかもたらさない。このような「科学技術」の発展は、もしロシア革命につづいて世界革命が勝利していればありえなかったであろう。それは、帝国主義と戦争の時代が生みだした「負の科学技術」なのである。
核兵器という科学技術の副産物として生まれ、開発されている原発、高速増殖炉、核融合炉もまた、物質の本質を解明する「科学」ではなく、体制の維持のために、体制の方向づけによって形成された「科学技術」なのである。「科学」には、善悪の差はないかもしれないが、「科学技術」には人類の発展にとって役に立つものも役にたたないものも、有害なものもあるのだ。その多くは、支配体制の維持のために、体制の方向づけによって生み出されている。崩壊しゆくブルジョア支配の防衛のための技術が、共産主義に役立つわけはない。体制がかわれば有害な技術が有益になるわけはなく、有害な技術は廃棄されるしかないのである。
中 現代社会とエネルギー過剰使用
エネルギー過剰使用の諸結果
「エネルギー源としての原子力」という選択肢を、現在のみならず将来にわたって拒否しなければならないことは明らかである。それなら、われわれが現在、そして将来めざさなければならないエネルギー政策とは、どのようなものなのだろうか。次にこのことについて触れてみよう。もちろん、詳細なプランは提出することはできないし、すべきではない。それは、日本全国、全世界の労働者人民が思考錯誤をくりかえしながらつくりあげるものだからである。
その前提として、現在の世界のエネルギー消費のあり方について見てみなければならない。生きのびすぎた現代資本主義社会の生産・消費のあり方が、長期にわたって存続しえないものであることは明らかである。それは環境を破壊し、あらゆる資源を浪費しつくして、一日生きのびるごとに人類の未来をせばめつつある。
たとえば、自動車の排気ガスや工場の排気ガスなど、化石燃料の利用にともなって発生する硫黄酸化物、窒素酸化物による大気汚染は、いささかも軽減していない。これらが大気中の水蒸気と結合して酸性雨を降らせる。「ノルウェー、スウェーデン、南カナダおよびアメリカ合衆国東部の広大な地域において降雨のPH値が正常な五・七から高い酸性の四・五以下に落ち、完全に酸性の範囲に入っている。……すでに湖、森、土壌、作物、窒素固定植物および建築材料に被害が認められている。……たとえばPHが四・三以下の南ノルウェーの一五〇〇の湖のうち、七〇%の湖には魚がまったくいなかった」(29)。
大気中のオゾン層が、超音速ジェット機から排出される窒素酸化物や、エアゾル・スプレーに使われるフロロカーボンの放出、窒素肥料の多用などで破壊されて減少しているが、オゾン層は有害な紫外線を吸収する役割を果している。紫外線の過度な照射は、皮膚ガンを起こす。「この結果、すべての国で悪性黒色腫の出現率が年に三ないし九%高まっており、その死亡率が過去五年間に二倍になった」(30)。いまでは、ほとんどのガンが環境の悪化によって起ることが明らかになっている。また、環境中への重金属の放出は、いたるところで水俣病やイタイイタイ病などの恐ろしい公害病をつくり出した。このような、環境破壊が引きおこす健康被害は、文字通り枚挙にいとまがない。
海洋汚染は深刻である。廃油や、ありとあらゆる合成化学物質、重金属、人間の生活廃棄物が海に投棄されている。アメリカ政府は、すでに一九四七年から七〇年のあいだだけで十一万四千バレルの放射性廃棄物を海洋投棄した。毎年約百万トンの油が、貨物船、タンカー、海底油田の掘削装置から海に漏れ出し、さらに数百万トンの石油製品が廃液となって海を汚染している。「油が被膜となって海を覆うと、海中への光線の入射や酸素の流れに影響するので、油は海をすくなくとも一時的に生物を住めなくする可能性がある」「遠からず人類は、海を食糧源として使うか、あるいは廃棄物の受け入れ場として使うかの間で、選択をしなければならない」(31)。
さらに人間は、地球の気候まで変えてしまおうとしている。化石燃料の大量使用による炭酸ガスの激増は、「温室効果」による気温の上昇をもたらす。産業革命以来、すでに一五%も大気中の炭酸ガスが増加している。いまのままで使用量の増加がつづくと、二一世紀半ば以前に中緯度地方で二~三度気温の上昇が起り、降雨の状況などが激変し、農業が壊滅的打撃を受ける可能性がある(32)。また炭酸ガスによる気温上昇は、中緯度より極地の方が三~四倍大きいと予想されている。極地の温度が五~十度上昇すると、グリーンランドや南極の氷を溶かし海面を上昇させることによって、多くの沿岸の都市が水没する(33)。
高度経済成長とエネルギー浪費
世界最大のエネルギー消費国であるアメリカは世界の五%の人口で、三〇%のエネルギーを消費している(34)。一人当りにすれば日本はアメリカの三分の一だが、可住地面積当りに換算すると日本は西ドイツの二倍、アメリカの九・八倍のエネルギーを浪費している。はたしてこのようなエネルギーの消費は本当に必要なのか。
日本資本主義は、一九六〇年代いっぱいをかけて、全面的な重化学工業化と驚異的な高度経済成長をとげた。鉄鋼と石油化学を基礎とした重化学工業は、用地造成から道路・港湾などの基礎整備から金融・税制に至るまで、国と自治体によるありとあらゆる優遇措置を受けつつ、最新鋭の機械を導入し、規模の一挙的拡大と低賃金による低コストを武器にして、国際競争戦にうちかっていった。戦前の粗鋼生産のピーク(七百五十六万トン)を五三年に超えた鉄鋼業は、六五年には四千万トンを突破し、七〇年には九千万トンを超え、七〇年代はじめにはたちまち一億トン台に達した。そして鉄鋼業は日本のエネルギー総需要のほぼ二〇%を使ってきたのである。また、石油化学工業の主要生産品であるエチレンは六〇年の七万八千トンから七〇年には三百九万七千トン、七五年には三百三十九万トンに達した。
