第四インターナショナル第11回世界大会議案
アラブ革命-その本質・現状・展望
このテーゼは、アラブ地域の第四インターナショナルの諸組織によって起草されたものであり、最終稿は一九七四年三月に書かれた。
はじめに
アラブ革命は、植民地革命の二度にわたる最近の高揚の波の中で重要な役割を果たした。一九五〇年代末、あのアルジェリア革命は民族独立闘争の前衛としての位置を占め、数年後には一時的にキューバ型の接近するような社会の根本的変革の過程の中でその頂点に達した。そして、一九六〇年代末には、世界革命の新たな高揚の中で、パレスチナ抵抗闘争は反帝国主義闘争の前提として自らを確立したのである。
しかし、二度とも、一地域におけるこの闘争の前進は、全世界的な戦略の欠如を覆い隠すこととなった。アルジェリアとパレスチナの場合、それらがその一翼を形成している全体を忘れ去るという傾向が存在していた。帝国主義者とアラブにおけるその手先は、この方向に運動をより一層そらせていくことに自らの本質的利害を見出した。革命間の義務はそれと闘うことであった。第四インターナショナルはその任務を回避しなかった。第四インターナショナルは、いかなる時にも諸々の部門の闘争を真の全体的関係の中に位置づけてきた。つまり、アラブ革命を全体の中に位置づけてきたのである。
その歴史的意味において、アラブ革命は、アラブ地域の地域的広さ以上の重要性を有している。それはそれ自身、東方人民の革命運動を構成する不可欠の部分である。そこには一億以上の人間が含まれており、西側帝国主義にとってはそのエネルギー資源の貯蔵所であり、財源であるというアラブ地域の役割からくる固有の重要性に加えて、アラブ革命は他の地域に対しても大きな波及的影響を及ぼしてきたのである。主として地理的、(イスラム教のような)文化的理由によって、アジア、アフリカの広範な地域やヨーロッパとの間にさえ(とりわけ移民労働者を通じて)相互交換が行なわれてきた。
アラブ革命のこの重要性は、その直面している任務に照応している。その中でも重大な任務は当然にも、アラブ地域に対する帝国主義の支配を一掃し、アラブ民族の真の完全な解放をかちとることである。
第一章 アラブ革命は永続革命である
1、石油が発見されるかなり以前から、アラブ知己の富のためだけからでなく、西洋、東洋、ブラック・アフリカを結ぶ橋としてのその特殊な戦略的位置のために、帝国主義はこの地域を自己のものにしようとしてきた。一九世紀後半と二〇世紀初めに、われわれはオスマン・トルコ帝国のアラブ領土が、フランスとイギリスをペースメーカーとして、ヨーロッパ植民地権力によって征服されていったのを見ることができる。フランスは、その帝国をアルジェリアからモロッコ、チュニジアへと拡大し、他方、イギリス帝国主義はナイル流域のその勢力を確保し、アラビア半島の南部で自らの支配を打ち立て、それによってインドへのルートを確保した。第一次世界大戦後の諸条約は、植民地の委任統治という形でマシュリク(近東)を二つのヨーロッパ列強の間に分割した。このようにして、この地域の古典的な植民地主義的領土分割は完成した。
第二次世界大戦は、これらの協定のすべてをひっくり返してしまった。今も独立を勝ち取りつつある少数の領土を除けば、アラブの植民地、半植民地諸国は、アルジェリアの民族解放闘争を頂点とする過程で次々と独立を勝ち取った。他地域と同様にアラブ諸国においても、帝国主義支配の一つの形態が終りをつげたが、それはもう一つ別の形態で存続し続けることとなった。いくつかの帝国主義勢力のあちこちで追い出されたが、新たな別の帝国主義が時には反植民地主義的な術策をも使いながら、大挙して動き出した。それが第二次大戦の第一の勝利者たるアメリカ帝国主義である。
今日、帝国主義資本の存在以外に、アラブ地域には三つの植民地支配の形態が存在している。
--経済的従属を通じた「間接支配」。帝国主義は大部分のアラブ経済を、一つもしくは実質上一つの農業生産物、鉱物生産物(石油、綿花など)の輸出国でしかない状態に制限してきた。これらの経済は世界資本主義市場に依存している。世界資本市場は、逆にこれらの経済を国際的な交易条件の発展に、そして世界通貨体制の変動に、きわめて左右されやすいものにしている。さらに、これらの諸国は技術的に帝国主義諸国に依存している。とりわけ、ソ連邦がこの点について帝国主義の肩代わりし得ないことが明らかとなって以来、そうなのである。実際、帝国主義間競争は、アラブ経済にとって、マヌーバーのための主要な場を提供することを明らかにした。近年、帝国主義諸国の矛盾の激化の結果として、この場はやや拡大している。
--半直接的軍事政治支配。これは傀儡的独裁国や土候国の場合であり、その軍事機構は、帝国主義の強固な支配下にあり、ただ帝国主義の援助の基礎のもとでのみ自己を維持しているのである。(これは、アラブ=ペルシャ湾沿いの産油国の大部分に当てはまる)。
--植民地型支配。シオニスト国家イスラエル内の情勢がこれに当てはまる。このタイプは三つの特徴を提起している。第一に、シオニスト的な移民運動が、入植者による植民地という性格をもって、大部分がユダヤ人排斥という抑圧から逃れてきた数十万のユダヤ人を引き入れ、そこに以前から住んでいたアラブ住民(その大部分は追放された)を犠牲にし、これらのユダヤ人をパレスチナに定住させることとなった。第二は、この移民から生れてきたユダヤ人プロレタリアートの形成という事態を伴ったシオニスト国家の形成である。この過程は、以前から住んでいた現地住民を搾取することによって成り立ってきた伝統的な植民地主義の形態とは異なるものである。(イスラエル内にとどまっている少数のアラブ人は、極端な経済的搾取を受け、なかでもシオニスト国家の諸制度によって恒久化されている民族的抑圧を最も激しく受けている)。最後にこの国家の起源とその後の存続の歴史の中で示されてきたように、シオニスト国家のその本質そのものが、この国家を、帝国主義と直接に結びつく必然性をもった国家にしているということである。それは、アラブ地域においてアメリカ帝国主義の反革命的戦略に奉仕する軍事的要砦としての役割を果たしているのである。
2、西側帝国主義は、アラブ地域分断の根源である。歴史的にはオスマン・トルコ帝国は、イスラム教の征服によってアラブ化された全領土を、その支配下において再統一した(モロッコとアラビア半島南部を除いて)。この再統一は、アラブ民族の発展の客観的基盤を強化することとなった。共通の言語と共通の文化に加えて、同一の支配者によって作られた一つの歴史、そしてそこから生れてくる共通の未来という意識が存在していた。欠けていたのは、とりわけそのるつぼ、国内市場が存在しない中で、民族的願望を代表する階級--これが民族のための経済的基礎である--であった。一九世紀の初めに、いくつかの民族主義の意志表明が出現した。しかし、これらは、アラブ全体というよりもオスマン・トルコの支配を拒否する地域的なものであることが多かった。その支配をとりわけ抑圧的と感じたのは、迫害された部族の権力者、半封建的な権力者、知識人、キリスト教徒から成る人々であった。
イギリスとフランスの両帝国主義は、この地域を分割するに当たって、アラブの民族意識の形成を阻害する国境を作り出していった。さらに、彼らは、「分割統治」という有名な合い言葉に従って、さまざまな地域的、種族的、宗教的排他主義を鼓舞したのである。しかし、同時に帝国主義は、農村地域の古い前資本主義的自由自足体制を掘り崩し、都市大衆の増大を促進する作用をもたらす都市の発展と通信手段の発達を作り出すことによってアラブ諸国への資本主義の浸透を助成し、それらを分断させる一方で、アラブ民族の物質的基礎を形成したのである。
アラブの民族意識が真に全般化したのは、ほぼ第二大戦以降のことであった。これは三つの要因によって促進された。植民地革命の高揚、イギリス、フランスの植民地体制の弱体化と支配力の弱まりのために作り出された世界大戦中の一時的ではあったがアラブの工業化、そして最後に非常に決定的な意味をもつ一九四八年のパレスチナ戦争である。この戦争は、近東に反アラブ国家を樹立することによって、アラブ民族の熱意のための最も強力な触媒を提供することとなった。
3、今日、同一の民族に属しているという意識は、アラブ大衆に深く根を降ろしており、社会的に最も後進的な地域(アラビア半島)や植民地主義者が最も深い文化的痕跡を残しているところ(フランスの植民地マグレブ)にまでもこの意識が広がっている。この意識は、反帝国主義的な潮流によって煽動されたり、あるいはシオニズム国家のたえざる侵略によってより一層かきたてられることによって、しばしば直接的な政治的形態という表現をとって浸透してきている。
アラブ地域の現在の国家による分割の人為性は絶対的に最大の害悪である。これら諸国の国境は、帝国主義の利害に適応するように刻みつけられたものである。したがって、「イラク石油会社」に与えられた一切の利権という点を取り去れば、イラクとは一体何なのか。(クルド地域を含めれば、それは一つの民族という実体にはならないことは確かである)。帝国主義によって決定された地域的な共同体の混合という点を除けば、レバノン国家やスーダン国家を形成しちえるのは一体何なのか。以前にフランスの県であったという点を除けば、アルジェリア国家とは一体何なのか。「アメリカ・アラムコ」への巨大な利権をという点を除けば、サウジ・アラビアとは一体何なのか。
アラブ民族の分断は、時代錯誤であり、歴史のコースと逆行する。
それは、統一国内市場の形成を妨げることによってアラブ地域の経済発展を阻害し、圧倒的多数のアラブ大衆の意識的願望の前に立ちはだかっている。アラブ民族の統一は、歴史的、経済的な必要性から導き出される。それは、アラブの地の真の工業化によって不可欠な必要条件である。その革命的潜在力は、一九世紀におけるドイツやイタリアの統一によって生み出された力を上回る。それは、各地の排他的利害と対決すると同時に、とりわけ、アラブが自らの足で立つことができるアラブ民族国家の形成を受け入れようとしない世界帝国主義と対決しなければならない。その上、既存のアラブ諸国は、どれ一つとっても自力だけでは、世界帝国主義に対して自己を維持をできないのである。
アラブ民族の統一がアラブ革命の中心的課題であるというのはこの意味においてである。しかしながら、このことは決して、アラブ革命の支配的なイデオロギーが民族主義的イデオロギーであるということを意味するものではない。われわれは明確に、革命の民族的課題の問題と本質的にブルジョア的性格をもつ民族主義的イデオロギーとを区別しなければならない。後者は、労働者大衆の階級的意識の形成を遅らせるが故に、革命にとって最大の障害をなすのである。
4、しかし帝国主義によるアラブ地域の分割の結果、このアラブ民族問題の他に別の民族問題がつけ加わることとなった。それは、イスラエル国家のユダヤ人の問題だけではなく、アラブ化されていないベルベル人大衆の問題や現在のアラブ諸国家の中に人為的に組み込まれている民族の問題である。
革命的マルクス主義者は、もっぱら国際主義的な観点からのみアラブ民族の統一を認めるのである。このことは、統一がどんな人民に対しても強制されてはならないということを意味している。マラケッシュやアルジェリアのベルベル人少数派のアラブ化は、したがってこれらの大衆にとって受け入れれられるものでなければならない。革命派は、一切の強制的なアラブ化の試みを非難するものである。革命派はベルベル人大衆の自決権を支持する。しかし、同時に、革命派は、彼らの文化的特殊性を完全に尊重しつつ、アラブ地域へこれれらの大衆の統合を鼓舞するのである。
モーリタニアや南スーダン、そしてイラクやシリアのクルディスタン地方の抑圧されている少数民族の場合については、アラブ革命の綱領が、完全な分離国家への権利を含む不可侵の自決権を当然にも主張しなければならいないことは明白である。クルド人民にとっては、この権利は、統一したクルディスタン国家への民族的統一の全面的権利の一部なのである。アラブのブルジョア的抑圧者などに対する自決のためのクルド人民の闘争への無条件の支持と同時に、クルド革命のためのプロレタリア的指導部の建設を助けることは革命的マルクス主義者の義務である。
