暫定滑走路北側延伸反対デモ(三里塚東峰、4.24)
普天間米軍基地撤去県民大会(5.15)
24000人が普天間米軍基地を包囲して撤去を要求。
管制塔元被告支援集会(9.18)
吉川勇一さん、鎌田慧さん、中山千夏さん、樋口篤三さん、東峰の石井紀子さん、反対同盟柳川秀夫さん、そして管制塔占拠闘争の元被告たちが顔を揃えた。
政府は管制塔占拠闘争時に破壊した「管制機器の弁償」と言う名目で、元被告個人に「返済」を求めた。これに対し、運動として展開し1億300万円を集め、たたきつけた。
報告集会(11.11)
さあ受け取れ!1億300万の熱い魂だ!
かけはし2005.11.21号
管制塔被告団が27年間の国による鉄鎖を断ち切る闘いに勝利
十一月十一日、管制塔被告団は全国の熱い思いで達成した現金一億四百万余円を、管制塔破壊損害賠償として九段合同庁舎にある航空局にたたきつけ、勝利を宣言した。二十七年間の権力の鎖から、ようやく解放された。
十一日午前十時三十分、被告団は二手に分かれて行動を開始した。ひとつは四谷の大手都市銀行から一億四百万円を下ろし、九段の合同庁舎に向かった。NHKテレビクルーが以前から被告団の前田道彦さん、和多田粂夫さんや中川憲一さんへのインタビューを続けていたが、この日も銀行に向かう姿、タクシーでの九段合同庁舎への行動を撮影した。
九段庁舎の中庭には五十人以上の仲間がいまや遅しと待ち受けていた。「さあ受け取れ!1億300万の熱い魂だ!我々は再び不可能を可能にした!」の横断幕を掲げ、拍手で被告団を迎えた。多くのテレビ局が待ち受けていた。
みんなの要望に応えて中庭で、一億四百万円の札束を広げた。中川さんが「これから、叩きつけてきます」と宣言して、地下の会議室へ。初めは中に、支援は入れないと国は言っていたが、全員が地下通路を通り航空局や空港公団が待ち受ける会議室に向かった。途中には、現金を輸送するであろう人たちが厳重な警備をしていた。会議室で、改めて一億四百万円を広げてたたきつけた。支援がいったん外に出て待機した。国は、一枚一枚を手と機械で数えた。被告団は領収書と取り下げの証書をもらって、仲間の待つ中庭へ。
今日、目的を達成
することができた
テレビ局各社の共同インタビューが始まった。中川さんと前田さんが並び、中川さんが「二十七年間の強制執行に対する全国の仲間の怒り・支持を叩きつけてきました」(仲間の大きな拍手)、「二十七年間の鎖から解放されました。みなさん、ありがとうございました。ここに、確かに支払ったという領収書と取り下げ書があります。二十七年の長きにわたる損害賠償の攻撃が終了しました」。
この後、テレビ局の共同インタビューが始まった。
――いま、あらためての気持ちはいかがですか。
しばし絶句して、中川さんは声につまった。「やっぱ、うれしいです。みなさんに感謝します。ありがとうございました」(大きな拍手)。
――こんなに多くの支援が寄せられると思っていましたか。
「思っていませんでした。自分たちでなんとか解決しようとしていました。しかし、全国の仲間たちが二十七年も経っているのにもかかわらず、心を通わせて達成してくれました。何度も何度もくじけそうになりましたけれども、今日、目的を達成することができました。われわれ十六名は解放されました。ありがとうございました」。
――これで、二十七年続いた事件が終ったということでしょうか。
「いや、三里塚の闘いはいまだ続いております。国は北側延伸をもくろんでいます。三里塚空港が、暫定空港が存在する限り、三里塚の闘いは永遠に続くと思います」。
たたきつけ行動を終えた被告たち十人は、虎頭弁護士とともに弁護士事務所に行き、今後の打ち合わせをした。そこで、改めてビールで乾杯して、みんなで勝利を祝った。
勝利報告集会に百
百五十人が参加
