1960年代半から現在まで-ヨーロッパのラディカル左翼の2つの世代といくつかの「緊急の課題」について

ピエール・ルッセ

 このレポートはフィリピンの進歩的グループの活動家教育セミナーでの報告「社会変革のための民主的、複数主義的、人間的な枠組と戦略に向けて」を文章化したものである。「インターナショナル・ビューポイント」誌370号(2005年9月号)所収。

はじめに

 テーマが非常に広い範囲にわたるので、以下の報告は図式的かつ部分的にならざるをえない。最初の3つの章は、ヨーロッパの経験、より正確にはフランスと南ヨーロッパにおける経験を中心にしている。ここでは1960年代から70年代のヨーロッパの新しい革命的左翼がどんなものだったか、そして現在のヨーロッパのラディカル左翼がそのように異なるかを感じ取っていただきたい。私はラディカル左翼の2つの世代を比較するが、これらの世代はフィリピンの同様の世代とほぼ対応しているかも知れない。

 第3章では、このセミナーの中で述べたいくつかの「緊急の課題」を取り上げる。ここでは、もう一度ヨーロッパの文脈から論じるのではなく、私たち、つまりヨーロッパの側から、フィリピンの闘争の歴史に何を学ぶことができるかを見ていく。

 私の報告は確かに、1つの地域(南ヨーロッパ)の1つの国(フランス)の1つの世代(1968年5月の世代であり、フィリピンでは1970年1-3月の闘争に参加した世代に対応している)の経験を反映したものである。しかし、誰も1つの世代の全体を代表して、あるいはその中の1つの傾向を代表して発言することはできない。この報告は私の個人的な経験をも反映している。たとえば、私はアジアの革命(ベトナム、中国、フィリピンなど)に深く影響されたが、私の同志たちの多くはラテンアメリカの革命に影響されていた。いずれにせよ、このセミナーでは自分たちの立場で自由に発言することを求められているので、そのようにする。

第1章 1960年代半から1990年代半まで

A 背景

 ヨーロッパでは1960年代半に、新しい(複数の)革命的左翼が形成された。そのラディカル性は、時代背景を考えれば容易に理解できる。

● インドシナ戦争を中心とする国際的背景と、米国の空前規模の軍事的エスカレーションに対するベトナム人民の抵抗。1968年は、ベトナムのテト攻勢、チェコの「プラハの春」、フランスの学生のバリケードとゼネスト、メキシコの学生の決起・・・によって闘争の世界的な性格を象徴する年だった。

● ヨーロッパの状況。南ヨーロッパには依然として独裁政権が存在していた。ギリシャでは軍大佐が政権を握っており、スペインのフランコ、ポルトガルのサラザールの2つのネオファシスト政権が存在していた。1960年代後半の急進化は学生だけでなく、労働者階級(の青年)も巻き込んでいた。フランスでは1968年に学生のバリケードが、この国の歴史上最大のゼネストへと続いた。

● 政治的背景。1960年代のヨーロッパにおける青年の急進化は、しばしば言われているように「文化的」な性格を持っていた(「ウッドストック」に表現された)だけでなく、非常に政治的に自己を表現した。ヨーロッパの多くの国で、急進化した青年の間でもっとも一般的に言及されていたのは社会主義、共産主義、マルクス主義だった。彼ら・彼女らはマルクス主義の名において、主要な伝統的労働者政党、つまり社会民主主義政党や親モスクワ派の共産党に異議を唱え、これらの政党の改良主義を非難した。

 この時代のヨーロッパの「新左翼」はこの背景の中で形成された。その中でいくつかの新しい潮流が生まれた(その中にはさまざまなマオイスト潮流も含まれる)。それはまた、古いが少数派だった潮流(種々のトロツキスト潮流やアナーキー的共産主義潮流を含む)にも新しい生命を吹き込んだ。

B 時代の革命的精神

 新しい革命的左翼潮流の大部分はイデオロギー的に明確に定義されていた。マオイストは国際共産主義運動が中国を中心に再編されることを期待していた。トロツキストは第3インターナショナル内のスターリストに対する闘争、つまり左翼反対派に体現された闘争の子供だった。たとえ一時的にせよ組織の強化に成功した政治党派は、何らかの資質を表現していた。マオイストはしばしば、未組織のセクター(たとえば移住者)の組織化を支援する能力を示してきた。トロツキストは労働者階級の組織されたセクター(労働組合)に働きかけること、また、民主主義的で反官僚主義的なマルクス主義を提起するという点で優っていた。

 イデオロギー的ラベルは何かを意味していた(マオイストは中国にアイデンティティーを求め、トロツキストは第3インターナショナルの左翼反対派にアイデンティティーを求めた)。しかし、当時すでに、そうした「ラベル」は組織の政治的性格について多くを語ってはいなかった。マオイストにも、われわれが「マオ派スターリニスト」と呼ぶ党派から「マオ派自然発生主義者」と呼ぶ党派まで非常に異なるタイプの党派があった。トロツキストにも非常に異なるタイプがあった。われわれ自身、「より正しいトロツキスト」を自称する党派から「ゲバラ主義的トロツキスト」と呼ばれることもあった。これは不名誉なことではなかった。なぜなら、われわれはチェを愛していたからである。多くの組織はマオイストでもトロツキストでもなかった。

 私たちはすべて、新しい革命的左翼に属していた。私たちは既存の社会民主主義や親モスクワ派の共産党とは異なっていた。それは綱領の問題だけではなかった。それは日常的な実践にも表現された。改良主義者とは違って、革命的な活動家はしばしば強制的に警察へ連行された。私たちの中の何人かは、何度も投獄された。組織が解散命令を受けることもあった(私の組織は2度解散命令を受けた)。また、私たちはいくつかの国への入国を拒否されたため(とくに米国)、それを考慮しながら移動しなければならなかった。私たちは非合法の政党とも関係を持っていた(ピレネー山脈を越えたバスク地方とスペインはフランコ独裁体制の支配下にあった)。したがって私たちは彼ら・彼女らを危険にさらすことがないように適切な手段を講じなければならなかった。私たちは軍隊内の徴募兵の間で秘密の兵士委員会を組織した(これは私の組織の「特技」だった)。学生地区やショッピング街では毎週のようにファシスト集団との戦闘があった。われわれの事務所は常時警備体制を取っていなければならなかった。われわれは武装闘争に関わっていないが、将来に備えるために過去および現在の武装した革命の経験を研究した。実際、われわれの同志の中でも、ラテンアメリカの同世代の同志たちは軍事独裁体制下で武装闘争に参加した。彼ら・彼女らは壊滅させられ、われわれは、まだ可能だったときには彼ら・彼女らが脱出するのを支援しなければならなかった。

 こういうことをやや詳しく述べたのは、私の世代の活動家が政治活動を始めたのが「革命的精神」の時代であり、その当時には革命的であることは 何か非常に具体的なことを意味しえたことを示すためである。それはまた、歴史が私たちが期待していたのと異なる展開を示したことがわかった時点で、私たちが当時直面した問題を理解するのに役立つだろう。

C 選別の過程

 1960-70年代の革命的左翼は、1970年代半ば以降も存続できるかどうかを試す4つのテストをくぐってきた。長期にわたる厳しい選別の過程が続いた。

1. 最初のテスト-学生から階級へ。最初の問題は1968年5月の直後に明らかになった。新しい革命的左翼は学生を基盤にしていた。持続性を確保するためには、労働者階級に根を張る必要があった。そしてそれは容易なことではなかった(フランスではわれわれは親ソ派の共産党によって物理的に排除され、経営者によって解雇された)。これに成功した組織はそれほど多くない(主に一部のマオイスト、トロツキスト、アナーキストの組織である)。