イスラエルの場合は完全に異なってくる。現在のイスラエル国家では、抑圧者としての多数派はユダヤ人であり、その抑圧は何よりももとから住んでいたアラブ住民の追放に基礎をおいているのである。この意味において、唯一の革命的態度は、パレスチナのアラブ人の完全で無条件の自決権、つまり彼らが追放された全地域へ再び戻り、一切の民族的抑圧なしに生活できる権利を承認することである。
この権利を行使するためには、このような展望とはあい入れない人種主義の基礎の上に存在しているシオニスト国家の破壊が前提となる。アラブ革命がこの必要な歴史的課題を達成した後でののみはじめて、パレスチナにおけるユダヤ人少数民族の権利の問題を具体的にしかも正しく処理することが可能となるであろう。ユダヤ人とアラブ人との間の(入植型の)シオニスト的関係の一掃という問題は、イスラエルの革命派たちにシオニズムからユダヤ人大衆を引き離すという重大な任務を提起するのである。この任務の達成のみが少数派としてのユダヤ人のアラブ地域への友好的な統合を保証することができるのである。この統合がとるであろう形態の詳細は、ユダヤ人労働者の(反シオニズム意識という)階級意識の発展のテンポと広がりにかかっている。他方、この解決は、少なくとも全近東の革命的転覆という関連の中においてしかなしえないのである。これのみが、シオニストと帝国主義の手からパレスチナを解放するのに必要な力を与えることができるのである。つまり、単一の統一アラブ国家の形成に向かう途上において、イスラエル国家の破壊は、他のアラブ諸国家の廃絶と並行して進行する。こうして、近東における革命の民族的側面は、パレスチナ人民の場合にのみ限定されるものではなく、アラブ民族の統一という全体的問題なのである。
したがって、シオニスト国家が廃絶されると少数民族となるイスラエル内の現在のユダヤ人の問題が提起されるのは、この枠組みの中においてである。この問題に関しては、いかなる民族社会においても一切の拝外主義と根本的に対決する労働者民主主義の綱領が、レーニンによって明確に設定されている。「どの民族にも、どの言語にも、どんな特権も与えてはならない。少数民族にたいするどんな小さな圧迫も、どんな小さな不公平もあってはらない」(「労働者階級と民族問題」)。このことは、ユダヤ人とアラブ人との間の完全な平等だけでなく、ユダヤ人のために十分な市民的権利、文化的権利を保証するこいとをも意味する。同時に、労働者民主主義は、労働者国家によって必要とされる政治的、経済的集権主義の枠内において、ユダヤ人地区におけるユダヤ人労働者の自治権の承認を必要とする。これがイスラエル問題の解決のための労働者国家の展望である。
シオニスト国家が存続している現在の条件下で、「イスラエル民族のための自決権」を要求するとしたら、それは結局。反動的なものになるだけである。しかし、シオニスト国家が粉砕され、パレスチナ人民の権利が再確立された後でのみ、パレスチナにおける少数民族ととしてのユダヤ人の自決権を承認することが可能になる。これはパレスチナの地の一部に彼らの独立国家を形成する権利を含むものである。しかしがら、これはこの権利の行使が他の人民の権利を決して侵さないという条件に厳密に従って行われなければならない。このことは、とりわけこの権利の行使がパレスチナのアラブ人の自決権と調和する形でなされなければならないことを意味している。さらに、アラブ革命は、領土拡張主義的国家や帝国主義によって武装された国家の形成を決して受け入れようなことはないだろう。アラブ革命派の責務が、アラブの労働者の中にある排外主義的傾向と闘うことであるのとまったく同様に、いかなる場合にも、イスラエルの革命的マルクス主義者は、統一国家の展望に向けてユダヤ人労働者を教育しなければならない。それのみが彼らの利害に合致するのである。
5、アラブ諸国における農業問題は、大部分の開発途上地域と同様に、これらの国々の経済上の活動人口のかなりの部分が農業に従事しているために、非常に重要である。
アラブ諸国の農業問題の根本的特徴は、後進諸国と大いに共通した点があるけれども、次のようなものである。農業人口の圧倒的多数は、土地を持たない貧しい農民によって成り立っている。これに対して、大土地所有者と農業経営者は、ほんの少数である。土地との関係では明らかに人口過剰であり、このことは季節的あるいは永続的な基礎をもつ非常に深刻な失業の中に反映されている。いまだ圧倒的である原始的技術による農業の非常に低い機械化の水準。(灌漑のような)適切な技術上の設備が存在しないために、耕作地の非常の多くの部分が耕作されないまま放置されている。
これらの問題の解決は、アラブ地域に必要とされる社会的、経済的革命という他の側面と密接なつながりをもっている。それは、アラブ諸国における徹底的な工業化(農業の機械化を含む)と統一した国内市場の創設という問題に帰着する。それは全国的な計画化された投資と財政政策を必要とする。トロツキーが同じようなケースであった中国について指摘したように、民族的統一と経済的主権がなければ、アラブ諸国の農業革命は、これらの地域の低開発の問題を決して解決することができない。
さらに、アラブの一部の諸国ですでに試みられた多くの農業改革は、他地域と同じように、反駁の余地なく次のことを示した。土地の分割が、市場経済という枠組みの中でしかも官僚的方法によって行われるとき、結局それはかえってクラーク的層の成長を促進し、その結果、土地をめぐる社会的格差は減少するどころか加速されるようになるということである。さらに、農民に対して官僚的に「社会化された」農業を強制するという試みは常に悲惨な失敗に帰したのである(これはアラブ諸国における土地の状況を正当化しようとするエセ進歩的指導者によって欺瞞的な形で引合いに出されている)。アラブ諸国において独立初期のアルジェリアや南イェーメンのように農業改造の実験が成功をおさめたまれなケースでは、それはブルジョア的な枠組みをこえて進行する全般的な革命的過程の一環として行なわれた農民大衆の動員を基礎にしていたのである。
6、たとえ理論的論議が十分でないとしても、歴史的経験はすでに、アラブ革命の本質的課題のどれひとつをとっても、それらがブルジョア国家の枠組みの中では達成することができないということを示してきた。これらの課題がひとつとして今なお実現されていないのも、まさしくこの理由のためである。他のすべての発展途上国と同様に、アラブ地域にとっても、二者択一の問題しか残されていない。つまり、社会主義革命か、それとも革命の戯画化か、と。アラブ諸国にとって、貧農に支持されたプロレタリア独裁の道を通る以外に低開発から抜け出す道は存在しない。
プロレタリア独裁だけが、世界帝国主義に対決し、帝国主義のアラブにおけるすべての資産を没収し、アラブ諸国を世界資本主義市場に縛りつけている鎖を打ち破るために必要な大衆的動員をかちとることができる。プロレタリア独裁のみが、各地域のブルジョアジーの相互の利害を対立させている帝国主義によって作られた地域毎の国境を打ち破ることができる。プロレタリア独裁のみがアラブ民族の統一を達成することができる。それだけが、大企業のみならず大農場や鉱山の資産を無償で国有化することによって、アラブ民族の資産の共同保有が可能になる。それのみが、外国貿易の国有化とアラブ人民の間への分配を集中化することによって、アラブ市場を統一することができる。それのみが、(その大部分がプロレタリアートである)貧農大衆の動員に基礎をおくことによって、生産協同組合の路線にそって、徹底的な農業改革を展開することができる。プロレタリア独裁のみが、社会主義的原始蓄積を通して、その物資的資源が決して不足していいないアラブ地域の工業化を達成することができる。プロレタリア独裁のみが、国際主義的綱領を通して、イスラエルのユダヤ人労働者のみならずアラブ諸国の少数民族をその主張のもとに獲得することができる。プロレタリア独裁のみが、アラブの女性の真の解放のための前提条件たる、アラブ諸国で緊急に必要とされている文化革命を行なうことができるのである。
アラブ革命は社会主義革命となるであろう。さもなければそれは革命ではなくなるだろう。それは、アラブ社会主義共和国連邦という枠組みの中で、(マグレブ、マシュリク、そしてナイル渓谷地帯を含む)アラブ地域全体にわたる勝利となるだろう。
アラブ社会主義革命は必然的に隣接するアジア、アフリカ地域に波及し、西側帝国主義陣営内の革命的で国際主義的な労働者の運動と密接な連帯関係を結ぶだろう。
この発展過程は、レーニンの時代の共産主義インターナショナルの諸綱領と第四インターナショナルの諸綱領を鼓舞したレオン・トロツキーによって発展させられた永続革命論を驚くほど例証している。
第二章、一九六七年六月のアラブの敗北とその結果
7、革命のための社会的、経済的な客観条件がすでに長期にわたって成熟しすぎているという背景のもとで、政治的性格をもつ諸事件が何度かにわたってこの客観条件の中に介入することによって、アラブ地域の既存の体制が揺さぶられてきた。これらの諸条件のうちの最も重要なものは、イスラエル・アラブ戦争である。イスラエル国家は、近東における帝国主義の利害を防衛するためにパレスチナの地に打ち込まれたものである。だが逆にこの国家の成立は、客観的に、長年にわたる反帝国主義的なアジテーションよりもより効果的な形で、アラブ人民の反帝国主義的な民族意識を発展させ、そのことによって、この国家が防衛しようとしてきた利害を危うくするような脅威を拡大していくこととなったのである。
一九六七年の六月戦争から二〇年前の一九四八年に、シオニスト国家が正式に建設されたために衝突が発生した。この衝突はアラブの政治地図の変化を画するものとなった。アラブの諸政権の経済的、社会的危機は、この新国家に対するこれら政権の軍隊の敗北によってさらに促進されることとなった。この敗北は、既存の政府の権威を失墜させ、それらを打倒するのにより一層有利な条件を生み出す方向に作用したのであった。前革命的情勢がアラブ地域に具体的な姿をとって登場した。とりわけ一九四八年の戦争によって大きな損失をこうむったエジプトにおいては、その社会的危機は最も先鋭なものとなった。
腐敗したファルーク王制は、絶望的なまでに死に瀕するようになった。しかそれにとってかわりうる社会的勢力は存在していなかった。エジプトのブルジョアジーは、主として買弁的分子から成り立っており、決して王制を不都合なものとみなしてはないかった。彼らは、ファルークの打倒から利益を得ようとするよりも、むしろその打倒を恐れていた。他方、いわゆる民族的な産業ブルジョアジーは、王制に対する大衆の反乱を指導するには余りにも弱体であり、当時の街頭デモが反ブルジョア的な方向へと発展しようとしていたという事実そのものがそうすることをより一層不可能にした。プロレタリアートは数的に弱体な上に(それは、重要であったが、決定的な比重をもっていなかった)、結局、革命的指導部を欠いていた。スターリニスト自身も弱体で混乱しており、パレスチナ問題に対する超セクト主義的態度のために信用を失っていた。
(革命的指導部の不在の中での前革命的危機という)この典型的な情勢が、果たしてボナパルティスト的クーデターという典型的な回答を生み出したのである。このような回答のおこり得る可能性は、多くの開発途上国における軍隊に共通な特有の性格によってさらに高いものとなった。これらの国々が独立を達成して以降、まさに経済構造と支配的ブルジョアジーが停滞状態にあるために、軍隊は肥大化した国家機構の最も強力な構成分子となり、権力の主要なテコを構成していた。この軍隊は、その内部にブルジョア的、小ブル的民族主義的傾向の基本的分子を含んでいた。これらの分子は、国家組織を支配する既存の社会的構成分子とイデオロギーの所与の条件下で、とりわけ軍隊を有効な組織された機構とみなしたのである。「自由派将校団」による軍政はボナパルティズムの典型的な一例である。
ナセル的ボナパルティズムは、一方におけるプロレタリアートと小ブルジョア的勤労大衆、他方におけるブルジョアジーの一定部分との間の勢力の均衡に依拠していた。それは、ブルジョア的ボナパルティズムとして、労働運動とりわけ共産党や、さらには植民地主義、買弁主義、買弁ブルジョアジー、大土地所有者といった自らの階級敵と闘うという民族ブルジョアジーの全般的な歴史的利害を代表していた。それは、民族ブルジョアジーの歴史的任務を、とりわけ工業化の任務を実現しようと試みた。アラブの統一に向けたナセル体制の闘いというものは、基本的にその市場を拡大しようとする民族ブルジョアジーの利害に合致していたのである。都市の小ブルジョアジーと小農といった小ブルジョア大衆のナセルへの熱烈な崇拝は、完全にボナパルティズムに合致しており、事実このボナパルティズムに特有のものである。