午後六時から、全水道会館で、勝利宣言集会が行われ百五十人が参加した。会場は、連帯基金の仲間たちによって、「今、二千人が管制塔に駆け上がった」と大書きされたパネルが正面に掲げられ、ステッカーが天井から吊り下げられた。この間全国で連帯基金運動を報じた地方紙が横の壁に飾られた。正面横には、管制塔元被告の原勲さん、3・26闘争時、九ゲートから突入して、管制塔ビルの前で火だまるとなり管制塔突入を可能とした新山幸男さんの遺影が飾られた。
司会を、五十一人の呼びかけの声明の会の白川真澄さんが行い集会が始まった。
最初に、被告団事務局の中川さんが、「カンパ総額は11月8日現在、1億1521万4907円になった。支払い総額は1億479万3754円。うち元本4384万3630円、遅延損害金6057万0274円、執行費用37万9850円。3月25日時点より、137万2200円増加していた。執行取り下げの確約書をもらった。本日をもって勝利したことを確認する」と報告した。
続いて、この件を担当してくれた虎頭昭夫弁護士が「三月にかかわって、最初になんとかまけさせようとしたが、七月の時点で向こうが拒否し、それができなくなった。前田君、和多田さんが、『よし、集める』と言った。私はカンパによって集まるとは思わなかったが、ネットを見ているとどんどん集まり出した。今回の運動がさらに新しい運動のきっかけをつくれればいいなと思う。ありがとうございました」と涙ながらに報告した。
生きていてよかっ
たなあ、と思う
いよいよ、管制塔元被告団十六人中参加した十人が前に並び、ひとりひとり思いを語った。
藤田雄幸さん。「ぼくは運動からは長い間離れていた。当時は無我夢中で活動した。いまは本当にやってよかったと思う」。
山下和生さん。「私もこんなに基金が集まるとは思わなかった。驚きと感謝の気持ちでいっぱいだ」。
石山和男さん。「今回の大きな力になったのは、国が進めてきたIT化だ。短期間に全国すみずみまで運動が行き渡ったからだろう。中川さんなどの事務局とインターネットを支えてくれたみなさんに感謝します」。
若林一男さん。「ずっと人前に出ることを避けてきました。今日だけは本当に心からみなさんにお礼を申し上げたくて、参加させていただきました。二十七年間のうち、確かに失ったものも多かったですが、今日こうやって終って、受けたものもものすごく多かった。生きていてよかったなぁ、いい人生だったと思う」。
高倉克也さん。「私は賃貸住宅に住んでいる。この件があって、いつかこういうことがあると思っていて、家は買わない、銀行口座は作らない、報酬は現金でもらう、領収書は別のところのものをもらう、本当にそういうことをやっていた。権力は甘くないというのがずっと頭にあった。昔、救対の人と話をしていて『野たれ死にするしかない』と言われ、『そうだよな』と答えた」。
「私も闘争から離れていて、闘争の場に来るのは差し控えていたが、今日はみなさんにお礼を言いたくて、やってまいりました。東拘に四年、長野刑務所に二年にいた。出所する時、カストロが、『歴史は私に無罪を宣告する』と法廷で宣言したのをもじって、『いつか三里塚闘争に無罪を宣告するだろう』と話をしたら、残された懲役囚が声援を送ってくれた。その時、やっとよかったと思った。今回ぼくらだけが救われたというより、闘争はまだ終っていないし、これからも続いていくだろう。パワーをいただいて、ありがとうございました」。
児島純二さん。「今年の三月、給料の差し押さえが始まった時、これは一生続くかもしれないと思い、気持ちがどんよりと曇っていた。こんなに早くゴールに到達するとは思ってもいなかった。3・26以降、物心両面でご支援いただいた。ぼくの人生いろいろ山あり谷ありだったが、こういう日が来てよかったなあという思いでいっぱいだ」。
