書評「フェミニズムってなんですか?」
清水晶子/文春新書/980円+税
インターセクショナリティ(交差性)の視点から
フェミニズムの定義
清水は、冒頭、「フェミニズムってなんですか?」という問いに対して「この問いに応えるひとつのやり方は、それを『フェミニズムは何をするのか』というかたちに置きなおすことです」と回答し、「何を変えるのか」と論議の方向性を指し示す。
そのうえで「そのためにさらに具体的に何をするのかに踏み込むにつれて、フェミニストたちの見解は多様にわかれていくことになります。何をするべきなのかについて、フェミニストたちの意見は簡単には一致しないのです」というスタンスを踏まえろと強調し、本書が取り上げる諸テーマをめぐる論議の広がり、シビアな意見に対する検証などが繰り広げられる。
そして、「フェミニズムの定義」として三つの基本(姿勢)をクローズアップする。
「基本その一:改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること」。
「基本その二:あえて空気を読もうとせず、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと」。
つまり、「日常生活の中で経験する理不尽なこと、不当な扱いに対して感じる違和感や不満、怒りを隠さないことです」と再確認し、この感性を大事にせよとプッシュする。
「基本その三:フェミニズムはあらゆる女性たちのものであると認めること」。
ただし、「だからこそフェミニズムは対立する声を抑えず、異なる経験を持ち、異なる立場にある異なる女性たちが、互いに互いの存在を知り、互いを尊重するよう、求めるのです」と提起し、読者が読み込んでいく姿勢をフォローするのだ。
第2章の「フェミニズムの四つの波─フランケンシュタインから#MeTooまで」では、第1波(19世紀末から20世紀前半/女性の相続権、財産権、参政権を求めた運動)、第2波(1963年~/性別化された活動領域に異議をとなえ、その構造変革をめざした)を整理している。
とりわけ第2波のベクトルは、後に「私的領域」の問題を政治化し、DV(家庭内暴力)、セクシュアルハラスメント、「私的領域」の労働と「公的領域」の労働とが関係するシステムを批判していくバネとなった。
さらに女性の身体についてもアプローチし、性の問題、妊娠や出産をめぐる問題、女性がかかりやすい病の問題などへと向かい、現在の「性と生殖に関する健康と権利」(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)に結びついていった。
そのうえで第3波(1980年代終わりから1990年代)を次のようにまとめた。
特徴として「一つは、第二波を引継ぎつつ、人種やセクシュアリティ、ポスト植民地主義などの問題の重要性を踏まえ、ダイバーシティやインターセクショナリティという観点が強調されたこと。つまり、女性をひとまとりにして考えるのではなく、性別以外の属性に基づく女性たちの間の差異や多様性により一層の注意を払おう、という方向性です」。
「二つめは『フェミニストならこうあるべき』と決めつけるのではなく、個人の自由を尊重しようという主張をする女性たちが力を持ったことです」とスケッチしつつ、清水は「資本主義体制のもとでポップカルチャーに接近しつついわば『フェミニズムのマーケットを拡大する』側面には、大きな問題もありました」と評価する。例えば、ポップスターたちはフェミニストを押し出しながらも資本主義の論理にからめ取られる側面もあったということだろう。
第四波(2010年代~)の担い手は、「第二波・第三波のフェミニズムを『学んで』育った世代」であり、オンライン・アクティビズムによって#MeToo運動への参加、連帯の取り組みが世界的に広がったことに示されていると集約した。
インターセクショナリティについて
清水が繰り返し強調するインターセクショナリティは、第四波フェミニズムが重要な視点として共有化され、使われた。だから著者は、あえて第5章では「フェミニズムに(も)『インターセクショナル』な視点が必要な理由」と明確化しながら展開するのだ。
その指針となった運動であるBLМ運動(Black Lives Matter/黒人の命を軽く見るな)を紹介しながら、その特徴として(BLМサイト)「黒人解放運動がしばしば女性、クィアやトランスジェンダーの人達を置き去りにし、あるいは背景に押しやって、進められてきた」と総括しながら、だからこそ「BLМのネットワークはこのような人たちのリーダーシップを中心にすえることが重要だと認識してきた」と明記していることを清水は強調する。
インターセクショナルな視点とは、「人種やジェンダーだけでなく、階級、セクシュアリティなどをめぐる複数の抑圧が互いに交差して差別構造を形づくっている」ことを分析し、だが「差別を均一化し、簡略化することの危険性に注意を払うことを要求する」。
そのうえで例えば、「同じ女性同士でも白人女性と黒人女性、シス女性とトランス女性では、あるいは同じ黒人同士でも黒人男性と黒人女性では、差別の経験がまったくちがうことがあるのだ、という認識を前提に、私たちの社会が構造として何を中心に置き、何を軽視したり後回しにしたりしているかを考えることが、インターセクショナルな視点を持つ出発点となる」と提起し、インターセクショナルなフェミニズムを通して大きな壁をこじ開けていく協同作業を呼びかける。
あえて筆者にひきつければ、例えば、ある事象に対して何事も主観主義、レッテル張り的な傾向に陥りがちの政治主義の破綻の前に、一歩立ち止まりインターセクショナルな視点からの再分析への掘り下げが求められているという重要な教訓として受け止めることができる。
性暴力とは何か
第8章のテーマは「性暴力を正しく理解するために。2010年からのエンタメと考える、性暴力とその奥にある問題」だ。
清水はテーマを考察するうえで「2010年代には、性暴力をテーマに据えたメジャーなエンタメ作品が増えてきた。性暴力を取り巻く社会構造、声になり始めたサバイバーの視点─ポップカルチャーを通じて性暴力を多角的に考察」したうえで性暴力についての三つの視点を提起する。