勃興するブルジョアジーが基盤とした古典的ボナパルティズムとは区別されるナセル的ボナパルティズムの特徴は、この国をおさえている帝国主義の支配が生み出した諸結果と結びついている。幼年期からすでに帝国主義世界市場によって窒息させられてきた民族ブルジョアジーの極端な弱さは、自己の歴史的利害を代表とするその試みに着手しようとするに際して、非常に限定された方法でしかそのことをなし得ないということを意味している。ナセルのボナパルティズムは経済発展のための別の道を捜し求めなければならなかった。それは、自身が古典的ボナパルティズムのように政治的に自己の代表する階級にとってかわるなければならないということに気づかざるを得なかった。この理由のために、公共部門が、ナセル体制にとって便利な政治的手段となった。しかしながら、この部門はやはり資本主義的生産関係に支配されていたのである。それはブルジョア的国家資本主義を表現lするものであり、ネオ・スターリニスト的な修正主義が主張するような「非資本主義的発展の道」を表現するものではなかった。
さらに、このナセル的ボナパルティズムの経済的自立というものは、古典なブルジョア・ボナパルティズムよりも社会の力関係に対してより一層敏感であるとということを意味した。大衆の側からの強力な圧力の下で、それは時にはある程度の急進的な諸政策に着手したが、ある場合には、一九六一年や六三年の場合のように、ブルジョアジーの利害と絶対的対立することにもあった。もちろん、このような前進は限定されたものであり、とりわけ一時的性格にすぎなかった。
ナセルの実験は、厳密な意味で言えば、長期的に先進的なブルジョア・エジプトを建設し、アラブ市場を統一しようとする試みであった。だがそれは失敗に終わり、論駁の余地なく永久革命の根本原理を証明することとなった。(イラク、シリア、イェーメン、そしてある程度はアルジェリアといった)多くのアラブ諸国で、ナセル的現象は繰り返されてきた。それは、一〇年間以上にわたって、アラブ地域や全植民地世界に根強い痕跡を残してきた。一九六七年の六月戦争は、その限界を際立たせ、その原型たるエジプト的表現に決定的な打撃を与えた。
8、一九六七年六月のイスラエルの侵略は、一九六〇年代にアメリカ帝国主義によって推し進められた全世界的規模での攻撃に照応するものであった。それは、主として二つの過程をたどって登場した近東での反帝国主義的闘争の発展を圧殺することを目的としていた。一方において、パレスチナ人民の闘争が復活していた。武装した中核部隊がその内部から生れ、シオニスト国家に対して軍事活動を開始した。他方、一九六六年のクーデターによって樹立されたシリア政権の急進化という事態が存在していた。この政府の小ブルジョア的な左翼が、いぜんとしてブルジョア的であった国家機構に対して急進的な政策を強制していた。
一九六七年の六月戦争は、帝国主義=シオニスト枢軸の圧倒的な軍事的勝利という結果に終わった。この意味において、帝国主義の反攻は成功をもって報いられた。だがこの成功は、帝国主義の勝利それ自身によって引き起こされた反作用によって逆に危ういものとなった。このような事態はを勝利者はまったく予測できなかった。こうむった敗北とこの敗北が意味する民族的屈辱によって急速に覚醒させられたアラブ人民大衆は、最近の歴史の中で政治的に最も強力な大衆的動員の中へ身を投じていったアラブ大衆の反帝国主義運動のこの高揚は、全世界的な革命の急速な攻勢と結合し、帝国主義の勝利を相殺してしまった。この闘争の高揚は、戦争の敗北によってひどい打撃を受けたシリアとエジプトの両国の政権が自己の権力を維持することを可能にさせたのである。
ナセルは一九六七年六月九日、一〇日の巨大なデモによって救われたが、それは、帝国主義の圧力と労働者人民大衆の圧力との間に成立した新たな均衡を示すものであった。ナセルは権力にとどまったが、イスラエルの勝利によってそのモラル的側面において打撃を受けたナセル主義は、以前の王制がそうであったようにその生命力を終えることになった。ナセル的反帝国主義の限界は、すでに経済の領域で明白になっていたが、政治的、軍事的領域でもまたその限界が完全に明らかとなった。帝国主義によって武装され、工業諸国から直接に導入されたはるかに高度な熟練度をもつ労働力が与えられているシオニスト国家と技術的にも対抗することができなかった上に、ナセル体制は、イスラエルを打ち破るのに必要な程度にまで人民大衆を武装させ、動員することができなかったのである。したがって、このことがボナパルティスト支配の基礎を掘り崩していくこととなるのである。
一九六七年六月に、ナセル主義の限界はその極点にまで達した。六月以降ナセルによってとられた政策は、彼の屈服を画するものとなった。ナセル政権は、つい最近まで自らの敵であり、この地域における帝国主義の道具になっている諸政権(それらのうちの主要なものの一つは「サウジ」アラビアであるが)との協調にのり出していった。このような協調は、親帝国主義的な諸政府から財政的援助を得るための条件であった。
いかなる現実の反帝国主義的活動も、ブルジョア的ボナパルティスト国家権力と両立し得ない革命的過程へと必然的に入っていくがゆえに、一九六七年六月以降、ナセル主義は事実上アラブ地域では不可能なものとなってしまった。一九六七年以前のナセル主義との関係でいえばスーダンとレバノンのクーデターは、右翼的戯画化以外の何ものでもないものであった。一九七一年に樹立された短命に終わった「アラブ共和国連合」は、その反動的な弾圧機能を除けば、かつての「アラブ統一共和国」とは何の共通性ももっていなかった。それは、アラブの統一に向けたナセルの試みの中にあった統一や反帝国主義といった内容をまったく持ちあわせていない。
ナセル主義の死の苦悶とともに、アラブ革命の一つの時代が終わり、もう一つの時代が姿を現しはじめていた。
9、一九六七年六月以後のアラブ大衆運動の高揚の最も重要な特徴は、「パレスチナ抵抗闘争」という共通の名で呼ばれているパレスチナ人民の武装組織の異例の急速な発展であった。
パレスチナ人民は、アラブの諸政府の約束によって二〇年間にわたってなだめられてきたために、活発な活動をこれまで展開してこなかった。だがパレスチナ人民、より正確に言えば、そのうちの最も厳しい試練を受けた部分、つまり「難民キャンプ」に生活するパレスチナ難民は、アラブの敗北とその結果生じた新たなパレスチナ人の追放によって荒々しい形で覚醒させられ、揺り動かされた。パレスチナ抵抗闘争の発展は、まず第一に、かれらの祖国であるパレスチナの解放のための闘争を引き受けようとするパレスチナ人民の願望を表現するものであった。だが、この反応の自然発生的性格が同時にその限界をも示していたのである。
その多くが非生産者によって構成され、とりわけ土地さえも奪われた少数の土地所有者をも含むグループとして、パレスチナの難民は、失うべき何ものをもまったく持たないが、他方では勝ち取るべき国をもっているかぎりにおいて、いかなる最大限綱領主義的傾向をも特別に受け入れる社会的階層を形成することとなった。この事実は、その明白な最大限綱領主義的スローガンやパレスチナ解放に関する考え方にもかかわらず、なぜパレスチナ抵抗闘争に対して巨大な大衆的支援があるのかということを十分に説明するものである。
パレスチナ抵抗闘争の、少なくともその大部分は、「人民解放戦争」といった展望や正確な社会的内容や過渡的な政治的、組織的、軍事的目標をもたないままに全体的に非現実的な戦略を打ち出していた。たとえパレスチナ抵抗闘争が申し分のない大衆的支援を受けているとしても、反動的な基礎の上に人民大衆と緊密に結合していてよりよい装備を備えているシオニスト軍隊を打ち破ることができると考えることは絶対に幻想である。そのような目標を達成するには、シオニスト国家の住民に特有の、この国家の強さの源泉であるその結集力のイデオロギー的基盤を唯一掘り崩すことができるユダヤ人革命派の参加を必要とするだけではなく、とくに帝国主義とそのシオニスト的要砦に対する全面的な革命戦争へのアラブ人民の参加を必要とする。これが唯一の現実的な勝利の道である。
パレスチナ抵抗闘争は、アラブ人大衆とユダヤ人大衆の結合した闘争への参加を保証し得るいかなる綱領をも打ち出すことができなかった。その最大限綱領主義は、本質的にパレスチナ地域中心主義と結びついたものであった。ここには、パレスチナ人民の歴史的経験が反映されている。パレスチナ人民の間の地域主義的傾向は、かれらがこうむった異常な運命とアラブ諸政権に対する幻滅とによって促進されたものであった。
しかし、これらの基礎に横たわる客観的要素は、それがいかに大きなものであっても、パレスチナ抵抗闘争の最大限綱領主義的=地域主義的方向を不可避とするものではなかった。そうした客観的要素はこの方向へのひとつの傾向を生み出したにすぎなかった。革命的マルクス主義者の労働者前衛があれば、パレスチナ大衆の間に存在するこの幻想と闘ってきたであろうし、パレスチナの解放が必然的に既存のアラブ諸体制の革命的打倒を伴うし、それはイスラエルの内部自身で闘う革命家を含む全アラブ地域に向けた労働者階級の指導部なしには不可能であるとパレスチナ大衆に説明したであろう。これらの落し穴やごまかしを回避することによって、このような前衛は、シオニスト国家に対する軍事的闘争を全体的な革命戦略の一環に位置づけることができたであろう。こうして、そのような軍事行動は、それを誤って「人民解放戦争」だと示すことなく、この地域全体にわたる革命党を建設するのにきわめて重大な貢献をなすことができたであろう。しかし、このようなタイプの前衛は歴史的には存在しなかった。
パレスチナ抵抗闘争の指導部は、ソ連邦に追随してシオニスト国家が存在する権利を承認するスターリニストによって代表される労働運動から生れて来ることができなかった。これらの抵抗闘争の指導部はすべてアラブ地域で支配的であった小ブルジョア的な民族主義運動から生れて来た。彼らは、アラブの支配階級の党の直接的な延長である組織を除けば、すべて多かれ少なかれ小ブルジョアジーの愛国的集団の急進化したものである。その中の最も先進的な部分は、革命的マルクス主義の綱領に接近していきている。パレスチナの指導部のうちで最も勢力のあるのはファタ指導部であるが、彼らは同時に最右派でもある。この指導部は、その著しい右翼的地域主義によって、イスラエルへの主要な援助者であるアメリカ帝国主義の公然たる道具となっている。最悪の反動的所政府を含むアラブの諸体制への依存を正当化したのである。イスラエルとの間の「主要な矛盾」の名のもとに、ファタ指導部は、イスラエル国家自身の建設の共犯者たるパレスチナやヨルダンの反動派との間の協調を正当化した。パレスチナ人民の特殊なアイデンティティーという名のもとに、パレスチナ人民が接触をもっている他のアラブ人民からパレスチナ人民を孤立化させ、パレスチナ人民がこれらのアラブ人民の社会的闘争に参加するのをファタ指導部は禁じたのであった。それが受け取る法外な援助金に浸りきったファタ指導部は、一般のブルジョア国家とほとんど同じ規模に達する官僚機構を発展させた。その軍事組織は、革命軍の建設の原理とは決定的に矛盾する形の給料制を基礎としている。
しかし、こうしたすべての事実にもかかわらず、パレスチナ抵抗闘争の最大部隊であるファタは、その反帝国主義的性格を客観的に否定できないような闘争を指導したのであった。それは、パレスチナ人民の愛国的熱望を体現し、一九六七年以降近東で生れてきた革命的潮流のための傘の役割を果たしてきた。この逆説的事実は、ファタ指導部の曖昧な立場によって説明される。その立場は、アラブ諸体制とファタがが指導する大衆運動との間の均衡に依存しているが、大衆運動の急進的圧力がまたファタにある程度の自立的余地を与えたのである。