中路秀夫さん。「今日の主役はみなさんだ。銀行に行って、一億四百万円を受け取った。袋に三つに分けた。六千万円は重かった。中川さんがこれは全国の皆さんの気持ちだと叩きつけた。集めてくれた人々の重さを感じています。私は会社で社員の半分くらいの人がカンパしてくれた。私の出身の三多摩でも四百四十八万円が集まった。どうしてこんなに集まったのかは、それぞれの人から聞きたいと思う。われわれは本当にうれしかった。わが家族も家も守られた」。
私たちはただみ
こしに乗っただけ
前田道彦さん。「中川さんが人の前で泣くのを初めて見ました。インタビューを受けて中川さんの声がつまった。われわれみんなそんな気持ちです。これで解放されただけじゃなくて、こんなに人の思いが集まったということで涙が止まりませんでした。カネを銀行から下ろしてきて、少し時間があったから、虎頭さんの事務所にいったら、事務員の人から札束をもった姿を記念撮影させてくれと言われた。私はただ物を運ぶだけだと思っていたが、一千万の束というのはやはり、普通の人にとってはたいへんなことなのだとよく分かった」。
「もう一つ分かったことは払う立場は強いんだなと思いました。みなさん、歩道で待っていると思っていた。中川さんから、『カネをひろげてくれ』と連絡が入ったから、歩道でカネを広げることはできないだろうと思っていた。事前の打ち合せで、国は『あそこは入れない』と言っていたのですよ。向こうの気持ちがよく分かったのは、その後機械で数えた。数えている最中に、成田航空会社(旧公団)は領収書をよこした。この立場の強さは気持ちがよかった」。
「私の会社の四人がカンパを呼びかけてくれた。その人たちが四つのことを決めていた。①国のやっていることは間違っている②前田を救う③多くの人にこのことを伝える④前田にはだれがカンパしたかは教えない。涙がでちゃいましたね。その人たちが共通に語っていたのは、『壊したのは悪いかもしれないが、国のやっていることはおかしいんだから、やっぱりおカネを払ってでもあなたを守ります』と。会社の三分の一弱の人がカンパしてくれて、五百八十万円が集まった」。
「昼休みに管制塔連帯サイトを見ている人から質問が来るので、わたしもサイトを見ていなければならなかった。見ていると泣いてしまうんですよ。周りの人は不思議に思っているんですね」。
「私がつくづく思ったのはたいへんなことが起こっているんだなと。私たちはただみこしに乗っただけなんですね。皆さんがそういう力を作ってくれた。ネットでやってくれた人たち、本当にありがとうございました。われわれは悪いことできないと思いましたね。悪いことは悪い、断固として闘うぞと言わないとここで呼びかけてくれた人に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。集めてくださったのは二千人、その他に、もっといろんな人がカンパなんかしてくれていると思います。いざとなったら、二千人の味方がいるとネットで書いてありましたが、その通りだと思った。われわれは3・26の時もいいとこどりをさせてもらった。今回もそうだった。私は五十三歳になりますが、インパクトのあることを二回も経験させてもらったのは、本当にうれしい人生だと思う。幸せな人生だなと思う」。
俺たちは死んだって
管制塔に登るんだ
和多田粂夫さん。「最初、どうしても払わなくてはならないとなった時、出した方針はごり押しに党派分担を決めた。インター二千万円、プロ青千万円、戦旗千万円。後の六千万円は責任をもってぼくたちが借金からすべて含めて出すということで運動が始まった」。
