暴力、ポルノグラフィ、女性憎悪

ダイアナ・ラッセルとのインタビュー

 以下のインタビューは、『インターナショナル・ビューポイント』98年3月号に掲載されたものである。ダイアナ・ラッセルは、アメリカで最も著名なラディカル・フェミニストの一人で、70年代から一貫して、レイプ、ポルノ、セクハラ、児童虐待、買春の問題に取り組み、『シークレット・トラウマ』(1986年)、『夫婦間レイプ』(1990年)、『暴力をセクシーなものに仕立てあげるもの――フェミニストのポルノグラフィ論』(1993年)、『アゲンスト・ポルノグラフィ――有害性の証拠』(1993年)など多くの著作がある。ラッセルはマッキノンおよびドウォーキンの立場に共感しているが、必ずしも同じ意見ではない。インタビュアーは、弁護士のアン・メナシェで、アメリカの社会主義組織ソリダリティのメンバー。メナシェ自身は、反マッキノン的立場に立っている。なお、[ ]内は訳者による挿入。

ポルノグラフィーとは何か

 ――あなたがポルノグラフィだと思われるものの例をいくつか挙げていただけませんか。

 たとえば雑誌の『ハスラー』には、次のようなものが掲載されています。
 ドリルを女性の局部に挿入しているところを描いた漫画に、「不感症の治療」というキャプション。
 肉挽き器で女性が挽かれている漫画
 ビリヤード台で女性が集団レイプされ、かつ女性がその行為によってエロティックな性的快感を得ているように描いた写真と文章
 夫が妻を台所のゴミバケツにたたき込んで、彼女の裸の尻がその容器から突き出している漫画
 父親が娘の耳に舌を入れ、夫がパンティの中に手を入れ、それによってその女性が――またしても――快感を感じている漫画
 上司が秘書とセックスをしながら、同僚にも彼女とセックスするよう誘っている漫画に、彼女への「クリスマスのボーナス」というキャプション
 そしてさらには、殺され、首を切断され、手足も切断された女性の胴体に、切除された乳首とクリトリスの写真。
 これらすべての例は、『ハスラー』の編集長ラリー・フリントが、レイプ、女性殴打、セクシュアル・ハラスメント、近親姦、拷問、ミューティレーション[体の一部を切断すること]、死、に関するジョークとして提示しているものであり、しかもこれらの暴力をセクシーなものとして表現しています。

エロチカをどう考えるのか

 ――エロチカについてどう思われますか。

 私はエロチカを、性差別や人種差別や同性愛差別(ホモファビア)から免れた、性的な感情や興奮を呼び起こすものであり、すべての人間と動物に対する敬意を伝えるものと定義しています。
 私は、セックスをあからさまに描くことそのものを、女性の貶めであるとは何ら考えていません。それどころか、エロチカがそれ以上に大胆なものになりうることは、言うまでもありません。逆に、オレンジの皮を剥くことでさえ、エロチックに描きだすことができます。

 ――コンセンサスを獲得することなど不可能だという人がいます。「ある人にとってエロチカであるものが、別の人にとってはポルノである」と。こういう人々に対して、あなたはどう答えますか。

 定義に関してコンセンサスがないのは、他の多くの現象も同じです。レイプはその一例です。レイプに関する法的定義は、州によって実にさまざまです。同様に、何らかの殺人行為が「謀殺[意図的・計画的殺人で、罪が重い]」なのか、「故殺[殺意のない殺人で、謀殺より罪が軽い]」なのかという論拠をめぐって、これまで無数の裁判が展開されてきました。コンセンサスがないからといって、自動的に、ポルノグラフィが非難や法的規制の対象からまぬがれるべきだとか、その悪影響を調べることができない、ということにはなりません。

ポルノと性暴力の結びつき

 ――あなたは、『アゲンスト・ポルノグラフィ』の中で、ポルノグラフィは男性が女性をレイプする多くの原因の一つであると述べ、他の原因として、男性役割を育成する社会化[子供が成育の中で社会的な規範を身につける過程]、子供時代の性的虐待、仲間集団の圧力(ピア・プレッシャー)を挙げています。ポルノグラフィが性的暴力を引き起こすうえで一定の役割を果たしているという見解を支持する調査例をいくつか挙げていただけませんか。

 まず第一に、マラムースによる実験があります。それによると、暴力的傾向のない複数の男性に、いくつかの典型的に暴力的なポルノグラフィを見せると、以前は持っていなかったレイプ妄想をもつように変わりました。
 第二に、ポルノグラフィが、すでにレイプ願望を持っている男性の抑制をくずすことを明らかにした調査がいくつかあります。たとえば、ジールマンとブリアントの研究が示すところでは、四週間にわたって繰り返しポルノグラフィにさらされた男性がレイプを重大なことだとは考えなくなり、女性に対する人間的共感をなくしていき、レイプの責任は被害者にあるとか、レイプは深刻な人権侵害ではないと言い出すようになり、レイプをしても罰せられないのなら自分も女性をレイプするかもしれないと考えるようになります。
 おそらく最も重要なのは、ジェームズ・チェックの研究でしょう。それは、実験的状況のもとで男性が暴力的ポルノグラフィ、女性を貶めるタイプのポルノグラフィ、エロチカを見ることでそれぞれどのような影響を受けるかを比較検討しています。
 それによってわかったことは、最も否定的な影響を与えたのは暴力的ポルノグラフィで、その次に否定的な影響を与えたのは、女性を貶めるタイプのポルノグラフィで、それ以外の性的題材はいかなる否定的影響も与えなかった、ということです。チェックが記録している否定的な影響には、実際に自分が女性をレイプする可能性――被験者による自己申告――の増大も含まれます。