2. 2番目のテスト-短期的展望から長期的展望へ。1960年代末には、私たちの大部分は階級闘争が4-5年の間に決定的に激化すると考えていた。そう考える多くの理由があった。しかし、1970年代半ばには、歴史は予想したようには進まないことが明らかになった。ヨーロッパでは情勢は「平時に戻る」傾向にあった。ギリシャ、スペイン、ポルトガルにおける独裁体制の終焉は、最終的には、統制された「民主主義への移行」をもたらした。

 いくつかの組織は、遅れてではあれ、この新しい情勢に適応することができた。いくつかの組織はそうすることができなかった。いくつかの組織は国家や資本に対する(さらには改良主義的左翼に対してさえ)「私的な戦争」に関与し、多くの犠牲をもたらした。これは特にドイツやイタリアのような、ファシスト的右翼が国家機関に深く浸透していて、非常に活発に挑発的な活動(爆弾の埋設など)を行っている国で顕著だった。フランスでは「マオ派自然発生主義者」の潮流に属している有力な組織の1つが解散を決定した。

3. 3番目のテスト-戦略の再評価。「新左翼」のどの潮流も、そのビジョン、綱領、戦略の全面的な再評価なしには存続できなかった。この点は重要であり、後で、私が属している潮流の1980年代における討論の過程との関連で詳しく述べる。

4. 4番目のテストは、存在そのものに関わっている。1980年代半ば以降、ヨーロッパの革命的左翼にとって状況は非常に困難になった。革命的左翼はソ連・東欧ブロックの解体とその後の資本主義的グローバリゼーションによって生み出された新しい情勢に直面しなければならなかった。われわれの組織のような、ずっと前からスターリニズムを批判してきた党派さえ、階級間の力関係の不利な方向への変化の影響を被った。ブルジョアジーは全面的な攻勢に立っており、私たちは文字通り流れに抗して泳いでいた。これは私の世代にとっては初めてのことだった。1990年代半ばには、反グローバリゼーションの反乱の最初の兆候と共に、情勢は改善しはじめた。しかし、この間に私たちは重大な後退(メンバーの減少)を経験し、多くの組織が消滅した。

 その最終的な決算として、1990年代半ばには、残った革命的左翼は非常に弱くなっていた。1960-70年代の活動家の大半は、政治活動への参加を完全にやめたか、周辺的にのみ関わっている。敵対的になった者もいる。多くの有名な活動家が嬉々として社会的エリートに加わった。しかし、何万人もの活動家にとって、過去の経験の何かがまだ残っている。数百人あるいは数千人の経験を積んだ活動家たちが、「新しい」社会運動の発展を始めとするさまざまな大衆運動の中で依然として重要な役割を果たしている。

第2章 橋渡し-再評価の過程

 いくつかの政治組織が生き残り、ただ生き残るだけでなく依然として「生きている」、つまり現在のラディカル化の過程の中で依然として積極的な役割を果たすことができる理由を説明するのは簡単ではない。それぞれの組織について、それらの組織の綱領やイデオロギー的な考え方、政治的・組織的伝統、社会的基盤の何がそのことに寄与したのかを研究することができる。しかし、全体的には、どのイデオロギー的傾向も、実践において他の傾向に対する優位を証明してはいない。これは特に国際的視点から見たときに明らかである。フランスでは、1970年代のラディカル左翼(当時親ソ派だった共産党よりも左に位置している党派)で残っているわずか3つの有力組織は、実際にはそれぞれ大きな差異があるが、いずれもトロツキストと呼ばれている。インドでは共産党マルクス主義派よりも左に位置している主要な組織は、同様に大きな差異があるが、すべてML派(すなわちマオイスト)の伝統に由来している。

 1960-70年代の経験から形成された諸組織は、政治的・イデオロギー的起源に関わりなく、今日も存続しているためには、全面的な再評価の過程を経なければならなかった。私は、これはいかなる運動にとっても、長期的に存続するための主要な必要条件の1つ(それだけで十分ではないとしても)であると思う。

 この点について説明するために、私はフランスの私が属している運動の進化について述べる。これは私が最も良く知っている運動だからである。われわれは他の多くの潮流と比べて、1990年代の新しい世界の現実に対して最もよく準備されていた。なぜなら、われわれのマルクス主義は反スターリン主義(ソ連邦の理想化と無縁だった!)・反官僚であり、相対的に複数主義的であり、社会運動自身の民主的なあり方を尊重していたからである。それにも関わらず、われわれは、理論的に最も得意とする分野についてすら、全面的な再評価の過程を経験しなければならなかった。

 こうした進化と再評価はしばしば経験的に行われるか、ほとんど取り上げられず、(従来の)「正統派理論」の名の下で拒絶されることすらあった。組織というものはしばしば、現実を見ないという特別の能力を発揮する。1980年代に、われわれの多くのメンバーは、アムステルダムに設立された国際的な活動家の学習・研究センターを中心に発展した集団的な作業を通じて、これらの問題について再考し、それに意識的かつ明示的な形を与えた。私はこの再評価の範囲について、非常に包括的な方法で説明する。

 私が属しているイデオロギー的潮流の活動家の世代の「原罪」は、「綱領主義」と急進的「行動主義」の組み合わせだった。われわれの「綱領主義」は、前の2つの世代からの遺産だった。われわれは少数派で、社会的基盤も小さかったが、世界革命のための全面的な綱領を継承していた。それは第3インターナショナルの初期の経験と、後の左翼反対派とトロツキーの経験によって形成されたものだった。言わば、理論は優れているが、それを実践するための基盤が弱かった。そのためにわれわれの政治的立場はバランスを欠いたものになりがちだった。われわれが同時に、当時の時代と環境が生み出した典型的な世代であり、ラディカル化した学生の急進的行動主義を濃厚に表現していたことも事情を一層複雑にしている。基盤が弱いまま走り出したわれわれの運動を、われわれの壮大な理論で厳密に拘束することは不可能だった。何年かにわたって、われわれの「綱領主義」と「急進的行動主義」の間にダイナミックな緊張関係が存在した。

1. 教訓は大事だが、当てはめられるモデルは存在しない

 再評価はしばしば、使い古された理論的公式と具体的な政治的・歴史的分析の間のギャップが無視できなくなったときに行われる。そのような状況が、われわれの革命のパターンの「モデル」についても起こった。1917年のロシア革命はわれわれに、帝国主義国における革命の明確なパターンを提供していると思われていた。問題は、この「モデル」は実際には存在しなかったということである。ロシアにおける社会構造と社会力学は西欧諸国におけるそれと全く異なっていた。革命の過程は都市から農村へ広がるのではなく、女性、労働者、農民を結び付け、そして都市と農村、そして全国的な蜂起を結合した。兵士たちも蜂起し、武器を持ったまま大挙して自分たちの村や地方へ帰った。最も複雑な戦略上の問題(人民をいかに武装させるか)には、非常に特殊な解答があった。ロシア革命は第1次世界大戦と、巨大な常備軍の解体という背景の中で起こったからである。ロシア革命から多くの価値のある教訓が導かれる。しかし、この革命のパターンが世界大戦という枠組によって深く規定されているとすれば、そこから革命のモデルについて語ることはできない。

 マオイスト潮流が中国革命をモデル化したやり方についても同様の問題を指摘できる。マオイストが第3次中国革命(大長征から1949年の勝利までをこう呼んでおこう)について言及する傾向があるのに対して、トロツキストは多くの場合、主に第2次中国革命(1925-27年)について学習してきた。実際には、中国革命の具体的なパターンを理解するための主要なカギの1つは、この2つの時期の間のつながりである。紅軍は大規模な大衆の蜂起と軍隊内の広範な反乱から生まれたのであり、小さな武装宣伝隊が徐々にゲリラ軍へと成長したのではない。それは形成されたときにすでに30万人の強大な軍だったのである! そして大長征は1927-30年の壊滅的な敗北の後、その最大限の兵力を残しておくための行動だった。中国革命からも多くの教訓が導かれる。しかし、このような特殊な経験からモデルを組み立てることはできない。

