追悼 アラン・クリヴィヌ同志(1941~2022) 

 意志の楽観主義

具体的な行動の道追求を範に

レオン・クレミュー

激動の時代に
政治的歩みへ
 わが同志アランは、40年以上にわたって、第4インターナショナルとフランス支部の生活と指導部の中心にいた一方で、他の支部の建設にも貢献した。彼はわれわれの考え方と国際的闘争のスポークスパーソンの一人であり、常にわれわれの運動の政治的成果を維持し、辛抱強くそれを構築しようと努める一方で、統一行動やセクト主義に陥らないことに常に関心を払いながら、新しい経験と新しい動員のために開放することをおし進めていた。
 彼は第2次世界大戦のさなかに、ナチスに占領されたフランスで生まれた。彼の青年期は、明らかにファシズムの犯罪だけでなく、反植民地闘争の高まり、キューバ革命、アルジェリア革命、そしてあらゆる大陸で革命的闘争に参加した何万人もの若者の新しい世代の出現を刺激した20世紀後半の多くの大きな出来事によって特徴づけられていた。アランが1950年代後半に政治的歩みを始めたのは、まさにこうした時期だったのである。そして、彼はフランス共産党(PCF)内の左翼反対派から、共産主義者同盟(LC)、革命的共産主義者同盟(LCR)、そして反資本主義新党(NPA)の創設へと進むことになる。この道はすぐに第4インターナショナルの道と交差した。

PCFと決裂し
JCRの創設へ
 アランは、戦後の多くの活動家と同様に、PCFの中で活動を開始した。模範的な共産主義者であった彼は、すぐにアルジェリアでの植民地戦争に関するPCFの立場に反対するようになった。彼は、FLN(アルジェリア民族解放戦線)とアルジェリア独立闘争に対する支持を提唱し、1950年代末にはFLN(アルジェリア民族解放戦線)支援ネットワークに参加した。そして、共産主義学生同盟(UEC)の活動家として、パリのソルボンヌ大学で「反ファシスト統一戦線」を率いた。1961年に国際主義共産党(PCI:第4インターナショナルのフランス支部で、2人の兄ジャン=ミッシェルとユベールがすでに活動していた)に加入した彼は、UECにおける左翼反対派の構築で中心的役割を果たした。この左翼反対派は、1965年にPCFが大統領候補のフランソワ・ミッテランを支持したことでPCFと決別し、革命的共産主義青年(JCR)を結成した。アランはその主要な指導者の一人であり、ベトナム人民の闘争に連帯するベトナム支援全国委員会(CVN)の創設に参加した。
 1968年2月、アランやダニエル・ベンサイドなどの同志たちは、CVNとともに、ルディ・ドゥチュケ率いるSDS(ドイツ社会主義学生同盟)がベルリンで組織したアメリカのベトナム介入に反対する国際集会に参加した。この集会では2万人規模のデモがおこなわれ、壮大なデモのやり方でCVNを鼓舞することになる。

 年5月運動の
指導的活動家へ
 彼は68年5月運動のもっとも著名な指導者の一人であり、JCRは特にパリ地域の学生青年の間で大きな役割を果たした。ゼネスト終了後、JCRを含むすべての極左組織がド・ゴール主義政権によって解散させられたあと、アランは68年夏に他の仲間とともに投獄され、その後兵役に就いた。同時に、JCRの戦闘的活動家は、後にLCとなる組織の基礎を築き、それは1969年の春、PCIと合同して第4インターナショナル・フランス支部となった。そのとき以来、アランの生活は、1969年のフランス大統領選挙でLCの候補者となったあと、彼が指導者となったLCの生活と融合することになる。同時に、彼は、LCに所属する他の若い同志たちとともに、エルネスト・マンデル、リビオ・マイタン、ピエール・フランクといった年長の同志たちに加わってインターナショナルの指導者の一員となった。

党を中心的に
体現する任務
 その後、彼は40年間、LC/LCRの活動家の主要な政治的指標であり、指導部の日常的柱であり、各地域との連絡の中心となった。2002年まで、唯一広範に名前が知られている中心的なスポークスパーソンとして、彼はLC/LCRの声であり、同盟内の大小の支部の何百もの会議の疲れを知らない議長を務めた。彼は、各地域における支部や同志をもっともよく知るリーダーであり、LCRの生きた政治地図であったことは間違いない。彼は、細心の注意を払って戦闘的活動に従事するとともに、統一キャンペーンを組織し、他の戦闘的潮流と接触し協力するためのあらゆる機会をとらえるのと同じくらい、党の日々の政治活動にも注意を払っていた。

