ポルノグラフィーと表現の自由
キャサリン・マッキノンさんの講演から
女性に危害を加える「自由」はあるのか
この9月、アメリカでセクシャル・ハラスメントという概念を公認させる上で中心的役割を果たしたキャサリン・マッキノンさん(ミシガン大学ロースクール教授)が来日し、各地で講演を行った。マッキノンさんは弁護士として、ボスニアで集団レイプされた5人の女性を原告としセルビア人指導者カラジッチを被告とする裁判や、職場でのセクシャル・ハラスメントをめぐるさまざまな裁判、ポルノに強制的に出演させられた女性の代理人として、ポルノグラフィーを禁止するインディアナポリス条例が憲法に違反しないと主張した裁判など、性暴力と「表現の自由」をめぐる裁判にかかわってきた。以下は、9月25日蔵前工業会館で開かれた講演会での講演要旨である(主催は日本マスコミニュケーション学会と自由人権協会)。邦訳書に『ポルノグラフィー』『フェミニズムと表現の自由』(いずれも明石書店)など。
伝統的法理論と論理の構造
伝統的な法理論、特にイギリスから受け取った考え方は、社会的に言論は自由だということを前提にしている。つまりその観念は、政府とは組織された権力であり、表現の自由への脅威となっているということである。それゆえに、市民的自由に関する法における言論の法理とは、政府が言論を制約し、政府が許している限り言論は自由であるというのが基本的考え方だった。
このアプローチからすると、言論に社会的あるいは文化的制約は存在しないことになる。そこでの議論は「政府が言論を抑圧する」というのが一方で、他方は「政府が言論を放置する」という対立構造だった。この議論でリベラルは前者の側から言論の自由を主張し、保守派は後者の側から言論のコントロールに加担するというのが、伝統的なありかただった。
もうひとつの観念は、本質的に女も男も白人も有色人種も同じ利害を持ち、言論の自由という問題でも同じ出発点からスタートできるという考え方だった。
こうした前提のもとで、ポルノグラフィーへの規制をめぐる議論は始まった。言論を規制する政府の役割に関する議論という形で、それは始まった。ここでは、表現の自由に賛成する人はポルノグラフィーを擁護し、そうではない人はポルノグラフィーに反対するという形になった。ポルノグラフィーに反対する人は表現の自由に反対で、政府による規制に賛成ということになる。
わいせつ法とポルノの増殖
ポルノグラフィーのどこがいけないというのか、世界中でポルノグラフィー規制に用いられた「わいせつ」をめぐる法的概念を見ると、文化ごとに違っている。日本では、人前で性行為がなされるのは良くないという考えに基づいて規制している。公然と性関係をすることで羞(しゅう)恥心をもたらすことが良くないことであると強調されている。
アメリカ法では、性行為を卑猥(ひわい)化させるということで規制し、カナダ法では性行為に対する関心を搾取するということで規制し、英国法では人々の頭の中を汚染するからということで規制している。
どこでも共通しているのは、性行為は公の場には所属しないということであり、ポルノグラフィーは性行為であって全面的に禁止されるわけではなく、公衆の眼に触れるところではいけないという考え方である。
こうした「わいせつ法」のもとで、世界中でポルノグラフィー産業は繁栄してきた。建て前では規制されているが、手に入れようと思えば容易に手に入れることができる。ポルノ産業はアメリカで、一九七三年にわいせつについての法的規制が実施されてから今日まで、三十四倍に成長した。
このように、現実には入手可能なのに建て前ではいけないというのは実際にポルノ産業を保護することだった。消費物資として選ぶことができる。個人的に消費する権利も認められている。ただし、児童ポルノに関しては例外となっている。それは児童虐待のひとつとして考えられている。かなり製造されていて入手可能だが、重大な人権侵害と考えられている。
ポルノは性的虐待と一体だ
アメリカにおける女性運動は、おおよそ七〇年代半ばからポルノグラフィーが女性の人生に及ぼす現実について明らかにし始めた。この過程で、それまでとは全く違う関心が出てきた。それは、伝統的わいせつ感ではとらえ難い問題意識だった。その中で、表現の自由一般に対する意味あい、特にポルノ産業が見過ごされ寛容に取り扱われているということについての問題が明らかにされた。そこでは、本当に社会的に表現は自由なのか、自由であるべきなのか、男と女にとって問題は同じなのか、政府による規制とは何か、どこが問題なのかなどの論点が取り扱われた。
そうした問題点は、女性への虐待が深刻になり、調査の対象になるようになって明らかになってきた。疫病のように広がる強姦、女性へのさまざまな暴力、セクシャル・ハラスメント、女性への強制配転、児童虐待が、あらゆるところに広がっていることが明らかになることによって、こうした問題点がはっきりとしてきた。そして、ポルノグラフィーがこうした性暴力に果たした役割が、被害者たちによって自発的に研究されるようになってきた。