「そこへぼくの会社の近くに住んでいる宿敵の柘植洋三さんが来ました。柘植さんが宿敵というのは三里塚闘争のインターの方針は、すべてぼくと柘植さんで決めていた。ふたりは性格が全然違った。柘植さんはずぶずぶの大衆運動主義、ぼくは戦術極左だ。ひとつの闘争をやるたびに、へどの出るほどの論争をする。やっと中和された形で、運動方針が決められていった。開港阻止闘争についても、柘植さんは敗北の美学が中心だから、要塞で鉄塔に登って人々の注目を浴びて、テレビに映って同情を買うということが目的だ。ぼくはなんとしてでも、戦術的勝利をつくりたいと、それで分けたのです。要塞戦は柘植さん、管制塔突入は私。それで戦闘は行われた」。
「今回のことで、柘植さんが職場に来て『今はインターネットで、全面的にやるから、かならず集まる』と言ったんです。ぼくが言ったことは『そんなことに幻想をもったらだめだ。そういった形でやるんならやれ』と。そういうことで始まった。いま言うならば、柘植さんがいったことが全面的に正しかった。柘植さんに感謝の気持ちでいっぱいだ。いろんなところで批判を浴びている党派割り当てだとかは、すべてぼくの責任です(会場、大笑い)。やはり時代が変わったんだなと思う。それについて行くようにしたい」(会場、大笑い)。
中川憲一さん。「管制塔被告団は十六名ではありません。(原勲さんの遺影を指し示して)この原を入れて十七名でした。原はプロ青同でした。3・26の前日、私たちはマンホールに入ります。プロ青の四名は意思統一をした。その時太田は『おれは十六階に登る。後の三人は、後続だから一階を守ってもらう。もし来れるのなら十六階に来てもいいよ』と言った。本当言うと私は一階で逮捕されなくちゃいけないのを十六階までいきました。その意思統一した後、また四人で(涙で声がつまる)『俺たち四人、死んだって管制塔に登るんだ』と言い合った。今でも、この原といっしょなんだと思っています。九ゲートの新山も同じだ。それから、八ゲートなどを闘った何千もの仲間もともに闘ったと思っています。原といっしょに今日の勝利をかみしめたい。三里塚の闘争が勝利するまで、いっしょに歩んで行きたいと思います。みなさんどうもありがとうございました。(なりやまぬ拍手)
新山君に声をかけ
てやってほしい
管制塔被告団支援第一応援歌「正義は我らのがわにある」を全員で合唱した後、各地からかけつけた支援者があいさつを行った。連帯サイトの仲間は青森、岩手、大阪、名古屋、沖縄、埼玉、東京などで個人サイトやコンサートなどで盛り上げたことなどのエピソードを紹介した。今回の支援運動が連帯サイトなくしては勝利しえなかったことが充分わかるもので、すばらしい仲間たちの発言だった。
続いて、当時プロ青同の現闘で大阪に在住する「通称」こまわりさんは「信頼・連帯が非常に大事だと思う。おカネを出してこちらが救われるような今回のことは非常にありがたいことだ」と語った。
現地で原君の墓を守り生活している大森万蔵さんは「ふたつの悔しいことがあった。ひとつは私は管制塔戦士になれなくてくやしい思いをした。そして、原を死なせてしまったことだ。原の意志を引き継ぎ横堀墓地に原の墓碑を作って毎年四月の第二週の日曜日に集まりを持っている。原の墓碑には『あの闘いを忘れない、あの時の自分を忘れない』と刻んだ。当時要塞戦などをともに闘った反対同盟員はすでに多く人が亡くなっている。それでも今回のことを反対同盟員に伝えた。多くの人からカンパをもらった。気持ちはつながっていると思う」と報告した。
新潟市議の中山さんは「私は自分のホームページに今回のことをのせて応援した。小学五年生の時、三里塚の強制代執行をテレビで見て絶対に許せないと思った。自分は過激派になるんだ、学生になって逮捕されて、一介の労働者となって革命運動に参加しようと思っていた。その後、学生も卒業し、議員になって運動をしている。こうしたことができるのも、被告の皆さん、三里塚に関わったすべての人たちにぼくは育てられて社会変革の道に参加しました。ぼくたちの子どもたちや後輩たちに、いろんな思いや運動の経過を伝えていって、われわれの闘いを強くたくましくしていって、すべての人が幸せに暮らせるような社会を作っていきたい」と自らの経験を語った。
