パリコミューン–150年

かけはし第2663号 2021年4月26日

フランス オリヴィエ・ブザンスノーへのインタビュー

 パリ・コミューン150周年にあたって、オリヴィエ・ブザンスノーとミシェル・レヴィが『マルクスのパリ1871年:ジェニー白書』を出版した。この機会に、オリヴィエ・ブザンスノーに話を聞いた。

マルクスの着想
への独創的接近


――この本では、あなた方はかなり独創的な形式を選んでいる。つまり、政治小説という形で、コミューンの期間中にマルクスがパリを訪問したときの様子を描いている。なぜこのような選択をしたのか?

 レヴィとの討論の結果、そのようになった。最初にアイデアを出したのはレヴィだったと思う。コミューン150周年にあたって、すでにおこなわれたことやこれから繰り返されることとは少しばかり違うことをしたいという目的があってのことだった。基本的には、それはパリ・コミューンについてのマルクスの考え方を説明するために、何か印象的で独創的なものを見つけ出すという問題だった。それゆえ、われわれはマルクスの秘密の旅、ありそうもない旅を想像したのだ。この旅は、マルクスの娘ジェニーに導かれて、コミューン内部でコミューン指導者の何名かと会うという設定になっている。
それは、コミューンに関するマルクスの政治的思考を明らかにするためだった。マルクスの考え方が、コミューンの行動の熱気の中でいかにして生まれたのかを見るのは実に注目すべきことである。マルクスの考え方は、適切な即時的分析(『インターナショナルへの呼びかけ』『フランスの内乱』)であるだけでなく、政治的・戦略的・世界的な問いかけでもあるからだ。これは、マルクスの大きな強みの一つである。つまり、マルクスは、文書やシンクタンクでは、第1インターナショナルの事務所においてでさえ、必ずしも想像してこなかった解放のプロセスが、出来事の展開そのものから生まれうることを理解できたのである。
マルクスがコミューンについて語るときに、この解放の力はようやく発見されたのだ。そのことに関する彼の有名な著作は、労働者運動、革命運動の分野全体との関係においてきわめて先進的なものだった。ときには一部のリバタリアンよりもさらにリバタリアン的な語り口を持っていた。解放、国家機構との対決、政治的・民主的主権という形態を構築する必要性などについての考察がそうである。

――その通りだ。総合的に言えば、マルクスにとって、コミューンが変えたものは何だったのか?

 それは、国家の性格を変革するためには、社会階級の観点から国家機構の所有者が変わるだけでは十分ではないという考え方だった。つまり、国家は抑圧システムであり、マルクスの言葉を使えば、市民社会と民主主義を窒息される大蛇であるからだ。それゆえ、国家は死滅させなければならないし、私たちは国家の死滅に向けて進まなければならない。そして、国家の死滅のための可能な手段の一つが実際にコミューンの政策、すなわち選挙で選ばれた代表者を罷免できることや選ばれた代表者や行政官の報酬の上限を設けることなどに表現されていた。こうした具体的政策はすべて、国家機構である官僚制の中枢に疑問を投げかけるものだった。コミューンとともに、[国家の]死滅が始まっていた。しかし、コミューンは72日間しか持続しなかったため、そのことを完全に描き出すことは実際にはできなかった。それにもかかわらず、未来を垣間見ることはできた。マルクスはすぐにそのことを理解し、分析にとりかかった。このことは、マルクスの考え方に影響を与え、一般的には労働者運動の議論や文化にも影響を与えた。
マルクスは、あらゆる議論、世界で起こっていること、社会的・政治的状況をフォローしていた。反乱がパリから起こるとは想像していなかったため、彼はすこしばかり不意を突かれた。マルクスは当時、資本主義体制とその危機の分析についての考察に没頭していたが、すぐにコミューンについて深く分析するようになった。彼の強みは、出来事の展開に合わせて分析をおこない、その領域を把握することにあったのだ。

女性の重要性の
再発見と必然性


――こうしたことすべてに命を吹き込むために、あなた方はパリでの反乱の間に、マルクスとコミューンの特定の人物が出会ったと想像している。出会った人々を見ると、女性が目立つことがわかる。ルイーズ・ミシェル、エリザベート・ドミトリエフ、ナタリー・ルメル、そしてもちろん父親と同行するジェニー・マルクスなど。パリの反乱における女性の役割を特に強調するのは、あなた方の側の要求からだろうか?

 それは必ずしも理論化されたものでも、組み立てられたものでもなかったが、実際の人物を見ていくと、コミューンの社会的・政治的歴史において女性が中心的な役割を果たしていたことがわかった。反乱の最初からそうだったのだ。モンマルトルの通りをヴェルサイユ政府が占拠する可能性に対して銃をとって防衛したのは、ルイーズ・ミシェルを中心としたモンマルトル市民の警戒委員会の呼びかけに応じてだった。しかし、それはまた、当時の時代精神に反して、女性が担った役割と場所でもあった。
というのは、第1インターナショナルやさまざまな革命クラブの内部においてさえ男性優位主義が存在していたからだ。すべての革命的な出来事に当てはまることだが、コミューンのような革命的出来事は、何カ月もの間、あるいはそれ以上の間、社会の中で煮えたぎっていた現象が噴出したものである。それはパリにおいてもそうだった。とりわけ多くの革命クラブの中には、ますます多くの女性が参加するようになっていた。また、プロシア軍がパリを包囲している間、ナタリー・ルメルが協同組合「ラ・メナジェール」とレストラン「ラ・マーマイト」とともに民衆の連帯・相互扶助の中心となり、飢え死にしそうな1万人近いパリ市民を助けたことも思い起こすことができよう。
つまり、女性同盟はコミューンの嵐の只中で結成されたが、それはそれまでのすべての活動の産物であり、エリザベート・ドミトリエフ(第1インターナショナル代表)が到着して女性同盟の設立に参加したときには、すでに多くの活動が始まっており、定着していたのである。

