攻勢を強めよう
トロツキー著作集 1932・上から
スターリニストによる左翼反対派への襲撃事件に関するトロツキーの論文
この論文で取り上げられている出来事は、一九三二年七月二八日に、パリでフランス共産党が呼びかけたドイツの政治的危機にかんする公開集会で起こった。左翼反対派は、出席して自らの見解を提出することを表明した。彼らが到着すると、「ヨードチンキと包帯を持って来たかどうかを確かめたほうがよいぞ」という言葉で迎えられた。演説者のひとりである共産党書記長ピエール・セマールが統一戦線についてふたことみこと語ると、反対派は喝采した。するとセマールは命令をくだした。「彼らを放り出せ!」五〇人ばかりのスターリニストが反対派を襲い、頭や腹を蹴り、一人を意識不明にし、彼らを放り出した。モーリス・トレーズは発言を求め、これ見よがしに足を上げ、それをさしてこう言った。「これがやつらに対処するやり方だ」。この報告記事は、一九三二年八月二〇日の『ミリタント』に掲載された。
パリのビュリェ・ホールでのボリシェヴィキ=レーニン主義者に対するスターリニストの暴力的襲撃は、深い憤激を生んだばかりでなく、コミンテルンの現指導部をひどく恥ずかしく思う感情をも呼び起こした。これは、下部共産党員、労働者の仕業ではなく(これらの人々はこのような忌まわしい仕事するほど落ちぶれてはいないだろう)、より上級からの命令を実行している中央官僚の仕業である。その目的は共産党員のあいだに、道理あるすべての主張が力を失う、という重苦しい雰囲気をつくりだすことにある。このようにすることによってはじめて、スターリニスト官僚は左翼反対派からの批判を今なおなんとか切り抜けることができているのである。なんというひどい堕落だろう。
ロシア革命運動の歴史には激烈な分派闘争がとりわけ多い。三十五年間、私はこの闘争をごく身近なところで観察し、それに参加してきた。マルクス主義者のあいだだけでなく、マルクス主義者とナロードニキ(1)やアナーキストとのあいだでも意見の相違が存在していたが、そうした相違が鉄拳の組織的支配によって解決された例をたったひとつも思い出すことはできない。一九一七年のペテルブルクは頻繁に開かれる会議で沸き立っていた。ボリシェヴィキは、最初は取るに足らない少数派として、次には強力な党として、最後には圧倒的多数派として、社会革命党やメンシェヴィキを打ち負かすためのカンパニアを展開した。こうしたなかで政治闘争が暴力的闘いにとってかわられるような会議を私はたったひとつも思い起こすことはできない。この二年間、私は二月革命と十月革命の歴史の全面的な研究を行ってきたが、当時の新聞でそうした事件が発生したという証拠をなんら見いだすことができなかった。プロレタリア大衆が望んでいたのは、聞いて理解することだった。ボリシェヴィキが望んでいたことは、大衆を納得させることであった。このようにしてはじめて、党を教育することができ、革命的階級を党にひきつけることができる。
一九二三年、スターリニストとレーニン主義派との論争が最高潮に達したとき、オルジョニキーゼ(2)が自分と対立していた人々のひとりの顔面を殴った。重病でクレムリンに閉じ込もっていたレーニンは、オルジョニキーゼの行為の報告を受けて本当に驚いた。レーニンの眼には、オルジョニキーゼがコーカサスで党機構の頂点にいたという事実は、オルジョニキーゼの罪をよりいっそう大きなものにするだけだと映った。レーニンは自分の秘書のグラッセルとフォティエヴァを私のところによこして、オルジョニキーゼを追放するよう何度となく求めた。彼は、オルジョニキーゼの粗暴なふるまいの中に、スターリン派全体および彼の体制全体を示す兆候と兆しを見てとったのだった。同じ日、レーニンはスターリンとのいっさいの「同志的関係」を断つと宣言したスターリンへの最後の手紙を書いた。それ以降、全一連の歴史的諸要因が、ソ連邦共産党だけでなくコミンテルンでも「粗暴」と「不実」に満ちたこの派に勝利をもたらした。ビュリェでの忌まわしい行為はそのことの議論の余地のない正真正銘の表現である。