この巨大な生産力の拡大は、海外市場への依存を強めると同時に、産業構造・消費構造の全面的な転換を要求した。石油化学工業の生産力拡大が、他産業におけるプラスチック・合成ゴム・合成繊維といった「材料革命」の主要因であって、その逆ではない。プラスチックは日用生活品から家具、建設材料や自動車、工業部品にいたるまで、広範囲な代替需要を生んだ。
六〇年代前半にはじまった高度経済成長は、民間設備投資主導型ですすめられたことにより、量産体制が確立された六五年には投資が減退して一時的不況におちいり、同時にテレビ、冷蔵庫、電機洗濯機など代表的耐久消費材も需要が一順してのきなみ生産が減退した。そこで、資本は耐久消費財も使い捨ての時代に突入することに方向を定める。「六〇年代前半のマーケティング戦略の特徴は、大量宣伝、販売網の確立、月賦販売の導入に加え、アフターサービスの徹底であったが、不況をさかいにその戦略が一変した。新製品発売という聞こえのいいモデルチェンジと、古い商品の修繕を不可能にしてアフターサービスの手を抜き、古い商品を下取りすることによって新商品を押しつけるという、まさに耐久消費財も使い捨てという戦略への転換であった」(34)。
使い捨て、資源とエネルギーの浪費はあらゆる領域に広がった。生活のすみずみまで浸透したプラスチックの生産量は七六年には七百五万トン、うち廃棄対象量は四百五十三万トンで、廃棄率も年々上昇しつづけている。それは廃棄しても土中で分解されないばかりか土がよくしまらず、不等沈化を起したり、燃やせば高熱発生で焼却炉をいため、同時にダイオキシンなど有毒化学物質を生成したりしてあらゆるところでゴミ公害を発生させている。ビールや清涼飲料の容器は、ビンを回収するものから急速に使い捨てのアルミカンへと転換した。アルミカンを回収して地金として再使用するのに比べ、使い捨ててあらたにその分のアルミをボーキサイトから製錬するためには、二〇倍の電力を必要とする。そのエネルギーはアルミカン一本につきだいたいそのカンに半分の石油を要するという(35)。すなわち、年に何百億本も回収されずに捨てられるアルミカンは、地下資源としてのボーキサイトに加え、ぼう大なエネルギーを無駄に捨てていることを示している。回収された容器に料金をはらうことで回収を促進する、関東地方の知事会によるデポジット制の導入提案は、利用者がわずかな手間をきらって消費量が減退するのではと恐れた業界の反対でつぶされた。また、深刻な不況にあえぐアルミ工業にとっても、再利用などもっての他であろう。
そして、このように浪費に浪費をかさね、心理学を応用した大衆操作で必要のないところに需要をつくりだしても、肥大化した生産力を支えることはできなかった。スケールメリットを追求した各個別資本の生産能力増設競争、過剰設備、不況カルテル、設備廃棄というサイクルは、日本の基幹産業に共通するものとなった。たとえば造船所では、世界の造船量の半ばを支配してきたが、すでに三五%の設備が廃棄された。そればかりか、海運不況の中で巨大タンカーや貨物船が、また充分使用しうるにもかかわらず続々スクラップになっている。繊維工業では、七五年末の全国設置錘数千百七十万錘のうち、七八年までに二百二十万錘が廃棄された。操業率五〇~七〇%という慢性的過剰能力にあえぐ鉄鋼や、石油化学・プラスチック工業でも同様である。この建設に費やされたエネルギーと資源は、いったいどれほど巨額になるであろうか。
このような、資源的観点からすればいかに度しがたい浪費であっても、資本の利潤を確保するという点からすれば、欠くことのできないものであった。過剰な設備投資そのものが、新しい需要をつくりだすにとどまらず、石油化学工業の過剰生産能力にあわせて、「材料革命」が強力におしすすめられ新たな分野に市場をつくりだしたし、さらに、余剰生産設備の廃棄もまた新たな個別資本による設備投資の出発点となるのだ。高度経済成長の中で、すべての素材産業をはじめ生産財生産部門は余剰設備をもたらした過大な設備投資によって広範な需要を見いだし、日本の産業はほとんどその波及効果を得たのである。
「もっとも基礎的素材である鉄鋼は民間設備投資にその国内需要の五割を見い出し、造船用にその一・五割を供給した。そして民間設備投資の三〇%は鉄鋼産業の設備投資用であった。文字通り『鉄は鉄をよんだ』」のである(36)。
ここで日本のエネルギー消費構成にふれておけば、鉄鋼・化学・自動車など産業・運輸部門で七三%を消費し、民生部門(家庭だけでなくビルの照明なども含む)はわずか二一%である。資本主義体制を維持するために、浪費の上に浪費が重ねられてきたのである。
モータリゼーションの意味するもの