被害者になった女性たちは、最初はそれが彼女だけに起こったことだと考えていた。女性運動の役割は、こうした女性たちの発言に耳を傾けてそれを一体化しまとめることだった。そうした時、ポルノグラフィー産業によって女性と子どもたちに直接の危害が加えられていることが明らかになった。
ポルノグラフィーは、子どもを誘拐し性的に虐待するために使われている。女性に売春させその場にしばりつけるために使われている。セクシャル・ハラスメントのために使われている。強姦のためにも使われている。研究者によれば、ただ強姦するためにだけではなく、だれを襲うのか決めるためにも使われている。被害者に聞くと、加害者は女性は強姦されたがっているとポルノグラフィーが言っていると、加害の最中にしゃべっていた。さらに警察は、こうしたポルノと性暴力の関係を長いこと知っていたにもかかわらず、重要な問題と考えていなかったことも明らかになった。
強姦犯、強姦殺人犯を逮捕した時、その家の中にぼう大なポルノグラフィーのコレクションを発見するのはよくあることであり、被害者と同じタイプの女性や、同じタイプの強姦をその中から見つけ出すのもよくあることだ。
セクハラにもポルノグラフィーが使われている。非常に良いと言われる職場でも、男が引き出しの中にポルノを持っていて秘書にそれを見ることを強要し、あるいはそこに書かれていることを強要されたりしている。工場でも、ポルノ写真が女性が働く仕事場に掲示され、そこに自分たちの名前が書いてあることを女性たちは発見している。性的暴力の行使を受けているところでは、ポルノグラフィーはありふれていることが明らかになっている。
結婚の中でも、男がポルノグラフィーを持って帰り、「愛しているならこの通りにしろ」と言われている例が多くあることが発見されている。
ポルノグラフィー製作に使われた女性たちは、それを作るにもたくさんの暴力が使われていることを説明してくれた。これらポルノに出演している女性たちの体系的研究は、彼女たちの多くが性的児童虐待の体験者で、ポルノグラフィー製作と強制的売春が同時に行われていることを明らかにした。またポルノグラフィーが売春の一手段となっていることを明らかにした。視覚に訴え、カメラでポルノグラフィーを作り上げていくことは、女性を売春婦として作り上げていく過程でもあった。
性的虐待のサイクルの中で、ポルノグラフィーは不可欠の一部になっていることが明らかになった。ポルノは、「わいせつ」についての法理論で考えられているような意味での「悪い」ことではない。それは危害を与える行為である。それは性的奴隷を作る技術的に洗練された行為であり、性的虐待を大量生産するものである。
ポルノ無害論に根拠はない
こうした主張はかなりの騒ぎを引き起こし、社会学者が、男がポルノグラフィーを見ることによって起こる効果を再調査するということがあった。「ポルノグラフィーに害悪はない。ポルノグラフィーと害悪が生じたこととの間には関連はとぼしい」というのが、人々が信じていた教理だった。もちろん女性に対する調査はなく、対象になったのは今日のものほど暴力的でない古いポルノグラフィーだった。
具体的には、数秒間それを見てどうなるか調べるという現実的でないやり方だった。そしていくつかのそれに反する証拠を無視して「男性はすぐに飽きてしまう。カタルシス作用に達してしまう」と結論づけた。
この研究では、ポルノグラフィーと男性の女性に対する態度のかかわりとか、レイプへのかかわりも調査しなかった。ポルノグラフィーの女性への攻撃的パターンについても調査しなかった。
しかし、こうした点についての科学的研究は、すでに女性たちが語っていた事実を明らかにした。市場に出まわるポルノグラフィーを見る男性は、女性への差別と攻撃的行動をとるようになることが、データによって明らかになった。これは、「平均的」な「普通」の男性についての調査であった。これが事実なら、すでに女性に敵意をもっている男性にはより一層よくあてはまり、レイプをしても逮捕されなければいいと思っている男性にはさらによくあてはまる。こうした男性たちはアメリカでは、三五%に及ぶと言われている。
私たちが「カタルシス作用」であり「満足感」だと思っていたことは、鈍感化だった。「鈍感」でなくなるのはそれだけではない。ポルノグラフィーの中にはどんどんエスカレートする作用が組み入れられている。つまり、ポルノグラフィーを消費することによって、「普通の行為」には興味がなくなり、刺激を受けなくなってしまう。性的により一層露骨で、より一層暴力的なことにしか興奮しなくなってしまうことが明らかになった。
人種と性を搾取するポルノ
