【911テロ-反テロ戦争開始から20年】無差別テロ=大量殺人擁護で一致する革マル派と中核派

民主主義を破壊する内ゲバ主義の論理的帰結

 たがいに「反革命」「ファシスト」とののしり合いながら、双方で百人もの死者を出す流血の内ゲバを繰り返してきた革マル派と中核派が、今回の無差別テロを賛美することでは「やむにやまれぬ」という表現まで含めて完全に一致してしまった。それは、ソ連・東欧の崩壊による「反スタ」主義の消失と無責任な一国主義がもたらした「反帝一元論」と、労働者民主主義を踏みにじる内ゲバ主義の論理的帰結である。


問われるテロに対する態度

 九月十一日のアメリカにおける大量無差別テロは、アメリカ帝国主義の軍事的覇権と新自由主義的な資本のグローバリゼーションに対して闘う全世界の人びとにも大きな衝撃をもたらした。「自由と民主主義の普遍的価値に対する『悪』の挑戦」を叫び立て、「テロリストとテロリストをかくまうすべての国」への「報復戦争」の態勢を整えているブッシュ政権の暴挙に立ち向かおうとする労働者民衆にとって、七千人の死者・行方不明者をもたらしたあの無差別テロにどのような態度を取るのかが、厳しく問われている。

 だれによる行為であれ、それが「反米」や「反帝」の言辞によって語られるものであれ、無差別テロは決して正当化しえない犯罪である。テロ行為者を実行に駆り立てた「怒り」がなんであれ、またそれがどのように人民的「大義」をふりかざしたものであれ、非武装の一般労働者・市民を無差別に大量殺害する権利はだれにもない。

 こうしたテロにきっぱりと反対し、それを労働者階級の立場から、民主主義的権利を体得した市民の立場から、そして抑圧された民衆の立場から批判することによってこそ、アメリカ帝国主義の歴史的な戦争犯罪を浮かび上がらせ、「自由と民主主義」や「人権と正義」を看板にした彼らの欺瞞や二重基準を暴露し、彼らがいま遂行しようとするアフガニスタンや中東地域への新たな民衆虐殺戦争に対決する闘いを作りだすことができるのである。

テロ糾弾は反戦運動の原則

 「『行動を煽動する』無政府的予言者なら、テロリズムの企図が大衆を高揚させ刺激する活動を与えると好きなだけ判断することもできよう。だが、理論的考慮と政治的経験とは反対のことを証明している。テロリスト的行動が『効果的』であればあるほど、それが大きな印象を引き起こせば引き起こすほど、大衆の注意をそれに集中させればさせるほど、それだけますます大衆の自己組織化と自己啓発に対する関心を低めることになる」(トロツキー「テロリズム」、一九一一年一月。『トロツキー研究』17号)。

 一九一七年以前、ツァーリ専制体制下のロシアの革命運動につきまとっていたテロリズムの害悪をこのように指摘していたトロツキーは、一九三〇年代、スターリン体制の下でのテロリストの企図に対しても次のような厳しい批判を行った。

 「官僚主義は大衆を信頼せず、自分が大衆を代行しようとする。それは大衆の参加を求めず、大衆を幸福にすることを望む。スターリニスト官僚は、むかつくような指導者崇拝をつくり出し、指導者に神のような属性を与えている。『英雄』崇拝はまたテロリズムの宗教でもあり、ただその英雄崇拝にマイナス記号がついただけのことである。……イデオロギー・グループとしての共産主義的テロリストは、スターリニスト官僚と同属である」(「反対派ブレチン」41号、一九三五年一月。『トロツキー研究』17号所収「スターリン主義とテロリズム」より)。