一つは、性暴力とは、性的自己決定権の侵害であること。つまり、自分の身体と性について決定する権利を持つのは自分であり他者に強制されるべきではない。だからこそ「性と生殖に関する健康と権利」が基本原則として、何度も確認し、実践を通して克服していかなければならない。
第二は、性暴力を家父長制の問題と考える必要がある。
そもそも家父長制とは、女性の再生産能力とセクショナリティとを男性支配の存続のために利用する仕組みのことだ。組織的な戦時性暴力から個人間の性暴力に至るまで、性暴力はしばしば被害者個人に対する、あるいは被害者が「所属」しているとみなされた集団に対する、支配と抑圧の手段として用いられてきた。
第三として、性暴力をめぐるインターセクショナルな議論が必要である。性的自己決定権の侵害を原則とし、その権利侵害がどのような社会と制度を背景としているのかの全体像を見渡し、同時に性暴力を生き延びるサバイバーの経験の個別性を尊重すること。性暴力を考えるにあたっては、その両方が要求される。
さらに清水は、現在社会にひきつけながら第9章では、「パンデミックを通じて可視化されたケア労働をめぐる諸問題にフォーカス」し、「フェミニズムを通じて模索する、社会が共有する新しいケアの概念」をアプローチする。
第10章では、「日本の性教育の転換期に考える、真にヘルシーな性教育とそれがもたらす効果」をテーマに、「性と生殖に関する健康と権利」の観点から「日本の性教育の過渡期」を分析し、掘りさげた諸課題を浮彫にしている。
同様の地平から第11章では「夫婦別姓に同性婚。課題山積の『結婚の不都合な真実』」を入口にして、婚姻制度が家父長制的で性差別的な制度であることを解き明かす。
セックスワークの論議
第12章では「セックスワークをフェミニズムはどう捉えるか」と設定する。 ただし、「セックスワーク」をめぐっては、フェミニストの間でも大きく見解が分かれてきたことを踏まえ、論点整理を行っている。 一つは、一部のフェミニストは、性労働は「代金が支払われるだけでレイプと同じ」「女性の性的な収奪」とみなし、廃止されるべきだという立場。
もうひとつは、どうすればセックスワーカーの女性たちの安全と生活、そして尊厳を守ることができるかという立場だ。
清水は、「セックスワークを道徳的に否定せず」、そのうえで「セックスワークが労働であるというのは、それに従事する人々は不要なリスクを犯したり嫌がらせを受けたりすることなく、労働に対する正当な対価と敬意を受け、キャリアと生活を築く権利をもつ、ということ、そして、社会には労働者としての彼女たちのその権利を擁護する義務がある、ということに他ならない」
「セックスワーカーを根絶すべき害悪として特殊視することではなく」「セックスワーカーを包括する社会へ」という立場だ。
筆者は、冒頭で触れた「何を変えるのか」という方向性を堅持しつつ、それぞれのセックスワーカーの事情、訴えなどを受け止めつつ、同時に性産業マフィアに対する厳密な規制強化などを含んだ指針へと具現化していく方向性が求められていると考える。いずれにしても諸要素など多角的に論議は深めていかなければならない。
トランス女性を巡る論争
対談Ⅲ(李琴峰と清水晶子)の中で「トランス女性を巡る論争の背景にあるもの」とテーマ設定している。
李は「いわゆる女性専用空間、たとえば女子トイレや浴場に─トイレと浴場という性質が全く異なる空間をいっしょくたにすること自体おかしいと思いますが、─トランス女性が入っていくことを強く拒絶するシス女性がいて、SNSで論争になっています。……お互いの経験を共有して、なんとか共存する道を探せないだろうかといつも考えるのですが…」と清水に問いかける。
清水は、「まずそもそも、トランス女性を集団として最初から性暴力の加害者(あるいは加害候補者)とみなすこと、トランス女性への正しい認識がないままに偏見に基づいて議論が進むこと、それ自体に大きな問題があります。その前提の上で、トランス女性にも非常に高い割合で性暴力被害経験のある人々がいることはわかっているわけで、たとえば性暴力被害経験のある女性同士がお互いの経験に耳を傾けあい、支え合うこともできるかもしれないのです。ただ、現在のSNSでは、それぞれ異なる立場で互いの経験を尊重しあい、共存していく方法を探る余裕が、なくなっているような気がします。……今のSNSでは誤情報や不正確な解釈、差別的で攻撃的な意見などが拡散しやすく、そこで個人的な経験を共有すること自体が、特に女性やマイノリティの人たちにとっては、安全とは言い難くなってしまった」と答えている。
トランスジェンダーバッシングの拡大に対して様々なグループにおいて、このテーマについて論議が深められている。筆者は、論議だけではなく、実践を通した克服はいかに可能かの探求は、今後も取り組んでいきたい。
組織内女性差別問題の再々検証の取り組み
最後にフェミニズム第3波から第4波を経験してきた世代として、おそらく私たちが現在取り組んでいるJRCLの組織内女性差別問題の検証プロセスにとって、このセクショナリティーとフェミニズムの視点は、あらたに深めていく回路として提起されているだろう。
そのような観点から筆者の遠山が「週刊かけはし」において、「─新左翼と女性差別─かねこさち論文を読む」の再読を(2022年4月20日)、「女性差別との闘いの義務」と 「組織のフェミニズム化」の検証に向けて(2012年1月1日)で明らかにしてきたことをヒントにしながら、あらためてセクショナリティーとフェミニズムの視点からの再々検証と実践を行っていく必要があることを確認しておきたい。
(遠山裕樹)
【訂正】本紙前号(11月28日付)5面山城博治さん講演記事の見出し「軍事化阻止との闘い」を「軍事化阻止の闘い」に訂正します。
The KAKEHASHI
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