続いて、一九六八年の日大全共闘の方からの発言の後、今回の運動をひっぱる役割をした声明の会の吉川勇一さんは「人類の歴史を作る上でどうしても許せない、権力に従わない人たちが平和などの人間の価値観を作り出してきた。管制塔占拠闘争もそうした歴史の中に位置づけられるに違いない。砂川闘争五十年の集いがあった。いまでも、砂川闘争の闘いは生活の根本になっている人達がいる。ぜひ、管制塔闘争の五十周年をやってほしい。口には出さないが、被告たちが長い獄中生活などで負ってきたさまざまな重荷を今回のことで少しでも軽くできたと、全国の支援を下さった皆さんにお礼を言いたい」と語った。
最後に、声明の会の柘植洋三さんは「連帯サイトにすべて書いてしまったので、ここでまとまった話をするつもりはありません。最初にどうしても言っておかなければならないことがあります。きのう五人の被告が集まった。そこに、BUNDの最新の機関紙のコピーが配られた。山根克也の名前で、『ブントとして言うべきこと』として、私の名前を出して持ち上げているが、私が出ている個所は必ず削除してください。それから、そこにいた五人の被告は涙を流しながら怒っていた。どこに怒っていたかというと、被告に触れた部分です(「元管制塔戦士の中には、ブントの『左翼思想からのパラダイム・チェンジ』に反対して、組織活動から離れていった人もいる。被告の中には3・26逮捕直後に転向し、当局に協力し、他の被告の足を引っ張った人もいるのだ」――引用編集部)。書いた人は分かると思うがよく考えてものを言ってもらいたい」。
柘植さんはその後、いつくかのエピソードを紹介したのち、最後に新山幸男君の遺影を指して「八月に合宿を開き、大義の春の映画の上映をやった。その時、管制塔占拠の被告たちが突入する寸前に、火だるまになった人間が映っているんです。その時に、ある被告が『あっ、あいつだ。あの行動で、シャッターが開いた。それでおれらは入れた』と言った。九ゲートから突入したメンバーが新山を含めて四人が火だるまになった。新山は死んだ。彼らが火だまるになって突進した。そのことがなければもしかしたら、管制塔の突入はなかったかもしれない。そういう役割を命をかけて新山君は果たした。お帰りの際には、新山君に声をかけてやってほしい」と締めの発言を行った。
12月24日(土曜日)、午後1時から、日本教育会館(地下鉄神保町駅下車すぐ)の9階で、被告団がカンパを寄せてくれた方々へのお礼の会を開く。御苦労さん会です。参加してほしいと報告があった。
集会は全員でインターナショナルを歌って終えた。この日の商業新聞の夕刊各紙に、「たたきつけ行動」は報道された。NHKは、午後六時台の関東ローカルニュース、七時の全国ニュース、夜十一時のニュース、衛星放送でも放映し、他の民放局も放映した。
こうして歴史的闘いが終えた。
連帯基金へのカ
ンパありがとう
以上行動の報告としますが、新時代社の呼びかけにも多くの方が応えていただき、直接、新時代社(あるいは直接連帯基金)にも多額のカンパを送っていただきました。すべてこれらのカンパは連帯基金に送りました。新時代社をはじめインター系各派ならびに管制塔被告の出身地区の仲間は今回の運動に責任をもって取り組み、被告団の勝利に貢献しました。わたしたちは被告団とともに勝利を喜び、さらに三里塚闘争はじめ多くの運動のために、今後も奮闘していく決意を新たにしています。ご協力ありがとうございました。
(管制塔被告団元インター救対 松下 知)
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