10、パレスチナ抵抗闘争を解体しようとする試みが重大な段階を画したのは、一九七〇年九月にヨルダンのハシミテ体制によって展開された絶滅運動であったが、これは、抵抗闘争の指導部、そしてとりわけファタ指導部にうよって取られていた政策の直接的結果であった。
事実、ファタ指導部は、ハシミテ体制の真の意図についてパレスチナ大衆をあざむくことに貢献しただけであった。この指導部は、現地に存在するフセイン国王に対する大衆的不信を組織する代わりに、「民族の敵に対して隊列を固めよ」という欺瞞的なスローガンを宣伝した。彼らは、ヨルダンにおいて約二年間にわたって存在していた二重権力状態を自らに有利な形に解消しようとする一切の試みをしりぞけ、一貫して守勢を続け、反動政権にイニシアティブを委ねてしまった。こうして、この政権によって行われた絶滅運動がすべて終わると、決定的な和解がなされるという幻想に彼らはすべてをゆだねてしまった。
さらに、彼らは、ヨルダンの体制によっては決して尊重されていない協定を守るために、この政権に対して譲歩につぐ譲歩を重ね、大衆の武装解除を行なうところにまで行き着いてしまった。しかし、この欺瞞的態度の上にされに、ファタ指導部は、ヨルダンの大衆とフセイン軍の兵士の支援を認めなかった。これらの勢力こそ、ハシミテ体制を真に阻止し得ていた唯一の勢力であったのにである。「パレスチナ人のアイデンティティ」と「アラブ諸国の内政不干渉」の名の下に、ファタ指導部は、そのような支援の獲得の可能にするいかなる綱領をもかかげなかったし、時には労働者の闘争に反対するようなことまでしたのである。
パレスチナの左翼は、ハシミテ体制との「愛国的統一」という幻想にとらわれてはいなかったものの、実践的にはファタから自己を区別しなかった。この左翼はまた、ヨルダンの勤労大衆の中に基盤を獲得し、不可避となっていた絶滅運動に備えることができないということを明らかにした。彼らは、ある時には階級的内容を欠如させた「全権力をパレスチナ抵抗闘争へ」といった地域主義的スローガンを、またある時にはまったく具体的でない、「全権力を人民評議会へ」といった極左主義的スローガンをかかげることによって、ヨルダン大衆を動員し得るような過渡的綱領をかかげることができなかった。彼らはファタ指導部の屈服に対して有効な反対を組織しなかったし、統一という口実によってファタから自己を区別することができずに終わってしまった。パレスチナの左翼は、抵抗闘争の他の潮流と同様の最大限綱領主義的=地域主義的傾向としての傾向をもっていた。彼らは、軍事組織を指導し、またそれのみがパレスチナにかたよらない基礎に立って生産階級に根をおろすことができる革命的階級政党が緊急に必要であるという点を理解できなかった。さらに、パレスチナの左翼は、エセ進歩主義的なアラブの諸政権と自らつながり、これらの政権に左翼的仮面を提供し、そうすることによってこれらの諸政権に反対する革命党の利益を裏切ったのである。
パレスチナ抵抗闘争の指導部によってとられた同様の政策のために、抵抗闘争をレバノン住民から孤立させ、レバノンに基礎をおいている抵抗闘争の軍事行動を凍結させることをねらったイスラエル軍とレバノン政権との提携した試みが比較的容易に成功した。シリアでは、抵抗闘争は決して自らを一つの独立した勢力であるとは主張しなかった。抵抗闘争は、シリア政権から得られる援助の代償としてこの政権に全面的に服従した。今日、この服従は、パレスチナ部隊を動員しないことを意味しており、この部隊は、実際にはシリア軍の指揮下におかれてしまっている。
パレスチナ抵抗闘争の急激な衰退は、その上昇と照応している。多くの幻想の集約的表現としてのその敗北は、一九六七年六月の敗北よりもより一層深刻で悲惨な打撃であった。しかし、この敗北の教訓は決して無駄にはならないであろう。民族的闘争と社会的闘争との間の本質的関連は、今日では、かつてよりも一層明らかとなっている。パレスチナの解放は、それだけで孤立しては達成することができず、この地域全体にわたる強固な指導の下に、アラブ社会主義革命の一環としてのみ達成できるということがきわめて明白になってきている。パレスチナとアラブの新たな前衛は、この真理を自己のものとしなければならないであろう。
11、一九六七年六月から三年後の一九七〇年九月のパレスチナ抵抗闘争の崩壊は、パレスチナ人民の武装運動がその中心的舞台から一掃されることによって、帝国主義の勝利を確固たるものにした。帝国主義の順応性ある道具であるハシミテ体制は、一九六七年以降うち固められたイスラエルの勝利とアラブの大衆運動の高揚--その最も重要な部分がパレスチナ抵抗闘争である--との間の均衡を打ちこわした。帝国主義とブルジョアジーの利害に合致するアラブ地域の再組織のための道が掃き清められた。この再組織はとりわけ反帝国主義的なアラブの諸政権を締めつけることを意味していた。この課題はさらに同時期におきたナセルの死によって容易にされた。というのも、彼のボナパルティスト的威信が、彼に帝国主義の圧力に対してある程度抵抗する可能性を与えていたからである。
ヨルダンにおける虐殺の一ヶ月後、シリアで政権をとっていた小ブルジョア的急進派のグループが、ブルジョア国家機構を代表する政権の右派によって組織された軍事クーデターによって打倒された。新政権は、国内ではシリア・ブルジョアジーに、対外的には帝国主義とつながるアラブの諸政権に対して手をさしのべた。
一九七一年、エジプトのサダト政権は、かつてのナセルから受け継いだ官僚機構、政治・軍事機構を一掃してしまった。そして、サダト政権は、エジプト国内の私的資本と帝国主義的私的資本の両者の発展にとって桎梏(しっこく)となっていた障害物を取り除くと同時にエジプト・ブルジョアジーの利潤を侵害する国有化政策を徐々にとりやめていった。これらは、ナセル体制特有の経済的側面の一掃を意味した。実際、ナセルの実験は、他のすべてのボナパルティスト体制と同様に、一時的なものにすぎなかったのである。ナセルの試みは、当然にも二人の墓掘人を生み出した。一方で、新しいブルジョアジーが勃興した。それは、古いブルジョアジーの残党(彼らの資産は国家によって有償で買い上げられるか、あるいはまったく手をつけられないままあるのかどちらかであった)と、国家機構から作り出された利潤を資本にかえた一部の支配官僚とで構成されていた。他方で、ナセル主義は、多数の集中されたプロレタリアートは本質的に、独立した闘争の経験をもたず、自らを代表するような労働組合や政治的指導部をもっていなかった。ひとたびこのボナパルティスト的均衡が崩れ、ボナパルトが死んでしまうと、この二つの勢力の中でよりよく組織されている新ブルジョアジーが、ブルジョア的発展を阻害して寄生的に成長してきたナセル的官僚から自己を脱却させたのである。サダト体制は、このブルジョア的復活の手段であった。
一九七一年にはまた、つかの間のナセル主義のこっけいな模倣に終幕を降ろしたスーダン独裁政権の成立は、スーダンにおける労働者運動の中心的組織者であったスーダン共産党の解散を可能とさせ、この政権は、西側帝国主義との公然たる協調を試みていった。
最後に、帝国主義は南イェーメンで進行していた革命的体験を圧殺することに全力を集中した。帝国主義は、「サウジ」アラビアと北イェーメンを通じて軍事的圧力をかけることによって、南イェーメン政府に北イェーメンとの軍事協定の受諾を強制することに成功した。この協定は、一九六七年の民族解放戦線からの右派の追放以降に南イェーメンで樹立されていた政権の反帝国主義的、反資本主義的内実を清算させようとするものである。
こうして、アメリカ帝国主義は、数年遅れて、一九六七年の勝利の成果を自らのものにしたのである。彼らの今日の目標は、アラブ=イスラエル間の対立の「平和的解決」を今回限りで完成させ、パレスチナ問題の革命的な爆発的性格を一掃することである。
12、ヨルダンにおけるパレスチナ抵抗闘争の壊滅、いくつかのアラブ諸国での反動の勝利、全アラブ地域への帝国主義の圧力の増大といった事態にもかかわらず、アラブ大衆の民族的、社会的闘争は、その発展を停止させてはいないし、反対に、この数年間で初めてとも言えるエジプトにおける一貫した活発な反対運動の登場とともに重大な質的な前進を勝ち取りつつある。
この明白な逆説的事態を解く鍵は、帝国主義の攻撃の成功が、決してアラブ地域における政治的煽動を生み出すその底に横たわる原因を変えなかったという事実にあるのである。アラブ諸国の根本的な社会、経済的危機は決して解決されないばかりか、交戦国では、軍事予算の負担、スエズ運河の閉鎖といった形で、一九六七年六月の結果によってかえって悪化しているのである。この危機の上に、アラブ諸国の敗北からくる極度の政治的緊急さがさらに加わっている。そして、アラブ諸国のより広範な大衆が幻想から脱却し、これらの政府の裏切りを確信するようになってきているので、この緊張は、日々より一層深刻になってきている。
一九七〇年にアラブ地域で解き放たれた反動の嵐は、一部の指導部を敗北させることができただけであった。それは、ブルジョア的、小ブルジョア的アラブ民族主義潮流と結びつく二つの主要な政権を覆し、パレスチナ抵抗闘争--その指導部が最初このアラブ民族主義潮流から生まれてきた--を粉砕し、さらにはアラブのスターリニスト指導部の中では最強であったスーダン労働運動のスターリニスト指導部を解散させた。だが、ナセル主義が絶対に再び高揚しないであろうこと、パレスチナ抵抗闘争のプチブル的指導部が取り返しのつかないほど権威を失墜させてしまったこと、アラブのスターリニスト運動が十分すぎるほどの破産を示したことがまったく明白であるのと同様に、アラブの大衆運動の急進化が新たな段階に突入したこともまた、同じく明白である。エジプトにおいて再び新たな急進化が起こった。これは、ヒルワン鉄鋼コンビナートの労働者がきわめて重要な反乱やエジプト学生の感動的な運動によって示されている。
アラブ大衆の急進化の新たな段階は、従来にもまして既存の諸政権をより深く掘り崩し、それゆえにそれらにとってはるかに大きな脅威を与えることを予測させるものである。この新段階はあたかも一九六七年六月以降の急進化の波が単に嵐が具体的な姿を取って到来する前の前兆でしかなかったかのような大規模なものである。世界資本主義体制の危機によってより一層先鋭なものになっているアラブ諸国の社会、経済的危機の悪化は、プロレタリアートと農村の貧民大衆への巨大な重圧となり、彼らを行動へと突き動かしていく作用を果たすであろう。これこそ長期にわたって待望されてきた事態である。この危険を自覚しはじめているアラブの支配階級は必ずこれを阻止する手段をとるだろう。
第三章 一九七三年の十月戦争とアラブ諸政権の屈服の最近の段階
13、一九七三年の十月戦争は、アラブ諸国において登場し始めた第二の闘争の高揚の波をまさに阻止せんとして行われた。アラブ諸政権の目標は、「戦争でもなく、平和でもない」という情勢を終わらせることであった。この情勢が与える打撃はたえず増大し、そのために、これらの諸政権の政治的分裂状況はより一層進行していた。事実、一九六七年一一月二二日に可決された国連安保理事会の決議第二四二号といった形で広く受け入れられている公式にそいった「平和的解決」の直接的実施によるこの地域の政治的緊張の緩和の試みは、その実施に向けた過渡的準備段階を経なければ、正反対の結果をまねくおそれがあった。とりわけイスラエルの当局者がこの国連決議を非常に曖昧に解釈していたので、広範な大衆の眼には、この解決は一九六七年にシオニズムと帝国主義とによって強制された決定を意味するものとしてうつっていた。そのために、この解決策に対して全面的な反対運動が起こるかも知れなかったのである。何よりもアラブ諸政権の性格からして、解放戦争という展望は問題外であったので、この「平和的解決」という公式は危機的状況のおちいっていたのであった。
これらの矛盾を解決するために十月戦争が勃発した。それは平和を目指した戦争であり、アラブ=イスラエル間の対立の解決に向けた集中的な外交活動のための道を切り開軍事作戦であった。十月戦争の主要な目的は、主要大国の精力的な介入のための口実を作り出すことによって、「平和的解決」の実施を推し進めることであった。この大国とはまず何よりもアメリカ帝国主義であり、彼らはその外交上のマヌーバーによって、一九六七年の六月戦争が与えた影響を除去し、とりわけ具体的にはパレスチナ問題の革命的内容をせい惨することを目指したのであった。