 私たちはもちろん、種々の革命のパターンを検討するために理論的「モデル」を構築することはできる。そうすることが有益であるかもしれない(私はそれについてはあまり確信をもっていないが)。しかし、そのようなモデルは抽象化されたものであり、直接に当てはめることはできないということを明確に理解している必要がある。これは再評価の2つ目の領域、つまり戦略の問題につながる。

2. 戦略の具体的な性格

 「革命のモデル」というコインの裏側は戦略の問題である。ロシア・モデルは評議会(労働者、農民、兵士)の形成とそれを通じたソヴィエト型の権力システム(ロシア革命の1つの現実)として定義される。非常にもっともな理由で、それが主要な目標であり、社会主義的民主主義に生命を与える方法であると考えられた。 そのため、われわれは戦略を決定する上で、「綱領的決定論」とでも呼ぶべき方法をあてはめた。戦略はわれわれの綱領的目標である社会主義的民主主義を実現するための「ロシア・モデル」(残念ながら、そのようなものは存在しなかったのだが)に合わせなければならないと考えられた。たしかに戦略の選択は綱領によって影響される。しかし、それは他の多くの要因にも影響される(過去の時期における闘争の結果は、それらの中の最も重要な要因の1つである)。

 マオイストの組織は、「社会学的決定論」とでも呼ぶべき方法を発展させた。第3世界の国は、当然にも「半封建・半植民地」であり、持久的人民戦争が必然的に選択される戦略であるという考え方である。そのような一般化された抽象的なモデルを構築するために、彼らは中国革命からその豊かな経験の多くを洗い流さなければならなかった。教訓を学ぶ方法としてはあまりにもひどいことだ。

 われわれが抽象的な戦略の定義から本当に決別するまでに、かなりの時間がかかった。1つの国について、1930年代から1975年までに、いくつかの異なる戦略が次々と採用されるべきだったことは、最初から明らかだったにも関わらずである。この問題について、ベトナムの経験が特に教訓的だと思う。なぜなら、ベトナムでは長期にわたって(1920年代末から1975年まで)闘争が継続したからである。

 われわれは常に、戦術を定義するためには具体的な情勢についての具体的な分析が必要であることを理解していた。われわれはそのことが戦略についても言えることを最終的に理解した。具体的な戦略は一般的に、さまざまな戦略「モデル」の要素を組み合わせ、力関係の変化に対応して進化するものである。こうしたわれわれは「具体的かつ複合的で進化する戦略」という概念に到達した。

3. 女性の運動とエコロジー運動からの教訓

 再評価はまた、組織が新しい分野あるいは新しい形態の闘争の発展に直面したときにも行われた。私の世代にとって、1970年代に、 特に女性の運動とエコロジー運動でそのことが求められた。われわれのごく少数のメンバーが、エコロジー運動の出現に最初から関わっていた。われわれのかなりの数の女性メンバーが、女性の闘争の新しい波に、あらゆるレベルで-政治闘争でも理論構築の面でも-非常に積極的に参加していた。それにもかかわらず、(男主導の)組織そのものは、これらの新しい発展に当初から有機な構成要素として参加するのではなく、それに対応することを迫られた。これらの課題をより積極的に組み込んでいくためには長い時間と多くの混乱を経なければならなかったし、その成功の度合いは不均等である。

 女性の運動とエコロジー運動の両方から、われわれは階級社会と家父長制の関係、生産様式と人間社会と環境の間の関係について新たに考えることを求められた。

4. 予測に基づいた政治は可能か

 誤りが繰り返される場合に、再評価が行われるべきだし、時には実際に再評価が行われている。われわれの間では、「予測」の問題をめぐってがそれが行われた。われわれは予測をもとに政治方針を立てることを何度も繰り返し、何度も失敗してきた。その最も良く知られた例は、前の世代が関わっている「第三次世界戦争」という予測である。これは朝鮮戦争の時期のことであり、このような予測が問題外だったわけでは全くない。問題は、非常に具体的で重大な政治的決定がこの予測に基づいて行なわれたことであり、また、第三次世界戦争がもはや現実の日程に上っていないことが明らかになった後も長期にわたってそのような政治方針が保持されたことである。たということである。前に述べたように、私の世代も間違った予想を立てた。とくに1970年代半ばのヨーロッパにおける階級闘争の激化に関する予想がそれである。

 情勢の発展には非常に多くの要因が関係しているので、予測するのは難しい。それだけでなく、中期的あるいは長期的な予測は不可能である。なぜなら、将来の発展は現在進行中の闘争の結果によって変わるし、現在の闘争の結果は、当然のこととして、あらかじめ知ることはできないからである(それは闘争によって決まる)。私たちは、さまざまな可能性に対して心準備しておくために、将来の発展について自由に話し合うことができる。しかし、現実の情勢ではなく推測をもとに具体的な政治方針を決定するところまでそれを進めてはならない。

 われわれは1980年代に、「予測」を「意識的経験主義」に置き換えてきた。「経験主義」でなければならないのは、新しく現れている動向や、新しく現れている可能性をできる限り早く感じ、組織が変化にすばやく対応し、それを最大限に活用できるようにするためである。「意識的」でなければならないのは、社会的現実を「読解する」ために綱領や理論が強く要求されるからである。これは綱領や理論が重要でないと主張しているのではなく、政治方針が実際の、常に変化する現実を根拠とすること、また、知識そのものが経験的に得られるものであることを強調しているのである。

5. 複数主義についてのより深い理解

 これまでに述べてきた問題の大部分は、われわれの「原罪」のために、われわれが(比較的)弱かった分野に関連している。私が特に興味深いと思ったのは、われわれが(比較的)強かった分野についても、われわれの考え方を再評価しなければならなかったということである。複数主義の問題がそれである。

 1970年代に、われわれは他の多くの潮流と違って、マルクス主義者の運動や労働運動の複数主義的な性格を常に認識していた。この問題に関するわれわれの綱領は、マルクス主義の古典や、20世紀初頭のヨーロッパの社会運動、ボリシェヴィズム、左翼反対派の反スターリン主義の闘争から借りてきたものである。参照するべき文献はたくさんあった。マルクス、エンゲルス、ローザ・ルクセンブルグ、レーニン、トロツキー、その他のボリシェヴィキの思想家たち、チェ・ゲバラ等の「古典」が共通財産として存在し、しばしば引用され、われわれの本棚に並べられていた。また、ほかにもグラムシからルカーチまで、ホセ・マルティからサンディニスタまで広範な文献があった。毛沢東やレズアンの著作を読んでいたのも私だけではなかった。

 このように、われわれは複数の労働者政党が存在しうる(また、実際に存在してきた)こと、そしてマルクス主義の思想にはダイナミックな多様性があることを常に意識していた。われわれはまた、われわれの組織の内部での民主主義的スペースを重視してきた。テンデンシー(潮流)や分派の権利を含めてである。これはわれわれの組織の優れた点の1つだった。しかし、ある時、エルサルバドルにおける革命的組織間の統一戦線の経験を前にして、われわれはこれまで「複数の労働者政党と単一の革命党」という公式(前の世代から継承した考え方)を繰り返し使ってきたことに気付いた。そのとき初めて、われわれは複数主義の概念をさらに拡張して、複数の革命党が存在しうる(また、実際に存在してきた)と主張するようになった。

