社会的力関係の抜本的転換へ全力傾注を

欧州左翼の戦略論争
過去25年間の左翼政府の破綻直視し別の道への踏み出しへ

フロリアン・ビルデ

 以下は、ドイツ左翼党の指導的メンバーによる、左翼の戦略の再構想に向けた問題提起だ。ここ二〇年以上にわたる欧州における左翼の政府参加の経験を批判的に検討している。日本ではほとんど報じられることのない北欧の経験も紹介されており興味深い。いずれにしても、いわゆる「リアルポリティーク」をめぐる論争が日本でも重要になっている中、示唆の多い論考だと思われる。なお本稿で筆者が使っている左翼という用語は、文脈から見て旧共産党系列の諸勢力を指しているように思われる。(「かけはし」編集部)

 二五年の間欧州の左翼諸政党は、幅広い連立政権に加わってきた。しかしそれを支持できる結果は何も出していない。
 見たところそれが売りに出されているただ一つの道だとしても、政権参加は近道なのだろうか? 欧州の多くの左翼諸政党は今日、中道左派政権への参加を、改良を獲得するための唯一の現実的な道と見ている。彼らはしばしば、政府内への左翼の確保は少なくとももっとも退行的な政策を阻止し、より反動的な勢力が権力を取ることを妨げるだろう、と理由を付けることによって、これらの政権への参加を正当化している。また、これらの政党は、こうした政権参加は有権者やメンバーから見た信頼性を高め、最終的には自らだけで統治するという彼らの展望を強化する、とも信じている。しかしながら二五年間の歴史は、これらの期待はほとんど満たされていない、と示している。

イタリアでの経験は破滅的

 イタリアの共産主義再建党は二〇〇〇年代初頭、欧州の左翼にとって重要な基準となった。この国の長く続いた共産主義の伝統に十分な基礎をもち、それ自身の歴史に対し自己批判的で、内部的な多様性に富み多元的で新しい考えに開かれた、また社会運動に深く埋め込まれた再建党は、多くの活動家から見て、この大陸中の他の若く急進的な左翼にとっての一つの役割モデルとして現れた。それは、ジェノバにおける二〇〇一年の反グローバリゼーションの抗議において指導的役割を演じ、二〇〇三年二月一五日にローマの街頭に三〇〇万人を引き出した反戦運動に巨大な貢献を行った。
しかしながら再建党は二〇〇六年から二〇〇八年にかけて、「よりマシな悪」政策に屈し、シルビオ・ベルルスコーニの権力復帰を阻止するために中道左派政権に加わった。党は政府に入るや否や、これまで反対してきた予算削減を防衛するよう強要されただけではなく、レバノンやアフガニスタンでの軍事介入に支持の票を投ずることも強制された。
再建党は、アフガニスタンへの派兵に反対の投票を続けた二人の上院議員(一人はFIイタリア支部の同志)を除名した。政権への参加は、「運動の党」をしばしば運動に反対するように見えた一つの組織に変えた。「オルタナティブの党」は、「何のオルタナティブでもない」政策を実行するよう強いられていることに気づいた。社会的な、あるいは進歩的な改革を押し通そうとするその貧弱な試みは、大部分は気付かれないまま進んだ。
その最終結果は破局的なものとして示された。僅か二年後ベルルスコーニは権力を取り返し、再建党は議会に一議席も確保できなかった。イタリアの議会に共産主義勢力がまったくいなくなったのは、一九四五年以後では初めてのことだった。
以来再建党は、あらゆる選挙で連続的に後退してきた。この党と社会運動は両者とも、歴史的な大きさをもつ政治的な陥没へと落ち込んだ。諸々のバリケードを越えた前者の連携を見たことは、不信とセクト主義の空気を生み出した。
結果として起きたイタリア社会の大きな部分の政治システムからの疎外は、もっぱら――全面的にということではないとしても――ベッペ・グリロの抗議の党、五つ星運動の利益となった。政府内での再建党の一時的な仕事は、この党がもはや広範に広がる有権者の不満に関わることができないほどまで、党の信用を傷付けた。