 われわれは、こうした立場から革命運動におけるテロリズムの役割について一貫した批判を行ってきた。もちろんこの引用でトロツキーが批判しているのは支配者の特定の一員にターゲットを絞ったテロについてであって、今回のような一般市民の犠牲を必然的に引き起こす「大量殺戮的テロ」についてではない。もともと革命運動にとって無差別テロなどはおよそ想像を絶することだからである。それは残忍な独裁的支配者のみが行いうることであった。そして無差別大量殺戮テロについては、労働者民衆に対する言語道断な反動的犯罪として糾弾すべき対象であることは言うまでもないのである。

 湾岸戦争に反対し、アメリカを中心としたNATO軍のユーゴ爆撃に反対した世界の反戦平和運動は、ニューヨークとワシントンでの同時多発テロを糾弾し、多くの犠牲者を悼みながら、ブッシュの報復戦争や自国政府の戦争協力、そしてイスラム民衆に対する排外主義、レイシズムと闘う行動を開始している。累積された悪行に頬かむりして「テロ撲滅」を呼号し、自らの支配の危機を外に転化しようとしているアメリカ帝国主義の新たな侵略戦争に全面的な参戦しようとしている小泉政権に対して、日本でも反撃の運動が日増しに拡大している。

 そこで掲げられている「テロ反対」のスローガンは、決してたんなる「弁明」のための枕ことばであってはならない。それは帝国主義の民衆殺戮をストップし、国際的な連帯で平和を実現するためにゆるがせにできない原則なのである。

無責任な一国主義の表現だ

 しかし、いま「テロ反対」を主張することは、帝国主義に加担することだと奇妙な悪罵を投げつける「スターリニスト官僚の同属」が存在する。ほかならぬ「反帝・反スタ」を掲げる革マル、中核両派である。

 革マル派機関紙「解放」は次のように述べる。

 「たとえ実行部隊がウサマ・ビンラディンとこれを支え率いるイスラム復興主義勢力のゲリラ・グループであったとしても、そしてその対米〈ジハード〉の方式がそれじたい反人民性を刻印されているものであるとしても、アメリカ帝国主義の全世界にたいする経済的・軍事的支配の中枢に風穴をあけた『殉教作戦=ジハード』は、まさにアメリカ帝国主義の世界『一超支配』の暴虐を打ち砕くための挑戦にほかならないのであり、その意味において画歴史的行為にほかならない」(「解放」9月24日付)。「それは、アメリカ帝国主義とその手先によってなぶり殺しにされ収奪され名誉を傷つけられてきた全世界の無数の虐げられた民衆、高度な軍事力とはいっさい無縁な彼らによるところの、憎むべき虐殺者=収奪者にたいするやむにやまれぬ肉弾反撃にほかならない」(「解放」10月1日付)。

 中核派機関紙「前進」もこう主張する。

 「米帝史上、いや世界史上も前例のないゲリラ戦争が敢行され、膨大な流血と破壊が生み出された」「事実関係の詳細がなお不明であるが、本質的に言って、九・一一は、被抑圧民族によるやむにやまれぬ決死の反米ゲリラ戦争である。彼らが訴えるものをしっかりと受けとめることなしに、このゲリラ戦争を非難することは絶対に許されない」(「前進」9月24日)。

 革マル派も中核派も、「むろん、われわれはプロレタリア解放闘争の大義からして、テロリズムを原則的に否定することはいうまでもない」(「解放」同号)とか、「九・一一には、アメリカ労働者階級、すなわち米帝打倒の革命主体であり、世界革命の担い手であり、被抑圧民族の友であるべきアメリカ労働者階級の存在と闘いが措定されていない」(「前進」同号)といった言い訳的文言を付加している。しかし彼らの主張の核心が「アメリカ帝国主義の世界『一超支配』を打ち砕くための挑戦」「やむにやまれぬ肉弾反撃」(革マル)、「被抑圧民族の決死の反米ゲリラ戦争」(中核)というところにあることは、明確である。