ある女性活動家
に光当てた意味


――たしかに「コミューンの女性たち」というと、われわれが思い浮かべるのはルイーズ・ミシェルであることが多く、ときにはエリザベート・ドミトリエフのことを「忘れて」しまうこともある。このことはあなた方の本には当てはまらない。本の中では、エリザベート・ドミトリエフは、コミューン期間中の彼女の役割に見合った重要な位置を占めている。

 確かに彼女はルイーズ・ミシェルよりも知名度が低く、何かを連想させる名前であることに変わりはないが、それが何なのかはよく知られていない。しかし、彼女の名前は、フェミニストの闘い、コミューンの中枢での女性の権利を求めた闘いを超えて、女性同盟とともに自主管理とも結びつけられている。エリザベート・ドミトリエフと彼女の行動は、こうした規模での自主管理の最初の例の一つを表している。
ドミトリエフは、コミューンに影響を与えただけでなく、コミューンの産物でもあった。彼女はロシアからの若い移民で、チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』という小説にすっかり夢中になった。
この小説は、ヒロインが見合い結婚で作られた自分の環境から自らを解放するという内容だ。ヒロインは、ロシアの小作農民が一部の地域でおこなっていた財や生産をプールする伝統的な形態に着想を得て、それを労働者協同組合に置き換える。この小説を読んだことで、エリザベート・ドミトリエフは感情をかきたてられ、自らの環境から彼女自身を解放し、政治に目覚め、特にスイスの政治亡命者とともに行動するようになった。その中でマルクス主義者と出会い、ロンドンに行ってマルクスに会い、彼と議論した。クリスティン・ロスは『コミューンのイマジナリー』でこのことを語っている。そして、マルクスは彼女がやってくると、彼女を評価し、彼女のことを考えてコミューン期間中のパリに彼女を使者として送った。そのことで彼はコミューンの情報を得ることができた。
数日後、彼女はナタリー・ルメルらとともに女性同盟の中心となった。彼女の最初のプロジェクトは、レオ・フランケルと話し合って、たとえば城壁用の土嚢の生地や国民衛兵の制服を作るために、労働者が自らに賃金を支払う自主管理的労働者協同組合を作ることだった。したがって、ドミトリエフは、残念なことにコミューンが短期間しか続かなかったために挫折してしまった経験を表していたのである。

現代へも力もつ
生きた着想の源


――あなた方は本の中でマルクスが出会うさまざまな人物をどのように選んだのか? 「概要」を示すために基準に合わせようとしたのか、それとも登場人物たちが勝手に出てきたのか?

 出演者のリストは作らなかった。直感的に選んだのだと思う。2人が本を書くときには毎回そうしているように、レヴィと私は各章を分担して書き進めていった。そうすると、名前が勝手に出てきて、一緒にそれを足していくのだ。
われわれが自問した問題は、このジャンルの限界でもあるのだが、すでに知っている名前を使って、コミューンの歴史を少しばかり「上から」作り直してしまう危険性だった。しかし、われわれを導いてくれたのは、コミューンに関するマルクスの著作だった。したがって、われわれは、マルクスが当時持っていた政治的関係の糸をたどらざるを得ず(それはしばしば遠く離れたものだったが)、彼とこうした人物とを議論させざるを得なくなったのだ。

――要約すると、この本はコミューンやマルクスの思想についてのものであるとともに、今日の事象について発言する意図もあるということか?

 コミューンは解放に捧げる詩であり、時を超えるものだ。あらゆる官僚的欠陥に直面している中で、それに対する良い助言でもある。
コミューンはまた、われわれ自身に国際主義について教えてくれる手段でもある。というのは、コミューンは、包囲網やビスマルク軍の進撃、戦争に勝とうとする意志に反対する民衆反乱から生まれたものだが、コミューンの偉大な人物や無名の参加者たちの中には、何千人もの亡命者がいたからだ。その多くはプロシア、イタリア、ポーランド、ロシアなどからの政治的亡命者だったが、経済的な亡命者もいた。コミューンは国際的な活動だったのだ。
また、コミューンは、われわれの政治的歴史が1917年のロシア革命から始まったわけではないことを思い出す手段でもある。それは以前からあったルーツを持っている。また、コミューンの崩壊後に国際労働者運動を刺激したすべての議論は、特にコミューン参加者ができなかったこと(フランス銀行の接収、ベルサイユへの進撃など)を強調するものだったが、これによって、ボリシェヴィキの政治的関心が何であったかを理解することができる。われわれは、ロシア革命がコミューンに比べて一日長く「持ちこたえた」日に、レーニンが雪の中で踊った有名なダンスをよりよく理解することができる。
時を超えて、コミューンはその失敗だけでなく、生きた着想の源となっている。それが持つあらゆる限界にもかかわらず、民衆の解放と力、被搾取・被抑圧者による権力の最初の経験だからだ。そして、それは何十年にもわたって私たちに語りかけてくる。われわれは、150年後でも、それが権力者連中にとって未解決の問題であることを知っている。コミューンが支配階級の考えの中で、いまだに好意的に取り上げられることはない。それによって、ヴェルサイユ政府を作り出した考え方がどこまで消えていないのかが見て取れるのである。
(『インターナショナル・ビューポイント』3月24日)

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