6. われわれの国際的な展望の重要な変更

 複数主義についてのわれわれの理解の深まりは、より一般的なわれわれの展望の修正に対応している。われわれは前の世代から、国際社会主義運動の概略的な見方を継承してきた。それは3つの極を中心に編成されており、そのうちの2つが改良主義(社会民主主義とスターリニズム)で、3番目が「革命的マルクス主義」(それは基本的にはわれわれ自身を意味していた)であるという見方である。この3つの極の間に、さまざまなタイプの「中間主義」が揺れ動いている。歴史的経験の助けによって、独立的な中間主義潮流と社会民主主義およびスターリニスト党の中の左派がラディカル化し、われわれの綱領の正しさを「発見」し、われわれの隊列に加わるだろう。

 もちろんこれは1950年代の遺産を過度に単純化した記述になっているが、私はこの記述が何か基本的に正しいことに触れていると考えている。多くの同志たちはこのような歴史的な図式をあまり快く思わなかった。ここで言う「3つの極」のうちの2つは物理的に非常に強力であり、強力な吸引力を持っていた。革命的マルクス主義の吸引力は基本的には「綱領的」なものだった。それは前二者と同じ平面の中では作用しなかった。「中間主義」という概念は、ある種の状況の中では非常に有益だった。しかし、それはあまりに広い範囲に及んで-たとえばベトナム共産党のような、自身の闘争の中で非常に一貫した立場を堅持していたような党にまで-適用されると、意味を失った。

 当時、革命運動の複数性は十分に認識されていなかったか、あるいは1つの過渡的な段階として考えられていた。まさにこの点で、われわれの展望が変更された。革命の経験は非常に複合的である。あまりに複合的であるため、特定の綱領の「正しさ」が明らかに証明されるようなことはない。今では、革命運動の複数性は持続的な現実であり、やむをえない選択としてではなく、肯定的に取り上げられるべきであると考えられるようになった。そのことはわれわれが革命勢力の統一のために闘うべきでないということを意味しない。それが意味することは、われわれがラディカルな党派間の関係、あるいは1つの統一した政党の機能について考えるときに、この問題を十分に考慮に入れるべきだということである。

7. 「開かれた歴史」という考え方

 われわれの歴史観も変化した。われわれは前の世代から(そしてマルクスから!)、歴史の「直線的な発展」という考え方や、社会民主主義とスターリニズムに共通するこの問題についての支配的な言説に対する批判を学んできた。しかし、われわれは歴史の複線的な性格は過去における事実であると考えていたフシがある(そのようにはっきりと言ったわけではないが)と私は感じている。生産様式をめぐる議論の中で示されたように、人間社会はいくつかの異なる発展過程をたどってきたのであり、ヨーロッパの発展過程が普遍的であるわけではない。しかし、帝国主義と資本主義世界市場の統一は新しい時代を開いたのではないか?

 1980年代に、われわれは生産様式をめぐる討論をさらに進めた。われわれは「開かれた歴史」という概念を取り入れた。そこでは将来は決定されておらず、危機の時期に「歴史的十字路」がいくつかの(限られた数の)可能性に道を開く。強い制約が存在するが(社会経済的制約や環境の制約など)、どの可能性が現実となるかを決定する上で、社会的闘争が独自の役割を果たす。革命組織は抽象的な「歴史的必然性」ではなく、そのような可能性に着目しなければならない。

 歴史観と関連し、ジェンダーやエコロジーの考え方も援用して、われわれは「進歩」という伝統的概念、あるいは資本主義的生産関係と権力によって押し付けられた価値観への批判も取り入れた。

8. どのマルクス主義、どの政治?

 このようなさまざまな再評価(ここで取り上げなかった点もある)から、1つの一般的な傾向が明確に現れた。

 理論の領域では、われわれは単純な還元論的でない、弁証法的なマルクス主義の概念を発展させようと、これまで以上に努力してきた。これはマルクス主義や階級分析を薄めることを意味しない。私の友人であるダニエル・ベンセードは、「モダニティー」に名を借りた反マルクス主義的な理論の台頭に関連して、「開かれたドグマティズム」の立場に立つ権利、すなわちマルクス主義の基本的な教訓を擁護しつつ、それを広範な現実に向けて開放していく権利を主張した。

 行動の領域では、われわれは政治が理論や綱領から単純に演繹されないことを深く認識した。政治が意識というものと深く関わっていること、また、「具体的状況の具体的分析」(もちろん、レーニンのモットーだった)によって媒介されることの決定的な重要性を認識した。われわれは1960年代にすでに、知識は実践(社会的実践)によってもたらされると考えていた。この確信が一層深まったのである。

 25年ほどの間に、われわれは多くの点で変化した。他の革命的運動も変化した。われわれがどのように変化したか、あるいはわれわれがその変化をどのように理解しているか(これは必ずしも同じことではない)を比較することは有意義だろう。この点について認識を共有できれば非常にうれしい。

 もちろん、一部の組織は、何の変化もなかったし、変化の必要はなかったと言い張るだろう。「正しい路線」は永久的なものであり、それは30年前も彼らと共に会ったし、今日でも彼らと共にあると言うだろう。それは彼ら自身の歴史についての反省の欠落を表しているかもしれない。もっとありそうなことは、そのような絶対的確信が政治的衰弱とセクト主義化という否定的な過程を隠蔽しているということである。

 ここで述べた再評価をめぐって、依然として議論が続いている。それは私の世代には不均等に受け入れられている。もっと問題なのは、それが新しい活動家の世代には無視されるかも知れないことである。なぜなら、この世代は私たちの世代とは非常に異なった方法で自己を主張しているからである。

第3章 1990年代半ばから現在まで

 私の世代の活動家は、1960年代半ばから1970年代半ばまでの時期に活動を開始し、1990年代半ばまで政治の枠組みを形成する位置にあった(1980年代に活動を開始した人たちはそのことに苛立ちを募らせたことだろう)。急激な世代交代は1990年代半ば以降に起こった。多くの点で違いがある。政治的には、新しい世代は冷戦の時代を経験していない。この世代はソ連圏の解体と資本主義的グローバリゼーションの時代の子である。彼ら・彼女らが依拠する経験は、私たちのものとは異なっている。ロシア革命から、キューバ、ベトナムに到るまでの諸事件は、彼ら・彼女らにとっては歴史上の事実であり、自分たち自身の(想像力が及ぶ)歴史、自分たち自身のアイデンティティーの一要素-私たちにとってはそうであった-ではない。伝統的なイデオロギー的「ラベル」は、小さな少数派以外の人たちにとっては、その妥当性(常に相対的な意味でだが)の大部分が失われている。

A. 政治とのかかわりの変化

 フランス(や他の多くの国)で起こっていることをどの程度一般化できるかわからない。しかし、全体として現在の活動家と組織活動の関係は、私たちの世代のそれとは異なっている(もちろん、同じ世代の間でも違っているが)。1960-70年代には、あらゆるタイプの組織(労働組合から政治党派まで)が、大衆運動の拡大と軌を一にしてメンバーを獲得し、成長した。現在では、そのようなことはあまりなくなっている。多くの若い活動家は、よりインフォーマルなネットワークを通じて連絡を取り合い、党派に入るときでも「政治の優位」から自分たちの生活の他の領域を守ろうとする傾向にある(私たちの世代の場合、生活のすべての領域が政治活動の枠組に組み込まれていた)。

 今日のヨーロッパでは、私たちが30年前にやったような方法で革命的組織について語ることはむずかしい。今日ではラディカルな党派のメンバーの日常生活も、改良主義政党のメンバーのそれとそれほど変わらない。単に、ラディカルな党派のメンバーは新自由主義や戦争政策に対して終始一貫して闘い、改良主義政党のメンバーはそうでないということだけである。ラディカルな労働組合運動が刑事犯罪のように扱われ、反テロの名の下で残されていた市民的自由が急激に侵食される中で、事情は変わりはじめている。しかし、それでも国家の暴力は政治活動に対してというよりも、主要に都市貧困層の青年たちに向けられている(例外的に、ジェノバにおけるG8反対のデモに対するベルルスコーニの血塗られた弾圧のようなケースもある)。