仏共産党の転落と国民戦線台頭

 西欧の左翼におけるもう一つのかつて指導的であった政党、フランス共産党(PCF)も、政府に加わった後似たような敗北に直面した。一九九七年の議会選でPCFは得票率九・九%を獲得し、社会党のリオネル・ジョスパン率いる赤・赤・緑連合である多元的左翼政権に加わった。
この政権は最初、週三五時間労働や当時シュレーダーやブレアがラッパを吹いていた第三の道戦略にしたがうことを拒絶したことのような、いくつかの重要な改革を何とか作動させることができ、一定の成功を見せた。しかしながらそれは、新自由主義の枠組みと決裂できなかった。そして最終的に、近年の歴史ではもっとも包括的な私有化綱領を実行し、一九九九年には、セルビアでのNATOの戦争に参加することに同意した。
PCFは二〇〇二年の選挙では僅か四・八%しか獲得できず崩壊した。この党は二年後、さらに四・三%まで後退したことに気付かされた。それは、二〇一二年にメランションの左翼党と連携したおかげで、僅かに取り戻した。その時党は、六・九%となり、改善とは言えたが、政権党となる以前よりもはるかに下だった。
フランスの最大の左翼勢力は新自由主義の政権に参加することによって、自ら信用を傷付けた。それこそが、国民戦線(FN)がこの国の最強政党になることを可能にした環境だった。実際FNは、以前のPCFの拠点においてその最良の結果のいくつかを得ている。

政府参加後北欧でも同様の軌跡


アイスランドの左翼・緑運動(VG)は二〇〇九年の選挙で、金融危機が降りかかる中での民衆的憤激の波に乗り、二一・七%というめざましい得票率に達し、結果としてこの国の政府を率いた。アイスランドは、他の欧州諸国とは異なる形で銀行への財政援助を構築したとはいえ、依然全体としての新自由主義的枠組みをそのまま維持した。VGはNATOとEUへの加入に変わることなく反対したが、その一方党は、結局はEU加盟申請を行うよう政府に指示した。
二〇一三年、この党の選挙結果は一〇・九%まで半減した。パナマ文書が政治システムの危機を再燃させた後、当時野党だったVGは直近の議会選挙で、貧弱だとはいえ何とか五%を取り戻すことができ、得票率を一五・九%にした。新参の海賊党は、政府参加による汚点がない形で、一四・五%をもってVGのすぐ後ろに迫った。
われわれは、他のスカンジナビア左翼諸政党にも似たような軌跡を見ることができる。たとえばノルウェイの社会主義左翼党(SV)は、彼らが閣内にいた時期を通じて(二〇〇五―二〇一三年)、その支持が八・八%から四・一%まで急落することを目の当たりにした。
スウェーデンの左翼党(V)は、似たような後退に直面した。一九九八年の極左的EU批判キャンペーンが得票率一二%に結実した後の一〇年間、この党は、その急進的なイメージをやわらげ、赤・赤・緑連合に加わった。二〇一四年に党が見出したものは、得票率が僅か五・六%という支持の減少だった。
デンマークの社会主義人民党(SF)は、二〇〇七年に似たような左翼的でEU批判的キャンペーンを展開し、一三%を獲得した。二〇一一年になると彼らは、政府参加という期待をもってより穏健なキャンペーンに乗り出し、その支持は九・二%まで落ち込んだ。中道左派政権へのその後の参加は彼らの人気をさらに引き下げた。二〇一五年、この党の得票率は四・二%にすぎなかった。
フィンランドの情勢は、幾分ドラマ性が小さくなっている。一九九五年、左翼連合(VAS)は一一・二%を得た後に、「レインボー連合」政府に加わった。二〇〇三年にこの党は九・九%しか得ることができなかったが、二〇一一年には八・一%をもって再び政権に加わった。その任期を待つことなく連合から離脱するというこの党の決定はおそらく、もっと劇的な後退を喫することから党を救った。つまりこの党は二〇一五年、何とか七・一%を確保できた。