エネルギー浪費の最もわかりやすい例のひとつは、交通・運輸部門のエネルギー消費構造の変化である。運輸部門のエネルギー需要は、五五年度の石油換算八百万トンから、七〇年度三千六百六十万トン、七五年度の四千七百七十万トン、八〇年度の五千六百四十万トンへ増加した(37)。この過程は、高度経済成長の展開によって輸送量が飛躍的に増加したことと同時に、モータリゼーション政策によって自動車が鉄道にとってかわったことによって促進された。そして、自動車輸送は鉄道やバスに比べてエネルギー効率がきわめて悪い。「旅客輸送のばあい、八二年度実績では、おなじ輸送量を達成するのに乗用車(マイカー、タクシーの総称)は営業バスの四・三倍、鉄道の六・九倍のエネルギーを消費している。貨物輸送では、トラックは単位輸送量あたり鉄道の七・五倍、内航海運の八・四倍のエネルギーを消費している。そのため旅客については、一〇%のエネルギー消費にとどまる鉄道が三九%の輸送を担っているのに対し、七六%ものエネルギーを消費している乗用車が鉄道と大してかわらぬ四三%の輸送量しか担っていない。また、貨物については四五%の輸送量にすぎない乗用車が、全体の八三%ものエネルギーを消費している」(38)。
そして四輪車保有台数は六〇年の百三十五万台から七〇年には千七百五十万台、八三年には四千二百九十三万台へ三二倍にも激増した。日本で、鉄道・バスなどの大量輸送手段に、乗用車やトラックがこのように急激にとってかわっていったのは、それが大量輸送手段に比べて効率が良く、便利であったからではなく、ましてやそれが本当に人間生活のいっそうの充実のために必要とされたからではない。それは、政府と資本の政策によるものであった。
道路事業費は八三年度で六兆千五百億円に達しているが、道路建設設備費のほとんどが国家の財政負担である。それに対して鉄道建設費は、「独立採算性」の原則のもと、東北・上越新幹線やその他の「政治路線」のほとんどのように、最初から大幅な赤字営業となることがわかっているものも当然自己負担となり、また、「独立採算性」の強要によって、過疎化の進行により赤字に転落した鉄道やバス路線は、唯一の生活の足であっても廃止・縮小され、そこで生活しようとすればいやおうなしに乗用車を利用せざる得ない状況がつくり出されてきた。また、市街電車は、車が道路の収容能力をこえて激増したことと、路面の軌道内への車乗り入れ容認政策によってノロノロ運転を強いられ、またたく間に都市から姿を消した。
アメリカの場合はもっと露骨なものだった。一九三六年当時アメリカでは四万台の市街電車が動いていたが、五五年には四千台しか残っていなかった。なにが起ったのか。ジェネラル・モータース(GM)社は、当時も今も世界最大の自動車会社だが、このGM社が市街電車路線を次々に買収してはそれを解体し、かわりに自社製バスを走らせたのである。「四九年までにGM社はニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、セントルイス、オークランド、ソートレークシティ、ロサンゼルスを含む四五の都市で、一〇〇以上の市電輸送系統を、GM社製のバスと交替させる仕事に関係した」(39)。
日本においても、アメリカにおいても、交通運輸部門を自動車が制圧していったのは、労働者人民の選択ではなく国家と資本の政策によってであり、そこにおいて重視されたのは交通機関としてのエネルギー効率でも、ましてや労働者人民の移動の必要を満たすことでもなく、ただひたすら資本の利潤をいかにして増大させるかということであった。
自動車産業は、いまや日本の基幹産業中の基幹産業である。普通鉄鋼材の国内需要のうち一八%、特殊鉄鋼材の三七%、非鉄金属も鉛の三七%、アルミ地金の三五%を消費し、ゴムの七三%を消費している。さらに道路建設に鋼材四百四十万トン、セメント千三百三十万トン、アスファルト原料二百九十三万トンが使われている。すなわち、自動車産業の拡大、モータリゼーションの進行は、自動車資本だけでなく、実に広範な諸産業の巨大化した生産施設の稼働率を高め、資本に利潤をもたらしている。しかしこの巨大な量の資源の消費と、自動車自身の運転による大量のエネルギー消費(一九八二年度には石油換算五千百六十二万キロリットル、日本の全エネルギー最終需要の一四・一%、運輸部門の八三%。さらにその生産に要する直接、間接のエネルギーを加えると、それは驚くべき量に達するだろう)は、労働者人民の必要から出たものでもなんでもないのである(40)。
そして、過疎化政策と過疎地の切りすてによって、あるいは肥大化する都市周辺部の公共交通機関整備のサボタージュによって、自動車の必要性を強制されている人はともかく、多くの人々にとって自動車は不必要である。
「マイカーが年間で走っている時間は約三〇九時間(平均時速三五キロ)、一年のうち九六・五%の時間は止まっているのである」(41)。むしろ、もっと走行時間が多くなったら大変なことになる。「七八年三月の東京都における自動車台数は、舗走道路一キロメートル当り、何と一七四・六台。五・七三メートルに一台の割合で、道路にびっしり車が連なっていることになる」(42)。すなわち、ほとんどの車が、ほとんどの時間利用されていないことによって、交通渋滞がいまの程度ですんでいるのである。
イワン・イリッチは、このような“車社会”の現実を痛烈に皮肉っている。彼によれば、典型的なアメリカ人は、自動車を買うために働き、それを維持し、運転するために合計年間千六百時間費やしている。そして年間の走行距離は一万二千キロである。したがって約七・五キロ移動するのに一時間かけていることになるが、輸送産業のない国々では、人々はほとんどこれと同じスピードで歩いているのである(43)。もちろんこの数字には、万の単位で死者を出している交通事故や、深刻な排気ガス公害、また道路建設のために支出されている費用のために費やされる時間は入っていない。