 ――カーサ・ポリットは『ネーション』誌において、ポルノグラフィが女性に対して実生活上の害を与えるという主張を退けています。ポリットはこう書いています。「女性の実生活に害を与える書物について真剣に議論するつもりなら、何よりもまず『聖書』と『コーラン』から始めるべきである。それはポルノではないが、狂信者たちを中絶医療機関に爆弾を投げるよう駆り立て、あるいはアルジェリアの女子校生の喉を掻き切るよう駆り立てている」。これに対しどのように答えますか。

 ナンセンスです! 私たちのうちの誰も、ポルノグラフィが世界で暴力を作り出している唯一の原因であるなどと主張した者はいません。しかも、ポリットは実例として性的暴力を使いさえしていません。もしポリットが『アゲンスト・ポルノグラフィ』を読んで、そこで検討されているポルノグラフィの実例と調査を研究していたとしたら、そのような立場をとり続けることはできないと思います。

検閲と言論の自由について

 ――アンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンのようなフェミニストが主張しているような、ポルノグラフィとの闘争の仕方は結局、検閲に行き着き、言論の自由を制限する危険きわまりないものだという主張に対して、どのように答えますか。

 ドウォーキンとマッキノンは、ポルノグラフィの禁止や検閲を提唱しているのではありません。彼女らが提唱しているのは、ポルノグラフィによって被害を受け、かつその被害を裁判所で証明することのできるすべての人が、そうできるようにすべきである、ということです。それは検閲ではありません。それはアカウンタビリティ[情報の開示と報告をともなう責任ある行動]です。
 もし誰かがポルノグラフィに反対する何らかの提案を行なえば、それは検閲だとみなされるでしょう。この分野におけるマッキノンとドウォーキンの主要な貢献の一つは、ポルノグラフィをめぐるこのような議論の仕方を転換したことです。彼女たちは主張しました。それは何よりも、表現の自由をめぐるものではなく、女性に対する差別の問題だと。
 性、人種、性的志向にもとづく差別は容認できないものであり、いくつかの場合には、違法なものです。たとえばセクシュアル・ハラスメントを取り上げましょう。セクシュアル・ハラスメントを禁止する法律がすでに存在しています。セクシュアル・ハラスメントは、女性と一部の男性に対する差別を構成するものです。
 このような分析を発展させるうえで大きな貢献をしたのが、キャサリン・マッキノンです。彼女が、セクシュアル・ハラスメントをこのような方向で概念化したのです。セクシュアル・ハラスメントを禁じたこの法律が言論の自由に対する攻撃だと抗議する人はほとんどいないでしょう。あるいは、職場の男性は女性に対して何でも好きなことを言えるべきだとか、職場の女性に卑猥な話をもちかけ、彼女らの胸のことやを話したり、彼女らの性器のことを尋ねることは、表現の自由の行使にすぎないなどと言う人もほとんどいないでしょう。
 このような行為は、たとえその行為の中に言論が含まれていたとしても、容認されないし、それは差別であり、権力の濫用であり、女性に対して敵対的な職場環境をつくりだす行為です。職場においてポルノグラフィを見せることも、敵対的な職場環境をつくりだす行為であり、したがって法に違反するとみなされています。
 私たちは同じような論拠にもとづいて、職場の外でのポルノグラフィも、レイプをはじめとする性的暴力を助長するがゆえに、敵対的な環境、危険な環境をつくり出すものであると主張しているのです。

どんな運動が求められるか

 ――このような論争があることをふまえるなら、ポルノグラフィについてどう考えるべきかという問題を、ポルノグラフィに関して何をなすべきかという問題と切り離して論じることが有益であると、思われますか。

 そうです、ぜがひでもそうすべきだと思います! 私は、ポルノグラフィが害を与えるかどうかという問題を論じる前に、それについて何をなすべきかを論じるべきではないと主張するようにつとめています。もしそれが害を与えないのなら、それについてなすべきことは何もないのですから。
 ポルノグラフィはきわめて有害であるが、法律はそれを扱う方法ではないという立場をとっている人々もいます。ニッキー・クラフトは、このような立場をとっているフェミニストであり、熱心な活動家です。

 ――検閲に反対で、ドウォーキン=マッキノン的アプローチをとることに同意していない人でも、ポルノグラフィに反対する運動を組織することができるでしょうか?