国際的連携拡大
にも多大な貢献
 国際的レベルでは、彼は同じようなエネルギーを示して、疲れを知らない旅行者として、ブリュッセルでの「赤いヨーロッパ」や1971年のパリ・コミューン記念日のような会合やとりくみに参加し、「フランス5月」を代表する人物として受けた反響を通じてわがインターナショナルに成果をもたらした。彼はまた、パレスチナ人民との連帯、FLNKS(カナック社会主義民族解放戦線:)との連帯、[ポーランドの]「連帯」労組による反官僚抵抗運動との連帯、ペトル・ウールらによるチェコスロバキアの反官僚闘争との連帯、新植民地主義のもとにある国々の同志との結合を発展させるために、エネルギーを費やした。モントルイユのロトグラフ印刷所内にあった彼の事務所には、何百人もの同志や反帝国主義組織・革命組織の代表が訪れた。彼は、われわれの考え方を防衛し、革命的運動と接触するために、多くの国を訪問することに多くのエネルギーを注いだ。
 1970年代と1980年代には、PCFの日刊紙『ユマニテ』の読者として、彼は、PCFや他の共産党の内部や周辺で起こっていることやスターリニズムの国際的危機に対して常に注意を払っていた。さらに、彼は、フランスではPCFから生まれる諸潮流との統一活動の可能性に常に関心を抱いていた。彼は、LCRの境界を越えて、人民階級の間でPCFに代わることのできる政治的集団に向かうことを切望していた。1995年の非登録移民労働者の闘いのような運動の重要性を最初に把握した一人として、彼の情熱的な反植民地主義は、アルジェリア、アンティル諸島、コルシカ、カナックの同志や組織との連携に積極的に参加することにつながった。ニカラグアのサンディニスタ革命後、1984年と1990年の2回、選挙にオブザーバーとして参加し、ボリバル革命のベネズエラにも足を運んだ。同様に、2000年代初頭には、ロシアに第4インターナショナルの組織を設立しようとする同志と接触した。
 1999年から2004年にかけて、ロズリン・ヴァチェッタとともに欧州議会の議員に選出されたことは、特にグローバル・ジャスティス運動や、フィレンツェ、ロンドン、ポルト・アレグレ、ムンバイでのヨーロッパ社会フォーラム・世界社会フォーラムの発展期において、国際主義的行動への共鳴と可能性をさらに高めるものだった。欧州議会における2人の存在はまた、多くの闘いに対するアランとロズリーンの支援に反響をもたらし、ヨーロッパ反資本主義左派の共通の活動(特にスコットランドのSSP、イタリアの共産主義再建党、イギリスのSWP、ポルトガルの左翼ブロック、デンマークの赤・緑同盟など)をめぐる重要な活動につながった。

FIの強化と
開放の立役者
 アランは、2001年のオリヴィエ・ブザンスノーの大統領選挙キャンペーンの主要な推進者の一人であり、2009年からのNPA創設の熱烈な支持者であった。彼は、最後の瞬間まで政治的・人間的資質を提供したのである。
 2015年には、キエフのメーデーに参加し、そのあとウクライナ社会運動の立ち上げにつながるウクライナ左翼の会議に参加した。
 アランは、われわれの潮流の組織、われわれの考え方を進めるための具体的な政治行動、統一したとりくみ、共通の行動方法を見つけるための他の国際勢力や潮流との直接討論に重点を置いていた。彼は、第4インターナショナルの強化と開放の立役者の一人であり、それによって他の伝統を持つ活動家や組織を受け入れることが可能になった。
 彼の知性は、意志の楽観主義によって挫折の悲観主義を埋め合わせるようにした。彼は、傲慢さのない革命的なマルクス主義、統一、具体的な行動の道を常に追求することをわれわれに教えてくれた。そして、われわれはそのことに忠実であろうとする。

 2022年3月16日

(『第4インターナショナル』のサイトに掲載)

追悼 アラン・クリヴィヌ同志
 深い敬意をこめて

 歴史的革命家、マルクス主義者のアラン・クリヴィヌ同志が3月12日、80歳で亡くなった。同志は第4インターナショナルの主要なリーダーであり、LCRの創設者でもあった。また同志は、国際主義者として世界の労働者階級の苦難の中に存在した偉大な存在であった。
 同志の死によって私たちが失ったものはあまりにも多い。私たちは同志の記憶に深い敬意を表します。また同志のご遺族に心からお悔やみを申し上げます。

第4インターナショナル日本支部

同志アラン・クリヴィヌが死去
 彼の闘いは続く

反資本主義新党(NPA)

 同志アラン・クリヴィヌは、今日、80歳でわれわれのもとから去った。NPAの同志であるわれわれは、彼の家族、愛する人たち、そして彼の闘いに参加したすべての人たちの悲しみとともにある。
 65年以上にわたり、アランは疲れを知らない活動家であり、資本主義システムによる破壊に反対し、不正に反対し、解放を求めるすべての闘いに参加した。
 アランは、フランス共産党から追放された活動家であり、JCR(革命的共産主義青年)、LCR(革命的共産主義者同盟)、そしてNPAの創設者・指導者であり、第4インターナショナルのリーダーであり、決して若い頃の決意に反することはなかった。彼は何世代もの活動家にとって、変わることのないモデルであり、無尽蔵の資源であり、模範的な同志であった。
 われわれは、彼の自己犠牲、温かさ、ユーモアを忘れないだろう。アランは人生の最後まであきらめず、「あきらめて年相応に」という圧力にも屈しなかった。
 数日後には、今後組織される追悼行事について知らせるとともに、アランの人生と戦いについて、さらに詳しく書くつもりである。
 さようなら、おやじさん、今までありがとう。これからも闘い続けよう!
 2022年3月12日

Alain Krivine

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