政府を主導してさえ同じく破綻


ある者たちは、少数派として努めを果たすことに代わって左翼政党が政権を指導する場合は諸々の環境は変化する、と力説するかもしれない。しかしギリシャの経験は、少なくともそれが必ず起きることではない、ということを示している。トロイカ諸機構の権力は、シリザを強制して新自由主義の諸政策を実行させ、さらにその拡張まで行わせた。結果として党は、そのメンバーを全体的層として失い、そこには多くの著名な個人も含まれている。この党は、政権についてからの六ヵ月だけで早くも数十万票を失った。世論調査によればこの傾向は継続している。
キプロスでのできごとも同じく感動を呼ぶものではない。二〇〇八年、共産主義者はこの国の史上初めて大統領職を勝ち取った。彼の党、勤労民衆進歩党(AKEL)は、大衆的支持を得ていたが、それにもかかわらず政府は、EU諸機構からの圧力に屈し、過酷な緊縮諸方策を押し通した。党が得た結果は、次の大統領選での一〇%下落だった。
われわれは、欧州の外だとはいえ、グリーンランドで同じような展開を見ることができる。二〇〇九年に、民主的社会主義者イヌイット・アタクァティギイト党が四三・七%の得票率というすばらしい結果を得た。党は権力を得たが、有権者の期待を満たすことができなかった。二〇一三年、その支持は三四・四%へと下落し、党は政府を去った。

敗北の原因には深い根拠がある


ここに見てきた概観は、過去二五年間を通じて政権への左翼の参加が新自由主義との決別をもたらした事例は一つもなかった、ということをはっきり示している。同時にまた、よりマシな悪戦略も端的に、それ自身の意味においてさえ成功しなかった。これらの失策は、大規模な改良を期待していた支持者を失望させ、左翼はエスタブリッシュメントの一部、という広範に広がる理解に力を与えた。これは多くの国で、右翼ポピュリスト政党やファシスト政党の成長にエネルギーを注ぐことを助けた。
それでは、これほどまで多くの左翼政府が破綻した理由は何だろうか? われわれは、党の指導者すべては欧州を貫いて、権力に着くや否や彼らの党の原則を意図的に裏切る、赤い羊の皮外套を着けた新自由主義のオオカミだ、と主張することもできるかもしれない。あるいはわれわれは、これらの指導者たちは健全な意図をもってはいたのだが、交渉のテーブルで新自由主義者の連携相手から裏をかかれたのだ、と仮定してみてもよい。しかしながら、このどちらが真実であったとしても、その時われわれに必要になると思われるものはすべて、これらの腐敗した、あるいは役に立たない指導者を党の別の翼で置き換えることだろう。
周知のようにわれわれは、近年の歴史にこれら両者の筋書きの事例を見つけることができる。しかし概して、そうした説明はこれらの頻発する破綻に対しては十分なものではない。これらの破綻を指導部の問題に切り縮めるには、各々の政党の伝統、構成、また路線があまりに大きく違いすぎるのだ。
われわれはそれに代えて、その原因を社会的諸勢力の関係に位置づける必要がある。資本は非常に強くなり、資本主義を改良しようとの左翼政府の挑戦に抵抗できるだけではなく、これらの政府を彼ら自身の利益のための道具に変えることすら可能となるほどになっている。上述の事例が示していることは、欧州による左翼の改良主義は新自由主義との決別を生み出すことも、左翼勢力を強化することもできない、ということだ。

政権奪取を超えた戦略の思考を

 欧州の左翼諸政党は、中道左派政権を通した社会変革の道は現在閉じられている、ということを受け入れなければならない。それに代えて彼らは、代わりとなる戦略を開発し、強力で、相互に結びついた、そして十分に組織された左翼諸政党、大衆運動、さらに戦闘的な労働組合を辛抱強く建設することを通して、力関係を移行させるために努力しなければならない。
左翼は、資本を守勢に押しやることができた場合にのみ、資本から実質的な譲歩をもぎ取ることができるだろう。われわれはこれを、社会的闘争の段階を引き上げ、資本家を将来に関し恐れさせることにより行う。その時であっても、左翼政府が社会主義的変革に向けた十分な戦略を意味する――あるいは少なくとも、それは左翼政党に政府内で、同じ古い敗北を繰り返すというよりもっとマシなことをやるチャンスを与えるだろう――か否かは、依然論争され続けるだろう。
▼筆者は、ドイツの歴史家であると共に、ローザ・ルクセンブルグ協会社会分析研究所の労働組合政策担当上級研究員。二〇一二年から二〇一四年までは、左翼党全国執行委員会メンバーだった。(「インターナショナルビューポイント」二〇一五年五月号) 

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