十月戦争の軍事的目標は非常に限定されたものであった。エジプトとシリアは、一九六七年に占領された自らの領土のすべてを解放する積りはなかった。実際、エジプトの作戦は、作戦地域を限定したものであり、その範囲はシナイ半島内に限定されていた。当然にもアラブ体制の側は、パレスチナを「解放」したり、一九四八年以来シオニスト国家の支配下にある地域に攻撃をかけたりする計画はまったくなかった。これら二国の政府は、イスラエルの一九四八年国境内への大規模な爆撃すら行なわれなかったのである。これらのアラブ政権の唯一の軍事目標は、自らの軍とシオニスト軍との間の力のバランスを自己に有利に変えることにあったのである。この変化は、平和的解決の条件についての取引におおける自らの立場を高めるがゆえに、アラブの二政権の眼にはまず第一に役に立つこととしてうつったのであった。両政府のこれらの試みは、半敗北に終わった。一方でイスラエル軍はシリア前線で前進したが、エジプト戦線においてはスエズ運河西岸へのイスラエル軍の前進は、エジプト軍の運河東岸への渡河によって帳消しになってしまった。しかしながら、この現実にもかかわらず、サダト政権は、戦争の最初の日々の成功の基礎に、何かと大規模で組織された宣伝作戦を作り出すことができた。この宣伝の中で、エジプト大統領は現代のサラディンとして登場し、十月戦争は、古代のヒッタイトの闘いの現代版であるかのようにみなされたのであった。このようにして、エジプト政府は、一九六七年の後では非常に困難になってしまっていた全国民的戦線を手早く作ろうとしたのであった。しかし、今回サダト政権にとって重要性を増していたものは、シオニスト政府と交渉のテーブルにつきたいという意向であった。したがって、あらゆる側面からみて、十月戦争は根本的に問題となっている「平和的解決」の実施をうながすための手段であった。この意味において、十月戦争はおよそ解放戦争などとは言えないのである。それは、実際には降伏の戦争であった! 革命的マルクス主義者はシオニスト占領軍に対してアラブの軍隊を支援するけれども、同時に、十月戦争が設定され、この戦争にあらかじめ限定を強制した屈服主義的な政治戦略を非難するものである。十月戦争は、小ブルジョア的民族主義者の印象とは違って、単にアラブ諸政権の再度の破産とそれらのシオニズムへの屈服を、明らかにするものである。
14、平和的解決を推し進めようとした点で、十月戦争は明らかに決して十分な考慮なしの冒険ではなかった。それは、慎重に研究された全体的プランの一部であった。このプランの中には、それ以外の圧力手段、とりわけ、有名な「石油戦争」も含まれていた。
サダト政権は、近東においてこの時に発展していた政治的危機を取り除くような能力をソ連邦単独がもっていないことを認識していた。サダト政権はさらに、合衆国の側に余りにもぴったりと身を寄せるような結果になる政策がアラブ大衆の眼に完全に暴露されるのを回避したいと思っていた。そこでこの政府は、一時期西ヨーロッパ帝国主義に依存しようと試み、この目的のために、フランス、イギリス、西ドイツの諸政府と多くの契約を締結した。だが、エジプト政府はたちまち現実に直面させられることとなった。資本主義ヨーロッパがどのような経済的展望を提供してくれようとも、アメリカ帝国主義よりもはるかに弱体であり、より具体的にはシオニスト国家に対する現在の影響力はアメリカ帝国主義に比べてまだ小さいのである。だから、中東の対立に対する親アラブ的なヨーロッパの宣言や声明は何の効果ももたらさなかった。しかしながら、サダト政権は、この地域における政治的緊張の除去を第一義的課題とみなしていた。これが、いっさいの資本主義的な経済開発計画の不可欠の前提条件であった。結局、こうした形でエジプト・ブルジョアジーの重要な部分の願望、さらにはとりわけサウジ政権のようなアラブ資本の大所有者の願望を満たすためには、アメリカ帝国主義の方に顔を向けるに以外に選択の余地がなかったのである。
「サウジ」アラビアの役割は、一九七三年に、ブルジョア的なアラブ政権とワシントンとの間の調停者として自己を売り込むことから始まった。この調停的役割は、結局は一点に集中していく傾向を持つ二重の発展をもたらした。一方において、エジプトはアメリカ英国主義との間の多方面にわたる協力という方向へと動いていった。他方、アメリカ帝国主義は、シオニスト体制の最過激派の立場に対する事実上の無条件支持からアラブ諸政権の必要により沿った形の政策の採用へと転換する傾向を示した。エジプトのアメリカ帝国主義に対する門戸開放は多くの戦線にわたって行われるだろう。経済の分野では、この門戸開放は、スエズ=アレキサンドリア間のパイプライン・プロジェクトの実施をヨーロッパの企業と争っていたあるアメリカ企業に委ねるというエジプトの決定の中においてすでに現れている。そして、今日、スエズ運河の再開以降、当然にも経済上の改善がもたらされるであろうスエズ運河地域で予定されている建設作業は、アリメリカ資本との協調によって、世界(帝国主義)銀行を通して行われていることが計画されつつある。政治の分野においては、進歩的反帝国主義的知識人に対する弾圧が、このアメリカ帝国主義への門戸開放の道を掃き清めている。さらに、アメリカ帝国主義の手先として公然と知られている人物の復帰と彼らの重要な地位への任命は、よりあからさまな形でこの門戸開放の性格を明らかにしている。同時にまた、「アメリカ」と外交上の交渉者である有名なキッシンジャーとを称賛した称賛したサダトの声明については言うまでもないが、カイロとワシントンとの間の外交関係の更新によって、このことが表明されている。
エジプト政府のこの新路線は、その結果に関する確固とした保証がなければ不可能であっただろう。アメリカ帝国主義に手をさしのべた結果として、エジプト政府にかかってくる政治的危険は、非常に大きなものとなった。なぜなら、アラブ大衆の眼にはこの同じ帝国主義が、シオニスト国家の擁護者そのものにうつっているからである。この再編成の中で必要な保証は与える上でこのような積極的役割を果たしのは「サウジ」アラビアであった。
世界で最大の石油資産をもち、膨大な利潤をそこから集めているサウジの君主制は、アメリカ帝国主義の重宝する同盟者であった。事実、全世界的エネルギー危機とその価格上昇に与える影響と結びついたドル危機、帝国主義間の競争関係の激化と関連するここ数年間のワシントンの権力の相対的衰退は、産油国が完全に従属的な半植民地国にすぎないという時代に終りを告げさせた。その時以降、これらの諸国は一つの有利な力を獲得した。この力を意識するようになったので、これら職は帝国主義への経済的依存の諸条件を再考し、これら諸国の具体的な利益により有利な方向にこれらの諸条件を再調整するよう催促するようになった。これら諸政権は、自らの利害を帝国主義の利害から区別することを学ぶようになってきた。アルジェリア、それから少し遅れてリビアは、アラビア湾沿岸の石油輸送コストを増大させる結果となった一九六七年のスエズ運河閉鎖の影響を受けなかった地中海地帯の石油という特別な状況を利用して、最初にこの新政策を実行にうつした。その後、アラビア湾沿いの産油国や世界の産油国のグループがこれに続いた。これらの産油国は、石油利潤の分け前の見直しをカルテル企業に強制し、利権を保持していたこれら大企業の資本への産油国の参加を受け入れさせた。これらのカルテル企業は譲歩を行なった。アラブの側の軍事作戦と並行して一九七三年に開始された「石油戦争」は、この点における重大な前進を示している。この意味において、それは一九七〇年にまでさかのぼる政策の継続であり、過去との間に決定的な断絶はない。
産油国にとって、アラブ=イスラエル間の対立は、これらの国々と帝国主義諸国、西側諸国とを結びつけていた交易上んも協定と条件の見直しを強制するちょうどよい機会でしかなかったのである。こうして、これらの諸国は同時に二つの目標を実現しつつあったのである。つまり、立派な経済計画と効果的な政治的作戦とである。政治的には、その目的はアメリカ帝国主義を少し後押しイスラエルに圧力をかけさせ、「平和的解決」の実施を開始することであった。「サウジ」アラビアは事実上、すでに数ヵ月前に、この国の石油を搾取しているアメリカに、彼らがワシントンでこの努力を支持するように要求していた。したがって、この観点からする「石油戦争」は諸刃の剣である。
アラブの石油の価格を引き上げることは、他の帝国主義的競争者を弱体化させることによって、また合衆国自身の産油企業の競争力を強くすることによって、アメリカ帝国主義ををもうけさせる。しかしこの同じ過程は、アメリカのいっさいの計画を超えた石油価格の上昇への弾みをつける動きを作り出した。この理由によって、アメリカは、自己がこの石油価格の上昇から膨大な利益をかり取った最初の時期をすぎるまでは、決して抗議を始めなかったのである。同じようなやり方で、その権力と権威が挑戦を受けていた企業も、同時に膨大な超過利潤を獲得した。しかし、帝国主義が結局再度「パンドラの箱」を空けたにすぎなかったことは明白である。「石油戦争」は、当然にも全帝国主義体制の危機をさらに悪化させるインフレーションの新たなラウンドの発端となった。さらに、後進的な原油産出国もまた、これ以降、西側への輸出品のより高い価格を要求する傾向を見せはじめていうr。同時にこれら諸国は、資源の採掘についてのより一層の支配の保証を要求し、事実上、帝国主義諸国なしに運営する傾向になっていくであろう。財政的観点からすれば、アラブ諸国にとって、「石油戦争」は今日までのところ、着実に進行していく帝国主義諸国の価値が下落する通貨と交換されるアラブ諸国の資源価値の下落を埋め合わせたばかりでなく、帝国主義の計算をはるかに超えた石油価格上昇の結果として膨大な超過利潤を実現してきた。
帝国主義諸国と立ち遅れた第一次産品生産国との間の全般的な変化は、実に明白である。しかしながら、われわれは、これを短絡的一般化するやり方で性急な結論を導き出すことは自重しなければならないのであって、それは危険な誤りという結果を生み出しかねないだろう。それどころか、産油国と帝国主義諸国との間の関係に否定しがたい変化が起こっていることは本当であるとしても、これらの諸関係の本質的な従属的性格という点ではいささかも変わっていないのである。
「サウジ」アラビアとアラブ首長国連邦は莫大な貨幣資産を獲得し、ここ数年間をそれを貯えてきたが、これらの諸国はそれを国内に投資できない。なぜなら、アラブ首長国連邦の場合には領土的制約があるからであり、「サウジ」アラビアの場合、この国の社会政治的安定の基礎となってきた古くからの社会構造を変化させることを望まないからである。これらの資産は、最近まで西側資本が使用するために帝国主義の銀行に預けられてきた。だが、世界通貨体制の危機と主要帝国主義国通貨の価値下落は、これらのアラブの預金に重大な影響を及ぼした。大部分の当該国が、これらの剰余金を使って預金から得られる単なる利子よりももっと利率のよい収益先を探したり、これらの資産を金(きん)や振替不可能通貨に変えたがっているのは、そのためである。その結果、これらの諸国が直接に自らの銀行資本の使用に関する運用と管理をしなければならないという必要性が生れてきた。これらの預金と投資の利用についての最近の事態の発展は非常に重要である。「サウジ」アラビアは、これらの余剰の一部を合衆国の石油産業に投資しようと試みている。この事実はこの産業の金融上の必要性に合致するものである。他方、アラビア湾沿岸地帯の支配者によって行われている後進的なアラブ諸国、非アラブ諸国へのローンの貸付けは、一般にこれらの支配者が結びついている帝国主義諸国の助けを受けて展開される金融計画を目指したものである。これらのローンは同時に情勢に見合った政治的条件と結びつけられている。こうして、アラブ諸国の帝国主義への依存は、終わりつつあるなどというにはほど遠い状態にあることが明らかとなっている。逆にこの依存は強化されている。事実、われわれは、これらの諸国の資源の帝国主義経済への統合の増大を眼にしている。この統合はむしろ、われわれに、これらの支配階級がアングロ・サクソン的帝国主義ブルジョアジーの積極的な一部門にますますなってしまっているという考えを抱かせる。このことは同時にこれらのアラブの支配階級の意図に照応している。この階級は、その資本に比例した工業経済を組み立てることができないために独自の経済展望をもっていないという事実は別にして、帝国主義の庇護がなければ政治的に絶対に延命できないということを余りにもよく知っているのである。これらアメリカ帝国主義のパートナーたちのワシントンに対する圧力は、多くの側面を通して、合衆国内の利権グループの伝統的な駆け引きや議会での裏面工作から引き出されるのである。(われわれの分析は、ここではアラブの君主制やアラブ首長国連邦に限定されている)。