機構にいる人々のうちの九割までがスターリニスト体制に完全に愛想づかししてはいないとしても、ますます恐怖をつのらせながらそれを眺めるようになっている。しかし、これらの人々はその魔手から逃れることができない。それぞれの連鎖の決定的なつなぎ目には、ベセドフスキーやアガベコフのみならずセマールやヤロスラフスキーがいる。これらの紳士連中は中傷と曲解から始まり、今や組織的な暴力的襲撃をしかけるまでになっている。この指令はスターリンから発せられ、次にコミンテルンの全支部に伝えられる。これは連中を助けるだろうか。いや、そうはならないだろう。用いる方法をたえず強めていかなければならないという事実は、ボリシェヴィキ=レーニン主義者に対するこれまでの襲撃が効果なかったことを証明している。
ドイツではきわめて重大な事態が進行している。コミンテルン指導者は沈黙したままである。これら指導者は、まるで水を口いっぱいに含んでいて何も言えないかのようにふるまっている。ドイツの事態は、コミンテルン世界大会の即時の招集を要求していないだろうか。もちろん要求している。しかし、世界大会ではその回答を与える必要があり、スターリニストは言うべきものをもっていない。その間違いとジグザクと犯罪が完全にスターリニストを征服してしまった。いぜんとして沈黙しつづけ、隠れ、受動的にその成果を待っていることが、スターリニスト分派の政策のすべてであり、本質である。
しかし、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は沈黙しないし、自分以外の人々が沈黙しつづけるのを許さない。われわれのフランスの同志たちは、少数であるにもかかわらず、労働者の前にプロレタリア世界革命の焦眉の諸問題を提起するうえで堅忍不抜のすばらしい精神を示している。スターリニストたちは同志たちをごろつきのように襲っているが、それは同志たちの革命的エネルギーを讃えることになるだけである。
モスクワのボリシェヴィキ=レーニン主義者が蒋介石に対して警告するや否や、スターリニスト官僚はこれらの同志たちを罠にかけ、迫害し、粉砕した。パリのボリシェヴィキ=レーニン主義者がファシズムに対する警鐘を鳴らすや否や、スターリニスト派はその粉砕を準備する。こうした事実は処罰を免れるわけにはいかないだろう。重要な事実から、党は学ぶし、階級も学ぶだろう。
われわれは下部共産党員がスターリニスト官僚の犯罪に責任があるとはみなすものではない。ボリシェヴィキ=レーニン主義者はフランス共産党やコミンテルンに対するその方針を変更しない。いたるところでなされている、われわれと何百万の共産党員とのあいだに憎悪の壁を築こうとする企ては、成功しないだろう。正義がわれわれの側にあり、労働者がよりいっそう注意深くわれわれの言葉に耳を傾けつつあることは明白である。
スターリニストがとり乱せばとり乱すほど、ますますボリシェヴィキ=レーニン主義者はその活動において忍耐強くなる。官僚は、われわれの批判や主張にさらされて身もだえしている。こうして、われわれの正しさと有効性がなおいっそう明白となっている。われわれの攻勢を、二倍、三倍、さらには十倍に強めよう。
注解
(1) ナロードニキ ロシアの発展は農民の解放のなかにあると考え農民のなかで活動したロシア知識人の組織的運動。一八七九年に、運動は二つの党に分裂した。一方のグループはプレハーノフに率いられ、これはふたたび分裂した。プレハーノフのグループはマルクス主義グループとなり、他方の翼は社会革命党へと進化した。
(2) G・K・オルジョニキーゼ(一八八六-一九三七) スターリン派のオルガナイザーで、後に重工業を担当した。忠実なスターリニストでありつづけたが、彼の死をめぐる状況は、いぜんとして明らかにされていない。(一九三二年八月六日)
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