現代社会を象徴するモータリゼーションは、資本主義の発展のためだけに役立っており、そこに費やされるエネルギーの多くが、ほとんど不必要なものであることは明白である。
農業「工業化」のエネルギー
農業の「近代」化によって、農作物や家畜の生育を通して本来エネルギーを蓄積するはずの農業は、いまや化学肥料と農薬、石油を大量に消費する「エネルギー消費産業」に変化した。たとえば「米の面積当り生産は過去二〇年ほどの間に一・五倍になり、一九七四年には一ヘクタールあたり一七七〇万キロカロリーとなったが、これに対して投入した補助エネルギーは、同じ時期の五倍にもなり、一ヘクタールあたり四七〇〇万キロカロリーに及んだ。特に農薬が三〇倍、燃料が二三倍、機械が一二倍、肥料が四倍にもなっている」(44)。「農水省の推計では、ハウスの場合、トマト一個つくるのに石油二〇〇CC、きゅうりなら百CC、メロンなら一八リットルも消費するという」(45)。
農薬の多投は地力を弱め、ますます化学肥料への依存を高める。多用される農薬は、当然生産者にも消費者にも、さまざまな農薬禍をもたらす。しかし、安全な農作物を、安く、豊富に生産するために、石油と化学肥料と農薬に依存しなければならないという証拠はない。もしそうなら、農業は化石燃料の枯渇とともに終らざるを得ない。化石燃料の埋蔵量が減少し、採掘条件が悪くなることによってその単位エネルギー当りの価格は上昇するが、それによって農産物の価格も上昇していかざるをえないことになる。アメリカのある農民はこう語った。「今日存在する生物のなかで、一番危険にさらされているのは人間だよ。こわいのは核兵器でなく、飢えだ。石油がなければ、わしらは今のように農業をつづけることができない。農業はもうおしまいだ」(46)。
長いあいだ依存してきた太陽エネルギーと土壌を、化石燃料に置きかえることによって増大した富は、大資本によってすべて吸いとられてしまっている。そしてそのことによって、農業そのものの基盤が深刻に掘りくずされている。しかし、このようなエネルギー消費産業としてしか農業が成立しえない証拠はない。土壌を守り、土地と農産物の循環を維持しようとする有機農法は、いまだグループや個人的経験にとどまっているが、化学農業に充分対抗しうることがどこでも証明されている。そのうえ、長野県臼田町の堆肥センターのように自治体が収集した家庭の生ゴミを土をよみがえらせる堆肥に変えるコンポストプラントや、し尿処理汚泥を肥料にかえる群馬県渋川市の液肥供給プラントのように、科学的・組織的な有機農業もすでに実用化されている(47)。個々の農民の重労働で手間のかかる有機肥料をつくる必要は、社会的に解決され得るのである。
電化の進行とエネルギー浪費
かつてのレーニンは、共産主義を「ソビエトプラス電化」と言ったことがある。電化こそ近代化の象徴であった。たしかに電気は便利なエネルギーであり、送電設備と変電設備があればどこへでも瞬時に大量のエネルギーを運ぶことができ、しかもその使用方法は多岐にわたる。しかし過剰な電化は不必要であるばかりか、エネルギー浪費に拍車をかける。電気を生み出すために必要なエネルギーが非常に大きいからである。
通常火力発電の熱効率は四〇%、原子力発電なら三〇%にすぎない。すなわち、発生する熱の三分の二が廃熱としてすてられてしまうのである。さらに、こうして発生した電気も、遠距離の送電でかなり失われてしまう。IEA(国際エネルギー機関)加盟国全体で八三年には電力産業は第一次エネルギー需要の三五%を占めた。すなわち、総エネルギーの三割五分も電力産業自身が消費しているのである。しかし、最終エネルギー消費のうち電力は一六%にすぎない。しかも、発電設備には巨額の資金投入を必要とする。日本では、電力の最終エネルギー需要に占める割合は一九・八%(八三年)とされているから、総エネルギー需要の半分近くは電力産業自身が消費していることになる。電化が生活のあらゆる領域で進めば進むほど、エネルギー消費増大のカーブは急上昇していくことになる。
すべてを電気で行う必要はないし、全くの無駄である。たとえば、部屋を暖房するだけなら、発電所をつくり、送電線を張り、石油を燃やしてその熱の四〇%を電気に変え、それでエアコンを動かすよりも、直接石油ストーブで燃やした方がよほど効率が良いことは説明を要しないだろう。電力は、それを必要とする特別な目的、たとえばモーター、鉄道、照明、エレクトロニクス、溶解炉、電気分解、アーク溶接などに利用しうるときのみに有効であり、現在の日本では、最終需要の一二%だけが電気でなければならない特定用途である(48)。不必要なものまで電化されているために、エネルギーのロスはきわめて大きくなっている。
電気は過剰に使用されているだけでなく、すでにここも過剰設備があふれている。たとえば八〇年度の電力需要バランスは通産省の発表でも夏のピーク時ですら二五・五%の予備が生じている。適正予備率は五~六%といわれるから、巨大な設備過剰が生じているわけだ。さらに九電力会社に電源開発や日本原電、公営水力・火力、共同火力などを加えると、実に三三・九%の設備が遊休していたのである。需給が最もひっ迫する夏の昼間ですら、八〇年度は九電力で三千九百七十万キロワット、百万キロワット級原発で四十基分の供給能力過剰が生じていたのである。これだけで、日本の原発すべての発電能力の二倍近い。過大に電力化されているにもかかわらず、すべての原発を即時停止し、そのうえかなりの火力、水力を停止しても平気なほど電力の過剰設備は進行しているのだ。にもかかわらず、まだ充分に使える火力、水力発電所をつぎつぎにつぶしてまで、原発が建設されているのである(49)。そしてテレビや新聞で「もう電気の二〇%は原子力」などという恥知らずな宣伝がおこなわれているのだ。アメリカにおいても、電力の余剰能力は八〇年には四三%に達しており、しかもアメリカに現存する大規模水力発電に匹敵する何千もの小型水力ダムが、使われないまま放置されている。イギリスでも、余剰能力は五〇%を超えている(50)。