一九七三年一〇月の転換は、近東アラブに対する帝国主義の全面的な攻撃の頂点を示すものである。この攻撃は六〇年代後半に開始されたが、以前に失われた地域への支配を再確立することに成功したばかりでなく、新たな地域にもその支配を及ぼしたのであった(そのうちで最も重要であったのはエジプト)。
この勝利の代償を支払ったのはアメリカ帝国主義ではなく、シオニストの砦であった。イスラエルは、合衆国の政治的、経済的影響を増大させるという役割のために奉仕したきたのであるから、一九六七年の六月戦争で占領した地域を返還ぜざるを得なくなるだろう。「平和的解決」の時がやって来た。
15、エジプトをアメリカ帝国主義の側に追いやった力こそは、シオニスト国家に対するアメリカの影響力である。合衆国にとって残されていたのは、アラブの支配階級と協調してこの地域への浸透を確保、強化するためには、アラブの支配階級の意志との一致の下に、この影響力を行使することだけであった。一九六七年以降「平和的解決」に対する主要な障害は、イスラエルが一九六七年戦争の期間中に占領したアラブの領土から撤退することを拒否していることにあった。エジプト・ブルジョアジーを先頭にしたアラブの支配階級は、国連決議二四二号で定められているいっさいを承認する用意があった。これには、シオニスト国家の承認や国境地帯の安全を保障するための非武装地帯の設置、さらには、イスラエル船舶のスエズ運河の航行の自由が含まれていた。他方、シオニスト政府は、一九六七年の占領地域のうちの重要地区の保持に固執したばかりでなく、撤退についての付帯条件に関する事項のアラブ諸国との直接交渉をも要求した。
一九七三年までは、するどい攻撃的な政策を通してこの地域のできるだけ多くを支配しようとする路線がアメリカ帝国主義には適していた。しかしながら、「サウジ」アラビアがアメリカ帝国主義と協力することについてエジプトを、さらにはある程度までシリアを納得させることに成功して以降は、アメリカ帝国主義はただより強力なカードを使えばよい状態になったのである。したがって、アラブの諸政府がアメリカの保障の下で十月戦争を展開したということは、ありえないことではないのである。このようにして、結局、その戦争努力とアメリカの保障とによって威信を増大させたエジプト政府は最終的譲歩を行なうことができたのであった。つまり、イスラエルがシナイ半島から撤退する以前であっても、エジプトがシオニスト政府との直接的な交渉のテーブルについたのであった。こうして、ジュネーブ会議が開催された。
近東におけるアメリカの政策の新路線はシオニスト国家の直接的利害に適応していないことは明白である。一九六七年六月四日当時の国境への撤退ということからくる物質的損失は別として、このような行為は、シオニズム制度とそのイデオロギーの双方の重大な危機へと発展していくであろう。だが、結局、シオニスト体制は、とりわけ六〇年代を通じてアメリカからの独自性の余地がかなりの程度減少したがために、アメリカの設定した要求にただ従うことができるだけである。このために彼らはこの従属に対して最高の代償を得ようとしているのである。このことは大量のドルがイスラエルの国庫に流入していることの中に示されている。これとの関連で次の点を強調しておくことは重要である。つまり、一部の人が考えるかも知れないこととは反対に、アメリカ帝国主義にとってシオニスト国家の効用というものは過去よりもはるかに大きなものであるという点である。というのも、アメリカ帝国主義のアラブ地域での今日の成功を導き出したのは、一九六七年のシオニスト側の勝利であったからである。そしてアメリカ政府はこの事実を十分認識している。他方、エジプトのアメリカ帝国主義に対する門戸開放は、決してイスラエルを第二位の地位に押しやるものではない。それは、むしろアメリカの利益の番犬として自己の重要性を増大させているのである。イスラエルは、帝国主義の利害が要求すればどこへでも介入する準備がたえずなされている軍事要砦としての役割を果たしうる十分に安定した右翼的社会、政治的構成をもったこの地域における唯一の国である。「サウジ」 アラビアが果たしている反革命的役割、そして過去数年間かなりその軍事力が増大してきたイランの役割は、イスラエルの役割を補助するものであって、それと競合するようなものではない。
とりわけシリアを自己の陣営に引き込むことによって自己の新たな立場を強固にしようとしてきたアメリカ帝国主義にとって、イスラエルの撤退をめぐる交渉の遅延は、アメリカ帝国主義の利益にかなうものである。しかしながら、イスラエルの撤退と関連するもう一つの問題が存在する。この問題こそが、いわゆるアラブ=イスラエル間の対立を導き出した問題、つまりパレスチナの問題である。もし「平和的解決」が、パレスチナ問題の多少の「解決」を含んでいないとしたら、アラブの支配階級の眼にも帝国主義の眼にも、この「平和的解決」がけっして満足のいくものとはならないであるお。アラブの反動、シオニズム、アメリカ帝国主義は、彼らの利害にもとづいて再組織されて来ているこの地域の安定を確固としたものにしたいと望んでいるのである。この目的を達成するには、パレスチナ問題の革命的内実を除去する以外に選択の余地はあり得ない。この問題は一九三〇年代以降、アラブ地域における反帝国主義的活動の中心的源泉を形成し続けてきたのである。したがって、この目的のために、多くの競合するプランが現在提起されている。それらはすべて「平和的解決」と結びついたものである。そのうちの二つが最も重要なプランであるが、第一はパレスチナ国家案であり、第二は、ヨルダン--パレスチナ国家案である。第一案は、ガザ回廊地帯だけでなくヨルダン河西岸からも構成される小独立国家の樹立を基礎にしている。第二案は、ガザ回廊地帯とヨルダンとの統一を基礎としている。しかし、どのような解決が採用されるとしても、パレスチナ抵抗闘争の代表の同意やその具体的な参加がなければそれが意味をなさいないことは明白である。統一ヨルダン--パレスチナ国家案というフセインのプランの実施を困難にしているのはこの条件なのである。というのも、パレスチナ人民の主要な惨殺者との新たな協調は、パレスチナ抵抗闘争のいかなる翼にとっても非常に高価なものにつくだろうからである。他方、その可能性がまったくあり得ないわけではないヨルダンにおける半進歩的クーデターの可能性がこの問題を解決するであろう。今日、現在の条件下で、ファタの歴史的な指導部の多数派や一九六九年以降抵抗闘争の中で極左から極右へと転換したDPF(人民民主義戦線)の指導部を含むパレスチナ抵抗闘争のかなりの部分が、そのパレスチナ国家案の採用を宣言している。この立場は、パレスチナ抵抗闘争の官僚的指導部の堕落の最終段階を示している。この堕落は当然にもアラブの産油国の支配者から援助にともなってふんだんにもたらされる国家機構の特権を獲得するために、抵抗組織が形成されて以降にこれらの組織を育ててきた闘争そのものを彼らが進んで放棄する意向を明らかにするものである。すでに述べたように、堕落のこの古典的形態は、パレスチナの指導部の性格そのものの中に明白に存在するのである。
革命派は、この間、討議のために計画されているパレスチナ問題の「解決」を目指す種々の計画案のいずれかを選択するなどという立場を拒否するものである。革命派は、これらの案はすべて等しくパレスチナの大義、とりわけパレスチナ人民の民族解放闘争を一掃するための手段であるとみなすものである。今後たまたま成立するかもしれないパレスチナ小独立国家をパレスチナ人民の自決の表現として提起することが誤っているという点に加えてさらに、提案されているいっさいの形態が国連の枠組みの中にあるという点も強調されなければならない。これらの案はすべて、シオニズムへの全面的な屈服主義的譲歩のみならず、より正確にはパレスチナ武装闘争の全面的停止と結びついていた。この全面停止がなければ、イスラエル国境の安全の保障が何ら意味をもたないからであろう。現在のところ、パレスチナ人民の武装闘争は、自決に向けた闘争の根本的表現を形成しているのであり、したがって、この問題の解決に向けて設定されたいっさいの清算主義的公式は、結局パレスチナ人民の権利を奪い去った歴史的過程の固定化につながることは明らかである。革命派は同時に、一九六七年六月の占領地区からの無条件の全面撤退に向けた過渡的要求の枠組みの中で、「パレスチナ」あるいは「ヨルダン--パレスチナ」の権力の問題を、シオニズムや帝国主義ならびに反動的なアラブの支配階級に反対し、シオニスト国家の粉砕に向けた革命闘争と結びつけながら、全国的な革命的労働者農民の権力の問題として提起するのである。革命派は同時に、他の被抑圧諸人民と同様にパレスチナ人民がその抑圧者に対して武装闘争を展開する権利の無条件の防衛を呼びかけるものである。革命派は、この闘争は、パレスチナの革命派の権利であるばかりでなく、責務でもあるとみなすものである。
16、反シオニスト的、反帝国主義的観点に立っていっさいの清算主義的解決を拒否する立場は、今日、パレスチナ抵抗運動内やパレスチナ人民、とりわけ難民の中の種々のグループの間の広範な層によって保持されている。しかしながら、この革命的抗議の潮流が最も弱体なのはヨルダン河西岸の人々の間である。これは、シオニストの抑圧と民族主義的なスターリニズムの欺瞞的路線とこの地域住民の特殊な位置の複合的作用のせいである。この地域の住民は、パレスチナ国家案の中に、とりわけシオニストの抑圧とそれを補完しているハシミテ体制の抑圧--この住民は一九六七年以前にハシミテ体制の抑圧を受けていた--から脱出する手段を見出しているのである。この地域の住民の一部には、他の大部分のパレスチナ人のグループに比べて、パレスチナの領土全域を解放するという直接の関心がより薄いのである。他方、日和見主義的協調主義に反対する人々は、パレスチナ抵抗闘争の最も重要な舞台である難民キャンプ内の広範な大衆的潮流を代表している。この潮流は、主として抵抗の基幹的、中堅的潮流から成り立っている。指導部の一部が清算主義に反対する傾向と手を結んでいるという事実があるにもかかわらず、公式のパレスチナ指導部の多数派は、程度の差はあれ、進行中の和平努力への参加を準備している。自組織の基地を支配し続けたいという願望と結びついた純然たる日和見主義的な理由で拒否潮流に参加している指導部や、安っぽい民族主義的な欺瞞的キャンペーンを展開しているイラクのバース党政権のような政権とつながっている指導部、に対する幻想を一掃することは重要である。このような指導部は、そうすることが自らの利益になる場合には、ためらうことなくその立場をくつがえすであろう。このようにして、これらの指導部は全体的な拒否潮流を政治的に歪めようとする役割を果たしている。
拒否潮流の主要な弱点は、これら潮流の組織とその政治的不明確さにある。パレスチナ抵抗闘争の隊伍内の反帝国主義革命派は、全体的に集権化されていない。他方、これらの潮流は、高度に集権化された機構を手中に保持している公式の右派指導部に直面しなければならない。したがって、革命的潮流の間には相互にまったくほとんどといってよいほど協力関係は存在していないのである。他方、清算主義的計画に対するこの潮流の拒絶は、自らの成長の結果というよりも、むしろ長期にわたってパレスチナ抵抗闘争の顕著な特徴であり続けてきた元来の自然発生的最大限綱領主義の継続なのである。これに加えて、アラブ諸政権の支援の下でこの運動の公式指導部によって行われている弾圧政策は、パレスチナ抵抗運動の「民族的統一」を保持することが重要だという口実で用いることによって、その民族主義の名の下にこれらの拒否潮流の一部が沈黙とふがいない態度を正当化しようとする試みに少なからず影響を及ぼしているのである。