B. 戦略の問題への対応

 私の世代は、活動を始めたときから戦略をめぐる論争に飛び込んだ。古い組織と新しい組織が、現在の方針についてだけでなく、戦略のレベルの問題について論争した。私たちの多くは、このような論争のいずれかの側を選ぶことによって政治活動に参加しはじめた。今はそのようなことはない。分岐の具体的な境界線は、戦略そのものとは別のレベルに設けられている。グローバリゼーションと対決するべきか、それともグローバリゼーションに社会的な様相を与えるべきか、あるいは中道左派政権に参加するべきか、それとも独立した左派の極を確立するべきか、という問題をめぐってである。

 そのことは、戦略に関する再評価は現在は考えられないということを意味しない。グローバルな公正を求める運動の発展とともに、戦略のいくつかの要素について新たに考えることが可能になった。たとえば、革命の主体の複数性や、どのような闘争の組み合わせが社会の革命的転換の開始につながるのか等の問題についてである。これはそれ自体で非常に重要である。しかし、戦略についての論争を全面的に再開するためには、所有制度や国家などの問題も真正面から取り上げなければならない。所有制度の問題は、とくに「共有財」や公共サービスの問題をめぐって、広範に取り上げられはじめている。しかし、国家や暴力の問題に関する限り、問題はもっと難しい。

 この最後の問題は私たち自身のラディカル化においては中心的な問題だった。たとえば1973年のチリにおけるピノチェトのクーデターの後、国家の階級的性格について、また、国家機構の改良か解体かをめぐって激しい議論が起こった。現在では、党の教育プログラム以外ではこのような問題が議論されることはほとんどない。あるいはトニー・ネグリのような、どちらかと言えば古い人々によって、典型的な現実逃避的方法で取り上げられている。この状況はもちろん、私たちにとって国家権力の問題や支配階級の武装解除の問題について、新たに言うべきことはほとんどないという事実を反映している。この分野に関する再評価において空論を超えて進むためには、私たちはおそらく、まだいくつかの新しい歴史的経験を必要としているのだろう。それは米国の軍事的占領下にあるいくつかの第三世界諸国の経験だけではない。

 おそらく、ここにこそ私たちの古い、衰退しつつある世代の最後の責任の1つがある。戦略の問題が再び運動全体の中で共有されるための基盤を、可能な限り早く、用意することである。

C. 土台からの再建の時期

 どのように刷新するのか? 私たちは1980年代から1990年代半ばにかけての後退からの再建の時期に入っているだけではない。社会主義が依拠してきた基盤の危機の深さ(社会民主主義とスターリニズムの失敗と裏切りによる)のために、私たちはヨーロッパにおいて、ラディカルな(そして潜在的には革命的な)計画の土台からの再建の時期に入っている。 他のいくつかの地域でも、そのことを確かに言うことができる(たとえばラテンアメリカ)。

 確かに、かつて正しかったことの多くは、現在でも依然として正しい。資本主義が厳然と存続しているということは、それに対するマルクス主義からの批判は依然として十分に有効だということである。しかし、土台からの再建の過程は、単なる再建の過程よりも底が深く、より複雑である。古い真理を新しい方法で再吸収する必要がある。また、「新しい真理」を発見しなければならない。土台からの再建は、単なる(古い真理に再び生命を吹き込むための)教育ですむことではない。再検討することが、その重要な要素となる。

 私たちにとってのチャンスは、自由主義的・資本主義的グローバリゼーションに反対し、戦争に反対する運動の拡大が、そのような再建と再検討の両方の作業を助けるということにある。それは新しい世代にとっては、共通の世界規模の「原体験」となっている。それは1960-70年代のラディカル化よりも広い社会的基盤に根付いている(1968年5月のフランスの闘いがこの国での歴史上最大のゼネストをもたらし、いくつかの第三世界諸国の闘争は深い根を張っていたという事実にも関わらずである)。政党と社会運動の間の新しい関係、より対等な関係がテストされている。さまざまな人々を結びつける新しい方法が試みられつつある。

 グローバルな公正を求める運動は、特に社会フォーラムの過程を通じて、1つの枠組を作ってきた。そこでは1960-70年代の世代が新しい世代と出会うことができる。それは対話と交流のためのスペースであり、同時に闘争とキャンペーンを共同で作り出していくためのスペースである。それがラディカル左翼がこうした過程に全面的に参加するべきである多くの理由の1つである。

第4章 いくつかの「緊急の課題」について

 このセミナーの主催者は、このテーマの中で議論するべきいくつかの「緊急の課題」をリストしている。その中のいくつかの課題について、簡単にではあるが、立ち戻ってみよう。革命的左翼の歴史的な記録が尖鋭でしかも自己批判的な方法で検討される必要があるという意味でも、それらの課題は重要である。これはラディカル左翼のすべてのイデオロギー潮流(私の党派も含めて)にあてはまることである。

 経験からいかに学ぶのか? 私は、失敗する確率が非常に大きかった闘争の成功に学ぶことは特に興味深いと思う。たとえばフランスと米国の侵略に対するベトナムの抵抗闘争がそれであり、中国革命のいくつかの転換点にもそのような例がある。私はまた、後退が敵の力によってではなく私たち自身によってもたらされたような時に、私たち自身の失敗について反省することも興味深いことだと思う。

 私はここまでヨーロッパのラディカル左翼のさまざまな面と、その進化の過程を示そうとしてきた。このセミナーでの報告の最後の部分では、われわれがフィリピンの経験からどれほど学んだかをお話したい。そして「緊急の課題」の中でも最も緊急を要するいくつかの課題についての討論を共有したい。

A 闘争の形態

 このレポートが1980年代初めに書かれていたとすれば、それはわれわれがフィリピン人民の闘争から学んだ多くの肯定的な教訓を中心にしていただろう。それはわれわれにとって、歴史の教科書からではなく直接の交流から学ぶことができる同時代の経験として、いっそう興味深いものだった。したがってフィリピンの経験は、ラテンアメリカの同時代の経験と共に、われわれのアムステルダムの国際的な学校(学習・研究センター)での再評価のための集団的な作業の素材となった。

 それはもちろん、さまざまな闘争形態の相互関係の変化をめぐる論争や、特定のセクター(分野)に対する組織化と綱領(農民、都市貧困層など)のさまざまな経験に関係している。それはヨーロッパ諸国にもあてはまる重要な問題を含んでいる。ここでは2つの例を挙げよう。

1 地域的な大衆闘争という形態

 ヨーロッパ諸国では(少なくともフランスでは)、「地域ストライキ」や地域をベースにした大衆闘争の伝統はほとんどない。労働組合は企業の外の社会運動や市民運動と連携することに慣れていない。そのような形態の組織化や闘争を発展させることがますます必要になっているにもかかわらずである。地域社会フォーラムは労働組合と広範な運動の間の連携を強化するための枠組を提供した。しかし、この分野での豊かな経験が見られるのはインドやフィリピンのような第三世界諸国である。それは「ウェルガン・バヤン(民衆的ストライキ)」として知られている。

2 コミュニティー間の連帯

 資本主義的グローバル化と、運動を統一する社会主義的展望の危機という枠組の中で、フランスの大衆的「コミュニティー」の間で新たな分裂が始まっている。それとの関係で、これは私たちが直面している非常に新しい問題である。いくつかの問題は、正当に提起されている場合でも、進歩的運動自体を分裂させ、時にはすべてのレイシズム(反アラブ、反黒人、反ユダヤ)に反対する1つの共同のデモを組織するのがむずかしくなるほどになっている。あたかも、ある人たちにとって、反レイシズムの運動の中に上下関係を確立し、コミュニティー同士を対立させる必要があるかのようである。ミンダナオの経験は、より厳しい状況の中で、コミュニティー間で「3つの民族」(イスラム系、非イスラム系、先住民)の連帯を追求することが可能であることを示す多くの例を提供している。

 このレポートは2005年に書かれたので、私たちは残念ながらフィリピンの革命的闘争の最も輝かしい側面からではなく、最も暗い側面から学ぶことを余儀なくされている。

B 1980年代の粛清が提起した問題

 共産主義運動あるいはスターリニストの運動は多くの血の粛清を知っている。それらは分派的・政治的な動機によるものであり、しばしば社会的基盤(官僚体制)に根ざしており、権力欲を反映してきた。1980年代にフィリピン共産党内で起こった粛清の特殊性は、その規模にではなく、その誇大妄想的で自己破滅的な性質にある。おそらくほかにもこれに似た事例はあるだろう(1945年にベトナムで、もっと小さい規模だったが同様のことが起こったと言われている )。しかし、私たちの多くは、この種の内部粛清に初めて直面した。それはどのようにして起こりえたのだろうか?