エネルギー問題と資本主義
「エネルギー問題」の根本は、「いずれは枯渇する化石燃料にかわって、どのような代替燃料を開発するか」ということではないことが、これまで述べてきたことで明らかになっただろう。問題は、現代の資本主義工業国が、人間の物質的・文化的必要量をはるかに超えてエネルギーを過剰に浪費し、それによって現在巨大な災いを生み出しており、人類の未来をとざそうとしているということであった。
モータリゼーションと生活全般にわたる電化を柱とする「アメリカ的生活様式」は、「エネルギーの消費量の大きさこそ生活水準の高さのあらわれだ」という誤った幻想を定着させてきた。しかし、このアメリカ的生活様式を、全世界で採用することはそもそも物理的に不可能である。現在一億台のアメリカの自動車だけで、世界の石油消費の九分の一を使っており(51)、もし地球上の四十五億人がアメリカ人なみの一・四人に一台(日本は二・八人に一台)車を持つと、地球上を三十二億台の自動車が走ることになる。そうすると自動車だけで年間九十億キロリットルの石油を消費することになるが、これは世界の年間総エネルギー消費量をはるかに上まわる(52)。前半で私は、「原発をつくるためだけに存在する世界」という仮定で、原子力エネルギーの動力あるいはエネルギー源としての使用がいかに荒唐無けいなものであるか述べたが、「自動車を運転するためだけに存在する社会」もまた存立不能であることは説明を要しないだろう。自動車を製造するエネルギーも、自動車を動かすエネルギーで使ってしまうのである。
人間の衣・食・住やさまざまの社会的・文化的必要を満たすためにどれほどのエネルギーを消費しているかということが、豊かさの水準を示す指標ではないことは、きわめてわかりやすいことである。人間が移動するという目的を達成するために、鉄道の六・九倍のエネルギーを消費する自動車を使うということによって、鉄道を使っていたときよりも六・九倍豊かになるはずがないのだ。エネルギーは、社会の目的を達成するためのひとつの手段にすぎず、エネルギー自体が目的ではない。同様の目的を達成するためにより多くのエネルギーを必要とするとすれば、その社会はより豊かにより便利になったと言うより、より誤った方向へむかっていると考えるべきなのである。
「一九七七年には、いく人かの研究者が、米国はアフリカ、米国を除く南北アメリカ、日本を除くアジアのエネルギー消費量合計の二倍のエネルギーを消費していかなければ、経済的災厄に見舞われようと予言している」(53)。日本もまた、一国で全アジアのエネルギー消費量の三分の二を消費しているが、このようなぼう大なエネルギーを独占的に消費しつづけなければ存立しえない社会体制こそ、一刻も早く解体されなければ人類が災厄に見舞われるのだ。第二次大戦末期の一九四四年、ジェネラル・エレクトリック社のチャールズ・ウィルソンは述べた。「わが国が必要としているのは、永久的な戦争経済である」(54)。第二次世界大戦で全面的な戦争経済に突入することによってようやく一九二九年にはじまる大経済恐慌から脱出したアメリカ帝国主義は、その後もウィルソンの言うとおり、まさしく「戦争経済」の道を歩み、日本もまた同様の道を歩んできた。それは必ずしも兵器生産・軍需主導の経済を言うわけではない。生産構造が、戦争経済のような大量浪費、ひんぱんなモデルチェンジ、使い捨ての消費構造を前提として成り立っているということである。
すなわち、現代資本主義社会は、人為的な需要創出と恒常的価値破壊によってかろうじて成立している。かつて、精密機械の設計の仕事をしていた友人が私に語ったところでは、彼がある船舶用の機器の設計を命じられた際、いついつまでに必ずこわれるように設計せよと指令を受けたという。彼によればその機械は半永久的に使用できるように設計することは充分可能であった。しかしそれでは、市場を自らせばめてしまうことになる。このようなものの典型として、自動車がある。自動車は、輸送手段という目的と無関係な外観のカッコ良さによって買い求められ、モデルチェンジによって機能の耐久性にかかわりになく陳腐化され、かつての新型車を旧くさいものとすることによって、新たな需要を創出していく。人間の衣・食・住とさまざまな文化的必要を充足させるという目的とは関係なく、肥大化した生産力に見合った需要をつくりだすために、あらゆる領域で浪費がおしすすめられているのである。
したがって、経済成長率を社会の発展のバロメーターとする考え方の誤りもまた明白である。そもそも有限な地球の上で、無限の経済成長が可能なわけはない。そして、無限の経済成長を必要としているのは、人類ではなく、資本主義的経済体制なのである。たとえば、日々急速にすすむ労働生産性の前進によって、必要労働時間は急速に減少しているが、資本はそれにみあった形で労働時間を減少させようとはしない。当然過剰になった労働力が生み出されるが、それを吸収するために資本は労働日の削減よりむしろ規模の拡大へむかう。それでも余剰となった労働力は、工場から排除されて必要のないところに需要をつくりだすセールス労働にむけられ、あるいは首を切られて街頭にほおり出されるのである。