 ここには、九月十一日の無差別テロこそ、第三世界の民衆の反帝・反米の闘いを体現するものだという無条件の賛美のみがあって、あの惨劇がいかに第三世界民衆の闘いが直面する困難を増幅させ、帝国主義の戦争に向けた攻撃に拍車をかけ、資本主義的グローバリゼーションに対する国際的な闘いの発展に打撃を与えるものであったかについての批判がまったく存在しないという、彼らの無責任きわまる態度が露骨にあらわれている。

 かりに今回の事件が、ウサマ・ビンラディンと彼のテロ組織によるものであれば、ビンラディンならびに彼に拠点を提供しているタリバン政権、そして彼らを支持する「イスラム主義」者は、まさに反動的・反人民的な存在なのであって、決して「虐げられた民衆」や被抑圧民族の大義を代表するものではない。そもそも貧しい人びとから搾り取った潤沢な資金を湯水のように使う「サウジの大富豪」ビンラディンが、「被抑圧民族の大義」を代表することなどありえないではないか。

 帝国主義の収奪にあえぐ第三世界の貧しい人びとが、世界貿易センタービルの倒壊とペンタゴンの大打撃に喝采を送るのは、ある意味で当然である。しかしそれは、彼らが強制されている「絶望」的状況の表現なのであって、決して民衆の希望を切り開くものではない。その点で、パレスチナ民衆のイスラエルの占領支配に対する大衆的抵抗闘争とは決定的に異なっているのだ。九・一一のテロを賛美する彼らの心情には、裏返しの「他人事」的感覚が潜んでいる。それは「一国平和主義」のもう一つの表現なのである。

反帝一元論と内ゲバの論理

 かつて革マル派は「世界に冠たる反帝・反スタ運動」とか「地上の太陽」と自称する独善的主張できわだっており、在日韓国・朝鮮・中国人民やアジア人民との連帯運動に「被抑圧民族迎合主義」などと悪罵を投げつけていた。しかし、今回、彼らの九・一一テロに対する「ものわかりの良さ」や「同情」は、中核派以上にきわだっている。

 革マル派は言う。「彼らの〈反米〉の闘いには彼らの倫理があり矜持があることを理解すべきではないか」と。またイラクの独裁者サダム・フセインが今回の事件の直後にテロを評価して送った「公開書簡」を「わが革マル派と、ごく少数の気骨ある人びとを除けば、だれもこのようには問題提起しなかった」と持ち上げ、「アメリカ帝国主義権力者の数多の蛮虐と・それを許している”西側”諸国人民の体たらくとを告発し弾劾する意義を持つ」と、サダム・フセインと自らを一体化させるところにまで至っている(「解放」10月1日号、「万華鏡2001」欄)。

 これは、彼らの「反帝・反スタ」論が、スターリニスト体制の崩壊とともに、ますます単純な「反帝主義」ないし「反米主義」へと変質しつつあることの表れである。すでにNATOのユーゴ爆撃の時の彼らの主張は、ミロシェビッチの民族主義的強権主義と彼らの少数民族への迫害を事実上、不問に付すものであった。また今年二月の米原潜グリーンビルによるハワイ沖でのえひめ丸撃沈事件の際には「日本人民も”リメンバー・パールハーバー”」というスローガンが、「解放」紙上に踊った。

 こうした革マル派の変質は、今回のテロ事件で新たな段階に入った。それは反動的イスラム主義者による大量無差別テロに衝撃を受け、それを被抑圧人民の「肉弾決起」として高く評価するところにまで進んでしまったのである。彼らは今や、「テロ糾弾」を掲げること自体がアメリカ帝国主義との闘いを放棄するものと断罪し、テロの反人民性を免責するに至っている。

 革命運動の原則である労働者民主主義は、こうしたテロを絶対に容認することはできない。内ゲバ主義者は、まさに「スターリニズムの同属」として労働者民主主義を破壊し、大衆運動の生き生きとした発展を妨害してきた。テロへの批判は、同時に労働者民主主義の断固たる防衛とセットのものである。内ゲバ主義者が、今回の反人民的テロリズムを正面から批判できないのは当然のことなのだ。(10月2日)

(平井純一)

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