これらすべてのことは、パレスチナとアラブ全体にわたる革命的指導部の建設の必要性と緊急性を照らし出すものである。そしてこの課題を達成するにふさわしい客観的条件が完全に十分に、パレスチナの難民内部だけでなく、アラブ全地域に存在している。一九七三年一〇月以降アラブの諸政権によって組織された欺瞞的キャンペーンの効果はすぐにたち消えとなりつつある。アラブ人民は、和解がアラブ諸政府のシオニズムへの屈服にすぎないということをますます知るようになってきている。アラブ人民はまた、全世界においてアラブ地域に対する第一番目の敵であるアメリカ帝国主義の華々しい復帰を認めざるを得ない。他方、アラブ地域がますます世界帝国主義市場に統合されてきていること、「石油戦争」と関連して目撃された資本の流入、これまでアラブの反帝国主義的感情の中心的な二つの砦であったエジプトとシリア両国の経済自由化への転換、こうしたすべての要素は、アラブ諸国の通貨インフレを悪化させ、その結果、社会的緊張を増大させつつある。
イスラエル国家内の社会危機は深まり続けている。二つの要因がこの危機を明白なものにしている。それは、インフレ状態にあるイスラエル経済の危機とそのよりいっそうの悪化がシオニズムに深刻な打撃を与えているシオニズムのイデオロギー的、政治的危機である。この危機は、まず、極右翼と「穏健派」との間の政治的分化へと発展していった。そしてまた、この危機は、政府に対する反対をますます強める社会的闘争の増大をともないつつある。この闘争が高揚し、政府に反対する政治的力学を獲得し、反資本主義的方向へと向かうその度合いに応じて、シオニスト政権はそれを弾圧せざるを得なくなっていくだろう。この事態は、ユダヤ人大衆自身の眼にシオニズムの真の本質を露呈させることとなろう。さらに、ワシントンによって強制されたアラブ諸国へのシオニストの譲歩は、明確に、いっさいの事態を前では、シオニスト国家がいかに多数のアラブ人とユダヤ人の犠牲の上にアメリカ帝国主義の利益に奉仕するこの帝国主義の軍事的砦であるのかということを立証している。このようにして、イスラエル内の反シオニスト革命派は、過去のどの時代よりも、シオニスト国家の安全保障というものが、この国家の国民の安全と重なりあっているのではなく、むしろ実際にはこれら国民の安全の破棄とユダヤ人労働者の犠牲とを基礎にしているということを大衆に説明できる有利な機会を手にしている。ユダヤ人労働者の真の利益は、抑圧されたアラブ大衆が展開している反資本主義的、反帝国主義的(したがって反シオニスト)闘争に参加することにある。というのも、直接的に反シオニズムの立場に立たなければ、ユダヤ人労働者がいかなる政治的な階級意識をもつことも不可能であるからである。
今日、学生運動は、世界の他の地域と同様に、全アラブ地域を通じて闘争の前衛に立っている。エジプト、シリア、レバノンを含めてマグレブからアラブ=ペルシャ湾に至る地域において、教育課程にある青年は、政治的発酵状態の真っ只中にあり、学生たちは既存の体制の弾圧に直面している。労働者大衆に関していえば、いくつかの部分的、部門的な闘争を除けば、いまだ全面的な闘争を展開していない。最近、世界資本主義の危機の影響を最も大きく受けたアラブの国であるレバノンにおける社会的民族的闘争の増大によって示されたように、労働者の闘争が飛躍的に前進するのもそう遠くないであろう。
アラブ革命は、過去のどの時期にもまして、今日、その任務の水準に耐えられる指導部を必要としている。ただプロレタリア的指導部のみがこれらの条件を提供することができる。したがって、この指導部の建設は、アラブ地域の革命派の中心的目標である。このような指導部の建設は、その準備段階として、アラブ地域のすべての政治的反帝国主義的諸潮流の完全な評価を必要とする。
第四章 アラブの革命的指導部の建設
17、ブルジョア的、プチブル的表現としてのアラブの民族主義的潮流は、アラブ革命のための確固とした歴史的に安定した指導部を作り出すことに成功しなかった。ナセルの巨大な個人的威信はそれ自身だけではアラブ民族の大衆を指導するのに十分ではなかった。さらにこの威信は、一九五八年にその頂点に達して以降、厳しい挑戦に直面した。同じような民族主義の基盤の上に立つライバルが登場した。アラブ規模でナセル主義に忠実な唯一の組織は、「アラブ民族主義運動」であったが、この組織のたどった運命は、事態を雄弁に物語っている。エジプトでのナセル体制への左への移行というインパクトの下で、一九六〇年代におけるこの運動の急進化は一九六七年六月の後に頂点に達した。つまり、かつては反マルクス主義的であったこの運動の多数派が、ナセル主義への忠誠を拒否し、マルクス主義的方向へと発展しだしたのである。たとえナセル主義が予言者を持っているとしても、それはまったくコーラン(一貫したイデオロギー)を残さなかったし、一九七〇年のナセルの死以降のエジプトの事態の進展に示されているように、カリフ(後継者)を作り出すことができないのである。
バース党の運動は、一つの党から発展してきたものであり、一つの政権から生まれてきたナセル主義とは異なっており、まして強固な統一性を示すものでもなかった。バース党の反帝国主義的民族主義イデオロギーとあいまいな社会主義は、種々の社会階層のグループを引きつけることができた。アラブのスターリニスト運動が民族的闘争の領域を見捨てたために、なおいっそうそうなったのであった。バース党は、野党である間はその統一性を保持することができた。しかし、権力の具体的問題に直面するや、その社会的構成の多様性が不可避的に分裂へとつながるのであった。このうちの最も重大な分裂は一九六三年に起こった。このとき、バース党の創設者やその歴史的指導者の周囲に結集する伝統主義的部分と、ナセル政権の左への移行を影響を受けて急進化した青年の潮流との間で分裂が起こった。前者の潮流は、シリア政府に参加した最初の数年間の期間中にバース党によって定められた軌道に沿い続けようとする潮流であった。ブルジョアジーに奉仕する右翼としてのこの傾向は、社会主義よりも民族主義が優先されるという名の下に、すべての反ブルジョア的政策に反対した。しかし、彼らはまた、一九六三年のイラク石油会社との関係で示されたように、帝国主義との間で取引を行なったのである。この傾向は、何よりもその反共主義という点でも際立っていた。一九五八年のシリア=エジプト同盟のとき、彼らは、シリアでの共産党員の弾圧に加担した。一九六三年に、彼らはイラクにおいて共産党根絶運動を展開した。一九六八年には、彼らは再度、共産党やとりわけ武装闘争に引きつけられつつあったイラク共産党左派に対する粛清を目的とした反動的クーデターを組織した。イラクのバース党は、一九七〇年のヨルダン大虐殺当時、フセインに対する客観的支持という立場のためにその権威を失墜していたので、一九七二年六月には、イラク石油会社の利権の一部を(有償で)国有化することによって、その民族主義的側面を回復させようとした。だがこの政策は、さらにより多くの利潤をもたらす(バスラ石油会社への)別の利権の確保からくる石油生産の増大によって相殺されたので、帝国主義には何の困惑をも引き起こさなかった。
この時以降、イラク政府は、一九七三年一〇月以降はじまった「石油戦争」から利益をえてきた。イラク政府は、まったく手つかずに残されたフランス帝国主義の株を除いて、イラクの全石油生産にまで石油の国有化を拡大してきた。これらの国有化の命令は、イラク・ブルジョアジーの利害を代表しているバース党独裁体制の真の本質を明らかにしている。彼らは、産油国と世界帝国主義との間の力のバランスの変化を利用して最大限の利益を引き出そうと努めながら、同時にフランスを中心とするヨーロッパ帝国主義や日本との経済関係を発展させようとしているのである。というのも彼らは歴史的理由からアメリカ帝国主義に反対するからである。(一九六八年六月一七日、さきのバース党のクーデターに参加した親アメリカ派が解任された)。
クルド戦線においては、イラク・バース党は、一九七〇年代に、クルド民族解放運動のブルジョア的、半封建的指導部との間で休戦協定を結んだ。こうして彼らは、何のじゃまもなく労働者運動との対決に専念することができるようになった。今日、休戦期間は終わり、政府はクルド人にすでに約束済みになっている自治政府を許可しなければならない。実際には、民族ブルジョアジーであるバース党独裁体制は、クルド人問題について民主的な解決策を見出すことができないのである。したがってそれがどのように引き延ばされようと、戦争は不可避である。
種々のプチブル的階層やプロレタリア的分派さえをも含むバース党のもう一つの潮流は、一九六六年にバース党内の右翼民族主義的潮流を追放した後、シリアで政府の全支配権を獲得した。彼らは、シリアの大ブルジョアジーに反対する一連の急進的政策を行ない、反帝国主義的な攻勢的政策のイニシアティブをとった。だが、この潮流の内部に社会的分化が現れ、労働者義勇軍がこの政権を支持したにもかかわらず、彼らは解散させられた。この左翼小ブルジョア集団は、今度は一九七〇年に、右翼によって打倒された。この右翼は、国家機構に基礎をおき、そのことによってブルジョアジーの利害を確保しようとしたのである。バース党左派の失敗は、プロレタリア独裁のみが、ブルジョア国家を破壊し、ブルジョアジーと帝国主義の側からは逆転できないような解放された社会の建設にも着手することができるということを明確に示している。一九六七年六月におけるこの潮流の敗北は、労働者大衆の動員に基礎をおかない反帝国主義の限界をすでに示していた。これは、永続革命に関するトロツキストの教訓をさらにいっそう証明するものである。
18、アラブ大衆の反帝国主義民族闘争において、ブルジョア的、小ブルジョア的集団が果たした指導的役割、民族主義運動全体の急進化、さらには民族主義の枠内にいぜんとしてとどまりながらも混乱した形で「マルクス主義」を取り入れようとする方向への前進といった事態は、もし共産党という労働者政党が存在していないのなら、完全に理解できる現象といえるであろう。だが実際には、共産党は、バース党やナセル主義よりもはるかに以前から存在し、アラブ地域において最も古い政治組織の部類に属しているのである。この逆説的事態は、この党が民族闘争の分野にはまったく参加しなかったということによって説明できるのである。
スターリニズムの絶頂期に形成されたアラブの諸共産党は、常にクレムリン外交に忠実に従ってきた。これらの党はこの忠誠の代償を支払ってきた。これは時として、全面的な政治的孤立期には、大量の離党という代価をこれらの党に支払わさせた。こうして、一九三五年のコミンテルンの転換の余波を受け、とりわけ第二次大戦中の西側「民主主義」との同盟というソヴィエト官僚の政策は、クレムリンと同盟する帝国主義諸国に対する直接の独立闘争を共産党が放棄するという帰結をアラブ地域においてもたらした。一九四八年、モスクワの先例にならって、アラブの各国共産党は、従来の反シオニズムの立場についての苦しまぎれの修正を行ない、全共産党がイスラエル国家の結成を承認し、イスラエル国家の結成によって引き起こされたアラブの反撃を非難したのである。この立場はナチスに対するソヴィエトの勝利がアラブの共産党運動に与えた威信のすべてを一掃してしまうこととなった。この立場を擁護するために、アラブのスターリニスト理論家たちは、共産党を強く特徴づける民族運動に関する一連の極度にセクト主義的命題を発展させた。このセクト主義は、たとえば一九五四年に開始された独立に向けた武装闘争をアルジェリア共産党が非難したのと同じように、マグレブ地域においても民族解放闘争を何度も非難したフランス共産党マグレブ支部のケースによってはっきりと反動的な側面として現れたのであった。