 そのような設問に対する答えは、必然的に多様である。そのいくつかは明白である。背景として、フィリピン社会における長期間にわたる軍事化と、内戦の暴力の影響があった。共産党のリーダーたちは「例外的な場合」に拷問を容認した。共産党内で軍のスパイを摘発するために拷問が広く用いられるようになった。そのことが、粛清が膨大な規模に広がり、何千人もの誠実な活動家が殺害されるに到った事情の多くを説明している。また、拷問が容認されていたという事実そのものが、基本的人権の普遍的な性質がフィリピン共産党の伝統の中で本当には認識されていなかったことを示していると言えるだろう。党員がたやすくスパイの容疑をかけられるということは、党内に民主主義的な政治的・組織的文化が欠けていたことを示している。このほかにもさまざまな説明が可能である。

 ここで危惧されることは、表面的な説明で終わってしまうことである。それは私たちが最も慣れている、伝統的に「政治的」であるとみなされてきた説明である。この種の説明は重要であり、必要であるが、私はそれが唯一の合理的な説明であるとは思わない。尊敬に値するような人たちや献身的な活動家が拷問者となるよう強いられるということが、そのようにして可能だったのか? 同じ共産党の地域委員会でも、いくつかの州で粛清が大衆基盤にまで拡大し、大規模になったのに対して、他の州ではそうではなかったのはなぜか?

 このような設問に答えるためには、もちろん、粛清に関する真実を知る必要があり-それはまだ十分には知られていない-、また、さまざまな場所の具体的な歴史を知る必要がある。そのためにはPATH(「真実と癒しのための平和擁護者たち」、粛清の被害者や家族を中心とするグループ)の活動は積極的な支援に値する。また、ボビー・ガルシアがその非常に価値のある著作で取り上げている、より「心理学的な」問題も考える必要がある(注1)。党との関係のあり方も、全体的な背景の一部である。私がこの悪夢を生き延びた活動家たちに「拷問せよという命令が実行されるということがどのようにして可能だったのか」と質問したとき、さまざまな答が返ってきた。政治的な説明についてはすでに述べた。誇大妄想の気分が支配していたこと、すごく怖かったこと(命令に反対すると自分が疑われてしまう)等々。しかし、私が強く印象付けられたのは、「そのような命令に従うことが私たちの党への忠誠心の最高の証明だった」という説明である。最高の忠誠心は党にではなく人民に向けられるべきではないのか? また、党への忠誠心とは、そのような命令を受けたときに党のリーダーに反抗する権利を意味するのではないのか? 付け加えれば、少なくともいくつかのケースでは、州のリーダーがある限度を超えて命令を遂行することを拒否したという事実もある。

C フィリピン共産党はどうなったのか?

 私はこの問題について、フィデル・アグカオイリ(フィリピン共産党・NDFのヨーロッパ代表部)の「反批判」に対する回答の中で取り上げている。私の回答の中の関連する部分を「付録」として再録している。ここでは次の点だけを強調しておきたい。

– 1992年以降のフィリピン共産党の推移は類例のないものでもないし、ありふれたものでもない。われわれにとって、この種の堕落に到ったメカニズムと過程を理解することは非常に重要である。そのためにはそのような党とその革命的闘争の歴史に関する詳しい知識が必要である。カンボジアのクメール・ルージュの場合にはそのような知識は入手できない。フィリピンの場合には入手できる。だからフィリピンの(苦痛に満ちた)経験は特別の重要性を持っている。

– ここでも、私たちは表面的な説明(フィリピン共産党のマオイスト型スターリニストの伝統、社会と革命運動の軍事化の影響等)で満足するべきではない。このような過程を独自的に分析し、深く理解するためには、さまざまな角度からの分析を組み合わせる必要がある。私たちはマルクス主義の「還元論的でない」力関係の分析方法を駆使して、さまざまな分野の知識のさまざまな要素を結びつける必要がある(ジェンダーの問題でもそうだったように)。

– 私たちは最初の社会民主主義の堕落(1914年の裏切りに到る)を経験し、次に革命の勝利後のスターリニストの堕落を経験し、現在フィリピン共産党の堕落を経験している。堕落は次々と重なり合っている。それらはすべて、「内部からの危険」の重大さを示している。いかにして革命運動そのものの中から、そして革命的闘争の内部から、社会的・政治的な反革命的傾向が成長しうるのかを示している。

D 古典に戻る: 自己解放の過程としての革命

 ここで挙げた3つのタイプの堕落の過程のすべてにおいて、党(または党と一体化した国家)が自身の社会的基盤の上位に立ち、その力を自身の社会的基盤に対して向けるようになった。したがって、いかにして革命党をコントロール下に置くかという問題が提起される。この問題に対する1つの基本的な答えは、(個人および集団の)自己解放の過程としての革命という古典的マルクス主義の概念に、(再び)そのすべての意味を付与するということである。

 この原理を自明のものと考えずに、そのすべての含意を見ておくことが重要である。それは次のことを含んでいる。

– 党は統治機関ではない。それは代議制に基づく人民の機関に代わることはできない。
– 自己決定は現時点から、闘争を進める方法そのものから始まる。それは権力奪取後のいずれかの時点で提唱されるようなものではない。これはもちろんルマド(ミンダナオの先住民)やイスラム教徒にとっても同じである。
– 同様に、自分たち自身の組織化が奨励される。すべてのセクターにおいて自己決定の民主主義的過程を拡大するべきである。
– 自衛は依然として革命的軍事行動を正当化する唯一の根拠である。必要なときに、武装闘争は大衆組織と大衆動員を防衛し、支援することを目的として行われる。その逆ではない。政治的には武装闘争は従属的な闘争形態である。
– 人民の運動および社会(のさまざまな階層の民衆)が複数存在することを、大衆的民主主義の必須の要素として認めなければならない。
– 革命党は特定の(不断に進化する)役割を持っている。それは社会の指導的な集団ではないし、そうなってはならない(この問題については下記を参照されたい)。

 むずかしい問題は、自己解放の過程としての革命とはどういう意味かではなく、それをさまざまな闘争や弾圧の条件の中でどのように実践するかである。フィリピンの経験はこの問題において啓発的である。

E マルクス主義の責任かマルクス主義者の責任か

 かつて共産主義者だった人たちを含めて一部の人々は、マルクス主義や階級分析こそが社会主義のための闘争の多くの失敗や革命の名において犯された犯罪に責任を負っていると考えている。私はむしろ、「教義」を悪者にするのではなく、マルクス主義者やその組織の責任を見ておくべきだと考えている。