 私は、『暴力をセクシーなものに仕立てるもの』の中で、最後の章をまるまるあててポルノグラフィに反対するフェミニストの活動を論じていますが、検閲について一言も書いていませんし、いかなる法律の条文も要求していません。
 たとえば、ミロシュ・フォアマン監督の映画『世間vsラリー・フリント』[一九九六年の作品で、日本での公開名は『ラリー・フリント』。『週刊金曜日』第一八四号にこの映画を無批判に美化した映評あり]に反対する最近のキャンペーンのような教育的キャンペーンをすることができます。
 私たちは記者会見やピケットラインを組織しました。検閲など主張しませんでした。映画をボイコットすることすら主張しませんでした。ボイコットはけっして検閲ではないにもかかわらずです。何ゆえか、私たちが憲法修正第一条に保障された自らの権利[アメリカ合衆国憲法の修正第一条は合衆国市民に言論の自由を保障している]を行使してポルノグラフィに抗議するといつも、検閲者だと呼ばれるのです。これは馬鹿げています。
 教育が重要だと私が思うのは、ポルノグラフィに問題はないと言う人々の多くが、自分が実際に何について語っているのかを理解していないからです。ポルノグラフィで実際に何が行なわれているかを人々に見せたところ、この人たちが、とりわけ女性がショックを受けるということを、私は繰り返し経験しています。

現状を変えねばならない

 ――ラリー・フリントの映画に反対するあなたがたのキャンペーンの目的は何だったのですか。

 私たちの目的は、映画の中で語られている嘘について人々を啓蒙することです。そして、『ハスラー』の内容が暴力的で女性憎悪的なものであるという事実――この点は映画では完全に欠落していました――を明らかにすること、ラリー・フリントが実際にはどのような人物であったのかを明らかにすること、そうすることで、この人物を英雄に仕立てあげようとするミロシュ・フォアマンとオリバー・ストーン[この映画の製作者]の努力を掘りくずすことです。
 フリント自身、この映画が『ハスラー』誌にとって抜群の大量宣伝になっていると言っています。この映画以降、『ハスラー』の発行部数が増大しました。しかし、この映画は興行的にはあまり成功しませんでした。製作に6000万ドルかかったのに対し、興行成績は2000万ドルぐらいだったと思います。この映画は大きな成功を収めるだろうと思われていたのですが、それも、フェミニストが抗議を始めるまでの話でした。

 ――他に誰かこの映画に反対している人はいますか?

 グロリア・スタイネム[きわめて初期の頃からの著名なラディカル・フェミニスト]、それにフリント自身の娘であるトーニャが、この抗議行動において大きな役割を果たしました。ニューヨークをはじめとする全米の各都市、および他の国々のフェミニストもこの映画に抗議しました。
 スウェーデンでは、フェミニストはもっと戦闘的なボイコット戦術をとり、男たちが上映を続けようとするのを実際にやめさせました。これは非常に効果的であり、多くのニュースにもなりました。イギリスの女たちも、映画が公開されたときそれに抗議しました。

 ――女たちが、暴力や暴力のおどしによって現在の地位に押し止められることのないような世界を、どのようにしてつくっていけばいいとお考えですか

 女性に対する男性の暴力に関する意識のレベルを高めていくことが必要です。私たちはすでに、アメリカにおいて、多くの分野でいくつかの成果を勝ち取ってきました。たとえば、セクシュアル・ハラスメントの存在が今では認識されています。以前は認識されていませんでした。女性殺し(フェミサイド)の存在も認識されるようになるだろうと私は思っています。また、暴力やレイプの責任を女性に押しつける男性の古くからあるやり口は、フェミニストによって批判されてきました
 しかしながら、暴力そのものが減少するという事態にはいまだなっていません。
 私がしばしば思うのは、ジェンダーとしての女性がその反応においてもっと戦闘的になるならば、より大きな効果が得られるのではないか、ということです。私が言っているのは、個々人のレベルのことではありません。むろん、そのことにも賛成です。しかし、私たちは自らを組織して、もっと戦闘的に行動するべきです。それらの組織がたとえ、4人の女性しかいない小さなものだったとしても、です。
 ポルノグラフィに関して言うならば、その被害者となった人々、その標的となっている人々が――ちょうど人種差別的文献に関して黒人民衆がそうしているように――実際に組織者とならなければなりません。直接行動と市民的不服従は、女性にとってきわめて効果的なものになると思います。
 私たちはアメリカ市民を啓蒙しようとする一握りの人間にすぎません。それに対して、ポルノグラフィは、人々に誤った教育を行なう何十億ドルもの産業です。多くの女性が平和と公民権運のために逮捕されてきましたが、フェミニズムの大義のために逮捕されるのも辞さないという女性はほんのわずかしかいません。
 人々は両性間の戦争について云々しています。しかし、それはむしろ一方的な殺戮のようなものなのです。なぜなら、女性はしばしば反撃しないからです。そして、私たちは自分自身の家でばらばらの戦闘を行なうことはできません。
 ともに手をつないで自らを組織することこそ、真の鍵なのです。組織こそ変化をつくりだすための回答なのです。アンドレア・ドウォーキンが言っているように、女性は「我慢」するのは得意でしたが、「抵抗」することに関してはそうではありませんでした。こうした現状をこそ変えなければならないのです。
(「インターナショナルビューポイント」98年3月号)

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