社会的、あるいは個人的な真の必要にもとづいて労働と生産が計画的に組織されるならば、また、耐久消費材の耐久性が増し、あらゆる領域の使いすてがやめられるならば、大幅な生産削減と大幅なエネルギー消費の削減が可能であることは、これまで述べてきたことで充分証明されているだろう。もうひとつだけ例をあげよう。電力は、八月中旬のピーク時にあわせて供給能力が整備されていることになっている。さきに、この八月ピーク時でさえすべての原発を即時停止してもまだおつりがくるほど発電能力に過剰があることを見たが、この八月ピーク時の急激な需要増がなくなれば、さらに全国で二千万キロワット以上の発電能力の余剰が生みだされる(55)。この八月ピークの需要増の原因は、甲子園野球の中継放送ではなく、工場事業所の冷房にあるから、この時期に欧米なみの夏季長期休暇が実施されるだけでよいわけだ。しかしそのためには、資本の抵抗を打ち破らねばならない。
労働時間が全面的に削減され、真の社会的必要にもとづいて計画的に生産が組織されるなら、現在の数分の一のエネルギー消費量で充分であろう。それがどの程度のものになるか確言することはできないが、いくつかの例をあげることはできる。
イギリスの研究機関アース・リソシーズ・リサーチ(ERR)は、八三年一月、七六年から二〇二五年に至るイギリスのあるべきエネルギー像を展望した『エネルギーの効率的な未来―太陽エネルギーの道をひらく』と題するレポートを発表した。この研究の主要なスポンサーは、イギリス政府のエネルギー省(DOE)である。この報告書は、五〇年先にはイギリスのエネルギー消費量を現在の半分から四分の一にまで減らすことができるとしている。残ったエネルギー需要のうち、二五~六〇%を太陽光、バイオマス、風力、水力など総体としての太陽エネルギーと、地熱エネルギーでまかなえるとし、化石燃料の消費量は六〇~九〇も減り、原発は全廃されるとされている(56)。
また、アメリカエネルギー省(DOE)の太陽エネルギー研究所(SERI)が行った「新たな繁栄―安定したエネルギーの未来を打ちたてる」と題する研究報告では、二〇〇〇年のエネルギー消費量を七七年の約八〇%に減らすことが可能だとしている。しかもこの報告は、GNPが年率二%で増加し、人間の移動距離も生活水準も向上すると仮定したうえでの数値である(57)。
太陽エネルギーの可能性
この減少したエネルギー消費量を充分にみたす手段を、われわれはすでに持っている。それは、いうまでもなく太陽エネルギーである。
「われわれ人類は、地表に達する太陽エネルギーを、平均では約五万分の一(〇・〇〇二%)しか使っていない。……もし地球上の一%の場所で、一%の効率で太陽エネルギーが利用できたら、一年間に石油に換算して六六億キロリットル分のエネルギーが手に入り、現在必要とされているエネルギーの全消費量をまかなうことができる」(58)。一%の一%、すなわち一万分の一、〇・〇一%である。今日の太陽光発電の効率は、すでに一二%をこえている。市販されている太陽熱温水器の効率は四〇%である。地上の一%の面積で、一%の効率で太陽エネルギーを利用できないという可能性があるだろうか。
「延床面積八二・五平方メートル、二階建てという標準的な住宅に当たる日光エネルギーは、日本の中心的緯度である北緯三五度あたりで、晴れた日には一日当りざっと五〇〇〇メガジュール(一二〇万キロカロリー)という大きな量になる。年間を通じれば晴れ、曇りが半々として一一〇万メガジュール(二・七億キロカロリー)という大きなエネルギーとなる。これは平均的な家庭で使うエネルギー、すなわち光熱費として支払う電気・ガス・石油などのエネルギーの総和の二七倍に当る。つまり、平均的な独立住宅に住む人は、屋根や側壁に当る太陽エネルギーの四%を利用するだけで、その家で使う直接エネルギー全部をまかなうことができる」(59)。この程度のことが実現できないという可能性があるだろうか。
かつて私が原子力エネルギーのエネルギー源・動力源としての不可能性を主張した際、「それは人類の未来に対する悲観主義である」と評した人がいたが、このように豊かな太陽エネルギーの存在にもかかわらず、原子力エネルギーへの道を残さねばならないと考える人こそ、度しがたい悲観主義なのである。悲観するにはおよばない。必要なのは、資本の支配を全世界的に打倒して労働者階級の権力を打ちたて、労働者人民の真の必要にもとづいた労働と生産の組織化に入ることである。
太陽エネルギーは、熱力学的に言えばどのような熱エネルギーを要求する任務にも適しているし、現存のエネルギー源が果しているどのような用途をも代行することができる。放射されるエネルギーの熱力学的な能力は、それを放射するエネルギー源の温度によって決定される。太陽の表面温度は約六千度である。だから太陽エネルギーは、それを集中することでどのような必要とされる温度にすることもできるし、しかもその際、有害な化学物質や核放射線を環境中に放出することもない。それらはすべて、一億五千キロをへだてた太陽の中に残されているのである。太陽エネルギーには、直接的な太陽熱、太陽光に加え、水力、風力、潮力、波力、海洋温度差、そして植物など生物転換エネルギー(バイオマス)などきわめて広い可能性がある(60)。