 すでに資本主義は長い歴史があり、その中でそれが実際に搾取的な生産様式であり、非常に非人間的な結果をもたらすことが証明されている。私たちは今日も、昨日と同様に、資本主義に対する深い、批判的な理解や、社会の転換を構想する枠組を必要としている。この点でマルクス主義はこれまでも現在も、基本的な道具である。しかし、マルクス主義は「完成した」教義であったことはないし、おそらく決して完成されないだろう。20世紀に現れたいくつかの傾向は、マルクス主義の革命的で自己解放的な内容に対する全くの裏切りを代表した(ここでは「現代」社会民主主義とスターリニズムのことを言っている)。しかし、他の多くの傾向は、マルクス主義の生きた歴史に結びつけることができる。

 20世紀の闘争のバランスシートを作成し、教訓を導き出そうとするとき、このマルクス主義の遺産の多様性、マルクス主義の複数存在を考えに入れておくことが非常に重要である。フィリピンでそうすることは少しむずかしいかもしれない。「民族民主主義」の伝統があまりにも支配的だからである。大部分の人々は、他の傾向の豊かな経験を無視してきた。1つの例を示そう。これは風変わりなことに見えるかもしれないが実際はそれほど風変わりではない(この部分は、セミナーで行った報告に加筆した)。

 セミナーが終わった後、私はナショナル・ブックストアーへ買い物に行った。注意深くカギがかけられている本箱の中に、セックスの楽しみ方を説明する本に混ざって、ジョジョ・アビナレスの「愛とセックスとフィリピンの共産主義者」(注2)という本が置かれていた(楽しい、特別な、あまり知られていない共産主義的なセックスの方法を知りたいと思ってこの本を買う人は気の毒だ)。この本の第7章でジョジョはフィリピン共産党のセックスに関する教義を、西ヨーロッパやアジアの他の党のそれと比較している。そこで取り上げられている理論はすべてが「公式」の理論であり、あたかもそれだけが「マルクス主義」を代表しているかのように述べられている。ジョジョはこの章の内容を発展させる時間がほとんどなかったようだ(他の点では非常に興味深い研究なのだが)。彼は、マルクス主義者の文献の中に見られる断絶の深さとその意味を示す良い機会を失った。

 フランスの1960年代の運動は、何よりも、支配的な道徳の偽善に対する青年たちの反乱だった。私たちは、多くの不利な条件に抗して、セクシュアリティーの権利のために闘った。「新左翼」はフランスのスターリニストの共産党の道徳主義的で保守的な立場に対して激しく論争した。もし私たちが、革命運動は婚姻前のセックスを禁止しており、規則を破った者は5年間の禁欲を申し渡されることがあると告げられていたら、私たちは笑っただろうし、当惑しただろう。政治的に正しいのは、結婚しないことだった。1970年代に女性解放運動が家父長制家族に対して真正面から闘争した。中絶の権利はまだ実現が遠かった。私の世代の多くの女性たちは、それが違法とされていたために高い費用を払っていた。その当時、新しいホモセクシュアルの組織も政治的にラディカルであり、資本主義と家父長制に対する運動を組織していた。

 どのようにして自由を、ジェンダーの平等の中で勝ち取るのか? 私たち(男)が当時、多くの誤りを犯したことは確かだ。私の世代の活動家にとって、ホモセクシュアリティーを本当に理解するためには時間がかかった。しかし、このようなセクシュアリティー、道徳、婚姻の問題をめぐる青年、女性、ゲイ、レスビアンの運動は自由と解放のためのグローバルな闘争の構成要素だった。私たちの大部分は、それを社会主義のための闘争の不可分の一部であると考えていた(現在でもそう考えている)。政党の役割はこのような問題に対してルールを決めたり、自分たちの基準を押し付けたりすることではなく、個人の自由な選択と自己実現のための条件を作り出すために貢献することである。

 フィリピン共産党はルールを決めた。それも非常に道徳主義的なやり方でである(運動の中に多くの聖職者がいたことも影響していると私は思っている)。それにとどまらず、この党は恋愛や婚姻を組織したし、常に個人間の関係に立ち入った。そうすることによって党は政治組織の役割をはるかに越えて、国家、教会、さらには大家族の機能を取り込んだ! このようなメカニズムを通じて党(指導部)は自身を社会の指導的な集団(「前衛主義」をはるかに超えたもの)であるとみなしはじめたのである。

 われわれはどのような党の建設を目指すのか? この基本的な問題が再び提起されている。

 私たちはフィリピン共産党(の指導部)の道徳主義的で役人的な振る舞いや私たちの自由主義的な伝統を「マルクス主義」のせいにするべきではない。また、確かに文化的差異は存在するし、それは必然的に政治的なパターンに影響を及ぼすけれども、すべてを文化的差異に還元するべきでもない。ほぼ同じことが、他の理論および行動の分野にも言える。私たちはみな、政治的選択を行ってきた。私たちの世代はその選択を再評価するべきときである。そうすれば私たちは「マルクス主義」について、その多様性を考慮しつつ、より完全なバランスシートを作成できるかもしれない。

F 民主主義についての考え方を刷新する必要

 繰り返し再考しなければならないのは党の問題だけではない。特に民主主義の問題、より正確に言えば革命的な計画の中での民主主義の位置付けの問題についても同様のことが言える。

 古典的マルクス主義の枠組は依然として正しい。社会主義は資本主義よりも民主主義的なものになるだろう。そうでなければ社会主義は実現しないだろう。民主主義は、経済的権力が少数の支配者に独占され、社会的不平等が拡大している限り開花できない。市民的自由や政治的権利は、社会的関係や権力関係のより平等な方向への転換と同様に、民主主義の1つの条件である。民主主義は生産の領域の中にも浸透しなければならない。

では、何が新しいのだろうか?

 第1に、過去における失敗とスターリニズムの恐ろしい残滓。社会主義的な計画の民主主義的性質がもう一度実証されなければならない。

 第2に、ブルジョア民主主義の危機。資本主義的グローバリゼーションは、伝統的なブルジョア民主主義からその中身を取り除いてしまった。たとえば、WTOは選挙で選ばれた議会よりも上位に立ち、事実上の立法権を持っている。

 この2つの理由により、民主主義の問題は私たちの闘争にとって、これまで以上に中心的な位置を占めている。

 ブルジョア民主主義の危機のために、民主主義的要求はこれまでよりも直接的に体制変革的になっている。

 社会主義的計画の危機のために、私たちはこれまで以上に、日々の実践の中で、私たちが人々の民主主義的権利や、大衆組織のメンバーの権利や、党員の権利を尊重していることを示さなければならない。これは実際、今日の革命派の主要な責任の1つである。それは社会主義の民主主義的性質について、すべての結論を引き出すことである。

G 結論: 今日のインターナショナリズム

 20世紀の革命的闘争からの、そしてもっと限定的には私の世代の活動家の成功と失敗からの教訓は1つの国や地域の経験から、あるいは1つの政治的傾向の経験からだけでは導くことはできない。

 これが私たちがラディカルな党派間の協力の国際的枠組を必要としている多くの理由の1つである。

 この枠組はまだ存在していない。考えてみれば、それはむしろ奇妙なことである。資本主義的グローバリゼーションの時代にあって、インターナショナリズムは、議論を進める上でも行動するためにも、これまで以上に必要とされていることは明白だと思える。ほとんどのタイプの組織が広い国際的ネットワーク(官僚的である度合いや活発さの程度はさまざまだが)の一部となっている。労働組合、農民運動、女性、NGO、社会民主主義政党等のネットワークである。もちろん、多くのトロツキスト組織が1つのインターナショナルに属している。これはその歴史、綱領的文献、政治的伝統の中でインターナショナリズムが重視されてきたことの成果である。しかし、このようなインターナショナルは、もっともよく組織されている場合でさえ、今日必要とされていることに対応するためにはあまりにも範囲が限られている。10年ほど前に、いくつかのより広範なネットワークが形成された。ヨーロッパ反資本主義会議や、アジア太平洋国際連帯会議などである。それは価値のある前進であるが、これらのネットワークも依然として地域的であり、その結びつきを共同の行動や共同の綱領の検討を進める能力に転化するという点では遅々としている。その最も新しい試みがラディカル政党の国際ネットワークである。これは2004年の世界社会フォーラムに合わせてムンバイで最初の会合を持った。ここでも、異なる大陸の、異なるイデオロギー的傾向からを持つさまざまな反資本主義的政治組織の間の協力のための共通の枠組への希望が明確に表明された。しかし、この希望を現実に転化するのは非常にむずかしいことだと思われる。

 当面、あまりに多くのことを決定しようとせず、そのような方向に向けていくつかのステップを踏み出すことが非常に重要であると思われる。

(1) Robert (“Bobby”) Francis Garcia, “To Suffer Thy Comrades. How the revolution decimated its own(「同志を犠牲に-革命はいかにした自滅したか」)”, ANVIL, Manila 2001.