ポルノグラフィーでは、最後に女性が殺されることが珍しくない。そこにはさまざまな種類の女性が見いだされる。少女、妊娠した女性、民族的人種的なすべてのタイプ、性的少数者、レズビアンや性転換を受けた人、高年齢者や身体的・精神的障害者も含まれている。
アメリカで売られているポルノで、「日本の女性」といわれるタイプがあることを知ってほしい。アジアの女性、特に日本の女性が出てくるポルノは、ほとんどすべて拷問にかけられている。それはアメリカ人の人種差別的日本人像を露わにしている。彼女たちは非常に受け身で、体をロープでぐるぐる巻きにされているので、生きているのか死んでいるのかわからない。
こうしたものは、特別なポルノグラフィーだけではなく、もっと「品の良い」男性娯楽雑誌にも見られる。最近の『ペントハウス』の閉じ込みグラビアで「サイラ」というタイトルのものがあったが、彼女たちは木からロープで吊るされ、ぐるぐる巻きにされて服のようにタンスにかけられ、岩の上にレイプされた後のような姿で投げ出されていた。
この『ペントハウス』にはアメリカで反対のデモが行われ、カナダの女性たちはそれをカナダに持ち込むのを阻止するのに成功した。こうした例は、人種と性を搾取しているポルノグラフィー産業のひとつにすぎない。
ここでおさえておくべきなのは、これが作られるには本物の生きた女性がいたということだ。彼女にそれがなされたということは、そうされるのを見たいとだれかが思ったからだ。そしてそれは、どのように作用するのか。結局は性的に働く。つまり、性的に刺激し、性的な満足感を与えるような形で働く。それは決して知的な過程ではなく、芸術的な情報伝達からはほど遠い。
もちろんこうしたものが、「芸術的な」あるいは「思想的」なものを伝える場合もないとは言えないだろう。しかしそうした場合でも性的な刺激を伝えることはなくならないし、害悪が緩和されることはない。
ポルノ消費者はどうなるか
伝統的なポルノグラフィーについての考え方は、こうしたことすべてに気付いていない。「わいせつ」の法理は現実とはズレている。そこでは、性的な侵害に関することが語られたことはない。もちろん政府が、女性が性的虐待を受けていることを話させないようにしたわけではないが、実際に政府がポルノグラフィーを寛容に扱っていることが、女性の言葉を封じてきた。一般的な表現の自由の理論は間違っていた。
調査と研究によって明らかにされたポルノグラフィー消費者の態度は、次のようなものだ。レイプについて、レイプという認識ができなくなってしまう。性暴力を見て怒るどころか、むしろ性的に興奮してしまう。ポルノグラフィーは、女性が男性に劣っていると信じる人、信じた方が得をする人を作り出す。女性がレイプされたがっていると信じる人、信じた方が得をする人を作り出す。
ポルノグラフィーが公然非公然に存在を許され、人々にそうした思考が伝えられ、そうした考えに「信頼性」が与えられている限り、女性は沈黙を強いられる。ポルノグラフィーが存在し続けるなら、性的虐待を批判する主張は封じられる。
「平等」が否定されている
女性は表現の自由をめぐって、ポルノ産業と同じ側ではなく、それを止める側に重大な利害を持っている。伝統的な「表現の自由」論に対して、新しい「平等」という考え方が対置されなければならない。ポルノグラフィーは、女性が人間として平等であることを否定している。
保証されるべき平等や人間の安全には、男女の別なく家庭でも道路でも安全が保証されるべきだということを含んでいる。働く現場で安全が保証されること、平等があることを含んでいる。男女の別なく適正に労働が評価されることを含んでいる。親しい人からの暴力を避けることも含んでいる。公にいろいろ発言し、それが信頼されること、共同社会の中で市民としての地位を持つこと、社会の中で尊敬されることを含んでいる。
こうしたことは、ポルノグラフィーの中で否定されていることであり、さまざまな人身売買の中で否定されていることである。こうして、ポルノグラフィーは女性を劣った地位にとどめておく重要な制度になっている。もちろんポルノグラフィーの存在が、女性が二流の存在である唯一の理由ではないが、それを無視することはできない。真剣に人権や自由の問題を考えるなら、これを避けて通ることはできない。
女性や子どもを売ったり買ったりする人たちの権利が、女性や子どもたちの権利に優先すると考えることは許されない。彼らの中には、合法的メディア、言論を支配している人々も含まれている。彼らは法律家や広告代理店などに支援されている。彼らは、ポルノグラフィーの実害についての情報が広がって議論にならないよう、念には念を入れ、カネ、性、暴力を使ってそれを封じようとしている。
彼らはいまのところ勝っている。しかし、それに抵抗する運動も元気にがんばっている。抵抗は終らない。皆さんといっしょに働いて、女性にも言論の平等が実現することを目指したい。(文責編集部)
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