しかし、この太陽エネルギーも、資本にとっては決定的な難点を持っている。それは、化石燃料や原子力とちがって、資本がそれを独占的に支配することができないということである。太陽エネルギーは、資本の支配の及ぶところにも、及ばないところにも、同様にふりそそいでいるからである。現在、巨大な石油会社が太陽電池企業の多くを買収しているという(61)。これは、かつてGM社が市電の会社を買収し、解体していったことを思いおこさせる。
要約しよう。われわれにとってエネルギー問題の根本は、化石燃料が枯渇することによって不足するであろうエネルギーを何によって埋めるのかというようなことではなかった。その逆に、日本やアメリカなど資本主義工業国がエネルギーと資源を浪費することによって環境を破壊し、人類の未来をとざそうとしているということであり、それとどう闘うのかということであった。一般的・没階級的な「成長」が問題なのではない。構造的浪費、恒常的価値破壊によって自己を存続させようとしている資本の支配が問題なのである。この点をはっきりさせないところに、エイモリー・ロビンスなど多くのエコロジストの決定的な弱点がある。彼らは、たくさんの事実を組みあわせ、現在より高い生活水準を現在よりはるかに少ないエネルギーで実現できるということを主張する。最新の研究成果をもとにしたこれらの主張は、きわめて説得的であり、われわれにとっても、非常に参考になるところが多い。しかし彼らはそれを、政府・資本に受け入れさせようとする。この態度は、かつて空想社会主義者たちが、自分たちの考えた理想社会のプランを支配階級に採用させようとしたことはほとんど同じである。しかし資本は、自己を否定することはできない。全面的な省エネルギーと省資源が可能な社会とは、労働と生産が真の必要にもとづいて計画的に組織される社会であり、それは社会主義に他ならないのである。
われわれのめざすもの
以上が、社会主義的エネルギー政策の出発点である。この中に、原子力エネルギーのはいりこむ余地がないことは、あまりにも明白である。エネルギーは、現代の資本主義工業国において、すでにあらゆる領域で過剰に浪費されているのであり、そのはなはだしい浪費によって地球規模で環境破壊が進行し、人類の生存すらおびやかされているのであり、したがってその過剰なエネルギー消費量を削減することこそが要求されているのであり、巨大なエネルギー浪費装置に他ならない原発は、まず第一に排除されなければならないのである。
労働と生産が真の必要にもとづいて計画的に組織されることによって自動車生産が現在の三分の一、四分の一に減少し、大量輸送手段が強化され、交通・運輸の資本主義的無政府性が一掃され、過剰な電化が是正され、生産過程のエネルギー効率が高められ、耐久消費材の使い捨てが排されて真に耐久性のあるものがつくられ、あらゆる領域で資源の全面的リサイクルリングが行われ、職場や住宅の断熱化がすすんで冷暖房のエネルギーがさらに減少する。こうしたことが実現すれば、エネルギー消費量は現在の二分の一や三分の一にとどまらず、おそらく十分の一にも減少させることが可能であろう。
現在の労働生産性を前提にしてこのような状況を実現することができるとすれば、労働時間の圧倒的短縮が可能になるだろう。必要にもとづいた生産体制のもとでは、現在労働人口のますます大きな部分を占めつつある非生産的労働、利潤を実現するためのセールス労働は完全に不必要になるから、総労働人口に分配される生産的労働の労働時間は、ますます小さなものになるだろう。週三十五時間どころか、週二十時間、週十時間といった労働時間が現実のものになるだろう。こうなるとことによって、労働者にとって労働の持つ意味が根底から変化する。それは、自己の能力を開発し、あるいは成長させようとするさまざまな活動の、単なる一分野にすぎないものになるだろう。こうして、労働制度の廃絶という共産主義の目標が現実の日程にのぼってくるのである。
このような展望をかけて、われわれは原子力発電に反対する。われわれは過度のモータリゼーションに反対し、高速道路建設や道路拡張工事など“自動車化社会”をおしすすめようとする動きに反対する。そしてわれわれは、このような展望をかけて国鉄の分割・民営化に反対し、赤字ローカル線切り捨てに反対し、すでに廃止された鉄道やバス路線の復活を要求する。三里塚二期工事阻止・空港よりも緑の大地をという闘いもまた、このような展望の中に大きな位置をしめることになる。またわれわれは、エネルギー浪費構造の中で生み出された公害と闘う全国の運動と連帯し、その経験と知恵に学び、ともに闘おうとする。このような闘いの中で、労働者の中に資本主義的な使いすてをよしとしない意識と習慣を根づかせていかなければならない。まさしく、「支配的なのは支配階級の思想」であって、ほとんどの労働者が、資本主義的浪費を当然とする意識を植えつけられているからである。国家と資本からの独立は、日常生活を営む意識にまで貫かれなければならないのである。
残された時間がそんなに長くないことは、多くのブルジョア的研究によっても何度も明らかにされてきた。エイモリー・ロビンスは、「一時的な商業的利益を失うことになっても」大局的見地に立って行動しなければ破局をまねくと説いている(62)。しかし常に「一時的な商業利益」のために行動し、その利益のためには世界戦争すら辞さなかったのが資本であり、帝国主義なのである。要求されているのは、資本を説得することでなく、打倒することなのである。