(2) Patricio (“Jojo”) N. Abinales, “Love, Sex, and the Filipino Communist(「愛とセックスとフィリピンの共産主義者」)”, ANVIL, Manila 2004.

付録

フィリピン共産党はどうなったのか?

 1980年代半ばに、フィリピン共産党にはいくつかの進化の方向がありえた。その証拠として、実際にこの党のさまざまな構成要素が非常に異なった方向へ進化した。党の指導部の多数派が悪い方向へ進化してしまったのには多くの原因がある(主要な原因は、1980年代の誇大妄想的な粛清によって深い士気阻喪が起こっていたことかも知れない)。私の理解では、本格的な堕落が起こったのは1990年前後である。このことが深く理解される必要がある。それはどのようにして起こったのだろうか? 私はこのような問題にすべての答を持っているわけでは全くないが、この問題を取り上げるために時間は十分に経過していると思う。私はここで、最初の、非常に個人的な分析の一端を示しておきたい。

 革命的マルクス主義の観点から言えば、私たちは過去に、社会民主主義の労働運動の変質(1914年の裏切りに到る)について、また、その後はスターリニズムについて理解しなければならなかった。最初の堕落の過程は基本的には簡単に説明できた。そのメカニズムや範囲について多くの論争があったが、堕落は労働運動の上層機構における官僚化と社会的エリート層との協調によってもたらされた。2番目の過程(スターリニズム化)については、それよりもはるかに説明が難しかった。なぜなら、それが歴史的に新しい状況、非資本主義的過渡的社会の中で起こったことだからである。官僚化が国家の中から進行し、それが新しい非常に特殊なタイプの、社会的エリートによる官僚制を生み出すということが、なぜ起こったのかを理解するのは時間がかかることだった。

 私たちが現在直面しているのは、3番目の、これまでとは異なる過程である。これはブルジョア的な社会的エリートとの協調に向かっているわけでもなく、過渡期社会の国家の中で起こっていることでもない。それはある種の独裁的な権力構造を生み出したが、それに伝統的な階級の定義をあてはめるのは難しい。私がこの種の問題に初めて直面したのは1975年、ポル・ポトのクメール・ルージュについてだった。ポル・ポト派は権力を奪取する前に形成され、カンボジア共産党の支配権を握った(ベトナムとの結びつきがあったすべての活動家を殺害することによって)。権力を取って最初に行ったことが既存のプロレタリアートや半プロレタリアートを解体することだったような党がプロレタリアートの党だったと言えるだろうか? その後まもなく農民を強制労働に追いやったような党が農民の党だったと言えるだろうか? 資本主義経済のすべての要素を(通貨を含めて)破壊したような党がブルジョアジーの党だったと言えるだろうか?

 1970年代であれば、われわれはクメール・ルージュの現象は特殊であり、カンボジアが米国の介入によってインドシナ戦争に巻き込まれたことに関連する特殊な歴史的条件によるものだったと考えることもできただろう。しかし、現在ではもっと大きな流れが存在しており、それはおそらくペルーのセンドロ・ルミノソ(「輝ける道」)や今日のフィリピン共産党に体現されている。これは階級支配の暴力性(国内的にも国際的にも)とその帰結(軍事化)が背景になっている。武装闘争がその枠組を形成している(武器と資金の支配が、新しい権力構造の形成を可能にしている)。そして従来の堕落の過程と同様に、社会的基盤からの断絶が、組織の構造そのものの変質をもたらした主要な要因の1つとなっている。しかし、何が起こったかを理解するためには、われわれはもっと深く分析する必要がある。通常は武装闘争は「自由な選択」によるものではなく、支配階級の暴力に対する自衛の行動である(そのことによって正当性が与えられる)。多くの武装グループはセンドロ・ルミノソやフィリピン共産党のようには堕落しなかった。堕落した場合、一般的には盗賊団に変質した。それに対して、フィリピン共産党の場合、依然としてイデオロギーがその基本的な結集軸になっている。

 フィリピン共産党に加わった活動家たちは、「人民に奉仕する」ためにすべてを擲った(学歴・職歴、家族等)。同じ活動家たち(正確に言えば、同じ活動家たちの一部。1980年代初期のフィリピン共産党の党員の大部分はもはや党に残っておらず、多くの人たちは別の方向へ進んだ)が今では、人民の組織に自分たちの権力を押し付けている。単なる「前衛主義」をはるかに超えている。このような党は自身を社会の中の指導的集団として確立した。そのような変質はどのようにして起こったのか? そのような変質が起こった党と起こらなかった党、あるいは同じ党の中でそのような変質が起こった機関と起こらなかった機関の違いは何か? この過程で、どの要素が継続性を保っており、どの要素が質的に変化したのか? それに答えるには、それぞれの党の軌跡を、そのイデオロギー、政治スタイル、組織、社会的基盤等と結び付けて非常に具体的に分析する必要がある。また、理解するための理論的枠組が必要とされる。

 「古典的」マルクス主義と「階級分析」は、この理論的枠組の基本的な部分となる。つまり、社会の革命的転換は、何よりも自己解放の過程であり、それは人民が自ら組織し、自らイニシアチブを発揮することを含意している。革命運動の内部における堕落の危険を抑制するために、この自己解放の過程を再び思想、政治、戦略、闘争の中心に据えなければならない。しかし、現象の内部的構造にまで分け入るためには、私たちは他の要素の分析を付け加えなければならないと私は感じている。たとえば、より詳細な社会分析(ラディカルな知識人層の変化等)や、社会心理学から借用した要素(社会基盤から切り離された個人の変化等)、ジェンダー研究における権力関係についての分析等である。たしかに、このような問題について多くのことを議論できる。しかし、この問題を深く理解し、私たちの運動や闘争の中から発展しているこの新しい独裁支配の形態に対する適切な対応方法を見つけることは緊急の課題である。

 フィリピン共産党は人民の上位に立っている。同時に、多くの人々にとってこの党は依然として階級に基盤を置く革命党である。この党が率いる大衆組織は人民の運動の一部である。それは進歩的な統一戦線政策の対象に含まれるべきである。そのことを忘れてはならない。しかし、この種の複雑さは新しいことではない。私たちはすでに、社会民主主義やスターリニストとの関係で、そのような複雑さに対応することを必要とされてきた。
(ピエール・ルッセ “Philippines: on the CPP-NPA-NDF assassination policy, What can we learn from Fidel Agcaoili’s “Rejoinder”?(「フィリピン:CPP-NPA-NDFによる暗殺方針について-フィデル・アグカオイリの「反批判」から学ぶべきこと」)、「インターナショナル・ビューポイント」誌367号(2005年5月号)所収より抜粋)

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