民族問題を理解する上でのセクト的な破産が、アラブの各国共産党、とりわけシリア共産党を武装解除させてしまった。シリア共産党は、部分的にこの共産党に向けられた弾圧としての意味を持っていったいた一九五八年のシリア=エジプト同盟に反対した。この同盟の枠組みの中で民主的闘争を行なう代わりに、シリア共産党はそのような同盟それ自身に反対し、そのことによってシリア大衆から完全に孤立し、共産党に対してかけられていた弾圧をよりいっそう容易にしてしまったのであった。またカセム将軍支持のためにこの同盟に反対したイラク共産党は、民族主義者に対するその影響力の多くを失ってしまった。以上のあらゆる立場において、アラブのスターリニスト運動は、民族主義運動とは反対の極に位置し、いわゆる階級的立場の名の下にアラブ大衆の民族的熱望を侮辱し、アラブ統一音大の革命的潜在力を完全に見落としたのである。さらにこれらのスターリニストは、アラブ・ブルジョア諸政権の階級的性格を基礎とするのではなく、ソ連邦とこれらの政権との間の関係を基礎にして自己の立場を定めたがゆえに、アラブのブルジョア的諸政権と対決する自らの階級的態度をけっして示さなかったのである。
イラクの例は、この点について最も教訓的である。イラク共産党は、一九五八年のクーデターから生れたブルジョア・ボナパルティストであるカセム政権を支持するために自らの支持者を動員した。1959年イラクを震撼させていた革命的情勢の期間中、イラク共産党は労働者大衆を権力の奪取へと導くのではなく、このボナパルトを支援する方向へと人民の動員をそらすことに全力をあげた。この忠誠の代償は、カセム政権下での共産党に対する弾圧だけではなく、インドネシアの悲劇の二年前の一九六三年の反動的クーデターであった。こうしてイラク共産党は、共産党の隊列内から数千人の犠牲者を出すというむくいを受けた。一九六四年、この明白な教訓を無視して、エジプトのスターリニストは自らの組織を解散して、ナセル・ボナパルティスト独裁体制の政治的傘下のアラブ社会主義同盟に加盟した。一九六九年、スーダン共産党は、ヌメイリのクーデターに支持を与えたが、三年後にはヌメイリは共産党の主要な指導者を殺害した。くおして、過去一五年間の過程で、アラブの各国共産党は、自らの流血の犠牲を通じて、いっさいのブルジョア政権を信頼しない階級的立場を維持し、労働者階級の独立性を維持し、それを武装させる必要があるという革命的マルクス主義の教えをいくたびとなく明白にしてきた。これらの教訓は、アラブのプロレタリア的前衛によってわがものとされるであろうが、共産党によってはけっしてわがものとはされないだろう。今日においてさえ、これらの共産党は、イラクのバース党独裁体制やシリアのブルジョア的王政復古主義者の政府に参加している。
アルジェリアにおいてもまた、スターリニストは、自らの組織を解散して、ブーメディエンの官僚的ブルジョア独裁体制の党である民族解放戦線に参加する準備を行なっている。
アラブ・スターリニスト運動の総括はその完全な破産を示している。一九六七年以降、最も大きな四つの共産党、イラク、スーダン、ヨルダン、シリアの共産党が分裂した。アラブ・スターリニズムの危機は、世界スターリニズムの危機の一環である。以前の友好的同盟者たるエジプトとの関係の悪化によって明白となっているソ連邦のアラブ政策の失敗は、ただこの危機をいっそう深めるだけである。
19、一九六〇年代を通じて進行したアラブ地域の急進化は、一九六七年の六月戦争によって大きく促進された。アラブ軍隊の敗北という衝撃を受けて、特に民族主義運動の小ブル的層の内部において、青年の多くの部分がいわゆる進歩的アラブ諸政権への幻想から目覚め、革命的マルクス主義の方へと前進していった。ブルジョア的、小ブルジョア的反帝国主義はすでに壊滅的失敗に終わってた。他方、ベトナム革命は、プロレタリア的コースだけが帝国主義と有効に闘うことができることを示しつつあった。これらの実例に鼓舞されて、マルクス・レーニン主義を自称する潮流が、「アラブ民族主義運動」のパレスチナ、レバノン、南北イェーメン支部の中で形成され、たちまち右派潮流と分裂した。だが、これらの潮流の「マルクス主義」は自然発生的な性格に強く刻印されていた。これらの潮流は、スターリニスト運動を拒否したが、スターリニズムに対置しうる首尾一貫した革命戦略を発展させることができず、その全般的スローガンは、うわすべりの理論的折衷に基礎をおくものであった。こうした基礎の上に形成された急進化した小ブルジョアジーの諸組織は、スターリニズムへの改良主義的接近と極左主義的立場との間を情勢に応じて動揺する中間主義的政治行動を示すこととなった。さらに、スターリニスト的モデルに影響されて、これらの組織は、その誕生の時には実践されていた汎アラブ的党という概念から離れ、単なる地域的独立グループ間の連帯という内実にとどまってしまった。
パレスチナ抵抗闘争がその上昇局面にある間は、近東におけるこれらのグループは全般的に革命的路線の側に立っていた。しかし、一九七〇年以降の抵抗闘争の後退とともに、これらは堕落し、右翼日和見主義的に安住するようになった。「アラブ民族主義運動」の南イェーメン支部に関して言うなら、南イェーメン解放戦線は、その内部の左派が一九六九年に右派を追放し、それ以降左派がこの権力を握ることとなった。この南イェーメン民族解放戦線は、これ以降、永続革命の過程へと発展していくような一連の反帝国主義的、反ブルジョア的な急進的政策を行なった。だが、帝国主義とモスクワ、北京官僚の圧力のもとで、この指導部は最近、帝国主義の支配下にある反動的で半封建的な体制をもつ北イェーメンとの同盟協定を受け入れ、右への転換を開始した。この時以降、この協定はいぜんとして実施されないままになっている。だが、南イェーメンを支配している小康状態は、右翼的政治転換の安定化の可能性を予測させるものである。いずれにせよ、現在までのところこの右翼的転換は、社会、経済の分野ではいまだあらわれてはいない。「オマーン・アラビア湾解放人民戦線」はここ数年間、オマーンの傀儡的サルタンとイギリス帝国主義に対する英雄的闘争を展開してきているが、いまだこの湾の他地域へとゲリラ戦争を拡大することに成功していない。アラビア湾に限定されたいかなる闘争もそれ自身の力によっては、この地域の(非常に少数の)人民を解放し、この地域から最大限の利潤を引き出している帝国主義をここから追い出すことも望めないことはさらに明白である。これは全体としてのアラブ革命によって達成されなければならない任務である。
アラブ地域に生れた「新しい前衛」の中で、われわれはまた、イラク共産党の「中央司令部」派とイスラエル社会主義組織(マッペン)に注目すべきである。イラク共産党が分裂した後、そのうちの左派は、この国の南部でフォキスタ的ゲリラによる根拠地形成の経験に引きつけられた。一九六八年七月のバース党のクーデター後にこの派を襲ったきびしい弾圧のため、この派は解体させられた。この時以降、イラク外に存在するグループは自らを「中央司令部」と呼び、一方でスターリニスト的段階革命の戦略を維持しながら、ソ連邦に関するウルトラ毛沢東主義的立場へと陥ってしまった。
一九六〇年代、イスラエル社会主義組織(マッペン)は、その程度は異なるが二つの分派(マキとラカ)の双方を特徴づける、イスラエル共産党によるシオニズムへの順応を拒否する反シオニズムの革命的潮流の準統一戦線グループであった。第四インターナショナルに加盟して、一九三〇年代にパレスチナに形成され一九四八年以降解散させられたトロツキスト・グループの遺産を継承した一部のメンバーの圧力の下に、「マッペン」は一連のより進んだ革命的立場を取り入れた。一九六七年六月以降、この組織は、アラブや成果の左派が一般に経験したのと同様の、かなりのメンバー数の増大と政治的比重の増大を経験した。しかし、一九七〇年以降のアラブ革命運動の相対的停滞は、そのメンバー数にも影響を与えた。一連の分裂の結果、結局、もとのグループは、さまざまなタイプの自然発生主義者、ランベール派、トロツキストといったいくつかの潮流へと分解した。ISO--マッペン・マルクス主義派(第四インターナショナル支持組織)は、アラブの全トロツキストとともにイスラエルのトロツキストが引き受けている任務、すなわち、全アラブ地域に向けた革命的プロレタリア党の建設の必要というレーニン主義の体系と同時に、アラブ革命といイスラエル階級闘争との間の相互関係についての弁証法的概念を前進させている唯一の組織である。
20、いくつかのアラブ諸国において、そのうちのあるものはいまだ萌芽的段階ではあるが、トロツキストの中核が発展しつつある。このことは、今までほとんど何の足がかりももたなかったこの地域における第四インターナショナルの重大な前進を示すものである。イスラエルを含むアラブ地域のこのトロツキスト闘士は、第四インターナショナル・アラブ支部の創設に向けて活動を行なっている。
全アラブ民族に向けた革命的共産主義党の建設というこの闘いは、アラブも民族問題とアラブ地域全体の革命闘争の相互作用とに関するこれらの闘争の分析から生み出されるものである。
全世界の文化的、地理的大ブロック内の革命闘争の相互作用は、現代の顕著な現象である。帝国主義による世界のあらゆる経済の統合の進展と並行した形での第二次大戦以降のコミュニケーションや交換手段の異常な発展は、一九世紀当初と比較して大きくその闘争条件を変化させた。この発展は、革命闘争のより強力な国際集中化を促し、インターナショナルに関するレーニン主義的概念を強化すると同時に、OLASやインドシナ革命戦線の経験によって説明されてきたように、西ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、インド亜大陸、、東南アジアとった地球上の大地域レベルでの闘争のより強力な共同化の方向を強めさせている。さらに、世界的規模の利害をもつ帝国主義とブルジョアジーは、この分野では革命派よりも先に進んでいる。彼らは」、すでにNATO、EEC、OAS(米州機構)、SEATO(東南アジア条約機構)などに見られるように、軍事的、政治的、経済的な地域機関をもっているのである。
アラブ地域では、民族的要素、とりわけ言語がアラブ諸国の密接な相互依存のもとになっている。この緊密な相互依存関係は、二〇世紀中頃以降、アラブの統一への試みいうまでもないとして、種々の分野でのいろいろなアラブ内の活動のための共同機関だけでなく、アラブ同盟の創設、アラブ諸国首脳会談によっても示されている。この相互依存は、アラブ支配階級による共同した弾圧に抗してすでにそれと対抗しつつある革命的闘争に対して必ず影響を及ぼすであろうし、未来にはますますこの傾向は増大していくだろう。
アラブ諸国の情勢における実際の緊密な相互作用という問題に加えて、アラブ革命の綱領の中で民族的統一の課題が中心的位置を占めるということは、次のことを意味する。すなわち、全アラブ的レベルでの単なる共同闘争だけでは不十分であり、闘争における共通課題にもとづく行動の統一だけではなく、重要な事態に関する政治的立場の統一によって完全なものにされなければならないのである。小ブルジョア的なアラブ民族主義組織がすでにこのような統一の必要性を理解してきているのである。
アラブの革命闘争を集中させることが決定的に重要である。プロレタリア党のみが全アラブ的規模における永続的な統一を実現することができる。なぜなら、プロレタリアートはアラブ諸国の社会的諸階級のうち、地域的に対立しあう利害をもたない唯一の階級であるからである。なぜなら、プロレタリアートはアラブ諸国の社会的諸階級のうち、地域的に対立しあう利害のもたない唯一の階級であるからである。ボリシェヴィキの綱領の継承者であり、全体としての世界労働者階級の歴史的利害の唯一の代表者であるトロツキスト運動のみが、全アラブ的規模での革命闘争のこのようなプロレタリア的集中を達成することができる。自然発生主義者や中間主義者は、首尾一貫した綱領をもたないがゆえに、それを行なうことができない。スターリニストは、これらの諸国のブルジョアジーの利害に反対することを望まないがゆえに、そうすることを拒否している。スターリニストたちは、これらブルジョアジーのしもべとなっている。
アラブ地域のトロツキスト闘士たちは、アラブ・プロレタリアートを指導する革命的共産主義党の建設に任務に着手する。このような党のみが、抑圧され、分断させられている民族をアラブ革命の根本任務を実現する方向へと導き、第四インターナショナルによって提起されている枠組みに沿って世界革命と結合する方向へと導くことができるのである。
THE YOUTH FRONT(青年戦線)
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