【注】
(1) 春名幹男『ヒバクシャ・インUSA』(岩波新書)二二六頁。
(2) 同前二〇六頁。
(3) ローマ・クラブ第二レポート『転機に立つ人間社会』(ダイヤモンド社)一五二頁。
(4) 小出五郎『超石油エネルギー』(朝日新聞社)二〇〇頁。
(5) エイモリー・ロビンス/ハンター・ロビンス『エネルギー/戦争』非核未来への道(時事通信社)一六九頁。
(6) J・D・ホルドレン/P・ヘレラ『環境とエネルギー危機』(講談社)二八~三四頁。アメリカ合衆国政府特別報告『西暦二〇〇〇年の地球』1人口・資源・食糧編(家の光協会)二六八~二八四頁。
(7) 前掲『二〇〇〇年の地球』二七四~二七五頁。
(8) 同前。
(9) 室田武「崩壊した原発=安上がりの論理」(『エコノミスト』一九八四年十二月二十五日号)十七~十八頁。
(10) 「英セラフィルド再処理工場周辺にひろがる放射能汚染」(『朝日ジャーナル』八五年三月十五日号)。
(11) 『技術と人間』八〇年四月号クリティカル・ニュース。
(12) 高木仁三郎『危機の科学』(朝日選書)一三三頁。室田武『原子力の経済学』九八~九九頁。
(13) 前掲『転機に立つ人間社会』一四九~一五〇頁。
(14) 前掲『西暦二〇〇〇年の地球』二九八頁。
(15) 前掲『エネルギー/戦争』一九二頁。
(16) 槌田敦『エネルギー 未来への透視図』(日本書籍)一四七頁。
(17) 押田勇雄『人間生活とエネルギー』―エネルギーは不足しているか―(岩波新書)一〇六頁。
(18) 前掲『エネルギー 未来への透視図』一五一頁。
(19) 菅井益郎「原発問題の歴史的解明」(宮嶋信夫編者『エネルギー浪費構造』)(亜紀書房)二二頁。
(20) ステファン・J・ベーカー「原子力の商業利用と核拡散」(米下院国際安全保障と科学問題小委)(同前論文四四頁注より)。
(21) ピーター・プリングル/ジェームズ・スピーゲルマン『核の栄光と挫折』(時事通信社)一六六頁。
(22) 前掲『エネルギー浪費構造』四〇頁。
(23) 垣花秀武国際原子力機関(IAEA)事務局次長の、日本原子力産業会議の懇談会での講演から。七九年十二月六日付「原子力産業新聞」(西尾漠「原子力産業に未来はあるのか」『現代の眼』八一年二月号六三頁より重引)。
(24) アーネスト・J・スターングラス『死にすぎた赤ん坊』―低レベル放射線の恐怖(時事通信社)一八六頁。
(25) 前掲『核の栄光と挫折』二〇五~三〇六頁。
(26) 同前二五五頁。
(27) ジョレス・A・メドベージェフ『ウラルの核惨事』(技術と人間)。
(28) 前掲『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)二二一頁。
(29) 前掲『西暦二〇〇〇年の地球』(要約版)(日本生産性本部)一一五頁。
(30) レスター・R・ブラウン『地球29日目の恐怖』(ダイヤモンド社)三八頁。
(31) 同前四五頁。
(32) 前掲『西暦二〇〇〇年の地球』(要約版)(日本生産性本部)一一五頁。
(33) 同前一一六~一一七頁。
(34) 前掲『エネルギー浪費構造』一三〇頁。
(35) レスター・R・ブラウン編著『西暦二〇〇〇年への選択』地球白書一五二頁。
(36) 前掲『エネルギー浪費構造』一五六頁。
(37) 前掲『エネルギー読本』一七七頁。
(38) エネルギー問題市民会議編『84市民のエネルギー白書』(経済評論社)一三五頁。
(39) バリー・コモナー『エネルギー』(時事通信社)一八七頁。
(40) 前掲『84市民のエネルギー白書』一三四頁、同『エネルギー浪費構造』八八頁。
(41) 前掲『エネルギー浪費構造』九〇頁。
(42) 同前。
(43) イワン・イリッチ『エネルギーと公正』(晶文社)二八頁。
(44) 前掲『超石油エネルギー』一六八頁。
(45) 前掲『エネルギー 未来への透視図』一一六頁。
(46) マーク・クレーマー『病める食糧超大国アメリカ』(家の光協会)一五九頁。
(47) ソーラーシステム研究グループ『都市のゴミ循環』(NHK出版)一五五~一七五頁。
(48) エイモリー・ロビンス『ソフト・エネルギー・パス』(時事通信社)六頁。
(49) 原子力資料情報室『原発黒書』二五頁。
(50) 前掲『エネルギー/戦争』五八頁、一八八頁。
(51) エネルギー問題市民会議編『83市民のエネルギー白書』(経済評論社)一五六頁。
(52) 同前一五九~一六四頁。
(53) エイモリー・ロビンス『ソフト・エネルギー・パス』(時事通信社)七六頁。
(54) S・レンズ『軍産複合体』(岩波新書)二五頁。
(55) 前掲『エネルギー浪費構造』一六七頁。
(56) 前掲『84市民のエネルギー白書』一三四頁。
(57) 同前一三九頁。
(58) 前掲『人間生活とエネルギー』一六九頁。
(59) 同前一六二頁~三頁。
(60) 前掲『超石油エネルギー』『人間生活とエネルギー』『エネルギー』『エネルギー/戦争』『ソフト・エネルギー・パス』などには、それぞれが具体的なエネルギー源としてどれほどの物理的可能性があり、それが現実的用化のどの段階にあるかということが詳細に明らかにされている。参照してほしい。
(61) 前掲『エネルギー/戦争』二二七頁。
(62) 前掲『ソフト・エネルギー・パス』四八頁。
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